2020年12月28日月曜日

“えきゅぷろ 2022” のための準備プロジェクト “教会 どうでしょう” の 第 4 回 オンライン会合のテーマは “sexuality と 教会 と COVID-19”

 


“えきゅぷろ 2022” のための準備プロジェクト “教会 どうでしょう” の 第 4 回 オンライン会合のテーマは “sexuality と 教会 と COVID-19”



Martin Luther による「宗教改革」の開始の 500 周年,2017年に 日本のクリスチャン青年有志によって始められた「えきゅぷろ」(Ecumenical Project) は,2019年まで 毎年 1 回 会合を続けてきた.




しかし,2020年,COVID-19 の全世界的流行のもとで,従来どおりの会合を続けることはできなくなった.かわりに,彼れらは,2022年の会合 開催をめざして,その準備のために,2020年10月から,「教会 どうでしょう」の標題のもとに オンライン会合を 定期的に 催している.



教会 どうでしょう 第 3 回(クリスマスの集い)

そして,2021年02月に予定されている オンライン会合は,“sexuality と 教会 と COVID-19” をテーマとして 行われる.その準備のために,エキュメニカルプロジェクト実行委員会「教会どうでしょう」班は,教会の現場において sexuality や gender に関して いかなることが実際に問題となっているのかを調査するため,以下のように アンケートを実施している:


『セクシャリティ×教会×コロナ』企画アンケート

2020年は コロナウィルスの社会的影響下で、セクシャリティに基づく生きづらさが 今までより 明らかとなりました。このアンケートにご協力くださる皆様の周りでも、様々な変化があったのではないかと思います。

「教会どうでしょう」班では、2021年02月に『セクシャリティ×教会×コロナ』というテーマで企画を考えるにあたり、コロナ渦で ジェンダーやセクシャリティにまつわる困難は どのようなことがあるのか、そもそも 教会の中では どんな困難があったのか、皆様の身近な体験をお聞きしたいと思い、このアンケートを実施しています。

偏見や差別だけでなく、皆さんが 困ったな、嫌だな、こんなことが変わったらいいな と思うことがあれば 是非お教えください。そんなことは感じたことがない、というご感想ももちろん歓迎です (*^^*)

自由な気持ちでご回答いただけますと 幸いです。

※ このアンケートの結果は、当企画を考える上での参考とさせていただきます。また、個人を特定できる情報を匿名化した上で、企画イベント内やメディアで公表される可能性があります。予めご了承ください。

※ 1 月中に 当企画の詳細も公表させていただきますので、当日も是非ご参加ください!!!

アンケート実施期間 : 2020年12月27日 から 2021年01月08日 まで
企画担当:エキュメニカルプロジェクト実行委員会「教会どうでしょう」班

設問:

1. あなたの年齢層を教えてください.

2. あなたの所属教派を教えてください
(なければ「なし」と記入してください).

3. あなたが 教会で ジェンダーやセクシャリティのことで 困った事、嫌だなと思うことがあれば 教えてください(所属教派なしと答えられた方は、学校や会社でも 構いません).たとえば,「女性だからといって パーティーの手伝いをさせられる」、「彼女はいないの?と声をかけられる」、「使えるトイレがない」など、なんでも構いません(特になにもなければ「なし」と記入してください).

4. あなたが 家庭で ジェンダーやセクシャリティのことで困った事、嫌だなと思うことがあれば教えてください。 たとえば,「女性らしくしなさいと言われる」、「結婚しないの?と言われる」、「セクシャリティへの理解がない」など、なんでも構いません(特になにもなければ「なし」と記入してください).

5. コロナ禍で ジェンダーやセクシャリティに関連して、不安なこと、困った事、嫌だなと思ったことがあれば教えてください。 たとえば,「家族が家にいる時間が増えて、家事の負担が増した。」、「自粛のせいで セクシャリティについて話せる場所がなくなった」など、なんでも構いません(特になにもなければ「なし」と記入してください).

6. あなたの教会で、ジェンダー平等や性の多様性の尊重に関して、何か おこなっている工夫があれば 教えてください。あなたが、教会の中でジェンダーやセクシャリティのことで よかったと思ったことでも構いません(所属教派なしと答えられた方は、学校や会社でも構いません).たとえば,セクシャリティに理解のある人がいる、聖職者や信徒向けの勉強会をしている、性別によってグループを分けない、名簿の性別欄を無くした、通称名を使用できるなど、なんでも構いません(特になにもなければ「なし」と記入してください).
 
7. あなたの教会で、ジェンダー平等や性の多様性の尊重に関して、こんなことが変わったらいいなと思うことがあれば 教えてください(所属教派なしと答えられた方は、学校や会社でも構いません).たとえば,「性別に関わらず、興味のある活動がしたい」、「同性婚ができるようにしてほしい」、「セクシャリティについて語れる場所がほしい」など、なんでも構いません(特になにもなければ「なし」と記入してください).

8.『セクシャリティ×教会×コロナ』というテーマで 聞いてみたい事、期待することがあれば 教えてください。 たとえば,「そもそも、ジェンダーやセクシャリティって何なのか 知りたい」、「キリスト教では性についてどのように考えているのか気になる」、「自分のセクシャリティが受け入れられていくのか聞いてみたい」など、なんでも構いません。

9.『セクシャリティ×教会×コロナ』というテーマで 登壇者として 特に話しを聞いてみたい人があれば教えてください。たとえば,「*** 牧師の話しが 聞いてみたい」、「LGBTQ 当事者の話しが聞いてみたい」、「一般の信者として、*** さんの話しも聞いてみたい」など、なんでも構いません。


LGBTQ みんなのミサ を おこなってきた わたしたちとしても,この企画に協力したいと思います.関心のある方々の協力をお願いします.

2020年12月24日木曜日

主の御降誕 おめでとうございます — LGBTQ みんなのミサ 世話人 ルカ 小笠原 晋也(付:あらためて レヴィ記 18,22 を読む)




LGBTQ みんなのミサ の 世話人 ルカ 小笠原 晋也 の 降誕祭メッセージ — あらためて レヴィ記 18,22 について



主 Jesus Christus の御降誕 おめでとうございます!

わたしたちが 皆 永遠の命に与る神の子であるようにしてくださった 神の御子の御生誕の喜びを,皆さんと 分かち合いたいと思います.

今年 2020年,COVID-19 の 全世界的な流行は わたしたちの日常生活に 大きな支障をもたらしました.カトリック東京大司教区においては,2月27日から 公開ミサは すべて 中止されました(6月21日に やっと再開されました — 参加者の人数を 大きく制限しつつ).

わたしたちの 月例 LGBTQ みんなのミサも 中止を余儀なくされました.都内における流行が収束を見ないなか,再開の目途は たっていません.そのかわり,わたしたちの仲間は Zoom Meeting で集いを続けています(当初は毎週,12月からは 月に一回).

信仰を分かち合う者たちが定期的に集うことができない — その状況は,あらためて,いかに ユダヤ民族は diaspora において 信仰を守り続けてきたか に わたしたちの注意を向けさせます.彼らは,紀元前 6 世紀の数十年間(バビロン捕囚)および 西暦 70 年に イェルサレムの神殿がローマ帝国軍によって破壊されて以降 ずっと,聖書に規定されているようなしかたで 聖堂において いけにえを捧げる儀式をすることができないできました(今は もはや あえて そのような いけにえ儀式を復活させることを 彼らは選んでいません).そのとき,彼らの信仰を支え続けたのは,聖書です.

わたしたちが「旧約」と呼ぶ もろもろの書は,紀元前 5 世紀から 2 世紀ころまでの間にテクストとして成立し,さらに 西暦 10 世紀ころまでに 長い時間と努力をかけて 正典として整えられました.如何に ユダヤ人たちは それらを読んでいるのか? 古代に書かれた歴史的な文書として読んでいるのではありません.そうではなく,聖書の文面をとおして 神は 今 生きているわたしたちに 語りかけ続けているのだ,しかも,神のことばは 人間にとって 完全に把握可能なものではないのであるから,わたしたちは 聖書の文面をとおして 常に 新たに 神のことばを聴き続けねばならず,かつ,そうすることができる — そのような前提に立って,ユダヤ人たちは,聖書を読み続けています.

したがって,彼らは「聖書のしかじかの箇所は しかじかと読むべきだ」と固定化することを しません.そのような固定化は,むしろ,神に対する冒瀆です.常に変化する状況と条件のもとで生きるわたしたちは,各人,そのつど,常に あらたに 聖書をとおして 神のことばに耳を傾けるべきであり,かつ,そうすることができます.

