2023-09-27

関根悦雄神父さまの説教,2023年9月17日(年間 第 24 主日 A 年)— LGBTQ みんなのミサ


関根 悦雄 神父さまの 説教,2023年9月17日(年間 第 24 主日 A 年)— LGBTQ みんなのミサ



第 1 朗読 : Sir 27:30 – 28:07
あなたの隣人の不義を赦しなさい;そうすれば,あなたの罪も赦されるだろう.

第 2 朗読 : Rom 14:07-09
我々は,生きるにせよ,死ぬにせよ,主のものである.

福音朗読 : Mt 18:21-35
王は,同僚の負いめを赦さなかった家臣に,言った:「邪悪なしもべよ,わたしは おまえのために あの[莫大な]負いめを すべて 赦した — おまえが わたしに 懇願したがゆえに.[であれば]おまえも おまえの同僚を憐れむべきではなかったか — わたしがおまえを憐れんだように?」

始めに言ったように,今日の聖書のテーマは「赦し」です.第 1 朗読の シラ書では,ある意味で 全世界で普遍的に通用するような言い方が なされている,と思います.たとえば:

隣人から受けた不正を 赦せ;そうすれば,願い求めるとき,おまえの罪は 赦される.

人が 互いに 怒りを抱きあっていながら,どうして 主から 癒しを期待できようか?

自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて,どうして 自分の罪の赦しを 願い得ようか?

そのようなことは,日本でも,どこの国でも 通用する と言っていい と思います.イエスの時代も そうでした.

しかし,イエスのメッセージは,そこにとどまらなかった.それが,今日の福音で しっかりと明示されている と言っていいと思います.

まず,ペトロが イエスのところに来て,「わたしに対して兄弟が罪を犯したなら,何回 赦すべきでしょうか? 7回までですか?」と言う.ペトロは,イエスに,「わたしは ちゃんと あなたの教えを聴いています.ですから,わたしは 7回までも赦す準備ができています」と 誇らしく言いにきたのでしょう — 褒めてもらえると思って.

しかし,イエスは,まず「7 の 70倍までも 赦しなさい」と言う.次いで,有名なタラントンの譬え話をする:

10,000 タラントンの借金をしている家来が いた.

これは,現実には あり得ないことです.1 タラントンは 6,000 デナリオンです.1 デナリオンは[来週 24日の福音の「葡萄園の労働者の喩え」で 言われているように]1 日の賃金です.1 日 働くと 1 デナリオンが 支払われる.そうすると,6,000デナリオンは およそ 20年分の収入に 相当するでしょう.それが 1 タラントンです.その 10,000 倍というと,[日本円で兆の桁の数字の]国家予算のような借金です.現実にはあり得ないことなのに,どうして そのような譬え話をしたのか?

そして,イエスは,10,000 タラントンの借金している しもべを 主人が赦した,と 言います.ところが,その赦されたしもべは,町に出ていって,自分に 100 デナリオンの借金をしている仲間に 会う.

100 デナリオンというと,だいたい 3 カ月分の給料と言ってもいいかもしれません;それは,現実的な数字です.

そして,彼は その仲間に「借金を返せ」と言う;自分は,たった今,10,000 タラントンもの借金を赦してもらったばかりなのに,彼は,100 デナリオンの借金のある者に出会って,「返せ,返せ」と言う;そして,「待ってくれ」と言われても,彼は,待つことができなかった.

そういう話です.

わたしたちにとっても,人を赦すということは 簡単ではありません.わたしたちが,誰かから何か害を受けたとする.そのとき,謝ってこられたら,「はい,わかりました.あなたを赦します」と言うでしょう — 恐らく.でも「赦す」といっても,それは「仕返しをしません」ということにすぎないのではないでしょうか?

しかし,神の赦しは そこにとどまらない.わたしたちの すべての罪を まったくなかったかのように してくださるのです.それが,この「主人は しもべの 10,000 タラントンの負いめを 赦した」という譬えの意味だ と思います.

では,どうして わたしたちは 赦しあう必要があるのか? 何のために わたしたちは 生きるのか? その答えは,今日のアレルヤ唱にあります:「新しい掟を あなたがたに与える:互いに愛しあいなさい — わたしが あなたがたを 愛したように」(ヨハネ福音書 13章 34節).それが,わたしたちに課せられた唯一の掟だ,と言ってもいいです:「互いに愛しあいなさい」.それが実現しないと,神の国は実現しない,と言っていい と思います.神の国は,神の御旨が行われている場です;そういう状態です.そのために,イエスは まず この掟を与えました:「互いに愛しあいなさい.わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも 互いに愛しあいなさい」.

