山内 保憲 神父さま SJ の ミサ説教,2021年05月30日,三位一体の主日,東京カテドラル
聖書朗読
第一朗読 : Dt 4,32-34.39-40
第二朗読 : Rm 8,14-17
福音朗読 : Mt 28,16-20
わたしは イスズス会という修道会の修道者です.今でも イエズス会の日本管区では 23 の 国や地域から 100 名以上の 会員が まだ いっしょに集まって 生活をしています.国籍も 年齢も ばらばらです.何より 性格が ばらばらです.ここだけの話,正直に言って,いっしょに生活するのは 本当に 大変です.現代において 神さまの〈目に見える〉奇跡が どこにあるのか ? — ひょっとすると,こうやって 何百年も 喧嘩しながら生活している イエズス会の修道生活が 奇跡かもしれません.
人間の交わり — 共同体 — ほど 面倒くさいことは ありません.自分と異なる人間と共に歩むということは 本当に 大変なことです.わたしたちの人生のなかで 人間関係ほど大変なものは無いのではないか と 思い知らされることが しばしばあります.
修道会の歴史を見ても,分裂や対立の繰り返しです.カトリック教会は いまだに プロテスタント教会との分裂の痛みを克服することが できていません.イスラエルとパレスチナの対立のニュースを聞いても,いったい いつまで こんな事が繰り返されるのか と ため息が出ます.
他方で,新型コロナウイルスという災害で,「ああ,わたしたちは やっぱり 社会的な動物であるのだ」ということを 嫌というほど 思い知らされています.人と人との交わりが どれほど わたしたちにとって 欠かせないものかを 痛感しています.
なぜ 人間は 交わりを 必要とするのか ? それは わたしたちの信仰する 神 御自身が 三位一体の主である ということと 結び付いている と思います.
別に,御父 ただ おひとりで 何もかもできるのかもしれません.しかし,神は,ひとつの本質であるにもかかわらず,三つの異なる存在という 不思議な あり方を しています.異なる位格を持つものが 互に 協力し合い,愛し合う — しかし,その本質は 実は ひとつなんだ という 不思議な姿です.すなわち,わたしたちの信じている 神が そもそも 自分と異なるものとの交わり,共に働く姿を しているのだ ということです.
人は,そんな神に かたどって 造られました.他者との関わりを持つことこそが,人の姿なのです.他者と交わり 共に働くこと を通して 神の愛の姿,すなわち 真の愛に 至ることができる と思います.
しつこいようですけれども,異なる他者と共に歩むことは 決して 簡単なことではありません.しかし,異なる他者がいなければ,本当の愛を実現することも できません.
教皇フランシスコの回勅 Fratelli tutti —「兄弟の皆さんへ」という この回勅 — のなかで,教皇は,「わたしたちは たがいの一部であり,たがいに兄弟姉妹である」こと,「他者に自分を与えること,他者を理解すること,他者との関わりを持つこと 無く 真の愛に至ることは ない」ということを,繰り返し 述べています.
この〈教皇さまの〉メッセージを受けて,今,全世界の教会で synodality という言葉が キーワードになっています.「共に歩む教会」とでも訳すべきでしょうか.
教会は,すべての境界を超えていくよう 励まされています.他の民族,他の宗教,わたしとは異なる存在 すべて に 自分を 開いていくこと,これこそが,わたしたちが 三位一体の神の愛に近づく道です.
異なる他者と遭遇するとき,わたしたちが戦わなければならないのは phobia — すなわち「嫌悪感」とか「恐怖症」というふうに訳される現象 — です.
無意識のうちに 異質なものを排除しようとする心の動きが 起こってしまいます.しかし,その心の動きの中には,外国人に対する phobia, sexual minority の人々に対する phobia など,差別につながる深刻なものも 含まれます.
第 2 朗読の「ローマの教会への手紙」にあるように,「人を 奴隷として 再び恐れに陥れる 霊 に 支配されてしまっては いけない」— そう思います.
恐れの心の動きが起こるのは,自然なことかもしれません.しかし,神の霊に導かれているわたしたちは,ただ その恐れの奴隷でとどまっていてはいけない と思います.
5月の連休に,四谷の聖イグナチオ教会で,生活困窮者向けの「大人食堂」と「生活相談会」が 開かれた そうです.食料を受け取った人は 660 人.生活,医療,外国人,女性相談の窓口には 330 人が 訪れた そうです.COVID-19 という 経験したことのない災害のなかで 具体的なアクションを起こすことができた 素晴らしい例だ と思います.このプロジェクトは,北関東医療相談会や 難民支援協会などなど 多くの〈教会外の〉NPOが 関わり,実現した — むしろ,その方たちが 主体となって 進めてくださった — と 聞いています.
しかし,最初にこの計画を 教会の内部の人に 相談したときには,おしなべて 多くの人から 反対意見が多かった と 聞きます.ついつい 自分たちの居心地の良い場所を守りたくなってしまう — 外部の団体や,相談に来る不特定多数の他者に対して 恐れを抱いてしまった — と 聞きました.結果として,菊地 功 東京大司教さまの〈非常に 勇気ある〉識別と励ましの言葉を頂いて,このプロジェクトは実現することができた そうです.
このようなことは — 同様の出来事は — 阪神淡路大震災のときにも 経験しましたし,東日本大震災のときにも わたしたちは 聞きました.不安なときだからこそ,他者を排除する心の動きは,わたしの外から,また わたし自身の心の内から 絶えず 湧き出てきます.
先日は,入管法 — 入国管理の法律 — を改悪する動きが ありました.これは 何とか 多くの支援者の方々の努力によって とめることが できました.しかし,名古屋の入管施設で亡くなったスリランカ人の女性のことなど,まだまだ,わたしたちは 追究しなければならない事が あります.この亡くなった女性は 外国人の 仏教徒の〈わたしたちとは関係のない〉異なる存在では ありません.このような 排除される人,隅に追いやられる人こそが わたしたちの一部であり,わたしたちの兄弟であり 姉妹です.
恐れにとらわれて 動けなくなっては いけない と 思います.いましめを込めて 司祭団は 司祭団として 自分たちの世界にとどまっていてはいけない と 思います.修道者も 同じです.教会は 教会のなかにとどまっていてはいけない と 思います.
わたしたちは 恐れにとらわれない.なぜなら,わたしたちには,今日の福音書にあるように,「わたしは 世の終わりまで いつも あなた方と共にいる」と言われているからです.
わたしたちには,他者と共に働く三位一体の神が わたしたちと共にいる という 勇気が,与えられています.三位一体の主に 力づけられて,わたしたちが わたしたちの心を 開き,他者との関わりを持つときに,わたしたちは 真の愛に近づくことができます.
教皇さまの回勅のなかにあった 祈りの言葉の初めの部分を 引用して 締めくくりたいと思います:
神よ,愛の三位一体,あなたは あなたの神聖な命との深い交わりから 兄弟愛を 滝のように わたしたちに 注いでください.