2020年12月28日月曜日

“えきゅぷろ 2022” のための準備プロジェクト “教会 どうでしょう” の 第 4 回 オンライン会合のテーマは “sexuality と 教会 と COVID-19”

 


“えきゅぷろ 2022” のための準備プロジェクト “教会 どうでしょう” の 第 4 回 オンライン会合のテーマは “sexuality と 教会 と COVID-19”



Martin Luther による「宗教改革」の開始の 500 周年,2017年に 日本のクリスチャン青年有志によって始められた「えきゅぷろ」(Ecumenical Project) は,2019年まで 毎年 1 回 会合を続けてきた.




しかし,2020年,COVID-19 の全世界的流行のもとで,従来どおりの会合を続けることはできなくなった.かわりに,彼れらは,2022年の会合 開催をめざして,その準備のために,2020年10月から,「教会 どうでしょう」の標題のもとに オンライン会合を 定期的に 催している.



教会 どうでしょう 第 3 回(クリスマスの集い)

そして,2021年02月に予定されている オンライン会合は,“sexuality と 教会 と COVID-19” をテーマとして 行われる.その準備のために,エキュメニカルプロジェクト実行委員会「教会どうでしょう」班は,教会の現場において sexuality や gender に関して いかなることが実際に問題となっているのかを調査するため,以下のように アンケートを実施している:


『セクシャリティ×教会×コロナ』企画アンケート

2020年は コロナウィルスの社会的影響下で、セクシャリティに基づく生きづらさが 今までより 明らかとなりました。このアンケートにご協力くださる皆様の周りでも、様々な変化があったのではないかと思います。

「教会どうでしょう」班では、2021年02月に『セクシャリティ×教会×コロナ』というテーマで企画を考えるにあたり、コロナ渦で ジェンダーやセクシャリティにまつわる困難は どのようなことがあるのか、そもそも 教会の中では どんな困難があったのか、皆様の身近な体験をお聞きしたいと思い、このアンケートを実施しています。

偏見や差別だけでなく、皆さんが 困ったな、嫌だな、こんなことが変わったらいいな と思うことがあれば 是非お教えください。そんなことは感じたことがない、というご感想ももちろん歓迎です (*^^*)

自由な気持ちでご回答いただけますと 幸いです。

※ このアンケートの結果は、当企画を考える上での参考とさせていただきます。また、個人を特定できる情報を匿名化した上で、企画イベント内やメディアで公表される可能性があります。予めご了承ください。

※ 1 月中に 当企画の詳細も公表させていただきますので、当日も是非ご参加ください!!!

アンケート実施期間 : 2020年12月27日 から 2021年01月08日 まで
企画担当:エキュメニカルプロジェクト実行委員会「教会どうでしょう」班

設問:

1. あなたの年齢層を教えてください.

2. あなたの所属教派を教えてください
(なければ「なし」と記入してください).

3. あなたが 教会で ジェンダーやセクシャリティのことで 困った事、嫌だなと思うことがあれば 教えてください(所属教派なしと答えられた方は、学校や会社でも 構いません).たとえば,「女性だからといって パーティーの手伝いをさせられる」、「彼女はいないの?と声をかけられる」、「使えるトイレがない」など、なんでも構いません(特になにもなければ「なし」と記入してください).

4. あなたが 家庭で ジェンダーやセクシャリティのことで困った事、嫌だなと思うことがあれば教えてください。 たとえば,「女性らしくしなさいと言われる」、「結婚しないの?と言われる」、「セクシャリティへの理解がない」など、なんでも構いません(特になにもなければ「なし」と記入してください).

5. コロナ禍で ジェンダーやセクシャリティに関連して、不安なこと、困った事、嫌だなと思ったことがあれば教えてください。 たとえば,「家族が家にいる時間が増えて、家事の負担が増した。」、「自粛のせいで セクシャリティについて話せる場所がなくなった」など、なんでも構いません(特になにもなければ「なし」と記入してください).

6. あなたの教会で、ジェンダー平等や性の多様性の尊重に関して、何か おこなっている工夫があれば 教えてください。あなたが、教会の中でジェンダーやセクシャリティのことで よかったと思ったことでも構いません(所属教派なしと答えられた方は、学校や会社でも構いません).たとえば,セクシャリティに理解のある人がいる、聖職者や信徒向けの勉強会をしている、性別によってグループを分けない、名簿の性別欄を無くした、通称名を使用できるなど、なんでも構いません(特になにもなければ「なし」と記入してください).
 