愛しあう — イエスがわたしたちを愛したように.つまり,わたしたちは 皆 彼に愛されるにふさわしい存在なのだ — そのことを 互いに示しあいなさい ということです.

イエスは,神は わたしたち ひとりひとりを 愛してくださっている ということを わたしたちに伝えるために,「あなたは 神の子です;あなたは 神の目にとって だいじな人なのです」ということを,わたしたちに 行為によって 示してくださいました.

わたしたちもが互いにそうするならば 神の国は実現する,ということになります.そのためには,わたしたちが 愛によって結ばれ,そして,その相互的なつながりが広がって行かねばなりません.

その前提として — わたしたちが互いに愛しあうための前提として — わたしたちが互いに赦しあう ということが 重要になってくる,と思います.

しかし,経験的にわかっているように,赦しは それほど簡単なことではありません.人と人とが集まれば,いろいろな社会が あります.なぜか? それは,わたしたち ひとりひとりが 誰でも「自分は正しい」と思って生きているからです.

しかし,「自分は正しい」と思ってはいても,何か反対されたり反論されたりしたときには,相手の主張には本当に正しいところはないのか?と思ってみる — そうすることができるようになることが 相手を排除してしまわないために 必要なのではないか,と わたしは 今 思っています.

今の世の中が — 特に 最近の若者たちが — どういうふうになっているのか,わたしは 関心をもって 見ています.そして,そのことに関して いろいろな人々の発言を聞いています.すると,どうやら,今の若者たちは,トラブルになることを避けるために,最初から関わりあわない,というふうになっているようです.これは,わたしたちの目から見て,非常にひどい状況です.若者たちどうしが本当に信頼しあって結ばれる ということが なかなか 起きない,と言われています.友だちだと言いながら 友だちごっこをしているにすぎない,ということらしいのです.人と人とが本当に結ばれている,友だちどうしが本当に結ばれている という状況が,昔と比べると,ほとんどなくなってしまった,と言われているのです.

これは,わたしたちが神の国を目指すときにも,非常に大きな問題です.ですから,互いに赦しあい,そして,互いに愛しあう —「愛しあう」とは,感情的なことではく,具体的に人を助ける,そして,それによって本当に結ばれていく ということです — それを わたしたちの周りから 実現していくことができるよう,主の導きを 今日 御一緒に 願いたい と思います.本当に赦しあうことが必要なのだ,そして,それは 互いに愛しあうために絶対に必要なことなのだ ということを わたしたちが 理解して,それを実践していくことができるよう,恵みを 御一緒に 願いたい と思います.

2023-09-26

酒井 陽介 神父さまの 説教,2023年06月18日(年間 第 11 主日 A 年)— LGBTQ みんなの ミサ


酒井 陽介 神父さまの 説教,20230618日(年間 11 主日 A 年) LGBTQ みんなの ミサ


聖書朗読

1 朗読 : Ex 19,02-06a
もし あなたたちが わが声に聴き従い,わが契約を守るならば,あなたたちは わたしにとって 特別な宝となるだろう;そして,あなたたちは わたしにとって 祭司たちの王国となり,聖なる国民となるだろう.

2 朗読 : Rm 5,06-11
キリストは,我らがまだ弱かった[信仰薄弱であった,キリストを信じていなかった]ときに,時[の 満了]にしたがって,敬虔ならざる者たち[我々]のために 死んでくれた.(…) 神は,彼自身の〈我れらに対する〉愛を 示してくれている 我れらがまだ罪人であったときに,キリストが我れらのために死んでくれたことによって.それゆえ,我々は,今や 彼の血によって義とされたのであれば,なおのこと,彼によって[神の]怒りから 救われるだろう.なぜなら このゆえに;もし 我々が[神の]敵であったときに 彼[神]の息子の死によって 神と和解させてもらえたのであれば,なおのこと,[今や]和解させもらえた我々は 彼[神の息子 キリスト]の いのちによって 救われるだろう.

福音朗読 : Mt 9,36 – 10,08
イェスは,12 使徒に命じた:「あなたたちは[福音を]宣べ伝えに行きなさい こう言いつつ:『天の国は 近づいた』.[病で]弱った者たちを 癒しなさい;死者たちを 起きあがらせなさい[復活させなさい];レプラ患者たちを 浄めなさい;悪霊たちを 追い払いなさい.あなたたちは,[福音を,救済を]無償で受け取った[のだから,]無償で与えなさい」.


