2021-04-04

主の御復活 おめでとうございます!

Caravaggio (1571-1610), Maria Maddalena in estasi (1606)

主の御復活 おめでとうございます!

LGBTQ カトリック信者の信仰共同体「LGBTQ みんなのミサ」(3月に 名称を LGBTCJ から「LGBTQ みんなのミサ」へ 変更しました)の 世話人から 皆さんへ 主の御復活のお祝いを 申し上げます.

昨年は,COVID-19 の全世界的流行のもと,東京大司教区では,灰の水曜日(2020年02月26日)の翌日から 6月20日 土曜日まで,公開ミサは中止され,わたしたちは 聖週間の祭儀にも 復活の主日のミサにも 与ることが できませんでした.そして,昨年 6月21日 日曜日から 公開ミサが再開された後も,今に至るまで,原則的に 毎月 1 回しか ミサに与ることができず,ミサのなかで歌うこともできず,その制限が いつまで続くのかも 予測不能です.毎週(あるいは,その気になれば 毎日でも)ミサに与り,歌って神を賛美することができる — 昨年 2 月までは 当たり前であったことが 実は どれほど「ありがたい」恵みであるのか,わたしたちは痛感させられています.

LGBTQ みんなのミサは,2016年07月17日に初めて行われた後,毎月 1 回 行われ続けてきましたが,昨年02月23日に行われた後,中止を余儀なくされ,今のところ いつ再開することができるか 予測不能です.月に 1 回 仲間が集い,ともにミサを祝うことができるということが どれほど感謝すべき恵みであることか,今 あらためて 感じています.

四旬節,いかに Jesus は 彼の苦しみにおいて わたしたちのために かつ わたしたちとともに 苦しんでいるかを,わたしたちは感じてきました.そして,彼が 死から 永遠の命へ復活した今,彼は,永遠の命の喜びを わたしたちに 分け与えてくれています.永遠の命は,わたしたちに死後に与えられる褒賞のようなものではありません.わたしたちは 今 もう既に 永遠の命を生きています — 誕生以来 ずっと.なぜなら,わたしたちが人間として生まれたのは,神が 息吹 (ruah, πνεῦμα, spiritus) によって そして 息吹として 永遠の命を わたしたちに吹き込んでくださったからです.

キリスト教の洗礼の秘跡は,そのことを わたしたちに 自覚させてくれます.その恵みに あらためて 感謝しましょう.そして,この復活徹夜祭に洗礼の秘跡を授かった方々に お祝いを申し上げます.

なぜ 主の復活を祝うために Caravaggio の Maria Maddalena in estasi を掲げるのか ? それは,以前にも説明したように,Jesus の 死から永遠の命への復活は 彼女の Dasein において成起したからであり,そして,そのことによって 彼女も また 死から永遠の命へ復活したからです.その意味において,キリスト教会の礎石であるのは,使徒 Petrus ではなく,しかして,Jesus から罪の赦しの秘跡を授かった Maria Magdalena です.彼女が Apostola Apostolorum[使徒たちの使徒]と呼ばれるにふさわしいのは,そのことによってです.

さて,最近,わたしたち LGBTQ カトリック信者にとって 嬉しい知らせと 悲しい知らせがありました.嬉しい知らせは,日本における同性婚法制化の可能性に関するものです.周知のように,2021年03月17日,札幌地裁で,武部知子裁判長は,憲法 24 条は 同性婚を禁止するものではなく,同性カップルに結婚を認めないことは 法のもとの平等の原則(憲法 14 条)に違反する,と判断しました.この判決は,日本における同性婚法制化のための非常に重要な一歩となるでしょう.

悲しい知らせは,3月15日,教皇庁 教理省が「同性カップルの関係を祝福することは(教会法上)違法である」という Responsum ad dubium を発表したことです.しかし,既に紹介したように,Papa Francesco は 暗に その判断を批判している と 思われます.

日本のカトリック教会のなかで この「同性カップルの祝福」の問題が どれほど話題になっているのか,今のところ なかなか聞こえてきませんが,そのなかで,今日(2021年04月04日)付の「カトリック新聞」のなかに ある司祭が「新たな倫理課題に 教皇は どう 向き合うか」と題したエッセーを発表しているのが 目にとまりました.紹介しましょう:

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昨今,フランシスコ教皇の周辺のことが 一般ニュースのなかで 目立ちます.なかでも 世間の注目を集めているように見えるのは,「教皇庁は同性婚を祝福できないと表明した」と報じたニュースでした.

教会は,歴史上,常に 時代の生みだす新たな倫理課題に直面し 解決を図ってきました.今,「同性婚」という かつて 人類史上 想定すらされなかった問題が 突如として 浮上したことに,フランシスコ教皇は,誠実に向き合い,答えを示そうとされています.教会が伝統的に主張してきた「原則」と,人々のなかから生じてきた現実の叫びに どう 折り合いを付けていくか,フランシスコ教皇の問題解決の手腕が問われているときです.

新たに解決すべき倫理課題が生じるたびに,教会は「原則」と「適用」という原理から 解決の糸口を見いだしてきました.なかでも,宗教改革運動を経験した近代カトリック教会が改革の柱として掲げた「司牧的配慮」[ cura pastoralis, pastoral care ] という観点は 重要です.何が何でも「原則」を優先させるという態度ではなく,具体的な事例のそれぞれに目を向け,人々の心情に寄り添う形で解決を模索することを第一義とすべき という立場から そうした態度が生じました.

