2023-12-27

LGBTQ みんなの ミサの 世話人からの 降誕祭のメッセージ

Antoni Viladomat (1678-1755)
Aparició de la Sagrada Família a sant Francesc en el pessebre de Greccio
アシジの聖フランチェスコに対して 聖家族が Greccio の プレゼピオに 現れる

LGBTQ みんなの ミサの 世話人からの 降誕祭のメッセージ



みんなのために居場所のある教会を願う LGBTQ みんなの ミサの 世話人 ペトロ 宮野 亨 と ルカ 小笠原 晋也 から 降誕祭の喜びのメッセージを お伝えします.


御降誕の喜びを 日々の生活で 感じます



主の御降誕は何よりの喜びです.皆さまとともに 心から祝います.

「良い実から 良い樹だと わかる」と 聖書は 教えています.準備に数年をかけた シノドスの 実りによって,司祭が LGBT カップルを祝福をする光景が インターネットでも よく見うけられるようになりました.シノドスは良い樹です.これからも その良い実りの果実を 永く いただけるでしょう.ひとつの樹から幾種もの多様な実を分かち合うことができると思うと,その喜びを わたしは 御降誕の喜びのように 感じます.

次に分かち合いたい喜びは,FtM の トランスジェンダーの方と 教会で 出会い,わたしが 彼の受洗のために 彼に同伴して 彼の代父になるよう,彼から頼まれたことです.わたしは,信仰を学ぶ初期から 堅信までの 2 年間 彼に同伴すると 約束しました.彼は,入門講座に初めて参加したときに,悲しい気持ちになったそうです.講座が終わると,参加者は 皆 互いに声を掛け合うこともなく,目礼すらせず,すぐに帰っていきました.彼は,自分はひとりぼっちになったと感じた と わたしに 素直に 打ち明けてくれました.

教会に居場所がない,教会で友だちができない,教会でカトリック的な生き方の喜びを共有できない 等の 問題 — コミュニティ不在の問題 — が,信仰を学び始める初期から 悪い影響を 及ぼしています.残念です.

「寂しい夜」と聖木曜日を呼びます.弟子たちは 主から 離反しました.入門講座での寂しさは 聖木曜日の寂しさに繋がります.

しかし,彼が,そのとき感じた寂しさを 捨て去らずに 誰かと分かち合うために 心の中に置いていて,そして,私がそれを分かち合う友になれたことに,私は 喜びを感じました.そして,その嬉しさを 彼に伝えました.すると,彼は,分かち合う人がいると実感できて,自分はもうひとりではないと感じ,ともに嬉しくなった,と言ってくれました.わたしたちは,ひとつのことで 喜びを ともに感じて,その喜びを源にして 関係が始まる,と理解し合いました.

入門講座講師のシスターが「主 イエスの 御傷のなかに入って,すべてをいただきましょう」と 彼に言いました.そのとき,彼は「御傷」を まったく 体感することができず,心が 全然 動きませんでした.そこで,彼は 私に「どういう気持になるのですか?」と尋ねました;私は 彼に「御降誕で 両親に抱かれる暖かさも 御傷に憩う喜びの体感のひとつです」と説明しましたら,彼は 一例としての実感を感ずることができました.

暖かさを感じたら — 何も理由もなくても 暖かさを感じられたら —,それは 恵みです.わたしは,神のことを「すべてをあたたかくする あたたかい方」と 言い換えます.ほかにも,たとえば「すべてを静かにする 静かな方」と言うこともできます.

御降誕のプレゼビオに感じる暖かさは 神からの恵みです.私は かつて クリスマスから御復活までの毎日の祈りで,プレゼピオの風景を思い描いてから祈る という祈り方を 続けました.とても豊かでした.

御復活から次の御降誕までの期間は,御受難から御復活までの風景を 一ヶ月のうちに 祈り,それを八ヶ月間ほど 繰り返しました.

