2022-11-01

2022年08月21日の LGBTQ みんなのミサでの 光延一郎神父さまの 説教

最後の晩餐(表紙絵の解説

2022年08月21日(年間 第 21 主日)の LGBTQ みんなのミサでの 光延一郎神父さま SJ の 説教



第 1 朗読 :
Is 66,18-21
第 2 朗読 : He 12,05-07.11-13
福音朗読 : Lc 13,22-30


今年は C 年ですので,毎日曜日,ルカ福音書が 読まれています.

ルカ福音書は,三部に分かれています.最初の部分では,メシアとはどんなものなのか,イェスはどんな方なのか ということが,書かれてあります.

次いで,9章51節 [1] から,イェスは,まなじりを決して — いよいよ 十字架に付けられることを受け入れようと決意して — 一直線に イェルサレムへ向かって行くことになります.そこからが 第 2 部 [2] です.今日 読まれたところも,その続きです.イェスは,イェルサレムへ向かう旅の途上で だいじな教えを いろいろ 述べます.第 2 部は そういう構成になっています.

[1] Lc 9,51 : ἐγένετο δὲ ἐν τῷ συμπληροῦσθαι τὰς ἡμέρας τῆς ἀναλήμψεως αὐτοῦ καὶ αὐτὸς τὸ πρόσωπον ἐστήρισεν τοῦ πορεύεσθαι εἰς Ἰερουσαλήμ[そして,このことが起きた:彼が天へ上げられる日が満ちたとき,彼は,イェルサレムへ向かうことの決意を固めた].

[2] 9,51 – 19,27 までが 第 2 部,そして,19,28 から 最後までが 第 3 部(イェスの イェルサレムへの到着から 昇天まで).
 
今日 朗読されたところの冒頭 (v.22) では,改めて「イェルサレムへ旅しながら」[ πορείαν ποιούμενος εἰς Ἱεροσόλυμα ] と言われています.それによって,9章51節から始まった 第 2 部が,また もう一歩 深まって行く — そういうところです.

第 2 部では,世の終わりの日とか,裁きのときとか,救いに入れるのは誰か,入れないのは誰か,という話が 語られています.

今日のところでも,誰かが「救われる人は少ないのですか?」[ εἰ ὀλίγοι οἱ σῳζόμενοι ; ] (v.23) と 尋ねます.それに対して,イェスはこう答えます:「狭い戸口から入るように努めなさい」[ ἀγωνίζεσθε εἰσελθεῖν διὰ τῆς στενῆς θύρας ] (v.24).

マタイ福音書 (7,13) では「狭い門から入りなさい」[ εἰσέλθατε διὰ τῆς στενῆς πύλης ] と 言われていて,「門」[ πύλη ] という語が使われていますが,それに対して,ルカ福音書のこの箇所では「戸口,ドア」[ θύρα ] という語が 用いられています.「救われる人は少ないのですか?」という問いに対して,イェスは 直接 答えません;その代わりに「戸口は 狭いぞ」と言う.そして,狭い戸口から入ることができない者たちに対しては,家の主人は,戸 [ θύρα ] を閉めて,言う:「あなたたちがどこの出身なのか,わたしは知らない.不正義を行う者たちよ,皆,わたしのところから立ち去りなさい」[ οὐκ οἶδα ὑμᾶς πόθεν ἐστέ· ἀπόστητε ἀπ᾽ ἐμοῦ πάντες ἐργάται ἀδικίας ] (v.27).

おそらく,イェスの この話しを 聞いている人々は,皆,ユダヤ人です;そして,彼らは こう思っている:「我々は,アブラハム,イサク,ヤコブの子孫であり,選ばれた民なのだから,当然,神の国に 優先的に 入れるだろう」.

それに対して,イェスは,そうではない と言う;むしろ,神の国に入れる人々は,ユダヤ人に限らない;彼らは「東から 西から,南から 北から,来るだろう」(v.29) ; 神の御心に従順である人々こそが,狭い戸口を通り抜けることができるのだ.そして,「最初の者たちになるだろう最後の者たちが いる;そして,最後の者たちになるだろう最初の者たちが いる」[ εἰσὶν ἔσχατοι οἳ ἔσονται πρῶτοι καὶ εἰσὶν πρῶτοι οἳ ἔσονται ἔσχατοι ] (v.30).

マタイ福音書 (20,16) では,「そのように,最後の者たちが最初の者たちになるだろう;そして,最初の者たちが最後の者たちになるだろう」[ οὕτως ἔσονται οἱ ἔσχατοι πρῶτοι καὶ οἱ πρῶτοι ἔσχατοι ] と はっきり言っているのですが,それに対して,ルカ福音書では そうではありません;そうではなく:[神に選ばれたタイミングの]あとさき あるいは[神に選ばれたという]特権の有無は,救済のためには関係ないのだ;本当に神の御心にかなうことを行う者が,神の国に入るのだ.

そのような観点から ほかの朗読も見てゆくと,第 1 朗読の イザヤ預言書 (66,18-21) — 66章は 最後の章です.イザヤ預言書は,長い年月をかけて — おそらく 預言者イザヤの弟子たちが 師の教えを引き継いで — 書き継がれていったのだろう と言われています.聖書学者たちは,56章から 66章までを「第三イザヤ」と呼んでいます.それは,終わりのときの救いを — そのヴィジョンを — 描いています.

今日の 第 1 朗読においても,主の栄光は さまざまなところに広がって行く,そして,人々は 主の栄光を見ることになる,と 言われています.

幾つかの地名が挙げられています:タルシシュは 比較的 イスラエルに近いところだろう と思われます;しかし,プル,ルド,トバル,ヤワンは 全然 聞いたことがない地名です;リビアとか,アフリカの奥の方の町ではないか,と言われています.

