2019年12月4日水曜日

酒井陽介神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年11月17日

Francesco Hayez (1791-1882), La Distruzione del Tempio di Gerusalemme (1867), nelle Gallerie dell’Accademia di Venezia



酒井陽介 神父様 SJ の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019 年 11 月 17 日(年間 第 33 主日,C 年)


第一朗読:マラキの預言 (3,19-20a) 
第二朗読:第 2 テサロニケ書簡 (3,07-12) 
福音朗読:ルカ (21,01-09)

今読まれた福音のなかで,こう言われています:「ある人たちが,神殿 * が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると,イェスは言われた:あなたがたは,これらの物に見とれているが,ひとつの石も崩されずに他の石のうえに残ることのない日が,来る」.

イェスのかたわらで「神殿が見事な石と奉納物で飾られている」ことに感激する人々も,ユダヤ民族の歴史的な経験上,神殿が崩れ去るときが来るということは,感覚的にわかっていたんだ,と思います.もちろん,もう崩れて欲しくはないから,そのたびごとに,しっかりしたもの,堅固なものにするわけですが,しかし,それが崩れるときが来るかもしれない,ということは,どこか頭のかたすみにある.ただ,我々は,信仰が強ければ強いほど,神が守ってくださるんだから,ローマ帝国にも対抗し得る力を持つ民であり,我々の神はそのような神なのだ,という自負心があったことでしょう.

しかし,イェスは,言います:そういったものにあまり重きを置いても,意味は無い;建物や組織といったものは,いつかはなくなるのだ;だから,本当に大切なものを見極めなさい — そういうメッセージがここにある,と思います.

どれほどりっぱな建物も — 聖イグナチオ教会も,東京カテドラルも,ヴァチカンのサンピェトロ大聖堂も — どれほど壮大で,どれほど豪華で,どれほど有名な建築家の手による美術的な価値が高い建物であっても,それは,あくまでも人間が作ったものにすぎない;神をそのなかに閉じ込めておくことはできない;神は,そのような建物よりも大きいのだ — イェスは,きっと,そう言いたかったのだろう,と思います.

わたしたち人間は,何か物を作ることによって自分の存在を証ししたり,また,作った物を自分の権威や自己主張を示し,顕わす道具にしたします.もちろん,すべてがそうではないでしょう.建物に夢をかける — それは,大いなることです.Gaudi の Sagrada Familia がそうでしょう.しかし,Sagrada Familia も,いつ,どのような形で崩れ落ちることになるのか,誰にもわかりません.あのように壮大な建築は,人間にとって,神の大きさ,神の偉大さ,神の限りない慈しみを示すために可能な ひとつのとても大きな「わざ」であると思います.しかし,神をそこに閉じ込めておくことはできません.そして,それが崩れるときが来る.それがいつなのかはわからないが,それは永遠に続くものではない.永遠なるものは,神のみである.完全そのものであるのは,神のみである.そのことを,わたしたちは頭に入れておく必要がある,と思います.

今,オリンピック景気と言われて,そこにビルがポーンと立ったり,ここから見えるところには国立競技場がニョキッと立ったり,あちらこちらでたくさんのクレーンが立ち,ビルが建設中です.それは,わたしたちにとって,日本の経済力を示すことになっているのかもしれないが,それはあくまでも人間の「わざ」であって,神の「わざ」かどうかは別です.そのことは,とても大切なことだろうと思います.

もう一点,皆さんと分かち合いたいのは,このイェスの言葉です:どのようなことになろうとも,神殿が崩れることとなろうとも,教会や大聖堂やバジリカが崩れてしまうようなことがあったとしても,わたしたちは,めげてはいけない,心を折ってはいけない.イェスは,こう言っています:「忍耐によって,あなたがたは命をかち取りなさい」.

この「忍耐」は,「がまん比べ」とか,「無理して妥協する」とか,そのような意味での「忍耐」ではありません.この「忍耐」は,原文のギリシャ語では,ὑπομονή です.その動詞 ὑπομένειν は,たとえば,パウロの第一コリント書簡の「愛の讃歌」のなかで使われています:「愛は,すべてを耐え忍ぶ」[ ἡ ἀγάπη πάντα ὑπομένει ] (13,07). この「忍耐」や「耐え忍ぶ」は,単に「がまん比べ」とか「意地を張る」とか「自分の考えを捨てて,何かに妥協する」,「がまんして,無理して,奉公する」,「滅私奉公」というようなことではありません.この ὑπομονή[忍耐]は,もともとは,「しんぼう強く神を待ち望む」ことです.

わたしたちが今まで信じていた組織や建物や名前などがバタバタと崩れてしまい,目の前からなくなってしまう.考えてみますと,人類の歴史は,そのように,さまざまな文明が起きては崩れ,起きては崩れの繰り返しです.しかし,イェスは,わたしたちに,そのようななかにあっても — わたしたちは,これからもそういった出来事を目にするだろうし,その渦中に生きるかもしれない,でも — 心を強く持ちなさい,耐え忍びなさい,ὑπομένειν しなさい,すなわち,神にとどまりなさい.あなたがとどまるべきところは,組織とか建物とか名前とかではない.わたしたちが本当に頼るべき方,わたしたちが信頼をおくべき方は,神である.