イメージを思い起こしてから祈るのは,とても豊かな実りです.それは,良い実から良い樹とわかる摂理の 現れです.

皆さまが 良い実と良い樹を体感することができすように と 心から祈り続けます.


******

主の御降誕 おめでとうございます



わたしたちの救い主が 生まれました.彼と 彼の両親 マリアとヨセフ および 父なる神に 感謝と讃美を捧げましょう!

LGBTQ カトリック信者の観点から 2023年をふりかえってみると,年明け早々 目に飛び込んできたのが,谷口幸紀神父の LGBTQ に対する — 特に transgender の人々に対する — 差別的な言説の問題でした.それに対しては,『LGBT と キリスト教 — 20人のストーリー』の編集を担当した 市川 真紀 氏をはじめ,多くの人々が 抗議と批判の声を あげました.わたしも 批判を書きました(谷口幸紀神父の『「LGBT と キリスト教 — 20人のストーリー」を読んで』を 読んで谷口幸紀神父の〈LGBTQ に対する〉侮辱的な言説を いまだに擁護する『福音と社会』誌 326 号の「釈明」を読んで).『福音と社会』誌の編集者たちは 一応 謝罪しましたが,当の谷口幸紀神父は まったく反省してはいません.しかし,彼は,旧 高松教区において Neocatechumenal Way の Redemptoris Mater 神学院を卒業した司祭たちが惹き起こした 大混乱の責任を取らされて,日本では表立った活動をすることはできない立場にありますから,我々としては いつまでも彼に構い続けてあげるには及ばないでしょう.

谷口幸紀神父の問題は,しかし,望外の僥倖をもたらしてくれました.日本 カトリック 正義と平和 協議会が,2月13日付で,谷口幸紀神父に対する批判とともに,カトリック教会が 長年にわたって おこなってきた LGBTQ の人々に対する差別を反省する 声明を 発表してくれたのです.これは,日本のカトリック教会の歴史のなかで 実に 画期的なことです.

おりしも,6月に発表された Synod on Synodality の 準備文書 Instrumentum laboris には “LGBTQ+” という語が 二箇所で 用いられていました.以上のことから,わたしたちは,カトリック教会が その全体において LGBTQ の人々に対する 従来の断罪的な姿勢を改めるであろうことを,期待することができるでしょう.実際,10月におこなわれた シノドスの総会の終りに採択された 総報告書においては LGBTQ に関する言及は見出されませんでしたが,多数の参加者が LGBTQ の人々のことを話題にした と 報ぜられています.2024年 10月におこなわれる 二回めの総会 および それを受けて 2025年の春ころに発表されるだろう Papa Francesco の 使徒的勧告において LGBTQ の人々のことが どのように論ぜられるかに,注目しましょう.

聖イグナチオ教会では,10月01日 日曜日の 18:00 の ミサが,シノドスの成功を祈る意向において 献げられました.その際,イェズス会社会司牧センターの Vicente Bonet 神父さまは,カトリック教会から差別され,排除されてきた人々の存在に言及し,また,共同祈願では おそらく 聖イグナチオ教会の歴史において 初めて LGBTQ の人々のことが言及され,彼らに対する差別と排除が,ほかのカテゴリーの人々に対する差別と排除とともに,カトリック教会から解消されるよう,祈りが献げられました.

そして,降誕祭の間近,12月18日付で発表されたのが,「教皇が 同性カップルの祝福を 許可した!」という見出しのもとに報ぜられて,大きなセンセーションを惹き起こした 教理省の布告 Fiducia supplicans[祝福を懇願する信頼]です(そこにおいて論ぜられているのは,同性カップルに対する祝福の問題だけでなく,離婚後 結婚無効宣言を受けないまま 再婚した人に対する祝福の問題も取り上げられているのですが).

