2022年11月1日火曜日

2022年10月16日の LGBTQ みんなのミサでの 酒井陽介神父さまの説教

荘厳のキリスト(表紙絵の解説

2022年10月16日(年間 第 29 主日)の LGBTQ みんなのミサでの 酒井陽介神父さま SJ の 説教


第 1 朗読 :
Ex 17,08-13
第 2 朗読 : 2 Tm 3,14 – 4,02
福音朗読 : Lc 18,01-08


わたしたちは,皆,祈ります.祈りは「わたしは何者であるか?」を最も明らかにするものだ,と思います.それは,まったく心の内的な問題ですから,別に 公表する必要はありません.しかし,「わたしは 何に向かって祈っているのか? 何を祈っているのか? 誰のために 何のために 祈っているのか?」ということを わたしたち ひとりひとりが しっかりと思い起こすことは とても重要だ,と思います.

「わたしは どのような祈りをしているのか? 何に向かって祈っているのか?」ということは,「わたしは 何者なのか? わたしと わたしを取り巻く人々との 関わりは どのようなものであるか?」ということを 教えてくれる,と思います.

今日の 第 2 朗読の パウロのテモテへの手紙でも,「折が良くても悪くても 励みなさい」[ἐπίστηθι εὐκαίρως ἀκαίρως :(ロゴスを宣べ伝えることを)根気よく続けなさい,好機においても そうでないときにも]と言われていました.同様に,折が良くても悪くても,わたしたちは やはり 祈り続けなければなりません.

でも,その「祈る」は,単にブラブラブラと祈ることではなく,今日の 第 1 朗読のモーセのように,実際に 手を上げて — そして,その手に痛みを感じながら — 祈ることであり,かつ,ほかの人々に支えてもらいながら 祈ることです.

わたしたちは,具体的な行動や関わりを生きながら,祈ります.言葉において祈るときも,あるいは,言語化されないまま 心のなかで祈るときも,わたしたちは,本当に 自分の心と思いと結びついた形で — 自分の存在と結びついた形で — 祈らねばならない,と思います.

ここで,「教会共同体で祈る」ことの大切さについて,皆さんと分かち合いたい,と思います.

「教会共同体で祈る」ことは 重要だ,と思います.それは,わたしたちの 生き生きとした細胞です;それは,わたしたちを生かします.

「教会共同体で祈る」ことによって,わたしたちは,「ここで ともに 祝い,ここで ともに 囲み,ここで ともに 食し,ここで ともに 分かち合い,そして,ここから ともに 派遣されていく」ということを,とても具体的な形で — 身体的に — 体験することができます.

どのような形で わたしたちが教会共同体に関わっていようと,どのような形で わたしたちがその関わりを生きていようと,わたしたちの教会共同体が どれほど小さくても,どれほど 不十分であり 不完全であっても,やはり,それは 教会なのです.わたしたちが 教会なのです.

グループが どれほど小さくても,どれほど弱くても,あるいは,逆に,とても大きくて 目立つグループであろうと,そのような大小の差異にかかわりなく,わたしたちは 教会の一部であり,さらには,わたしたちが教会なのです.

わたしたちが 教会である — we are the church — この “we” に わたしたち皆が入っている — 教会は そのことを感じる場所ではないか,教会に来るということは そのことを感ずることではないか — そう思います.

We are the church, わたしたちが教会である,わたしたちも教会の一部である — そのことを実感すること — 教会に来るということは そういうことではないか,と思います.

勿論,祈ることは どこでも できます — ファミレスでも,喫茶店でも,自宅でも,職場でも,電車やバスのなかでも,車を運転していても,歩いていても,どこでも わたしたちは ひとりで 祈ることができます.それは,わたしたちの豊かな経験です.

また,今は,パンデミックのせいで,わたしたちは,離ればなれになり,オンラインのミーティングに慣れてしまいました.

しかし,実際に集まることによって,顔と顔を見あわせることによって,他者の息づかいを聞くことによって,「わたしは ひとりではない」,「わたしは この共同体の一部である」,「わたしたちが教会である」,“we are the church” ということを,わたしたちは,もう一度,あらためて 味わうことができる,実感することができる — そうであったらいいな,と思います.ですから,その意味でも,ひとりでも多くの人に ここに来てもらう ということは 大切だろう,と思います.

日本のカトリック教会は,小さな 小さな 群です;本当に “we are the church” として行かなければ,すぐに吹き飛んでしまうでしょう.ですから,わたしたちは,皆で 支えあい,祈りあって ゆきましょう — 折が良くても悪くても.

今は,もしかしたら,折が悪いときかもしれない,ものごとが 思うように進まないときかもしれない;それでも,わたしたちは,励んで行きましょう,ともに戒めあい,励ましあい,忍耐強く その時を待ちましょう,時をつくって行きましょう — そう心がけることができたら いいな,と思います.

わたしたちは,単なるグループではなくて,教会です.勿論,実務の都合上,やり方によっては,いろいろなグループに分けられます.しかし,やはり,最も 広く,最も根底に 持たなければならないのは,「わたしたちは教会である」ということです.

そのとき,小教区の区別も 教区の区別も 超えてゆくものが ある,と思います.それは,神の霊です.

神さまは,この小教区は — この信者は — 熱心だから… というような見かたは しません.わたしたちは 皆,呼ばれ,招かれ,たいせつにされています.

ですから,ここに集う人々がいれば,それは,大きな喜びになる,と思います;そして,これは,皆が作り上げて行くグループなのだ,わたしたちが教会なのだ ということを感じることができれば,このミサも とても意味のあるものになる,と思います.

2022年09月18日の LGBTQ みんなのミサでの 光延一郎神父さまの 説教

十字架のイェス(表紙絵の解説

2022年09月18日(年間 第 25 主日)の LGBTQ みんなのミサでの 光延一郎神父さま SJ の 説教


第 1 朗読 :
Am 8,04-07
第 2 朗読 : 1 Tm 2,01-08
福音朗読 : Lc 16,01-13


今日の福音の譬え話[不正な家政管理人]は,日本社会で 最近 起きていることを 思い起こさせます:オリンピック委員会の汚職スキャンダル,カルトと政治家の親密な関係,高級官僚の天下りの問題,等々 — そのようなことは,いろいろなところで,いろいろなかたちで,起きているのでしょう.

この譬え話を イェスは 弟子たちに向けて 語った — ということは,それは,今 教会のために働いている人々に向けられている,と捉えることもできるでしょう.

先週[年間 第 24 主日,長い福音朗読で]読まれた 放蕩息子の譬え (Lc 15,11-32) も,ある意味で,財産について 最終的に 神との関係において どう考えていくか ということが テーマになっていました.終わりのときに直面して,わたしたちは,今までの生き方 — この世での生き方 — と 神との関わりに どう決着をつけるか — そのことが 今日の福音朗読でも 問われている と思います.

管理人が忠実であるべきは,主人に対してである;わたしたちが忠実であるべきなのは,この世の富(マモン)に対してではない;そうではなく,主なる神に対してである;本当の主人である神に対して忠実であるべきだ — 不正な管理人の譬えは,結局,そう言っている,と思います.

第 1 朗読の アモスの書 (8,04-07) でも,終末のことが念頭に置かれています;貧しい者を踏みつけ,苦しむ農民を押さえつけている者たちのことを,主なる神は,いつまでも — 世の終わりのときまでも — 忘れない;主は,必ず,正義にもとづいて,最後の審判を行う — そういう終末論です.

第 2 朗読の ティモテへの手紙は,使徒パウロの「司牧書簡」(pastoral epistles) [1] に属しています.それらと「公同書簡」(catholic epistles) [2] は,西暦 2 世紀に,教会の組織ができていったころ — 初期カトリック教会の時期 — に 書かれました.ですから,司牧書簡は,実際にパウロが書いたものではなく,彼の思想の影響を受けた 弟子たちが 書いたものであろう,と言われています.昔の偉い人の名前で書かれた手紙という様式です.

[1] 新約聖書に収録されているパウロ書簡のうち,彼がティモテへ宛てた ふたつの書簡 および テトスへ宛てた書簡は,特に「司牧書簡」(pastoral epistles) と 呼ばれる.現在の通説によれば,それらの作者はパウロ自身ではなく,それらが書かれたのはパウロの死後のことである.

[2] 新約聖書に収録されている使徒たちの書簡のうち,パウロ書簡以外のもの — ヤコブ書簡,ふたつのペトロ書簡,三つのヨハネ書簡,ユダ書簡 — は「公同書簡」(catholic epistles, general epistles) と 呼ばれる.しかし,聖書学者たちの多くは,それらの作者は 12 使徒のうちの ヤコブ,ペトロ,ヨハネ,ユダである という説を,強く疑っている;そして,それらが書かれたのは 1 世紀終わりから 2 世紀にかけてであろう,と考えられている.

その背景には,ローマ帝国との関係が あります.そのことは,「王たちや すべての高官のためにも(願いと 祈りと とりなしと 感謝を)ささげなさい」と言われていることからも うかがえます.ローマ帝国ににらまれるようなことはしないで,平穏で 落ち着いた 生活をして,キリスト教は決して悪いものではないという評判を周りに作ってゆく — そういうことが信者たちに求められていた,と考えられます.

ですから,マルコ福音書のように ラディカルなイェスとの関わりは 描かれていない.それよりも,もっと外的なこと,秩序 — そのようなことが前面に出てきている.