別の言い方をすると,ユダヤ人たちの耳と心は 神のことばに対して 常に開かれているのです.それに対して,原理主義的な保守派のクリスチャンたちの耳と心は 神のことばに対して閉ざされています.何が閉ざしているのか? それは,彼れら自身によって固定化されてしまった意義です — 聖書のしかじかの箇所は しかじかと読むべきであり,それ以外の読み方はあり得ない という思い込みです.

そのように固定化された意義を,形而上学的偶像崇拝 (metaphysical idolatry, l'idolâtrie métaphysique) と呼びましょう.保守派クリスチャンたちが拝んでいるのは,形而上学的な偶像としての「神」にすぎません.それは,本当の神ではありません.そして,そのような偶像は,彼らの耳と心を 神のことばを常に新たに聴こうとする開かれた聴き方に対して 閉ざしてしまっています.

形而上学的偶像崇拝者の「神」のことを,Blaise Pascal は「哲学者と神学者の神」と呼んでいます.それに対して,彼は,火の夜,彼に与えられた啓示において 彼に 自身を開示してきた神を「アブラハムとイサクとヤコブの神」と呼んでいます.わたしたちも,「哲学者と神学者の神」を拝む形而上学的偶像崇拝を捨て,「アブラハムとイサクとヤコブの神」のことばに対して耳と心を開くことを学ばねばなりません.

さて,今月(2020年12月),また 新たに Twitter の timeline で homophobe Christians と LGBTQ Christians との激烈な論争が展開されているのを 見かけました.それは,単なる無邪気な神学論争ではありません.というのも,その論争に関する感想として,高田嘉文氏は,こう述べているからです:

「同性愛は罪」っていうのはね,当事者にとっては「お前には 生きている価値がない」って聞こえるんですよ.「死ね」って言ってるのと同じでしょ.

如何に LGBTQ Christians たちと 彼らの advocate であるわたしたちは 聖書を読むことができるか? 以前「LGBTQ と カトリック教義」で書いたことの抜粋を この記事「あらためて LGBTQ と 聖書について — 聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない」に転載しました.また,以前のブログ記事「聖書を楯に取って homosexuality を断罪する人々に対する答え方」や「『放蕩息子の寓話は悔い改めが前提』に対して」も参照してください.

ここでは,homophobe Christian たちが最も根本的な準拠とする レヴィ記 18,22 を ヘブライ語テクストにもとづいて 改めて読んでみましょう(レヴィ記 20,13 も同様):


וְאֶת־זָכָר לֹא תִשְׁכַּב מִשְׁכְּבֵי אִשָּׁה

καὶ μετά ἄρσενος οὐ κοιμηθήσῃ κοίτην γυναικείαν

Thou shalt not lie with mankind, as with womankind (King James Version)

Tu ne coucheras pas avec un homme comme on couche avec une femme (Traduction oecuménique)

女と寝るように 男と寝てはならない(聖書協会共同訳)


英語訳,フランス語訳,日本語訳は 似たり寄ったりですが,ヘブライ語原文と ギリシャ語訳(70人訳)は,直訳すると,こう訳せます:

して,汝[男]は,女と寝ることを 男と寝るなかれ

ヘブライ語では,動詞の活用は 主語が男性か女性かによって異なります.この命令にしたがうべき者が男性であることは 明確です.

そして,動詞 שָׁכַב[寝る](ギリシャ語訳では κοιμᾶσθαι)は 同族目的語 מִשְׁכָּב[寝ること](ギリシャ語訳では κοίτη)を取っています.つまり:

おまえ[男]は,女と寝ることを 男としてはならない.

あるいは:

おまえ[男]は,女と寝る代わりに 男と寝てはならない.

このように訳すと,この命令に従うべき男にとっては,女と寝ることが普段の習慣であり,それに対して,男と寝ることはそうではない,ということが,より明確になります.

LGBTQ と カトリック教義」および「あらためて LGBTQ と 聖書について — 聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない」において指摘したように,ユダヤ教の律法の主体(その命令に従うべき者)は,heterosexual かつ cisgender である男性であり,homosexual や transgender である者の存在は想定されていません.わたしたちは,レヴィ記 18,22 のヘブライ語原文を読むことによって,そのことを より明瞭に確認することができます.

以上のような指摘が,しかし,homophobe Christian たちの考えを変えることはできないでしょう.彼れらの思い込みは paranoïaque だからです.形而上学的偶像崇拝は 一種の paranoïa にほかなりません — Trumpism と同様に.わたしたちとしては,彼れらが自滅して行くのを待つしかありません — それが彼れらの運命ですから.

新しい年 2021年が どのような年になるのか,今のところ まったくわかりません.ワクチンの効果により pandemic は収束に向かうのか,あるいは,pandemic の勢いが ワクチンに勝るのか...

ともあれ,主に信頼しましょう.

主の愛が 皆さんを 支えてくれますように.Amen.

そして,あらためて 主の御降誕 おめでとうございます!

主の御降誕 おめでとうございます — LGBTQ みんなのミサ 世話人 ペトロ 宮野 亨



Brian Kershisnik (1962- ), Nativity (2006)


LGBTQ みんなのミサ 世話人 ペトロ 宮野 亨 の 降誕祭メッセージ



皆様とともに
主イエスの御降誕に 真心こめて 喜びをささげます.

今年の私の祈り文を分かち合います:
あなたは私を助けてくれた.そうでしょ?
だから 今度は 私にも あなたを助けさせて!

温かさを体感したら
祈っていると実感できて
愛されていると実感します.

神に感謝!

あらためて LGBTQ と 聖書について — 聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない

 

あらためて LGBTQ と 聖書について — 聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない

ルカ 小笠原 晋也


ときどき起こることであるが,今月(2020年12月)も,Twitter の timeline で homophobe Christians と LGBTQ Christians との激烈な論争が展開されているのを 見かけた.それは,単なる無邪気な神学論争ではない.というのも,その論争に関する感想として,高田嘉文氏は,こう述べているからだ:


「同性愛は罪」っていうのはね,当事者にとっては「お前には 生きている価値がない」って聞こえるんですよ.「死ね」って言ってるのと同じでしょ.


原理主義的な保守派クリスチャンたちよ,あなたたちの — あなたたちの間でのみ通用する — 聖書解釈が 隣人に「死ね」と言っているのだとすれば,それでも あなたたちは あなたたちの聖書解釈を正当なものと言いはり続けるのだろうか? あなたたちの言う「隣人愛」は,あなたたちの言説が他者を殺すことになることを 容認するような「隣人愛」なのだろうか?

homophobe Christians と LGBTQ Christians との論争のなかで しばしば問題になるのが,聖書の特定の箇所である.それらの箇所は,原理主義的な保守派クリスチャンが LGBTQ を「叩く」ために 長年 利用してきたので,俗に clobber passages[ぶんなぐり箇所]と呼ばれている.そのような聖書の読み方が いかに不適切なものであるかは,以前に書いた「LGBTQ と カトリック教義」のなかでも指摘した.当該箇所の抜粋を 以下に 改めて提示しておこう.


******

§ 1.3.2. homosexuality と聖書 — 聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない


キリスト教において「旧約」と呼ばれる ユダヤ教の聖典(Tanakh : 律法,預言者,諸書)の文字テクストが成立するのは,バビロン捕囚 (597-538 BCE) の終了後,ユダヤ教とユダヤ民族を立て直した 紀元前 5 世紀の律法学者 Ezra の時代以降であり,最終的に,今 Masoretic text と呼ばれているものができあがるのは,西暦 7 -10 世紀のことである.ユダヤ教の伝統において,それらの書を読み,学ぶことができるのは,原則的に 男性のみであり,かつ,彼らは,当然のように,heterosexual かつ cisgender であることが前提されていた.つまり,そこにおいて述べられている諸々の命令や禁止に従うよう要請されているのは,heterosexual かつ cisgender である男性のみである.それ以外の SOGI を有する人々(つまり,heterosexual & cisgenderである女性たちと LGBTQ である人々)のことを,ユダヤ教の律法は,律法の主体(その者らにとって律法が妥当するところの者たち)としては,想定していない.つまり,律法は,「おまえたちが heterosexual かつ cisgender な男である限りにおいて」という条件を,暗黙のうちに包含している.我々が今,聖書を読むとき,その大前提を忘れてはならない.そのことを忘れて — あるいは そのことを無視して — 律法の文面を homosexual である人々や transgender である人々にまで適用しようとする者たちは,「わたしたちは 旧約聖書が何であるかを 実は 知りません」と公言しているにほかならない.

周知のように,聖書のなかには,原理主義的な保守派によって homosexuality を断罪するために 長年 利用されてきた箇所が 幾つかある.それらは,clobber passages と呼ばれる.“clobber” は「激しく殴打して,叩きのめす」という意味の俗語的表現である.