司祭が同性どうしのカップルに祝福を与えてよいかどうかの問題が 初めて 主題的に論ぜられたのは,2021年02月22日付で 教理省の長官 Luis Ladaria Ferrer 枢機卿(当時)が 発表した Responsum ad dubium[疑問への回答]および それに付属する注釈記事においてでした.その際の答えは「否」でした.それを受けて,ドイツの Franz-Josef Overbeck エッセン司教は 早速 批判を公表し,同年05月には ドイツ国内の 100 以上の小教区において 司祭たちが多数の同性カップルを祝福しました.2022年03月には ミュンヘン大司教 Reinhard Marx 枢機卿が ミュンヘンの LGBTQ カトリック信者の共同体のためのミサのなかで カトリック教会による LGBTQ に対する差別について 謝罪しました.さらに,2022年09月20日,ベルギーのフラマン語圏の司教団は 同性カップルの祝福を公認する 声明を 発表しました.

おそらく,そのようなポジティヴな動きに危機感を抱いて,保守的な枢機卿の五人組が 2023年07月に Papa Francesco に対して 五つの Dubia — それらのうち 第 2 のものが 同性カップルの祝福にかかわる 疑問です — を 提起しました.それらの Dubia と それに対する Papa Francesco の回答は,2023年10月に 公表されました(第 2 の疑問に対する Papa Francesco の回答のみ 邦訳してあります).

そして,それを踏まえたうえで 作成されたのが 今回の布告 Fiducia supplicans です.Papa Francesco にせよ,Fernández 枢機卿 にせよ「カトリック教会の観点においては 同性カップルの関係は結婚ではない」と あまりに強調しているのを読むと かえって悲しくなりもしますが,ともあれ,司祭は 同性カップルを祝福することができる という ポジティヴなメッセージは,各国の LGBTQ カトリック信者のグループから 歓迎され,わたしたちにとって 喜ばしいクリスマスプレゼントとなりました.

カトリック教会全体を見ると,今年は 何といっても Synod on Synodality の 第一回総会の年です.そこに参加した 菊地 功 東京大司教さまが「参加報告」において 今回の総会において重要な方法論となった Spiritual conversation[皆が ともに 聖なる息吹のことばを聴き取るために 他者のことばに耳を傾けることによって 進行してゆく 会話,対話]について,とてもだいじなことを おっしゃっています:

丸テーブルでの Spiritual conversation に何度も参加して 気がついたのは,繰り返すうちに,想像もしなかった結論が その小グループから発表されていったことである.事前にはまったく想像もつかない内容が,小グループのコンセンサスとして発表されていくので,最終文書のドラフトは,最後の週が始まるまで 完成しなかった.

Spiritual conversation には,ほとんどすべての参加者が 実際に その場で 参加し,実際に[他者のことばと 聖なる息吹のことばに]耳を傾ける〈忍耐のうちに過ごした〉時間であった.さらには,その Spiritual conversation は,教会の一部の声[高位聖職者たちの声]だけではなく,[しかして]まだ十分ではないものの あらゆる人を[女性も 若者も 一般信徒も ヒラの司祭も]平等に招き入れた 小共同体で なされた.

シノドス的教会とは,どこに進むのか あらかじめ計画を定めることが難しい 教会である.

シノドス的教会とは,忍耐を必要とし,じっくりと時間をかける手間を惜しまない 教会である.

シノドス的教会とは,それを構成するすべての人が平等に発言し 識別に参加する〈ひとつのキリストの体としての〉教会である.

その意味で,今回のシノドスは,何かを決める会議ではなく,聖霊[聖なる息吹]による導きを共同識別する術[すべ]を身につける シノドスであった.何かが決まったり決まらなかったりすることに一喜一憂せず,このプロセスを具体的に生きることの重要性を 理解したい.