今日の 第 2 朗読で,パウロは 言っています:キリストが 生き,そして 死んだのは,正しい者のためではなく,まさに わたしたちのためである;わたしたちが いかに弱く,不信心で,罪深くても,それでも,イェスは わたしたちのために 死んでくださった,死を選んでくださった;そして,そこに 神の愛が示されている.

それは,きっと,わたしたちの信仰の中心的なものだろう と思います.すなわち,わたしたちが救われるのは,わたしたちが 完全で,完璧で,清廉潔白で,何の歪みもなく,間違いもないから ではありません;また,わたしたちが たくさん祈り,聖なる者となり,功徳を積み,世のなかで認められたから でもありません;そのような価値観にもとづいてではありません.

わたしたちの不信心さ,わたしたちの罪深さ,わたしたちの不完全さ,わたしたちの弱さがあっても,イェスは 敢えて わたしたちのために死んでくださった;そして,そこに 神の愛が示されるのです.

そのようなパウロのことばは,読むたびに,わたしたちに勇気を与えてくれます;だからこそ,信者として生きていける;だからこそキリスト者であり続けることができる そう感じます.

世の中の キリスト者に関するイメージは,とても堅くて,清廉潔白で,真面目で,規則を守る というようなものだと思いますが,実は,わたしたちは,自分たちの脆さ,弱さ,足りなさを よく知っています.しかし,それでも なお,主は,わたしたちを呼んでくださっている;そして,わたしたちのために 死んでくださった 今も 二千年前も;勿論,一度きりのいけにえとして,イェスは いのちを捧げたわけですが,今も 毎日 ミサをとおして 主は わたしたちのために 自身を捧げてくださっている;今も,二千年たっても,イェスは,わたしたちのために いのちをかけることを やめることがありません.ミサが行われているところでは,どこであれ,そのことを わたしたちは 目の前で 見て,体験して,イェスの愛の食卓に与ることができる そのことを 深く考え,深く感謝したいと思います.

わたしたちは,足りないから 呼ばれているのです;不完全だから 呼ばれているのです.しかし,そのようなわたしたちは,単にそこで自分たちの弱さ,不完全さ,足りなさを 認め合って,何か傷をなめ合うようなことをするのではありません;そうではなく,イェスは,そのようなわたしたちを 派遣します 今日の福音に書かれてあるように,そこには,12人の弟子たち ひとりひとりの名前が 挙げられています;そして,イェスは彼らを派遣します.

派遣 すなわち ミッション は,キリスト教の中心的なものだ と思います.キリスト教ぐらい ミッションや布教を大切にしている宗教は いわゆる伝統宗教のなかでは,ほかにありません.それは,イェスが 弟子たち ひとりひとりに願ったことです;それは,イェスの教えの集大成です.

こんなわたしでも呼ばれている;こんなに罪深くとも わたしは 赦されている;わたしたちは 和解へ招かれている;そして「だからこそ わたしたちは 神を誇りとする」と パウロは言っています.

わたしたちは,わたしたちの主 イェス キリストによって,和解を受けた者であり,招かれた者であり,赦された者であり,愛されている者です.その喜びと感謝を分かち合うということが,わたしたちキリスト者にとって 最高に大切な務めです.それがどのような形を取るかは,立場にもよるし,アプローチにもよるし,場所にもよるし,いろいろなことによります.ですから,そのことに関して,わたしたちはクリエイティヴにならなければいけない と思います.

わたしたちは,喜びと感謝を伝えずにはいられない;それを分かち合わずにはいられない.イェスがわたしたちを派遣するのは,勿論,「神の国が近づいた」ということをわたしたちが人々に宣べ伝えるためですが,その内容は,このことです:神は わたしたちのことを忘れない;神は わたしたちのためにいのちを懸けてくださった,そして,今もそうしてくださっている;そして,今もわたしたちを和解へ招いている 神との和解へ,そして,兄弟どうしの和解へ.

今,世界は 分断されています;いろんなことに関して 分断されています.政治的に分断されており,教会のなかにも さまざまな考えがあり,社会のなかにも,家族のなかにも,夫婦のなかにも,兄弟のなかにも,修道会のなかにも,さまざまな分断があります.

それは,ある意味で,わたしたち人間の性[さが]でしょう.しかし,それでも,わたしたちは,分断のなかで,「天の国は近づいた」と宣べ伝えます.神によって,新しい形が示され,新しい繋がりが作られ,新しい理解が可能となり,新しい関わりが生み出されます.そのことを分かち合っていくことができれば,と思います.

