2023-04-17

谷口幸紀神父の〈LGBTQ に対する〉侮辱的な言説を いまだに擁護する『福音と社会』誌 326 号の「釈明」を読んで


谷口幸紀神父の〈LGBTQ に対する〉侮辱的な言説を いまだに擁護する『福音と社会』誌 326 号の「釈明」を読んで



主の御復活 おめでとうございます ! Resurrexit sicut dixit, alleluia !

さて,カトリック社会問題研究所が隔月に発行する『福音と社会』誌の 323, 324 および 325 号(2022年08月,10月,12月 それぞれの月の 末日付)に掲載された 谷口幸紀神父の『「LGBT と キリスト教 — 20人のストーリー」を読んで』は,その〈LGBTQ の 人々に対する〉偏見と侮辱に満ちた内容のゆえに,大きな非難と批判の反響を惹き起こした — ついには,日本カトリック司教協議会の社会司教委員会のひとつ「日本 カトリック 正義と平和 協議会」が,その 2023年02月13日付の声明において,谷口幸紀神父の氏名を明示しなかったものの,カトリック司祭としての彼の行為を非難し,さらに,それだけでなく,従来 カトリック信者たちが LGBTQ の人々を 差別し,彼らの尊厳を傷つけてきたことについて 率直な反省を表明し,そして,彼らに対する包容的な司牧的ケアの必要性を強調するに至るほどに(これは,日本のカトリック教会の歴史において 実に 画期的なことであり,LGBTQ カトリック信者たち および 彼らに奉仕する者たちにとって まことに喜ばしい驚きである).

それを受けて,『福音と社会』誌 326 号(発行の日付は 2023年02月28日付であるが,実際には,多くの内部的な議論と検討の必要性のゆえに編集作業が長引いたため,それが発行されたのは 2023年04月初めであり,その紙媒体の現物がわたしの手元に届いたのは この聖週間のことであった)は,カトリック社会問題研究所の代表幹事,『福音と社会』誌の発行人,狩野 繁之 氏(彼の本職は,国立国際医療研究センター研究所の 熱帯医学-マラリア研究部の部長;いまだにマラリアが深刻な公衆衛生的問題である熱帯諸国におけるマラリア医療を専門とする医師;日本国内ではほとんど顧みられることもないだろう — しかし,当該諸国にとっては非常に有意義な — 彼の地味な仕事には,敬意を表したい)の 反省文 および『福音と社会』誌の もと編集長,フリープレス社 代表取締役,山内 継祐 氏の 釈明文を 掲載した.

カトリック社会問題研究所の創立 60周年を記念する『福音と社会』誌 324 号に掲載された文章のなかで狩野繁之氏が言っていることから察するに,同研究所は,若い世代の者たちを新たなメンバーとして迎えることなく,従来の構成員たちの高齢化と死去にともない,日本社会全体よりもより早く 終わりの時へ向かいつつあるようである.彼が 彼自身の本職の多忙にもかかわらず その代表幹事を引き受けざるを得なかったのは,彼より年長の世代の必然的な隠退のせいであろう(彼自身,既に 60歳代前半である).わたしは,今回の彼の反省文を,誠意あるものと受取り,評価する.

それに対して,山内継祐氏の釈明を,わたしは まったく評価しない.

なぜなら このゆえに:彼は,『福音と社会』誌 325号に掲載された谷口幸紀神父のテクストの末尾に付された「編集部から」と題した短い釈明文において彼自身が述べたことを,326号においても 繰り返して,こう言っている:谷口幸紀神父の文章は「公序良俗に反していない」.

何と! LGBTQ の人々を侮辱する表現を用い,彼らの存在を悪魔化し,そして,「LGBT は 虚構のうえに築かれた世界だ」という断定を以て,彼らの実存的な — ときとして自殺を動機づけるほどに深刻な — 苦悩を偽問題扱いすることにおいて,谷口幸紀神父はまさしく公序良俗に反している;にもかかわらず,山内継祐氏は,旧友の谷口幸紀神父を擁護するために,彼の過ちを否認するのか?

また,transgender について論ずる際に,谷口幸紀神父のように,トランス女性に「なりすました」者による性犯罪の可能性を持ち出すことは,transphobic な論者たちが必ず行う「論点のすりかえ」の虚偽議論である.