7. あなたの教会で、ジェンダー平等や性の多様性の尊重に関して、こんなことが変わったらいいなと思うことがあれば 教えてください(所属教派なしと答えられた方は、学校や会社でも構いません).たとえば,「性別に関わらず、興味のある活動がしたい」、「同性婚ができるようにしてほしい」、「セクシャリティについて語れる場所がほしい」など、なんでも構いません(特になにもなければ「なし」と記入してください).

8.『セクシャリティ×教会×コロナ』というテーマで 聞いてみたい事、期待することがあれば 教えてください。 たとえば,「そもそも、ジェンダーやセクシャリティって何なのか 知りたい」、「キリスト教では性についてどのように考えているのか気になる」、「自分のセクシャリティが受け入れられていくのか聞いてみたい」など、なんでも構いません。

9.『セクシャリティ×教会×コロナ』というテーマで 登壇者として 特に話しを聞いてみたい人があれば教えてください。たとえば,「*** 牧師の話しが 聞いてみたい」、「LGBTQ 当事者の話しが聞いてみたい」、「一般の信者として、*** さんの話しも聞いてみたい」など、なんでも構いません。


LGBTQ みんなのミサ を おこなってきた わたしたちとしても,この企画に協力したいと思います.関心のある方々の協力をお願いします.

2020年12月24日木曜日

主の御降誕 おめでとうございます — LGBTQ みんなのミサ 世話人 ルカ 小笠原 晋也(付:あらためて レヴィ記 18,22 を読む)




LGBTQ みんなのミサ の 世話人 ルカ 小笠原 晋也 の 降誕祭メッセージ — あらためて レヴィ記 18,22 について



主 Jesus Christus の御降誕 おめでとうございます!

わたしたちが 皆 永遠の命に与る神の子であるようにしてくださった 神の御子の御生誕の喜びを,皆さんと 分かち合いたいと思います.

今年 2020年,COVID-19 の 全世界的な流行は わたしたちの日常生活に 大きな支障をもたらしました.カトリック東京大司教区においては,2月27日から 公開ミサは すべて 中止されました(6月21日に やっと再開されました — 参加者の人数を 大きく制限しつつ).

わたしたちの 月例 LGBTQ みんなのミサも 中止を余儀なくされました.都内における流行が収束を見ないなか,再開の目途は たっていません.そのかわり,わたしたちの仲間は Zoom Meeting で集いを続けています(当初は毎週,12月からは 月に一回).

信仰を分かち合う者たちが定期的に集うことができない — その状況は,あらためて,いかに ユダヤ民族は diaspora において 信仰を守り続けてきたか に わたしたちの注意を向けさせます.彼らは,紀元前 6 世紀の数十年間(バビロン捕囚)および 西暦 70 年に イェルサレムの神殿がローマ帝国軍によって破壊されて以降 ずっと,聖書に規定されているようなしかたで 聖堂において いけにえを捧げる儀式をすることができないできました(今は もはや あえて そのような いけにえ儀式を復活させることを 彼らは選んでいません).そのとき,彼らの信仰を支え続けたのは,聖書です.

わたしたちが「旧約」と呼ぶ もろもろの書は,紀元前 5 世紀から 2 世紀ころまでの間にテクストとして成立し,さらに 西暦 10 世紀ころまでに 長い時間と努力をかけて 正典として整えられました.如何に ユダヤ人たちは それらを読んでいるのか? 古代に書かれた歴史的な文書として読んでいるのではありません.そうではなく,聖書の文面をとおして 神は 今 生きているわたしたちに 語りかけ続けているのだ,しかも,神のことばは 人間にとって 完全に把握可能なものではないのであるから,わたしたちは 聖書の文面をとおして 常に 新たに 神のことばを聴き続けねばならず,かつ,そうすることができる — そのような前提に立って,ユダヤ人たちは,聖書を読み続けています.

