2020-01-30

LGBTQ カトリック信者への司牧活動に関してしばしば問われる五つの質問に James Martin 神父が答える

Fr James Martin in a private audience with Pope Francis on the 30th September 2019


LGBTQ カトリック信者への司牧活動に関してしばしば問われる五つの質問に James Martin 神父が答える




こんにちは,James Martin です.わたしは,イエズス会士であり,カトリック司祭です.イエズス会が発行している週刊誌 America の特約編集者をしています.また,『[カトリック教会と LGBTQ の人々との間に]橋を架けよう』という本の著者です. 

LGBTQ カトリック信者たちとの司牧的なかかわりあいのなかで,公的な講演においても,私的な会話においても,いくつかの同じ質問が繰り返し提起されてきました.SNS のなかでも そうです — ただし,必ずしも隣人愛に満ちたやり方でではありませんが.というわけで,対話のためになるように,最もよく提起される五つの質問に,ここで答えたいと思います. 

わたしにしばしば差し向けられる最初の問いは,これです :「あなたは,homosexuality に関するカトリック教会の教えに異議を唱えているのですか?」答えは「いいえ」です.幾度も わたしはそう述べています — 講演においても,インタヴューにおいても,また,2018年04月に America 誌に書いた記事 :「homosexuality に関するカトリック教会の公式の教えは何か?」においても.わたしは,homosexuality に関するカトリック教会の教え — 同性婚のことであれ,同性カップルのことであれ,その他のことであれ — に異議を唱えてはいません.もしわたしがそうでないことを意味するように見えることを言ったり,したり,書いたりしたとすれば,それは,わたしの意図するところではありません.ともあれ,LGBTQ の人々に関するカトリック教会の教えは,『カトリック教会のカテキズム』のなかで homosexuality に関して論ぜられているたった数行よりも,はるかに多くのことを含んでいます.その中心を成しているのは,イェスです.および,彼のメッセージ — 愛と慈しみと思いやりに関する彼のメッセージ — です.そして,それらの教えに,わたしは異議を唱えてはいません. 

第二の問い :「あなたは,教会で歓迎されていないと感じている LGBTQ カトリック信者に,何と言いますか?」多くの LGBTQ カトリック信者が,彼れらが所属する小教区の教会で歓迎されていない,と感じています.最近,ある女性が,わたしに,とんでもない経験を語ってくれました.彼女が司祭に「わたしは lesbian です」と言ったところ,彼は彼女にこう答えたそうです :「わたしは,司祭に叙階されて以来ずっと,homosexual の人に決して会うことがありませんように,と祈ってきました」.ですから,教会から距離をとる人々がいても,不思議には思いません.しかし,同時に,わたしは,LGBTQ カトリック信者たちに,このことを強調します :「あなたたちは,洗礼を受けた信者として,教皇や司教や司祭と同等に,カトリック教会の一員なのです」.もしあなたを教会から追い出そうとする者がいるなら,そんなことをさせておいてはなりません.教会は,あなたの教会でもあるのです.ですが,歓迎されていると感ずることのできる小教区を見つけてください.あなたの存在の根は,あなたが受けた洗礼のなかにあるのです. 

第三の問い :「なぜ あなたは 貞潔について もっとたくさん語らないのですか?」いいえ,語っていますとも.わたしは,講演において,ほぼ毎回,貞潔について語っています.貞潔は,質疑応答の際に,しばしば話題になります.率直に言って,わたし自身,貞潔を生きています.わたしは,今や30年間,イエズス会の貞潔の誓いを生きています.わたしが取り立てて貞潔の問題に焦点を当てない理由のひとつは,このことです : homosexuality に関する教会の教え — 独身と貞潔の教え — は,わたしが会ったことのある人々すべてに — LGBTQ カトリック信者たちにも,彼れらの家族たちにも,ほかのカトリック信者たちにも — 周知のことである.また,教会のなかには,貞潔に焦点を当てる個人やグループは,ほかにたくさんあります.わたしは,単純に,ほかの話題に焦点を当てているだけです : LGBTQ の人々が自身を「神に愛されている者」と感ずるようになれるためには,どうすればよいか ? 小教区において,あるいは,カトリック系の学校において,LGBTQ の人々に対して尊重と歓迎の意を示すためには,どうすればよいか ? LGBTQ の若者たちの間で自殺率が高いことに対して,我々はどう対処すればよいか ? 等々.わたし自身の司牧活動は,ほかの人々が見逃していると思われる領域に,焦点を当てています. 