いずれの箇所をそう呼ぶかは 論者によって 若干 異なることがあるが,最も多く数えた場合,以下の 8 箇所が 挙げられる:

創世記 19,1-29 ;

レビ記 18,22 および 20,13 ;

申命記 23,18 ;

ローマ書簡 1,26-27 ;

第 1 コリント書簡 6,9 ;

第 1 ティモテオ書簡 1,10 ;

ユダ書簡 7.



§ 1.3.2.1. 旧約聖書における男性間の性行為の問題

現代社会において homosexuality と呼ばれているものが 愛し合う同性どうしの人間的な関係であるなら,旧約聖書の幾つかの箇所(創世記 19,1-29 ; レビ記 18,22 および 20,13 ; 申命記 23,18)において言及されている男どうしの性行為は homosexuality に関連するものではあり得ない.

創世記 19,1-29 には,こう物語られている:主の御使い 2 名(彼れらは男性の姿を取っていることが前提されている)が ソドムを訪れる.ロトは,創世記18章においてアブラハムがそうしたのと同様に,彼れらを自宅に迎え,丁重にもてなす.ところが,ソドムの住民全員(すべて男性であることが前提されている)が,彼の客人を強姦するために,彼の家に押し入ろうとする.主の御使いは,罪深いソドムとゴモラを滅ぼす.

以上の一節にもとづいて,homosexuality は「ソドムの罪」と呼ばれることになる.

しかし,実際に聖書の当該箇所において示唆されているのは,明らかに,我々が 今 homosexuality と呼んでいる事態ではなく,しかして,性暴力である.

男が他の男に対して性的な暴力をふるう場合,その目的は,攻撃や殺傷であったり,侮辱であったり,暴力的支配であったりするだろう.いずれにせよ,そこにおいてかかわっているのは,死の本能であり,その現れとしての攻撃や破壊であって,gay 男性における性的欲望や性愛ではまったくない.

次に,レビ記.そこにおいて,主は,イスラエルの民に「聖なるものであれ,なぜなら,わたしは聖なるものであるから」(19,2) と命ずる.この聖性の命令こそ,神と人間との交わりの可能性の条件として,アブラハムを共通の始祖とするユダヤ教,キリスト教,イスラム教において,最も中心的な律法と見なされ得るだろう.そして,聖なるものであることの必要十分条件は,キリスト教においては,ヨハネ福音書において提示されている Jesus のこの命令:「わたしがあなたたちを愛したように,あなたたちは互いに愛し合いなさい」を実践し得ることである.

以上のことを踏まえて読むならば,「女と寝るように男と寝てはならない;それは,忌まわしいことである」(Lv 18,22) と「或る男が,女と寝るように男と寝るならば,彼れらふたりが為すことは,忌まわしいことである.彼れらは処刑される.彼れらの血は,彼れら自身にふりかかる」(Lv 20,13) のふたつの条文(そこに含まれる「女と寝るように」という表現は「おまえは,女を性的対象とする男であるのに」ということであり,それらの条文は heterosexual の男性に向けられたものであることが示唆されている)においてかかわっているのは,旧約の文脈においては,聖性の命令の違反であり,新約の文脈においては,聖性の命令の違反をもたらす愛の命令の違反である.

ところで,愛し合う gay カップルが,愛情深く性行為を行う場合,それは,愛の命令に対する違反となるだろうか — coitus per anum を伴っていようと いなかろうと?

本質的であるのは,カップルが 性行為において 真摯に 互いに 愛し合っているか否かであり,単純に 性行為が いわゆる sodomy を伴っているか否かではない.

さらに,先に指摘したように,旧約聖書の律法の主体(その者らにとって律法が妥当するところの者たち)は,もっぱら,heterosexual かつ cisgender であるユダヤ人男性である.したがって,レビ記の条文が断罪しているのは,heterosexual の男が,性的衝動に駆られて,女性に対して性的な暴力や虐待を行うのと同様に,男に対して(なぜなら,性行為の対象となる女性がその場に存在しないがゆえに,女の代わりに男に対して)性的な暴力や虐待を行うことである.今の社会において 愛し合う gay どうしが性行為を行う場合にまで 旧約の律法を適用するとすれば,それは,恣意的な拡大解釈でしかない.

第 3 に,申命記:「イスラエルの娘たちのなかに神聖娼婦がいてはならず,イスラエルの息子たちのなかに神聖男娼がいてはならない.娼婦の稼ぎや犬の給金を,汝が神,主の家に,献げものとして持ち来たってはならない.なぜなら,両者はともに,汝が神,主にとっては,忌まわしいものであるから」(Dt 23,18-19).

当該箇所ならびに列王記上巻 14,24 では,カナン地域の土着の神 Baal の崇拝との関連において,豊饒祈願儀式として神聖売買春が行われていたこと,および,そのような売春を行う者のなかには男も女もいたことが,示唆されている.

イスラエルの民のなかに神聖売春を行う者が存在してはならず,また,神聖売春により得られたものを主への献げ物としてはならない,という禁止は,当然ながら,主以外の神々の崇拝の禁止に包含されているものである.

古代ユダヤ教の律法において異神崇拝禁止との関連において禁ぜられた神聖売買春における男どうしの性行為は,当然ながら,我々が今 homosexuality と呼んでいるものとはまったく異質のものである.


§ 1.3.2.2. 新約聖書における同性間の性行為の問題

新約聖書に収録されている使徒書簡のなかで言及されている同性どうしの性行為についても,当然ながら,旧約聖書から出発して読解される.

ユダ書簡 7 については,それは,単に,創世記において物語られているソドムとゴモラに対する処罰の神話を取り上げ直しているにすぎないので,ここで詳しくは論じない.

まずは,ローマ書簡を改めて読んでみよう.その 1,17 において ὁ δὲ δίκαιος ἐκ πίστεως ζήσεται[信仰によって義なる者は,永遠の命を生きることになる]と公式化した後,聖パウロは,すぐさま,1,18-32 において,その逆の場合,つまり,神を信ぜず [ ἀσέβεια ], 偶像 [ ὁμοίωμα εἰκόνος ] を崇拝することにおいて義ならざる者たち [ ἀδικία ] について論じている.

そのような者たちは 神の怒り [ ὀργὴ θεοῦ ] を受け,神は 彼れらを 彼れらのこころの欲望において [ ἐν ταῖς ἐπιθυμίαις τῶν καρδιῶν αὐτῶν ] 不浄 [ ἀκαθαρσία ] と 恥辱の熱情 [ πάθη ἀτιμίας ] へ 引き渡す.それによって,彼れら,および,彼れらの一族(または家族)の女たちは,自然に反して [ παρὰ φύσιν ] 同性の相手と性関係を持つことになる.

以上において明らかなように,聖パウロの論理は,「神を信じないがゆえに非正義であるならば,同性間性行為を行うことになる」ということであって,その逆:「同性間性行為を行うならば,非正義である」ではない.

むしろ,heterosexual の者が異性パートナーと行う性行為についても,神を信じないことにおいて義ならざる偶像崇拝者たちが 愛も無しに 衝動のままに 性交するのであれば,それは,断罪さるべき「忌まわしい」行為にほかならない.

また,ἀδικία[非正義]や ἀκαθαρσία[不浄]は,レビ記で述べられていた「聖性の律法」に対する違反がかかわっていることを示唆している.つまり,聖パウロが念頭に置いているのは,レビ記の 18,22 と 20,13 によって規定されている禁止である.それが homosexuality にかかわるものではないことは,既に見たとおりである.

次いで,第 1 コリント書簡 6,9 と第 1 ティモテオ書簡 1,10 において聖パウロは「同性愛者」を断罪している,と言われている.

当該箇所のフランス語訳には « pédéraste », 日本語訳には「男色をする者」(新共同訳)や「同性愛に耽る者」(フランシスコ会訳)という表現が見出される.

しかし,ギリシャ語の原文で 聖パウロが用いている語は ἀρσενοκοίτης である.それは,文字どおりには,「男と性交する男」である.

フランス語の pédéraste は παιδεραστής (< παῖς + ἔρως ) に由来し,後者は,古代ギリシアではむしろ公序良俗に属する「少年を愛する者」である.

しかし,聖パウロの言葉を文脈において読むなら読み取れるように,彼が断罪しているのは,古代ギリシア社会における παιδεραστία でも,現代社会における homosexuality でもなく,しかして,レビ記において禁止されているような衝動的同性間性行為か,または,申命記において禁止されているような神聖売買春における同性間性行為である.

