Carl Bloch (1834-1890), Sermon on the Mount (1877)
in the Museum of National History, Hillerød, Denmark
2020年02月23日(A 年,年間 第 7 主日)
第一朗読:レヴィ記 19,01-02.17-18
主は,モーセに仰せになった :「イスラエルの息子たちの共同体全体に告げて,こう言いなさい:聖なるものでありなさい,なぜなら,あなたたちの神,主であるわたしは,聖なるものであるから.(...) あなたの兄弟に対して憎しみの考えを持ってはならない.が,あなたの同胞を率直に戒めなさい,彼に対して罪を負うことにならないために.復讐してはならない.あなたの民の息子たちに対して恨みを抱いてはならない.そのように,あなたの隣人を あなた自身として 愛しなさい.わたしは 主である」.
第二朗読:第一コリント書簡 3,16-23
あなたたちは神の神殿であり,神の息吹があなたたちのうちに住んでいる,ということを,あなたたちは知らないのか?もし誰かが神の神殿を壊すなら,神はその者を滅ぼすだろう.なぜなら,神の神殿は聖なるものであるから.そして,その神殿とは,あなたたちのことである.誰も思い違いをしないように:もし あなたたちのなかに 自身を 世で言うところの「賢者」と思っている者がいるなら,その者は 愚者となりなさい — 賢者であるために.そも,この世の賢さは,神の前では愚かさである.実際,こう書かれてある :「神は,賢者たちを 彼ら自身の奸計において 捕らえる」; さらに :「主は,賢者たちの考えを 知っている.主は,賢者たちの考えが虚しいことを 知っている」.かくして,誰も,人間によって誇りを持つことのないように.そも,すべては あなたたちのものである.パウロも,アポロも,ケファも,世界も,生も,死も,現在も,将来も,すべては あなたたちのものである.だが,あなたたちは キリストのものである.そして,キリストは 神のものである.
福音朗読:マタイ 5,38-48
あなたたちも知っているように,こう言われている :「目には目を,歯には歯を」.して,わたしは あなたたちに言う:悪人に対しては 抵抗するな.逆に,あなたの右頬を打つ者に対しては,あなたの左頬をも向けなさい.あなたの下着を取るために あなたを裁判官の前に連れて行こうとする者に対しては,あなたの上着をも取らせなさい.あなたに 千歩 行くことを強いる者に対しては,その者とともに 二千歩 行きなさい.あなたに求める者に対しては,与えなさい.あなたから借りようとする者に対しては,背を向けてはならない.あなたたちも知っているように,こう言われている :「あなたの隣人を愛しなさい,そして,あなたの敵を憎みなさい」.して,わたしは あなたたちに言う:あなたたちの敵を愛しなさい,そして,あなたたちを迫害する者たちのために祈りなさい — まことに,あなたたちの〈天にいる〉父の息子であるために.そも,父は,悪人のうえにも 善人のうえにも 太陽を昇らせ,義なる人のうえにも 義ならざる人のうえにも 雨を降らせる.そも,もし あなたたちが あなたたちを愛する人々を愛するとしても,それに対して あなたたちは 如何なる報いを得るだろうか?徴税人たちでさえ,同様にするではないか?もし あなたたちが あなたたちの兄弟にのみ挨拶するなら,あなたたちは 何かすばらしいことをしているのか?異邦人たちでさえ,同様にするではないか?ゆえに,あなたたちは まったきものになりなさい — あなたたちの〈天の〉父が まったきものであるように.
鈴木伸国 神父様 SJ の説教
イエスの話しは大抵、日常の情景を想像すればピンとくるものが多いのですが,わたしは これまでの人生の中で「右の頬を打たれたら,左の頬をも出す」ような人を まだ見たことがありません.そもそも,下着を取ろうとする人を見たこともないし,上着を取ろうとする人を見たこともありません.「誰かが 1 ミリオン行くように強いるなら,いっしょに 2 ミリオン行きなさい」— これもピンと来ません.それに比べれば,「右の頬を打たれたら,左の頬をも出しなさい」は,まだわかりやすいのですが、聞いたことさえありません.
それと比べれば「あなたから借りようとする者に 背を向けてはならない」は分かるような気がします.昔の日本の村社会なら「情けは人のためならず」とも言いますし,そのころは 皆が各人の生活事情を知っていましたから,頼まれたら嫌とは言いにくかったでしょう.
でも,今の世の中では「困っているので 助けてください」と言っている人が本当に困っているのかどうか,わからないような気がします.これをあげたら,わたしが損をする.これを許したら — たとえば この債権を帳消しにしたら,わたしは債権を失うことになる.借りと貸し,面子と面子 — そういう世界になってるような気がします.
さて,今日の福音のなかで,わたしが(いい意味での)チャレンジを感じたのは「あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい」という言葉です.