第四の問い :「2019年09月30日の接見の際,Papa Francesco はあなたと何について話したのですか?」わたしは,Papa Francesco によって,個別接見のために,Palazzo Apostolico(ヴァチカン宮殿)に招かれました.その接見は,30分間続きました.その前の週に行われた教皇庁の Dicastero per la Comunicazione — わたしは,そのコンサルタントのひとりです — の会合で,わたしは Papa Francesco と会いました.その後,接見への招待が届きました.接見の際,Papa Francesco は,会談の詳細をメディアで公表しないよう,わたしに要請しました.ただ,個人やグループとなら会談の詳細を分かち合ってもよい,とおっしゃってもくださいました.会談の詳細をメディアで公表しないのは,互いに気がねなく話すことができるようにという配慮のためです.ともあれ,わたしは,こう言うことができます:教皇とわたしは,30分間たっぷり,LGBTQ カトリック信者のこと,および,世界中の LGBTQ の人々のことについて,語り合いました.そして,わたしは,彼から,LGBTQ の人々に対する司牧活動を平和のうちに続けて行くよう,励まされ,慰められ,勇気づけられました.どれほどわたしがその会談のことで教皇に感謝しているかは,筆舌に尽くしがたいほどです. 

第五の問い :「カトリック教会における LGBTQ の人々のための司牧活動として,次は何をすべきでしょう?」まず,世界レベルにおいては,教会は,LGBTQ の人々が弾圧され,逮捕され,処刑されるのが常態となっている国々に目を向ける必要があります.世界で 70ヶ国において 同性どうしの関係は非合法とされており,6ヶ国においては 同性どうしの関係のために処刑される可能性があります.つまり,それらの国々においては,LGBTQ の問題は 生命にかかわる問題なのです.悲しいことに,カトリック教会の司教たちのなかには,そのような抑圧的な法律を支持している者たちがいます.というわけで,homosexuality を刑事罰の対象とすることをやめさせることは,教会が支持すべき重要な方針です.次に,欧米においては,教会は,homophobia が引き起す いじめや迫害の問題,そして,特に 自殺の問題に,取り組む必要があります.第三に,特にアメリカ国内においては,教会は,カトリック系の学校や施設や団体が同性婚をした職員を解雇することをやめさせねばなりません.というのも,もし「カトリック教会の教えに反する」という理由で人々を解雇するなら,その対象となるのは,同性婚をした人々よりももっと広い範囲の人々[たとえば,離婚後に,婚姻無効宣言なしに再婚した人,妊娠中絶をした人,等々]となるはずだからです.それらの人々まで含めないなら,教会の教えを実行している,と主張することはできません.単に差別しているだけです.しかし,教会が LGBTQ の人々に対して為すべきもっと基本的な — かつ,斬新な — ステップがあります.それは,LGBTQ の人々の言葉に耳を傾けることです. 

わたしが世界中の多数のカトリックの信者,小教区,学校,組織と分かち合うこの司牧活動を支えてくれる人々すべてに,感謝します.どうか,わたしたち皆のために,そして,特に,LGBTQ である友人たちのために,祈り続けてください. 


Father James Martin answers five common questions about LGBT Catholic ministry

Hi I’m father James Martin. I’m a Jesuit priest, editor-at-large at the America Media and the author of “Building a Bridge”. 

In the course of my ministry with LGBT Catholics, both in public lectures and in private conversations, the same questions come up repeatedly. They come up on social media too, though not always in the most charitable of ways. So in the interest of dialog I thought I’d answer the most common ones.

The first question I commonly hear is : “Are you challenging Church teaching on homosexuality ?” The answer is : No. I’ve stated this many times in talks and interviews and even in an article in America called “What is the official church teaching on homosexuality”. I’m not challenging church teaching on same-sex marriage, same-sex relations or anything else for that matter, and if I’ve said, done or written anything that seemed to imply otherwise, that wasn’t my intent. But the Church teaching on LGBT people is a great deal more than just the few lines in the Catechism that deal with homosexuality. At heart the Church teaching is Jesus and his message of love, mercy and compassion. And those teachings I’m also not challenging.