しかも,既に幾度か強調してきたように,それらの禁止の言葉が向けられているのは,heterosexual の男性にであって,homosexual の男性にではない.

今,日本において同性婚が合憲か違憲かを論ずる際には,このことを考慮に入れねばならない:すなわち,1946年に作成された日本国憲法においては,1948年に制定された世界人権宣言においてと同様,結婚したいと思う同性カップルの存在はまったく想定されていなかった.

憲法制定時に想定されていなかったことは,憲法において禁止されてもいない.憲法 24 条に「婚姻は両性の合意のみにもとづいて成立し,夫婦が同等の権利を有することを基本として...」と述べられてはいても,それは,あくまで異性カップルの婚姻に関することであって,同性カップルの結婚を禁止するために書かれたものではない.

同様に,古代ユダヤ人社会 — 聖パウロも,元来,そこに属していた — においては,現代社会において homosexuality と呼ばれている事態は,想定されていなかった.律法の言葉は,すべて,heterosexual であることが当然のこととして想定されているユダヤ人男性一般に向けられていたのであり,特別に gay の男性を対象とするような命令も禁止もなかった.

現代社会において homosexuality と呼ばれているものに関する否定的な言説を聖書のなかに読み取る者は,聖書の文章がいつ,どこで,誰によって,誰のために,如何なる目的で作成されたのかを,考慮していないだけである.

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COVID-19 の全世界的な流行のもとで 信仰を分かち合う者たちが定期的に集うことができない — その状況は,あらためて,いかに ユダヤ民族は diaspora において 信仰を守り続けてきたか に わたしたちの注意を向けさせます.彼らは,紀元前 6 世紀の数十年間(バビロン捕囚)および 西暦 70 年に イェルサレムの神殿がローマ帝国軍によって破壊されて以降 ずっと,聖書に規定されているようなしかたで 聖堂において いけにえを捧げる儀式をすることができないできました(1948年にイスラエルが建国されてからも,今は もはや あえて そのような いけにえ儀式を復活させることを 彼らは選んでいません).そのとき,彼らの信仰を支え続けたのは,聖書です.

わたしたちが「旧約」と呼ぶ もろもろの書は,紀元前 5 世紀から 2 世紀ころまでの間にテクストとして成立し,さらに 西暦 10 世紀ころまでに 長い時間と努力をかけて 正典として整えられました.如何に ユダヤ人たちは それらを読んでいるのか? 古代に書かれた歴史的な文書として読んでいるのではありません.そうではなく,聖書の文面をとおして 神は 今 生きているわたしたちに 語りかけ続けているのだ,しかも,神のことばは 人間にとって 完全に把握可能なものではないのであるから,わたしたちは 聖書の文面をとおして 常に 新たに 神のことばを聴き続けねばならず,かつ,そうすることができる — そのような前提に立って,ユダヤ人たちは,聖書を読み続けています.

したがって,彼らは「聖書のしかじかの箇所は しかじかと読むべきだ」と固定化することを しません.そのような固定化は,むしろ,神に対する冒瀆です.常に変化する状況と条件のもとで生きるわたしたちは,各人,そのつど,常に あらたに 聖書をとおして 神のことばに耳を傾けるべきであり,かつ,そうすることができます.

別の言い方をすると,ユダヤ人たちの耳と心は 神のことばに対して 常に開かれているのです.それに対して,原理主義的な保守派のクリスチャンたちの耳と心は 神のことばに対して閉ざされています.何が閉ざしているのか? それは,彼れら自身によって固定化されてしまった意義です — 聖書のしかじかの箇所は しかじかと読むべきであり,それ以外の読み方はあり得ない という思い込みです.

そのように固定化された意義を,形而上学的偶像崇拝 (metaphysical idolatry, l'idolâtrie métaphysique) と呼びましょう.保守派クリスチャンたちが拝んでいるのは,形而上学的な偶像としての「神」にすぎません.それは,本当の神ではありません.そして,そのような偶像は,彼らの耳と心を 神のことばを常に新たに聴こうとする開かれた聴き方に対して 閉ざしてしまっています.

形而上学的偶像崇拝者の「神」のことを,Blaise Pascal は「哲学者と神学者の神」と呼んでいます.それに対して,彼は,火の夜,彼に与えられた啓示において 彼に 自身を開示してきた神を「アブラハムとイサクとヤコブの神」と呼んでいます.わたしたちも,「哲学者と神学者の神」を拝む形而上学的偶像崇拝を捨て,「アブラハムとイサクとヤコブの神」のことばに対して耳と心を開くことを学ばねばなりません.

さて,今月(2020年12月),また 新たに Twitter の timeline で homophobe Christians と LGBTQ Christians との激烈な論争が展開されているのを 見かけました.それは,単なる無邪気な神学論争ではありません.というのも,その論争に関する感想として,高田嘉文氏は,こう述べているからです:

「同性愛は罪」っていうのはね,当事者にとっては「お前には 生きている価値がない」って聞こえるんですよ.「死ね」って言ってるのと同じでしょ.

如何に LGBTQ Christians たちと 彼らの advocate であるわたしたちは 聖書を読むことができるか? 以前「LGBTQ と カトリック教義」で書いたことの抜粋を この記事「あらためて LGBTQ と 聖書について — 聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない」に転載しました.また,以前のブログ記事「聖書を楯に取って homosexuality を断罪する人々に対する答え方」や「『放蕩息子の寓話は悔い改めが前提』に対して」も参照してください.

ここでは,homophobe Christian たちが最も根本的な準拠とする レヴィ記 18,22 を ヘブライ語テクストにもとづいて 改めて読んでみましょう(レヴィ記 20,13 も同様):


וְאֶת־זָכָר לֹא תִשְׁכַּב מִשְׁכְּבֵי אִשָּׁה

καὶ μετά ἄρσενος οὐ κοιμηθήσῃ κοίτην γυναικείαν

Thou shalt not lie with mankind, as with womankind (King James Version)

Tu ne coucheras pas avec un homme comme on couche avec une femme (Traduction oecuménique)

女と寝るように 男と寝てはならない(聖書協会共同訳)


英語訳,フランス語訳,日本語訳は 似たり寄ったりですが,ヘブライ語原文と ギリシャ語訳(70人訳)は,直訳すると,こう訳せます:

して,汝[男]は,女と寝ることを 男と寝るなかれ

ヘブライ語では,動詞の活用は 主語が男性か女性かによって異なります.この命令にしたがうべき者が男性であることは 明確です.

そして,動詞 שָׁכַב[寝る](ギリシャ語訳では κοιμᾶσθαι)は 同族目的語 מִשְׁכָּב[寝ること](ギリシャ語訳では κοίτη)を取っています.つまり:

おまえ[男]は,女と寝ることを 男としてはならない.

あるいは:

おまえ[男]は,女と寝る代わりに 男と寝てはならない.

このように訳すと,この命令に従うべき男にとっては,女と寝ることが普段の習慣であり,それに対して,男と寝ることはそうではない,ということが,より明確になります.

LGBTQ と カトリック教義」および「あらためて LGBTQ と 聖書について — 聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない」において指摘したように,ユダヤ教の律法の主体(その命令に従うべき者)は,heterosexual かつ cisgender である男性であり,homosexual や transgender である者の存在は想定されていません.わたしたちは,レヴィ記 18,22 のヘブライ語原文を読むことによって,そのことを より明瞭に確認することができます.

以上のような指摘が,しかし,homophobe Christian たちの考えを変えることはできないでしょう.彼れらの思い込みは paranoïaque だからです.形而上学的偶像崇拝は 一種の paranoïa にほかなりません — Trumpism と同様に.わたしたちとしては,彼れらが自滅して行くのを待つしかありません — それが彼れらの運命ですから.

2020年10月24日土曜日

教皇 Francesco は 同性カップルの civil union の法制化を 支持する... が 同性カップルに結婚の秘跡を授けることはしない


教皇 Francesco は 同性カップルの civil union の法制化を 支持する... が 同性カップルに結婚の秘跡を授けることはしない


 
Evgeny Afineevsky 監督の新しいドキュメンタリー映画 Francesco(予告編関連記事)が,2020年 10月 21日,Rome Film Festival で 世界初上映されました.そのなかで パパさまが 同性カップルの civil union の法制化を支持する と発言していることが,世界中で 大きく 報道 されました.

この場合,civil union とは,民法によって結婚とほぼ同等の権利と義務を与えられたカップルの法的形態のことです.世界では 既に多くの国で同性婚が法制化されていますが,それらの国々でも,あるいは,特に 同性婚が法制化されていない国(たとえば イタリア)においては,civil union を規定する法律は,同性カップルの関係に法的な保証を与える機能を果たしています.