したがって,彼らは「聖書のしかじかの箇所は しかじかと読むべきだ」と固定化することを しません.そのような固定化は,むしろ,神に対する冒瀆です.常に変化する状況と条件のもとで生きるわたしたちは,各人,そのつど,常に あらたに 聖書をとおして 神のことばに耳を傾けるべきであり,かつ,そうすることができます.

別の言い方をすると,ユダヤ人たちの耳と心は 神のことばに対して 常に開かれているのです.それに対して,原理主義的な保守派のクリスチャンたちの耳と心は 神のことばに対して閉ざされています.何が閉ざしているのか? それは,彼れら自身によって固定化されてしまった意義です — 聖書のしかじかの箇所は しかじかと読むべきであり,それ以外の読み方はあり得ない という思い込みです.

そのように固定化された意義を,形而上学的偶像崇拝 (metaphysical idolatry, l'idolâtrie métaphysique) と呼びましょう.保守派クリスチャンたちが拝んでいるのは,形而上学的な偶像としての「神」にすぎません.それは,本当の神ではありません.そして,そのような偶像は,彼らの耳と心を 神のことばを常に新たに聴こうとする開かれた聴き方に対して 閉ざしてしまっています.

形而上学的偶像崇拝者の「神」のことを,Blaise Pascal は「哲学者と神学者の神」と呼んでいます.それに対して,彼は,火の夜,彼に与えられた啓示において 彼に 自身を開示してきた神を「アブラハムとイサクとヤコブの神」と呼んでいます.わたしたちも,「哲学者と神学者の神」を拝む形而上学的偶像崇拝を捨て,「アブラハムとイサクとヤコブの神」のことばに対して耳と心を開くことを学ばねばなりません.

さて,今月(2020年12月),また 新たに Twitter の timeline で homophobe Christians と LGBTQ Christians との激烈な論争が展開されているのを 見かけました.それは,単なる無邪気な神学論争ではありません.というのも,その論争に関する感想として,高田嘉文氏は,こう述べているからです:

「同性愛は罪」っていうのはね,当事者にとっては「お前には 生きている価値がない」って聞こえるんですよ.「死ね」って言ってるのと同じでしょ.

如何に LGBTQ Christians たちと 彼らの advocate であるわたしたちは 聖書を読むことができるか? 以前「LGBTQ と カトリック教義」で書いたことの抜粋を この記事「あらためて LGBTQ と 聖書について — 聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない」に転載しました.また,以前のブログ記事「聖書を楯に取って homosexuality を断罪する人々に対する答え方」や「『放蕩息子の寓話は悔い改めが前提』に対して」も参照してください.

ここでは,homophobe Christian たちが最も根本的な準拠とする レヴィ記 18,22 を ヘブライ語テクストにもとづいて 改めて読んでみましょう(レヴィ記 20,13 も同様):


וְאֶת־זָכָר לֹא תִשְׁכַּב מִשְׁכְּבֵי אִשָּׁה

καὶ μετά ἄρσενος οὐ κοιμηθήσῃ κοίτην γυναικείαν

Thou shalt not lie with mankind, as with womankind (King James Version)

Tu ne coucheras pas avec un homme comme on couche avec une femme (Traduction oecuménique)

女と寝るように 男と寝てはならない(聖書協会共同訳)


英語訳,フランス語訳,日本語訳は 似たり寄ったりですが,ヘブライ語原文と ギリシャ語訳(70人訳)は,直訳すると,こう訳せます:

して,汝[男]は,女と寝ることを 男と寝るなかれ

ヘブライ語では,動詞の活用は 主語が男性か女性かによって異なります.この命令にしたがうべき者が男性であることは 明確です.

そして,動詞 שָׁכַב[寝る](ギリシャ語訳では κοιμᾶσθαι)は 同族目的語 מִשְׁכָּב[寝ること](ギリシャ語訳では κοίτη)を取っています.つまり:

おまえ[男]は,女と寝ることを 男としてはならない.

あるいは:

おまえ[男]は,女と寝る代わりに 男と寝てはならない.

このように訳すと,この命令に従うべき男にとっては,女と寝ることが普段の習慣であり,それに対して,男と寝ることはそうではない,ということが,より明確になります.

LGBTQ と カトリック教義」および「あらためて LGBTQ と 聖書について — 聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない」において指摘したように,ユダヤ教の律法の主体(その命令に従うべき者)は,heterosexual かつ cisgender である男性であり,homosexual や transgender である者の存在は想定されていません.わたしたちは,レヴィ記 18,22 のヘブライ語原文を読むことによって,そのことを より明瞭に確認することができます.