チャレンジになる。それは,わたしにとって「呼びかけを感じる」ということです。
「完全になりなさい」、「天の父のような寛大さをもちなさい」.もし この言葉を まっすぐに受けいれることのできる人がいれば,受けいれてほしいと思います.その人は,もう説教を聴く必要もないでしょう.自分を迫害する者のために祈り,自分の敵を愛することができる — そのように完全な人は,教会に来る必要すらないかもしれません.
主は,モーセに仰せになった :「イスラエルの息子たちの共同体全体に告げて,こう言いなさい:聖なるものでありなさい,なぜなら,あなたたちの神,主であるわたしは,聖なるものであるから.(...) あなたの兄弟に対して憎しみの考えを持ってはならない.が,あなたの同胞を率直に戒めなさい,彼に対して罪を負うことにならないために.復讐してはならない.あなたの民の息子たちに対して恨みを抱いてはならない.そのように,あなたの隣人を あなた自身として 愛しなさい.わたしは 主である」.
第二朗読:第一コリント書簡 3,16-23
あなたたちは神の神殿であり,神の息吹があなたたちのうちに住んでいる,ということを,あなたたちは知らないのか?もし誰かが神の神殿を壊すなら,神はその者を滅ぼすだろう.なぜなら,神の神殿は聖なるものであるから.そして,その神殿とは,あなたたちのことである.誰も思い違いをしないように:もし あなたたちのなかに 自身を 世で言うところの「賢者」と思っている者がいるなら,その者は 愚者となりなさい — 賢者であるために.そも,この世の賢さは,神の前では愚かさである.実際,こう書かれてある :「神は,賢者たちを 彼ら自身の奸計において 捕らえる」; さらに :「主は,賢者たちの考えを 知っている.主は,賢者たちの考えが虚しいことを 知っている」.かくして,誰も,人間によって誇りを持つことのないように.そも,すべては あなたたちのものである.パウロも,アポロも,ケファも,世界も,生も,死も,現在も,将来も,すべては あなたたちのものである.だが,あなたたちは キリストのものである.そして,キリストは 神のものである.
福音朗読:マタイ 5,38-48
あなたたちも知っているように,こう言われている :「目には目を,歯には歯を」.して,わたしは あなたたちに言う:悪人に対しては 抵抗するな.逆に,あなたの右頬を打つ者に対しては,あなたの左頬をも向けなさい.あなたの下着を取るために あなたを裁判官の前に連れて行こうとする者に対しては,あなたの上着をも取らせなさい.あなたに 千歩 行くことを強いる者に対しては,その者とともに 二千歩 行きなさい.あなたに求める者に対しては,与えなさい.あなたから借りようとする者に対しては,背を向けてはならない.あなたたちも知っているように,こう言われている :「あなたの隣人を愛しなさい,そして,あなたの敵を憎みなさい」.して,わたしは あなたたちに言う:あなたたちの敵を愛しなさい,そして,あなたたちを迫害する者たちのために祈りなさい — まことに,あなたたちの〈天にいる〉父の息子であるために.そも,父は,悪人のうえにも 善人のうえにも 太陽を昇らせ,義なる人のうえにも 義ならざる人のうえにも 雨を降らせる.そも,もし あなたたちが あなたたちを愛する人々を愛するとしても,それに対して あなたたちは 如何なる報いを得るだろうか?徴税人たちでさえ,同様にするではないか?もし あなたたちが あなたたちの兄弟にのみ挨拶するなら,あなたたちは 何かすばらしいことをしているのか?異邦人たちでさえ,同様にするではないか?ゆえに,あなたたちは まったきものになりなさい — あなたたちの〈天の〉父が まったきものであるように.
鈴木伸国 神父様 SJ の説教
イエスの話しは大抵、日常の情景を想像すればピンとくるものが多いのですが,わたしは これまでの人生の中で「右の頬を打たれたら,左の頬をも出す」ような人を まだ見たことがありません.そもそも,下着を取ろうとする人を見たこともないし,上着を取ろうとする人を見たこともありません.「誰かが 1 ミリオン行くように強いるなら,いっしょに 2 ミリオン行きなさい」— これもピンと来ません.それに比べれば,「右の頬を打たれたら,左の頬をも出しなさい」は,まだわかりやすいのですが、聞いたことさえありません.
それと比べれば「あなたから借りようとする者に 背を向けてはならない」は分かるような気がします.昔の日本の村社会なら「情けは人のためならず」とも言いますし,そのころは 皆が各人の生活事情を知っていましたから,頼まれたら嫌とは言いにくかったでしょう.
でも,今の世の中では「困っているので 助けてください」と言っている人が本当に困っているのかどうか,わからないような気がします.これをあげたら,わたしが損をする.これを許したら — たとえば この債権を帳消しにしたら,わたしは債権を失うことになる.借りと貸し,面子と面子 — そういう世界になってるような気がします.
さて,今日の福音のなかで,わたしが(いい意味での)チャレンジを感じたのは「あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい」という言葉です.