実は,パパさまは,Buenos Aires 大司教であったときから,既に,civil union の法制化に賛成していました — ただし,それは,同性婚の法制化に反対するためでした(しかし,結局,アルゼンチンにおいては,2010年07月22日に 同性婚は 法制化されました).

パパさまは,かねてから,教会において結婚の秘跡を授かることができるのは異性カップルのみであり,そのかわりに,同性カップルには民法上の保証を与えることを許す,という考え方をしています.

それについて,わたしは,3 年前に書いた『教皇 Francesco の 生と性の神学』のなかで論じています.彼は,性別に関しては,基本的に言って,生物学的に規定された男女二元論のなかにとどまっており,また,同性カップルにおいては,異性カップルにおけるような「他なるもの」との関係を経験することはできない,と考えています.そこにおいては,彼の思考は 残念ながら 保守的なままです — 彼は 目的論的な lex naturalis[自然法]の形而上学からは自由であるとはいえ.

しかし,それでも,今回の「教皇は 同性カップルのために civil union が法制化されることを 支持する」というニュースは,LGBTQ カトリック信者たちには おおむね 好意的に受けとめられています.

gay であることを公にしている神学者 Bryan Massingale 神父が,アメリカの公共ラジオ NPR のインタヴューに答えている記事を 邦訳して 紹介しましょう.

Bryan Massingale 神父は,STD (Sacrae Theologiae Doctor) の学位(教皇庁立大学の神学博士の学位)を有する道徳神学の専門家であり,現在,NYC にあるイェズス会系の大学 Fordham University の神学教授です(つまり,神学者として高名であり,かつ,高く評価されている人物です).彼は,自身が gay であることを公にしており,lex naturalis[自然法]にもとづいて homosexuality を断罪するカトリック教義を「偶像崇拝」と批判しています(わたしのブログ記事 Father Bryan Massingale : 偶像崇拝に立ち向かうこと を参照してください).


— 今週[10月21日]Rome Film Festival において 世界で初めて上映されたドキュメンタリー映画 Francesco において,教皇 Francesco は同性カップルのために civil union を是認していることが,わかりました.さて,その映画における彼の発言は,カトリック教義の変更を意義しませんが,その問題に関して教皇が如何に語るかにおける大きな変化を意義します.そこで,それは,カトリック LGBTQ community にとって,何を意義することになるでしょうか ? Bryan Massingale 神父さまに質問したいと思います.gay であることを公にしているカトリック司祭として,教皇の発言を初めて聞いたとき,どう思いましたか? 

Bryan Massingale (BM) : とても感激しました.歓喜をおぼえた,と言ってもよいでしょう.教皇が そのようなしかたで gay や lesbian である人々のために civil union を是認した と聞いて,とてもうれしく思いました.教皇は,gay や lesbian である人々が家族を持つ権利を有していることを,法的に認め,保護するよう,明確に要請したのです.彼は,gay や lesbian である人々は 家族を持つ権利,家族生活をおくる権利を 有している,と言ったのです.そして,それは,カトリックの世界では重要なことです.なぜなら,家族を持つ権利は〈人々が《人間であるがゆえに》有する〉基本的な人権のひとつであるからです.ですから,[このたび教皇がしたように]同性カップルの civil union の法的な是認と保護を要請することは,実に,gay や lesbian である人々の人間性の肯定なのです.彼は こう言ったのです : gay や lesbian である人々は人間であるのだから,社会や国家や政府は彼れらの基本的人権を守るよう義務づけられている. 

— LGBTQ である人々に civil union の権利を認めること,そして,彼れらは civil union によって 彼れらの人生において パートナーと家族を有してもよいと認めること — それは,彼れらは子どもを持ってもよい と認めることですか? 

BM : 勿論です.教皇 Francesco が最初にこの種の肯定を為したのは,彼が教皇になる前,Buenos Aires 大司教であったときでした.今,意味論上の相違があるように見えるかもしれませんが,しかし,わたしはこう思います:教皇は,gay や lesbian である人々が家族生活をおくることを法的に是認することに反対しないし,彼れらの〈家族を持ち,子どもを育てる〉権利に反対しない,と言ったのです. 

— あなた自身は gay カトリック信者であり,聖職者です.あなたからすると,civil union は,教会で結婚することができるという事態に比べると,若干 意義が劣る,ということになりますか? 

BM : そのとおりです.わたしは 個人的には — そして,ほかの多くの人々も,gay や lesbian である人々や わたしたちを愛してくれている ally の人々も — 教会が いつの日か LGBTQ である人々の愛し合うカップルの関係を 結婚の秘跡において 承認するようになることを 欲しています.そして,実際,そのような対話が,ちょうど今,教会のなかで進められています.実際,ドイツ語圏の司教たち — ドイツとオーストリアの司教たち — は,この種の議論 — いかにして 教会は 愛し合う同性カップルに 祝福や承認を広げることができるだろうか?に関する議論 — の最前線にいます.それは 同性カップルの問題に関する教会の思考の進歩において 必要な一歩である,と わたしは見ています.その一歩は あまりに小さいし あまりに遅い と言う人々も いるでしょう.しかし,わたしは こう思います:我々は,カトリック信者として,若干 距離を取る必要がある;そして,カトリック教会は 全世界に手を差しのべる全世界的な教会である と言う必要がある.世界中の多くの場所において,LGBTQ の人々は,合衆国におけるより,ずっと少なくしか 人権を 法的に是認され 保護されて いません.なおも 70 以上の国々において homosexuality は犯罪と見なされている,ということを思い出さねばなりません.5, 6 ヶ国においては,homosexuality は死刑に処され得る行為とされているのです.ですから,同性カップルの civil union の法制化を認めるという今回の宣言によって教皇が為したのは,このことです:すなわち,彼は 明確に カトリック教会を homosexuality の犯罪化に反対し,gay や lesbian である人々の人間的尊厳を保護することをよしとする側に 置いたのだ. 

— しかし,わたしが事態を理解できるよう 助けてください.なぜなら,わたしの理解では,カトリック教会は なおも homosexuality を罪と見なしており,生活様式のなかで促されるべき何ごとかとは見なしていないからです.周知のように,赦しという観念があります.もし あなたが あなたの性的指向を それに関して赦しを求めるべきところの何ごとかと考えているなら,それでもよいでしょう.しかし,「罪」のなかに生きることは,教会の目から見れば,受け容れられることではありません. 

BM : 教皇 Francesco は,homosexual な行動ないし行為に関する教会の教えを 変えてはいません.彼は なおも それを 道徳的に問題のあることと 見なしているかもしれません.しかし,彼は この問いに立ち戻ります:我々は,おこないに焦点を当てるべきか あるいは 人に焦点を当てるべきか ? 罪人[つみびと]でさえ,人権を有しています.わたしたちは,罪人の人権を尊重し,保護するよう,要請されています. 

— LGBTQ カトリック信者にとっては,まさに今,何が変わったのでしょうか — もし変わったことがあるとすれば? 

BM : わたしは こう思います : LGBTQ カトリック信者にとっては,それは,教会は変わり得るという希望の徴です.教会は 成長し得,進化し得る.特に,LGBTQ の人々が より積極的に迫害されている場所においては,それは希望の徴です.そのような迫害はカトリックの信仰とは相容れないということを示す希望の徴です.合衆国においては,カトリック信者やカトリック施設は 同性カップルが養子を取ることにかかわることも それを許すこともできない,と言おうとしている人々がいます.カトリック教会のなかで行われているその種の議論にとって,今回の教皇の言葉は,実に,異なるレンズを与えることになる,と わたしは思います.なぜなら,gay や lesbian である人々は家族を持つ権利を有している,と わたしたちは 基本的に言っているからです.彼れらは親となり得る.そのことは,合衆国において,カトリック信者たちに,異なるアプローチを取るよう 要請します — 宗教の自由について論ずるときに,カトリック組織の権利について論ずるときに,また,カトリック団体は「同性カップルは養子を取ることはできない」と主張し続けることができるか否か を論ずるときに.ですから,今回の教皇の言葉は 合衆国において 非常に具体的な効果を持つことになるだろう,と わたしは思います.