The second question is : “What do you say to LGBT Catholics who don’t feel welcome in the Church ?” Many LGBT Catholics don’t feel welcome in their own church. Recently a woman told me that after she told her pastor that she was gay he said to her : “I’ve prayed my whole priesthood that I would never meet a gay person.” So I understand people who distance themselves from their church. By the same token I remind them that as baptized Catholics they’re as much a part of the Church as the Pope, their local bishop or me. Some may try to push you out of the church, but why let them ? It’s your church too. Try to find a parish though where you feel welcome and root yourself in your baptism.

“Why don’t you talk more about chastity ?” Well, I do talk about chastity in almost every lecture. The topic also comes up often in question-and-answer sessions. And not to put too fine a point on it but I’m also living chastity. I’ve been living my Jesuit vow of chastity for thirty years now. One reason I don’t focus on it though is because every LGBTQ Catholic I’ve ever met, every member of their family and pretty much every Catholic already knows the Church teaching on celibacy and chastity when it comes to homosexuality. There are also many other individuals and groups in the Church who focus on that. I’m simply focusing on other topics : how to invite LGBTQ people to see themselves as loved by God ; how to show respect and welcome to LGBT people in Catholic parishes and schools ; how we can combat the high incidence of suicide among LGBT youth and so on. My own ministry focuses on areas I think other people are overlooking.

Another question : “What did Pope Francis and you discuss during your meeting in September 2019 ?” I was invited by Pope Francis to a private audience in the Apostolic Palace which lasted for 30 minutes. The invitation came after I met the Holy Father earlier in the week during a meeting of the Vatican’s Dicastery for Communication of which I am a consultant. At one point during the audience Pope Francis asked that the details of our conversation not be shared with the media, but he said that I could share those details with individuals and groups. That was so that we could talk freely. But I can say that the Holy Father and I spent the entire time talking about LGBT Catholics and about LGBT people worldwide and that I felt inspired, consoled and most of all encouraged to continue this ministry in peace. It’s hard to express how grateful I am for those 30 minutes.

Finally : “What are the next steps for LGBT ministry in the Catholic Church ?” First, worldwide, the Church needs to look at countries where LGBT people are routinely beaten, arrested and executed. In 70 countries same-sex relations are illegal and in six countries you can be executed for engaging in them. So in these places LGBT issues are life issues. Tragically some Catholic bishops have even supported these repressive laws. Thus the decriminalization of homosexuality is an important measure for the church to support. Next, in the West, the church needs to confront the bullying and persecution and especially the suicides brought on by homophobia. Finally, in the US, the Church must stop firing married LGBT people from their positions in Catholic institutions, because if you’re going to fire people for not following Church teaching that would include a lot more than just married LGBT people. Otherwise it’s not enforcing Church teaching, it’s engaging in discrimination. But a far more basic step for the Church is to do something brand new with LGBT people : listen to them.

Thanks to everyone who has supported this ministry which I share with many Catholic individuals, parishes, schools and organizations across the world. And please keep all of us and especially our LGBT friends in your prayers.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)

酒井陽介神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2020年01月26日

Duccio di Buoninsegna (Siena, ca 1255/1260 - 1318/1319)
Vocazione di Pietro e Andrea (ca 1308-1311)
in the National Gallery of Art, Washington DC



酒井陽介神父様 SJ の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2020年01月26日


第一朗読:イザヤ (08,23b - 09,03)
先に,ゼブルンの地,ナフタリの地は辱めを受けたが,
後には,海沿いの道,ヨルダン川のかなた,
異邦人のガリラヤは,栄光を受ける.
闇の中を歩む民は,大いなる光を見,
死の陰の地に住む者の上に,光が輝いた.
あなたは,深い喜びと 大きな楽しみをお与えになり,
人々は,御前に喜び祝った.
刈り入れのときを祝うように,
戦利品を分け合って楽しむように.
彼らの負う軛,肩を打つ杖,虐げる者の鞭を,
あなたは,ミディアンの日のように 折ってくださった. 