そして,こう述べられています:「わたしたちが 常に 信心と品位を保ち,平穏で 落ち着いた 生活を 送るため」[
ἵνα ἤρεμον καὶ ἡσύχιον βίον διάγωμεν ἐν πάσῃ εὐσεβείᾳ καὶ σεμνότητι : 我々が,静かな かつ 平穏な 生活を〈まったく敬虔であり,かつ,人々から尊敬され得る状態において〉おくることができるように].

今日,わたしは,この「品位」
[ σεμνότης ] という言葉に,とても引きつけられました.この世の金を巡る人々の争いは,まったく品位に欠ける生活です.

しかし,フランシスコ教皇が 回勅
Laudato si’Fratelli tutti を書いたのは,信徒に向けてだけではなく,全世界の人々に向けてです.信仰のある人々は,勿論,それらの深い意味を受け取るでしょう.しかし,信仰を持っていない人々に対しても,彼らが人間である限り,必ず,教皇の言葉は 通じるはずです.善きサマリア人の譬えや 隣人愛の概念は,信仰を持っていない人々に対しても,通じるはずです;そのことが前提されています.

カトリックの観点は,決して ある人々に限定されてはいません.

それに対して,カルト宗教は,教祖の周りに 教祖の言うことを聞く人々だけを集め,そして,集団意識,全体主義,独裁主義によって 信者を縛ってしまう;そこには,本当の自由は 全然 ありません.

カトリックは,人々を さまざまな縛りから 解放し,自由にしてゆきます.その神学的な基礎は,Thomas Aquinas が 言った このことです:「恵みは,自然を破壊せず,むしろ,それを完成する」
[ gratia non tollat naturam, sed perficiat ] [3].
 
[3] Cum enim gratia non tollat naturam, sed perficiat, oportet quod naturalis ratio subserviat fidei; sicut et naturalis inclinatio voluntatis obsequitur caritati.

実際,恵みは 生得的なものを 除去するのではなく,しかして,それを完成させるのであるから,生得的な理性は 信仰に 奉仕せねばならない — 生得的な〈意志の〉性向が愛に従うのと同様に.

つまり,自然は 自然で 自律的であっていい;人間の生得的な理性の働きとか,いろいろな科学技術とか,そのようなものは,それでよい.そして,さらに恩恵の働きが — 神の働きが — 包むようなかたちで,絶えず よい方向に方向づけてくれているのだ,ということです.

例えば,カトリックの学校とか 大学とか — 上智大学とか — その真ん中に 神学部がある;この大学は カトリックの精神でやっている;でも,そのなかの学部や学科は,神学部を除けば,ほとんど 世俗のものです — 言語学,法律,理工学部,等々.ですから,大学のなかにいても,普段は,キリスト教的なものと 直接 接することは,ほとんどない.しかし,やはり,大学として,カトリック的な人間観,世界観,社会観を以て やっている;それによって,世俗的な学問も,それぞれ,自律性を保ちながら,よい方向に進んでいくことができるだろう,というわけです.

その基にあるのは,やはり,persona という 人間観です.Persona の概念は,人間の自律性を包含している.しかし,Thomas Aquinas は,さらに もう一歩 進んで,こう言っています : persona は,単に 人間は 自身を統御でき,制御でき,コントロールすることのできる 個人である ということだけでなく,しかして,このことをも包含している:人間は,他者と交わることができる ; persona どうしで 分かち合うことができる;関わりを深めあうことができる.Persona は,人間がそのような社会的な存在であることの根拠である.

Thomas Aquinas が そう言っていることを,わたしは 最近 発見しました;すばらしいなと思って,いろいろなところで そのことを話しています.

今日の福音朗読の不正な管理人とか,今 行われている戦争とか,やはり,何かいいもの — 資源 — を奪い合うことの競争です;それにもとづいて,人間たちは,争いを起こし,差別をする.

それに対して,persona という人間のあり方は,そのように争いを引き起こすものではなく,しかして,精神的な価値です.真理,愛,友情,社会的な権利 — 人間として生きている人間が精神的に捉えることができる そのような 精神的価値は,争いの種にはならない;むしろ,分かち合われ,共有されることによって,深まってゆき,豊かになってゆくものです.

グローバル化社会と言いますが,本当の意味でのグローバル化は,精神的な価値が すべての人々に 行き渡っていくことを 目標にします.しかし,残念ながら,現実には,ものの取り合いのグローバル化になってしまっている.

ですから,persona という 人間のあり方を,わたしたちは,いつも しっかりと 心にとめておく必要があるだろう,と思います.精神的な価値を分かち合って,互いに つながり合って,皆が いっしょに 共通善 — 最終的に それは 神です — を共有することができるようになる — それが,わたしたちの 人間としての 気高さである,と Thomas Aquinas は 言っています.実に すばらしい,と わたしは思います.

今日,ニュースを見ていたら,農業の話をやっていました.岐阜県だったか,そちらの方で,ある若い人が — 彼は,もともと 種[タネ]の研究者だったそうです — サラリーマン生活をやめて,無農薬の農業を始めた;彼は,堆肥と,おからや 生ゴミなどを 混ぜ合わせて,ちょうどよい肥料を作る;そして,その肥料を使うと,作物もおいしくなるし,化学肥料もいらない.しかし,農村は,どんどん高齢化して,農業の担い手は 年寄りだけになり,そうなると,化学肥料をどんどん使わざるを得なくなっている;そして,そうなると,環境にも悪いし,健康にも悪い;その悪循環が どんどん 進んでいって,今の日本の農業は 疲弊状態に陥っている.だから,地方が もっと知恵を使って,若い人が農業をやっていけるようにする必要があり,そして,実際に やれば できるのだ,ということを,そのニュースはリポートしていました.つくづく そうだな,と思いました.

回勅 Laudato si’ で 環境問題が取り上げられています.わたしたちも,どうすればよいのか? 人間らしい生活を送るためには どうすればよいか? そんなことを考えました.

人間の関係性を Thomas Aquinas の言う persona の概念から 改めて見てゆく;それにもとづいて,わたしたちが 互いに関係を取りあって 生きて行く — それが とても だいじなことではないか,と思いました.

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2022年08月21日の LGBTQ みんなのミサでの 光延一郎神父さまの 説教

最後の晩餐(表紙絵の解説

2022年08月21日(年間 第 21 主日)の LGBTQ みんなのミサでの 光延一郎神父さま SJ の 説教



第 1 朗読 :
Is 66,18-21
第 2 朗読 : He 12,05-07.11-13
福音朗読 : Lc 13,22-30


今年は C 年ですので,毎日曜日,ルカ福音書が 読まれています.

ルカ福音書は,三部に分かれています.最初の部分では,メシアとはどんなものなのか,イェスはどんな方なのか ということが,書かれてあります.

次いで,9章51節 [1] から,イェスは,まなじりを決して — いよいよ 十字架に付けられることを受け入れようと決意して — 一直線に イェルサレムへ向かって行くことになります.そこからが 第 2 部 [2] です.今日 読まれたところも,その続きです.イェスは,イェルサレムへ向かう旅の途上で だいじな教えを いろいろ 述べます.第 2 部は そういう構成になっています.

[1] Lc 9,51 : ἐγένετο δὲ ἐν τῷ συμπληροῦσθαι τὰς ἡμέρας τῆς ἀναλήμψεως αὐτοῦ καὶ αὐτὸς τὸ πρόσωπον ἐστήρισεν τοῦ πορεύεσθαι εἰς Ἰερουσαλήμ[そして,このことが起きた:彼が天へ上げられる日が満ちたとき,彼は,イェルサレムへ向かうことの決意を固めた].

[2] 9,51 – 19,27 までが 第 2 部,そして,19,28 から 最後までが 第 3 部(イェスの イェルサレムへの到着から 昇天まで).
 
今日 朗読されたところの冒頭 (v.22) では,改めて「イェルサレムへ旅しながら」[ πορείαν ποιούμενος εἰς Ἱεροσόλυμα ] と言われています.それによって,9章51節から始まった 第 2 部が,また もう一歩 深まって行く — そういうところです.

第 2 部では,世の終わりの日とか,裁きのときとか,救いに入れるのは誰か,入れないのは誰か,という話が 語られています.

今日のところでも,誰かが「救われる人は少ないのですか?」[ εἰ ὀλίγοι οἱ σῳζόμενοι ; ] (v.23) と 尋ねます.それに対して,イェスはこう答えます:「狭い戸口から入るように努めなさい」[ ἀγωνίζεσθε εἰσελθεῖν διὰ τῆς στενῆς θύρας ] (v.24).

マタイ福音書 (7,13) では「狭い門から入りなさい」[ εἰσέλθατε διὰ τῆς στενῆς πύλης ] と 言われていて,「門」[ πύλη ] という語が使われていますが,それに対して,ルカ福音書のこの箇所では「戸口,ドア」[ θύρα ] という語が 用いられています.「救われる人は少ないのですか?」という問いに対して,イェスは 直接 答えません;その代わりに「戸口は 狭いぞ」と言う.そして,狭い戸口から入ることができない者たちに対しては,家の主人は,戸 [ θύρα ] を閉めて,言う:「あなたたちがどこの出身なのか,わたしは知らない.不正義を行う者たちよ,皆,わたしのところから立ち去りなさい」[ οὐκ οἶδα ὑμᾶς πόθεν ἐστέ· ἀπόστητε ἀπ᾽ ἐμοῦ πάντες ἐργάται ἀδικίας ] (v.27).

おそらく,イェスの この話しを 聞いている人々は,皆,ユダヤ人です;そして,彼らは こう思っている:「我々は,アブラハム,イサク,ヤコブの子孫であり,選ばれた民なのだから,当然,神の国に 優先的に 入れるだろう」.