聖なる息吹のことばを聴き取るために 他者のことばに耳を傾けること — それが 今後のカトリック教会にとって ひとつの決定的な方法論です.たとえば,聖書の一節が 誰かを — たとえば gay の人々を — 傷つけるとしましょう.聖書が神のことばを伝えているならば,そのようなことが — 神が 誰かを救うのではなく,傷つけるというようなことが — あってよいでしょうか? もし そのようなことが起こるとするなら,それは,わたしたちが 聖書の読み方において 誤っている — または 不十分にしか 神のことばを聴き取れていない — ということです.そのようなときには,聖なる息吹のことばを改めて聴くために 聖なる息吹に祈りつつ かつ 他者(この場合は,聖書によって傷つけられた gay の人々をも含めて)のことばに耳を傾けつつ,聖書の文面を 読み直してみましょう.聖書の字面は絶対的なものではないのです.決定的なのは 聖なる息吹が我々に語りかけてくることです(勿論,それは「幻聴」ではありません;何らかの inspiration として わたしたちに与えられる ことばです).

聖書やカテキズムの字面が絶対的なものではなく,しかして,決定的なのは 聖なる息吹のことばである — それは,わたしたちの信仰生活にとって 根本的に重要なことです.

最後に,今年 最も心に残った言葉のひとつを 分かち合いたいと思います.12月17日の LGBTQ みんなのミサを司式してくださった Padre Vicente Bonet は,説教のなかで,2013年03月に教皇に着座してから まだ 5ヶ月ほどしかたっていない Papa Francesco に対して インタヴューをおこなった Civiltà Cattolica 誌の 編集長 Padre Antonio Spadaro SJ(当時)の 不意の問い « Chi è Jorge Mario Bergoglio ? »[Jorge Mario Bergoglio とは 誰か?]に対して こう答えました:「わたしは,主から〈慈しみを以て〉まなざされた 罪人である」.そのインタヴューのその一節を読んでみましょう:

わたし (Antonio Spadaro) は,質問を用意してあったが,あらかじめ定めてあったインタヴュー案に則らないことにした;そして,若干 藪から棒に 彼に こう問う:「Jorge Mario Bergoglio とは 誰か?」Papa は,沈黙のうちに わたしを見つめた.わたしは 彼に「それは あなたに問うてもよい問いですか?」と問う.彼は その問いを受けつけたことを示すために うなづき,わたしに こう言う:「何が最も適切な定義であるのか わたしは知らない… わたしは ひとりの罪人である.それが 最も適切な定義である.それは,文学のジャンルに属するような[比喩的な]言い回しではない.[文字どおりに]わたしは ひとりの罪人である」.Papa は 省察し続ける — 没頭して — そのような問いを予期していなかったのように,さらなる省察へ強制されたかのように.「いかにも,わたしは 多分 こう言うことができるだろう:わたしは 若干 ずる賢い;わたしは 行動することができる;しかし,わたしは また 若干 素朴でもある ということも 真である.いかにも.だが,最良の総合 — 最も内奥から浮かんでくる総合,最も真であると感ぜられる総合 — は,まさに これである:わたしは,主にまなざされた 罪人である」.そして,彼は 繰り返す:「わたしは 主にまなざされた者である.わたしの紋章の銘 « Miserando atque eligendo »[憐れみ,そして 選んだ]を わたしは いつも わたしにとって とても真なるものと 感じている」.

Papa Francesco の 紋章の銘聖 Beda Venerabilis (ca 673 – 735) の 説教から 取られている;彼は,マタイの召命に関する福音書のエピソード (Mt 9,09) をコメントしつつ,こう書いている : « Vidit ergo Jesus publicanum et quia miserando atque eligendo vidit, ait illi Sequere me »[かくして,イェスは,徴税人を 見た;そして,慈しみつつ[憐れみつつ]かつ 選びつつ 彼を見たので,彼に言った:『わたしに 付き従いなさい』」.そして,彼 (Papa Francesco) は 付け足す:「わたしには,ラテン語の gerundium « miserando » は イタリア語でも スペイン語でも 翻訳不可能であるように 思われる.わたしは それを もうひとつのほかの gerundium — ただし それは実際には存在しない — を以て 翻訳したくなる : misericordiando」.

