2022-11-01

2022年07月17日の LGBTQ みんなのミサでの 酒井陽介神父さまの 説教

マリアとマルタの家のキリスト(表紙絵の解説

2022年07月17日(年間 第 16 主日)の LGBTQ みんなのミサでの 酒井陽介神父さま SJ の 説教


第 1 朗読 : Gn 18,01-10a
第 2 朗読 : Col 1,24-28
福音朗読 : Lc 10,38-42


今日の福音朗読は,わたしたちがよく聞く なじみある物語です:マルタとマリアの話.

イェスは,マルタとマリアの家に しばしば 行っていたのでしょう.宣教の旅に出て,そして,疲れを感じたら,必ずこの家に戻ってきて,彼女たちとともに時間を過ごしていたのかもしれません.ともかく,彼女たち姉妹の家は,イェスにとって,とても信頼のおける また 心休まる 場所だったようです.

そして,きっと,イェスだけでなく,ほかの弟子たちも いっしょに来ていたのでしょう.ですから,マルタは,おおぜいのために食事を作り,忙しく働いていたのでしょう.今日の福音朗読の場面は,そのようなものです.

ところで,ある解説書をひもといてみると,そこにはとても新しいことがある というのです.何が新しいのか というと:マルタは家の女主人であって,彼女が主人としてイェスを迎え入れている ということ.

当時のユダヤの社会のなかで,女性がそのように主人として客を迎え入れる ということは,ほとんどなかったそうです.

もっとも,マルタとマリアの家には,彼女たち ふたりしかいなかったのかもしれません.ルカ福音書には,ラザロが彼女たちといっしょにいたのかどうかは,書かれてありません.

ともあれ,女性が主人として客を迎えるということは,当時は 非常に珍しかった;というのも,当時は,やはり,神のことばを聴くとか,偉い人の言葉を聴くとかというときに,その場に集まるのは,基本的に言って,男性のみです.女性たちは,基本的に言って,その近くで聴くことは できません.そこから離れたところで いろいろな周辺的な世話をする というのが,女性の役割でした.そのようなジェンダーによる役割の違いが,当時,ありました.

わたしも,ローマにいたとき,Sinagoga Maggiore という大きなシナゴーグに行く機会がありました;そこで,いろいろな説明を聞きました;そのなかに,ジェンダーによる席分けの話がありました:ここは男性の席,上の方は女性の席というように,分けられていました.そのシナゴーグは決して超保守派ではないのですが,それでも,そのような区別は はっきり 為されています,今までも.

特に 超正統派のユダヤ人たちは,現代でも,男性は もっぱら Torah の勉強をして,女性は働く という区別が あります.そのような伝統や文化は,今でも受け継がれています.

しかし,イェスは,そのようなことを 全然 気にしません;そのような区別を乗り越えて行きます.イェスと彼女たちとの関わりは,そのような文化的,伝統的な垣根を越えている;そして,それは新しいことなのだ — その解説書は,そう述べています.

さて,そのような状況のなかで,マルタは せわしく立ち働いています.この「せわしく働く」のギリシャ語は περισπάω です.それは,「注意が,あるべき場所から引き離されて,そらされる」という意味です.

ですから,「マルタは せわしく立ち働いている」ということは,彼女が 本来 なすべきことをすることができず,本来 気持ちを注ぐべきことに 気持ちを注げないでいる,という状況を 物語っています.かわりに,彼女は,あれもやり これもやり,あんなことも考え こんなことも考え,心のなかも 頭のなかも いっぱい いっぱいに なってしまっている — そういう状況が 物語られています.

そして,彼女は,イェスのところに来て,文句を言います:「主よ,わたしの姉妹は わたしだけにもてなしをさせていますが,あなたは 何ともお思いなりませんか? 手伝ってくれるように 彼女に言ってください」.

すると,有名なイェスの言葉です:「マルタ,マルタ,あなたは 多くのことに 思い悩み 心を乱している」と.まさに「心を乱す」ということが「せわしく働く」ということ とつながってきます.

そして,イェスは 言います:「いや,マリアは 今 あるべき場所に いるのだ.彼女は,聴くべき言葉に 聴き入っている;だから,それをリスペクトしなければいけない」.

何だか,マルタが さげすまれてしまっているようにも聞こえます.マリアがしていることこそ すばらしい;マリアのあり方こそ あるべきあり方だ,と 思われがちかもしれません.しかし,果たして それだけなのでしょうか?

わたしは,この数年来,こう思っています:わたしたちが住む この世界では,binarism が支配的です.さまざまなことが 二分化されます;二分化されやすい.その事態に対して 気をつけなければいけない,と わたしは感じます.

イェスの存在は この binarism — ものごとを二分化する文化,伝統,思想 — に対するアンチテーゼという意味を持っている,と思います.

福音は,あまねく すべての人々に向けて 語られています.しかし,人間は,こちら側とあちら側というふうに 分けやすい:白か黒か,正しいか間違っているか,優れているか劣っているか,きれいか きれいでないか,頭がいいか そうではないか — そのような形で,わたしたちは,無意識のうちに,物事を二分化する.そして,自分がいる側とそうでない側との間に 溝を いつのまにか 作ってしまう — あれか これか と.

