Caravaggio (1571-1610), Maria Maddalena in estasi (1606), collezione privata
LGBTQ+ カトリック信者の信仰共同体の復活祭メッセージ
COVID-19 の全世界的流行下,公開ミサ中止の措置の継続中,予定されていた わたしたちの LGBTQ+ みんなのミサ も,3月以降,残念ながら 中止されています.ただ,わたしたちのうち幾人かは,毎 主日,東京カテドラルのミサにオンラインで与ったあと,インターネットを介した集いで,祈りと思いを分かち合っています.
今回,復活祭のメッセージとして,幾人かの方が寄稿してくれました.主の御復活の喜びを,COVID-19 の全世界的流行がもたらした不安と苦痛とともに,分かち合いましょう.
葉山由佳フランシス
復活祭 おめでとうございます。
今年は 新型コロナウイルスの影響で 教会に集い、みなさんと一緒に復活祭をお祝いできないのが残念です。
さて、私は 落語が好きで、その中でも 人情噺が特に好きです。一番好きな演目は『文七元結』(ぶんしちもっとい)* という噺です。
ここで筋を話す野暮は よしておきましょう。有名な噺なので 皆さんも御存知かもしれません。勘三郎で歌舞伎にもなりました。
この噺のいいところは、見ず知らずの若者の命を助けるため、郭に身を売ったたった一人の娘を犠牲にすることです。ここだけ聴けば 鬼のような親に思えますが、そこには父親の苦渋の決断があります。
これはキリスト教が説く「隣人を愛しなさい」に通じるものがあると思います。
「情けは人の為ならず」という日本の美しいことわざがあります。私は キリスト者としてこの精神を忘れずに生きていたいと思います。
今は信仰が試されている時だと思います。負けないように助け合いましょう。
来年の復活祭は みなさんと共にお祝いが出来ますように。
* 志ん朝 :『文七元結』
* シネマ歌舞伎『人情噺 文七元結』予告編
はじめまして。深井武志といいます。50代のゲイのカトリック信者で、洗礼名は フランチェスコです。皆さんとともに主のご復活をお祝いできることが 嬉しいです。
今 感じていることを書きます。
今 僕たちが直面している この危機的状況が 長引くことは、覚悟した方がいいと思う。今 確実に言えることは、これまでの世界は過ぎ去りつつあるということだけだ。
この危機の向こうにある世界を、今よりさらに良いものにするのか、それとも、自民族中心主義に毒された不健全なナショナリズムや、全体主義が蔓延するディストピアにするのか。
神様は それを 僕たちの選択に委ねておられる。
全体主義的な社会は、僕たちセクシャルマイノリティにとって、とても住みにくいものになるだろう。
「ウィルスとの戦い」— 愚かで危険な言葉だ。敵などいない。戦う必要なんかない。ただ、助け合えばいい。それだけだ。
誤解のないように、言っておきたい。
外出を控え、人との接触を避けることも、立派な助け合いだ。
医療関係者や、僕たちの生活を支えるために働き続けてくれている人たちは、仕事を通してこの助け合いに参加している。
彼らに感謝し、彼らのために祈ろう。
仕事を失った人達や、収入が減って、経済的な不安を抱えている人達がたくさんいる。政府が彼らのために必要な対策を講じないのなら、彼らとともに声をあげることも、助け合うことだ。インターネットを使えば、オンライン署名に協力できる。
誰でも 何かできることがある。
神様が造られたものに、悪しきものや無駄なものはない。このウィルスだって例外ではないはずだ。
これまで僕たちは、自滅への道を歩んでいた。分かち合おうとはせず、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる。資源を無駄遣いし、環境を破壊し、他の生き物たちを絶滅へと追いやり...
もしかしたら、神様は このウィルスを遣わして、僕たちの自滅への歩みを止めてくれたのかもしれない。
もしそうであるなら、ここから先は、僕たちの選択に委ねられている。
僕は皆さんとともに、この試練の向こうに、よりよい未来を切り開いていきたい。
そのために、日々祈り、自分自身を見つめ、神様に助けられながら、自分にできることをしていきたいと思う。
アリシア内田順子
主のご復活おめでとうございます!
Joyeuses Pâques !
Happy Easter !
先日 何十年ぶりかで 姉といっしょに手入れした実家の庭で 植えてもいない真っ白なフリージアが咲いた と姉からメールがありました。復活祭の思いがけない嬉しい贈り物です。
主イエスのご復活を実感して,おめでとうございます.
新型コロナウィルス禍のため ご聖体との出会いがありません.一言で言うと,生身の主イエスとの出会いがないのが大きな違いです.
ミサ時のご聖体拝領のことを 三つ分かち合います.
私達は常に「主イエス ファースト」です.主イエスについていきます.でも,私が勝手に動いている時は,主イエスが片時も離れずについてきてくださいます.
