Duccio di Buoninsegna (Siena, ca 1255/1260 - 1318/1319)
Vocazione di Pietro e Andrea (ca 1308-1311)
in the National Gallery of Art, Washington DC
酒井陽介神父様 SJ の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2020年01月26日
第一朗読:イザヤ (08,23b - 09,03)
先に,ゼブルンの地,ナフタリの地は辱めを受けたが,
後には,海沿いの道,ヨルダン川のかなた,
異邦人のガリラヤは,栄光を受ける.
闇の中を歩む民は,大いなる光を見,
死の陰の地に住む者の上に,光が輝いた.
あなたは,深い喜びと 大きな楽しみをお与えになり,
人々は,御前に喜び祝った.
刈り入れのときを祝うように,
戦利品を分け合って楽しむように.
彼らの負う軛,肩を打つ杖,虐げる者の鞭を,
あなたは,ミディアンの日のように 折ってくださった.
第二朗読:第一コリント書簡 (01,10-13.17)
兄弟たち,わたしたちの主 イェス キリストの名によってあなたがたに勧告します.皆,勝手なことを言わず,仲たがいせず,心をひとつにし,思いをひとつにして,固く結び合いなさい.わたしの兄弟たち,実は あなたがたの間に争いがある と,クロエの家の人たちから知らされました.あなたがたは めいめい,「わたしはパウロにつく」,「わたしはアポロに」,「わたしはケファに」,「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです.キリストは幾つにも分けられてしまったのですか.パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか.あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか.キリストがわたしを遣わされたのは,洗礼を授けるためではなく,福音を告げ知らせるためであり,しかも,キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように,言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです.
福音朗読:マタイ (04,12-23)
イェスは,ヨハネが捕らえられたと聞き,ガリラヤに退かれた.そして,ナザレを離れ,ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた.それは,預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった.
ゼブルンの地とナフタリの地,
湖沿いの道,ヨルダン川のかなたの地,異邦人のガリラヤ,
暗闇に住む民は大きな光を見,
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ.
そのときから,イェスは,「悔い改めよ.天の国は近づいた」と言って,宣べ伝え始められた.
イェスは,ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき,二人の兄弟,ペトロと呼ばれるシモンと その兄弟アンデレが,湖で網を打っているのを御覧になった.彼らは漁師だった.イェスは,「わたしについて来なさい.人間をとる漁師にしよう」と言われた.二人は,すぐに網を捨てて従った.そこから進んで,別の二人の兄弟,ゼベダイの子ヤコブと その兄弟ヨハネが,父親のゼベダイと一緒に,舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると,彼らをお呼びになった.この二人もすぐに,舟と父親とを残して イエスに従った.イェスはガリラヤ中を回って,諸会堂で教え,御国の福音を宣べ伝え,また,民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた.
今日 読まれた福音を味わいながら,そして 特に この共同体とともに それを分かち合うことに思いを馳せながら,どんなメッセージを — どんなイェス様の思いを — 分かち合えるかを祈りながら,そして 味わいながら,考えていました.そのときに まず最初に わたしに飛び込んできたイメージ,それは,イザヤのことば — 第一朗読で読まれ,福音書のなかでも言われた このイザヤの言葉 — です:
ゼブルンの地とナフタリの地,湖沿いの道,ヨルダン川の彼方の地,異邦人のガリラヤ,暗闇に住む民は,大きな光を見,死の影の家に住む者に光が差し込んだ.
この神のことばが,非常に強く わたしに迫ってきたんです.なぜなら,そこに 皆さんを見たからなのです.そこに わたしたちを見たからなのです.そうした思いのなかで,このことばを味わっていました.どこへ,イェスは向かおうとしているのか?誰に,イェスは「神の国は近づいた」と伝えているのか?そう問うているとき,皆さんのことが思い出されました.わたしたちのこのミサのことが,思い出されました.