以上のような指摘が,しかし,homophobe Christian たちの考えを変えることはできないでしょう.彼れらの思い込みは paranoïaque だからです.形而上学的偶像崇拝は 一種の paranoïa にほかなりません — Trumpism と同様に.わたしたちとしては,彼れらが自滅して行くのを待つしかありません — それが彼れらの運命ですから.

新しい年 2021年が どのような年になるのか,今のところ まったくわかりません.ワクチンの効果により pandemic は収束に向かうのか,あるいは,pandemic の勢いが ワクチンに勝るのか...

ともあれ,主に信頼しましょう.

主の愛が 皆さんを 支えてくれますように.Amen.

そして,あらためて 主の御降誕 おめでとうございます!

主の御降誕 おめでとうございます — LGBTQ みんなのミサ 世話人 ペトロ 宮野 亨



Brian Kershisnik (1962- ), Nativity (2006)


LGBTQ みんなのミサ 世話人 ペトロ 宮野 亨 の 降誕祭メッセージ



皆様とともに
主イエスの御降誕に 真心こめて 喜びをささげます.

今年の私の祈り文を分かち合います:
あなたは私を助けてくれた.そうでしょ?
だから 今度は 私にも あなたを助けさせて!

温かさを体感したら
祈っていると実感できて
愛されていると実感します.

神に感謝!

あらためて LGBTQ と 聖書について — 聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない

 

あらためて LGBTQ と 聖書について — 聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない

ルカ 小笠原 晋也


ときどき起こることであるが,今月(2020年12月)も,Twitter の timeline で homophobe Christians と LGBTQ Christians との激烈な論争が展開されているのを 見かけた.それは,単なる無邪気な神学論争ではない.というのも,その論争に関する感想として,高田嘉文氏は,こう述べているからだ:


「同性愛は罪」っていうのはね,当事者にとっては「お前には 生きている価値がない」って聞こえるんですよ.「死ね」って言ってるのと同じでしょ.


原理主義的な保守派クリスチャンたちよ,あなたたちの — あなたたちの間でのみ通用する — 聖書解釈が 隣人に「死ね」と言っているのだとすれば,それでも あなたたちは あなたたちの聖書解釈を正当なものと言いはり続けるのだろうか? あなたたちの言う「隣人愛」は,あなたたちの言説が他者を殺すことになることを 容認するような「隣人愛」なのだろうか?

homophobe Christians と LGBTQ Christians との論争のなかで しばしば問題になるのが,聖書の特定の箇所である.それらの箇所は,原理主義的な保守派クリスチャンが LGBTQ を「叩く」ために 長年 利用してきたので,俗に clobber passages[ぶんなぐり箇所]と呼ばれている.そのような聖書の読み方が いかに不適切なものであるかは,以前に書いた「LGBTQ と カトリック教義」のなかでも指摘した.当該箇所の抜粋を 以下に 改めて提示しておこう.


******

§ 1.3.2. homosexuality と聖書 — 聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない


キリスト教において「旧約」と呼ばれる ユダヤ教の聖典(Tanakh : 律法,預言者,諸書)の文字テクストが成立するのは,バビロン捕囚 (597-538 BCE) の終了後,ユダヤ教とユダヤ民族を立て直した 紀元前 5 世紀の律法学者 Ezra の時代以降であり,最終的に,今 Masoretic text と呼ばれているものができあがるのは,西暦 7 -10 世紀のことである.ユダヤ教の伝統において,それらの書を読み,学ぶことができるのは,原則的に 男性のみであり,かつ,彼らは,当然のように,heterosexual かつ cisgender であることが前提されていた.つまり,そこにおいて述べられている諸々の命令や禁止に従うよう要請されているのは,heterosexual かつ cisgender である男性のみである.それ以外の SOGI を有する人々(つまり,heterosexual & cisgenderである女性たちと LGBTQ である人々)のことを,ユダヤ教の律法は,律法の主体(その者らにとって律法が妥当するところの者たち)としては,想定していない.つまり,律法は,「おまえたちが heterosexual かつ cisgender な男である限りにおいて」という条件を,暗黙のうちに包含している.我々が今,聖書を読むとき,その大前提を忘れてはならない.そのことを忘れて — あるいは そのことを無視して — 律法の文面を homosexual である人々や transgender である人々にまで適用しようとする者たちは,「わたしたちは 旧約聖書が何であるかを 実は 知りません」と公言しているにほかならない.