チャレンジになる。それは,わたしにとって「呼びかけを感じる」ということです。
「完全になりなさい」、「天の父のような寛大さをもちなさい」.もし この言葉を まっすぐに受けいれることのできる人がいれば,受けいれてほしいと思います.その人は,もう説教を聴く必要もないでしょう.自分を迫害する者のために祈り,自分の敵を愛することができる — そのように完全な人は,教会に来る必要すらないかもしれません.
でも「完全さ」への呼かけには 注意が必要だと感じます。私にとって このチャレンジの助けになってくれたのは,「父は,悪人にも善人にも太陽を昇らせ,正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」という言葉でした.この言葉を読むとき,「自分を迫害した人,自分が憎んでいる人にも,心から優しくしなければいけない」という諭しとして受け取るときもあります。でも,今回 感じたのは、「少しぐらいの憎しみや、妬みなんかには負けないくらいに あたたかく輝くようなお父さん」のようなイメージでした。
わたしは 最近,子どもの保育をしている人たちや,お年寄りの介護をする人たちとの付き合いが多いのですが、子供が急に叩いてきたり,急に「先生なんか死んじゃえ!」というくらい厳しい言葉が飛び交うこともあるようです。おじいちゃんやおばあちゃんでも,たいへんです,急に しかりつけたり、命令したり、殴ってきたり... そんなとき,カッとなる人もいます.それは それで いいんです.でも,カッとならない人もいます.急に殴られたときにとっさに、自分のことより,叱ったり殴ったりしてきた相手の方に心が向いて、「どうしたんですか?」と問い返す人がいます。第一声で,「何か痛かったんですか?」と聞き返せる人たちもいます。
何かがあったとき,自分の受けた痛みに — そして,痛みをとおして 心に与えられた傷に — 心が向いてしまえば,人に優しくすることは はじめからできないでしょう.人のこころは傷には敏感です。恐れのあるところには 愛の生まれる場がありません。
もちろん,決して手放すことのできない憎しみや怒りを抱えている人もいます.毎晩毎晩,子どものころにされたことを悪夢に見る,朝起きるたびに怒りがこみ上げてくる。そんな人もいます。そんな人に,「その憎しみを手放して、その人を愛せ」と命ずるとしたら、それは「こころを殺してしまいなさい」というのに近いかもしれません。そして,それを 神さまは「命じ」はしないと思います。
でも,よく考えて欲しいのは,パチンと叩かれたときに,「どうしたの?」と声をかけることのできる自分,「何すんのよ!」と応える自分と,どちらでも選べるとしたら,「まず 人に憎しみを向ける人になりたい」と(もし本当に幸せになりたいと願えるとすれば)思う人は いるでしょうか。
そんなことを考えると,「悪人にも善人にも太陽を昇らせ,正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる」という神の姿は いいものだなあ,と感じたわけです.
「あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい」.
この「完全な」(τέλειος) という語を、自分の感情を支配できるほどの「完全さ」、あるいは人間的な弱さを超越した「強さ」と理解すると,この呼びかけは,わたしには、できっこないこと命じる叱責にしか聞こえてきません。かえって,これを,たとえば「とても幸せな」とか「とても満ち足りた」と理解すれば、痛みや妬み、さみしさや苛立ちに揺さぶられることなく、人を気づかえる自分に満足し、周りの人を愛することを自分の喜びとし受け入れているような、とても大きな愛をもった、ちょっと憧れてしまいそうな お父さん、あるいは お母さんの姿が 思い浮かびます。ですから,先の言葉は、そんな風に とても大きなほほえみを浮かべてながら話しかけてくれる お父さん、お母さんからの語りかけのように感じるのです。たとえば,「天の父が満ち足りているように,あなたがたも,もしできるなら,満ち足りた者になりなさい」と.
この「完全な」(τέλειος) という語を、自分の感情を支配できるほどの「完全さ」、あるいは人間的な弱さを超越した「強さ」と理解すると,この呼びかけは,わたしには、できっこないこと命じる叱責にしか聞こえてきません。かえって,これを,たとえば「とても幸せな」とか「とても満ち足りた」と理解すれば、痛みや妬み、さみしさや苛立ちに揺さぶられることなく、人を気づかえる自分に満足し、周りの人を愛することを自分の喜びとし受け入れているような、とても大きな愛をもった、ちょっと憧れてしまいそうな お父さん、あるいは お母さんの姿が 思い浮かびます。ですから,先の言葉は、そんな風に とても大きなほほえみを浮かべてながら話しかけてくれる お父さん、お母さんからの語りかけのように感じるのです。たとえば,「天の父が満ち足りているように,あなたがたも,もしできるなら,満ち足りた者になりなさい」と.
右の頬を叩かれたとき,喜んで自分の左の頬を出しながら,「どうしたの?」ときいてあげられる人になれればいいなあ,と思いました.