それに対して,イェスは,そうではない と言う;むしろ,神の国に入れる人々は,ユダヤ人に限らない;彼らは「東から 西から,南から 北から,来るだろう」(v.29) ; 神の御心に従順である人々こそが,狭い戸口を通り抜けることができるのだ.そして,「最初の者たちになるだろう最後の者たちが いる;そして,最後の者たちになるだろう最初の者たちが いる」[ εἰσὶν ἔσχατοι οἳ ἔσονται πρῶτοι καὶ εἰσὶν πρῶτοι οἳ ἔσονται ἔσχατοι ] (v.30).

マタイ福音書 (20,16) では,「そのように,最後の者たちが最初の者たちになるだろう;そして,最初の者たちが最後の者たちになるだろう」[ οὕτως ἔσονται οἱ ἔσχατοι πρῶτοι καὶ οἱ πρῶτοι ἔσχατοι ] と はっきり言っているのですが,それに対して,ルカ福音書では そうではありません;そうではなく:[神に選ばれたタイミングの]あとさき あるいは[神に選ばれたという]特権の有無は,救済のためには関係ないのだ;本当に神の御心にかなうことを行う者が,神の国に入るのだ.

そのような観点から ほかの朗読も見てゆくと,第 1 朗読の イザヤ預言書 (66,18-21) — 66章は 最後の章です.イザヤ預言書は,長い年月をかけて — おそらく 預言者イザヤの弟子たちが 師の教えを引き継いで — 書き継がれていったのだろう と言われています.聖書学者たちは,56章から 66章までを「第三イザヤ」と呼んでいます.それは,終わりのときの救いを — そのヴィジョンを — 描いています.

今日の 第 1 朗読においても,主の栄光は さまざまなところに広がって行く,そして,人々は 主の栄光を見ることになる,と 言われています.

幾つかの地名が挙げられています:タルシシュは 比較的 イスラエルに近いところだろう と思われます;しかし,プル,ルド,トバル,ヤワンは 全然 聞いたことがない地名です;リビアとか,アフリカの奥の方の町ではないか,と言われています.

さらに,彼らを「わたしの名声を聞いたことも わたしの栄光を見たこともない 遠い島々に 遣わす」— これは,日本のことかもしれません.

そのようなところからも,人々は,神の栄光を見るために,主の都 イェルサレムに 集まってくる.

今日の集会祈願でも こう言われていました:「すべての人の父である神よ,国籍や民族の異なる わたしたちを,あなたは 今日も 神の国の宴に招いてくださいます.呼び集められた喜びのうちに,わたしたちが ひとつの心で あなたをたたえることができますように」.

つまり,国籍や,民族や,何らかのしかたで人と人とを分ける境界線 — そういうものは 関係ない;いかに 主の御心を 受けとめ,それを行うかが,重要なのです.

第 2 朗読の ヘブライ書においては,「わが子よ,主の鍛錬を軽んじてはいけない」と言われています.「主から 懲らしめられても,力を落としてはいけない」というのは ちょっと厳しいですが,しかし,わたしたちは神の子であり,神は わたしたちの父です;父による しつけは,父が子を愛するがゆえに,為されます;そのことを ちゃんと理解しなさい;いろいろな試練にあっても,それを 主による鍛錬 — 乗り越えるべき訓練 — として 受け入れなさい… そういうことではないか と思います.

神は,すべての人を,神の国に — 救済に — 招いています;ただし,自動的にそこに入れるわけではない;各人の ある種の努力が 必要です.

わたしは SJ ハウスに住んでいます.そこに住んでいるイェズス会士たちは,各々,国籍も違うし,てんでんばらばらです;よく いっしょに 住んでいるな と つくづく 思います.どうして,こんなに異なる人々が いっしょに住んでいられるのか?

それは,やはり,「霊操」[ spiritual exercises ] の経験が 真ん中にあるからです.それを共有しているがゆえに,確信で つながっている.あとは,それぞれ,自分のなすべきことを,神から頂いている カリスマや 導きに 従って 歩んでいきなさい,ということです.それによって イェズス会は 成り立っています.

「霊操」といっても 皆さん あまり 御存じないかもしれませんが,わたしは,今月の上旬は,ずっと,広島の長束にある修練院 — イェズス会に入ろうとする者は 最初の 2 年間 そこで 修練を受け,修道生活と イェズス会の 基本を学びます — に いました.毎日,朝の暗いときに 起きて,お祈りして,午前中は 修練長のお話を聞いたり 勉強したりします;午後は 労働します — 畑を耕したり,庭の掃除したり.そのように毎日を過ごします.そして,その真ん中には 霊操があります;霊操を きっちり やる — 1 カ月間,みっちり やる.そのことが カリキュラムに 入っています.

毎年 毎年,黙想と 霊操を やります.今年は,神学生たちが長束でやるというので,わたしも 同伴させてもらいました;そして,いろいろと 考えることや,新たな気づきを 得ました.

霊操は,何を目的にしているか? それは,イェスの友になること,彼の仲間になること,そして,彼と同じことをして行くことです.霊操は,そのための鍛錬です.

「霊操」は,英語では spiritual exercises です.Exercises — つまり,練習です.楽器や スポーツを やる人は,何度も何度も練習を積み重ねることによって,だんだん上達して行きます.それと同様に,霊的生活も,やはり,そういうトレーニングや練習が 必要なのです.

ここでは,あまり詳しく話していられないので,YouTube で わたしの「カトリック 神学 霊性 フォーラム」を見てください.わたしは,今年から YouTuber になるぞ と決心して,福音について,毎週,新たな動画を出しています.聖 イグナチオ デ ロヨラの 記念日 7月31日には「霊操とは 何か?」について話しています.興味があれば,のぞいてみてください.

霊操では,まずは,一所懸命,前向きに,自分で努力して,黙想してゆきます.いかにわたしはイェスの弟子になっていくか,わたしの罪は何だったのか,世界の悪はどのように働いているか,等々を 見極めてゆく — そのように,能動的な側面が あります.いわゆる meditatio — いろいろ考えたり,記憶を掘り起こしたり… 理性を使う — けっこう 頭を使う — そういうタイプの祈りです.

そして,霊操の終わりの方 — 受難や 復活 — になってくると,contemplatio — いわゆる「観想」— そこでは,もっと受動的に シンプルに 神に委ねる というように,祈りは 変わってゆきます.受難や死を どう考えるか といっても わたしたちには わからないので,結局,神に すべてを委ねるしかないのです.そして,復活についても,神に すべて委ねる ということになります.

霊操の始めの方では,自分の罪を見つける — 一所懸命,自分で,重箱の隅をつつくようにして,これをやった あれをやった,これが悪かった — そういうことを いっぱい 見つけて,リストにして,赦しを受ける.しかし,霊操の終わりの方では,そのようなことよりも,赦そうと待ち構えていてくださる神 — 十字架のキリスト — を観想することになります.

神からの導き,招き,神の力に 委ねる;自分の肩の力抜いて,神に任せる — それが,やはり,最も だいじだ ということを,わたしは,今回の 神学生との霊操で,改めて 深く 感じました.

祈りにおいて 神に「委ねる」こと —「鍛錬」という言葉と まったく反対の語のように思えるかもしれませんが,それは,ある意味で 人間にとって 最も難しいことです.わたしたちの「自我」[ ego ] は 根深いものです;それを手放すことは,わたしたちにとって 怖いことです.

そうすることができるような柔軟な心,聖霊に委ねる心 — それを身に付けてゆくことができればよい,と思います.

2022年07月17日の LGBTQ みんなのミサでの 酒井陽介神父さまの 説教

マリアとマルタの家のキリスト(表紙絵の解説

2022年07月17日(年間 第 16 主日)の LGBTQ みんなのミサでの 酒井陽介神父さま SJ の 説教


第 1 朗読 : Gn 18,01-10a
第 2 朗読 : Col 1,24-28
福音朗読 : Lc 10,38-42


今日の福音朗読は,わたしたちがよく聞く なじみある物語です:マルタとマリアの話.

イェスは,マルタとマリアの家に しばしば 行っていたのでしょう.宣教の旅に出て,そして,疲れを感じたら,必ずこの家に戻ってきて,彼女たちとともに時間を過ごしていたのかもしれません.ともかく,彼女たち姉妹の家は,イェスにとって,とても信頼のおける また 心休まる 場所だったようです.

そして,きっと,イェスだけでなく,ほかの弟子たちも いっしょに来ていたのでしょう.ですから,マルタは,おおぜいのために食事を作り,忙しく働いていたのでしょう.今日の福音朗読の場面は,そのようなものです.

ところで,ある解説書をひもといてみると,そこにはとても新しいことがある というのです.何が新しいのか というと:マルタは家の女主人であって,彼女が主人としてイェスを迎え入れている ということ.

当時のユダヤの社会のなかで,女性がそのように主人として客を迎え入れる ということは,ほとんどなかったそうです.

もっとも,マルタとマリアの家には,彼女たち ふたりしかいなかったのかもしれません.ルカ福音書には,ラザロが彼女たちといっしょにいたのかどうかは,書かれてありません.

ともあれ,女性が主人として客を迎えるということは,当時は 非常に珍しかった;というのも,当時は,やはり,神のことばを聴くとか,偉い人の言葉を聴くとかというときに,その場に集まるのは,基本的に言って,男性のみです.女性たちは,基本的に言って,その近くで聴くことは できません.そこから離れたところで いろいろな周辺的な世話をする というのが,女性の役割でした.そのようなジェンダーによる役割の違いが,当時,ありました.

わたしも,ローマにいたとき,Sinagoga Maggiore という大きなシナゴーグに行く機会がありました;そこで,いろいろな説明を聞きました;そのなかに,ジェンダーによる席分けの話がありました:ここは男性の席,上の方は女性の席というように,分けられていました.そのシナゴーグは決して超保守派ではないのですが,それでも,そのような区別は はっきり 為されています,今までも.

特に 超正統派のユダヤ人たちは,現代でも,男性は もっぱら Torah の勉強をして,女性は働く という区別が あります.そのような伝統や文化は,今でも受け継がれています.

しかし,イェスは,そのようなことを 全然 気にしません;そのような区別を乗り越えて行きます.イェスと彼女たちとの関わりは,そのような文化的,伝統的な垣根を越えている;そして,それは新しいことなのだ — その解説書は,そう述べています.

さて,そのような状況のなかで,マルタは せわしく立ち働いています.この「せわしく働く」のギリシャ語は περισπάω です.それは,「注意が,あるべき場所から引き離されて,そらされる」という意味です.

ですから,「マルタは せわしく立ち働いている」ということは,彼女が 本来 なすべきことをすることができず,本来 気持ちを注ぐべきことに 気持ちを注げないでいる,という状況を 物語っています.かわりに,彼女は,あれもやり これもやり,あんなことも考え こんなことも考え,心のなかも 頭のなかも いっぱい いっぱいに なってしまっている — そういう状況が 物語られています.

そして,彼女は,イェスのところに来て,文句を言います:「主よ,わたしの姉妹は わたしだけにもてなしをさせていますが,あなたは 何ともお思いなりませんか? 手伝ってくれるように 彼女に言ってください」.

すると,有名なイェスの言葉です:「マルタ,マルタ,あなたは 多くのことに 思い悩み 心を乱している」と.まさに「心を乱す」ということが「せわしく働く」ということ とつながってきます.

そして,イェスは 言います:「いや,マリアは 今 あるべき場所に いるのだ.彼女は,聴くべき言葉に 聴き入っている;だから,それをリスペクトしなければいけない」.

何だか,マルタが さげすまれてしまっているようにも聞こえます.マリアがしていることこそ すばらしい;マリアのあり方こそ あるべきあり方だ,と 思われがちかもしれません.しかし,果たして それだけなのでしょうか?

わたしは,この数年来,こう思っています:わたしたちが住む この世界では,binarism が支配的です.さまざまなことが 二分化されます;二分化されやすい.その事態に対して 気をつけなければいけない,と わたしは感じます.

イェスの存在は この binarism — ものごとを二分化する文化,伝統,思想 — に対するアンチテーゼという意味を持っている,と思います.

福音は,あまねく すべての人々に向けて 語られています.しかし,人間は,こちら側とあちら側というふうに 分けやすい:白か黒か,正しいか間違っているか,優れているか劣っているか,きれいか きれいでないか,頭がいいか そうではないか — そのような形で,わたしたちは,無意識のうちに,物事を二分化する.そして,自分がいる側とそうでない側との間に 溝を いつのまにか 作ってしまう — あれか これか と.

イェスは,あれかこれかという選択を,わたしたちに 迫らない,と思います.

勿論,識別のときには,わたしたちは 何か ひとつを 選ばなければいけない;しかし,それは,非常に分かりやすい〈すべきことと してはいけないこととの〉道徳的な二分化です.

そうではなく,イェスは,もっともっと広い観点から,そして,もっと深いところから,わたしたちに問いかける:実は,あれも これも ではないか?と.

今日の福音朗読の文脈で言えば:マリアもそうだし,マルタもそうだ — それが,わたしたちのあり方ではないかな,と思います.すなわち,マルタがしていること — 客人をもてなすということ — は,とても大切なことです;為すべきことです;それは,客人への愛と尊敬を示すことです.

ただ,マルタは,それ以上に,あれも これも,マリアのことも,食事の準備のことも,もてなしのことも,いっぱい いっぱい 考えてしまった;そして,それによって,心が分散してしまった.

そこで,イェスは 彼女を 招きます:マルタよ,マルタよ,もう少し 心を おさめて行きなさい;心を ひとつにして行きなさい.

他方,マリアの方も,やはり,そこにずっと座っているわけにはいかない.イェスがいなくなったら,マリアも,そこから立ち上がって,日常に戻って行きます.

ですから,わたしたちは,そのなかで バランスを 捉えていくことが,たいせつです.

神のことばを聴くことは だいじです.しかし,それだけでは生きることはできません.両方がないと いけない.あれもこれもないと いけない.その時々によって,あれもこれものなかから,より善いのはどちらか という識別と選びを,わたしたちはすべきです.

ですから,イェスは,ひとつだけを 一義的に 追求する または 押しつける というようなことを 決して しない,と思います.

それは,わたしたちにとっても,とても大切なことだ,思います.わたしたちも,気をつけなければ,教会のなかでも そとでも,思想的にも,政治的にも,保守か リベラルか,これに 反対するか 賛成するか — そのような二分化に陥ってしまいます.そのような二分化は,特に ここ最近,わたしたちの社会のなかで強く感じられるようになりました.

しかし,本当に あれか これか なのか? 実は,それは,わたしたちの都合に過ぎません.自分たちの考えが合うとか,自分たちの思いと近いとか,自分たちにとって心地よいとか,何か 自分の都合と どこかでリンクしているような気がします.

しかし,神の目線,イェスの目線では,あれか これか ということではありません.

ですから,マルタとマリアに関しても,彼女たちが象徴する社会的な役割に関しても,どちらかひとつだけを高めるとか,祭りあげるとか,だいじにするとか,そのようなことがかかわっているのではありません.あれも これも すべて,神の慈しみ,神の憐れみの対象である という観点に立たなければ,わたしたちは,知らず知らずのうちに 利己的になり,ナルシスティックになり,裁いてしまうことになります.

マルタは,自分のことで精いっぱいになってしまって,マリアを批判しました.でも,あれか これか ではありません.わたしたちは,二分化の文化に慣れてしまっているかもしれません;しかし,イェスは,二分化の文化を,わたしたちにもたらしませんでした.

イェスに従うということは,ひとつの選びです.しかし,我々は,まったく純粋に,百パーセント 完璧に ということには,なかなか なれません.我々は,イェスに従って行くときも,いろいろな心,清いものも 濁っているものも,互いに矛盾していることも,非常に純粋に高みを目指す気持ちも,そうでないものも,全部 抱えながら そうして行きます.ひとつだけを選んでいく ということは,なかなかできない.そのことも含めて,イェスは,わたしたちを迎え入れてくださいます;そのことも含めて,イェスは,わたしたちと つながってくださいます;そして,わたしたちを 信頼して 派遣してくださいます.

あれか これか ではない ということは,福音が誰に向けられているのか ということを問うてみれば,わかるでしょう:わたしと考えが違う人も,福音の対象なのです;わたしを攻撃する人も,福音の対象なのです.

福音は,あらゆる人に 向けられており,あらゆる人のところに届けられる — そのような価値観を わたしたち キリスト者が もっとたいせつにすることができれば,そのことに もっと意識的になれれば,非常に殺伐とした二分化の文化,二分化の世界を,超えていくことができるのではないか,と思います.

わたしたちは,そのことを 毎日 自分の心に問うてみなければなりません.というのも,わたしたちは,案外,二分するまなざしで ものごとを見ているからです:わたし側か あちらの側か.

しかし,マルタもマリアも,イェスにとって,たいせつな仲間であり,本当に彼の心に近しい人です.そのことから,今日の福音を,もう一度 味わい直してみたい,と思います.


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Covid-19 の パンデミックにより,わたしたちの LGBTQ みんなのミサも 26ヶ月間 中断することを 余儀なくされていました(その間は,毎月 1 回,Zoom Meeting で 祈りと思いの分かち合いの集いを おこなっていました).そして,2022年05月から やっと 再開することができました.5月と 6月の ミサは,鈴木伸国神父さま SJ が 司式してくださいました.彼の説教も録音したのですが,マイクの設置のしかたが適切でなかったため,うまく録音できていませんでした.ですので,文字起こししたテクストを ここに掲載することができません.鈴木伸国神父さま,ごめんなさい m (_ _) m


2022年9月28日水曜日

ベルギーのフラマン語圏のカトリック司教団が同性カップルの祝福を公認

Mechelen-Brussel 大司教 Jozef De Kesel 枢機卿

ベルギーのフラマン語圏のカトリック司教団が同性カップルの祝福を公認


ベルギーには 八つの教区(うち ひとつは 大司教区)が あり,うち 北部の 五つは フラマン語(オランダ語)圏,南部の 三つは フランス語圏です(Mechelen-Brussel 大司教区のうち 首都 ブリュッセルの 地域は bilingual です).

2022年09月20日,Mechelen-Brussel 大司教 Jozef De Kesel 枢機卿 および 4 人の フラマン語圏の司教は,同性カップルに対する祝福を公認する フラマン語の文書 Homoseksuele personen pastoraal nabij zijn – Voor een gastvrije Kerk, die niemand uitsluit[Homosexual である人々に 司牧的に近しくあること — 誰をも排除しない〈招き入れる[歓迎する]〉教会のために]を フラマン語圏カトリック教会の official website に 発表しました(このページに その文書へのリンクが貼られてあります).

彼らの この決断は,2021年03月15日に発表された 教皇庁 教理省の「同性カップルに対する祝福に関する疑問への回答」における 同性カップルに対する祝福の禁止の措置に 明白に 逆らうものです.