周知のように,聖書のなかには,原理主義的な保守派によって homosexuality を断罪するために 長年 利用されてきた箇所が 幾つかある.それらは,clobber passages と呼ばれる.“clobber” は「激しく殴打して,叩きのめす」という意味の俗語的表現である.

いずれの箇所をそう呼ぶかは 論者によって 若干 異なることがあるが,最も多く数えた場合,以下の 8 箇所が 挙げられる:

創世記 19,1-29 ;

レビ記 18,22 および 20,13 ;

申命記 23,18 ;

ローマ書簡 1,26-27 ;

第 1 コリント書簡 6,9 ;

第 1 ティモテオ書簡 1,10 ;

ユダ書簡 7.



§ 1.3.2.1. 旧約聖書における男性間の性行為の問題

現代社会において homosexuality と呼ばれているものが 愛し合う同性どうしの人間的な関係であるなら,旧約聖書の幾つかの箇所(創世記 19,1-29 ; レビ記 18,22 および 20,13 ; 申命記 23,18)において言及されている男どうしの性行為は homosexuality に関連するものではあり得ない.

創世記 19,1-29 には,こう物語られている:主の御使い 2 名(彼れらは男性の姿を取っていることが前提されている)が ソドムを訪れる.ロトは,創世記18章においてアブラハムがそうしたのと同様に,彼れらを自宅に迎え,丁重にもてなす.ところが,ソドムの住民全員(すべて男性であることが前提されている)が,彼の客人を強姦するために,彼の家に押し入ろうとする.主の御使いは,罪深いソドムとゴモラを滅ぼす.

以上の一節にもとづいて,homosexuality は「ソドムの罪」と呼ばれることになる.

しかし,実際に聖書の当該箇所において示唆されているのは,明らかに,我々が 今 homosexuality と呼んでいる事態ではなく,しかして,性暴力である.

男が他の男に対して性的な暴力をふるう場合,その目的は,攻撃や殺傷であったり,侮辱であったり,暴力的支配であったりするだろう.いずれにせよ,そこにおいてかかわっているのは,死の本能であり,その現れとしての攻撃や破壊であって,gay 男性における性的欲望や性愛ではまったくない.

次に,レビ記.そこにおいて,主は,イスラエルの民に「聖なるものであれ,なぜなら,わたしは聖なるものであるから」(19,2) と命ずる.この聖性の命令こそ,神と人間との交わりの可能性の条件として,アブラハムを共通の始祖とするユダヤ教,キリスト教,イスラム教において,最も中心的な律法と見なされ得るだろう.そして,聖なるものであることの必要十分条件は,キリスト教においては,ヨハネ福音書において提示されている Jesus のこの命令:「わたしがあなたたちを愛したように,あなたたちは互いに愛し合いなさい」を実践し得ることである.

以上のことを踏まえて読むならば,「女と寝るように男と寝てはならない;それは,忌まわしいことである」(Lv 18,22) と「或る男が,女と寝るように男と寝るならば,彼れらふたりが為すことは,忌まわしいことである.彼れらは処刑される.彼れらの血は,彼れら自身にふりかかる」(Lv 20,13) のふたつの条文(そこに含まれる「女と寝るように」という表現は「おまえは,女を性的対象とする男であるのに」ということであり,それらの条文は heterosexual の男性に向けられたものであることが示唆されている)においてかかわっているのは,旧約の文脈においては,聖性の命令の違反であり,新約の文脈においては,聖性の命令の違反をもたらす愛の命令の違反である.

ところで,愛し合う gay カップルが,愛情深く性行為を行う場合,それは,愛の命令に対する違反となるだろうか — coitus per anum を伴っていようと いなかろうと?

本質的であるのは,カップルが 性行為において 真摯に 互いに 愛し合っているか否かであり,単純に 性行為が いわゆる sodomy を伴っているか否かではない.