第二朗読:第一コリント書簡 (01,10-13.17)
兄弟たち,わたしたちの主 イェス キリストの名によってあなたがたに勧告します.皆,勝手なことを言わず,仲たがいせず,心をひとつにし,思いをひとつにして,固く結び合いなさい.わたしの兄弟たち,実は あなたがたの間に争いがある と,クロエの家の人たちから知らされました.あなたがたは めいめい,「わたしはパウロにつく」,「わたしはアポロに」,「わたしはケファに」,「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです.キリストは幾つにも分けられてしまったのですか.パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか.あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか.キリストがわたしを遣わされたのは,洗礼を授けるためではなく,福音を告げ知らせるためであり,しかも,キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように,言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです.

福音朗読:マタイ (04,12-23)
イェスは,ヨハネが捕らえられたと聞き,ガリラヤに退かれた.そして,ナザレを離れ,ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた.それは,預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった.
ゼブルンの地とナフタリの地,
湖沿いの道,ヨルダン川のかなたの地,異邦人のガリラヤ,
暗闇に住む民は大きな光を見,
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ. 
そのときから,イェスは,「悔い改めよ.天の国は近づいた」と言って,宣べ伝え始められた. 
イェスは,ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき,二人の兄弟,ペトロと呼ばれるシモンと その兄弟アンデレが,湖で網を打っているのを御覧になった.彼らは漁師だった.イェスは,「わたしについて来なさい.人間をとる漁師にしよう」と言われた.二人は,すぐに網を捨てて従った.そこから進んで,別の二人の兄弟,ゼベダイの子ヤコブと その兄弟ヨハネが,父親のゼベダイと一緒に,舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると,彼らをお呼びになった.この二人もすぐに,舟と父親とを残して イエスに従った.イェスはガリラヤ中を回って,諸会堂で教え,御国の福音を宣べ伝え,また,民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた.


今日 読まれた福音を味わいながら,そして 特に この共同体とともに それを分かち合うことに思いを馳せながら,どんなメッセージを — どんなイェス様の思いを — 分かち合えるかを祈りながら,そして 味わいながら,考えていました.そのときに まず最初に わたしに飛び込んできたイメージ,それは,イザヤのことば — 第一朗読で読まれ,福音書のなかでも言われた このイザヤの言葉 — です: 

ゼブルンの地とナフタリの地,湖沿いの道,ヨルダン川の彼方の地,異邦人のガリラヤ,暗闇に住む民は,大きな光を見,死の影の家に住む者に光が差し込んだ. 

この神のことばが,非常に強く わたしに迫ってきたんです.なぜなら,そこに 皆さんを見たからなのです.そこに わたしたちを見たからなのです.そうした思いのなかで,このことばを味わっていました.どこへ,イェスは向かおうとしているのか?誰に,イェスは「神の国は近づいた」と伝えているのか?そう問うているとき,皆さんのことが思い出されました.わたしたちのこのミサのことが,思い出されました. 

前にも,ミサ後の分かち合いの集いで言ったことですが,今 ここで 同じことを繰り返して言います.わたしがこの共同体のミサを手伝うようになったのは,鈴木伸国神父さんから招かれたからです.「手伝ってくれないか」と彼から言われて,わたしはここに来ました.そのときの鈴木神父の口説き文句が,すごいんです:「もしイェスが今いるとしたら,誰に向かって福音を伝えるだろうか?ここに来ると,そのことがよくわかるよ」.ぼくは,そんな殺し文句を聴いたことがなくて,腰砕けの状態で「うわ~」と思ったんです.そして,「それは見てみたい,それは体験してみたい,味わってみたい」と思いました.そして,神父としてできる分かち合いというミサの形をとおしてそこに加わりたいな — そう思ったのです.そして,何回か こうやって 皆さんと ミサや分かち合いの集いをとおして,あのとき鈴木神父が言っていた言葉は嘘じゃなかった — これを,回を重ねるごとに 強く感じるようになりました. 

もしイェスが今いるとしたら,誰に向かって言うでしょうか:「神の国は近づいたんだよ.大丈夫だよ,心配しなくていいよ」と? 

「悔い改めよ,天の国は近づいた」とイェスが言うとき,「悔い改めよ」は,「新しい地平が開かれたのだから,新しい視点を持とう,新しい地平を見つめよう」ということです.ギリシャ語では μετάνοια[メタノイア:回心]と言います.それは,「方向転換をする,新しい方を向く」という意味です. 