では,「神にとどまる」とは,どういう意味か?目の前のものが崩れ落ち,わたしたちが大切にしていたものが目の前で崩れ落ちてしまう — それを目の当たりにすれば,わたしたちは,大きな失望と絶望に陥ってしまいます.しかし,イェスは言います:それでも,神に踏みとどまりなさい,しんぼう強く,神がまたわたしたちのために必要な力を与えてくださるときまで,しっかりとそこにとどまっていなさい.というのも,わたしたちの希望が,その向こう側にあるからです.わたしたちの忍耐は,希望から湧き出てきます.そして,希望へつながって行きます.単に「がまんする」とか「目をつぶる」とか「あたかもそれが起こらなかったかのように考える」のではありません.必ず,神が介入してくださる,神が手を伸ばしてくださる,神の介在があるのだ — これこそ,ユダヤ教徒であれ,キリスト教徒であれ,ユダヤ・キリスト教の伝統のなかでずっと持続してきた希望です.

神が,必ず,わたしたちに手を差しのべてくださる.神が来てくださる.ですから,典礼暦において,わたしたちは,毎年,そのことを祝います.

来週は,「王たるキリスト」の主日です.そして,二週間後,12月1日は,待降節第一主日です.「主よ,来てください!」,「マラナ タ」(marana tha) です.

主よ,来てください!秩序が崩れても,信じていたものが信じられなくなっても,わたしたちがたいせつにしていたものがガタガタと崩れ落ちても,主よ,来てください!わたしたちは,あなたを待っています.わたしたちに手を差しのべてください!わたしたちはあなたにとどまります,なぜなら,あなたはわたしたちに手を差しのべてくださるから.わたしたちは,このままでは終わらない.

わたしたちは,四旬節のなかで,聖週間のなかで,キリストの受難を黙想します.イェスは,死んでも,復活する,という希望を持ちます.それは,まさに,イェスの弟子たちが実体験したことです.

信じていた主が,自分たちをローマの支配から救い出してくれる王だと思っていた主が,目の前で十字架につけられて,反逆者として処刑されてしまう.それは,このうえなくショッキングな出来事です.そのとき,きっと,多くの弟子たちは離れて行ったでしょう — 絶望のうちに.イェスのもとにとどまることができなかった.そして,実際,ペトロたちも離れかけていた.しかし,彼らがとどまることができたのは,復活の主に出会ったからです.

死のあとに来る永遠の命への復活.聖金曜日の後に来る復活の主日.それを体験しているから,わたしたちは,ὑπομένειν することができます.神にとどまって,耐え忍ぶことができます.神が来るのを,わたしたちは,しんぼう強く待つことができます.

痛み,暗闇,悲しみ,混乱 — その後には,それを凌駕する大いなる力が,必ず,わたしたちのところにやって来る.わたしたちは,死んでいたのに,また命を吹き込んでもらえる.

そのことの繰り返しを,典礼暦は,わたしたちに体験させてくれます.初代教会で弟子たちがイェスと共に生きたあの体験を,わたしたちは,典礼歴のなかで追体験することができます.

ὑπομονή, しんぼう強く神を待ち望む,神にとどまる — それは,神が,わたしたちをまた生かしてくださる,わたしたちにまた命を与えてくださる,わたしたちをまた元気づけてくださる,という希望です.わたしたちは,そのことを知っているから,もう一度立ち上がることができます.どんなことがあっても,忍耐によって,あなたたちは命を勝ち取ることができる — それが,イェスがわたしたちに分かち合ってくれた言葉です.


* 歴史を振り返っておくと,イェルサレムの神殿の最初の建物(第一神殿,ソロモン神殿)は,紀元前 10 世紀,ソロモン王の時代に建設された,と言われています.旧約聖書に記されているように,神殿のなかでは,動物を犠牲として神に捧げる儀式が行われていました.ソロモン神殿は,紀元前 586 年,新バビロニア帝国のネブカドネザル 2 世によって破壊されます.ユダヤ人たちは,捕虜としてバビロンへ連れて行かれます(バビロン捕囚).紀元前 539 年に新バビロニア帝国がアケメネス朝ペルシャのキュロス大王によって滅ぼされると,ユダヤ人たちは帰国を許され,イェルサレムにふたつめの神殿を建設し始めます.その第二神殿は,紀元前 516 年に完成します.紀元前 168 年ないし 167 年,旧約聖書のマカバイ記に記されているように,セレウコス朝のアンティオコス 4 世エピファネス (215-164 BCE) は,ユダヤ教を禁止し,イェルサレムの神殿をゼウスに捧げられた神殿にしてしまいます.ユダヤ人たちは,ユダ・マカバイの指揮のもとに反乱を起こし,紀元前 164 年,神殿を再び神に奉献し直します.ヘロデ大王 (73-04 BCE)[イェスの誕生の知らせを聞いて,ベツレヘムの男の赤ん坊をすべて殺させた,と言われている王;新約聖書で「ヘロデ王」と呼ばれている ヘロデ・アンティパス の父親]は,神殿のおおがかりな改築を行います.先ほど朗読したルカ福音書の一節で「みごとな石と奉納物で飾られた」と言われている壮大な神殿は,ヘロデ大王の時代に始められた改築作業の成果です.しかし,その神殿も,西暦 70 年,ローマ帝国の軍隊によって破壊されてしまいます.ユダヤ民族は,神殿と祖国を失い,中近東から北アフリカやヨーロッパへ及ぶさまざまな地域へ離散して行きます(ディアスポラ).1948 年にイスラエルが国家として再建されますが,今,ユダヤ人たちは「第三神殿」を新たに建設しようとは思っていません.神殿で動物を犠牲に捧げる儀式は,ユダヤ教のなかで宗教的な意義を失ったからです.ユダヤ教の信仰は,もっぱら,聖書(わたしたちキリスト教徒が「旧約聖書」と呼んでいるテクスト)に準拠しています.それによって,ユダヤ人たちは,二千年近く続いたディアスポラの間も,神殿も国土も無しに,自分たちの信仰と民族の同一性を保ち続けてきたのです.