イェスは,あれかこれかという選択を,わたしたちに 迫らない,と思います.

勿論,識別のときには,わたしたちは 何か ひとつを 選ばなければいけない;しかし,それは,非常に分かりやすい〈すべきことと してはいけないこととの〉道徳的な二分化です.

そうではなく,イェスは,もっともっと広い観点から,そして,もっと深いところから,わたしたちに問いかける:実は,あれも これも ではないか?と.

今日の福音朗読の文脈で言えば:マリアもそうだし,マルタもそうだ — それが,わたしたちのあり方ではないかな,と思います.すなわち,マルタがしていること — 客人をもてなすということ — は,とても大切なことです;為すべきことです;それは,客人への愛と尊敬を示すことです.

ただ,マルタは,それ以上に,あれも これも,マリアのことも,食事の準備のことも,もてなしのことも,いっぱい いっぱい 考えてしまった;そして,それによって,心が分散してしまった.

そこで,イェスは 彼女を 招きます:マルタよ,マルタよ,もう少し 心を おさめて行きなさい;心を ひとつにして行きなさい.

他方,マリアの方も,やはり,そこにずっと座っているわけにはいかない.イェスがいなくなったら,マリアも,そこから立ち上がって,日常に戻って行きます.

ですから,わたしたちは,そのなかで バランスを 捉えていくことが,たいせつです.

神のことばを聴くことは だいじです.しかし,それだけでは生きることはできません.両方がないと いけない.あれもこれもないと いけない.その時々によって,あれもこれものなかから,より善いのはどちらか という識別と選びを,わたしたちはすべきです.

ですから,イェスは,ひとつだけを 一義的に 追求する または 押しつける というようなことを 決して しない,と思います.

それは,わたしたちにとっても,とても大切なことだ,思います.わたしたちも,気をつけなければ,教会のなかでも そとでも,思想的にも,政治的にも,保守か リベラルか,これに 反対するか 賛成するか — そのような二分化に陥ってしまいます.そのような二分化は,特に ここ最近,わたしたちの社会のなかで強く感じられるようになりました.

しかし,本当に あれか これか なのか? 実は,それは,わたしたちの都合に過ぎません.自分たちの考えが合うとか,自分たちの思いと近いとか,自分たちにとって心地よいとか,何か 自分の都合と どこかでリンクしているような気がします.

しかし,神の目線,イェスの目線では,あれか これか ということではありません.

ですから,マルタとマリアに関しても,彼女たちが象徴する社会的な役割に関しても,どちらかひとつだけを高めるとか,祭りあげるとか,だいじにするとか,そのようなことがかかわっているのではありません.あれも これも すべて,神の慈しみ,神の憐れみの対象である という観点に立たなければ,わたしたちは,知らず知らずのうちに 利己的になり,ナルシスティックになり,裁いてしまうことになります.

マルタは,自分のことで精いっぱいになってしまって,マリアを批判しました.でも,あれか これか ではありません.わたしたちは,二分化の文化に慣れてしまっているかもしれません;しかし,イェスは,二分化の文化を,わたしたちにもたらしませんでした.

イェスに従うということは,ひとつの選びです.しかし,我々は,まったく純粋に,百パーセント 完璧に ということには,なかなか なれません.我々は,イェスに従って行くときも,いろいろな心,清いものも 濁っているものも,互いに矛盾していることも,非常に純粋に高みを目指す気持ちも,そうでないものも,全部 抱えながら そうして行きます.ひとつだけを選んでいく ということは,なかなかできない.そのことも含めて,イェスは,わたしたちを迎え入れてくださいます;そのことも含めて,イェスは,わたしたちと つながってくださいます;そして,わたしたちを 信頼して 派遣してくださいます.

あれか これか ではない ということは,福音が誰に向けられているのか ということを問うてみれば,わかるでしょう:わたしと考えが違う人も,福音の対象なのです;わたしを攻撃する人も,福音の対象なのです.

福音は,あらゆる人に 向けられており,あらゆる人のところに届けられる — そのような価値観を わたしたち キリスト者が もっとたいせつにすることができれば,そのことに もっと意識的になれれば,非常に殺伐とした二分化の文化,二分化の世界を,超えていくことができるのではないか,と思います.

わたしたちは,そのことを 毎日 自分の心に問うてみなければなりません.というのも,わたしたちは,案外,二分するまなざしで ものごとを見ているからです:わたし側か あちらの側か.

しかし,マルタもマリアも,イェスにとって,たいせつな仲間であり,本当に彼の心に近しい人です.そのことから,今日の福音を,もう一度 味わい直してみたい,と思います.


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Covid-19 の パンデミックにより,わたしたちの LGBTQ みんなのミサも 26ヶ月間 中断することを 余儀なくされていました(その間は,毎月 1 回,Zoom Meeting で 祈りと思いの分かち合いの集いを おこなっていました).そして,2022年05月から やっと 再開することができました.5月と 6月の ミサは,鈴木伸国神父さま SJ が 司式してくださいました.彼の説教も録音したのですが,マイクの設置のしかたが適切でなかったため,うまく録音できていませんでした.ですので,文字起こししたテクストを ここに掲載することができません.鈴木伸国神父さま,ごめんなさい m (_ _) m