さらに,先に指摘したように,旧約聖書の律法の主体(その者らにとって律法が妥当するところの者たち)は,もっぱら,heterosexual かつ cisgender であるユダヤ人男性である.したがって,レビ記の条文が断罪しているのは,heterosexual の男が,性的衝動に駆られて,女性に対して性的な暴力や虐待を行うのと同様に,男に対して(なぜなら,性行為の対象となる女性がその場に存在しないがゆえに,女の代わりに男に対して)性的な暴力や虐待を行うことである.今の社会において 愛し合う gay どうしが性行為を行う場合にまで 旧約の律法を適用するとすれば,それは,恣意的な拡大解釈でしかない.

第 3 に,申命記:「イスラエルの娘たちのなかに神聖娼婦がいてはならず,イスラエルの息子たちのなかに神聖男娼がいてはならない.娼婦の稼ぎや犬の給金を,汝が神,主の家に,献げものとして持ち来たってはならない.なぜなら,両者はともに,汝が神,主にとっては,忌まわしいものであるから」(Dt 23,18-19).

当該箇所ならびに列王記上巻 14,24 では,カナン地域の土着の神 Baal の崇拝との関連において,豊饒祈願儀式として神聖売買春が行われていたこと,および,そのような売春を行う者のなかには男も女もいたことが,示唆されている.

イスラエルの民のなかに神聖売春を行う者が存在してはならず,また,神聖売春により得られたものを主への献げ物としてはならない,という禁止は,当然ながら,主以外の神々の崇拝の禁止に包含されているものである.

古代ユダヤ教の律法において異神崇拝禁止との関連において禁ぜられた神聖売買春における男どうしの性行為は,当然ながら,我々が今 homosexuality と呼んでいるものとはまったく異質のものである.


§ 1.3.2.2. 新約聖書における同性間の性行為の問題

新約聖書に収録されている使徒書簡のなかで言及されている同性どうしの性行為についても,当然ながら,旧約聖書から出発して読解される.

ユダ書簡 7 については,それは,単に,創世記において物語られているソドムとゴモラに対する処罰の神話を取り上げ直しているにすぎないので,ここで詳しくは論じない.

まずは,ローマ書簡を改めて読んでみよう.その 1,17 において ὁ δὲ δίκαιος ἐκ πίστεως ζήσεται[信仰によって義なる者は,永遠の命を生きることになる]と公式化した後,聖パウロは,すぐさま,1,18-32 において,その逆の場合,つまり,神を信ぜず [ ἀσέβεια ], 偶像 [ ὁμοίωμα εἰκόνος ] を崇拝することにおいて義ならざる者たち [ ἀδικία ] について論じている.

そのような者たちは 神の怒り [ ὀργὴ θεοῦ ] を受け,神は 彼れらを 彼れらのこころの欲望において [ ἐν ταῖς ἐπιθυμίαις τῶν καρδιῶν αὐτῶν ] 不浄 [ ἀκαθαρσία ] と 恥辱の熱情 [ πάθη ἀτιμίας ] へ 引き渡す.それによって,彼れら,および,彼れらの一族(または家族)の女たちは,自然に反して [ παρὰ φύσιν ] 同性の相手と性関係を持つことになる.

以上において明らかなように,聖パウロの論理は,「神を信じないがゆえに非正義であるならば,同性間性行為を行うことになる」ということであって,その逆:「同性間性行為を行うならば,非正義である」ではない.

むしろ,heterosexual の者が異性パートナーと行う性行為についても,神を信じないことにおいて義ならざる偶像崇拝者たちが 愛も無しに 衝動のままに 性交するのであれば,それは,断罪さるべき「忌まわしい」行為にほかならない.

また,ἀδικία[非正義]や ἀκαθαρσία[不浄]は,レビ記で述べられていた「聖性の律法」に対する違反がかかわっていることを示唆している.つまり,聖パウロが念頭に置いているのは,レビ記の 18,22 と 20,13 によって規定されている禁止である.それが homosexuality にかかわるものではないことは,既に見たとおりである.

次いで,第 1 コリント書簡 6,9 と第 1 ティモテオ書簡 1,10 において聖パウロは「同性愛者」を断罪している,と言われている.

当該箇所のフランス語訳には « pédéraste », 日本語訳には「男色をする者」(新共同訳)や「同性愛に耽る者」(フランシスコ会訳)という表現が見出される.

