La Vierge au pilier de Notre Dame de Paris
主 Jesus Christus の御降誕 おめでとうございます!
わたしたちが皆,永遠の命に与る神の子であるようにしてくださった 神の御子の御生誕の喜びを,皆さんと分かち合いたいと思います.
2019年を振り返ってみましょう.
2019年の最も喜ばしい出来事は,勿論,Papa Francesco の訪日(11月23-26日)でした.パパ様は,今,愛を最も必要としている日本社会に,神の愛のメッセージを ふんだんに伝えてくださいました.
改めてパパ様に感謝し,それとともに,パパ様の訪日を実現し,そのためにたいへんな御尽力をしてくださった方々に 感謝したいと思います.
ただし,パパ様が伝えてくださった神の愛の福音を聞く「耳」を日本人たち(日本語を母国語とする人々)が有しているか否かは,別問題です.日本語という言語は神の愛の福音を伝えることができるのか?わたしにとって,それは大きな疑問です.
周知のように,明治政府が,日本人キリスト教信者に対する迫害と弾圧(浦上四番崩 : 1867-1873)を,欧米諸国から強い抗議を受けた結果,やっと中止し,日本人のキリスト教信仰をしぶしぶ容認したのは,1873 年 2 月 24 日のことです(昨今,新聞記事などで その語を見かけることはほとんどなくなりましたが,「外圧」の効果です — 多分,日本社会の変化は,日本人自身の決断によってもたらされることはなく[なぜなら,日本語は思考不能言語であり,したがって,日本語に住まう者は決断することもできないから],日本社会の外の要因により誘発されるしかないでしょう ; 1945年の敗戦もその一例です).2023 年に,わたしたちは,キリスト教「解禁」の 150 周年を迎えます.しかし,日本社会における日本人キリスト教徒の数は,カトリックとプロテスタントを合わせても,総人口の 約 1 % でしかない と言われています.ミサや礼拝に積極的に参加する能動的ないし活動的な信者の数は,もっと少ないでしょう.パパ様の来日は各種メディアにより大きく報道されましたが,それがどれほどの福音宣教の効果を持ち得るか,楽観している者は,ほぼ皆無でしょう.なぜ,日本人たちには,神の愛の福音は これほどにも伝わらないのか?なぜ,日本人たちは,神の愛の福音に これほどにも無関心なのか?それらの問いを根本的に問う必要がある,と わたしは思っています.
カトリック教会は,2019年も,聖職者による児童や青少年や女性に対する性的虐待の問題に揺るがされ続けました.USA では,もと Washington 大司教で,枢機卿でもあった Theodore McCarick が,一切の司祭職から解任されました.Australia では,もと教皇庁財務省長官,George Pell 枢機卿に,二審でも有罪判決が下されました.2 月 21-24 日,Vatican では "sexual abuse summit" が開かれ,世界各国の司教たち(日本からは,高見三明 長崎大司教 様 が参加)は,被害者たちのなまなましい証言を 直接 聴きました.
日本でも,初めて,1960 年代,9-10 歳だったころに,サレジオ会のドイツ人神父 Thomas Manhard (1914-1986) から性的虐待を受けていた 竹中勝美 さんが,被害者として みづから 告発の声を挙げました.竹中さんは,実は,既に 2001 年に 問題を 東京大司教(当時,岡田武夫 大司教 様)と サレジオ会 に告発していたのですが,日本のカトリック教会は何ら誠実な対応をしなかった,ということも,我々は初めて知りました.4 月 07 日,竹中さんがみづから主催した会合に,高見三明 大司教 様は,竹中さんの「招待」に応えて,参加し,その場で竹中さんに対する謝罪の言葉を述べました.竹中さんに対する司教協議会とサレジオ会の正式な謝罪は,まだ公式には発表されていませんが,和解に向けての努力は継続されているようです.公式謝罪が 2020 年早々にでも為されることを,期待したいと思います.
ところで,カトリック聖職者による性的虐待の問題の責任を gay である司祭(司教)に帰そうとする保守派論者たちがいますが,それはまったくのお門違いです.被害者の多くは男児(事件当時)ですが,だからと言って,事件の原因は 加害者が pedophile gay であることに存する,と推論することは,論理学的に言って,間違っています.しかも,被害者のなかには,少なからず 女性もいます.
カトリック聖職者による性的虐待の問題の本当の原因は,権力構造の問題 (clericalism) もさることながら,より本質的には,司祭養成の過程において 性的欲望の「昇華」(sublimation) の課題に主題的に取り組むような問題意識が カトリック教会に欠けていること に存している,と わたしは,精神分析家として,考えます.USA の SJ の週刊誌 America の論者たちでさえ,昇華の本質的な重要性に気づいてはいないようです.
しかも,現行のカトリック教義は,homosexuality の断罪によって,欲望の昇華の作業を妨げています.
神学生の少なからぬ割合が gay であることは,USA などにおいては 以前から経験的に知られている事実です.その理由も,察しがつきます.それは,敬虔なカトリック信者である母親の(明言された あるいは 暗黙の)要請が 司祭職につくことを動機づける(意識的にであれ 無意識的にであれ)場合が少なくない,ということです.そのようなケースにおいては,たいてい,母親との同一化が生じています.そして,それによって,「母親の欲望の対象であった子ども時代の自分自身」を代理する者(男児)を性愛の対象として選ぶ 対象選択 — つまり,homosexual pedophilia — が,条件づけられます.しかし,カトリック教義による homosexuality の断罪は,gay である神学生たちにおいて,sexuality の「抑圧」(Verdrängung) を引き起してしまい,それによって,当人たちが欲望の昇華の課題に意識的に取り組むことを 不可能にしてしまいます.そのような場合にどうなるか?「女性に性的な魅力を感じないから,わたしは,性欲の問題を克服できているのだ」というカン違いが生じます.そして,司祭に叙階されて,身近に子どもたちがいるような環境に置かれると,抑圧された欲望は 症状として 回帰してきます.そうなると,いくらダメだとわかっていても,性的欲望の強迫的な行動化を自制することは できなくなります.Theodore McCarrick はその一典型例だろうと思われます.