さらに,女性たちが社会生活においてトランス女性を如何に受け入れ得るか得ないかの問題も,transgender であることそのものについて論ずべきときには,論点のすりかえである.確かに,スポーツの世界におけるトランス女性競技者たちに関しては,現在,明らかに不公正なことが起きていると思われる;だが,その事態に対しては,おそらく数年以内に,〈競技者の testosterone 血中濃度だけでなく,全身の筋骨格系などをも考慮に入れた〉より合理的な競技規則が世界的に整備されて行くだろう.

最後に,山内継祐氏が犯している決定的な誤りは,transgender であることを先天的な性発達障害 (disorders of sex development) に関連づけていることである — 実際には,transgender であることと 先天的な性発達障害とは 相互にまったく無関係であり,両者は まったく次元の異なる問題であるにもかかわらず.

では,transgender であるとは 如何なることであるのか? その問いに関しては,わたしは,本年02月01日付の blog 記事で そこにおいて可能な限りで 論じたので,関心のある方には そちらを改めて参照していただきたい.

要点を 改めて述べるなら : transgender の存在は,我々が それを 形而上学的な性別二元論にもとづいて 否認するのではなく,しかして,ひとつの人間学的事実として捉える限りにおいて,〈生物学的性別 (biological sex) でも 社会学的性別 (sociological gender) でもない〉第三の性別概念 — それを とりあえず「実存論的性別」(existential sexuation) と 呼んでおこう — について問うことを 我々に要請する.


如何に 谷口幸紀神父は Papa Francesco の “gender ideology” 批判を 自説の正当化のために 誤って援用しているか


ところで,当の 谷口幸紀神父自身は,彼が『福音と社会』誌に書いた文章が かくも LGBTQ の人々を傷つけ,憤慨させている間,何をしているのか? 何と,彼は,彼に対する非難と批判を真摯に受けとめることなく,そして,如何なる反省も謝罪もなく,彼自身の blog に 問題の文章を すべて 公開し,そして,彼の誤解と混乱と偏見に満ちた持論を 展開し続けている.

わたしとしては,彼の blog における主張に関しては,わたしが 2月01日付のわたしの blog 記事で書いたこと以上のことを言う必要性を 有してはいない.

ただ,彼は,4月01日付の 彼の blog 記事において,Papa Francesco が “gender ideology” について語ったことを 引用している — あたかも それが 彼による LGBTQ の存在の悪魔化を正当化するものであるかのごとくに.しかるに,実際には,Papa Francesco による “gender ideology” 批判は,そのようなものでは まったくない.そこで,Papa Francesco が “gender ideology” について 何を言っているか,そして,それが如何なる意義を有しているかを,補足的に紹介しておこう.

まず,予備的に,谷口幸紀神父が犯している単純な間違いを ひとつ 指摘しておこう : 2023年03月10日に Papa Francesco に対してインタヴューをおこなったのは,悪名高い EWTN 社が所有する National Catholic Register 誌ではなく,しかして,アルゼンチンの日刊紙 La Nación である.スペイン語でおこなわれた そのインタヴューの全文は,翌日,同紙に掲載され,また,その録画は,同じ日に,テレビで放送された(我々は,今,それを YouTube で 見ることができる).

さて,確かに,Papa Francesco は,“gender ideology” に対しては かねてから 批判的である.だが,そもそも,彼が “gender ideology” と呼んでいるものは,何か?

Gender ideology という用語の〈社会学における〉教科書的な定義は,こうである:

Gender ideologies[複数]とは,如何に〈女の子として あるいは 男の子として,ないし,女として あるいは 男として〉考え,行動し,存在すべきであるのかを 人々に命ずる〈彼らが有する〉思いこみ (beliefs)[複数]である.

それに対して,Papa Francesco が「最も危険なイデオロギー的植民地化のひとつ」(La ideología de género es de las colonizaciones ideológicas más peligrosas) という厳しい表現を以て 批判するのは,単数形の “gender ideology” である.それは,複数形で定義される “gender ideologies” とは まったく異なるしろものである;そして,それを,Papa Francesco は La Nación 紙のインタヴューにおいて おおむね こう規定している:

Gender ideology は,男女の差異を希釈する;[それによって]あらゆるものは同じになり,あらゆるもの[あらゆる差異]は鈍化する — しかるに,男女の豊かさ,人類の豊かさは,差異の緊張に存する;人々が成長し得るのは,差異の緊張をとおしてである.[したがって]gender ideology は[神による]人間の召命に逆行するものである.

また,ある社会学者によるインタヴュー本 Politique et société[政治と社会](2017) においては,Papa Francesco は gender ideology について こう言っている:

Gender ideology は,子どもたちに,男女の性別は選択可能である と教える — なぜなら,「女である」こと または「男である」ことは,自然の事実ではなく,選択の問題であるから;だが,そのような gender ideology は,差異を恐れることに基づいている,と思われる.