そして,今日の福音の最後にイェスが言っている「ただで受けたのだから,ただで与えなさい」それは,一番 強烈な,パンチのある言葉だと思います.わたしたちは,ただで赦されています;ただでキリスト者になっています;すべてのことをただで受けています イェスが いのちをかけて御自身を献げたことによって.ですから,わたしたちが受けたものを分かち合うとき,わたしたちは ただでそうすべきです.寛容さ,寛大さが,福音宣教においては とても重要なポイントなのだ ということを,イェスは わたしたちに教えてくださっているように思います.

わたしたちは弱く,不信心で,罪深い者であるということを 改めて思いましょう;そして,そうであっても,主は わたしたちを招き,派遣が可能となるようにわたしたちを変えていってくださる,わたしたちを育てていってくださる,準備していってくださる そのことを,わたしたちそれぞれの生活のなかで もう一度 思い起こしたいと思います.そして,派遣の中心は 他者に伝えていくことにあるのですから,分かち合うとき,わたしたちは,ただで受けたものを 心を広くして 分かち合っていくべきだろう と思います.そして,きっとそこに喜びがあるのだろう と思います.

2023-09-03

すべての者が 教会のなかで 生きるよう 呼ばれている — みんな,みんな,みんな!


すべての者が 教会のなかで 生きるよう 呼ばれている — みんな,みんな,みんな!


本年 8月,World Youth Day に参加するために リスボンを訪れた Papa Francesco は,同月 5日 土曜日 17:00, Colégio de São João de Brito において,ポルトガルのイェズス会士たちと 対話した.そこにおける質疑応答は,La Civiltà Cattolica 誌 オンライン版に 公開された.

そこにおいて,Papa Francesco は,USA の カトリック教会の 一部の保守派集団に対して「あなたたちは,indietrismo[後退主義]の イデオロギーのうちに 自身を閉じこめ,そして,それによって 教会の根から 自身を切り離し,枯れて行く者たちである」という警告を発した.また,Synod on Synodality — その総会は まもなく 10月04日に 始まる — への期待と喜びを表明した.そして,何よりも 我々が ここで 紹介したいのは,彼が改めて表明した〈LGBTQ の人々のための〉司牧姿勢である.その部分の邦訳を 以下に提示する(Papa Francesco と 参加者たちとの対話は,後者がポルトガル語ないしスペイン語で問い,前者がスペイン語で答えるというしかたで行われたであろうので,敢えて邦訳しない単語はスペイン語で表記する):

質問 : Santo Padre[聖なる父:教皇のこと],わたしは João です.わたしは,何年か前,ローマで あなたに接吻させていただいたのですが,そのときは,あまりに緊張していたので,名のることができませんでした.わたしは,Centro Universitario de Coimbra で 働いています.わたしは 難しい質問をしたいと思います.ここ リスボンで 今週 木曜日[8月 3日]に行われた 歓迎式典の際,あなたは,講話において,こう言いました:「我々は 皆[教会へ]呼ばれている — 今 あるがままに」そして「教会のなかには 皆のために 居場所がある」.わたしは,毎日,若い大学生[または 大学教員]たちとともに 司牧的に働いています.彼らのなかには,このような者たちが たくさん います:彼らは とても善良であり,教会[の 活動]に みづから積極的に参与しており,イェズス会士たちともとても親しいのですが,「わたしは homosexual です」と 言います.彼らは,彼ら自身を 教会の能動的なメンバーであると 感じていますが,しかし,どのように彼らの感情生活を生きてゆくべきかを教義のなかに見出せないことが しばしば あります.彼らは,貞潔であることへの呼びかけを 彼ら自身へ向けられた〈独身であることへの〉呼びかけと取るのではなく,一種の押しつけと取ります.我々は このことを知っています:彼らは,彼らの生のほかの諸領域においては 有徳な生を生きており,教義もよく知っています;ですが,我々は,そう知りつつも,「彼らは間違っている — なぜなら,彼らは 彼らの良心において 彼らの[性的な]関係は罪深い と感じていないから」と言えるのでしょうか? また,司牧の観点から言って,如何に 我々は ふるまうことができるでしょうか — 彼らが〈彼らは 彼らの生き方において 神によって《健全で 実り多い 感情生活を 生きるよう》呼ばれている と〉感ずることができるために? 我々は こう認めることができるでしょうか:彼らの[同性の相手との]関係は キリスト教的な真の愛 — 彼らが到達し得る可能な善としての愛,彼らが主に対して与え得る可能な答えとしての愛 — へと成長し得る種[たね]であり得る と?

