2021年3月27日土曜日

パパ フランチェスコは 教理省の「同性カップルの祝福は違法」の判断に対して 批判的?


Papa Francesco all'Angelus del 21 marzo 2021


パパ フランチェスコは 教理省の「同性カップルの祝福は違法」の判断に対して 批判的?



アメリカのイェズス会の週刊誌 America の記者 Gerard O'Connell らが報ずるところによると,「パパ フランチェスコは,2021年03月21日(四旬節 第 5 主日)の 正午の Angelus の際の講話において,同月15日に発表された 教理省の Responsum ad dubium における『同性カップルの祝福は違法』の判断を,暗に批判した」と 幾人かの教皇庁内部の情報源(うち ひとりは 高位聖職者;いずれも 匿名性を条件として 取材に応じた)が 語っている.

まずは,Papa Francesco の〈その日の Angelus の際の〉講話を 実際に 読んでみよう(下線による強調は ルカ小笠原晋也による):

******
この 四旬節 第 5 主日,ミサ典礼において告げ知らされた福音は,聖ヨハネが物語っている このエピソードである — それは,キリストの[地上における]生の最後の日々 — 受難の少し前 — に 起きたことである (Jn 12,20-33) : イェスが 過越祭のために イェルサレムにいたとき,幾人かのギリシャ人たち — 彼らは,イェスが為したことに 好奇心を持つ — が,「イェスに 会いたい」という欲望を 表現する.彼らは,使徒フィリポに近づき,彼に言う :「我々は イェスに 会いたい」(v. 21). 「我々は イェスに 会いたい」.この欲望を 記憶にとどめておこう :「我々は イェスに 会いたい」.フィリポは そのことを アンドレに 話し,そして,ふたりは そのことを 主に 言う.それらギリシャ人たちの求めのなかに,我々は 垣間見ることができる — あらゆる場所と あらゆる時代に 多数の男たちと女たちが 教会に向けて また 我々のおのおのに向けて 発した この求めを :「我々は イェスに 会いたい」.

そして,如何に イェスは この求めに 応えたか ? 彼の応え方は,省察を促すものである.彼は こう言う :「ついに到来した,人の子が栄光を授かるべきときが.Amen, amen, わたしは あなたたちに 言う:もし 地に落ちた一粒の麦粒が死なないなら,それは ひとつのままに とどまる.だが,逆に,それが死ぬなら,それは 豊かな実りを 実らす」(vv. 23-24). このイェスのことばは,ギリシャ人たちが発した求めに応えていないかのように見える.だが,実際には,イェスのことばは,はるか彼方へ向かう.イェスは,実際,このことを明かしている:すなわち,イェスは,彼を捜し求めたいと欲する者すべてにとって,豊かな実りをもたらすために死ぬ用意のできた〈隠された〉種[たね]である,ということ.イェスは こう言おうとしているかのようだ:もし あなたたちが わたしを 識りたいならば,もし あなたたちが わたしのことを わかりたいならば,地に落ちて死ぬ麦粒を 見なさい,すなわち,十字架を 見なさい.

我々は,十字架という徴 — 幾世紀かのうちに すぐれてキリスト者たちを象徴するものとなった 十字架という徴 — に 思いを馳せたくなる.多分 キリスト教がほとんど識られていない国や文化に属する者が 今日 なおも「イェスに会いたい」と欲するとき,その者は まず 何を見るか ? その者が出会う〈最もよく見かけられる〉徴は 何か ? 十字架にかけられたイェスの像である.十字架である — 教会のなかで,キリスト者たちの家のなかで,さらには,キリスト者たちが身につけて.重要なのは,このことである:徴は 福音と整合的でなければならない.十字架が表現し得るのは,まさに このことにほかならない:愛,奉仕,留保なく自身を与えること.そうであることによってのみ,十字架は,まことに「いのちの木」— ありあまるいのちの木 — である.

今日も また,多数の人々が,しばしば そうとは言わないままに,暗黙のうちに,「イェスを見たい,イェスに会いたい,イェスを識りたい」と欲している.それゆえ,我々キリスト者には,我々の共同体には,彼れらに応ずるべき 大きな責任がある,ということが 理解される.我々も また 応えねばならない — 奉仕のなかで自身を与える生について,神のありかた — 身近さ,共感,優しさ — を引き受け,奉仕のなかで自身を与える生について 証しすることによって.かかわっているのは,このことである:愛の麦粒を播くこと — ただし,飛び去ってしまう言葉によってではなく,しかして,単純で 勇気のある 具体例によって;理論的な断罪 [ condanne teoriche ] によってではなく,しかして,愛の所作によって.そのとき,主は,恵みによって,我々を実らせてくれる — たとえ 地が不毛になっているときでさえ — 無理解と 困難と 迫害のせいで あるいは 聖職者たちによる律法主義や道徳主義の主張 [ pretese di legalismi o moralismi clericali ] のせいで.それこそが 不毛な地である [ questo è terreno arido ]. しかし,まさに そのとき,試練において,孤独のなかで,一粒の麦粒は死ぬが,いのちは 芽生える — 実りを生み出すために.その実りは,時が到来したとき,熟しているだろう.この〈死と いのちとの〉混ざり合いのなかで,我々は,喜びを 経験することができ,まことの〈愛の〉豊饒性を 経験することができる.愛は,常に 自身を与える — わたしは 繰り返し 言う — 神のありかたにおいて,すなわち,身近さと 共感と 優しさにおいて.

我々が イェスに追い従うことができるよう,奉仕の道を 力強く 喜びに満ちて 歩んでゆくことができるよう,おとめマリアが 我々を 助けてくださいますように — キリストの愛が あらゆる我々の態度のなかで 輝き,そして,常に ますます キリストの愛が 我々が日常生活を生きるしかたとなりますように.

******
下線で強調された表現が「同性カップルを祝福してはならない」と判断した 教理省の Responsum ad dubium を暗示しており,そして,それによって Papa Francesco が 教理省の判断を批判している ということは,この講話が 教理省のテクストの発表の 6 日後に行われたという文脈を考慮するなら,このうえなく明白である.

では,なぜ Papa Francesco は 問題の Responsum ad dubium の発表に「同意」したのか ?

まず,Gerard O'Connell の この指摘に 注目しよう.問題のテクストは,次の一文によって しめくくられている:

Il Sommo Pontefice Francesco, nel corso di un’Udienza concessa al sottoscritto Segretario di questa Congregazione, è stato informato e ha dato il suo assenso alla pubblicazione del suddetto Responsum ad dubium, con annessa Nota esplicativa.

教皇フランチェスコは,下記の教理省秘書官 [ Giacomo Morandi ] に与えられた接見の際に,上記の Responsum ad dubium および 付属の注釈記事について 報告を受け,その公表に同意を与えた.

そこに含まれている è stato informato e ha dato il suo assenso という表現に注目するよう Gerard O'Connell は 我々を促している.というのも,その表現は,教皇庁の公式文書において 通常 用いられている表現とは 微妙に異なるからである.たとえば,同様の 教皇庁の Responsum ad dubium の ひとつ Risposte a quesiti proposti sulla validità del Battesimo conferito con la formula « Noi ti battezziamo nel nome del Padre e del Figlio e dello Spirito Santo »[「わたしたち(教会共同体)は あなたに 父と子と聖霊の名において 洗礼を授ける」という式文によって授けられた洗礼の有効性に関して措定された問いに対する回答]は,こう締めくくられている:

Il Sommo Pontefice Francesco, nel corso dell’Udienza concessa al sottoscritto Cardinale Prefetto, in data 8 giugno 2020, ha approvato queste Risposte e ne ha ordinato la pubblicazione.

教皇フランチェスコは,2020年06月08日に 下記の教理省長官枢機卿 [ Luis Ladaria ] に与えられた接見の際に,この回答を承認し,その公表を命じた.

つまり,通常 用いられる〈教皇の権威の重みを感じさせる〉表現(ある文書を承認し,その公表を命ずる)に比べると,問題の Responsum ad dubium で用いられた表現(ある文章について 報告を受け,その公表に同意を与える)は,明らかに「軽い」のである.

問題の Responsum ad dubium に関して接見が行われた日付は特定されていないが,Gerard O'Connell は,それが 教皇のイラク訪問(2021年 3月 5 - 8 日)の少し前のことであり,そのとき Papa Francesco は その訪問の準備のために 非常に多忙であったはずであることを,指摘している.つまり,いわば どさくさにまぎれて,教理省の秘書官(教理省長官自身ではなく!)が 教皇から 文書の公表の「同意」を かすめ取った,というわけである.

だが,我々は,そのように 教理省を「卑怯者」にしなくても よいかもしれない — Papa Francesco の 教皇としての「支配」のスタイルを考慮するならば.彼の「支配」のスタイルは,いわゆる上意下達のそれではない.つまり,自身の意見や見解を「最上位者の〈権威ある〉教え」として あらゆる者に押しつける ということを,彼は しない.彼は,自身とは意見や考えの異なる者たちを 批判はしても,決して 排除はしない — カトリック教会の 大きな schisma[分裂]を 誘発しないために.

我々は,彼のそのようなスタイルを,特に カトリック教会のなかの 女性 や LGBTQ に関する 彼の考えや決定に うかがうことができる.もし仮に 今 Papa Francesco が いっきに 女性の司祭叙階を認めたり,同性婚を結婚の秘跡と認めたりすれば,それに強行に反対する保守派が分裂さわぎを起こすだろうことは,目に見えている.Papa Francesco は,そのような事態が生ずるのを 慎重に避けているのだ,と 我々は考えることができる.

おそらく festina lente[ゆっくり急げ]は Papa Francesco のモットーのひとつだろう.カトリック教会の変化は ゆっくりとしか進行しない.第 2 ヴァチカン公会議 (1962-1965) の後,改革に対する揺り戻しが 聖 ヨハネパウロ II 世 と ベネディクト XVI 世のもとで 生じた.教会が 全体として 再び 第 2 ヴァチカン公会議の精神に立ち戻るためには まだまだ時間がかかる — そう Papa Francesco は 考えているだろう. 

最後に,参考までに,Papa Francesco の司牧スタイルが如何なるものであるかを 我々に よく わからせてくれる 彼の言葉を,この 3月23日に公表された 彼の文書 — レデンプトール会 (Congregatio Sanctissimi Redemptoris) の 創立者であり,傑出した道徳神学者として評価されている sant’Alfonso Maria de’ Liguori[聖 アルフォンソ マリア デ リグォーリ](1696-1787) が教会博士とされたことの 150 周年の日に レデンプトール会の総長 Michael Brehl 神父に宛てられた Papa Francesco の メッセージ  — から 引用して 紹介しよう.なぜなら,我々は,それらの言葉をも 彼の〈教理省に対する〉批判 と 取ることができるであろうから(下線による強調は ルカ小笠原晋也による):

Ogni azione pastorale ha la sua radice nell’incontro salvifico con il Dio della vita, nasce dall’ascolto della vita e si nutre di una riflessione teologica che sappia farsi carico delle domande delle persone per indicare strade percorribili. Sull’esempio di Alfonso, invito i teologi moralisti, i missionari ed i confessori ad entrare in rapporto vivo con i membri popolo di Dio, e a guardare all’esistenza partendo dalla loro angolazione, per comprendere le difficoltà reali che incontrano ed aiutare a guarire le ferite, perché solo la vera fraternità « sa guardare alla grandezza sacra del prossimo, che sa scoprire Dio in ogni essere umano, che sa sopportare le molestie del vivere insieme aggrappandosi all’amore di Dio, che sa aprire il cuore all’amore divino per cercare la felicità degli altri come la cerca il loro Padre buono » (Evangelii gaudium, n.92).

あらゆる司牧活動は,その根を,いのちの神との救済的な出会いのなかに 有しており,いのちに耳を傾けることから 生れ,神学的省察から — 人々が問う問いを,彼れらが歩み得る道を彼れらに示すために,みづから担うことのできる 神学的省察から — 栄養を 受ける.アルフォンソにならって,わたしは,道徳神学者たちと 宣教師たちと 聴聞司祭たちを このことへ いざなう:すなわち,神の民のメンバーたちとの生きた関係のなかに入り彼れらの視点から出発して 人生を まなざしなさい — 彼れらが遭遇する実際の困難を理解するために,そして,彼れらの傷を癒すことを助けるために.なぜなら,まことの兄弟愛のみが「隣人の聖なる偉大さを見ることが でき,あらゆる人間のなかに神を見出すことが でき,生の苦悩を ともに 神の愛にすがりつつ 耐えることが でき,他者たちの幸福を〈善き神がそれを探し求めるのと同様に〉探し求めるために 神の愛に対して心を開くことが できる」(福音の喜び n.92)からである.

Fedele al Vangelo, l’insegnamento morale cristiano chiamato ad annunciare, approfondire ed insegnare, sia sempre una risposta « al Dio che ci ama e che ci salva, riconoscendolo negli altri e uscendo da sé stessi per cercare il bene di tutti » (Evangelii gaudium, n.39). La teologia morale non può riflettere solo sulla formulazione dei principi, delle norme, ma occorre che si faccia carico propositivamente della realtà che supera qualsiasi idea (cf. ibid., n.231). Questa è una priorità (cf. ibid., nn.34-39) perché la sola conoscenza dei principi teoretici, come ci ricorda lo stesso sant’Alfonso, non basta per accompagnare e sostenere le coscienze nel discernimento del bene da compiere. È necessario che la conoscenza diventi pratica mediante l’ascolto e l’accoglienza degli ultimi, dei fragili e di chi è considerato scarto dalla società.

福音に忠実であるならば,キリスト教 道徳は,〈告げ知らせ,深め,教えるよう要請されたとき〉常に 神 — 我々を愛してくださり,我々を救済してくださる 神 — に対する応答であらねばならない —「他者たちのなかに神を認めつつ,かつ,すべての人々の善を探し求めるために 自己自身から脱却しつつ」(福音の喜び n.39).道徳神学は,原則や規範の公式化についてのみ省察していればよいのではなく,しかして,あらゆる観念を超えた実在性をも 主題的に担うことが 必要である(同書 n.231 参照).それは,優先されるべき課題である(同書 nn.34-39)— なぜなら,聖アルフォンソ自身も指摘しているように,神学的な原則を識っているだけでは,為し遂げるべき善を識別することにおいて 人々の意識に寄り添い かつ 人々の意識を支えるためには,十分ではないからだ.このことが必要である:すなわち,識知が実践となる —[何らかの社会的序列において]最後尾に位置づけられた人々,弱い人々,社会から打ち捨てられていると見なされた人々の声に耳を傾け,彼れらを迎え入れることによって — ことが,必要である

Sull’esempio di sant’Alfonso Maria de’ Liguori, rinnovatore della teologia morale, si rende auspicabile e dunque necessario affiancare, accompagnare e sostenere i più destituiti di aiuti spirituali nel cammino verso la redenzione. La radicalità evangelica non va contrapposta alla debolezza dell’uomo. È necessario sempre trovare la strada che non allontani, ma avvicini i cuori a Dio, così come fece Alfonso con il suo insegnamento spirituale e morale. Tutto ciò perché « l’immensa maggioranza dei poveri possiede una speciale apertura alla fede; hanno bisogno di Dio e non possiamo tralasciare di offrire loro la sua amicizia, la sua benedizione, la sua Parola, la celebrazione dei Sacramenti e la proposta di un cammino di crescita e di maturazione nella fede. L’opzione preferenziale per i poveri deve tradursi principalmente in un’attenzione religiosa privilegiata e prioritaria » (Evangelii gaudium, n.200).

道徳神学の改革者である 聖 アルフォンソ マリア デ リグォーリにならって,こうすること — 救済への道において 最も〈精神的な助けを〉欠いている人々の隣に立ち,彼れらに寄り添い,彼れらを支えること — が 望ましく かつ ゆえに 必要となる.福音がラディカルであることは,人間が弱いことに 対立しはしない.このことが 常に 必要である:すなわち,人々の心を 神から遠ざけるのではなく 神に近づける道を みつけること — アルフォンソが 彼の 精神的な教え と 道徳的な教えとによって そうしたように.以上のこと すべては このことのゆえにである:すなわち「貧しい人々の大多数は,信仰に対して 特別に開かれてある態度を有している彼れらは 神を必要としており,我々は 彼れらに これらのことを — 神の友情を,神の祝福を,神のことばを,秘跡の祝いを,信仰における成長と成熟の道を提示することを — 提供することを怠ることは できない.貧しい人々に対する優先的な選択は,おもに,特権的かつ優先的な宗教的配慮によって 表現されねばならない」(福音の喜び n.200).

Vi invito, così come ha fatto sant’Alfonso, ad andare incontro ai fratelli e alle sorelle fragili della nostra società. Ciò comporta lo sviluppo di una riflessione teologico morale ed un’azione pastorale, capace di impegnarsi per il bene comune che ha la sua radice nell’annuncio del kerygma, che ha una parola decisa in difesa della vita, verso il creato e la fratellanza.

わたし [ Papa Francesco ] は,聖アルフォンソがそうしたように,あなたたちを いざなう — 我々の社会の〈弱い〉兄弟姉妹たちに会いにゆくことへ.そのことは,共通善のために自己参与することができる〈道徳神学的省察と 司牧的行動との〉展開を 包含する — その展開は,その根を kerygma[使徒たちの宣教]に有し,被造物と兄弟たちに向けられた〈いのちを護るために決定的な〉ことばを有している.