男女の性別について問うために,生物学的な性別 (biological sex) とは異なる次元の性別として,社会学的な性別 (sociological gender) を措定した — 男女それぞれが社会のなかで果たすよう 強制され あるいは 期待される 性別役割 (sex roles, gender roles) の事実から出発して — のは,現在 “gender studies”[ジェンダー研究]と呼ばれている学問分野を開拓した フェミニストたちである;そして,彼女たちがそうしたのは,彼女たちが被っている sexism[性差別,すなわち 女性差別]の解消を目指すことにおいて,「男であること」および「女であること」について問うためである;それゆえ,gender は,社会のなかで女性たちに押しつけられた性別役割から出発することにおいて,生物学的な性別のように先天的なものではなく,しかして,構築されたもの — 歴史のなかで,民俗学的な慣習において,社会学的な諸条件のもとで — として措定される;そして,そこから,「ジェンダーの社会的構築論」(social constructionist theories of gender) が 展開されてゆく.

そのような gender の用語と概念は,1990年代以来,保守的な論者たち — そのなかには,声高な保守派カトリック信者たちも いる — の 攻撃の対象となってきた;なぜなら このゆえに:保守派の論者たちは,社会学的な gender に関する思考を,男女の性差を無効にしようとする「イデオロギー」と見なす — まさに Judith Butler の 2004年の著作 Undoing Gender[ジェンダーを無効にすること]の表題が示唆しているように(ただし,Butler の思考そのものは さほど単純ではない — 彼女は,生物学的な性別にも社会学的な性別にも還元されない 第三の性別概念 – わたしが「実存論的性別」と名づけたもの – について問い続けているので –「実存論的性別」というような名称の考案に至ることなく).

そして,transgender という名称 — gender という語を含む その名称 — のゆえに,また「transgender の人々は〈男が「わたしは女である」と言い,あるいは,女が「わたしは男である」と言うことにおいて〉男女の差異を無視している」という〈transgender であることに関する〉粗雑な思念のゆえに,保守派の論者たちは「transgender の人々は “gender ideology” の信奉者である」と 決めつける(そして,それに応じて,LGBTQ の 人権を擁護する者たちは,保守派の論者たちが gender 概念を批判するたびに,それを transgender に対する攻撃として 受け取るようになる).

谷口幸紀神父が Papa Francesco による “gender ideology” 批判を transgender の存在の否定のために援用し得ると思い込んでいるということは,このことを示している:彼は,彼自身も,そのような保守派の論者たちの混乱した思考の次元に いる.

だが,実際には,transgender の人々は “gender ideology” の信奉者ではあり得ない;なぜなら このゆえに:典型的な transgender の人々は,「男である」ことと「女である」こととの差異を無効にしようとしてはおらず,しかして,「わたしは男である」あるいは (aut)「わたしは女である」を 実存的に生きている — 自身の生物学的な性別との不一致において.

既に 2月01日付の記事で論じたように,「transgender である」ことを 社会学的な gender の概念を以て(いわんや,生物学的な sex の概念を以て)sachgemäß に[事に適ったしかたで]考えることは できない.

では,Papa Francesco は,彼の〈“gender ideology” に対する〉批判において,何を問題にしているのか? それは「transgender である」ことでも,社会的な性差別を解消しようとするフェミニズムでもない;そうではなく,彼が批判しているのは,差異の裂け目を否認すること — または,その裂け目を塞ごうとすること — である.

Papa Francesco が「差異は 豊かにし,成長させる」と言うとき,彼は〈Hegel が『精神の現象学』の序文で論じている〉弁証法的な過程 — その原動力は,純粋否定性としての差異の裂け目である — のことを念頭に置いているのかもしれない — ただし,彼が考える弁証法的過程の終末論は,ヘーゲル的な絶対知にではなく,しかして,神の愛に存する.

なぜ 差異の裂け目を塞いではならないのか? なぜなら このゆえに:そこ — Heidegger が「存在論的差異」(die ontologische Differenz) と呼んだ 差異の裂け目 — こそが,神の顕現 (Theophanie) の 在所 (Ortschaft) である(「男と女との間の差異」は「存在論的差異」と同じ トポロジックな裂け目である).