パパ フランチェスコの 答え:皆が[教会へ]呼ばれている ということに 異論の余地はない,と わたしは思う.イェスは そのことについて とても明瞭である:皆[が 呼ばれている].[あの宴会の譬え (Mt 22,01-14 ; Lc 14,15-24) において]あらかじめ選ばれていた者たちは 宴会に来ようとしなかった.そこで,彼[神]は こう命ずる:十字路へ行って,皆を招きなさい — みんな,みんな,みんな!そして,明瞭であるために,イェスは こう言う:「元気な者たちも 病人たちも,義人たちも 罪人たちも」[招きなさい]— みんな,みんな,みんな!言い換えれば:皆に対して 扉を開きなさい;皆が 教会のなかに 居場所を有している.如何に 各人は そのことを生きるか?我々は〈彼らが このように 生きることができるよう〉彼らを助けよう:その居場所が 彼らにとって — あらゆる種類の人々にとって — 成熟の場所となるように.

わたしは,ローマで〈homosexual である 若者たちと[かかわりあいながら]働いている〉ある司祭を 識っている.明らかに,今日,homosexualidad のテーマは とても重要である — なぜなら,歴史的状況に応じて それは変わるから.だが,わたしが好まないのは このことである:あの「肉の罪」(pecado de la carne) に 拡大鏡が向けられること — かつて[十戒のうちの]第 6 の命令[姦淫の罪を犯すなかれ]について そうであったように.もし あなたが 労働者を搾取しても,嘘をついても,詐欺を働いても,それは大したことではない;しかるに,ベルトの下の罪[下半身の罪]は 重大である,というわけだ.

ともあれ,皆が 招かれている — それが重要な点だ.[そして,我々は]それぞれの人に適う司牧方法を以て[彼らを迎え入れねばならない].勿論,我々は素朴であってはならない;ときとして,このような司牧方法 — それを受け容れ得るほどに 彼らが まだ 十分に成熟していないような 司牧方法 — へ 彼らを強制してはならない.精神的に かつ 司牧的に 人々に寄り添うためには,感受性と創造性が おおいに必要である.しかし,すべての者が 教会のなかで 生きるよう 呼ばれている — みんな,みんな,みんな! それを決して忘れないように.

わたしは,あなたの質問を利用しよう — transexual の 人々[Papa Francesco は,las personas transexuales と言っている — las personas transgénero ではなく]について ひとこと 付け加えるために.あるとき,水曜日の一般接見に,Charles de Foucauld の 修道女が 来た.[Petites Sœurs de Jésus 会の]シスター Geneviève Jeanningros だ.彼女は,今,80歳で,Circo di Roma[ローマ近郊の港町 Ostia にある Lunapark で 公演をおこなっているサーカス団のこと]の 施設付修道女をしている — ほかの ふたりのシスターたちとともに.彼女たちは,サーカスの脇の mobile home に住んでいる.ある日,わたしは 彼女たちを訪問した.そこには,小さな礼拝堂があり,台所と寝室もある.すべては とてもよく整えられている.そして,シスター Geneviève は,transgender[ここでは Papa Francesco は 英語の transgender という語を用いている]の 娘たちと かかわりあいながら よく働いている.ある日,彼女は わたしに言った:「彼女たちを 一般接見に連れてきてもよいですか?」 わたしは 答えた「勿論 いいとも.なぜいけない?」そこで,chicas trans [ trans girls ] の グループが いつも来るようになった.彼女たちは,最初に来たとき[2022年04月27日,Torvaianica の Chiesa Beata Vergine Immacolata の 主任司祭 Andrea Conocchia 神父と シスター Geneviève にともなわれて,トランス女性の小グループが Papa Francesco と会った],泣いていた.わたしは 彼女たちに なぜ泣くのかと きいた.彼女たちのひとりが わたしに言った:「パパさまがわたしたちと会ってくれるとは,思ってもいませんでした」.最初の驚きの後,彼女たちは 来るのに慣れた.誰かがわたしに[メールを]書いてくれば,わたしはメールで答える.みんなが招かれている.わたしは,それらの人々は「わたしたちは拒まれている」と感じていたことに 気がついた.それは まことに辛いことだ.

En la Iglesia hay lugar para todos — ¡Todos, todos, todos!(教会のなかには みんなのために 居場所がある — みんな,みんな,みんな!)