それを聴いた人々は,イェスのことばをこう受け取ったでしょう:そうだ,新しい地平が開かれつつあるんだ;新しい世界が来ているんだ;わたしたちは,新しさに もっともっと目を向けなければいけない;新しいものに,心を開き,手を開き,体を開き,知性を開き,思いを開き,社会を開いて行かねばならない;そして,そこに神の世界が開かれて行くのだ.このメッセージが,イェスをとおして伝えられました. 

そのことと,先ほど紹介した鈴木神父のことばは,わたしのなかで,まったく矛盾することなく,ひとつです. 

イェスは,わたしたちに,新しい世界へ目覚めるよう,新しい視点を育むよう,促しています.

神の思いと神の力が わたしたちとともにあるのだから,恐れる必要はないのだ.もちろん,たくさんの恐れや不安を,わたしたちは抱えながら生きています.だが,神の思いが,そして,神が告げる福音が,このわたしに向かって来ているのだから,こわがる必要はないんだ — わたしたちは,わたしたち自身に,そう言いきかせることができるだろうと思います.

実際,わたしたちは,こうして,主の食卓を囲みながら,主をいただきながら,御ことばを味わいながら,そして,主のからだを受け取りながら,主の祝福を受けながら,力を得て行きます.

そして,神の福音は,ここで止まることはありません.皆さんをとおして,我々をとおして,教会をとおして,人々のところに,あまねく世界に,行きわたる勢いを持ってます.

考えてみてください:皆さんは,その意味において,福音の frontliner[前線に立つ人]なのです.神がどこへ向かっているのか,神の思いがどこに注がれるのか,福音がどうやってわたしたちに迫ってくるのか — それを,皆さんは,神から最初に告げられるのです.それを,皆さんは,このミサのなかで,そして,皆さんの人生のなかで,強く感じることができるはずです.

ですから,恐れることはない.だから,必要以上に不安を持つこともない.

わたしたちは,ひとりひとり,神の子として,福音を 賜物として いただいています.それは,わたしたちににぐっと迫ってきているものです.

では,この力を,わたしたちは,どうやって分かち合っていったらよいのだろうか?

神から福音を告げられた者としてのキリスト者の大切な使命は,今日の第二朗読でパウロが言ってるように,福音を告げ知らせることです.

わたしたちは皆,ひとりひとり,それぞれのバックグラウンドがあり,それぞれの過去があり,それぞれの現在があり,それぞれの立場があります.それぞれの善さがあり,それぞれの難しさがあり,それぞれのチャレンジがあります.しかし,それに限定されることはない.それで,わたしたちが何か定義づけられることはない.なぜなら,わたしたちひとりひとりに,イェスは,福音を 直接 告げてくれているのだから.

その力を以て,わたしたちは,今度は,福音を分かち合い,福音を告げ知らせるという大切な使命を,負っているんです.わたしたちは,それぞれのユニークなあり方で,それぞれの — ほかの人と比べることのできない — わたしなりのあり方で,わたしなりの献げ方で,その使命を果たすしかたを探してゆくのです,見つけてゆくのです,作り上げてゆくのです.そして,福音を,この世界に,この社会に,分かち合ってゆく.

イェスは「天の国は近づいた」という言葉を一番最初にわたしたちに告げているならば,では,わたしたちは,福音の frontliner として,イェスから受けた賜を,どうやって,この世界に,わたしの近しい人々に,共同体に,教会に,この国に,伝えてゆけるんだろうか,分かち合ってゆけるんだろうか?この社会を,この世界を 変える味つけの塩として,わたしたちは,どのような役割を果たしてゆけるのだろうか ? — そこに思いを馳せてもよいのではないか,と思います.ユニークで,わたしなりの,個性あふれたあり方,関わり方を,探してゆきましょう.

ですから,恐れる必要はないんです,不安がる必要はないんです,自信なく生きる必要はないんです.

もちろん,世の中は厳しいところであったりします.社会は,ある人が,自分たちのあり方とは異なっているとか,そぐわない というところに,目を持って行きがちです.しかし,福音を受けたわたしたちは,何を恐れることがあるでしょう.