その裂け目は,古代ギリシャ以来,形而上学的な諸形象(その代表例は Platon の ἰδέα)によって塞がれてきた.だが,現代においては — 18世紀の終わり以来 — 形而上学的なものによるその閉塞は 無効となっている;にもかかわらず,新たな形而上学的形象によってそれを改めて塞ごうとする絶望的な試みは,現代において,あとを絶たない:たとえば,Kant の 純粋理性,Hegel の 絶対知,Nietzsche の Wille zur Macht[力への意志],そのほかのさまざまな paranoiac ideologies, また,カトリック教会においては Papa Francesco が “indietrismo”[後退主義]という名称のもとに批判する〈伝統への〉固着 (traditionalism).

そして,特に,sexuality の 形而上学的な目的論(それによれば,sexuality は 生殖を目的とする)が 男と女との間の裂け目を閉塞し得るものとして 措定し続けるのは,phallus[ファロス]である.谷口幸紀神父が信奉する 原理主義的な natalism は,まさに,そのような phallocentrism の 一例である — 実際,如何に 彼が phallic jouissance[ファロス悦]を賛美しているかを,我々は 彼の記事に 見ることができる.

しかし,そのような形而上学は,Papa Francesco の 司牧実践とは 相容れない — この相違を見れば 明らかなように:谷口幸紀神父は,形而上学的な性別二元論から出発して,transgender の人々の存在を否定し,あらかじめ 彼らを教会から排除する;それに対して,Papa Francesco は,LGBTQ の 人々にも 救済の福音を伝えるために,homosexual であることも transgender であることも それぞれ ひとつの condición humana[人間の存在様態](人間学的事実)として 認め,そして,彼らを 神の包容的な愛を以て 教会に迎え入れる.

そのような Papa Francesco の 姿勢は,彼が 昨年 おこなった 教皇庁の組織改革からも 見て取ることができる;そこにおいて,彼は,〈16世紀に 異端審問のために創られて以来,教皇庁のなかで最も権威ある機関と見なされてきた〉教理省を 格下げし,それに対して,福音宣教省を教皇庁の最も重要な機関として設置し,さらに,教皇みづからが 福音宣教省の長官を務めることにした.

同じ姿勢を,我々は,彼が〈由緒ある神学誌 La Scuola Cattolica の 編集委員たちに宛てた〉2022年06月17日付の書簡にも,見てとることができる;そこにおいて,彼は “La teologia è servizio alla fede viva della Chiesa”[神学は,教会の生き生きとした信仰への奉仕である]と述べている.すなわち,神学は 福音宣教と司牧実践に 奉仕すべきであり,神学がそれらを妨げることがあってはならない — たとえば,1986年に 教理省長官 Joseph Ratzinger 枢機卿(当時)が 発表した 司牧書簡 Homosexualitatis problema は,当時,AIDS に罹患して苦しむ homosexual の 人々に対する カトリック信者たちの 隣人愛の実践を おおいに妨げた — そのようなことが再び起きてはならない.


結び


キリスト教の信仰は,形而上学的な神学大系に存するのではなく,しかして,救済の実践に存する;その出発点は,何らかの抽象的なイデアではなく,しかして,あらゆる人間に対する あの「憐れむ」(σπλαγχνίζομαι) である (Mc 6,34) :

εἶδεν πολὺν ὄχλον καὶ ἐσπλαγχνίσθη ἐπ᾽ αὐτοὺς ὅτι ἦσαν ὡς πρόβατα μὴ ἔχοντα ποιμένα.

イェスは,多数の群衆を見た;そして,彼らを[はらわたの内奥から:心の底から]憐れんだ — なぜなら,彼らは,羊飼いを持たない[途方にくれた]羊たちのようであったから.

それゆえ,イェスは 我々皆に こう命ずる (Jn 13,34 ; 15,12) :

ἀγαπήσετε ἀλλήλους καθὼς ἠγάπησα ὑμᾶς.

あなたたちは 互いに愛しあいなさい — わたし[イェス]が あなたたちを愛したように.

そして,それゆえ,Papa Francesco は,我々に対して こう強調してやまない:カトリック教会の第一の使命は,異端審問的な断罪に存するのではなく,しかして,あらゆる人間の救済を欲する神の愛の福音を宣べ伝えること および 生の意味を見失って途方に暮れる人々を〈彼らが神の愛を見出すことができるよう〉司牧することに 存する.

あらゆる人間を救済すること — cisgender であろうとなかろうと heterosexual であろうとなかろうと —;それが 神の意志であり,神の計画である.

主が いつも 我々に そのことを思い起こさせてくださいますように.Amen.