En la Iglesia hay lugar para todos — ¡Todos, todos, todos!(教会のなかには みんなのために 居場所がある — みんな,みんな,みんな!)


World Youth Day 2023 リスボン大会における 8月03日の 歓迎式典での パパ フランチェスコの 講話


親愛なる 若者たちよ,今晩は!ようこそ!ようこそ,そして,ここに来てくれて,ありがとう!わたしは,あなたたちと会えて,うれしい.わたしは,あなたたちがたてる 心地よい喧騒を聞けて — そして,あなたたちの喜びに感染できて — うれしい.こうして リスボンで いっしょになれたのは,すばらしいことだ.あなたたちは 呼ばれた — わたしによって,リスボン総大司教 Manuel Clemente 枢機卿によって — 彼の歓迎の辞に わたしは 感謝する —,あなたたちの司教たちによって,あなたたちの司祭たちによって,あなたたちのカテキスタたちによって,あなたたちの世話人たちによって.感謝しよう — あなたたちを呼んだ人々すべてに,この出会いを可能にするために働いた人々すべてに — 盛大な拍手を以て 感謝しよう!だが,なかんづく,あなたたちを呼んだのは イェスである.イェスに感謝しよう — 改めて 盛大な拍手を以て!

あなたたちがここにいるのは 偶然によってではない.主が あなたたちを 呼んだのだ.それは,最近に限ったことではない.彼は,我々すべてを 呼んでいる — 我々の生の始まり以来.彼は,あなたたちを,あなたたちの名で 呼んでいる.我々は〈我々を 我々の名で呼ぶ 神のことばを〉聴く.

それらの言葉[「神は わたしを わたしの名で 呼んでいる」という言葉]が 大きな文字で書かれてあるのを 想像してごらんなさい;そして,それらが あなたたちひとりひとりのなかに — あなたたちの心のなかに — 書き込まれてある — あなたたちの生の表題を成すものとして,あなたたちの存在の意味を成すものとして — と 考えてごらんなさい.

あなたは あなたの名で 呼ばれた — あなたも,あなたも,あなたも;我々 — ここにいる者たちすべて,わたしも — は,我々の名で 呼ばれた.我々は 自動的に呼ばれたのではない.我々は,我々の名で呼ばれたのだ.

このことを考えてみよう:イェスは わたしを わたしの名で 呼んだ.それらの言葉は 心のなかに書き込まれてある.次いで,このことを考えてみよう:それらの言葉は 我々ひとりひとりのうちに — 我々の心のなかに — 書き込まれてある;そして,一種の〈あなたたちの生の〉表題 — 我々の存在の意味,あなたたちの存在の意味 — を 成している.あなたは,あなたの名で 呼ばれた.

我々のなかで 偶然にクリスチャンとなった者は 誰もいない.我々は 皆 我々の名で 呼ばれた.人生の始まりのときに — 我々が才能を有するようになる前に,我々が 陰と傷を我々のうちに持つようになる前に — 我々は 呼ばれた.

我々は 呼ばれた.なぜ? なぜなら 我々は愛されているからだ.我々が呼ばれたのは,我々が愛されているからだ.すばらしい!

神の目には,我々は,たいせつな子である;たいせつな子たちである我々を 神は 毎日 呼ぶ — 抱きしめるために,励ますために,我々を 各々 唯一の かつ 独特な 傑作にするために.

我々は 各々 唯一的であり,独特である.そして,そのことすべての美しさを 我々は かいま見ることもできない.

親愛なる 若者たちよ,この World Youth Day の期間中,その現実を認めることができるよう,互いに助けあおう.この六日間が 神の〈愛情深い〉呼びかけの〈よく響く〉こだまであるように.神は 愛情深く 我々を呼んでいる;なぜなら,我々は 神の目には たいせつな子と見えているから — 我々の目がときとして見るもの – ときとして 我々の目は ネガティヴなものによって 曇らされ,ときとして 多くの娯楽によって眩まされる – にもかかわらず.

この六日間が,このような日々であるように:そこにおいて わたしの名が,あなたの名が,それを友愛的に言う〈かくも多くの言語の — かくも多くの国々の — かくも多くの国旗が見える —〉兄弟姉妹たちをとおして 響きわたる — 歴史のなかで唯一的な知らせとして;なぜなら このゆえに:あなたに対する神の心のときめきは 唯一的である.