その教理省の通達は,特に ドイツのカトリック教会内で 強い反発を 引き起し,同年05月10日 月曜日には,ドイツ全国の 100 以上の 小教区において,司祭たちが 多数の同性カップルを祝福しました.また,2022年01月24日には,120人以上の教会関係施設の職員(そのなかには司祭もいる)が,#OutInChurch の名称のもとに立ち上げられた website において,自身が LGBTQ であることを 本名を名のりつつ 公にしました.さらに,3月13日,ミュンヘンの 聖パウロ教会で,その地の LGBTQ カトリック共同体の ミサの 開始 20周年を 記念する ミサを 司式した München und Freising 大司教 Reinhard Marx 枢機卿は,そのミサのなかで,カトリック教会による LGBTQ に対する 差別について 謝罪しました.

しかし,公式文書の形で 断固として 教理省の「同性カップル祝福禁止」に 対抗したのは,フラマン語圏司教団が 世界で初めてです.以下,その全文の邦訳を紹介します.

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誰をも排除しない〈招き入れる[歓迎する]〉教会のために

数年来,我々の地域[フラマン語圏ベルギー]における カトリック信仰共同体は,そのすべての活動領域において,ほかの〈社会において 活動している〉人々と 協働している — 敬意と 是認と integration[統合:ある個々人 または あるグループに属する人々を 差別なく 共同体のメンバーにすること]の 雰囲気を作り出すために.そればかりか,彼らのうちの多くは,カトリック教会の関連組織のなかで あるいは クリスチャンの施設[団体,組織]のなかで[雇用されて]働いている.[フラマン語圏の]司教たちは,この道をさらに進んで行くよう,協働者たちを励ます.その際,彼らは,使徒的勧告 Amoris laetitia[愛の喜び]— それを Papa Francesco は 2015年の 司教シノドスの後で 作成した — によって支えられている と感じている.識別する [ discernere ], 寄り添う [ accompagnare ], 統合する [ integrare ] — それらは,主要なキーワードであり続けている.

それらの語を以て,我々[フラマン語圏の]司教たちは,2021年03月17日,コミュニケを — homosexual の人々 および 同性カップルとの 司牧的なかかわりに関するコミュニケを — 発表した.Papa Francesco は,Amoris laetitia において,明確に こう述べている:「あらゆる人は,その性的指向にかかわりなく,尊厳において尊重されるべきであり,敬意を以て迎え入れられるべきである」(AL 250). 我々は,その道を進んでゆくことを 欲する — この司牧文書に,より構造的な性格を与えつつ.


司牧的ケア と 寄り添い

教会共同体の司牧的注意は,なかんづく,homosexual である人々自身に かかわる.彼らが 自身の性的指向を 認め,受けいれ,肯定的に生きるために たどる〈ときとして複雑な〉道のりにおいて,我々は,彼らに近しくあることを欲する.[彼らのなかには]独身であり続ける人々がいる.彼らは,我々が 彼らを 是認し 支えるに,値する.また,ひとりのパートナーとの持続的で誠実な結びつきにおいてカップルで生活することを選ぶ人々もいる.彼らも,また,我々が 彼らを 是認し 支えるに,値する.なぜなら,そのような関係は,教会が結婚と認めるものではないが,それでも,そこに与る者たちにとって 平安および共同の幸福の源であり得るから.

彼らの家族と親族も,この司牧的ケアの注意と寄り添いに 値する.理解と是認の態度は,とても重要である.Papa Francesco は,明示的に,このことを要請している:「それらの家族には,敬意に満ちた司牧的な寄り添いが提供されるべきである — 同性への性的指向を示す家族メンバーが,人生において 神の意志を理解し,それを十全に実現し得るために必要な 支えを 得ることができるように」(AL 250).

我々の注意は,また,より広い意味における社会 および 教会共同体にも 向けられるべきである.社会は homosexual であるメンバーを ますます認めるようになってきてはいるが,多く人々にとって 問題は未解決のままである.また,同時に,homophobe な 暴力が 頭を持ち上げることもある.よりよい理解が よりよい integration を 促し得る.


構造的な定着

フラマン語圏の司教たちは,彼らの〈homosexual の人々 および 同性カップルに対する〉司牧的なかかわりを 構造的に定着させることを 欲している.「家族に対する司牧的ケアのための教区間奉仕」のための政策チームは,その課題を引き受ける協働者を さらにもうひとり 必要とする.その任務のために,司教たちは,Willy Bombeek を 任命した.さらに,各教区は,教区内の〈家族に対する〉司牧的ケアの枠のなかで その〈家族に対する〉司牧的注意に配慮する者を 任命することになる.そして,その者は,教区からの諮問に答えることになる.Willy Bombeek は,教区間の調整者として,各教区の〈家族に対する〉司牧的ケアに配慮する者たちと協働し,必要な養成と指導を 彼らに提供する.


ミーティングの司牧 [ Pastoraal van ontmoeting ]

この司牧においては,出会いと対話が中心に位置している.安定した同性どうしの関係を生きている信者たちも,信仰共同体のなかでの敬意と是認を望んでいる.もし彼らが そこに属していない あるいは そこから排除されている という 感覚を持つならば,そのことは 彼らを 傷つける.彼らは,傾聴され 是認されることを 欲している.この司牧的な取り組みにおいて テーマとなるのは,このことである:[自身の性的指向に関して]不確かさから出発して,次第に[自身の性的指向が 自分自身にとって]より明確になり,[自身の性的指向を]受け容れることができるようになるまでの[その人の]歴史;教会の[homosexuality に関する]見解に対する疑問;恒常的なパートナーを持ち得ることの喜び;排他的かつ持続的な関係のための決断;相互的な責任を引き受けることの決意;教会のなかで また 社会のなかで 奉仕をしたい という 願望.

この司牧的な取り組みにおいては,精神的な識別と 内的な成長と 良心的な決断のための 場所が ある.Papa Francesco は,このことを要請している:結婚の「客観的」な[要するに『カトリック教会のカテキズム』において規定されている]理念に 完全に応じてはいない 生活状況において[生きている者についても]その者の良心を 是認し 支える こと:「良心は,真摯に かつ 正直に,このことを認めることができる:それ[今の生活]は,今のところ,神に献げることのできる 惜しみない答えである;そして,良心は,ある道徳的な確信を以て,このことを発見し得る:その答えは,〈神自身が求めている〉自己献身である — 制限[ある人が『カトリック教会のカテキズム』に示されている道徳規範に完全に適うことができないでいるという事態を生ぜしめる〈その人の決断能力を制限する〉諸因子]の 具体的な複雑さ[その人が生きている具体的な状況の複雑さ]のただなかにおいて — その答えが 客観的な理念に まだ十全に達していないとしても」(AL 303).

司牧の責任者 または 寄り添い人との ミーティング [ ontmoeting ] は,homosexual の 人々 または 同性カップルにとって,信仰共同体への integration のための 重要な きづなである.その integration について,Papa Francesco は こう書いている:「かかわっているのは,すべての人々を integrate することである;我々は,各人が 自分自身の〈教会共同体に属する〉しかたを 見つけることができるよう,助けねばならない — 各人が 自分が[神の]〈分不相応な 無条件的な 無償の〉慈しみ [ una misericordia immeritata, incondizionata e gratuita ] の 対象であることを 感ずることができるように.永遠に断罪されたままである者は 誰もいない — なぜなら,それは福音のロジックではないから ! わたしが言及しているのは,[民法的に]離婚したあとに再婚した人々のことだけではなく,しかして,すべての人々のことである — 如何なる状況にある人であれ」(AL 297).


愛と誠実のための祈り

司牧的ミーティングの際には,しばしば,「祈りの時」[ gebedsmoment : ドイツ語訳では Gebetsmoment ] を持ちたいという求めが 措定される — 神に このことを 請うために:神が この〈愛と誠実の〉誓約を 祝福し 確かなものにしてくださること.祈りが 具体的に 如何なる内容と 如何なる形式を 取り得るかについては,当事者が司牧責任者と相談するのが よい.そのような「祈りの時」は まったく簡素なしかたで 持つことも できる[訳注:が,また,他方で,以下に提示されているように,結婚式のように 家族と友人を招いて 盛大に 持つこともできる].いづれにせよ,教会が「秘跡としての結婚」のもとに理解しているものとの相違は,明白であらねばならない.

祈りの時は,例えば,次のようであり得る:

1) 始めのことば
2) 始めの祈り
3) 聖書朗読
4) 両当事者の誓約.ふたりは ともに,神の前で,相互的な誓約を 表明する.たとえば:

愛と誠実の神よ,
今日,わたしたちは あなたの前に 立ちます
家族と友人たちに囲まれて.
わたしたちは あなたに 感謝します
わたしたちが互いに出会い得たことを.
わたしたちは 人生のすべての状況において
互いのためにあることを 欲しています.
わたしたちは ここに 確信に満ちて このことを 表明します:
わたしたちは 互いに 相手の幸福のために 日々 働くことを 欲します.
わたしたちは 祈ります:
互いに誠実であるための力をください;
わたしたちの誓約を深める力をください.
わたしたちは あなたの近しさに 信頼します;
わたしたちは あなたのことばによって 生きます
永遠に 互いに 相手に 与えられて.

5) 共同体の祈り.共同体は,このことを 祈る:神の恵みが 彼らのなかに 働くこと — 彼らが 互いのために また〈そのなかに彼らが生きているところの〉より大きな共同体のために 気づかうことができるように.たとえば:

父なる神よ,
わたしたちは 今日(氏名)と(氏名)を わたしたちの祈りを以て 囲みます.
あなたは 識っています,彼らの心を,
また,彼らが 今後 ともに歩むことになる道を.
彼らの互いに対する誓約を より強め,より誠実に してください.
彼らの家を 理解と寛容と思いやりに満ちたものに してください.
そこに 和解と平和の場が ありますように.
彼らが分かち合う愛が,彼らにとって 喜びとなりますように;
そして,彼らを我々の共同体のなかで奉仕可能にしてくれますように.
わたしたちに 力を 与えてください — 彼らとともに あなたの息子[わたしたちの主 イェス キリスト]の足跡にしたがって 歩むために,
そして,あなたの息吹によって強められて.