前にも,ミサ後の分かち合いの集いで言ったことですが,今 ここで 同じことを繰り返して言います.わたしがこの共同体のミサを手伝うようになったのは,鈴木伸国神父さんから招かれたからです.「手伝ってくれないか」と彼から言われて,わたしはここに来ました.そのときの鈴木神父の口説き文句が,すごいんです:「もしイェスが今いるとしたら,誰に向かって福音を伝えるだろうか?ここに来ると,そのことがよくわかるよ」.ぼくは,そんな殺し文句を聴いたことがなくて,腰砕けの状態で「うわ~」と思ったんです.そして,「それは見てみたい,それは体験してみたい,味わってみたい」と思いました.そして,神父としてできる分かち合いというミサの形をとおしてそこに加わりたいな — そう思ったのです.そして,何回か こうやって 皆さんと ミサや分かち合いの集いをとおして,あのとき鈴木神父が言っていた言葉は嘘じゃなかった — これを,回を重ねるごとに 強く感じるようになりました.
もしイェスが今いるとしたら,誰に向かって言うでしょうか:「神の国は近づいたんだよ.大丈夫だよ,心配しなくていいよ」と?
「悔い改めよ,天の国は近づいた」とイェスが言うとき,「悔い改めよ」は,「新しい地平が開かれたのだから,新しい視点を持とう,新しい地平を見つめよう」ということです.ギリシャ語では μετάνοια[メタノイア:回心]と言います.それは,「方向転換をする,新しい方を向く」という意味です.
それを聴いた人々は,イェスのことばをこう受け取ったでしょう:そうだ,新しい地平が開かれつつあるんだ;新しい世界が来ているんだ;わたしたちは,新しさに もっともっと目を向けなければいけない;新しいものに,心を開き,手を開き,体を開き,知性を開き,思いを開き,社会を開いて行かねばならない;そして,そこに神の世界が開かれて行くのだ.このメッセージが,イェスをとおして伝えられました.
そのことと,先ほど紹介した鈴木神父のことばは,わたしのなかで,まったく矛盾することなく,ひとつです.
イェスは,わたしたちに,新しい世界へ目覚めるよう,新しい視点を育むよう,促しています.
神の思いと神の力が わたしたちとともにあるのだから,恐れる必要はないのだ.もちろん,たくさんの恐れや不安を,わたしたちは抱えながら生きています.だが,神の思いが,そして,神が告げる福音が,このわたしに向かって来ているのだから,こわがる必要はないんだ — わたしたちは,わたしたち自身に,そう言いきかせることができるだろうと思います.
実際,わたしたちは,こうして,主の食卓を囲みながら,主をいただきながら,御ことばを味わいながら,そして,主のからだを受け取りながら,主の祝福を受けながら,力を得て行きます.
そして,神の福音は,ここで止まることはありません.皆さんをとおして,我々をとおして,教会をとおして,人々のところに,あまねく世界に,行きわたる勢いを持ってます.
考えてみてください:皆さんは,その意味において,福音の frontliner[前線に立つ人]なのです.神がどこへ向かっているのか,神の思いがどこに注がれるのか,福音がどうやってわたしたちに迫ってくるのか — それを,皆さんは,神から最初に告げられるのです.それを,皆さんは,このミサのなかで,そして,皆さんの人生のなかで,強く感じることができるはずです.
ですから,恐れることはない.だから,必要以上に不安を持つこともない.
わたしたちは,ひとりひとり,神の子として,福音を 賜物として いただいています.それは,わたしたちににぐっと迫ってきているものです.
では,この力を,わたしたちは,どうやって分かち合っていったらよいのだろうか?
神から福音を告げられた者としてのキリスト者の大切な使命は,今日の第二朗読でパウロが言ってるように,福音を告げ知らせることです.
わたしたちは皆,ひとりひとり,それぞれのバックグラウンドがあり,それぞれの過去があり,それぞれの現在があり,それぞれの立場があります.それぞれの善さがあり,それぞれの難しさがあり,それぞれのチャレンジがあります.しかし,それに限定されることはない.それで,わたしたちが何か定義づけられることはない.なぜなら,わたしたちひとりひとりに,イェスは,福音を 直接 告げてくれているのだから.
その力を以て,わたしたちは,今度は,福音を分かち合い,福音を告げ知らせるという大切な使命を,負っているんです.わたしたちは,それぞれのユニークなあり方で,それぞれの — ほかの人と比べることのできない — わたしなりのあり方で,わたしなりの献げ方で,その使命を果たすしかたを探してゆくのです,見つけてゆくのです,作り上げてゆくのです.そして,福音を,この世界に,この社会に,分かち合ってゆく.
イェスは「天の国は近づいた」という言葉を一番最初にわたしたちに告げているならば,では,わたしたちは,福音の frontliner として,イェスから受けた賜を,どうやって,この世界に,わたしの近しい人々に,共同体に,教会に,この国に,伝えてゆけるんだろうか,分かち合ってゆけるんだろうか?この社会を,この世界を 変える味つけの塩として,わたしたちは,どのような役割を果たしてゆけるのだろうか ? — そこに思いを馳せてもよいのではないか,と思います.ユニークで,わたしなりの,個性あふれたあり方,関わり方を,探してゆきましょう.
ですから,恐れる必要はないんです,不安がる必要はないんです,自信なく生きる必要はないんです.
もちろん,世の中は厳しいところであったりします.社会は,ある人が,自分たちのあり方とは異なっているとか,そぐわない というところに,目を持って行きがちです.しかし,福音を受けたわたしたちは,何を恐れることがあるでしょう.
この自信を,わたしたちは,恐れを感じるからこそ,何度も何度も思い返す必要がある,と思います.わたしたちは,くじけそうになるからこそ,弱いからこそ,疑ってしまうからこそ,不安に陥るからこそ,恐れのなかで小さくなってしまうからこそ,イェスの言葉 :「悔い改めよ,新しい世界が開かれた,新しい眼を持ちなさい,わたしの思いはあなたと共にある,新しい地平に生きるのだ」を 何度も何度も繰り返し わたしたち自身に言い聞かせて行く — きっと,わたしたちは,そうしながら歩んで行くしかない.
この世界に,この社会に,この今という時代に 生を受けた わたしたちは,そのようにイェスの福音を告げ知らせて行く使命 (mission) を受けているのです.
その使命を遂行するためには,時間がかかります.その方途は,簡単には見つかりません.だが,そのために互いに励まし合い,分かち合い,ともに食卓を囲む仲間たちがいるのだ,ということ — それは大きな恵みだ,と思います.
今日の福音の後半部分 (04,18-23) は,任意だったので,読みませんでしたが,そこでは,イェスが実際に弟子たちを ひとりひとり リクルートします.イェスは,彼の思いが向かって行った人々をリクルートします.ラビ,祭司,ファリサイ人,生活が非常に安定している人,知識豊かな人 — そのような人々を,イェスは決して選びません.イェスが声をかけるのは,さまざまななバックグラウンドを持っている人であり,この人にこそ福音を告げたいと思える人,この人なら福音を分かち合ってくれると思える人です.そのような人々ひとりひとりに,イェスは声をかけています.
12 使徒たちは,わたしたちの先達として,福音を告げ知らせることのロールモデルです.
確かに,わたしたちは,不自由さや不完全さを持っています.それを持っているということは,自覚しなければなりません.しかし,どうか,そこに閉じ込められたり,そこに限定づけられたりしないでください.
わたしたちは,イェスから,新しい世界に招かれており,新しい眼をもらっています.わたしという人間も,新しさを以て生きるよう,呼ばれています.それによって,わたしたちは,変わりつつあり,そして,この世界を変えつつあります.
その自信を 少し このミサのなかでいただくことができたらいいな,と思います.
イェスは,きっと,皆さんとともに,皆さんのうちに,いてくださる.
主は皆さんとともに.