さらに,彼らを「わたしの名声を聞いたことも わたしの栄光を見たこともない 遠い島々に 遣わす」— これは,日本のことかもしれません.

そのようなところからも,人々は,神の栄光を見るために,主の都 イェルサレムに 集まってくる.

今日の集会祈願でも こう言われていました:「すべての人の父である神よ,国籍や民族の異なる わたしたちを,あなたは 今日も 神の国の宴に招いてくださいます.呼び集められた喜びのうちに,わたしたちが ひとつの心で あなたをたたえることができますように」.

つまり,国籍や,民族や,何らかのしかたで人と人とを分ける境界線 — そういうものは 関係ない;いかに 主の御心を 受けとめ,それを行うかが,重要なのです.

第 2 朗読の ヘブライ書においては,「わが子よ,主の鍛錬を軽んじてはいけない」と言われています.「主から 懲らしめられても,力を落としてはいけない」というのは ちょっと厳しいですが,しかし,わたしたちは神の子であり,神は わたしたちの父です;父による しつけは,父が子を愛するがゆえに,為されます;そのことを ちゃんと理解しなさい;いろいろな試練にあっても,それを 主による鍛錬 — 乗り越えるべき訓練 — として 受け入れなさい… そういうことではないか と思います.

神は,すべての人を,神の国に — 救済に — 招いています;ただし,自動的にそこに入れるわけではない;各人の ある種の努力が 必要です.

わたしは SJ ハウスに住んでいます.そこに住んでいるイェズス会士たちは,各々,国籍も違うし,てんでんばらばらです;よく いっしょに 住んでいるな と つくづく 思います.どうして,こんなに異なる人々が いっしょに住んでいられるのか?

それは,やはり,「霊操」[ spiritual exercises ] の経験が 真ん中にあるからです.それを共有しているがゆえに,確信で つながっている.あとは,それぞれ,自分のなすべきことを,神から頂いている カリスマや 導きに 従って 歩んでいきなさい,ということです.それによって イェズス会は 成り立っています.

「霊操」といっても 皆さん あまり 御存じないかもしれませんが,わたしは,今月の上旬は,ずっと,広島の長束にある修練院 — イェズス会に入ろうとする者は 最初の 2 年間 そこで 修練を受け,修道生活と イェズス会の 基本を学びます — に いました.毎日,朝の暗いときに 起きて,お祈りして,午前中は 修練長のお話を聞いたり 勉強したりします;午後は 労働します — 畑を耕したり,庭の掃除したり.そのように毎日を過ごします.そして,その真ん中には 霊操があります;霊操を きっちり やる — 1 カ月間,みっちり やる.そのことが カリキュラムに 入っています.

毎年 毎年,黙想と 霊操を やります.今年は,神学生たちが長束でやるというので,わたしも 同伴させてもらいました;そして,いろいろと 考えることや,新たな気づきを 得ました.

霊操は,何を目的にしているか? それは,イェスの友になること,彼の仲間になること,そして,彼と同じことをして行くことです.霊操は,そのための鍛錬です.

「霊操」は,英語では spiritual exercises です.Exercises — つまり,練習です.楽器や スポーツを やる人は,何度も何度も練習を積み重ねることによって,だんだん上達して行きます.それと同様に,霊的生活も,やはり,そういうトレーニングや練習が 必要なのです.

ここでは,あまり詳しく話していられないので,YouTube で わたしの「カトリック 神学 霊性 フォーラム」を見てください.わたしは,今年から YouTuber になるぞ と決心して,福音について,毎週,新たな動画を出しています.聖 イグナチオ デ ロヨラの 記念日 7月31日には「霊操とは 何か?」について話しています.興味があれば,のぞいてみてください.

霊操では,まずは,一所懸命,前向きに,自分で努力して,黙想してゆきます.いかにわたしはイェスの弟子になっていくか,わたしの罪は何だったのか,世界の悪はどのように働いているか,等々を 見極めてゆく — そのように,能動的な側面が あります.いわゆる meditatio — いろいろ考えたり,記憶を掘り起こしたり… 理性を使う — けっこう 頭を使う — そういうタイプの祈りです.

そして,霊操の終わりの方 — 受難や 復活 — になってくると,contemplatio — いわゆる「観想」— そこでは,もっと受動的に シンプルに 神に委ねる というように,祈りは 変わってゆきます.受難や死を どう考えるか といっても わたしたちには わからないので,結局,神に すべてを委ねるしかないのです.そして,復活についても,神に すべて委ねる ということになります.

霊操の始めの方では,自分の罪を見つける — 一所懸命,自分で,重箱の隅をつつくようにして,これをやった あれをやった,これが悪かった — そういうことを いっぱい 見つけて,リストにして,赦しを受ける.しかし,霊操の終わりの方では,そのようなことよりも,赦そうと待ち構えていてくださる神 — 十字架のキリスト — を観想することになります.

神からの導き,招き,神の力に 委ねる;自分の肩の力抜いて,神に任せる — それが,やはり,最も だいじだ ということを,わたしは,今回の 神学生との霊操で,改めて 深く 感じました.

祈りにおいて 神に「委ねる」こと —「鍛錬」という言葉と まったく反対の語のように思えるかもしれませんが,それは,ある意味で 人間にとって 最も難しいことです.わたしたちの「自我」[ ego ] は 根深いものです;それを手放すことは,わたしたちにとって 怖いことです.

そうすることができるような柔軟な心,聖霊に委ねる心 — それを身に付けてゆくことができればよい,と思います.