6) とりなしの祈り
7) 主の祈り (Pater noster)
8) 終わりの祈り
9) 祝福の願い [ Zegenwens : ドイツ語訳では Segnenswunsch ]


ブリュッセル,2022年09月20日

フラマン語圏 司教団

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以上の発表に関して,Johan Bonny アントワープ司教は,こう述べています:

我々の意図は,普遍の教会に取ってかわることではない.我々の意図は,ここで為されるべきことを為すことである.ここに,ひと組のカップルがいて — それが 男性どうしであれ 女性どうしであれ — 彼らは,順境においても逆境においても ともに生きることに yes と言いたいと思っており,そう生きることを誓約したいと思っているとする;それを拒むなら,我々は いったい 何者であるか?

また,ルーヴァン カトリック大学 神学部の 客員教授 Jos Moons 神父は,こう述べています:

同性どうしの関係は,フラマン語圏においては,幾人かの司教と司祭によって,祝われてきた — 秘密裏にではあれ.人々が そのこと[同性カップルの祝福]について このように明白に語るようになった という 事実は,善き知らせである.

さらに,USA の LGBTQ カトリック信者の 団体 New Ways Ministry の 理事長 Francis DeBernardo は,こう述べています:

フラマン語圏の司教たちは,同性カップルをまことに歓迎するために必要な〈重要な〉司牧的問題を 認めた.彼らは「愛は愛である」と認めた.愛は,性的な行動より より重要である;そして,愛は,教会が常に祝福すべきものである.

それらの祝福は,LGBTQ people の 完全な人間性を 認めることの 始まりとなるだろう — 彼らの〈愛に対する〉人間的な必要 および〈愛を表現することの〉人間的な必要は 神に由来している ということを 認めることによって.そして,それは,まことに,カップルと教会のための祝福である.

これ[フラマン語圏の司教たちの 同性カップルに対する祝福の 決断]は,重要な一歩である — なぜなら,それは,どれほど現実的かつ持続的な変化が カトリック教会のなかで 起きているかを 示しているからである.司牧的実践は,常に,教義の変更に 先行する.この行為[フラマン語圏司教たちの決断]は,来るべき出来事の徴である.

フラマン語圏の司教たちの〈同性カップルに対する祝福〉の 決断が カトリック教会全体のなかで 10年後,20年後,どのような実を結んでいることか,楽しみですね!(遅すぎる? しかし,カトリック教会の歩調は そんなものなのです.辛抱強く待ちましょう — 主の再臨を待つのと同様に).


2022年8月19日金曜日

LGBTQ に対する conversion therapy(転向療法)を 推奨する 保守派プロテスタント活動 NBUS に対する 異議申し立ての署名の呼びかけ


LGBTQ に対する conversion therapy(転向療法)を 推奨する 保守派プロテスタント活動 NBUS に対する 異議申し立ての署名の呼びかけ


この記事は,NBUS を憂慮する キリスト者連絡会による NBUS に対する異議申し立ての署名活動を できるだけ多くの人々に知ってもらうためのものです.

先月,日本の保守派プロテスタント活動家たち 幾人かが,Network for Biblical Understanding of Sexuality(NBUS : 性の聖書的理解ネットワーク)を 立ち上げました(このキリスト新聞の記事も参照).

彼らは,2017年に USA の 保守派プロテスタントたちが sexuality の問題に関して 発表した Nashville Statement(ナッシュビル宣言 : NBUS による 邦訳)に賛同しており,日本においても それへの賛同の署名を呼びかけています.

これは,たいへん憂うべき事態です.なぜなら,Nashville Statement と NBUS は,LGBTQ の人々に対して SOGI(sexual orientation and gender identity : 性的指向 と 性同一性)を heterosexual かつ/または cisgender に「矯正」することができる と称する conversion therapy(転向療法)を 推奨しているからです.

しかるに,conversion therapy は,治療的に無効であるだけでなく,心理学的に有害(欝や自殺を惹起し得る)であり,人権の観点からは非人道的である(拷問に等しい)ことが,全世界の〈心理学および精神医学に関連する〉諸学会において 認識されています(参考資料 : USA の諸学会の声明).フランス,ドイツ,カナダ,メキシコでは conversion therapy を行うことは 法律で禁止されており,また,ブラジルでは conversion therapy を医療行為として行うことは 禁止されています.

そこで,このたび,わたしたちの友人であり,gay であることを みづから公にしている カトリック信者 高松尚志さん(札幌市在住)が 発起人となって,わたしたちは「NBUS を憂慮する キリスト者連絡会」を 立ち上げました.そして,わたしたちは,こころある方々に,NBUS に対する 異議申し立ての署名を 呼びかけています.

有害な conversion therapy を 日本で 広めようとしている NBUS の活動を このまま放置しておくことは 決して できません.どうか,署名活動に 御協力くださるよう,よろしく お願いいたします.

主の愛の恵みが 皆さんに 豊かに注がれますように.


参考資料 : Nashville Statement に対する James Martin 神父 SJ の 批判的応答(邦訳) 

2022年8月18日木曜日

福音派の「ナッシュビル宣言」に対する James Martin 神父 SJ の 応答



以下は,アメリカの LGBTQ カトリック信者の 団体 New Ways Ministry の 副理事長 Robert Shine による 2017年09月01日付の ブログ記事の 邦訳である:

「ナッシュビル宣言」は,まさに,カトリック LGBT は どれほどの成果を上げてきたかを,明かしている


合衆国の福音派の指導者たちは,今週の始め[2017年08月29日,火曜日],「ナッシュビル宣言」を 発表した — 彼らが LGBT の人々の[そうでない人々との]平等に 反対することを 明らかにするために.それに対して,ひとりの傑出したカトリック司祭が,答えた — LGBT の人々の善性を肯定することによって.それらふたつの「宣言」の間のコントラストは,まさに,カトリック LGBT は どれほどの成果を上げてきたかを 明かしている.

「ナッシュビル宣言」は,「聖書的な男性性と女性性とに関する評議会」(The Council on Biblical Manhood and Womanhood) によって作成されたものであり,sexuality に関する 一連の肯定と否定の命題を 述べている.そこには,これらのことが含まれている:結婚の平等[同性どうしのカップルの結婚の法制化]の拒絶;「『自身を homosexual と 自認すること』(homosexual self-conception) および『自身を transgender と 自認すること』(transgender self-conception) は,神の〈創造と贖いにおける〉聖なる意図と 無矛盾的である」ということの否定.

James Martin 神父 SJ — この夏に出版された〈LGBT の問題に関する〉新たな本『橋を架ける』(Building a Bridge : カトリック教会と LGBTQ コミュニティとの間に 双方向的なコミュニケーションを 確立すること)の 著者 — は,[8月30日に]一連の tweet において,彼自身の七組の肯定と否定を以て,[ナッシュビル宣言に]答えている.彼は こう tweet している


「ナッシュビル宣言」に関連して:
わたしは このことを 肯定する:神は LGBT の人々 すべてを 愛している.
わたしは このことを 否定する:イェスは,彼らを,侮辱し,断罪し,よりいっそう辺縁化することを,欲している.

わたしは このことを 肯定する:御父は LGBT の人々を 愛している;御子は彼らを呼んでいる;そして,聖霊は彼らを導いている.
わたしは このことを 否定する:神の〈彼らに対する〉愛は 無である.

わたしは このことを 肯定する:イェスは,社会の辺縁にいる人々に出会ったとき,歓迎の態度を以て彼らを導いたのであって,断罪の態度を以てではない.
わたしは このことを 否定する:イェスは,さらなる断罪を 欲している.

わたしは このことを 肯定する:我々は 皆 conversion[「回心」と「転向療法」の「転向」とを かけている]を 必要としている.
わたしは このことを 否定する : LGBT の人々は,何らかのしかたで,おもな罪人 あるいは 唯一の罪人として 特定されるべきである.

わたしは このことを 肯定する : LGBT の人々は,洗礼の恵みによって,教会のフルメンバーである.
わたしは このことを 否定する:神は,彼らが「わたしたちは教会に属していない」と感ずることを,欲している.

わたしは このことを 肯定する : LGBT の人々は,多くの教会によって,自分たちが あたかも けがれているかのように 感じさせられてきた.
わたしは このことを 否定する:イェスは,わたしたちが 彼らの膨大な苦しみを さらに増すことを,欲している.

わたしは このことを 肯定する:わたしが知っている〈最も聖なる〉人々のうち 幾人かは,LGBTQ である.
わたしは このことを 否定する:イェスは,わたしたちが 他者を断罪することを,欲している — 彼は そのようなことを 明らかに禁止している にもかかわらず.


James Martin 神父のように傑出した声から発せられた 以上のようなサポーティヴな応答を,わたしたちは歓迎する.それは,彼の『橋を架ける』に由来するものである.その本において,彼は,全信者が互いに敬意と憐れみと思いやりを示すよう,呼びかけている.

「ナッシュビル宣言」に対して応答した彼の「肯定」命題は,特に感動的である — LGBT の人々を傷つけてきた カトリック教会自身の歴史に 鑑みるとき.そのようなカトリック教会の態度は,ときとして,「ナッシュビル宣言」の背後に存在する福音派の指導者たちの言動を 反映してきた.LGBT の人々 および 彼にとって愛しい人々は,あまりによく知っている — 排除的な態度 と 差別的な言葉が,あらゆるレベルの教会指導者たち および 信徒席で彼らの隣にいる一般信徒たちから 発せられてきたことを.