この自信を,わたしたちは,恐れを感じるからこそ,何度も何度も思い返す必要がある,と思います.わたしたちは,くじけそうになるからこそ,弱いからこそ,疑ってしまうからこそ,不安に陥るからこそ,恐れのなかで小さくなってしまうからこそ,イェスの言葉 :「悔い改めよ,新しい世界が開かれた,新しい眼を持ちなさい,わたしの思いはあなたと共にある,新しい地平に生きるのだ」を 何度も何度も繰り返し わたしたち自身に言い聞かせて行く — きっと,わたしたちは,そうしながら歩んで行くしかない.

この世界に,この社会に,この今という時代に 生を受けた わたしたちは,そのようにイェスの福音を告げ知らせて行く使命 (mission) を受けているのです.

その使命を遂行するためには,時間がかかります.その方途は,簡単には見つかりません.だが,そのために互いに励まし合い,分かち合い,ともに食卓を囲む仲間たちがいるのだ,ということ — それは大きな恵みだ,と思います.

今日の福音の後半部分 (04,18-23) は,任意だったので,読みませんでしたが,そこでは,イェスが実際に弟子たちを ひとりひとり リクルートします.イェスは,彼の思いが向かって行った人々をリクルートします.ラビ,祭司,ファリサイ人,生活が非常に安定している人,知識豊かな人 — そのような人々を,イェスは決して選びません.イェスが声をかけるのは,さまざまななバックグラウンドを持っている人であり,この人にこそ福音を告げたいと思える人,この人なら福音を分かち合ってくれると思える人です.そのような人々ひとりひとりに,イェスは声をかけています.

12 使徒たちは,わたしたちの先達として,福音を告げ知らせることのロールモデルです.

確かに,わたしたちは,不自由さや不完全さを持っています.それを持っているということは,自覚しなければなりません.しかし,どうか,そこに閉じ込められたり,そこに限定づけられたりしないでください.

わたしたちは,イェスから,新しい世界に招かれており,新しい眼をもらっています.わたしという人間も,新しさを以て生きるよう,呼ばれています.それによって,わたしたちは,変わりつつあり,そして,この世界を変えつつあります.

その自信を 少し このミサのなかでいただくことができたらいいな,と思います.

イェスは,きっと,皆さんとともに,皆さんのうちに,いてくださる.

主は皆さんとともに. 

2020-01-02

新年の御挨拶 : LGBTQ みんなのミサ世話役 ルカ小笠原晋也

Theotokos of Vladimir (around 1131), in the Church of St. Nicholas in Tolmachi, Moscow

新年 明けまして おめでとうございます!主の愛が 皆さん おひとり おひとり と ともに ありますように!

元旦のミサの第一朗読,民数記 6,22-27 から,祝福の言葉を引用しましょう:
主が あなたを祝福し そして あなたを守護してくださいますように! 
主が 御顔の輝きを あなたへ向け そして あなたに恵みを与えてくださいますように! 
主が 御顔を あなたへ向け そして あなたに平和を与えてくださいますように!

しかし,元旦も めでたい気分でいることは 全然できません.降誕祭の御挨拶 では,カトリック聖職者による性的虐待の問題に触れました.その後 目にとまった Associated Press の記事 は,教皇庁の教理省のなかでその問題を担当する部門の責任者 Mgr John Kennedy のインタヴューを報じています.彼によると,2019 年一年間で 新たに千件が 世界中から報告されたそうです(新たに性的虐待事件が 千件 起きたのではなく,今まで伏せられてきた過去の事件 千件 の報告を 教理省が受けた ということです).この問題は,まだまだ とどまることろを知りません.今後,膨大な数の損害賠償訴訟も起こされるはずです.

たとえば,大晦日付の Associated Press は,Donald McGuire(1930-2017 ; もとイェズス会司祭 ; saint Teresa of Calcutta との近しい関係を誇示していたことで知られていた ; 2008 年に聖職解任 ; 2006 年に初めて性的虐待のために有罪判決を受け,その後,さらに ほかの性的虐待事件でも有罪判決を受けて,2009 年から 25 年の刑期で 収監されていたが,2017 年に獄中で死去)から 少年時代に 性的虐待を受け続けた ある被害者が,イェズス会などに対する損害賠償請求のために提訴したことを,報じています.Donald McGuire は,その被害者が多数であったこと,彼の問題行動は 1961 年の叙階直後から指摘されていたにもかかわらず,イェズス会は長年にわたり適切な対処を怠ってきたこと,などの理由により,悪名高いケースのひとつです.

