2023-07-31

2023年07月16日(年間 第 15 主日)の LGBTQ みんなのミサでの 鈴木伸国神父さまの説教 — Ryuchell さんのことを思いつつ

収穫:フランドルの暦,7月の挿絵(表紙絵の解説

2023年07月16日(年間 第 15 主日)の LGBTQ みんなのミサでの 鈴木伸国神父さまの 説教 — Ryuchell さんのことを思いつつ



第 1 朗読:イザヤ書 55,10-11
わが ことばは,わが口から出ると,むなしく わたしのところへ帰らない;しかして,わたしが欲することを 為す;そして,それがためにわたしが わがことばを遣わしたところのものを 成功させる.

第 2 朗読;ローマ書簡 8,18-23
被造界そのものも,解放されるだろう — 滅びへの隷属から,神の子たちの栄光の自由へ.

福音朗読:マタイ 13,01-23
種撒き人の譬え


今日は まだ Ryuchell さんの訃報から 4 日しか 経っていません.とても個性的だった人でしたから,自分にとって,ご家族にとって,ただ Ryuchell さんだったんじゃないか と思えば,ご本人や ご家族は もう,わたしが思うほどには,彼または彼女の gender について 考えていないかもしれません.でも,昨年の夏ごろから もう一度 ご自分の生き方を見直していた様子を見るにつけ,わたしは 日本の社会のなかでの gender や sexuality の難しさを考えさせられてしまいます.

芸能界というところは,gender や sexuality には寛容なところがあるように思っていた一方で,たとえば — これも最近のことですが — ジャニー喜多川氏による性暴力の被害者たちの証言に人々がなかなか耳を傾けようとしなかったことを見てもわかるように,やはり,いろいろな形で 性の問題に関する圧力があることにも 気づかされます.

それもこれもあって,今日のミサを準備するあいだに,わたしは,性に関する問題のほかに もうひとつ 忘れてはいけない大事なものがあることを 感じるようになりました.

少し乱暴に聞こえるかもしれませんが,大事なことなので あえて,乱暴目に話してみます.この社会と gender が — この社会のなかにおける gender が — レインボーになりさえすれば Ryuchell さんが自分の命を取ってしまうことはなかったのでしょうか ? SOGI の多様性が認められてさえいたならば,そんなことにはならなかったんでしょうか? もちろん,たくさんの人が生きやすくはなるでしょうが,わたしには,それでだけで問題がなくなってくれるとは 思えない気持ちが あります.

性の問題に関する圧力は 芸能界のなかに ありますし,社会のなかにもあります.そして,何よりも わたしたち自身のなかで sexuality と gender は とても深いところで 魂に結びついていますから,たとえ 外からの圧力がなくても,「自分はこういうものだ」と感じられる落ち着き場所や安心感が無ければ,自分自身が 揺さぶられ,不安定になってしまうことがあると思います.むろん たくさんの言葉が Ryuchell さんを傷つけたはずですが,それがなくても,彼/彼女は 自分のなかに落ち着かなさを感じ続けていたはずで,だからこそ 外からの言葉に深く傷つけられたのだと思うのです.

第 2 朗読の「被造物は,神の子たちの現れるのを 切に待ち望んでいます」,「被造物も,いつか滅びへの隷属から解放されて,神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」といった言葉を読むとき,わたしは この 圧力と偏見にあふれる社会のなかで,生きにくさを感じながら,そして いつか そこから自由になって生きたいという願いをもっている人たちの つらさと待望のようなものを 切々と感じます.

そこで問題になっているのは,わたしたちと神さまとの関係です.社会の軋轢と重さを超えて,直接に結び付けられているはずの関係です.わたしには,神さまの子どもとして だいじにされている という感覚があります.少なくとも,自分がそれを本当に深く感じたことがあるという記憶がありますし,必要なときには いつも その感覚を思いおこせる,その神さまとの関係にたち戻れる,と感じています.それが わたしたちの根っこだ と思います.それは とても大きな支えです.

周りの人々の目に自分がどういうふうに映っているにせよ — それどころか,自分の目に自分自身がどういうふうに映っているにせよ,神さまはわたしを手放さない ということを わたしは疑う気がないのです.「わたしは神に愛されている」と言えばいいでしょうか.