1)ご聖体を掌に受け,聖ヨセフと聖母マリアの気持ちを追体験して感じる:ご聖体は 主イエスです.主イエスを 自分の掌で受けて,主イエスを 抱きかかえ,聖母父が出産したおん子を抱きしめる喜びを 追体験できます.聖母父の気持ちを味わえます.
2)主イエスの気持ちを感じる:ご聖体の形にまでなって,私の体の中へ入ってきてくださる主イエス.それは恵みで 喜び.
ある人が夢を見ました.主は ご自身の家に帰宅します.主イエスが 屋根も窓も無いような荒廃している家に 帰って行くのです.その人は 見かねて「主イエス,もっと普通の家がありますから,そちらでお休みください」と言いました.主イエスは「これは私の家ですから ここで休みます」と言って入っていきました.主は すぐに出てきて「さあ,一緒に入ろう」と言いました.その人は 気づきました :「この破壊されている家は,私の家だだったんだ.でも,主と一緒にいられる」と言って,駆け込んでいきました.
3)主イエスは,私の体内で,へその遥か彼方に 住んでくださっている.どんな場所かというと,沈黙で音のない場所だと感じました.つまり,神は「静かなるもの,全てを静かにする静かなるもの」という実感です.神は 私の体の中の,音のない場所におられるという実感です.では,主は,私の中で,何を聞いているのかというと,私の思いや感情の声です.私だけの,しかも 音だけを聞いてくださっています.他の人の音は 聞いていません.主イエスを独占!左を下にして寝ると,心臓の音が聞こえることもありますね.自分の心臓の音を聞きながら,主イエスの心臓の音を聞いてみてはどうでしょうか?何処にいても,騒然とした環境でも,とても静かな祈りができます.
さて,最後に毎日の祈りを分かち合います.私の心の中に自由に出入りして恵みを与えてくださるのは 神様だけ.その時の感じは,体が暖かくなる,静けさを感じる,穏やかさを体から感じる... 多様です.
ここで,私の罪を,その重さで考えて,① 軽い,② 重い,③ とても重いと分けた時,
① 行為としての罪:悪いことをした,嘘をついた,盗んだ.
② 生活態度としての罪:神に向かわず神がいないかのように生きる.
③ 自己否定:自分に価値がない,神に愛されていないと否定する.自分の存在価値を否定する.
③ は,自分の根源的良さを否定する「根源的罪」(根源的自己否定)で,最も重い罪.
実は,毎日 神を感じて 暖かさを味わっていると,③ は ありません.① も ② も,③ があると,少しずつ塊が溶けていきます.一方で,① ができているかどうかに注視させられて 拘束されて ② になっていき,③ を感じたことがない方も多いです.
祈った後で「~だと思う」という感じの時は,考えていて,祈っていません.祈りは,身体で何かを感じて,それを味わっている感じです.
体で神を感じるのは 何より大切です.心の状態は,身体があるからこそ 感じ取れます.私達は,身体を感じて味わいつつ 日々を生きています.心は確かに脳の中で作られるけれど,身体がなければ 決して感じ取ることができません.
主イエスが住まわれている実感とともに 日々生きましょう.ご受難の時の主イエス,七つの言葉を言った時の主イエス,墓石をどけて墓を出てきた時の主イエス... その気持を 私達は 身体で感じて,愛を感じて 生きていけます.自分の身体を感じて生きる恵みをたくさん与えてくださっている事実を,心から感謝します.
ルカ小笠原晋也(LGBTQ+ みんなのミサ 世話役)
わたしたちは 突如,終末論的状況に投げ込まれました.今,わたしたちは 誰もが 皆,COVID-19 罹患によって死ぬ可能性に 直面させられています.死の穴が 不意に わたしたちの面前で 口を開き,わたしたちが いつ その穴に呑み込まれてしまうのかは 予見不可能です.
そのような死の不安を ごまかすことなく 耐え抜くこと — 神の愛により支えられ,かつ,隣人愛により支え合って : 西暦 313 年に Constantinus I が ミラノ勅令により キリスト教信仰を合法化する以前のクリスチャンたちの信仰生活は,そこに存していたはずです.ある意味で,わたしたちは,クリスチャンの本来的な生き方に目ざめる「好機」に恵まれています — とても辛くて恐ろしい試練ですが.
また,感染の拡大を防ぐために,わたしたちは,教会に集うことができなくなり,聖体拝領に与ることもできなくなりました.その状況は,西暦 70 年にローマ帝国軍によってイェルサレムの神殿が破壊されたときのユダヤ人たちの状況に似ています — わたしたちは,教会の建物を失ったわけでも,司祭たちと司教たちを失ったわけでもない とはいえ.