「司牧的配慮」は「赦しの秘跡」の場(告解)で大いに発揮されるものです.「告解」で告げられる内容について,法や倫理規定によって絶対的な判断を下せることはむしろ少なく,多くの場合,人それぞれが置かれたケースによって,行われた行為についての判断が下されることの方が 多くあります.あるときには確実に「否」と断言できても,場合によっては「是」となるケースがあり得ることは 現実の法解釈にもあります.同様に,教会の取り組む倫理的な課題について,司祭が懇切丁寧にケースを見て 判断することに,「司牧的配慮」の余地が発揮されると言えるのです.

トリエント公会議 (1545-1563) 後,「赦しの秘跡」が重視され,状況の配慮が より強調されるような雰囲気となったとき,実際の現場に会員を 多数 送り出したイエズス会は,ケースを考慮する「良心例学」(casuistry) という分野を 発展させました.その背景には,アジアなどの宣教地で直面する〈ヨーロッパの原則では対処しきれない〉現実問題に突き当たる体験が頻繁にあった ということがあります.宣教師たちは,これまでの世界(ヨーロッパ カトリック世界)では想定すらされなかった問題に 異教の世界で 気づかされ,その都度,順守すべき「原則」と 可能な限りの「適用」の案出に 苦慮しました.原則はこうだが,例外もあり得る としなければ 根本解決は難しい事例が 多かったためです.

1590年代,日本宣教地で活動していた宣教師たちも,多くの事例で「原則」を押し通すことへの限界を 感じていました.苦慮の末,例外規定を いくつも 作り出しました.例えば,異宗婚(宗教の違う者どうしの婚姻)など考えもしなかったヨーロッパ人は,日本で キリシタンと異教徒の婚姻の成立を 真剣に議論せねばなりませんでした.また,人身売買を絶対の悪と認識していたとしても,戦争で捕虜となって連れ去られそうになったキリシタンを保護するため,金銭で買い取ることだけが唯一残された解決である場合に「例外規定」が考慮されるべき とも考えました.領主に命じられた異教の礼拝にキリシタン家臣が参列することは,命の危険を感じる場合にのみ 偶像崇拝の罪を犯すことにはならないし,春先の領主主催の宴席への参加は 四旬節の節制の義務を妨げるものではないなど,キリシタンたちの現実の問題が 例外の規定によって 乗り越えられていました.

「同性婚」については 今回 初めて,婚姻の原則から「祝福できない」との結論が導き出されたようです.ただし,原則からは受け入れられないとしても,何らかの「適用」の余地を残しているという議論は 今後 起こっても 不思議ではありません.フランシスコ教皇は「同性への愛」について,従来の教会とは異なる理解を示されています(教会内には賛否両論あるのも 事実です).この二つの態度は矛盾していると批判の声を上げる人々に,教会は真摯に向き合うことになるでしょう.具体的な「例外」が存在するとすれば それは何なのか.現状では 誰も その答えを持っていません.

今,「司牧的配慮」ならぬ「教皇の配慮」が働き,現代人の現実が直視され,ないがしろにされる人があってはならない という 教皇の固い決意が 感じられます.少数の人々の要求と悩みに真摯に寄り添う教皇の姿は 明らかです.フランシスコ教皇のリーダーシップに期待がかかるところです.

教会は,今後も,文明社会が発展を続ける限り,それまでには思いもよらなかった多くの倫理的課題を抱え続けることでしょう.その際,「原則」のみを貫くという態度から常に良い結果が生じるとも思えません.むしろ,個々の現実を熟慮し,「例外」の適用も十分考えに入れながら,現場に寄り添う という態度が 忘れられないことが 大切だ と思えます.

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この司祭は,上智大学で教鞭を取ってはいますが,どれほど 彼の言葉が LGBTQ を傷つけ得るか — 彼の教え子のなかにも LGBTQ は 必ず います — を考慮することができないようです.はたして 我々は「例外」なのか ? 彼にとって「原則」を成しているのは いったい 何なのか ? 

彼にとって「原則」を成しているのは,Thomas Aquinas が Aristoteles から カトリック神学へ導入した 形而上学的な「自然法」(lex naturalis) です.

それに対して,カトリック教会の本当の「原則」は,福音記者ヨハネがわたしたちに伝えており,キリスト者なら誰もが知っている Jesus の「愛の命令」です :「あなたたちは 互いに愛し合いなさい — わたしが あなたたちを愛したように」.神の愛は,誰をも排除せず,しかして,誰をも包容する (God is Love excluding nobody but including everybody) — それが カトリック教会の本当の原則です.

その原則にもとづくなら,わたしたち LGBTQ は「例外」なのか ? とんでもない ! 神は わたしたちを 愛してくださっており,わたしたち皆を祝福してくださっており,わたしたちどうしの愛の関係を祝福してくださっています.

にもかかわらず,Papa Francesco は 同性カップルに結婚の秘跡を授けることを認めないとすれば,それは,カトリック教会の schisma[分裂]を防ぐためです — 今,彼が「同性カップルにも結婚の秘跡を授ける」と言えば,うなじかたくななる保守派が分裂さわぎを起こすことは,目に見えています.彼が 今のところ 同性カップルの結婚を認めないのは,保守的な思考の信者たちに対する「司牧的配慮」のゆえにです.

神の愛の恵みが ひとりの例外もなく 皆さんとともにありますように.

どうか 引き続き 御健康に お気をつけください.

LGBTQ みんなのミサ 世話人