Mgr John Kennedy のインタヴュー記事 に戻ると,Benedictus XVI は,加害者を聖職から解任することによって,「もう今後は Vatican は関係ない」という姿勢を取っていましたが,それに対して,Papa Francesco は,加害者を,Vatican の監視下に置き続ける(加害者を「野放し」にしないために — というのも,時効や証拠不十分のために刑事責任が問われ得ない場合,聖職から解任された加害者は,一般社会のなかで性的虐待を繰り返して行く可能性があるからです)ために,安易に司祭職から解任しない方針を取っているそうです.ですから,もしかしたら,性的虐待の責任を問われて司祭職から解任された者の数は,Benedictus XVI の時代の方が Papa Francesco の時代よりも多いということになるかもしれません(まだ数字は確定していません)が,それは,Papa Francesco の対応が甘いということを意味するものではありません.

また,2019 年 12 月 27 日付の Washington Post 紙の記事 は,性的虐待を行ったカトリック聖職者のうちで最も位の高い者のひとり,Theodore McCarrick が,罪の隠蔽のために 総額 60 万ドル以上の賄賂をばらまいていた可能性を,示唆しています.McCarrick からの「寄付」を受け取っていた者たちのなかには,過去の教皇ふたり  Johannes-Paulus II と Benedictus XVI  も含まれています.

カトリック聖職者による性的虐待を防止するためには,カトリック教義から homosexuality 断罪を一掃する必要があること,および,司祭養成過程において「欲望の昇華」の課題に主題的に取り組む必要があること は,今までにも 繰り返し 指摘してきました(特に『LGBTQ+ と カトリック教義』を参照).

このブログ記事では,性的虐待の問題は ここまでにして,次に,降誕祭メッセージ で取り上げることのできなかった〈カトリック教会における〉女性差別の問題 — 特に,女性の司祭職からの排除の問題 — に 簡単に 触れたいと思います(より詳しい検討は 別稿で).

この問題について しばしば引用されるのは,Johannes-Paulus II の 1994 年 5 月 22 日付の 使徒書簡 Ordinatio sacerdotalis の結論です:
Ut igitur omne dubium auferatur circa rem magni momenti, quae ad ipsam Ecclesiae divinam constitutionem pertinet, virtute ministerii Nostri confirmandi fratres (Luc. 22, 32), declaramus Ecclesiam facultatem nullatenus habere ordinationem sacerdotalem mulieribus conferendi, hancque sententiam ab omnibus Ecclesiae fidelibus esse definitive tenendam. 
Pertanto, al fine di togliere ogni dubbio su di una questione di grande importanza, che attiene alla stessa divina costituzione della Chiesa, in virtù del mio ministero di confermare i fratelli (Lc 22, 32), dichiaro che la Chiesa non ha in alcun modo la facoltà di conferire alle donne l'ordinazione sacerdotale e che questa sentenza deve essere tenuta in modo definitivo da tutti i fedeli della Chiesa. 
C'est pourquoi, afin qu'il ne subsiste aucun doute sur une question de grande importance qui concerne la constitution divine elle-même de l'Église, je déclare, en vertu de ma mission de confirmer mes frères (cf. Lc 22,32), que l'Église n'a en aucune manière le pouvoir de conférer l'ordination sacerdotale à des femmes et que cette position doit être définitivement tenue par tous les fidèles de l'Église. 
それゆえ,神によって定められた〈教会の〉あり方そのものにかかわる ひとつの たいへん重要な 問い について あらゆる疑いを除去するために,わたしは,兄弟たちを[その信仰において]確固たるものにする わたしの使命(ルカ 22,32)の名において,こう宣言する:教会は,如何とも,女性に司祭叙階を授ける権限 [ facultas, facoltà, pouvoir ] を有してはいない.かつ,わたしは こう宣言する:この見解を,教会の全信者は 決然と 取るべきである.

Papa Francesco も,2013 年 7 月 28 日 の Rio de Janeiro からの帰途の機上記者会見のなかで,この Johannes-Paulus II の言葉に準拠しつつ,「女性の司祭叙階への扉は閉ざされている」と述べており,その後も,その見解を維持しています.