この六日間が,このような日々であるように:そこにおいて,我々は このことを 我々の心に刻み込む:我々は 愛されている — 今 あるがままに;いつかこうなりたいという理想像においてではなく,今 あるがままに.それこそが,World Youth Day の 出発点である;そして,なかんづく,生の出発点である.息子たちよ,娘たちよ,我々は 愛されている — あるがままに — 化粧なしに.わかるかね? そして,我々は,我々それぞれの名で 呼ばれている.

あなたは あなたの名で 呼ばれている — それは,単なる言い回しではない;それは 神のことばだ (cf. Is 43,01* ; 2 Tm 1,09**). 友よ,もし 神が あなたを あなたの名で 呼んでいるならば,それは このことを意義している:神にとっては 我々は 誰も 単なる番号ではない;しかして,顔 (rostro) である;顔 (cara) である;心である.

* Is 43,01 :

だが,今や YHWH は こう言う — ヤコブよ,彼は あなたを創造した;イスラエルよ,彼は あなたを形づくった —:

恐れるな;
なぜなら このゆえに:わたしは あなたを贖った; 
わたしは あなたを あなたの名で 呼んだ; 
あなたは わたしのものである.

** 2 Tm 1,09 : 

[神は]我々を救済した;そして,我々を 聖なる呼び名で 呼んだ — 我々の行いに応じてではなく,しかして,神自身の計画および恵みに応じて —;その恵みは,永遠の時より前に,キリスト イェスにおいて,我々に与えられた.


わたしは 皆に〈このことに〉気づいてほしい:今日,あなたの名を知っている者たちは たくさんいる;だが,彼らは あなたを あなたの名で呼びはしない;実際,あなたの名は知られている;それは,SNS に 現れる;そして,アルゴリズムによって処理され,趣味や好みと結びつけられる;だが,そのようなもの すべてが 問うているのは,あなたの唯一性ではなく,しかして,市場調査のための あなたの有用性だけである.どれほど多くのオオカミが隠れていることか — 偽りの優しさの微笑みの背後に —;それらは「わたしは あなたが誰であるかを 知っている」と言う;だが,あなたを愛してはいない;それらは「わたしは あなたを信じている」と ほのめかし,「あなたは 有意義な人になるだろう」と約束する;だが,あなたに対する関心がなくなれば,あなたをほったらかしにする.それらは,virtual の 錯覚である;我々は だまされないよう 気をつけねばならない;なぜなら このゆえに:多くの現実が 今日 我々を惹きつけ,我々に幸福を約束するが,時がたてば,それらは〈それらが実際にそうであるところのものとして〉自身を明かす:虚しいもの,石鹸の泡,表面的なもの,無駄なもの — それらは,我々を 内的に空虚なままに 残す.

わたしは あなたたちに ひとつのことを 言おう:イェスは そのようではない;彼は そのようではない;彼は あなたを信頼している;あなたたち ひとりひとりを — 我々 ひとりひとりを — 信頼している;なぜなら このゆえに:イェスにとっては,我々ひとりひとりが たいせつである;あなたたちひとりひとりが たいせつである.そして,それが イェスである.

そして,それがゆえに,我々 — 彼の教会 — は,呼ばれた者たちの共同体なのだ.我々は,最も善良な者たちの共同体ではない;否,我々は 皆 罪人である.しかして,我々は 呼ばれたのだ — 我々のあるがままに.

そのことを 我々の心のなかで 少し 考えてみよう:我々は 呼ばれている — あるがままに — 問題を抱えたまま,限界を持ったまま,溢れかえる喜びをもって,よりよくなりたいという欲望をもって,勝ちたいという欲望をもって.

我々は,あるがままに,呼ばれた.そのことを考えてごらんなさい:イェスは わたしを 呼んだ — わたしのあるがままに — わたしがいつか成りたいと思っている理想像においてではなく.我々は,イェスの兄弟姉妹の共同体である;同じひとりの父の息子たちと娘たちの共同体である.

友たちよ,わたしは あなたたちとともに 明瞭でありたい;あなたたちは 偽り および 空疎な言葉に対して アレルギーを有しているから.

教会のなかには みんなのために 居場所がある (En la Iglesia hay lugar para todos). みんなのために.教会のなかでは 誰も邪魔物扱いされない;誰も余計ではない;みんなのために 居場所がある;わたしたちがあるがままに,みんなのために.

そして,イェスは 明瞭に こう言っている — 宴会に人々を呼ぶために 使徒たちを遣わすときに (cf. Mt 22,01-14 ; Lc 14,15-24) —:

みんなを迎えにゆきなさい — 老いも 若きも,健康な人も 病人も,義人も 罪人も.みんな,みんな,みんな!(¡Todos, todos, todos!)