イェルサレムの神殿を失ったことは,ユダヤ人の信仰生活に大きな変化をもたらしました — その変化は,紀元前 588 年に 新バビロニア帝国によって ソロモン神殿が破壊されてから 紀元前 538 年に アケメネス朝ペルシャの Kyros II によってユダヤ人にイェルサレム帰還が許可されるまでの バビロン捕囚によって,ある意味で準備されてはいたのですが.
その変化とは,神殿の喪失にともない,神殿で犠牲の儀式を行っていた聖職者(新約聖書では「サドカイ人」と呼ばれている者たち)はいなくなり,もっぱら 律法学者(新約聖書では「ファリサイ人」と呼ばれている者たち)が 信仰を維持し,次世代に伝達する役割を担うことになった;そして,信仰生活の中心を成すのは,聖職者集団が犠牲を神に捧げる儀式を行う神殿の建物ではなく,それをとおして律法学者(彼らは聖職者ではありません)ひとりひとりが神のことばを聴き取ろうと努力するところの聖書のテクストになった,ということです.
ユダヤ教信仰が 西暦 70 年の第 2 神殿破壊の後も 今に至るまで(Shoah を経ても なおも)維持され続け,かつ,今後も代々に至るまで維持されて行くであろうのは,非聖職者である律法学者(今は Rabbi と呼ばれています)の活動の成果です.
今,COVID-19 の全世界的流行のせいで,信仰生活の中心を成してきた聖体拝領に与ることもできず,終末論的な不安を生きているわたしたちは,神殿を失ったユダヤ人たちのことと,キリスト教信仰が殉教の可能性を包含していた初期キリスト教の時代の信者たちのこととを ふりかえり,参考にすることができるでしょう.
終末論的な不安を耐えとおすことは,神の愛によって支えられ,かつ,隣人愛によって支え合うことを 前提します.そして,そのとき,わたしたちは,今,既に,わたしたちの現場存在 (Dasein) において,神の命である永遠の命に与っています.
永遠の命への復活は,死後のことではなく,今 生きている わたしたちの現場存在において成起することです.永遠の命を「死後の生」と見なすとすれば,それは,永遠の命を 仏教の言う輪廻転生における「生まれかわり」と同様のものに還元してしまうことになります.そのような考え方は,よりよい「死後の生」を想定することによって,今 現に生きている生をないがしろにする危険をはらんでいるがゆえに,必ずしも無邪気な空想ではありません(実際,たとえば オウム真理教は,「邪魔者」を抹殺することを正当化するために,そのような考え方に準拠しました).
また,教会の聖堂のなかに入ることもできず,聖体拝領に与ることもできない 今の状況は,「信仰を生きるということは 何に存するのか?」を問いなおす好機です.お気に入りの司祭や司教を「個人崇拝」し,ミサで御聖体をいただくことさえできれば,それ以外,特に何もいらない信仰生活 — 一般信徒のそのような聖職者依存的な態度が,聖職者中心主義 (clericalism) を助長する一因になっています(勿論,聖職者自身の権力志向などの もっと重大な要因もかかわっていますが).
Papa Francesco は,若者をテーマとして行われた 2018 年の司教シノドスの開会式における演説(2018年10月03日)のなかで,« Il clericalismo è una perversione ed è radice di tanti mali nella Chiesa »[聖職者中心主義は,倒錯であり,教会内部の多くの悪の根である]と述べて,聖職者中心主義を厳しく批判しています.
聖職者中心主義を克服するためには,司祭や司教の努力を待つだけでなく,より多くの一般信徒がこのことを思い起こし,より能動的に信仰を生きる覚悟を持つ必要があります:
あなたたちは,このことを知らないのか ? : あなたたちは 神の家であり,神の息吹は あなたたちに住まっている.もし誰かが神の家を破壊するなら,神はその者を滅ぼすだろう.そも,神の家は神聖であり,そして,神の家とは あなたたちのことである(第 1 コリント書簡 03,16-17).
人々が,2, 3 人でも,わたし [ Jesus Christus ] の名において集うところでは,わたしは 彼れらのただなかにいる(マタイ福音書 18,20).
聖職者中心主義を批判するための標語として Papa Francesco が掲げた語が,これです : sinodalità (synodality, synodalité) — σύνοδος < συν- + ὁδός : 皆がともに道を歩むこと.
sinodalità は,2022 年に予定されている司教シノドスのテーマです.それは,教会を聖職者中心主義から解放し,一般信徒 — 特に 女性(なにしろ,一般信徒のなかでは 女性の方が男性より多いのですから)— が 教会の活動と運営のために 聖職者と対等の役割を果たすことを,要請します.
ただし,カトリック信仰が教会組織と聖職者ヒエラルキーを中心としてきたことを批判するとき,わたしたちが陥ってはならないのは,聖書の文面を文字どおりにとって,それを偶像として崇拝する態度です(実際,プロテスタントの一部は そのような聖書偶像崇拝に陥っています).
