LGBTQ みんなの ミサの 世話人からの 降誕祭のメッセージ
御降誕の喜びを 日々の生活で 感じます
主の御降誕は何よりの喜びです.皆さまとともに 心から祝います.
「良い実から 良い樹だと わかる」と 聖書は 教えています.準備に数年をかけた シノドスの 実りによって,司祭が LGBT カップルを祝福をする光景が インターネットでも よく見うけられるようになりました.シノドスは良い樹です.これからも その良い実りの果実を 永く いただけるでしょう.ひとつの樹から幾種もの多様な実を分かち合うことができると思うと,その喜びを わたしは 御降誕の喜びのように 感じます.
次に分かち合いたい喜びは,FtM の トランスジェンダーの方と 教会で 出会い,わたしが 彼の受洗のために 彼に同伴して 彼の代父になるよう,彼から頼まれたことです.わたしは,信仰を学ぶ初期から 堅信までの 2 年間 彼に同伴すると 約束しました.彼は,入門講座に初めて参加したときに,悲しい気持ちになったそうです.講座が終わると,参加者は 皆 互いに声を掛け合うこともなく,目礼すらせず,すぐに帰っていきました.彼は,自分はひとりぼっちになったと感じた と わたしに 素直に 打ち明けてくれました.
教会に居場所がない,教会で友だちができない,教会でカトリック的な生き方の喜びを共有できない 等の 問題 — コミュニティ不在の問題 — が,信仰を学び始める初期から 悪い影響を 及ぼしています.残念です.
「寂しい夜」と聖木曜日を呼びます.弟子たちは 主から 離反しました.入門講座での寂しさは 聖木曜日の寂しさに繋がります.
しかし,彼が,そのとき感じた寂しさを 捨て去らずに 誰かと分かち合うために 心の中に置いていて,そして,私がそれを分かち合う友になれたことに,私は 喜びを感じました.そして,その嬉しさを 彼に伝えました.すると,彼は,分かち合う人がいると実感できて,自分はもうひとりではないと感じ,ともに嬉しくなった,と言ってくれました.わたしたちは,ひとつのことで 喜びを ともに感じて,その喜びを源にして 関係が始まる,と理解し合いました.
入門講座講師のシスターが「主 イエスの 御傷のなかに入って,すべてをいただきましょう」と 彼に言いました.そのとき,彼は「御傷」を まったく 体感することができず,心が 全然 動きませんでした.そこで,彼は 私に「どういう気持になるのですか?」と尋ねました;私は 彼に「御降誕で 両親に抱かれる暖かさも 御傷に憩う喜びの体感のひとつです」と説明しましたら,彼は 一例としての実感を感ずることができました.
暖かさを感じたら — 何も理由もなくても 暖かさを感じられたら —,それは 恵みです.わたしは,神のことを「すべてをあたたかくする あたたかい方」と 言い換えます.ほかにも,たとえば「すべてを静かにする 静かな方」と言うこともできます.
御降誕のプレゼビオに感じる暖かさは 神からの恵みです.私は かつて クリスマスから御復活までの毎日の祈りで,プレゼピオの風景を思い描いてから祈る という祈り方を 続けました.とても豊かでした.
御復活から次の御降誕までの期間は,御受難から御復活までの風景を 一ヶ月のうちに 祈り,それを八ヶ月間ほど 繰り返しました.
イメージを思い起こしてから祈るのは,とても豊かな実りです.それは,良い実から良い樹とわかる摂理の 現れです.
皆さまが 良い実と良い樹を体感することができすように と 心から祈り続けます.
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主の御降誕 おめでとうございます
わたしたちの救い主が 生まれました.彼と 彼の両親 マリアとヨセフ および 父なる神に 感謝と讃美を捧げましょう!