ありがたいことに,「ナッシュビル宣言」に関する James Martin 神父の tweet は,このことを明かしている:[LGBTQ に対する]福音派のアプローチと カトリックのアプローチは,まさに,どれほど相異なるものとなったか.「ナッシュビル宣言」と Martin 神父の一連の tweet(それらは,福音派の文書の形式を反映する命題形式において書かれてある)との間のコントラストは,このことを思い起こすのに有用である:カトリック信者の大多数にとっては,LGBT の問題に関する対話は,一般的に言って,過度に単純化されてはいない — 特に,バカげたものになるほどに単純化されてはいない.

前進は為されてきたものの,多くの人々は,なおも感じている:制度的な教会は,あまりに多くの人々を傷つけ続けている,と.我々は,〈過去に為されてきた および 現在も為されている〉害を認識することの緊張のうちに 生きる必要がある — 対話の将来を作り出そうと試みつつも.各国において,その緊張の度合いは 異なる;また,各人が,将来を展望しつつ,過去の害がどれほど認識されるべきかを,決めねばならない.

否定され得ないのは,このことである:カトリック共同体のなかで,対話のための小さな空間が成長しつつある.対話が生ずるところでは,教会は,断罪的な命題を超えて,複雑さの空間 — そこにおいては,差異と恵みとが ともに 認められる — のなかへ 動かされる.2014年と2015年の〈家族に関する〉司教会議は,対話の開始の卓越した例である.

James Martin 神父の本 — および,その本に対する 多くの かつ 多様な 反応 — は,また,LGBT の問題に関する教会内の対話を,それが より深い かつ より対話的な 場となるよう,決定的に 豊かにした.そのことについて,我々は 皆 感謝することができる.


2022年6月28日火曜日

ドイツのフランシスコ会は,gay であることを公にしている兄弟を,管区長に 選出した

Bruder Markus Fuhrmnann

ドイツのフランシスコ会は,gay であることを公にしている兄弟を,管区長に 選出した



Bruder [1] Markus Fuhrmann は,フランシスコ会の 新たなドイツ管区長である.既に 選出の前に,彼は,彼が gay であることを,公にしていた.このインタヴューにおいて,彼は,それを公にする決心について,教会の刷新について,そして,フランシスコ会の将来について,語っている.


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MK-Online : こんにちは,Bruder Markus Fuhrmann, まずは,管区長選出 おめでとうございます.

Bruder Markus Fuhrmann : こんにちは,どうもありがとうございます.

MK : 管区長となる あなたには,いくつかの新たな仕事が 課せられます.たとえば,修道士たちの人事の問題,また,性的虐待事件を徹底的に究明することへの挑戦,等々,ほかにも たくさんあります.というわけで,どのテーマが あなたにとって 個人的には 気にかかっていますか?

MF : わたしは,わたしの使命を なかんづく このことに 見ています:教会を代表すること,修道会を代表すること — 教会と修道会は,Jesus の 喜ばしき知らせ[福音]を 生きており,また,教会と修道会は わたしたちが成長する 空間を 開きます.そのような教会と修道会を代表することは,今日,適切なことである,と わたしは 思っています.なぜなら,今日,教会は,特に ドイツにおいて,自身を新たに方向づけようとしているからです.ジェンダーに関して公正である教会,明瞭に〈貧しい人々と困っている人々の側に〉立つ 教会,性道徳の問題について敏感である教会 — 我々は,そのような教会でありたい と 思っています.なぜなら,従来 公式に 教えられてきたような 性道徳は,生きるために役立たないからです.性道徳は,変更されるか,あるいは,さらに発展して行かねばなりません.

MK : あなたは かねてから そう呼びかけていますね.教会における刷新は,確かに,多くの人々にとって,スローガンになっています.では,あなたは,変化に関して 何を求めますか?

MF : 新たな管区長としての わたしの職務において,わたしは,わたしの兄弟たちとともに いっしょに それを決めてゆかねばなりません.わたし個人としては,わたしは「ともに歩む教会」の会合の努力を 支持しています.わたしは,司祭の生活形態における独身制について批判的に熟考することに 賛成しており,また,女性が司祭職に就くことについても 賛成しています.そこには わたしが賛同する 一連のテーマがある,と わたしは考えています.MHG 調査 [2] によって明らかになった 多数の問題 — それらは,「ともに歩む教会」の会合において取り上げられます — は,教会のなかの障害物であり,最終的に除去されねばなりません.

MK : 何週間か前,あなたは,あなたが homosexual であることを,みづから 公にしました.ドイツのフランシスコ会の兄弟たちも,その情報を,管区長選挙の前に 知っていました.あなたは,事実上,管区長の職にあるフランシスコ会士のなかで 初めて そのことを公にした人です.今,どう感じていますか?

MF : わたしがその事実を公にしたことを,わたしの兄弟たちは とてもポジティヴに受けとめてくれました.たいへん好評でした.そのことを知って,わたしは嬉しく感じています.おそらく,この価値評価の火花は,教会のほかの領域にも 飛び火して行き得るでしょう.そうなれば すばらしい と 思います.

MK : いづれにせよ,あなたは,修道士として,独身者の生活を おくっています.にもかかわらず,なぜ 公にしたのですか?

MF : わたし個人にとって,それは,わたし自身の誠実さの問題でした.わたしは,修道士として,教会のなかに生きており,活動的であり,さらに,行動責任をも引き受けている — であるならば,わたしは,わたしが 誰であり,如何なる意見を持っているのかをも,明らかにすることができる と 思いたい.わたし自身は gay であるならば,わたしは,このことを示したい : gay であっても わたしは この[フランシスコ会管区長という]職務において 教会のメンバーであり得る ということを.それは,教会においては 名目上 そうであってはならないとされているがゆえに,重要なことです.我々の教会のなかには,残念なことに,多くの — あまりに多くの — 制度的な偽善が あります.つまり,名目上 あってはならない何かが ある — しかし,皆が知っています:それでも それは ある と.我々は 教会として 多様である;教会は queer でも ある;それは 神により欲せられたことである;それは 被造界の多様性に適っており,それゆえ,まったく正常なことである — それらのことを[教会にとって]チャンスと見なすよう,わたしは宣べ伝えて行きたいと思っています.

MK : 今週 水曜日[2022年06月08日]以来,あなたは 新たなフランシスコ会管区長として 公式に 職務に就いており,それゆえ,今後 6 年間,[ドイツの]フランシスコ会のあり方を定める権限を有することになります.あなたは 将来に関して 何を 望みますか?

MF : ますます 高齢化し 縮小しつつある 小さな管区として,我々は,内的な まとまりを うまく保って行かねばなりません.わたしにとって 重要なのは,このことです:兄弟たちが 自身の召命を 十分に かつ 喜ばしく 生きることが できること.我々は,部分的には,なおも,古い構造と大きな建物を有していますが,長期的には 我々は それらを保持することは もはや できないでしょう.我々は,縮小して行かなければなりません.それは,また,より近しく 人々のもとに ある チャンスであり,かつ,如何に 我々は 今日 生き得るのかの 新たな形態を 見出すチャンスです.我々の前には 大きな変化が 待ち受けています.それを,わたしは,兄弟たちとともに,形づけてゆきたいと思いますし,そうせねばなりません.

[1] Markus Fuhrmann は 2005年に 司祭叙階の秘跡を授かっているが,フランシスコ会のメンバーは,司祭でも,Bruder (brother) と呼ばれる.

[2] MHG-Studie : ドイツのカトリック教会において 1946年から 2014年までの 69年間に ドイツ司教協議会の管轄下にある聖職者(司祭,助祭,修道士)が 未成年者および若者に対して 犯した 性的虐待の 事件について,2014年から 2018年にかけて,Mannheim と Heidelberg と Gießen の 大学の 研究機関が 合同で 調査を おこなった.その結果は,2018年09月に 発表された.その調査は,三つの大学の名称の頭文字を取って,MHG-Studie と 呼ばれる.その結果は:調査対象となった 聖職者の Personalakte[人事記録]の 総数 38,156 のうち,1,670 (4.4 %) において 性的虐待行為の記録が あった.その大多数は 教区司祭であった.被害者の数は 3,677 人(男性 62.8 %, 女性 34.9 %, 性別の記載 無し 2.3 %)であった.一般社会における性的虐待に関する統計と比較すると,男性の被害者が著しく多いことが 目立つ.  

2022年5月10日火曜日

パパ フランチェスコから LGBTQ の 人々へ:神は父である;父なる神は わが子を ひとりも 否まない


パパ フランチェスコから LGBTQ の 人々へ:神は父である;父なる神は わが子を ひとりも 否まない


かねてから LGBTQ community のために 司牧的奉仕を おこなってきた James Martin 神父 S.J. は,今月(2022年05月)始め,もっぱら その目的に当てられた 新たな website Outreach, An LGBTQ Catholic Resource を 立ち上げました.

そして,彼は,5月05日付の書簡で,パパ フランチェスコに 三つの質問を 送りました — それらは,James Martin 神父によれば,彼が LGBTQ カトリック信者たち および 彼らの家族たちから 最もしばしば 受ける 質問です.

それに対して,パパ フランチェスコは 5月08日付の 手書きの書簡で 手短に 回答してきました.