しかし,ギリシャ語の原文で 聖パウロが用いている語は ἀρσενοκοίτης である.それは,文字どおりには,「男と性交する男」である.

フランス語の pédéraste は παιδεραστής (< παῖς + ἔρως ) に由来し,後者は,古代ギリシアではむしろ公序良俗に属する「少年を愛する者」である.

しかし,聖パウロの言葉を文脈において読むなら読み取れるように,彼が断罪しているのは,古代ギリシア社会における παιδεραστία でも,現代社会における homosexuality でもなく,しかして,レビ記において禁止されているような衝動的同性間性行為か,または,申命記において禁止されているような神聖売買春における同性間性行為である.

しかも,既に幾度か強調してきたように,それらの禁止の言葉が向けられているのは,heterosexual の男性にであって,homosexual の男性にではない.

今,日本において同性婚が合憲か違憲かを論ずる際には,このことを考慮に入れねばならない:すなわち,1946年に作成された日本国憲法においては,1948年に制定された世界人権宣言においてと同様,結婚したいと思う同性カップルの存在はまったく想定されていなかった.

憲法制定時に想定されていなかったことは,憲法において禁止されてもいない.憲法 24 条に「婚姻は両性の合意のみにもとづいて成立し,夫婦が同等の権利を有することを基本として...」と述べられてはいても,それは,あくまで異性カップルの婚姻に関することであって,同性カップルの結婚を禁止するために書かれたものではない.

同様に,古代ユダヤ人社会 — 聖パウロも,元来,そこに属していた — においては,現代社会において homosexuality と呼ばれている事態は,想定されていなかった.律法の言葉は,すべて,heterosexual であることが当然のこととして想定されているユダヤ人男性一般に向けられていたのであり,特別に gay の男性を対象とするような命令も禁止もなかった.

現代社会において homosexuality と呼ばれているものに関する否定的な言説を聖書のなかに読み取る者は,聖書の文章がいつ,どこで,誰によって,誰のために,如何なる目的で作成されたのかを,考慮していないだけである.

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COVID-19 の全世界的な流行のもとで 信仰を分かち合う者たちが定期的に集うことができない — その状況は,あらためて,いかに ユダヤ民族は diaspora において 信仰を守り続けてきたか に わたしたちの注意を向けさせます.彼らは,紀元前 6 世紀の数十年間(バビロン捕囚)および 西暦 70 年に イェルサレムの神殿がローマ帝国軍によって破壊されて以降 ずっと,聖書に規定されているようなしかたで 聖堂において いけにえを捧げる儀式をすることができないできました(1948年にイスラエルが建国されてからも,今は もはや あえて そのような いけにえ儀式を復活させることを 彼らは選んでいません).そのとき,彼らの信仰を支え続けたのは,聖書です.

わたしたちが「旧約」と呼ぶ もろもろの書は,紀元前 5 世紀から 2 世紀ころまでの間にテクストとして成立し,さらに 西暦 10 世紀ころまでに 長い時間と努力をかけて 正典として整えられました.如何に ユダヤ人たちは それらを読んでいるのか? 古代に書かれた歴史的な文書として読んでいるのではありません.そうではなく,聖書の文面をとおして 神は 今 生きているわたしたちに 語りかけ続けているのだ,しかも,神のことばは 人間にとって 完全に把握可能なものではないのであるから,わたしたちは 聖書の文面をとおして 常に 新たに 神のことばを聴き続けねばならず,かつ,そうすることができる — そのような前提に立って,ユダヤ人たちは,聖書を読み続けています.

したがって,彼らは「聖書のしかじかの箇所は しかじかと読むべきだ」と固定化することを しません.そのような固定化は,むしろ,神に対する冒瀆です.常に変化する状況と条件のもとで生きるわたしたちは,各人,そのつど,常に あらたに 聖書をとおして 神のことばに耳を傾けるべきであり,かつ,そうすることができます.

別の言い方をすると,ユダヤ人たちの耳と心は 神のことばに対して 常に開かれているのです.それに対して,原理主義的な保守派のクリスチャンたちの耳と心は 神のことばに対して閉ざされています.何が閉ざしているのか? それは,彼れら自身によって固定化されてしまった意義です — 聖書のしかじかの箇所は しかじかと読むべきであり,それ以外の読み方はあり得ない という思い込みです.