LGBTQ カトリック信者の観点から 2023年をふりかえってみると,年明け早々 目に飛び込んできたのが,谷口幸紀神父の LGBTQ に対する — 特に transgender の人々に対する — 差別的な言説の問題でした.それに対しては,『LGBT と キリスト教 — 20人のストーリー』の編集を担当した 市川 真紀 氏をはじめ,多くの人々が 抗議と批判の声を あげました.わたしも 批判を書きました(谷口幸紀神父の『「LGBT と キリスト教 — 20人のストーリー」を読んで』を 読んで;谷口幸紀神父の〈LGBTQ に対する〉侮辱的な言説を いまだに擁護する『福音と社会』誌 326 号の「釈明」を読んで).『福音と社会』誌の編集者たちは 一応 謝罪しましたが,当の谷口幸紀神父は まったく反省してはいません.しかし,彼は,旧 高松教区において Neocatechumenal Way の Redemptoris Mater 神学院を卒業した司祭たちが惹き起こした 大混乱の責任を取らされて,日本では表立った活動をすることはできない立場にありますから,我々としては いつまでも彼に構い続けてあげるには及ばないでしょう.
谷口幸紀神父の問題は,しかし,望外の僥倖をもたらしてくれました.日本 カトリック 正義と平和 協議会が,2月13日付で,谷口幸紀神父に対する批判とともに,カトリック教会が 長年にわたって おこなってきた LGBTQ の人々に対する差別を反省する 声明を 発表してくれたのです.これは,日本のカトリック教会の歴史のなかで 実に 画期的なことです.
おりしも,6月に発表された Synod on Synodality の 準備文書 Instrumentum laboris には “LGBTQ+” という語が 二箇所で 用いられていました.以上のことから,わたしたちは,カトリック教会が その全体において LGBTQ の人々に対する 従来の断罪的な姿勢を改めるであろうことを,期待することができるでしょう.実際,10月におこなわれた シノドスの総会の終りに採択された 総報告書においては LGBTQ に関する言及は見出されませんでしたが,多数の参加者が LGBTQ の人々のことを話題にした と 報ぜられています.2024年 10月におこなわれる 二回めの総会 および それを受けて 2025年の春ころに発表されるだろう Papa Francesco の 使徒的勧告において LGBTQ の人々のことが どのように論ぜられるかに,注目しましょう.
聖イグナチオ教会では,10月01日 日曜日の 18:00 の ミサが,シノドスの成功を祈る意向において 献げられました.その際,イェズス会社会司牧センターの Vicente Bonet 神父さまは,カトリック教会から差別され,排除されてきた人々の存在に言及し,また,共同祈願では おそらく 聖イグナチオ教会の歴史において 初めて LGBTQ の人々のことが言及され,彼らに対する差別と排除が,ほかのカテゴリーの人々に対する差別と排除とともに,カトリック教会から解消されるよう,祈りが献げられました.
そして,降誕祭の間近,12月18日付で発表されたのが,「教皇が 同性カップルの祝福を 許可した!」という見出しのもとに報ぜられて,大きなセンセーションを惹き起こした 教理省の布告 Fiducia supplicans[祝福を懇願する信頼]です(そこにおいて論ぜられているのは,同性カップルに対する祝福の問題だけでなく,離婚後 結婚無効宣言を受けないまま 再婚した人に対する祝福の問題も取り上げられているのですが).
司祭が同性どうしのカップルに祝福を与えてよいかどうかの問題が 初めて 主題的に論ぜられたのは,2021年02月22日付で 教理省の長官 Luis Ladaria Ferrer 枢機卿(当時)が 発表した Responsum ad dubium[疑問への回答]および それに付属する注釈記事においてでした.その際の答えは「否」でした.それを受けて,ドイツの Franz-Josef Overbeck エッセン司教は 早速 批判を公表し,同年05月には ドイツ国内の 100 以上の小教区において 司祭たちが多数の同性カップルを祝福しました.2022年03月には ミュンヘン大司教 Reinhard Marx 枢機卿が ミュンヘンの LGBTQ カトリック信者の共同体のためのミサのなかで カトリック教会による LGBTQ に対する差別について 謝罪しました.さらに,2022年09月20日,ベルギーのフラマン語圏の司教団は 同性カップルの祝福を公認する 声明を 発表しました.
おそらく,そのようなポジティヴな動きに危機感を抱いて,保守的な枢機卿の五人組が 2023年07月に Papa Francesco に対して 五つの Dubia — それらのうち 第 2 のものが 同性カップルの祝福にかかわる 疑問です — を 提起しました.それらの Dubia と それに対する Papa Francesco の回答は,2023年10月に 公表されました(第 2 の疑問に対する Papa Francesco の回答のみ 邦訳してあります).
そして,それを踏まえたうえで 作成されたのが 今回の布告 Fiducia supplicans です.Papa Francesco にせよ,Fernández 枢機卿 にせよ「カトリック教会の観点においては 同性カップルの関係は結婚ではない」と あまりに強調しているのを読むと かえって悲しくなりもしますが,ともあれ,司祭は 同性カップルを祝福することができる という ポジティヴなメッセージは,各国の LGBTQ カトリック信者のグループから 歓迎され,わたしたちにとって 喜ばしいクリスマスプレゼントとなりました.
カトリック教会全体を見ると,今年は 何といっても Synod on Synodality の 第一回総会の年です.そこに参加した 菊地 功 東京大司教さまが「参加報告」において 今回の総会において重要な方法論となった Spiritual conversation[皆が ともに 聖なる息吹のことばを聴き取るために 他者のことばに耳を傾けることによって 進行してゆく 会話,対話]について,とてもだいじなことを おっしゃっています:
丸テーブルでの Spiritual conversation に何度も参加して 気がついたのは,繰り返すうちに,想像もしなかった結論が その小グループから発表されていったことである.事前にはまったく想像もつかない内容が,小グループのコンセンサスとして発表されていくので,最終文書のドラフトは,最後の週が始まるまで 完成しなかった.
Spiritual conversation には,ほとんどすべての参加者が 実際に その場で 参加し,実際に[他者のことばと 聖なる息吹のことばに]耳を傾ける〈忍耐のうちに過ごした〉時間であった.さらには,その Spiritual conversation は,教会の一部の声[高位聖職者たちの声]だけではなく,[しかして]まだ十分ではないものの あらゆる人を[女性も 若者も 一般信徒も ヒラの司祭も]平等に招き入れた 小共同体で なされた.
シノドス的教会とは,どこに進むのか あらかじめ計画を定めることが難しい 教会である.
シノドス的教会とは,忍耐を必要とし,じっくりと時間をかける手間を惜しまない 教会である.
シノドス的教会とは,それを構成するすべての人が平等に発言し 識別に参加する〈ひとつのキリストの体としての〉教会である.
その意味で,今回のシノドスは,何かを決める会議ではなく,聖霊[聖なる息吹]による導きを共同識別する術[すべ]を身につける シノドスであった.何かが決まったり決まらなかったりすることに一喜一憂せず,このプロセスを具体的に生きることの重要性を 理解したい.
聖書やカテキズムの字面が絶対的なものではなく,しかして,決定的なのは 聖なる息吹のことばである — それは,わたしたちの信仰生活にとって 根本的に重要なことです.
最後に,今年 最も心に残った言葉のひとつを 分かち合いたいと思います.12月17日の LGBTQ みんなのミサを司式してくださった Padre Vicente Bonet は,説教のなかで,2013年03月に教皇に着座してから まだ 5ヶ月ほどしかたっていない Papa Francesco に対して インタヴューをおこなった Civiltà Cattolica 誌の 編集長 Padre Antonio Spadaro SJ(当時)の 不意の問い « Chi è Jorge Mario Bergoglio ? »[Jorge Mario Bergoglio とは 誰か?]に対して こう答えました:「わたしは,主から〈慈しみを以て〉まなざされた 罪人である」.そのインタヴューのその一節を読んでみましょう:
わたし (Antonio Spadaro) は,質問を用意してあったが,あらかじめ定めてあったインタヴュー案に則らないことにした;そして,若干 藪から棒に 彼に こう問う:「Jorge Mario Bergoglio とは 誰か?」Papa は,沈黙のうちに わたしを見つめた.わたしは 彼に「それは あなたに問うてもよい問いですか?」と問う.彼は その問いを受けつけたことを示すために うなづき,わたしに こう言う:「何が最も適切な定義であるのか わたしは知らない… わたしは ひとりの罪人である.それが 最も適切な定義である.それは,文学のジャンルに属するような[比喩的な]言い回しではない.[文字どおりに]わたしは ひとりの罪人である」.Papa は 省察し続ける — 没頭して — そのような問いを予期していなかったのように,さらなる省察へ強制されたかのように.「いかにも,わたしは 多分 こう言うことができるだろう:わたしは 若干 ずる賢い;わたしは 行動することができる;しかし,わたしは また 若干 素朴でもある ということも 真である.いかにも.だが,最良の総合 — 最も内奥から浮かんでくる総合,最も真であると感ぜられる総合 — は,まさに これである:わたしは,主にまなざされた 罪人である」.そして,彼は 繰り返す:「わたしは 主にまなざされた者である.わたしの紋章の銘 « Miserando atque eligendo »[憐れみ,そして 選んだ]を わたしは いつも わたしにとって とても真なるものと 感じている」.
Papa Francesco の 紋章の銘は 聖 Beda Venerabilis (ca 673 – 735) の 説教から 取られている;彼は,マタイの召命に関する福音書のエピソード (Mt 9,09) をコメントしつつ,こう書いている : « Vidit ergo Jesus publicanum et quia miserando atque eligendo vidit, ait illi Sequere me »[かくして,イェスは,徴税人を 見た;そして,慈しみつつ[憐れみつつ]かつ 選びつつ 彼を見たので,彼に言った:『わたしに 付き従いなさい』」.そして,彼 (Papa Francesco) は 付け足す:「わたしには,ラテン語の gerundium « miserando » は イタリア語でも スペイン語でも 翻訳不可能であるように 思われる.わたしは それを もうひとつのほかの gerundium — ただし それは実際には存在しない — を以て 翻訳したくなる : misericordiando」.
Papa Francesco は,彼の省察を 続ける;そして わたしに 飛躍したことを 言う — その飛躍の意味は わたしには すぐには わらかない —:「わたしは ローマを よく識らない;わずかなことしか 識らない;わたしが識っているもののうちには Santa Maria Maggiore[大聖堂]が ある;わたしは いつも そこへ行っていた」.わたしは 笑って,彼に言う:「わたしたちは 皆 とてもよく わかります,Santo Padre !」「そうとも — と Papa は 続ける —,わたしは Santa Maria Maggiore を識っており,San Pietro[大聖堂]を識っている.だが[以前]わたしは,ローマに来ると,いつも via della Scrofa に宿をとっていた.そこから,わたしは しばしば San Luigi dei Francesi 教会を 訪れた;そして,そこにある Caravaggio の「聖マタイの召命」の絵を 見に行ったものだ」.何を Papa は わたしに言いたいのかを,わたしは わかり始める.
「イェスの指は こんなふうに向けられている — マタイへ.わたしも あのようである;わたしは 自分を あのように 感ずる — あのマタイのように」.そして,そのとき,Papa の口調は 決然となる — あたかも〈探し求めていた自己像を〉捕らえたかのように:「わたしを感動させるのは,あのマタイの所作である.彼は,彼の金[かね]を摑む — こう言うかのように:『いいえ,わたしではありません[わたしを選ばないでください;わたしを指ささないでください]! いいえ,この金[現世の利益と快楽]は わたしのものです!』それが わたしだ:主が彼のまなざしを向けたところの 罪人.そして,これが〈わたしが わたしの《教皇への》選出を 受けいれるかどうかを 問われたときに〉わたしが言ったことだ — そして 彼は こう つぶやく — : Peccator sum, sed super misericordia et infinita patientia Domini nostri Jesu Christi confisus et in spiritu penitentiae accepto[わたしは 罪人である;だが〈我らの主 イェス キリストの 慈しみ[憐れみ]と 無限の忍耐に 信頼して〉かつ〈悔悛の精神において〉わたしは 受けいれる]」.
主から〈慈しみ[憐れみ]を以て〉まなざされた 罪人 — とても感動的な表現ですね! そして,それは,Papa Francesco だけのことではなく,しかして,わたしたちは 誰もが そのような存在なのです.わたしたちは 誰もが 罪人ですが,しかし,そのような罪人として,イェスから 呼ばれたのです — 慈しみ[憐れみ]を以て まなざされ,そして,各人の召命のために 選ばれて.そのことを思い起こさせてくださった Papa Francesco と Padre Vicente Bonet に 感謝します.
改めて,主の御降誕 おめでとうございます! 主の愛が いつも わたしたちを 支え続けてくれますように!