教会のなかには みんなのために 居場所がある

「しかし,神父さま,わたしは 惨めな者です.わたしのために 居場所はありますか?」

みんなのために 居場所がある!

さあ,みんな いっしょに,おのおの 自分の言語で,わたしといっしょに繰り返そう:

みんな,みんな,みんな!(¡Todos, todos, todos!)

聞こえないよ!もう一度!

みんな,みんな,みんな!(¡Todos, todos, todos!)

それが 教会だ;みんなの母だ.みんなのために 居場所がある.

主は[断罪のために]指さすことはしない;しかして,彼は[迎え入れるために]両腕を広げる.

それは,我々に このことを考えさせる:彼は こうはしない[指さす動作]しかして,彼は こうする[抱きしめる動作];彼は みんなを抱きしめる.

イェスは 我々に そのことを 十字架のうえで 示している — 両腕を 大きく広げて — 十字架にかけられて,我々のために死ぬほどに.

イェスは,決して 扉を閉ざさない — 決して —;しかして,彼は あなたを 入るよう招いている :「入りなさい,そして,見なさい」.イェスは,あなたを受け入れる,あなたを迎え入れる.

さあ,わたしたちは,各人,イェスの愛のメッセージを伝えよう :「神は あなたを愛している;神は あなたを呼んでいる」.

それは 何と すばらしいことか! 神は わたしを愛している;神は わたしを呼んでいる.神は,わたしが神のそばいにいることを 欲している.

また,あなたたちは,今日の午後,わたしに質問した — たくさん質問した.問うことに倦んではならない.問うことに倦んではならない.問いを有するのは よいことである.さらには,それは,しばしば,答えを与えるのより よりよいことである;なぜなら このゆえに:問う者は 不安なままである;そして,不安は routine[決まりきった日常]に対する 最良の治療法である — routine, すなわち,ときとして魂を麻痺させる 一種の「正常」さ.

我々は,おのおの,自身のうちに 自分の問いを有している.それらの問いを持ち歩こう;そして,他者との対話のなかでも[それらを持ち続けよう].我々が神のまえで祈るときにも,それらを持ち続けよう.それらの問いは,我々が生きてゆくうちに,答えになってゆくだろう — ただ,我々は それらの答えを待つしかない.

そして,とても興味深いことに:神の愛は 我々を不意打ちする.それは あらかじめプログラムによって予告されてはいない.神の愛は 驚きである.それは 驚きである — それは いつも 我々を驚かす.それは,いつも,我々を注意深くさせておき,そして,我々を驚かす.

親愛なる 息子たちと 娘たちよ,わたしは あなたたちを 促す — このすばらしいことを考えてみるよう:神は 我々を愛している;神は 我々を 我々のあるがままに 愛している — 我々がそうなりたいと思う理想像においてではなく,社会が我々に対して要求する 望ましい人間像においてでもなく — 我々のあるがままに! 

神は 我々を 呼んでいる — 我々が 欠点を持っているがままに,限界を持っているがままに,人生のなかを前進してゆきたいと欲しているがままに.神は そのように 我々を 呼んでいる.

信頼しなさい;なぜなら このゆえに:神は 父である;我々を欲する父であり,我々を愛する父である.

それは,あまり気楽なことではない.そして,それがゆえに,我々は 偉大な助けを 有している — 主の母を.彼女は 我々の母でもある;彼女は 我々の母である.

わたしがあなたたちに言いたいのは,それだけだ:恐れるな;勇気を持て;前進せよ — このことを知りつつ:我々は,神が我々に対して有している愛によって,永遠に 神の財産となっているのだ***.

*** スペイン語原文では "estamos amortizados por el amor que Dios nos tiene". この場合,他動詞 amortizar は "pasar los bienes a manos muertas"[財産を 法人(特に 宗教法人)へ譲渡する — その財産が その法人のもとで 譲渡不可能な財産となるように]ということ.それは,この Papa Francesco の 講話の文脈では,彼が言及している Is 43,01 の「あなたは わたしのものだ」と同じことを言っている と 解され得るだろう(Vatican の 公式翻訳者たちも その語の翻訳に苦労しているようだが).

神は 我々を愛している.さあ,みんな いっしょに言おう :「神は 我々を愛している!」 もっと強く! 聞こえないよ![会衆は くりかえす] ここからは 聞こえないよ![会衆は 繰り返す]
 
Gracias. Adiós.


パパ フランチェスコの講話が始まるのは 1:02:20 あたり