教皇庁 教理省 長官 Luis Ladaria Ferrer 枢機卿
あらかじめ,訳語について,若干の注釈を付しておく.
イタリア語テクストにおいて用いられている unione(英語やフランス語では union)という語は,このテクストにおいては 明らかに 性的関係を含意している.しかし,unione や union は,あらゆる種類の「ひとつになること,ひとつになったもの」および「ひとつになることを可能にする 結びつき,結合」を指す語であり,そのものとしては,むしろ,性的な意味合いを有してはいない.にもかかわらず 教皇庁が この文書において unione という語を 性的関係を含意するものとして 用いているとすれば,それは,2016年に,同性婚の法制化を避けるために,代わりに法制化された unione civile (union civile, civil union) が 念頭に置かれているからであろう(unione civile の制度は,同性どうしであれ,異性どうしであれ,あるカップルの〈従来「事実婚」と呼ばれていた〉関係に,ある種の法的な規定と是認と保護を与えるものである).ともあれ,日本語に翻訳しがたい この unione という語を ここでは「関係」と訳しておく.読者には,このテクストにおいては その語が性的関係を含意していることを,承知しておいていただきたい.
また,この教理省の文書において注目すべき もうひとつの単語は,動詞 ordinare(フランス語では ordonner, 英語では order)と 名詞 ordine(フランス語では ordre, 英語では order)である.周知のように,その名詞は,その最も根本的な意味においては,ある複雑な 混乱した 無定形な 状態に対して もたらされるべき(あるいは もたらされた)何らかの構造 — 順序,秩序,ことわり — であり,そして,そこから,そのような構造をもたらすことを命ずる「命令」である.動詞は,そのような構造をもたらすことであり,そのために「命令する」ことである.ここでは,ordinare は「定める」,ordine は「定め」と訳されている.念頭に置かれているのは,明らかに,形而上学的(目的論的)な lex naturalis[自然法]と それが包含する 先験的な「秩序」である.そのような形而上学的な残存物をこそ,今,我々は,我々の思考の あらゆる領域と あらゆる次元において 最も批判せねばならず,最も除去せねばならない.
最後に,読者が違和感を覚えるだろう「客体的に」(oggettivamente, objectivement, objectively) という語は,ここでは,「そのものとして,そのものにおいて」と読みかえられ得る表現である.
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同性のふたりの関係の祝福に関する疑問に対する 教理省の回答
Responsum della Congregazione per la Dottrina della Fede ad un dubium circa la benedizione delle unioni di persone dello stesso sesso
教会は 同性のふたりの関係に祝福を与える力を 有しているか?という問いが措定されたことに対して
Al quesito proposto : La Chiesa dispone del potere di impartire la benedizione a unioni di persone dello stesso sesso?
Al quesito proposto : La Chiesa dispone del potere di impartire la benedizione a unioni di persone dello stesso sesso?
答えは 否 である.
Si risponde : Negativamente
Si risponde : Negativamente
解説
今日,教会のなかの幾つかの場所において,同性のふたりの関係に対する祝福の計画と提案が 広まっている.そのような計画が homosexual である人々を[教会に]迎え入れ 彼れらに寄り添おうとする 真摯な意志によって 動機づけられていることは 希ではない.実際,彼れらに対しては,信仰における成長の道のりが提案されている —「homosexual の性向を顕わす人々が〈彼れらの生における神の意志を 理解し 十全に実現するために 必要な〉助けから 受益することができるように」[1].
その道のりにおいて,神のことばを聴くこと,祈ること,教会の典礼行事に与ること,愛のわざを行うことは,重要な役割を果たし得る — 彼れらが 自身の歴史を読み 自由と責任を以て 自身の洗礼の呼びかけを受け入れることに 自己参与することを,支えることによって.なぜなら,「神は あらゆる人を愛しており,教会も 同じく あらゆる人を愛している」[2] — 不当な差別を拒みつつ — からである.
教会の典礼行事のなかで,特別な重要性が 準秘跡 [ i sacramentali ] に 帰せられている.それらは「聖なる徴であり,それらによって,ある種の〈秘跡の〉模倣にしたがって,教会のとりなしのおかげで,特に spirituale な効果が意義され,かつ 得られる.準秘跡によって,人々は 秘跡の主要な効果を受けるよう 用意ができるのであり,人生のさまざまな状況が 聖なるものとされる」[3]. カトリック教会のカテキズムは,ついで,より正確に こう述べている:「準秘跡は,Spirito Santo の恵みを 秘跡 [ sacramenti ] と同様に 授けるものではないが,しかして,教会の祈りによって,準秘跡は,恵みを受ける準備をさせ,そのために協働する用意をさせる」(n. 1670).
祝福は,準秘跡の類に属する.祝福によって,教会は「神をたたえるよう 人々に呼びかけ,神の庇護を求めるよう 人々をいざない,自身の生の聖性を以て 神の慈しみに値するものとなるよう 人々に奨励する」[4]. さらに,「祝福は,ある意味で 秘跡を模倣して もうけられたものであり,常に かつ おもに spirituale な効果 — そのような効果を 祝福は 教会の願いによって 得る — にかかわるものである」[5].
したがって,準秘跡の性質と整合的であるために,祝福が ある人間関係に対して祈られるときには,祝福に与る者たちの正しい意向に加えて,次のことが 必要である:すなわち,祝福の対象となるものが,客体的に かつ 実定的に〈恵みを受け 恵みを表現するよう〉定められてある [ oggettivamente e positivamente ordinato a ricevere e ad esprimere la grazia ] — 被造界のなかに記入されており かつ 主キリストによって十全に明かされた〈神の〉計らいとの関数において — こと.したがって,ただ,そのものとして,それらの〈神の〉計らいに奉仕するよう定められてある現実のみ [ solo quelle realtà che sono di per sé ordinate a servire quei disegni ] が,教会によって与えられる祝福の本質と 両立可能である.
以上の理由のゆえに,同性のふたりの間の関係の場合のように,婚外の(すなわち,そのものにおいて 生命の伝達[注:生殖のこと]に開かれている〈ひとりの男と ひとりの女との〉解消され得ない関係 以外の)性的行為を包含する 関係 ないし パートナーシップ — たとえ 安定的なものであっても — に対して 祝福を与えることは,適法ではない [6]. そのような[そのものにおいて 生殖の可能性に開かれてはおらず,また,男女間の解消され得ない関係ではないような]関係のなかに 肯定的な要素 — それ自体としては 評価され 価値づけられるべき 要素 — が存在するとしても,そのことは,しかしながら,その関係を正当化し,かくして 教会による祝福を正当に受け得るものにするような性質のものでは ない — なぜなら,そのような要素は,創造主が計らうところへと定められてはいない関係 [ una unione non ordinata al disegno del Creatore ] に 奉仕しているからである.
さらに,人に対する祝福は 秘跡と連関しているのであれば,homosexual な関係の祝福は 適法とは見なされ得ない — なぜなら,同性どうしの関係の祝福は,いわば,結婚の秘跡において結ばれる男女について祈られる 結婚の祝福 [7] の 模倣 または それとの類比の示唆となるであろうが,しかるに,「homosexual な関係と 結婚および家族に関する神の計らいとを 同化するためには,または,両者の間に 類比を — たとえ 縁遠い類比であれ — 成立させるためには,如何なる根拠もない」[8] からである.
よって,同性のふたりの間の関係を祝福することは違法であると宣言することは,不当な差別ではなく,不当な差別となることを意図してもおらず,しかして,むしろ,典礼儀式の真理 および 何が〈教会が理解しているようなものとしての〉準秘跡の本質に深く対応しているかの真理を 想起させることを 意図しているのである.
キリスト教共同体と牧者たちは,homosexual な性向を有する人々を 敬意と 繊細な心遣いとを以て 迎え入れるよう 要請されている.そして,キリスト教共同体と牧者たちは,彼れらに 福音の豊かさを 告げ知らせるための〈教会の教えに合致した〉最も適切な手段を見出すことが できるだろう.同時に,homosexual な性向を有する人々の側も 教会が彼らの誠実な隣人である — 教会は,彼れらのために祈り,彼れらに寄り添い,彼れらのキリスト教信仰の歩みを分かち合う [9] — ことを 認め,真摯な受容性を以て 教会の教えを 迎え入れることを,教会は 願っている.
提起された dubium に対する この回答は,神の〈啓示された〉計らい — 教会の教えによって提示されているような 神の計らい — に対して忠実な態度において 生きようとする意志を表明している〈homosexual な性向を有する〉個個人に対して 祝福が授けられることを,排除してはいない [10]. しかして,この回答は,彼れらの関係を是認することへ向かうことになる祝福を 如何なる形におけるものであれ 違法 と 宣言する.実際,そのような祝福は,〈上に言及した意味において,ある個人を 神による護りと助けに委ねる意図を〉表明するものではなく,しかして,〈神が計らうところ — それは 啓示されている — へと 客体的に定められている [ oggettivamente ordinate ai disegni rivelati di Dio ] とは認められ得ない《生の》選択と実践を 是認し 奨励する 意図を〉表明するものとなってしまうだろう [11].
それと同時に,教会は,このことを想起させる:すなわち,神 自身 は,この世において巡礼にある〈神の〉子どもたちを おのおの 祝福してやまない — なぜなら,神にとっては,「我々は,我々が犯し得る罪すべてよりも よりだいじである」[12] からである.だが,神は,罪を祝福しないし,罪を祝福することもできない.神が 罪深い人間を 祝福するするのは,人間が〈人間は 神の《愛の》計らいに属している ということを〉認められるようになるためであり,かつ,人間が〈自身が神によって変えられることを〉受け容れられるようになるためである.なぜなら,神は,我々を 我々があるがままに 受容するが,しかし,決して 我々を 我々があるがままに 放置してはおかない」[13] からである.
以上に述べた理由によって,教会は,上に示した意味において 同性のふたりの関係を祝福する力を 有してはいないし,有することもできない.
教皇フランチェスコは,教理省の秘書官に与えた接見のなかで,上記の Responsum ad dubium および 付属の解説 について 報告を受け,それらを公表することに 同意した.
ローマにおいて,聖ペトロの使徒座の祝日,2021年02月22日に,教理省の座から 与えた.
教理省 長官 枢機卿 Luis F. Ladaria, SJ
教理省 秘書官 Cerveteri 名義大司教 Giacomo Morandi
[1] フランチェスコ (2016), 使徒的勧告『愛の喜び』n.250.
[2] 司教シノドス (2018), 第 15 回 通常総会 最終文書.
[3] 第 II ヴァチカン公会議,典礼憲章 Sacrosanctum Concilium, n.60.
[4] Rituale Romanum ex Decreto Sacrosancti Oecumenici Concilii Vaticani II instauratum auctoritate Ioannis Pauli PP. II promulgatum, De benedictionibus, Praenotanda Generalia, n. 9.
[5] Ibidem, n. 10.
[6] カトリック教会のカテキズム,n.2357.
[7] 実際,結婚の祝福は,創造の物語へ 回送する — そこにおいて,男[アダム]と 女[エヴァ]に対する 神の祝福は,彼れらの多産な関係 (cf. Gn 1,28) および 彼れらの相補性 (cf. Gn 2,18-24) に関連づけられている.
[8] フランチェスコ (2016), 使徒的勧告『愛の喜び』n.251.
[9] cf. 教理省 (1986), カトリック教会の司教たちへの書簡 Homosexualitatis problema, n.15.
[10] 実際,De benedictionibus は,そのために 主の祝福を 祈るべきところの 諸状況の 膨大なリストを 提示している.
[11] cf. 教理省 (1986), カトリック教会の司教たちへの書簡 Homosexualitatis problema, n.7.
[12] フランチェスコ,2020年12月02日の一般接見,祈りに関する教理問答:祝福.
[13] Ibidem.
同性のふたりの関係の祝福に関する疑問に対する 教理省の回答
Responsum della Congregazione per la Dottrina della Fede ad un dubium circa la benedizione delle unioni di persone dello stesso sesso
Responsum ad dubium に関する注釈記事
Articolo di commento del Responsum ad dubium
このたび 教理省が発表した文書は,ひとつの疑問 — 古典的な用語[ラテン語]で言うなら dubium[疑い]— に対する回答 [ responsum ] である.その疑問は,通例 そうであるように,論争の的となっている問いについて指南的な説明を必要とする牧者や信者によって 提起された.キリスト者の生にとって決定的な領域における問題的な発言や実践によって惹起された不確実性に対して,肯定または否定により回答することが 要請され,そして,次いで,選び取られた立場を支える議論を提示することが 要請される.教理省の発言の目的は,このことである:福音の要請に よりよく応え得るよう 普遍教会を支えること;論争を解決すること;そして,聖なる〈神の〉民のなかに健全な交わりを促進すること.
論争の対象となった問いは,「homosexual である人々を[教会に]迎え入れ 彼れらに寄り添おうとする 真摯な意志」という枠のなかで 措定されている.「彼れらに対しては,信仰における成長の道のりが 提案されている」— それは,教皇フランチェスコが 家族に関して 二度にわたり 行われた 司教シノドスの結論において 示しているように,「homosexual な性向を現わしている人々が〈彼れらの生において 神の意志を 十全に 理解し そして 実現するために 必要な〉手助けから 受益することが できるように」(Amoris laetitia, n.250) するためである.かかわっているのは,このことに関して提起された 司牧的な計画と提案を 適切な識別を以て 評価するように という 招きである.それらの計画と提案のなかには,また,同性のふたりの関係に対して祝福を与えることも 含まれている.かくして,問われているのは このことである:教会は 同性のふたりの関係に祝福を与える力を 有しているか ? それが,quæsitum に含まれた命題である.
回答 — Responsum ad dubium — は,添付された〈2021年02月22日付の 教理省の〉解説 — その公表に パパ フランチェスコは みづから 同意を与えた — において 説明され,理由づけされている.
解説は,「人」と「関係」とを区別することに 焦点を当てている.その区別は,かくも 根本的であり,決定的であるので,同性どうしの関係に対する祝福に関する否定的な判断は homosexual である人々に関する判断を包含するものではない.
なによりもまず,人である.教理省により作成された Considerazioni circa i progetti di riconoscimento legale delle unioni tra persone omosessuali[homosexual である人々の間の関係の法的な是認の計画に関する考察](2003) の n. 4 および 「カトリック教会のカテキズム」の n. 2358 において述べられていることは,後戻り不可能な点であり,今回の問題についても妥当している :「教会の教えによれば,homosexual な性向を有する人々は,敬意と 共感と 繊細な心遣いとを以て[教会共同体に]迎え入れられるべきである.彼れらに対しては,あらゆる〈不当な差別の〉しるしを示さないようにすべきである」.この教えは,今回の解説においても想起され,繰り返されている.
だが,同性の人どうしの関係に関しては,Responsum ad dubium は「彼れらの関係を是認することへ向かうことになる祝福を 如何なる形におけるものであれ 違法 と 宣言する」.その違法性を,解説は,三つの次元の理由 — それらは 相互に関連しあっている — に関連づけている.
第一の理由は,祝福の真理と価値によって 与えられる.祝福は,準秘跡 [ i sacramentali ] の類に 属する.準秘跡は「教会の典礼行為」であり,それは〈それが 意義し 生成するものと〉生命的な協和音を成すことを 要請する.そのような準秘跡の意義と成果を,解説は,手短に説明している.したがって,ひとつの人間関係に対する祝福は,〈その人間関係が《祝福によって それに対して 言われ 与えられる 善を,授かり 表現するよう》定められている [ essa sia ordinata ] ことを〉要請する.
次に,第二の理由:[誰か あるいは 何かを]賜を授かりあたうものにする 定め [ ordine ] は,「被造界のなかに書き込まれており かつ 主キリストによって十全に明かされた〈神の〉計らい」によって 与えられる.そのような〈神の〉計らいに,「婚外の(すなわち,そのものにおいて 生命の伝達に開かれている〈ひとりの男と ひとりの女との〉解消され得ない関係 以外の)性的行為を包含する 関係 ないし パートナーシップ — たとえ 安定的なものであっても —」は,応じていない.そのような関係に,同性のふたりの間の関係は 該当する.しかしながら,かかわっているのは,それだけではない.同性どうしの関係だけが問題となるのではなく,しかして,あらゆる〈婚外の性的行為を包含する〉関係も また 問題である.そのような行為は,絶えざる〈教会の〉教導権が教えるところによれば,道徳的観点から 違法である.
ということは,教会は そのような関係に祝福を与える力を 有してはいない,ということである.なぜなら,教会は,神の計らいを恣意的に扱うことはできないからである.もし仮に教会が神の計らいを恣意的に扱うならば,神の計らいは 否認され 否定されてしまうことになるであろう.教会は,神の計らいが表現している〈命の〉計画と真理の裁定者ではなく,しかして,それらの〈忠実な〉解釈者であり,告知者である.
第三の理由を与えるものは,同性のふたりの関係を祝福することを 婚姻関係を祝福することに 同化してしまうことは 誤りである ということである — そのような誤りに 我々は 容易に誘導されるかもしれないが.人に対する祝福は秘跡と連関しており,そのような連関のゆえに,同性のふたりの関係を祝福することは,ある意味で,「結婚の秘跡において結ばれる男女に対して授けられる 結婚の祝福の 模倣 または それとの類比の示唆」となるであろう.しかし,そのようなことは,誤っており,かつ,過誤をおかさせるものである.
以上に述べた理由によって,「homosexual な関係の祝福は,適法とは見なされ得ない」.この宣言は,教会が あらゆる人に対して払っている 人間的かつキリスト教的な敬意を 如何なるしかたにおいても 損なうものではない.であればこそ,このたびの responsum ad dubium は,「神の〈啓示された〉計らい — 教会の教えによって提示されているような 神の計らい — に対して忠実な態度において 生きようとする意志を表明している〈homosexual な性向を有する〉個個人に対して 祝福が授けられることを,排除してはいない」.