2023年9月27日水曜日

関根悦雄神父さまの説教,2023年9月17日(年間 第 24 主日 A 年)— LGBTQ みんなのミサ


関根 悦雄 神父さまの 説教,2023年9月17日(年間 第 24 主日 A 年)— LGBTQ みんなのミサ



第 1 朗読 : Sir 27:30 – 28:07
あなたの隣人の不義を赦しなさい;そうすれば,あなたの罪も赦されるだろう.

第 2 朗読 : Rom 14:07-09
我々は,生きるにせよ,死ぬにせよ,主のものである.

福音朗読 : Mt 18:21-35
王は,同僚の負いめを赦さなかった家臣に,言った:「邪悪なしもべよ,わたしは おまえのために あの[莫大な]負いめを すべて 赦した — おまえが わたしに 懇願したがゆえに.[であれば]おまえも おまえの同僚を憐れむべきではなかったか — わたしがおまえを憐れんだように?」

始めに言ったように,今日の聖書のテーマは「赦し」です.第 1 朗読の シラ書では,ある意味で 全世界で普遍的に通用するような言い方が なされている,と思います.たとえば:

隣人から受けた不正を 赦せ;そうすれば,願い求めるとき,おまえの罪は 赦される.

人が 互いに 怒りを抱きあっていながら,どうして 主から 癒しを期待できようか?

自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて,どうして 自分の罪の赦しを 願い得ようか?

そのようなことは,日本でも,どこの国でも 通用する と言っていい と思います.イエスの時代も そうでした.

しかし,イエスのメッセージは,そこにとどまらなかった.それが,今日の福音で しっかりと明示されている と言っていいと思います.

まず,ペトロが イエスのところに来て,「わたしに対して兄弟が罪を犯したなら,何回 赦すべきでしょうか? 7回までですか?」と言う.ペトロは,イエスに,「わたしは ちゃんと あなたの教えを聴いています.ですから,わたしは 7回までも赦す準備ができています」と 誇らしく言いにきたのでしょう — 褒めてもらえると思って.

しかし,イエスは,まず「7 の 70倍までも 赦しなさい」と言う.次いで,有名なタラントンの譬え話をする:

10,000 タラントンの借金をしている家来が いた.

これは,現実には あり得ないことです.1 タラントンは 6,000 デナリオンです.1 デナリオンは[来週 24日の福音の「葡萄園の労働者の喩え」で 言われているように]1 日の賃金です.1 日 働くと 1 デナリオンが 支払われる.そうすると,6,000デナリオンは およそ 20年分の収入に 相当するでしょう.それが 1 タラントンです.その 10,000 倍というと,[日本円で兆の桁の数字の]国家予算のような借金です.現実にはあり得ないことなのに,どうして そのような譬え話をしたのか?

そして,イエスは,10,000 タラントンの借金している しもべを 主人が赦した,と 言います.ところが,その赦されたしもべは,町に出ていって,自分に 100 デナリオンの借金をしている仲間に 会う.

100 デナリオンというと,だいたい 3 カ月分の給料と言ってもいいかもしれません;それは,現実的な数字です.

そして,彼は その仲間に「借金を返せ」と言う;自分は,たった今,10,000 タラントンもの借金を赦してもらったばかりなのに,彼は,100 デナリオンの借金のある者に出会って,「返せ,返せ」と言う;そして,「待ってくれ」と言われても,彼は,待つことができなかった.

そういう話です.

わたしたちにとっても,人を赦すということは 簡単ではありません.わたしたちが,誰かから何か害を受けたとする.そのとき,謝ってこられたら,「はい,わかりました.あなたを赦します」と言うでしょう — 恐らく.でも「赦す」といっても,それは「仕返しをしません」ということにすぎないのではないでしょうか?

しかし,神の赦しは そこにとどまらない.わたしたちの すべての罪を まったくなかったかのように してくださるのです.それが,この「主人は しもべの 10,000 タラントンの負いめを 赦した」という譬えの意味だ と思います.

では,どうして わたしたちは 赦しあう必要があるのか? 何のために わたしたちは 生きるのか? その答えは,今日のアレルヤ唱にあります:「新しい掟を あなたがたに与える:互いに愛しあいなさい — わたしが あなたがたを 愛したように」(ヨハネ福音書 13章 34節).それが,わたしたちに課せられた唯一の掟だ,と言ってもいいです:「互いに愛しあいなさい」.それが実現しないと,神の国は実現しない,と言っていい と思います.神の国は,神の御旨が行われている場です;そういう状態です.そのために,イエスは まず この掟を与えました:「互いに愛しあいなさい.わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも 互いに愛しあいなさい」.

愛しあう — イエスがわたしたちを愛したように.つまり,わたしたちは 皆 彼に愛されるにふさわしい存在なのだ — そのことを 互いに示しあいなさい ということです.

イエスは,神は わたしたち ひとりひとりを 愛してくださっている ということを わたしたちに伝えるために,「あなたは 神の子です;あなたは 神の目にとって だいじな人なのです」ということを,わたしたちに 行為によって 示してくださいました.

わたしたちもが互いにそうするならば 神の国は実現する,ということになります.そのためには,わたしたちが 愛によって結ばれ,そして,その相互的なつながりが広がって行かねばなりません.

その前提として — わたしたちが互いに愛しあうための前提として — わたしたちが互いに赦しあう ということが 重要になってくる,と思います.

しかし,経験的にわかっているように,赦しは それほど簡単なことではありません.人と人とが集まれば,いろいろな社会が あります.なぜか? それは,わたしたち ひとりひとりが 誰でも「自分は正しい」と思って生きているからです.

しかし,「自分は正しい」と思ってはいても,何か反対されたり反論されたりしたときには,相手の主張には本当に正しいところはないのか?と思ってみる — そうすることができるようになることが 相手を排除してしまわないために 必要なのではないか,と わたしは 今 思っています.

今の世の中が — 特に 最近の若者たちが — どういうふうになっているのか,わたしは 関心をもって 見ています.そして,そのことに関して いろいろな人々の発言を聞いています.すると,どうやら,今の若者たちは,トラブルになることを避けるために,最初から関わりあわない,というふうになっているようです.これは,わたしたちの目から見て,非常にひどい状況です.若者たちどうしが本当に信頼しあって結ばれる ということが なかなか 起きない,と言われています.友だちだと言いながら 友だちごっこをしているにすぎない,ということらしいのです.人と人とが本当に結ばれている,友だちどうしが本当に結ばれている という状況が,昔と比べると,ほとんどなくなってしまった,と言われているのです.

これは,わたしたちが神の国を目指すときにも,非常に大きな問題です.ですから,互いに赦しあい,そして,互いに愛しあう —「愛しあう」とは,感情的なことではく,具体的に人を助ける,そして,それによって本当に結ばれていく ということです — それを わたしたちの周りから 実現していくことができるよう,主の導きを 今日 御一緒に 願いたい と思います.本当に赦しあうことが必要なのだ,そして,それは 互いに愛しあうために絶対に必要なことなのだ ということを わたしたちが 理解して,それを実践していくことができるよう,恵みを 御一緒に 願いたい と思います.