2022年11月1日火曜日

2022年10月16日の LGBTQ みんなのミサでの 酒井陽介神父さまの説教

荘厳のキリスト(表紙絵の解説

2022年10月16日(年間 第 29 主日)の LGBTQ みんなのミサでの 酒井陽介神父さま SJ の 説教


第 1 朗読 :
Ex 17,08-13
第 2 朗読 : 2 Tm 3,14 – 4,02
福音朗読 : Lc 18,01-08


わたしたちは,皆,祈ります.祈りは「わたしは何者であるか?」を最も明らかにするものだ,と思います.それは,まったく心の内的な問題ですから,別に 公表する必要はありません.しかし,「わたしは 何に向かって祈っているのか? 何を祈っているのか? 誰のために 何のために 祈っているのか?」ということを わたしたち ひとりひとりが しっかりと思い起こすことは とても重要だ,と思います.

「わたしは どのような祈りをしているのか? 何に向かって祈っているのか?」ということは,「わたしは 何者なのか? わたしと わたしを取り巻く人々との 関わりは どのようなものであるか?」ということを 教えてくれる,と思います.

今日の 第 2 朗読の パウロのテモテへの手紙でも,「折が良くても悪くても 励みなさい」[ἐπίστηθι εὐκαίρως ἀκαίρως :(ロゴスを宣べ伝えることを)根気よく続けなさい,好機においても そうでないときにも]と言われていました.同様に,折が良くても悪くても,わたしたちは やはり 祈り続けなければなりません.

でも,その「祈る」は,単にブラブラブラと祈ることではなく,今日の 第 1 朗読のモーセのように,実際に 手を上げて — そして,その手に痛みを感じながら — 祈ることであり,かつ,ほかの人々に支えてもらいながら 祈ることです.

わたしたちは,具体的な行動や関わりを生きながら,祈ります.言葉において祈るときも,あるいは,言語化されないまま 心のなかで祈るときも,わたしたちは,本当に 自分の心と思いと結びついた形で — 自分の存在と結びついた形で — 祈らねばならない,と思います.

ここで,「教会共同体で祈る」ことの大切さについて,皆さんと分かち合いたい,と思います.

「教会共同体で祈る」ことは 重要だ,と思います.それは,わたしたちの 生き生きとした細胞です;それは,わたしたちを生かします.

「教会共同体で祈る」ことによって,わたしたちは,「ここで ともに 祝い,ここで ともに 囲み,ここで ともに 食し,ここで ともに 分かち合い,そして,ここから ともに 派遣されていく」ということを,とても具体的な形で — 身体的に — 体験することができます.

どのような形で わたしたちが教会共同体に関わっていようと,どのような形で わたしたちがその関わりを生きていようと,わたしたちの教会共同体が どれほど小さくても,どれほど 不十分であり 不完全であっても,やはり,それは 教会なのです.わたしたちが 教会なのです.

グループが どれほど小さくても,どれほど弱くても,あるいは,逆に,とても大きくて 目立つグループであろうと,そのような大小の差異にかかわりなく,わたしたちは 教会の一部であり,さらには,わたしたちが教会なのです.

わたしたちが 教会である — we are the church — この “we” に わたしたち皆が入っている — 教会は そのことを感じる場所ではないか,教会に来るということは そのことを感ずることではないか — そう思います.

We are the church, わたしたちが教会である,わたしたちも教会の一部である — そのことを実感すること — 教会に来るということは そういうことではないか,と思います.

勿論,祈ることは どこでも できます — ファミレスでも,喫茶店でも,自宅でも,職場でも,電車やバスのなかでも,車を運転していても,歩いていても,どこでも わたしたちは ひとりで 祈ることができます.それは,わたしたちの豊かな経験です.

また,今は,パンデミックのせいで,わたしたちは,離ればなれになり,オンラインのミーティングに慣れてしまいました.

しかし,実際に集まることによって,顔と顔を見あわせることによって,他者の息づかいを聞くことによって,「わたしは ひとりではない」,「わたしは この共同体の一部である」,「わたしたちが教会である」,“we are the church” ということを,わたしたちは,もう一度,あらためて 味わうことができる,実感することができる — そうであったらいいな,と思います.ですから,その意味でも,ひとりでも多くの人に ここに来てもらう ということは 大切だろう,と思います.

日本のカトリック教会は,小さな 小さな 群です;本当に “we are the church” として行かなければ,すぐに吹き飛んでしまうでしょう.ですから,わたしたちは,皆で 支えあい,祈りあって ゆきましょう — 折が良くても悪くても.

今は,もしかしたら,折が悪いときかもしれない,ものごとが 思うように進まないときかもしれない;それでも,わたしたちは,励んで行きましょう,ともに戒めあい,励ましあい,忍耐強く その時を待ちましょう,時をつくって行きましょう — そう心がけることができたら いいな,と思います.

わたしたちは,単なるグループではなくて,教会です.勿論,実務の都合上,やり方によっては,いろいろなグループに分けられます.しかし,やはり,最も 広く,最も根底に 持たなければならないのは,「わたしたちは教会である」ということです.

そのとき,小教区の区別も 教区の区別も 超えてゆくものが ある,と思います.それは,神の霊です.

神さまは,この小教区は — この信者は — 熱心だから… というような見かたは しません.わたしたちは 皆,呼ばれ,招かれ,たいせつにされています.

ですから,ここに集う人々がいれば,それは,大きな喜びになる,と思います;そして,これは,皆が作り上げて行くグループなのだ,わたしたちが教会なのだ ということを感じることができれば,このミサも とても意味のあるものになる,と思います.