したがって,カトリック聖職者による性的虐待の問題を根本的に解決するためには,『カトリック教会のカテキズム』から homosexuality 断罪を完全に削除することと,司祭養成過程において「欲望の昇華」の課題に主題的に取り組むこととが,必要になってきます.以上のことを Vatican に悟らせねばなりません.が,どのようにして...?
他方,homosexual の人々を差別してはならない という考えは,Papa Francesco の包容的な姿勢のおかげで,カトリック教会全体に浸透してきているようです.特に,今月,ドイツのカトリック司教協議会が「homosexuality は,heterosexuality とともに,性的素質の正常な形態のひとつである」と 声明 で述べたことは,注目に値するでしょう.
日本の場合は,なにしろ カトリック信者は極端な少数派ですから,gay を差別していたのでは,そもそも教会が成り立たない,という危機意識は,多かれ少なかれ共有されているようです.カトリックである日本人の数は 多めに見積もっても 日本人の総数の 約 0.3 % にすぎないのに対して,LGBT 人口は総人口の 4.5 %(2017年に USA で行われた Gallup 調査)です.日本でも LGBT 人口の割合がその程度であるとすれば,LGBTQ+ の人々がカトリックを「差別的」と非難するなら,日本ではカトリック教会はとてもやって行けないことになるでしょう.
ともあれ,LGBTQ+ の人々も,神の愛を必要としています.そして,カトリック信者たちは,彼れらに神の愛の福音を伝え,彼れらをカトリック教会に迎え入れることができます.両者の双方向的なつながりを より確固たるものにしよう — それが,James Martin 神父様 SJ の「橋を架けよう」(Building a Bridge) という提案です.
日本においても,わたしたちの LGBTQ+ みんなのミサ は,2016 年 7 月 17 日の第一回以来,今月で まる 3 年 6 ヶ月間,継続されてきました.参加者の皆さんと,御協力くださる神父様たちとに,改めて御礼申し上げます.今後も,LGBTQ+ カトリック信者の信仰共同体が発展して行くよう,ともにお祈りください.
最後に,LGBTQ+ とは直接関係の無い話ですが,わたしにとって今年,最もショッキングであった出来事は,何と言っても,4 月 15 日に起きた Notre Dame de Paris の火災です.幸い,la Vierge au pilier(柱のマリア様)と呼ばれている聖母子像は無事でした.
2018年 1 月 2 日付の ブログ記事 から引用します:
この記事の冒頭に掲げた写真は,Notre Dame de Paris の主祭壇の向かって右手の柱のところに置かれた聖母子像です.(参考までに,12月31日,聖家族の日のミサの録画を御覧ください.特に,閉祭の際に,司祭たちはその聖母子像に祈りを捧げています).
わたしは,Paris に滞在するときは,たいてい,Notre Dame de Paris の主日 18:30 の御ミサに与ります.パリ大司教 André Vingt-trois 枢機卿(彼は今月隠退し,Michel Aupetit 大司教が新たに着座します)の説教がすばらしいのと,この聖母子像が好きだからです.
Raffaello の Madonna Sistina も好きですが,Notre Dame de Paris のこのマリア様は,冠をいただく天の后として,より威厳と憂いを有しているように見えます.右手には百合の花を持ち,左手で幼子イェスを抱いています.幼子は,右手で聖母のマントをつかみ,左手には地球を表す球を持っています.
Gérard Braumann という人が個人的な趣味で (?) つづっているブログの記事によると,この像は14世紀なかばに制作され,当初は Île de la Cité 内の別の聖堂のものでしたが,1855年に現在の場所に移設されました.
『サテンの靴』などの戯曲で知られるカトリック作家 Paul Claudel (1868-1955) は,時代の風潮に流されるがままに無神論者,唯物論者でしたが,18歳の年の降誕祭の日,単なる好奇心から,Notre Dame de Paris のこの聖母子像の近くで,立ったまま,晩課で聖歌隊の子どもたちが歌う Magnificat を聴いていたとき,突如感動に襲われ,信仰に目覚めた,とみづから証言しているそうです.
そのような神との出会いは,日本社会においては,どのようにして起こり得るでしょうか — キリスト教の信仰がまったく広まらないままの日本社会において?
また,James Martin 神父様 SJ は,Notre Dame de Paris の火災のニュースを見て「泣いた」と言っています(わたしもです).しかし,消火がやっと済んだ聖堂のなかに入った消防士たちが最初に見たものは... 内陣に輝く十字架でした.James Martin 神父様の記事の邦訳 を改めてお読みください.
ここでこのブログ記事を終えようとすると,「おまえは,カトリック教会内の女性差別の問題に 一切 言及していないではないか!」という非難の声が聞こえてきます(ごめんなさい!)が,もう十分長い記事になってしまったので,その問題を論ずることは別稿に譲りたいと思います.
最後に 改めて,主の御降誕おめでとうございます ! Merry Christmas ! Joyeux Noël ! Buon Natale ! ¡Feliz Navidad!
LGBTQ+ みんなのミサ 世話役