2023年9月26日火曜日

酒井 陽介 神父さまの 説教,2023年06月18日(年間 第 11 主日 A 年)— LGBTQ みんなの ミサ


酒井 陽介 神父さまの 説教,20230618日(年間 11 主日 A 年) LGBTQ みんなの ミサ


聖書朗読

1 朗読 : Ex 19,02-06a
もし あなたたちが わが声に聴き従い,わが契約を守るならば,あなたたちは わたしにとって 特別な宝となるだろう;そして,あなたたちは わたしにとって 祭司たちの王国となり,聖なる国民となるだろう.

2 朗読 : Rm 5,06-11
キリストは,我らがまだ弱かった[信仰薄弱であった,キリストを信じていなかった]ときに,時[の 満了]にしたがって,敬虔ならざる者たち[我々]のために 死んでくれた.(…) 神は,彼自身の〈我れらに対する〉愛を 示してくれている 我れらがまだ罪人であったときに,キリストが我れらのために死んでくれたことによって.それゆえ,我々は,今や 彼の血によって義とされたのであれば,なおのこと,彼によって[神の]怒りから 救われるだろう.なぜなら このゆえに;もし 我々が[神の]敵であったときに 彼[神]の息子の死によって 神と和解させてもらえたのであれば,なおのこと,[今や]和解させもらえた我々は 彼[神の息子 キリスト]の いのちによって 救われるだろう.

福音朗読 : Mt 9,36 – 10,08
イェスは,12 使徒に命じた:「あなたたちは[福音を]宣べ伝えに行きなさい こう言いつつ:『天の国は 近づいた』.[病で]弱った者たちを 癒しなさい;死者たちを 起きあがらせなさい[復活させなさい];レプラ患者たちを 浄めなさい;悪霊たちを 追い払いなさい.あなたたちは,[福音を,救済を]無償で受け取った[のだから,]無償で与えなさい」.


今日の 第 2 朗読で,パウロは 言っています:キリストが 生き,そして 死んだのは,正しい者のためではなく,まさに わたしたちのためである;わたしたちが いかに弱く,不信心で,罪深くても,それでも,イェスは わたしたちのために 死んでくださった,死を選んでくださった;そして,そこに 神の愛が示されている.

それは,きっと,わたしたちの信仰の中心的なものだろう と思います.すなわち,わたしたちが救われるのは,わたしたちが 完全で,完璧で,清廉潔白で,何の歪みもなく,間違いもないから ではありません;また,わたしたちが たくさん祈り,聖なる者となり,功徳を積み,世のなかで認められたから でもありません;そのような価値観にもとづいてではありません.

わたしたちの不信心さ,わたしたちの罪深さ,わたしたちの不完全さ,わたしたちの弱さがあっても,イェスは 敢えて わたしたちのために死んでくださった;そして,そこに 神の愛が示されるのです.

そのようなパウロのことばは,読むたびに,わたしたちに勇気を与えてくれます;だからこそ,信者として生きていける;だからこそキリスト者であり続けることができる そう感じます.

世の中の キリスト者に関するイメージは,とても堅くて,清廉潔白で,真面目で,規則を守る というようなものだと思いますが,実は,わたしたちは,自分たちの脆さ,弱さ,足りなさを よく知っています.しかし,それでも なお,主は,わたしたちを呼んでくださっている;そして,わたしたちのために 死んでくださった 今も 二千年前も;勿論,一度きりのいけにえとして,イェスは いのちを捧げたわけですが,今も 毎日 ミサをとおして 主は わたしたちのために 自身を捧げてくださっている;今も,二千年たっても,イェスは,わたしたちのために いのちをかけることを やめることがありません.ミサが行われているところでは,どこであれ,そのことを わたしたちは 目の前で 見て,体験して,イェスの愛の食卓に与ることができる そのことを 深く考え,深く感謝したいと思います.

わたしたちは,足りないから 呼ばれているのです;不完全だから 呼ばれているのです.しかし,そのようなわたしたちは,単にそこで自分たちの弱さ,不完全さ,足りなさを 認め合って,何か傷をなめ合うようなことをするのではありません;そうではなく,イェスは,そのようなわたしたちを 派遣します 今日の福音に書かれてあるように,そこには,12人の弟子たち ひとりひとりの名前が 挙げられています;そして,イェスは彼らを派遣します.

派遣 すなわち ミッション は,キリスト教の中心的なものだ と思います.キリスト教ぐらい ミッションや布教を大切にしている宗教は いわゆる伝統宗教のなかでは,ほかにありません.それは,イェスが 弟子たち ひとりひとりに願ったことです;それは,イェスの教えの集大成です.

こんなわたしでも呼ばれている;こんなに罪深くとも わたしは 赦されている;わたしたちは 和解へ招かれている;そして「だからこそ わたしたちは 神を誇りとする」と パウロは言っています.

わたしたちは,わたしたちの主 イェス キリストによって,和解を受けた者であり,招かれた者であり,赦された者であり,愛されている者です.その喜びと感謝を分かち合うということが,わたしたちキリスト者にとって 最高に大切な務めです.それがどのような形を取るかは,立場にもよるし,アプローチにもよるし,場所にもよるし,いろいろなことによります.ですから,そのことに関して,わたしたちはクリエイティヴにならなければいけない と思います.

わたしたちは,喜びと感謝を伝えずにはいられない;それを分かち合わずにはいられない.イェスがわたしたちを派遣するのは,勿論,「神の国が近づいた」ということをわたしたちが人々に宣べ伝えるためですが,その内容は,このことです:神は わたしたちのことを忘れない;神は わたしたちのためにいのちを懸けてくださった,そして,今もそうしてくださっている;そして,今もわたしたちを和解へ招いている 神との和解へ,そして,兄弟どうしの和解へ.

今,世界は 分断されています;いろんなことに関して 分断されています.政治的に分断されており,教会のなかにも さまざまな考えがあり,社会のなかにも,家族のなかにも,夫婦のなかにも,兄弟のなかにも,修道会のなかにも,さまざまな分断があります.

それは,ある意味で,わたしたち人間の性[さが]でしょう.しかし,それでも,わたしたちは,分断のなかで,「天の国は近づいた」と宣べ伝えます.神によって,新しい形が示され,新しい繋がりが作られ,新しい理解が可能となり,新しい関わりが生み出されます.そのことを分かち合っていくことができれば,と思います.

そして,今日の福音の最後にイェスが言っている「ただで受けたのだから,ただで与えなさい」それは,一番 強烈な,パンチのある言葉だと思います.わたしたちは,ただで赦されています;ただでキリスト者になっています;すべてのことをただで受けています イェスが いのちをかけて御自身を献げたことによって.ですから,わたしたちが受けたものを分かち合うとき,わたしたちは ただでそうすべきです.寛容さ,寛大さが,福音宣教においては とても重要なポイントなのだ ということを,イェスは わたしたちに教えてくださっているように思います.

わたしたちは弱く,不信心で,罪深い者であるということを 改めて思いましょう;そして,そうであっても,主は わたしたちを招き,派遣が可能となるようにわたしたちを変えていってくださる,わたしたちを育てていってくださる,準備していってくださる そのことを,わたしたちそれぞれの生活のなかで もう一度 思い起こしたいと思います.そして,派遣の中心は 他者に伝えていくことにあるのですから,分かち合うとき,わたしたちは,ただで受けたものを 心を広くして 分かち合っていくべきだろう と思います.そして,きっとそこに喜びがあるのだろう と思います.