1994 年の使徒書簡 Ordinatio sacerdotalis において,Johannes-Paulus II 自身は,Paulus VI が 1975 年に Church of England の Canterbury 大司教に 宛てた書簡 と 教理省の 1976 年の声明 Inter insigniores とに 準拠していますが,そちらの内容に立ち入るのは 別の機会にしたいと思います.

ともあれ,Johannes-Paulus II の言葉 :「カトリック教会は,女性に司祭叙階を授ける権限を有してはいない」を見ると,我々は すぐに気づきます:たとえ教会にはできないとしても,神にはできる — そも,「それは 人間には 不可能だが,神には あらゆることが 可能である」(Mt 19,26). そして,たとえ教皇が女性司祭叙階不可の見解を決定的なものとして我々に押しつけるとしても,「そも,誰が 主の考えを 知ったか?」(Rm 11,34). であればこそ,Reinhard Marx 枢機卿 も こう言っています :「カトリック教会は 教皇が断言したことに配慮しないわけには行きませんが,しかし,女性司祭叙階に関する議論に 決着がついたわけではありません」.

女性司祭叙階の可否の問題を カトリック教義との関連において ふりかえってみると,それは Magisterium Ecclesiae[教会の教導権]の問題と密接に関連していることが わかります.

ここでは,詳細に立ち入ることは控えて,要点だけ述べましょう.Lex Naturalis[自然法]とともに,カトリック教義に含まれる「形而上学的偶像崇拝」(l'idolâtrie métaphysique) を成す Magisterium Ecclesiae は,要するに,神を,司教たちの véridicité[真言性:真理を言っている ということ]を a priori に[先験的に]保証するものとして利用することに存します.そして,そのような保証は 男にのみ妥当します — なぜなら,女には「それ」が 欠けているから.

女には 何が欠けているか ? 突然,精神分析の用語を持ち出してくることを お許しください:女には phallus が欠けている(phallus は,身体器官としての penis のことではありません).そして,その phallus と,真言性の保証としての神 — Pascal が「哲学者たちと神学者たちの神」(le Dieu des philosophes et des savants) と呼んだ「形而上学的な偶像神」(l'idole métaphysique) — とは,同じひとつのものですです.

我々は「女には phallus が欠けている」を自明のことと思い込んでいます.それに対して,フランスの精神分析家 Jacques Lacan (1901-1981) は こう言っています :「女には 何も欠けていない,女は 何も欠いていない」(la femme ne manque de rien). つまり,女における「phallus の欠如の穴」と見なされている穴は,「本来あるべき phallus が欠落しているがゆえに開いた穴」ではなく,しかして,「穴が開いている」ということが本来的である.むしろ,男において その穴が phallus によって塞がれている という事態の方が,非本来的である.穴塞ぎの phallus は,単なる「まがいもの」にすぎない — Pascal が「哲学者たちと神学者たちの神」と呼んだ「形而上学的な偶像神」と同様に.

ひとことで言えば,「女性は 司祭に叙階され得ない」という カトリック教会の伝統的な見解の理由は,このことです:女性は 神の啓示の真言的な証人ではあり得ない — なぜなら,女性には,真言性の a priori な保証としての phallus が欠けているから.

しかし,その見解は,実は,カトリック教会の伝統そのものによって,否定されています : Maria Magdalena を Apostolorum Apostola[使徒たちの使徒]と呼ぶ伝統によって.彼女の証言 — Jesus が 死から 永遠の命へ 復活した ことの証言 — こそが,キリスト教の最も根本的な基礎です.使徒たちは,彼女の証言を 真なるものとして 信じました.そこに,カトリック教会の歴史は始まります.

今年,わたしたちは,この矛盾を指摘することから出発して,カトリック教会における女性差別の問題についても 問い直して行きたい と思います — 引き続き,LGBTQ+ カトリック信者はカトリック教会のなかで如何に生き得るか について問うとともに.

最後に,いかなる差別の正当化をも許さないパウロ書簡の有名な一節を,引用しておきましょう (Ga 3,26-28) :
そも,あなたたちは皆,信仰によって,Christus Jesus において 神の子である.そも,Christus のなかへ浸されたあなたたちは皆,Christus を身にまとったのだ.もはや,ユダヤ人もギリシャ人も無く,奴隷も自由人も無く,男も女も無い.そも,あなたたちは皆,Christus Jesus において一者である.

2020 年が 皆さんにとって 幸多き年でありますように!

ルカ小笠原晋也