そのように固定化された意義を,形而上学的偶像崇拝 (metaphysical idolatry, l'idolâtrie métaphysique) と呼びましょう.保守派クリスチャンたちが拝んでいるのは,形而上学的な偶像としての「神」にすぎません.それは,本当の神ではありません.そして,そのような偶像は,彼らの耳と心を 神のことばを常に新たに聴こうとする開かれた聴き方に対して 閉ざしてしまっています.

形而上学的偶像崇拝者の「神」のことを,Blaise Pascal は「哲学者と神学者の神」と呼んでいます.それに対して,彼は,火の夜,彼に与えられた啓示において 彼に 自身を開示してきた神を「アブラハムとイサクとヤコブの神」と呼んでいます.わたしたちも,「哲学者と神学者の神」を拝む形而上学的偶像崇拝を捨て,「アブラハムとイサクとヤコブの神」のことばに対して耳と心を開くことを学ばねばなりません.

さて,今月(2020年12月),また 新たに Twitter の timeline で homophobe Christians と LGBTQ Christians との激烈な論争が展開されているのを 見かけました.それは,単なる無邪気な神学論争ではありません.というのも,その論争に関する感想として,高田嘉文氏は,こう述べているからです:

「同性愛は罪」っていうのはね,当事者にとっては「お前には 生きている価値がない」って聞こえるんですよ.「死ね」って言ってるのと同じでしょ.

如何に LGBTQ Christians たちと 彼らの advocate であるわたしたちは 聖書を読むことができるか? 以前「LGBTQ と カトリック教義」で書いたことの抜粋を この記事「あらためて LGBTQ と 聖書について — 聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない」に転載しました.また,以前のブログ記事「聖書を楯に取って homosexuality を断罪する人々に対する答え方」や「『放蕩息子の寓話は悔い改めが前提』に対して」も参照してください.

ここでは,homophobe Christian たちが最も根本的な準拠とする レヴィ記 18,22 を ヘブライ語テクストにもとづいて 改めて読んでみましょう(レヴィ記 20,13 も同様):


וְאֶת־זָכָר לֹא תִשְׁכַּב מִשְׁכְּבֵי אִשָּׁה

καὶ μετά ἄρσενος οὐ κοιμηθήσῃ κοίτην γυναικείαν

Thou shalt not lie with mankind, as with womankind (King James Version)

Tu ne coucheras pas avec un homme comme on couche avec une femme (Traduction oecuménique)

女と寝るように 男と寝てはならない(聖書協会共同訳)


英語訳,フランス語訳,日本語訳は 似たり寄ったりですが,ヘブライ語原文と ギリシャ語訳(70人訳)は,直訳すると,こう訳せます:

して,汝[男]は,女と寝ることを 男と寝るなかれ

ヘブライ語では,動詞の活用は 主語が男性か女性かによって異なります.この命令にしたがうべき者が男性であることは 明確です.

そして,動詞 שָׁכַב[寝る](ギリシャ語訳では κοιμᾶσθαι)は 同族目的語 מִשְׁכָּב[寝ること](ギリシャ語訳では κοίτη)を取っています.つまり:

おまえ[男]は,女と寝ることを 男としてはならない.

あるいは:

おまえ[男]は,女と寝る代わりに 男と寝てはならない.

このように訳すと,この命令に従うべき男にとっては,女と寝ることが普段の習慣であり,それに対して,男と寝ることはそうではない,ということが,より明確になります.

LGBTQ と カトリック教義」および「あらためて LGBTQ と 聖書について — 聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない」において指摘したように,ユダヤ教の律法の主体(その命令に従うべき者)は,heterosexual かつ cisgender である男性であり,homosexual や transgender である者の存在は想定されていません.わたしたちは,レヴィ記 18,22 のヘブライ語原文を読むことによって,そのことを より明瞭に確認することができます.

以上のような指摘が,しかし,homophobe Christian たちの考えを変えることはできないでしょう.彼れらの思い込みは paranoïaque だからです.形而上学的偶像崇拝は 一種の paranoïa にほかなりません — Trumpism と同様に.わたしたちとしては,彼れらが自滅して行くのを待つしかありません — それが彼れらの運命ですから.