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2020年10月25日 付記:

その後,どこから Evgeny Afineevsky 監督は Papa Francesco の言葉を引用してきたのか,が問題になっています(この記事を参照).というのも,彼は Papa Francesco に幾度かインタヴューをしたものの,その際の対話を撮影することは彼に許可されなかった,ということが 判明したからです.代わりに,彼には, Vatican が所蔵する映像資料庫への入室が許可されました.そのなかから,彼は,2019年05月にメキシコのテレビ局 Televisa が撮影した Papa Francesco のインタヴューの長い未編集フィルム(編集後のフィルムは Televisa で放送された)を見つけ出しました.そして,そこから 彼は ふたつの箇所を切り出してきて,つなげて,次の文(英訳)を合成しました

Homosexual people have the right to be in a family. They are children of God and have a right to a family. Nobody should be thrown out or be made miserable over it. What we have to have is a civil union law — that way they are legally covered. I supported that.

homosexual である人々は,家族で暮らす権利を有している.彼れらは,神の子であり,家族生活の権利を有している.homosexual であるという理由で 家族から放り出されたり,惨めな思いをする者がいてはならない.我々が持つべきものは,civil union の法律である.彼れらが法律で庇護される方法である.わたしは,それを支持してきた.

America Magazine の Gerard O'Connell 記者は,こう解説しています:

未編集の原テクストによると,Afineevsky 監督のドキュメンタリーにおける教皇の発言の最初の三つの短い文は,「教会法に適っていない状況」において暮らしている人々を教会に統合する問題に関する問いに対する教皇の答えのうちのほんの小さな部分(それは,Televisa のインタヴューの放送された版にも見出される)である.教皇は,homosexual な性的指向を有する人々を家族へ統合する問題に関して ある機上記者会見で質問されたことのあることを思い返し,そして,「わたし [ Papa Francesco ] はこう言った:homosexual である人々は,家族のなかにとどまる権利を有している.homosexual な性的指向を有している人々は,家族のなかにとどまる権利を有しており,親は 息子や娘を homosexual と認める権利を 有している.homosexual であるがゆえに 家族から放り出される者があってはならないし,homosexual であるがゆえに生きることが不可能になることがあってはならない」.

Afineevsky 監督のドキュメンタリーにおける教皇の発言の最後の文は,Televisa インタヴューの未編集版のなかにしか見出され得ない まったく別の問いに対する教皇の答えの最後の部分である.Televisa の Ms Alazraki は,教皇が Buenos Aires 大司教であったときの 同性婚法制化に反対する彼の戦いのことを思い返し,そして,教皇になった彼の よりリベラルと見える立場は 聖霊によるものか,と教皇に問うた.

彼の完全な答えは,英訳では 次のとおり

The grace of the Holy Spirit certainly exists. I have always defended the doctrine. And it is curious that in the law on homosexual marriage…. It is an incongruity to speak of homosexual marriage. But what we have to have is a law of civil union (ley de convivencia civil), so they have the right to be legally covered.

確かに,聖霊の恵みは ある.わたしは 常に カトリック教義を防衛してきた.そして,奇妙なことに,同性婚に関する法律のなかには... 同性婚[同性カップルの結婚]という表現には,齟齬がある.我々が持つべきは,civil union[教皇のスペイン語の表現では convivencia civil : 民法により規定された同棲]の法律である.彼れら[同性カップル]は,法的に庇護される権利を有している.

Gerard O'Connell 記者は,以上のことを 我々に 明かしてくれています.

ともあれ,homosexuality と同性婚に関する Papa Francesco の詳しい考えを知りたい方は,よろしければ,わたしが 3 年前に書いた『教皇 Francesco の 生と性の神学』を参照してください.

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2020年11月04日 追記:

Papa Francesco の伝記 Wounded Shepherd : Pope Francis and His Struggle to Convert the Catholic Church の著者であるジャーナリスト Austen Ivereigh によると,教皇庁 国務省は,世界各国に駐在する教皇大使に対して,以下の文書(Austen Ivereigh が提示しているのは スペイン語版)を 10月30日に送付しました.その内容は,上に紹介した Gerard O'Connell の記事 の内容と一致しています.この件に関しては,America 誌 や National Catholic Reporter 誌も 報じています.

PARA ENTENDER ALGUNAS EXPRESIONES DEL PAPA EN EL DOCUMENTAL “FRANCISCO”

Algunas afirmaciones, contenidas en el documental “Francisco” del guionista Evgeny Afineevsky, han suscitado, en días pasados, diversas reacciones e interpretaciones. Se ofrecen por lo tanto algunos elementos útiles, con el deseo de favorecer una adecuada comprensión de las palabras del Santo Padre. 

Hace más de un año, durante una entrevista, el Papa Francisco respondió a dos preguntas distintas en dos momentos diferentes que, en el mencionado documental, fueron editadas y publicadas como una sola respuesta sin la debida contextualización, lo cual ha generado confusión. El Santo Padre había hecho en primer lugar una referencia pastoral acerca de la necesidad que, en el seno de la familia, el hijo o la hija con orientación homosexual nunca sean discriminados. A ellos se refieren la palabras: “las personas homosexuales tienen derecho a estar en familia; son hijos de Dios, tienen derecho a una familia. No se puede echar de la familia a nadie ni hacerle la vida imposible por eso”. 

El siguiente párrafo de la Exhortación apostólica post-sinodal sobre el amor en la familia Amoris Laetitia (2016) puede iluminar tales expresiones: «Con los Padres sinodales, he tomado en consideración la situación de las familias que viven la experiencia de tener en su seno a personas con tendencias homosexuales, una experiencia nada fácil ni para los padres ni para sus hijos. Por eso, deseamos ante todo reiterar que toda persona, independientemente de su tendencia sexual, ha de ser respetada en su dignidad y acogida con respeto, procurando evitar “todo signo de discriminación injusta”, y particularmente cualquier forma de agresión y violencia. Por lo que se refiere a las familias, se trata por su parte de asegurar un respetuoso acompañamiento, con el fin de que aquellos que manifiestan una tendencia homosexual puedan contar con la ayuda necesaria para comprender y realizar plenamente la voluntad de Dios en su vida» (n. 250).

Una pregunta sucesiva de la entrevista era en cambio inherente a una ley local de hace diez años en Argentina sobre los “matrimonios igualitarios de parejas del mismo sexo” y a la oposición del entonces Arzobispo de Buenos Aires al respecto. A este propósito el Papa Francisco ha afirmado que “es una incongruencia hablar de matrimonio homosexual”, agregando que, en ese mismo contexto, había hablado del derecho de estas personas a tener cierta cobertura legal: “lo que tenemos que hacer es una ley de convivencia civil; tienen derecho a estar cubiertos legalmente. Yo defendí eso”.

El Santo Padre se había expresado así durante una entrevista del 2014: “El matrimonio es entre un hombre y una mujer. Los Estados laicos quieren justificar las uniones civiles para regular diversas situaciones de convivencia, movidos por la exigencia de regular aspectos económicos entre las personas, como por ejemplo asegurar la asistencia sanitaria. Se trata de pactos de convivencia de diferente naturaleza, de los cuales no sabría dar un elenco de las distintas formas. Es necesario ver los diversos casos y evaluarlos en su variedad”. 

Por lo tanto es evidente que el Papa Francisco se ha referido a determinadas disposiciones estatales, no ciertamente a la doctrina de la Iglesia, numerosas veces reafirmada en el curso de los años.

2020年4月12日日曜日

LGBTQ カトリック信者の信仰共同体の復活祭メッセージ

Caravaggio (1571-1610), Maria Maddalena in estasi (1606), collezione privata


LGBTQ+ カトリック信者の信仰共同体の復活祭メッセージ 



COVID-19 の全世界的流行下,公開ミサ中止の措置の継続中,予定されていた わたしたちの LGBTQ+ みんなのミサ も,3月以降,残念ながら 中止されています.ただ,わたしたちのうち幾人かは,毎 主日,東京カテドラルのミサにオンラインで与ったあと,インターネットを介した集いで,祈りと思いを分かち合っています.



今回,復活祭のメッセージとして,幾人かの方が寄稿してくれました.主の御復活の喜びを,COVID-19 の全世界的流行がもたらした不安と苦痛とともに,分かち合いましょう.

