以下は,アメリカの LGBTQ カトリック信者の 団体 New Ways Ministry の 副理事長 Robert Shine による 2017年09月01日付の ブログ記事の 邦訳である:
「ナッシュビル宣言」は,まさに,カトリック LGBT は どれほどの成果を上げてきたかを,明かしている
合衆国の福音派の指導者たちは,今週の始め[2017年08月29日,火曜日],「ナッシュビル宣言」を 発表した — 彼らが LGBT の人々の[そうでない人々との]平等に 反対することを 明らかにするために.それに対して,ひとりの傑出したカトリック司祭が,答えた — LGBT の人々の善性を肯定することによって.それらふたつの「宣言」の間のコントラストは,まさに,カトリック LGBT は どれほどの成果を上げてきたかを 明かしている.
「ナッシュビル宣言」は,「聖書的な男性性と女性性とに関する評議会」(The Council on Biblical Manhood and Womanhood) によって作成されたものであり,sexuality に関する 一連の肯定と否定の命題を 述べている.そこには,これらのことが含まれている:結婚の平等[同性どうしのカップルの結婚の法制化]の拒絶;「『自身を homosexual と 自認すること』(homosexual self-conception) および『自身を transgender と 自認すること』(transgender self-conception) は,神の〈創造と贖いにおける〉聖なる意図と 無矛盾的である」ということの否定.
James Martin 神父 SJ — この夏に出版された〈LGBT の問題に関する〉新たな本『橋を架ける』(Building a Bridge : カトリック教会と LGBTQ コミュニティとの間に 双方向的なコミュニケーションを 確立すること)の 著者 — は,[8月30日に]一連の tweet において,彼自身の七組の肯定と否定を以て,[ナッシュビル宣言に]答えている.彼は こう tweet している:
「ナッシュビル宣言」に関連して:
わたしは このことを 肯定する:神は LGBT の人々 すべてを 愛している.
わたしは このことを 否定する:イェスは,彼らを,侮辱し,断罪し,よりいっそう辺縁化することを,欲している.
わたしは このことを 肯定する:御父は LGBT の人々を 愛している;御子は彼らを呼んでいる;そして,聖霊は彼らを導いている.
わたしは このことを 否定する:神の〈彼らに対する〉愛は 無である.
わたしは このことを 肯定する:イェスは,社会の辺縁にいる人々に出会ったとき,歓迎の態度を以て彼らを導いたのであって,断罪の態度を以てではない.
わたしは このことを 否定する:イェスは,さらなる断罪を 欲している.
わたしは このことを 肯定する:我々は 皆 conversion[「回心」と「転向療法」の「転向」とを かけている]を 必要としている.
わたしは このことを 否定する : LGBT の人々は,何らかのしかたで,おもな罪人 あるいは 唯一の罪人として 特定されるべきである.
わたしは このことを 肯定する : LGBT の人々は,洗礼の恵みによって,教会のフルメンバーである.
わたしは このことを 否定する:神は,彼らが「わたしたちは教会に属していない」と感ずることを,欲している.
わたしは このことを 肯定する : LGBT の人々は,多くの教会によって,自分たちが あたかも けがれているかのように 感じさせられてきた.
わたしは このことを 否定する:イェスは,わたしたちが 彼らの膨大な苦しみを さらに増すことを,欲している.
わたしは このことを 肯定する:わたしが知っている〈最も聖なる〉人々のうち 幾人かは,LGBTQ である.
わたしは このことを 否定する:イェスは,わたしたちが 他者を断罪することを,欲している — 彼は そのようなことを 明らかに禁止している にもかかわらず.
James Martin 神父のように傑出した声から発せられた 以上のようなサポーティヴな応答を,わたしたちは歓迎する.それは,彼の『橋を架ける』に由来するものである.その本において,彼は,全信者が互いに敬意と憐れみと思いやりを示すよう,呼びかけている.
「ナッシュビル宣言」に対して応答した彼の「肯定」命題は,特に感動的である — LGBT の人々を傷つけてきた カトリック教会自身の歴史に 鑑みるとき.そのようなカトリック教会の態度は,ときとして,「ナッシュビル宣言」の背後に存在する福音派の指導者たちの言動を 反映してきた.LGBT の人々 および 彼にとって愛しい人々は,あまりによく知っている — 排除的な態度 と 差別的な言葉が,あらゆるレベルの教会指導者たち および 信徒席で彼らの隣にいる一般信徒たちから 発せられてきたことを.
ありがたいことに,「ナッシュビル宣言」に関する James Martin 神父の tweet は,このことを明かしている:[LGBTQ に対する]福音派のアプローチと カトリックのアプローチは,まさに,どれほど相異なるものとなったか.「ナッシュビル宣言」と Martin 神父の一連の tweet(それらは,福音派の文書の形式を反映する命題形式において書かれてある)との間のコントラストは,このことを思い起こすのに有用である:カトリック信者の大多数にとっては,LGBT の問題に関する対話は,一般的に言って,過度に単純化されてはいない — 特に,バカげたものになるほどに単純化されてはいない.
前進は為されてきたものの,多くの人々は,なおも感じている:制度的な教会は,あまりに多くの人々を傷つけ続けている,と.我々は,〈過去に為されてきた および 現在も為されている〉害を認識することの緊張のうちに 生きる必要がある — 対話の将来を作り出そうと試みつつも.各国において,その緊張の度合いは 異なる;また,各人が,将来を展望しつつ,過去の害がどれほど認識されるべきかを,決めねばならない.
否定され得ないのは,このことである:カトリック共同体のなかで,対話のための小さな空間が成長しつつある.対話が生ずるところでは,教会は,断罪的な命題を超えて,複雑さの空間 — そこにおいては,差異と恵みとが ともに 認められる — のなかへ 動かされる.2014年と2015年の〈家族に関する〉司教会議は,対話の開始の卓越した例である.
James Martin 神父の本 — および,その本に対する 多くの かつ 多様な 反応 — は,また,LGBT の問題に関する教会内の対話を,それが より深い かつ より対話的な 場となるよう,決定的に 豊かにした.そのことについて,我々は 皆 感謝することができる.