そこから読み取られ得るのは,このことである:谷口神父の頭のなかにあるのは,創世記において物語られている神話と
現代の物理学的宇宙論との アマルガムである.そこには,救済論も終末論も無い(救済論と終末論は密接に関連しあっている).
また,谷口神父は,アダムとエヴァの原罪と失楽園に関して「神の創造の計画は
こうして 挫折した」と言っている.そのような表現も,彼が
創世記神話を 時間座標のうえで展開されていった一連の出来事として捉えていることを,示唆している.そして,そのような考え方には,救済論と終末論の余地はない
— なぜなら,それらは 時間座標のうえには位置づけられ得ないことについて問うものであるから.
いかにも,源初(無からの創造)と
終末と 救済を
神話的に思い描くことは 可能である.しかし,そのような論じ方は もはや有意義なものではない — 現代において,神との関係において 生きつつ,生かされつつ,救済を待ち望んでいる 我々にとっては.
そのような我々にとって必要なのは,信仰の実存論である.「実存論」(existentialisme) という語を見て,「何を
今さら」とつぶやきつつ 失笑する者は,失笑すれば よい.我々の実存論は,前世紀の或る時期 一世を風靡した Jean-Paul
Sartre の「実存主義」ではない.我々は,ただ,キリスト教において神話的に物語られていることを,我々自身の実存
— それを 我々は 神との関係において
生きており,かつ,そうしつつ 我々は 神との関係において
生かされている — にかかわることとして 捉え直そうとしているだけである.
もうすでにあまりに長くなってしまったこの記事においては,我々の信仰の実存論について詳しく論ずる余地はない
— なにしろ,まだ「性別」の概念について論じなくてはならないから
— ので,そうすることは別の機会に譲る.
§ 4. 実存論的性別について
性別について,我々は,常識的には,ふたつの概念を有している:ひとつは
生物学的 性別
(biological sex) ; もうひとつは
社会学的 性別
(sociological gender). 前者は,原則的に(ある種の先天的病理の場合を除いて)性染色体によって決定される.それに対して,後者は,社会学的な諸条件のもとで
構築される.つまり,前者は ある人の生の経験に先立つもの (a priori) であり,それに対して,後者は
ある人が 生きていくうちに 社会と家族のなかで 作られてゆくものである.
たとえば Simone de Beauvoir が
« on ne naît pas femme :
on le devient » と言うとき,それは このことである:ひとりの人間 (un être humain) が「わたしは女である」(je suis une femme) と言うとき,それは,単純に「わたしは 生物学的な意味における『女』(une femelle) として 生まれた」ということではなく,しかして,「わたしは わたしが生きていくうちに 社会学的な意味における『女』(un être féminin) になった あるいは その意味における『女』になるよう強いられてきた」ということである.
ただし,谷口神父のような原理主義者は,sociological gender を無視して,「真の意味での性別 — つまり,神によって創造された性別 — は,単純に生物学的性別と一致する」と主張する.また,それに対して,社会学的な gender studies の 論者のなかには,人間的な意味における性別を ひたすら sociological gender へ還元しようとする者がいる (social constructionist theories of
gender).
だが,実は,transgender の 存在は,それらのような常識的な性別概念 — 生物学的性別の概念と社会学的性別の概念
— によっては,本当に sachgemäß に[事に適ったしかたで]論ぜられ得ない.というのも このゆえに : transgender の 存在は むしろ 我々に このことを示唆している:我々は,このような性別について 問わねばならない — その性別は,ひとりの人間において,生と性の経験に先立って (a priori) 規定されてはいるが,しかし,その者の生物学的性別には還元され得ない.
実際,典型的な transgender girl は,ことばの世界に住みはじめるや(ことばを話せるようになるやいなや),女の子が好むおもちゃや服装に
おのづと(つまり,周囲のおとなたちの示唆や指示がなくても)関心が向く;親が
その子に「きみは男の子なのだから,男の子らしくしなさい」と いくら言って聞かせても,それは,たいがい,まったく無効であり,その子自身にとっては苦痛な強制でしかない.また,他方,トランス男性である杉山文野氏は,「ものごころがついてからずっと,気持ちは『ぼく』なのに,からだは『女』だった.以来,ぼくは,ずっと『女体の着ぐるみ』を身につけているかのような感覚のまま,人生をすごしてきた」と証言している.
したがって,我々が「transgender である」という存在様態を ひとつの人間学的事実として 捉えるならば,我々は,生物学的な意味において生得的 (congenital) であるわけではないが,経験的に獲得された (acquired) というわけでもない もうひとつのほかの性別概念 —
非生物学的であり,かつ,先験的 (a priori)[経験に先立つもの]である性別の概念 — について問わざるをえない.
そのような性別を,我々は,こう呼ぶ:実存論的性別
(existential sexuation) — 生物学的性別 (biological
sex) および 社会学的性別
(sociological gender) からの区別において.
この「実存論的性別」の概念を欠くがゆえに,transgender に関する従来の議論は混乱したものでしかあり得なかった.