 

葉山由佳フランシス

復活祭 おめでとうございます。

今年は 新型コロナウイルスの影響で 教会に集い、みなさんと一緒に復活祭をお祝いできないのが残念です。

さて、私は 落語が好きで、その中でも 人情噺が特に好きです。一番好きな演目は『文七元結』(ぶんしちもっ
とい)* という噺です。

ここで筋を話す野暮は よしておきましょう。有名な噺なので 皆さんも御存知かもしれません。勘三郎で歌舞伎にもなりました。

この噺のいいところは、見ず知らずの若者の命を助けるため、郭に身を売ったたった一人の娘を犠牲にすることです。ここだけ聴けば 鬼のような親に思えますが、そこには父親の苦渋の決断があります。

これはキリスト教が説く「隣人を愛しなさい」に通じるものがあると思います。

「情けは人の為ならず」という日本の美しいことわざがあります。私は キリスト者としてこの精神を忘れずに生きていたいと思います。

今は信仰が試されている時だと思います。負けないように助け合いましょう。

来年の復活祭は みなさんと共にお祝いが出来ますように。
 
志ん朝 :『文七元結』
シネマ歌舞伎『人情噺 文七元結』予告編




はじめまして。深井武志といいます。50代のゲイのカトリック信者で、洗礼名は フランチェスコです。皆さんとともに主のご復活をお祝いできることが 嬉しいです。

今 感じていることを書きます。

今 僕たちが直面している この危機的状況が 長引くことは、覚悟した方がいいと思う。今 確実に言えることは、これまでの世界は過ぎ去りつつあるということだけだ。

この危機の向こうにある世界を、今よりさらに良いものにするのか、それとも、自民族中心主義に毒された不健全なナショナリズムや、全体主義が蔓延するディストピアにするのか。

神様は それを 僕たちの選択に委ねておられる。

全体主義的な社会は、僕たちセクシャルマイノリティにとって、とても住みにくいものになるだろう。

「ウィルスとの戦い」— 愚かで危険な言葉だ。敵などいない。戦う必要なんかない。ただ、助け合えばいい。それだけだ。

誤解のないように、言っておきたい。

外出を控え、人との接触を避けることも、立派な助け合いだ。

医療関係者や、僕たちの生活を支えるために働き続けてくれている人たちは、仕事を通してこの助け合いに参加している。

彼らに感謝し、彼らのために祈ろう。

仕事を失った人達や、収入が減って、経済的な不安を抱えている人達がたくさんいる。政府が彼らのために必要な対策を講じないのなら、彼らとともに声をあげることも、助け合うことだ。インターネットを使えば、オンライン署名に協力できる。

誰でも 何かできることがある。

神様が造られたものに、悪しきものや無駄なものはない。このウィルスだって例外ではないはずだ。

これまで僕たちは、自滅への道を歩んでいた。分かち合おうとはせず、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる。資源を無駄遣いし、環境を破壊し、他の生き物たちを絶滅へと追いやり...

もしかしたら、神様は このウィルスを遣わして、僕たちの自滅への歩みを止めてくれたのかもしれない。

もしそうであるなら、ここから先は、僕たちの選択に委ねられている。

僕は皆さんとともに、この試練の向こうに、よりよい未来を切り開いていきたい。

そのために、日々祈り、自分自身を見つめ、神様に助けられながら、自分にできることをしていきたいと思う。



アリシア内田順子

主のご復活おめでとうございます!
Joyeuses Pâques !
Happy Easter !


先日 何十年ぶりかで 姉といっしょに手入れした実家の庭で 植えてもいない真っ白なフリージアが咲いた と姉からメールがありました。復活祭の思いがけない嬉しい贈り物です。

COVID-19 の流行の 一日も早い収束を祈っています。





ペトロ 宮野 亨(LGBTQ+ みんなのミサ 世話役)

主イエスのご復活を実感して,おめでとうございます.
新型コロナウィルス禍のため ご聖体との出会いがありません.一言で言うと,生身の主イエスとの出会いがないのが大きな違いです.

ミサ時のご聖体拝領のことを 三つ分かち合います.

私達は常に「主イエス ファースト」です.主イエスについていきます.でも,私が勝手に動いている時は,主イエスが片時も離れずについてきてくださいます.

1)ご聖体を掌に受け,聖ヨセフと聖母マリアの気持ちを追体験して感じる:ご聖体は 主イエスです.主イエスを 自分の掌で受けて,主イエスを 抱きかかえ,聖母父が出産したおん子を抱きしめる喜びを 追体験できます.聖母父の気持ちを味わえます.

2)主イエスの気持ちを感じる:ご聖体の形にまでなって,私の体の中へ入ってきてくださる主イエス.それは恵みで 喜び.

ある人が夢を見ました.主は ご自身の家に帰宅します.主イエスが 屋根も窓も無いような荒廃している家に 帰って行くのです.その人は 見かねて「主イエス,もっと普通の家がありますから,そちらでお休みください」と言いました.主イエスは「これは私の家ですから ここで休みます」と言って入っていきました.主は すぐに出てきて「さあ,一緒に入ろう」と言いました.その人は 気づきました :「この破壊されている家は,私の家だだったんだ.でも,主と一緒にいられる」と言って,駆け込んでいきました.

3)主イエスは,私の体内で,へその遥か彼方に 住んでくださっている.どんな場所かというと,沈黙で音のない場所だと感じました.つまり,神は「静かなるもの,全てを静かにする静かなるもの」という実感です.神は 私の体の中の,音のない場所におられるという実感です.では,主は,私の中で,何を聞いているのかというと,私の思いや感情の声です.私だけの,しかも 音だけを聞いてくださっています.他の人の音は 聞いていません.主イエスを独占!左を下にして寝ると,心臓の音が聞こえることもありますね.自分の心臓の音を聞きながら,主イエスの心臓の音を聞いてみてはどうでしょうか?何処にいても,騒然とした環境でも,とても静かな祈りができます.

さて,最後に毎日の祈りを分かち合います.私の心の中に自由に出入りして恵みを与えてくださるのは 神様だけ.その時の感じは,体が暖かくなる,静けさを感じる,穏やかさを体から感じる... 多様です.

ここで,私の罪を,その重さで考えて,① 軽い,② 重い,③ とても重いと分けた時,

① 行為としての罪:悪いことをした,嘘をついた,盗んだ.

② 生活態度としての罪:神に向かわず神がいないかのように生きる.

③ 自己否定:自分に価値がない,神に愛されていないと否定する.自分の存在価値を否定する.

③ は,自分の根源的良さを否定する「根源的罪」(根源的自己否定)で,最も重い罪.

実は,毎日 神を感じて 暖かさを味わっていると,③ は ありません.① も ② も,③ があると,少しずつ塊が溶けていきます.一方で,① ができているかどうかに注視させられて 拘束されて ② になっていき,③ を感じたことがない方も多いです.

祈った後で「~だと思う」という感じの時は,考えていて,祈っていません.祈りは,身体で何かを感じて,それを味わっている感じです.

体で神を感じるのは 何より大切です.心の状態は,身体があるからこそ 感じ取れます.私達は,身体を感じて味わいつつ 日々を生きています.心は確かに脳の中で作られるけれど,身体がなければ 決して感じ取ることができません.

主イエスが住まわれている実感とともに 日々生きましょう.ご受難の時の主イエス,七つの言葉を言った時の主イエス,墓石をどけて墓を出てきた時の主イエス... その気持を 私達は 身体で感じて,愛を感じて 生きていけます.自分の身体を感じて生きる恵みをたくさん与えてくださっている事実を,​心から感謝します.



ルカ小笠原晋也(LGBTQ+ みんなのミサ 世話役)

わたしたちは 突如,終末論的状況に投げ込まれました.今,わたしたちは 誰もが 皆,COVID-19 罹患によって死ぬ可能性に 直面させられています.死の穴が 不意に わたしたちの面前で 口を開き,わたしたちが いつ その穴に呑み込まれてしまうのかは 予見不可能です.

そのような死の不安を ごまかすことなく 耐え抜くこと — 神の愛により支えられ,かつ,隣人愛により支え合って : 西暦 313 年に Constantinus I が ミラノ勅令により キリスト教信仰を合法化する以前のクリスチャンたちの信仰生活は,そこに存していたはずです.ある意味で,わたしたちは,クリスチャンの本来的な生き方に目ざめる「好機」に恵まれています — とても辛くて恐ろしい試練ですが.

また,感染の拡大を防ぐために,わたしたちは,教会に集うことができなくなり,聖体拝領に与ることもできなくなりました.その状況は,西暦 70 年にローマ帝国軍によってイェルサレムの神殿が破壊されたときのユダヤ人たちの状況に似ています — わたしたちは,教会の建物を失ったわけでも,司祭たちと司教たちを失ったわけでもない とはいえ.

イェルサレムの神殿を失ったことは,ユダヤ人の信仰生活に大きな変化をもたらしました — その変化は,紀元前 588 年に 新バビロニア帝国によって ソロモン神殿が破壊されてから 紀元前 538 年に アケメネス朝ペルシャの Kyros II によってユダヤ人にイェルサレム帰還が許可されるまでの バビロン捕囚によって,ある意味で準備されてはいたのですが.

その変化とは,神殿の喪失にともない,神殿で犠牲の儀式を行っていた聖職者(新約聖書では「サドカイ人」と呼ばれている者たち)はいなくなり,もっぱら 律法学者(新約聖書では「ファリサイ人」と呼ばれている者たち)が 信仰を維持し,次世代に伝達する役割を担うことになった;そして,信仰生活の中心を成すのは,聖職者集団が犠牲を神に捧げる儀式を行う神殿の建物ではなく,それをとおして律法学者(彼らは聖職者ではありません)ひとりひとりが神のことばを聴き取ろうと努力するところの聖書のテクストになった,ということです.

ユダヤ教信仰が 西暦 70 年の第 2 神殿破壊の後も 今に至るまで(Shoah を経ても なおも)維持され続け,かつ,今後も代々に至るまで維持されて行くであろうのは,非聖職者である律法学者(今Rabbi と呼ばれています)の活動の成果です.

今,COVID-19 の全世界的流行のせいで,信仰生活の中心を成してきた聖体拝領に与ることもできず,終末論的な不安を生きているわたしたちは,神殿を失ったユダヤ人たちのことと,キリスト教信仰が殉教の可能性を包含していた初期キリスト教の時代の信者たちのこととを ふりかえり,参考にすることができるでしょう.

終末論的な不安を耐えとおすことは,神の愛によって支えられ,かつ,隣人愛によって支え合うことを 前提します.そして,そのとき,わたしたちは,今,既に,わたしたちの現場存在 (Dasein) において,神の命である永遠の命に与っています.

永遠の命への復活は,死後のことではなく,今 生きている わたしたちの現場存在において成起することです.永遠の命を「死後の生」と見なすとすれば,それは,永遠の命を 仏教の言う輪廻転生における「生まれかわり」と同様のものに還元してしまうことになります.そのような考え方は,よりよい「死後の生」を想定することによって,今 現に生きている生をないがしろにする危険をはらんでいるがゆえに,必ずしも無邪気な空想ではありません(実際,たとえば オウム真理教は,「邪魔者」を抹殺することを正当化するために,そのような考え方に準拠しました).

また,教会の聖堂のなかに入ることもできず,聖体拝領に与ることもできない 今の状況は,「信仰を生きるということは 何に存するのか?」を問いなおす好機です.お気に入りの司祭や司教を「個人崇拝」し,ミサで御聖体をいただくことさえできれば,それ以外,特に何もいらない信仰生活 — 一般信徒のそのような聖職者依存的な態度が,聖職者中心主義 (clericalism) を助長する一因になっています(勿論,聖職者自身の権力志向などの もっと重大な要因もかかわっていますが).

Papa Francesco は,若者をテーマとして行われた 2018 年の司教シノドスの開会式における演説(2018年10月03日)のなかで,« Il clericalismo è una perversione ed è radice di tanti mali nella Chiesa »[聖職者中心主義は,倒錯であり,教会内部の多くの悪の根である]と述べて,聖職者中心主義を厳しく批判しています.

聖職者中心主義を克服するためには,司祭や司教の努力を待つだけでなく,より多くの一般信徒がこのことを思い起こし,より能動的に信仰を生きる覚悟を持つ必要があります:

あなたたちは,このことを知らないのか ? : あなたたちは 神の家であり,神の息吹は あなたたちに住まっている.もし誰かが神の家を破壊するなら,神はその者を滅ぼすだろう.そも,神の家は神聖であり,そして,神の家とは あなたたちのことである(第 1 コリント書簡 03,16-17).
人々が,2, 3 人でも,わたし [ Jesus Christus ] の名において集うところでは,わたしは 彼れらのただなかにいる(マタイ福音書 18,20).

聖職者中心主義を批判するための標語として Papa Francesco が掲げた語が,これです : sinodalità (synodality, synodalité) — σύνοδος < συν- + ὁδός : 皆がともに道を歩むこと.

sinodalità は,2022 年に予定されている司教シノドスのテーマです.それは,教会を聖職者中心主義から解放し,一般信徒 — 特に 女性(なにしろ,一般信徒のなかでは 女性の方が男性より多いのですから)— が 教会の活動と運営のために 聖職者と対等の役割を果たすことを,要請します.

ただし,カトリック信仰が教会組織と聖職者ヒエラルキーを中心としてきたことを批判するとき,わたしたちが陥ってはならないのは,聖書の文面を文字どおりにとって,それを偶像として崇拝する態度です(実際,プロテスタントの一部は そのような聖書偶像崇拝に陥っています).

そのために,わたしたちは,Midrash — ユダヤ教における聖書解釈学  を参考にすることができます.

ユダヤ教の Rabbi たちの聖書解釈の原理は 何か? それは,「神の思考は 人間には把握不可能である」ということです.

確かに,ユダヤ教の正典の文面(文字づら)は,西暦 10 世紀ころまでに確定されました(それは,今,Masoretic Text と呼ばれています).しかし,そのテクストを 単に「意味を了解する」ように読んで,論語の「子曰く」と同様に「神はこう言っている」と決めつけることを,ユダヤ教の Rabbi たちは しません.なぜなら,「神はこう言っている,神はこう考えている」と決めつけることは,神に対する冒瀆だからです — 神の思考は 人間的な次元をはるかに超えており,人間はそれを等合的に捉えることはできないのですから.

Rabbi たちは,聖書の文面をとおして,今 生きている神のことばを聴き取ろうとします — 今 生きている神は,何千年か前のイスラエルの民に対してではなく,今 生きているわたしたちに対して,何を言おうとしているのか?と問いつつ.そのためには,聖書の文面を,意味を了解しつつ読むのではなく,解釈しつつ読む必要があります.その解釈が Midrash です.パウロ書簡は,Midrash の実例に溢れています.ある意味で,パウロによって措定されたキリスト教の教義の原基は ユダヤ教の聖書(旧約聖書)の Midrash 的な解釈の産物です.

ユダヤ教におけるように,信者ひとりひとりが 神のことばを 今 生きている自分自身に向けられたことばとして 聴き取ろうとすること — ある意味で,信者ひとりひとりが預言者となること.そのことを,しかし,カトリック教義は妨げています.それは,Ecclesiae Magisterium[教会の教導権]と呼ばれている思念です.それは,神のことばを解釈する権利を,教皇と司教にしか認めせん(勿論,女性は その権利を行使することから a priori に 排除されています).Ecclesiae Magisterium は,それが聖職者中心主義を条件づけている限りにおいて,聖職者中心主義とともに批判されるべきです.

また,信者ひとりひとりが 神のことばを 今 生きている自分自身に向けられたことばとして 聴き取ろうとすることを妨げている もうひとつのカトリック教義は,Lex Naturalis[自然法]です.それは,13世紀に Thomas Aquinas が Aristoteles からカトリック教義に輸入した形而上学と形而上学的目的論とにもとづく硬直した思念であり,生きた神のことばを わたしたちに対して 覆い隠してしまいます.Lex Naturalis を信奉することは,形而上学的な偶像崇拝 (idolâtrie métaphysique) にほかなりません.そして,カトリック教会の内部で LGBTQ+ を断罪する者たちは,皆,Lex Naturalis を盾にとって そうしています.つまり,彼らは 皆,形而上学的偶像崇拝者です.しかも,それが偶像崇拝であるということに 彼らは まったく気づいていません.

Ecclesiae MagisteriumLex Naturalis — それらふたつの思念をカトリック教義から一掃しないかぎり,カトリック教会は 21 世紀が我々に課した試練を 乗り越えて 生き延びることは できないでしょう.

COVID-19 の全世界的な流行は,以上のような意味において,わたしたちに 信仰生活の「回心」を要請しています.ひとりでも多くのカトリック信者が そのことに気がついてくれるよう,願っています.

COVID-19 によって亡くなった多くの人々に 主が 永遠の安らぎを与えてくださいますように.

その喪に悲しみ,泣く人々を,主が 慰めてくださいますように.

COVID-19 に罹患して苦しんでいる人々を 主が 力づけてくださいますように.

必死の思いで働いている医療従事者と介護従事者を 主が支えてくださいますように.

終末論的不安を生きている わたしたち 皆を 主の愛が支えてくださいますように.そして,今後 わたしたちが sinodalità の道を歩んで行くことができるよう,導いてくださいますように.

冒頭に掲げた絵は,昨年の復活祭 のときと同じく,Caravaggio Maria Maddalena in estasi[恍惚状態にある マグダラのマリア]です.昨年も説明したように,Maria Magdalena の Dasein において Jesus Christus は 死から永遠の命へ復活し,そして,そのことにおいて,彼女も死から永遠の命へ復活しました.Apostolorum Apostola[使徒たちの使徒]と呼ばれる彼女こそが,本当の教会の礎です.ペトロの礎は,Maria Magdalena という礎の上に置かれています.パウロは そのことを無視しましたが,わたしたちは そのことを忘れないでおきましょう.

主の復活に賛美!神の栄光に賛美!神に感謝!