むずかしさを感じるときに「だいじにしているよ,愛しているよ — あなたがどんな姿でも」と言ってくれる人が 近くにいれば,それは どんなに助けになることか!

たしかに それは簡単なことでもありません.今日の福音の「30倍,60倍…」という言葉は,わたしには,神さまからの愛と,神さまへの信頼に支えられた人が成長する姿を 思い起こさせますが,他方で 聖書は,(神への信頼の)種を鳥に食べられてしまう人,芽が伸びても すぐ枯れてしまう人,茨や社会の圧力に押しつぶされてしまう人が多いことを 忘れてはいけないことを 警告してくれています.

Gender と sexuality に関して,わたしたちの自分自身との付きあいかた,周りとの分かちあいのしかたは,千差万別だ と思います.戦う人あり,密かに自分のなかで苦悩を抱えている人あり.でも,少なくとも 教会は — そして,教会に所属している わたしたち ひとりひとりは —「わたしたちは 神の子ども,あなたたちも 神の子ども.ともに うめいて 苦しんでいるけれども,わたしたちの希望は,いつでも愛していてくださる神さまのもとにあります」と言って,励ましあっていくのが 本当の姿だと思います.

どんなに社会的に成功していても,どんなに愛し合うパートナーがいても,分かち合うことができない苦しみが Ryuchell さんにはあったのだろうか と思わずにはいられません.

たとえ 結婚し,愛しい子どもができても,あるがままの自分を分かち合うことができなかったとすれば,あるがままの自分の姿を受け入れられなかったとすれば,その状況は 神さまの望む神の国の姿ではないように感じます.「主の祈り」で わたしたちは「御旨が行われますように — 天におけるように,地においても」と祈ります.そのとき,「この社会のなかでは 御旨が行われていないことがある」ということを認めることが,主の祈りを 本当に 自分のこととして祈るためには 必要だと思います.そこで はじめて「御旨が行われますように」という祈りに対して,「御旨が行われる社会にしたい」という望みをいただけるからです.

Ryuchell さんの魂が 天に召されますように;そして,その魂が本当に安心して天に召されることができるように,わたしたちが 世の光として,神の子どもとして この世界のなかで 輝いてゆくことができるように,祈りましょう.

そして,あらためて,わたしたち ひとりひとりが 神の子であり,神さまは わたしたち ひとりひとりを 愛してくださっている — 愛を枡に揺すり入れてくださるほどに,愛してくださっている — と感じながら,日々を過ごしていただきたい と思います.

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共同祈願より:

12日に 亡くなった Ryuchell こと 比嘉 龍二さんのために 祈りましょう.あわれみ深い 主よ,あなたの手に この 27歳の若者の息吹を ゆだねます.2 年前に亡くなった 木村 花さんと同様に,こころない者たちの誹謗と中傷によって殺されたのかもしれない この疲れきった魂を あなたの愛によって 慰めてください.彼れに 永遠の安らぎを与えてください.そして,絶えざる光で 彼れを照らしてください.彼れが 平和のうちに安らぐことができますように.

Ryuchell さんの死によって 心ぼそくなり,不安になっている人たちのために 祈りましょう.Ryuchell さんは,心の繊細さのゆえに 多くの人々を 惹きつけてきました;多くの人々が Ryuchell さんに 励まされてきました.ですから,なおさら 多くの人々が,その死の知らせを聞いて,心に痛みを感じているでしょう.しかし,希望は 消えたわけではありません;わたしたちは,神に希望を持つことができます.Ryuchell さんの死に打ちのめされている人々が そう信じて 生きてゆくことができますように.

Ryuchell さんの 遺族のために — 特に 5 歳になったばかりの 息子さんのために — 祈りましょう.主よ,ここに,あまりに大きな喪失の傷を負った 男の子が 残されました.どうか,悲しむ彼を 慰めてください;彼の涙を あなたの指で ぬぐってください;あなたの慈しみを以て 彼を 支え続けてください;なぜなら,あなたの愛だけが 彼を癒すことができるからです.