では,実存論的な意味における「男である」と「女である」は
如何にして規定されるのか? そのことについて論ずるためには,本当は,わたしが「否定存在論」(l’ontologie apophatique) と呼ぶ思考を導入せねばならない;だが,そうすることは ここでは困難である(議論が あまりに長くならざるを得ないがゆえに)ので,より単純に(それでも 十分に複雑であるかもしれないが),精神分析における「自我理想」(das Ichideal,
l’idéal du moi) — それは symbolique[徴示的]なものである — と「理想自我」(das Idealich, le moi idéal) — それは imaginaire[仮象的]なものである — の概念を用いて論ずるにとどめておこう.
ひとりの人間が実存論的な意味において「男である」ということを規定する symbolique な 自我理想が ある;その自我理想への symbolique な 同一化によって,実存論的な意味における「男である」は 規定される.
それに対して,実存論的な意味における「女である」を規定する symbolique な 自我理想は 無い;つまり,その意味における「女である」は,何らかの symbolique な 同一化によっては 規定され得ない;言い換えると,実存論的な「女である」は symbolique なしかたにおいては 規定され得ない ; symbolique の次元においては,「男である」と「男ではない」とがあるだけである.
では,「女である」とは 如何なることであるのか? その問いは 回答不可能である — こう答える以外には:「女である」ことを規定する symbolique な 自我理想 (das Ichideal, l’idéal du moi) は 無いとしても,「女らしさ」を与える imaginaire な 理想自我 (das
Idealich, le moi idéal) が ある.
かくして,ある人が「トランス男性である」ということは,このことである:その人は,生物学的な次元においては女性であるが,実存論的な次元においては,「男である」ことを規定する自我理想への symbolique な 同一化のゆえに,男である.
それに対して,ある人が「トランス女性である」ということは このことである:その人は,生物学的な次元においては男性であるが,実存論的な次元においては,「男である」ことを規定する自我理想への symbolique な 同一化の 欠如のゆえに,「男である」のではない;かつ,「女らしさ」を与える理想自我との imaginaire な 同一化は 成立している.
そして,以上のような同一化を考慮に入れることによってのみ,LGBTQ の Q — Questioning[男であるか あるいは 女であるかが 不確定である]— の 存在は,思考可能となる:すなわち,questioning
である人々においては,自我理想への symbolique な 同一化は 欠如しており,かつ,理想自我への imaginaire な 同一化も 確かではない(あるいは 不安定である).
このことを付言しておこう:「男である」ことを規定する自我理想への symbolique な 同一化は 欠如しており,かつ 「女らしさ」を与える理想自我との imaginaire な 同一化は 成立している,という条件は,女性たちの大多数と トランス女性とに 共通している.
その意味においては,確かに,「トランス女性は 女性である」と言うことができる.しかし,両者は,経験の次元 — 特に,小児期および思春期の経験 — においては,相異なる:その時期,女の子は,女の子であるがゆえに さまざまな差別(および,場合によって,性暴力 と その危険性の不安)を経験するが,それに対して,トランス女性は,その時期においては 社会的には「男の子」と見なされているので,女の子であるがゆえの差別や不安を経験することはない;また,年齢にかかわりなく,生物学的な意味における女性の身体に特有の器官 および 女性ホルモンに起因する さまざまな身体的苦痛と それに起因するハンディキャップの経験 — それらの経験は,女性の存在様態に対して 大きく作用している — は,トランス女性には欠けている.
また,小児期において,女の子の大多数は,理想自我としての母親との imaginaire な 同一化を 多かれ少なかれ 被るが,それに対して,トランス女性は そのような imaginaire な 同一化を 被らない場合が 少なくないようである.そのようなトランス女性の場合,たとえ 彼女の外見は 性別適合手術と化粧によって 完璧に女性的に見えても,彼女の思考や感性は「女らしさ」を欠いている.
理想自我としての母親との imaginaire
な 同一化ということに関して さらに付言するなら,gay の 男性は そのような imaginaire な 同一化を 被っている場合が 少なくないようである.彼らは,男の自我理想との symbolique な 同一化のもとにあるので,自身の gender identity に関しては「男である」ことに みづから違和感を持つことはない;しかし,少なからぬ gay 男性が有する ある種の女性性は,理想自我としての母親との imaginaire な 同一化によって 獲得されたのではないか,と 思われる.
この記事においては,如何に 谷口幸紀神父が 彼の 原理主義的 natalism のイデオロギーのゆえに transgender の 存在に関して および カトリック教義の根本的なところについて 無理解と誤解釈 — LGBTQ の人々を(特に transgender の人々を)傷つける 無理解と誤解釈 — を犯しているかを,見てきた.
『福音と社会』Vol. 325 の p.106 に,同誌の編集の責任者 山内 継祐 氏(彼は,1942年生れ,現在 80歳;彼自身,カトリック社会問題研究所のメンバー;『主婦の友』,『週刊現代』の記者を経て,1970年から 1973年まで 発行されていた『カトリック グラフ』誌の編集者;その後,コルベ出版社 代表取締役;現在,フリープレス社 代表取締役;『福音と社会』は フリープレス社から 刊行されている)は,谷口幸紀神父の「書評」における差別発言について「釈明」をしている;だが,その手の「釈明」の通例どおり,山内氏が本心から反省しているとは 思われない.
『福音と社会』誌 および カトリック社会問題研究所が 今回の「谷口事件」に関して どのように責任を取るのか,今後も注目してゆきたい.
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LGBTQ と カトリック信仰に関して わたしが過去に書いた記事も 参照していただきたい: