2023年9月3日日曜日

En la Iglesia hay lugar para todos — ¡Todos, todos, todos!(教会のなかには みんなのために 居場所がある — みんな,みんな,みんな!)


En la Iglesia hay lugar para todos — ¡Todos, todos, todos!(教会のなかには みんなのために 居場所がある — みんな,みんな,みんな!)


World Youth Day 2023 リスボン大会における 8月03日の 歓迎式典での パパ フランチェスコの 講話


親愛なる 若者たちよ,今晩は!ようこそ!ようこそ,そして,ここに来てくれて,ありがとう!わたしは,あなたたちと会えて,うれしい.わたしは,あなたたちがたてる 心地よい喧騒を聞けて — そして,あなたたちの喜びに感染できて — うれしい.こうして リスボンで いっしょになれたのは,すばらしいことだ.あなたたちは 呼ばれた — わたしによって,リスボン総大司教 Manuel Clemente 枢機卿によって — 彼の歓迎の辞に わたしは 感謝する —,あなたたちの司教たちによって,あなたたちの司祭たちによって,あなたたちのカテキスタたちによって,あなたたちの世話人たちによって.感謝しよう — あなたたちを呼んだ人々すべてに,この出会いを可能にするために働いた人々すべてに — 盛大な拍手を以て 感謝しよう!だが,なかんづく,あなたたちを呼んだのは イェスである.イェスに感謝しよう — 改めて 盛大な拍手を以て!

あなたたちがここにいるのは 偶然によってではない.主が あなたたちを 呼んだのだ.それは,最近に限ったことではない.彼は,我々すべてを 呼んでいる — 我々の生の始まり以来.彼は,あなたたちを,あなたたちの名で 呼んでいる.我々は〈我々を 我々の名で呼ぶ 神のことばを〉聴く.

それらの言葉[「神は わたしを わたしの名で 呼んでいる」という言葉]が 大きな文字で書かれてあるのを 想像してごらんなさい;そして,それらが あなたたちひとりひとりのなかに — あなたたちの心のなかに — 書き込まれてある — あなたたちの生の表題を成すものとして,あなたたちの存在の意味を成すものとして — と 考えてごらんなさい.

あなたは あなたの名で 呼ばれた — あなたも,あなたも,あなたも;我々 — ここにいる者たちすべて,わたしも — は,我々の名で 呼ばれた.我々は 自動的に呼ばれたのではない.我々は,我々の名で呼ばれたのだ.

このことを考えてみよう:イェスは わたしを わたしの名で 呼んだ.それらの言葉は 心のなかに書き込まれてある.次いで,このことを考えてみよう:それらの言葉は 我々ひとりひとりのうちに — 我々の心のなかに — 書き込まれてある;そして,一種の〈あなたたちの生の〉表題 — 我々の存在の意味,あなたたちの存在の意味 — を 成している.あなたは,あなたの名で 呼ばれた.

我々のなかで 偶然にクリスチャンとなった者は 誰もいない.我々は 皆 我々の名で 呼ばれた.人生の始まりのときに — 我々が才能を有するようになる前に,我々が 陰と傷を我々のうちに持つようになる前に — 我々は 呼ばれた.

我々は 呼ばれた.なぜ? なぜなら 我々は愛されているからだ.我々が呼ばれたのは,我々が愛されているからだ.すばらしい!

神の目には,我々は,たいせつな子である;たいせつな子たちである我々を 神は 毎日 呼ぶ — 抱きしめるために,励ますために,我々を 各々 唯一の かつ 独特な 傑作にするために.

我々は 各々 唯一的であり,独特である.そして,そのことすべての美しさを 我々は かいま見ることもできない.

親愛なる 若者たちよ,この World Youth Day の期間中,その現実を認めることができるよう,互いに助けあおう.この六日間が 神の〈愛情深い〉呼びかけの〈よく響く〉こだまであるように.神は 愛情深く 我々を呼んでいる;なぜなら,我々は 神の目には たいせつな子と見えているから — 我々の目がときとして見るもの – ときとして 我々の目は ネガティヴなものによって 曇らされ,ときとして 多くの娯楽によって眩まされる – にもかかわらず.

この六日間が,このような日々であるように:そこにおいて わたしの名が,あなたの名が,それを友愛的に言う〈かくも多くの言語の — かくも多くの国々の — かくも多くの国旗が見える —〉兄弟姉妹たちをとおして 響きわたる — 歴史のなかで唯一的な知らせとして;なぜなら このゆえに:あなたに対する神の心のときめきは 唯一的である.

この六日間が,このような日々であるように:そこにおいて,我々は このことを 我々の心に刻み込む:我々は 愛されている — 今 あるがままに;いつかこうなりたいという理想像においてではなく,今 あるがままに.それこそが,World Youth Day の 出発点である;そして,なかんづく,生の出発点である.息子たちよ,娘たちよ,我々は 愛されている — あるがままに — 化粧なしに.わかるかね? そして,我々は,我々それぞれの名で 呼ばれている.

あなたは あなたの名で 呼ばれている — それは,単なる言い回しではない;それは 神のことばだ (cf. Is 43,01* ; 2 Tm 1,09**). 友よ,もし 神が あなたを あなたの名で 呼んでいるならば,それは このことを意義している:神にとっては 我々は 誰も 単なる番号ではない;しかして,顔 (rostro) である;顔 (cara) である;心である.

* Is 43,01 :

だが,今や YHWH は こう言う — ヤコブよ,彼は あなたを創造した;イスラエルよ,彼は あなたを形づくった —:

恐れるな;
なぜなら このゆえに:わたしは あなたを贖った; 
わたしは あなたを あなたの名で 呼んだ; 
あなたは わたしのものである.

** 2 Tm 1,09 : 

[神は]我々を救済した;そして,我々を 聖なる呼び名で 呼んだ — 我々の行いに応じてではなく,しかして,神自身の計画および恵みに応じて —;その恵みは,永遠の時より前に,キリスト イェスにおいて,我々に与えられた.


わたしは 皆に〈このことに〉気づいてほしい:今日,あなたの名を知っている者たちは たくさんいる;だが,彼らは あなたを あなたの名で呼びはしない;実際,あなたの名は知られている;それは,SNS に 現れる;そして,アルゴリズムによって処理され,趣味や好みと結びつけられる;だが,そのようなもの すべてが 問うているのは,あなたの唯一性ではなく,しかして,市場調査のための あなたの有用性だけである.どれほど多くのオオカミが隠れていることか — 偽りの優しさの微笑みの背後に —;それらは「わたしは あなたが誰であるかを 知っている」と言う;だが,あなたを愛してはいない;それらは「わたしは あなたを信じている」と ほのめかし,「あなたは 有意義な人になるだろう」と約束する;だが,あなたに対する関心がなくなれば,あなたをほったらかしにする.それらは,virtual の 錯覚である;我々は だまされないよう 気をつけねばならない;なぜなら このゆえに:多くの現実が 今日 我々を惹きつけ,我々に幸福を約束するが,時がたてば,それらは〈それらが実際にそうであるところのものとして〉自身を明かす:虚しいもの,石鹸の泡,表面的なもの,無駄なもの — それらは,我々を 内的に空虚なままに 残す.

わたしは あなたたちに ひとつのことを 言おう:イェスは そのようではない;彼は そのようではない;彼は あなたを信頼している;あなたたち ひとりひとりを — 我々 ひとりひとりを — 信頼している;なぜなら このゆえに:イェスにとっては,我々ひとりひとりが たいせつである;あなたたちひとりひとりが たいせつである.そして,それが イェスである.

そして,それがゆえに,我々 — 彼の教会 — は,呼ばれた者たちの共同体なのだ.我々は,最も善良な者たちの共同体ではない;否,我々は 皆 罪人である.しかして,我々は 呼ばれたのだ — 我々のあるがままに.

そのことを 我々の心のなかで 少し 考えてみよう:我々は 呼ばれている — あるがままに — 問題を抱えたまま,限界を持ったまま,溢れかえる喜びをもって,よりよくなりたいという欲望をもって,勝ちたいという欲望をもって.

我々は,あるがままに,呼ばれた.そのことを考えてごらんなさい:イェスは わたしを 呼んだ — わたしのあるがままに — わたしがいつか成りたいと思っている理想像においてではなく.我々は,イェスの兄弟姉妹の共同体である;同じひとりの父の息子たちと娘たちの共同体である.

友たちよ,わたしは あなたたちとともに 明瞭でありたい;あなたたちは 偽り および 空疎な言葉に対して アレルギーを有しているから.

教会のなかには みんなのために 居場所がある (En la Iglesia hay lugar para todos). みんなのために.教会のなかでは 誰も邪魔物扱いされない;誰も余計ではない;みんなのために 居場所がある;わたしたちがあるがままに,みんなのために.

そして,イェスは 明瞭に こう言っている — 宴会に人々を呼ぶために 使徒たちを遣わすときに (cf. Mt 22,01-14 ; Lc 14,15-24) —:

みんなを迎えにゆきなさい — 老いも 若きも,健康な人も 病人も,義人も 罪人も.みんな,みんな,みんな!(¡Todos, todos, todos!)


教会のなかには みんなのために 居場所がある

「しかし,神父さま,わたしは 惨めな者です.わたしのために 居場所はありますか?」

みんなのために 居場所がある!

さあ,みんな いっしょに,おのおの 自分の言語で,わたしといっしょに繰り返そう:

みんな,みんな,みんな!(¡Todos, todos, todos!)

聞こえないよ!もう一度!

みんな,みんな,みんな!(¡Todos, todos, todos!)

それが 教会だ;みんなの母だ.みんなのために 居場所がある.

主は[断罪のために]指さすことはしない;しかして,彼は[迎え入れるために]両腕を広げる.

それは,我々に このことを考えさせる:彼は こうはしない[指さす動作]しかして,彼は こうする[抱きしめる動作];彼は みんなを抱きしめる.

イェスは 我々に そのことを 十字架のうえで 示している — 両腕を 大きく広げて — 十字架にかけられて,我々のために死ぬほどに.

イェスは,決して 扉を閉ざさない — 決して —;しかして,彼は あなたを 入るよう招いている :「入りなさい,そして,見なさい」.イェスは,あなたを受け入れる,あなたを迎え入れる.

さあ,わたしたちは,各人,イェスの愛のメッセージを伝えよう :「神は あなたを愛している;神は あなたを呼んでいる」.

それは 何と すばらしいことか! 神は わたしを愛している;神は わたしを呼んでいる.神は,わたしが神のそばいにいることを 欲している.

また,あなたたちは,今日の午後,わたしに質問した — たくさん質問した.問うことに倦んではならない.問うことに倦んではならない.問いを有するのは よいことである.さらには,それは,しばしば,答えを与えるのより よりよいことである;なぜなら このゆえに:問う者は 不安なままである;そして,不安は routine[決まりきった日常]に対する 最良の治療法である — routine, すなわち,ときとして魂を麻痺させる 一種の「正常」さ.

我々は,おのおの,自身のうちに 自分の問いを有している.それらの問いを持ち歩こう;そして,他者との対話のなかでも[それらを持ち続けよう].我々が神のまえで祈るときにも,それらを持ち続けよう.それらの問いは,我々が生きてゆくうちに,答えになってゆくだろう — ただ,我々は それらの答えを待つしかない.

そして,とても興味深いことに:神の愛は 我々を不意打ちする.それは あらかじめプログラムによって予告されてはいない.神の愛は 驚きである.それは 驚きである — それは いつも 我々を驚かす.それは,いつも,我々を注意深くさせておき,そして,我々を驚かす.

親愛なる 息子たちと 娘たちよ,わたしは あなたたちを 促す — このすばらしいことを考えてみるよう:神は 我々を愛している;神は 我々を 我々のあるがままに 愛している — 我々がそうなりたいと思う理想像においてではなく,社会が我々に対して要求する 望ましい人間像においてでもなく — 我々のあるがままに! 

神は 我々を 呼んでいる — 我々が 欠点を持っているがままに,限界を持っているがままに,人生のなかを前進してゆきたいと欲しているがままに.神は そのように 我々を 呼んでいる.

信頼しなさい;なぜなら このゆえに:神は 父である;我々を欲する父であり,我々を愛する父である.

それは,あまり気楽なことではない.そして,それがゆえに,我々は 偉大な助けを 有している — 主の母を.彼女は 我々の母でもある;彼女は 我々の母である.

わたしがあなたたちに言いたいのは,それだけだ:恐れるな;勇気を持て;前進せよ — このことを知りつつ:我々は,神が我々に対して有している愛によって,永遠に 神の財産となっているのだ***.

*** スペイン語原文では "estamos amortizados por el amor que Dios nos tiene". この場合,他動詞 amortizar は "pasar los bienes a manos muertas"[財産を 法人(特に 宗教法人)へ譲渡する — その財産が その法人のもとで 譲渡不可能な財産となるように]ということ.それは,この Papa Francesco の 講話の文脈では,彼が言及している Is 43,01 の「あなたは わたしのものだ」と同じことを言っている と 解され得るだろう(Vatican の 公式翻訳者たちも その語の翻訳に苦労しているようだが).

神は 我々を愛している.さあ,みんな いっしょに言おう :「神は 我々を愛している!」 もっと強く! 聞こえないよ![会衆は くりかえす] ここからは 聞こえないよ![会衆は 繰り返す]
 
Gracias. Adiós.


パパ フランチェスコの講話が始まるのは 1:02:20 あたり