そのために,わたしたちは,Midrash — ユダヤ教における聖書解釈学 — を参考にすることができます.
ユダヤ教の Rabbi たちの聖書解釈の原理は 何か? それは,「神の思考は 人間には把握不可能である」ということです.
確かに,ユダヤ教の正典の文面(文字づら)は,西暦 10 世紀ころまでに確定されました(それは,今,Masoretic Text と呼ばれています).しかし,そのテクストを 単に「意味を了解する」ように読んで,論語の「子曰く」と同様に「神はこう言っている」と決めつけることを,ユダヤ教の Rabbi たちは しません.なぜなら,「神はこう言っている,神はこう考えている」と決めつけることは,神に対する冒瀆だからです — 神の思考は 人間的な次元をはるかに超えており,人間はそれを等合的に捉えることはできないのですから.
Rabbi たちは,聖書の文面をとおして,今 生きている神のことばを聴き取ろうとします — 今 生きている神は,何千年か前のイスラエルの民に対してではなく,今 生きているわたしたちに対して,何を言おうとしているのか?と問いつつ.そのためには,聖書の文面を,意味を了解しつつ読むのではなく,解釈しつつ読む必要があります.その解釈が Midrash です.パウロ書簡は,Midrash の実例に溢れています.ある意味で,パウロによって措定されたキリスト教の教義の原基は ユダヤ教の聖書(旧約聖書)の Midrash 的な解釈の産物です.
ユダヤ教におけるように,信者ひとりひとりが 神のことばを 今 生きている自分自身に向けられたことばとして 聴き取ろうとすること — ある意味で,信者ひとりひとりが預言者となること.そのことを,しかし,カトリック教義は妨げています.それは,Ecclesiae Magisterium[教会の教導権]と呼ばれている思念です.それは,神のことばを解釈する権利を,教皇と司教にしか認めません(勿論,女性は その権利を行使することから a priori に 排除されています).Ecclesiae Magisterium は,それが聖職者中心主義を条件づけている限りにおいて,聖職者中心主義とともに批判されるべきです.
また,信者ひとりひとりが 神のことばを 今 生きている自分自身に向けられたことばとして 聴き取ろうとすることを妨げている もうひとつのカトリック教義は,Lex Naturalis[自然法]です.それは,13世紀に Thomas Aquinas が Aristoteles からカトリック教義に輸入した形而上学と形而上学的目的論とにもとづく硬直した思念であり,生きた神のことばを わたしたちに対して 覆い隠してしまいます.Lex Naturalis を信奉することは,形而上学的な偶像崇拝 (idolâtrie métaphysique) にほかなりません.そして,カトリック教会の内部で LGBTQ+ を断罪する者たちは,皆,Lex Naturalis を盾にとって そうしています.つまり,彼らは 皆,形而上学的偶像崇拝者です.しかも,それが偶像崇拝であるということに 彼らは まったく気づいていません.
Ecclesiae Magisterium と Lex Naturalis — それらふたつの思念をカトリック教義から一掃しないかぎり,カトリック教会は 21 世紀が我々に課した試練を 乗り越えて 生き延びることは できないでしょう.
Ecclesiae Magisterium と Lex Naturalis — それらふたつの思念をカトリック教義から一掃しないかぎり,カトリック教会は 21 世紀が我々に課した試練を 乗り越えて 生き延びることは できないでしょう.
COVID-19 の全世界的な流行は,以上のような意味において,わたしたちに 信仰生活の「回心」を要請しています.ひとりでも多くのカトリック信者が そのことに気がついてくれるよう,願っています.
COVID-19 によって亡くなった多くの人々に 主が 永遠の安らぎを与えてくださいますように.
その喪に悲しみ,泣く人々を,主が 慰めてくださいますように.
COVID-19 に罹患して苦しんでいる人々を 主が 力づけてくださいますように.
必死の思いで働いている医療従事者と介護従事者を 主が支えてくださいますように.
終末論的不安を生きている わたしたち 皆を 主の愛が支えてくださいますように.そして,今後 わたしたちが sinodalità の道を歩んで行くことができるよう,導いてくださいますように.
冒頭に掲げた絵は,昨年の復活祭 のときと同じく,Caravaggio の Maria Maddalena in estasi[恍惚状態にある マグダラのマリア]です.昨年も説明したように,Maria Magdalena の Dasein において Jesus Christus は 死から永遠の命へ復活し,そして,そのことにおいて,彼女も死から永遠の命へ復活しました.Apostolorum Apostola[使徒たちの使徒]と呼ばれる彼女こそが,本当の教会の礎です.ペトロの礎は,Maria Magdalena という礎の上に置かれています.パウロは そのことを無視しましたが,わたしたちは そのことを忘れないでおきましょう.
主の復活に賛美!神の栄光に賛美!神に感謝!