それらの質問と回答の スペイン語原文と英訳は,5月09日に Outreach の website で 公開されました(Vatican News の 記事 ; America Magazine の 記事).さっそく 紹介しましょう:

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James Martin 神父の パパ フランチェスコへの 質問:

質問 1 : あなたは,LGBT の 人々が 神について 知っているべき 最も重要なことは 何である,と 言いますか?

質問 2 : あなたは,LGBT の人々が 教会について 何を知っていることを,欲しますか?

質問 3 : あなたは,教会による拒絶を経験したことのある LGBT カトリック信者に対して,何を言いますか?

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[パパ フランチェスコの James Martin 神父への 返事の手紙,2022年05月08日付]

親愛なる兄弟よ,

手紙を ありがとう.

あなたの質問に関しては,わたしは とても単純な答えを 有しています.

回答 1 : 神は父である;父なる神は,わが子を ひとりも 否まない.そして,神の「スタイル」は「近しさ,慈しみ,優しさ」である.その道を通れば,あなたは 神を見出すだろう.

回答 2 : わたしは,あなたたちが 使徒言行録を読むことを,欲する.そこには,生き生きとした教会の イメージが ある.

回答 3 : わたしは,その人に,このことを指摘しておきたい:それは「教会による拒絶」ではなく「教会にいる 幾人かの人々による 拒絶」である.教会は 母である;母なる教会は,わが子たちを すべて 呼び集める.「宴会に招かれた者たち」の 譬え話 [ Mt 22,1-15 ; Lc 14,15-24 ] を 参照 :「義人も,罪人も,富む者も,貧しい者も,等々」.「選択的」な 教会,「純血種」の 教会は,聖なる母としての教会ではなく,しかして,ひとつのセクトである.

あなたがしていること すべてに 感謝します.あなたのために 祈ります.わたしのためにも 祈ってください.

Jesus が あなたを祝福してくださるように.そして,聖なるおとめが あなたを護ってくださるように.

兄弟愛を以て,

Francisco

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パパ フランチェスコは,2017年04月,James Martin 神父を,教皇庁の Dicastero per la Comunicazione の 13人の相談役 [ consultore ] の ひとりに 選んでいます.また,2019年09月30日には,使徒宮殿の図書室で行われた 30分間の個人接見において,彼と会談しました.さらに,2021年06月21日付の手書きの手紙(原文英訳)で,彼の LGBTQ community への 司牧的奉仕について,彼に 感謝と励ましの言葉を 書き送っています.

James Martin 神父が この 5 月に 立ち上げた website Outreach は,このことを目的としています : LGBTQ カトリック信者たちが 次のことを知るのを 助けること:すなわち,神は 彼らを 愛している;彼らは,教会の かたすみへ 差別されているのではなく,教会の ただなかに いる;彼らは,神の民へ献げるべき 賜を たくさん 有している.

彼が 2018年03月に 彼の著書 Building a Bridge の 増補改訂版の 出版の 機会に 作成した 動画 Spiritual Insights for LGBT Catholics の テクストの 邦訳,および,彼が 2019年06月の World Pride NYC の 前夜の ミサで おこなった 説教の 邦訳も,改めて 紹介しておきます.

LGBTQ みんなの ミサ 世話人,ルカ 小笠原 晋也

2022年4月18日月曜日

主の復活 おめでとうございます!

Caravaggio (1571-1610), Maria Maddalena in estasi (1606), collezione privata(なぜ この絵を 復活祭のメッセージのために使うのか については 以前の記事を 参照してください)

主の復活 おめでとうございます!

と言っても,Vladimir Putin による 侵略戦争のせいで ウクライナの人々が 悲惨な状況に 置かれている さなか,Papa Francesco の Urbi et Orbi の メッセージ も,戦争や紛争が続いている地域に生きる人々を 思いやるものに なりました.

一日も早く 殺戮と破壊が やみ,主の平和が もたらされますように!

さて,朗報も あります.Covid-19 の 全世界的流行のせいで 2020年03月以来 26ヶ月間 中断されていた わたしたちの LGBTQ みんなの ミサを,来月から 再開します.従来どおり,毎月 第 3 日曜日の 午後,都内の 某カトリック施設の 聖堂で 行います.司式してくださるのは,鈴木 伸国 神父さま SJ を はじめ,LGBTQ カトリック信者たちの司牧を 喜んで引き受けてくださる 神父さまたちです.問合せ と 申し込み は lgbtcj@gmail.com へ.

カトリック教会 全体としては,今年01月に紹介した記事「カトリック教会は LGBTQ 信者へのアプローチを 変えつつある」で 述べられているように,Papa Francesco の 包容的な司牧的配慮の効果が 一部の超保守的な司教や大司教たちを除く カトリック教会 全体に 行き渡りつつあるように 思われます.神に感謝!

特に,リュクサンブール大司教 Jean-Claude Holleriche 枢機卿 は,今年の 2月02日付で発表された インタヴュー記事のなかで,「homosexuality は 罪である という 教会の教えは まちがっている」と 断言しました.また,ミュンヘン大司教 Reinhard Marx 枢機卿 は,今年の 3月13日,ミュンヘンの 聖パウロ教会で,その地の LGBTQ カトリック共同体の ミサの 開始 20周年を 記念する ミサを みづから 司式し,そして,そのミサのなかで,カトリック教会が LGBTQ の 人々を 差別し 傷つけてきたこと について,謝罪しました.

カトリック教会が,神の 全-包容的 (all-inclusive) な 愛に 忠実に,LGBTQ 信者たちに対して ますます包容的となってゆきますように!

最後に,ちょっと 思い出したこと,そして,そこから 思いついたことを 付け足します.

Papa Francesco は,教皇として 初めて おこなった 主日の正午の Angelus の際(2013年03月17日)に,神の慈しみ と 罪の赦し について 語りつつ,1992年05月に ブエノスアイレス大司教区の補佐司教に叙階された直後に 経験した あることを,回想しています.彼が 告解のための待機を終えようとしていたとき,ひとりの みすぼらしい外見の 老女 — 年齢は 多分 80歳 以上 — が 彼のところに やってきました.彼が「nonna[スペイン語では abuela : 老女に対する 親しみをこめた 呼びかけ;日本語では「おばあさん」に相当するだろうが,今 日本では 自分の祖母ではない老婦人に 親しみをこめて「おばあさん」と呼びかけることは もはや しないだろう],告解をしますか?」と 訊くと,彼女は「はい」と 答えます.「でも,もし あなたが 罪を犯していないなら...」と 彼が言いかけると,彼女は「わたしたちは 皆 罪を犯しています!」と 答えます.「しかし,多分,主は 皆を 赦してくださるわけではないでしょう...」と 彼が言うと,彼女は「主は すべてを 赦してくださいます!」と 自信を以て 断言します.彼が 驚いて「signora, あなたは どうして そう言えるのですか?」と 尋ねると,彼女は こう答えます :「もし 主が すべてを赦してくださらないのなら,世界は存在しないでしょう」.彼女の答えを聞いて,彼は 彼女に こう問いたくなります :「signora, あなたは Università Gregoriana で 勉強したのですか?」 以上の対話の回想に続けて,Papa Francesco は こう言います :「なぜなら,彼女の答えは,聖なる息吹 [ lo Spirito Santo ] が 与えてくれた 知恵 — 神の慈しみ関する 内的な知恵 — であるからです」.

もし 主が すべてを赦してくださらないのなら,世界は存在しないだろう (Se il Signore non perdonasse tutto, il mondo non esisterebbe) — 罪の赦し と 神の慈しみ に関する Papa Francesco の 説教において 述べられた この命題を,わたしたちは こう言い換えることができます:もし 主が すべてを愛してくださらないのなら,世界は存在しないだろう — なぜなら,Papa Francesco は こう結論しているからです :「神は,愛に満ちた 父 — 常に 赦してくださる 父 — 我々 皆 に対する 慈しみの 心を 有する 父 — である」.

ということは:あるものが存在している ということの 可能性の 条件は,神が それを 愛してくださっている ということである.要するに:存在とは 神の愛である.

存在とは 神の愛である (das Sein ist die Liebe Gottes) — この命題は,Heidegger の テクストのなかには 見出されません.誰か 神学者が そう言っているでしょうか? 御存じの方は お教えください.

主が 愛をこめて わたしたちに 吹き込んでくださった 聖なる息吹が わたしたちを生き続けさせてくださいますように.

2022年4月12日火曜日

LGBTQ みんなの ミサを 5月から 再開します!

2022年03月13日,München の 聖パウロ教会で,その地の LGBTQ カトリック共同体の ミサの 開始 20周年を 記念する ミサを 司式する München und Freising 大司教 Reinhard Marx 枢機卿.彼は,このミサのなかで,カトリック教会による LGBTQ に対する 差別について 謝罪しました.

LGBTQ みんなの ミサを 5月から 再開します!


Covid-19 の 全世界的流行のゆえに,わたしたちの LGBTQ みんなの ミサも,2020年03月以来,中断を余儀なくされてきました.

ですが,SARS-CoV-2 ウィルスの 弱毒化 と ワクチン接種の普及に 鑑みて,わたしたちのミサを 26ヶ月ぶりに 2022年05月から 再開したいと思います(公衆衛生的な諸条件に重大な変化の無い限りで).

原則的に 毎月 第 3 日曜日(5月は 15日)の 午後,都内で 行います.

司式してくださるのは, 上智大学準教授 鈴木伸国神父さま SJ を 始め,LGBTQ カトリック信仰共同体の活動に御理解のある 神父さまがたです.

問い合わせ と 申し込み の 宛先は 以下のとおりです:

LGBTQ みんなの ミサ 世話人 ルカ 小笠原 晋也
tel. 090-1650-2207