München und Freising 大司教,ドイツのカトリック司教協議会の会長,Reinhard Marx 枢機卿 は,2019年12月22日付 (Internet edition) の Stern 誌のインタヴュー のなかで,同性カップルはカトリック教会のなかで祝福を受けることができる,と述べました — ただし,それは,カトリック教会は同性カップルにも「司牧的に寄り添う」(seelsorgliche Begleitung) ということであって,「結婚の秘跡」を授けるわけではありません.
同じインタヴューのなかで,Reinhard Marx 枢機卿は,カトリック教会は homosexual の人々を歓迎する,と強調しました.同性どうしが,長年,互いに誠実にカップルの生活を送っているなら,教会は,彼れらの生き方に一概に負や無の評価をくだしてはならない,と 彼は考えます.そして,「そのせいで,わたしは,多方面から批判を受けています」と大司教は言います :「ある人々は『彼は やりすぎだ』と言い,ほかの人々は『彼は 不十分だ』と言います」.
女性の司祭叙階のテーマに関しては,Marx 枢機卿は,こう言います:カトリック教会は,教皇が断言したことに配慮しないわけには行きません.聖ヨハネパウロ II 世は,1994年に,教会は女性に司祭叙階を授ける権限を有していない,と強い表現で断定しました.その言葉に,教皇 Francesco も,最近,Marx 枢機卿との対話のなかで,言及し,「女性司祭叙階への扉は閉ざされている」と言いました.しかし,にもかかわらず,Marx 枢機卿によれば,そのテーマに関する議論に決着がついたわけではありません.
また,Marx 枢機卿は,こう言います:彼にとって,教会は「招鳥」(獲物を招き寄せるための「おとり」)のようなものです.その「招鳥」は,世界中を飛び回って,こう呼びかけます :「あなたたちの関心を引くかもしれない人がいる — ナザレのイェスだ!」 ただ,教会無しでも,神への道はあります.カトリック教会の外にも多くの人々がおり,彼れらが皆,道に迷ってしまうわけではありません.
Marx 枢機卿といえども,神に対して疑いを持つことは,幾度もあります.「わたしも,信仰において常に強いわけではありません」,と 彼は言います :「枢機卿だからといって,疑いを持ってはならないのでしょうか?」 年をとるにつれて,ますます,「疑う」の無い「信ずる」はあり得ない,と感じます.Auschwitz で,神はどこにいたのか? 2016年12月にベルリンのクリスマス市場で起きたテロ事件の際に,神はどこにいたのか?それらの問いに,Marx 枢機卿は こう答えます :「わたしたちは,神を,世界の修理業者のようなものと思ってはなりません」.交通事故を防いでください,とか,試験の合格のために配慮してください,と神に願うことは,きわめて人間的ではありますが,「しかし,わたしたちは,神と人間との関係の神秘のなかへ より深く 入り込んで行かねばなりません」.
わたしたちは,よく,「わたしが神であれば,全然ちがうようにしていただろう」と思ったりしますが,しかし,人間の「...することができる」という考えを,神にまで当てはめてはなりません.神は人間とはまったく異なるのだ,ということを受け容れねばなりません.神は,歴史の犠牲者たちと連帯するでしょう.最後に,神は,正義を実現するでしょう.
カトリック聖職者による児童や女性に対する性的虐待の事件に関しては,Marx 枢機卿は,こう言います:性的虐待のスキャンダルの後,彼は,教会の歴史へ より批判的な目を向けるようになり,また,教会の見かけと実際との間の解離に より注目するようになりました.性的虐待事件は,加害者個々人の問題ではなく,教会のシステムにかかわる問題です.聖職者たちの重大な過ちは,教会の評価を低下させましたが,教会を破壊したわけではありません.なぜなら,教会は,単なる人間の集まりではないからです.枢機卿は,こう強調します :「子どもを虐待する者は,神をも虐待しているのだ」.
Stern 誌の記事 は 同誌を購読しないと読めないので,Katholische Kirche in Deutschland と Vatican News ドイツ語版 から,以下の記事を参照しました: