Essen 司教 Mgr Franz-Josef Overbeck
Franz-Josef Overbeck エッセン司教は 教理省による〈同性カップルに対する祝福の〉禁止を 批判する:自然法にもとづく教会の教えは もはや受容され得ず,逆に,カトリック教義の信頼性をますます失わせるだけだ
Katholisch.de は,ドイツの Franz-Josef Overbeck エッセン司教が,彼の司教区の信者たちに宛てた 2021年03月19日付の書簡を発表したことを 報じている.その書簡において,彼は,同月 15日に公表された 教皇庁 教理省の「同性カップルの祝福に関する疑問への回答」— そこにおいて 教理省は 同性カップルの祝福を違法と断定している — を 批判している.彼の批判は,明示的に「自然法」(lex naturalis) に対する批判に基づいており,そのことにおいて,今回の教理省の Responsum ad dubium に対する 数多くの批判のなかでも 特に注目するに値する.そこで,以下に,彼の書簡の全文の邦訳を提示する.
なお,我々は,Franz-Josef Overbeck 司教の〈homosexual である信者に対する司牧に関する〉所論を 以前 既に紹介している.今回の書簡における彼の所論は,以前の所論を ほぼ そのまま 踏襲している.我々の記事は 彼に関する簡単な紹介も含んでいるので,それも 合わせて 参照していただきたい.
また,「自然法」(lex naturalis) という 道徳神学の概念が 如何なるものであるのかについては,我々の「カトリック教義における 自然法の神話と 男女両性の相互補完性の神話」を 是非 参照していただきたい.
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2021年03月19日
Essen 司教区の小教区へ
敬愛する司祭たち
敬愛する兄弟姉妹たち
敬愛する兄弟姉妹たち
ヴァチカンの教理省の〈同性パートナーシップの祝福の問いに関する〉文書は,この数日間,カトリック教会内外の人々の心情を刺激している.わたしのところには,多数の反応が届いている — とても多数の〈自己参与する〉信者たち および 特に 牧者たち から.彼れらは,この教理省文書において表現されている〈homosexuality の〉評価について 憤慨している.homosexual な指向を有する人々は,侮辱され 傷つけられた と感じている.非常に多くの反応 — わたしの司教区における,ドイツにおける,そして,より広範囲における — は,わたしの心を動かす.
このことは,あまりに明白となっている:すなわち,自然法 [ Naturrecht, lex naturalis ] にもとづく〈homosexuality に関する〉〈従来の 教会の教えの〉知覚と評価を 単に繰り返すことは,もはや 理解されも 受容されも しない.逆に,カトリックの性道徳そのものの〈ドラマティックな〉〈信頼性と もっともらしさの〉喪失が〈教会と最も密接な結びつきを有している〉信者たちの間で 加速化している.教会共同体と また まさに 多数の牧者たちとから 発せられた〈多くの 公開の〉徴候は,この数日間,教会の教えの見解の〈公開の〉拒絶を 表現へ もたらしており,それらの徴候を無視することは もはや 許されない.
それゆえ,教会の教えは,人間の sexuality について より広げられた見方をするよう 緊急に 要請されている.最近の数十年間の〈多くの人間科学の領域における〉学問的な進歩と 認識の進歩,および,なかんづく,日々の司牧から得られる経験は,本質的に〈従来よりも〉より深く 教会の教えのなかへ 統合されねばならない.ここにおいて かかわっているのは — 聖書の証しと 教会の教えと 伝統に関する あらゆる価値評価において — 時代の徴を翻訳すること である.それら〈時代の〉徴は,キリスト教の始まり以来,伝統全体を 生きた出来事として 把握するこを 助けてきた.単純な 一義的な 無時間的な 答えは,人間の生と あらゆる認識の歴史性とに対して,ほとんど適合的ではない.それゆえ,我々は,教会における原理主義的な誘惑に 屈してはならない.加えて,わたしは,明示的に このことを思い起こさせる:すなわち,性的暴力に関する科学的な研究にもとづく 重要な指摘は,このことへ注意を向けるよう 強く促している:すなわち,人間の sexuality に関する偏狭な視野も また 我々の教会における おぞましい[性的]虐待の歴史の培地の一部を成している,ということ.
わたしは,我々の教皇 フランチェスコの 勧告 — それを 彼は 常に くりかえし 強調している — を 高く評価している:彼は〈生の あらゆる問いにおいて 思慮深く考量し さまざまな視野を取り はやまった判断や評価を放棄する〉識別の技法を 我々に勧めている.ここで 根本的に取られている 態度は,このことを 考慮に入れている:すなわち,神の現在は,生の〈あらゆる〉時と状況 — そこにおいて まことに善きものと まことに人間的であるものが 展開されている — において,自身を示現している.そのことは,まさに 特に 人々が 相互に ともに 参与する〈敬意と愛に満ちた〉関係すべてにおいて 成起している.
それゆえ,我々の教会における〈homosexuality の〉〈真摯な かつ きわめて深く価値評価する〉新たな評価が 必要である — 多くの〈homosexual な指向を有する〉人々にとって,過去および現在における多大な苦悩の歴史からの〈遅まきながらの〉解放が成起し得るように.彼れらのうち 非常に多くが — 彼れらの家族や親族とともに — 過去の負傷の〈無数の かつ しばしば ほとんど瘢痕化していない〉創傷 — それらは治癒を必要としている — を 身に負っている.この[homosexuality の新たな評価の]歩みは,いまだに踏み出されていない.それは,同性どうしの関係と生活共同体の〈教会的な〉位置づけに関する敏感な問いからは独立したしかたで 歩まれるべきである.ヴァチカン 公会議 II は,そのようなやり方について,こう言っている :「さらに,辛抱づよさと謙虚さを以て 事物の秘密を探求しようと努力する者は,神の手によって導かれているかのごとくである — たとえ そう意識してはいなくとも.神は,あらゆる存在を支えており,それらを それらがそうであるところのものに しているからである」(Gaudium et spes, 36).
homosexual であるキリスト者たちは,正当にも,自身の生を imitatio Christi として理解している — 彼れらが 信頼に満ちた愛において 拘束力をともなって 互いに参与する関係においても.ゆえに,その絆を祝福してほしいという願望も 理解可能である — なぜなら,彼れらは,自由に かつ 責任意識を以て,教会のなかで 自身の〈洗礼という〉召命の形に応えたいと欲しているのだから.この可能性は,上述の教理省の文書においては,今日の事態の進展の見地において,厳然と拒まれている.だが,現在の 多くの 神学的 および 人間科学的 認識,ならびに,また,信者たちの信仰感覚 — それは,多数の信者たちにおいて,まさに 今日 明瞭に 表現に もたらされている — は,ほかの方向を指さしている.それによって,彼れらは,人間を その人 全体として 尊重したい と欲しており,そして,その際,その人の sexuality を無視したくはない と思っている.まさに〈人間が 自身の sexuality を 責任感を以て かつ 関係にある他者の尊厳の《無条件的な》尊重のもとで 生きるときに〉はじめて,sexuality は,分かちがたく その人の identity に 属している.
この連関において,我々の 今日の〈緊張を刻印された〉状況は,常に 繰り返し 司牧において 適切な提案と概念 — homosexual であるキリスト者たちが(なぜなら,彼れらは 洗礼を授かった者として 我々の教会の一部であるから)我々の教会との絆を保ち得るよう 助ける 提案と概念 — を探し求めるべきだ という 課題と奨励として,捉えられる.まさに,祝福の儀式 — それは,この文脈において,かくも重要な役割を果たす — は,当該の人々に司牧的に寄り添うことから発生した.されば,彼れらの生の善について 祝福 — 結婚に類似の祝福ではなく,しかして,寄り添うことの徴である祝福 — を唱えることは,このことを示すべきである:すなわち,教会の名において,神は,彼れらの関係のなかに 現在している,ということ.我々は,信仰に生きる人間たちにおける この「壊れやすい磁器」を 破壊してはならず,しかして,それを 彼れらの〈祝福に満ちた〉関係において 強めてゆかねばならない.
心からの挨拶と 祝福の願いとを 以て
Franz-Josef Overbeck