Papa Francesco は,彼の省察を 続ける;そして わたしに 飛躍したことを 言う — その飛躍の意味は わたしには すぐには わらかない —:「わたしは ローマを よく識らない;わずかなことしか 識らない;わたしが識っているもののうちには Santa Maria Maggiore[大聖堂]が ある;わたしは いつも そこへ行っていた」.わたしは 笑って,彼に言う:「わたしたちは 皆 とてもよく わかります,Santo Padre !」「そうとも — と Papa は 続ける —,わたしは Santa Maria Maggiore を識っており,San Pietro[大聖堂]を識っている.だが[以前]わたしは,ローマに来ると,いつも via della Scrofa に宿をとっていた.そこから,わたしは しばしば San Luigi dei Francesi 教会を 訪れた;そして,そこにある Caravaggio の「聖マタイの召命」の絵を 見に行ったものだ」.何を Papa は わたしに言いたいのかを,わたしは わかり始める.

「イェスの指は こんなふうに向けられている — マタイへ.わたしも あのようである;わたしは 自分を あのように 感ずる — あのマタイのように」.そして,そのとき,Papa の口調は 決然となる — あたかも〈探し求めていた自己像を〉捕らえたかのように:「わたしを感動させるのは,あのマタイの所作である.彼は,彼の金[かね]を摑む — こう言うかのように:『いいえ,わたしではありません[わたしを選ばないでください;わたしを指ささないでください]! いいえ,この金[現世の利益と快楽]は わたしのものです!』それが わたしだ:主が彼のまなざしを向けたところの 罪人.そして,これが〈わたしが わたしの《教皇への》選出を 受けいれるかどうかを 問われたときに〉わたしが言ったことだ — そして 彼は こう つぶやく  : Peccator sum, sed super misericordia et infinita patientia Domini nostri Jesu Christi confisus et in spiritu penitentiae accepto[わたしは 罪人である;だが〈我らの主 イェス キリストの 慈しみ[憐れみ]と 無限の忍耐に 信頼して〉かつ〈悔悛の精神において〉わたしは 受けいれる]」.

主から〈慈しみ[憐れみ]を以て〉まなざされた 罪人 — とても感動的な表現ですね! そして,それは,Papa Francesco だけのことではなく,しかして,わたしたちは 誰もが そのような存在なのです.わたしたちは 誰もが 罪人ですが,しかし,そのような罪人として,イェスから 呼ばれたのです — 慈しみ[憐れみ]を以て まなざされ,そして,各人の召命のために 選ばれて.そのことを思い起こさせてくださった Papa Francesco と Padre Vicente Bonet に 感謝します.

改めて,主の御降誕 おめでとうございます! 主の愛が いつも わたしたちを 支え続けてくれますように!

2023-12-25

祝福の司牧的意味に関する 教理省の 2023年12月18日付の 布告 Fiducia supplicans[祝福を懇願する信頼]

同性どうしのカップルを祝福する Padre Juan Masiá SJ
2019年04月29日,東京レインボープライドにて

祝福の司牧的意味に関する 教理省の 20231218日付の 布告 Fiducia supplicans[祝福を懇願する信頼]


教皇庁の教理省は,その長官 Victor Manuel Fernández 枢機卿の名において,および,Papa Francesco  承認のもとに,20231218日に 布告 Fiducia supplicans[祝福を懇願する信頼]を発表した.それは,またたくまに,世界中 (The Guardian, NYT) においてのみならず,驚くべきことに〈キリスト教そのものに対しては ほぼ全面的に 無関心である〉日本社会においてさえも 一般紙が「ローマ教皇が 同性カップルの祝福を 許可」という見出しのもとに それを報ずるほどに,センセーションを 惹起した.そこで,その〈教理省の〉布告 Fiducia supplicans の全文の邦訳を 以下に掲示する:


提示

この布告は〈過去の幾年間かに および より最近に 教理省に委ねられた〉さまざまな問いを 考慮に入れている.その作成のためには,慣例どおり,幾人かの専門家への諮問がおこなわれ,作業過程は たっぷり時間をかけて 遂行され,そして,草案は〈教理省の教義部門の会議において〉議論された.その文書作成の期間中,聖父[il Santo Padre : 教皇]との議論も 欠かさずに おこなわれた.最後に,この布告は 聖父に委ねられ,彼は それを 彼の署名を以て 承認した.

[教理省が]この文書において論ぜられている問題を 検討している間に,幾人かの枢機卿の Dubia[疑問]に対する 聖父の回答 発表された;その回答は〈以下に提示されている考察のために重要な解明を〉もたらしてくれた;そして,それ[その回答]は〈教理省の作業のために決定的な要素を〉成している.「Curia romana[教皇庁を構成する 諸省など]は なかんづく ペトロの後継者[教皇]に奉仕する道具である」(使徒的憲章 Praedicate Evangelium[あなたたちは 福音を 宣べ伝えなさい]II, 1)のであれば,我々の仕事は,教会の永続的な教義の理解を助けねばならないだけでなく,聖父の教えの受容をも助けねばならない.

上に言及した 聖父の〈ふたりの枢機卿の Dubia に対する〉回答におけるのと同様に,この布告は,結婚に関する 伝統的な〈教会の〉教義のうえに しっかり とどまっており,[結婚の秘跡を授ける典礼儀式との]混同を生ぜしめ得るような 典礼儀式 ないし 典礼儀式に類似する祝福は 如何なる類型のものも 許可していない.しかして,この文書の価値は このことに存する:祝福の司牧的な意義に対して 特異的かつ革新的な貢献 それは〈祝福の《典礼的視野に密接に連結する》古典的な内包を 拡大し,豊かにすることを〉可能にする を提供すること.この〈Papa Francesco 司牧観に基づく〉神学的考察は〈教会の Magistero[教導の権威]および 公式文書のなかで 祝福について述べられてきたことに対して〉まことの進展を 包含している.そのことは〈このテクストが「布告」(Dichiarazione) という類型を取っていることの〉理由を 与えている.

そして,まさに そのような文脈においてこそ,イレギュラーな状況にあるカップル[夫婦のうち一方または両方が,前配偶者と民法上離婚した後 教会から結婚無効宣言を受けないまま 新たな配偶者と民法上結婚している場合]および 同性どうしのカップルを 祝福する ただし,彼らの現状を公式に有効化することも,結婚に関する教会の永続的な教えを 如何なるしかたにおいてであれ 変更することも なく 可能性は 理解され得る.

また,現布告は〈かくも多くの《主の慈しみに対する深い信頼の》所作を以て 主を崇め,かつ,その態度において 母なる教会に常に祝福を求めにくる 忠実な《神の》民に対する〉敬意でもありたい 欲している.

教理省長官 Víctor Manuel FERNÁNDEZ 枢機卿


導入


1. 忠実な〈神の〉民の〈[祝福を]懇願する〉信頼は,キリストの心から迸り出る祝福の賜を〈彼[キリスト]の教会をとおして〉受ける.Papa Francesco が[我々に]正確に思い出させているように,「神の 大いなる祝福とは,イェス キリスト[その人]である;神の息子こそが,神の 大きな賜である.それは,全人類のための祝福である;それは,我々すべてを救済した祝福である.彼[イェス キリスト]は〈それを以て父が我々を祝福したところの〉永遠のロゴス[ことば]である;それ[イェス キリストが それであるところの ロゴス]を以て,父は 我々を 祝福した 聖パウロが言うように『我々が まだ 罪人であったときに』(Rm 5,08) ;[イェス キリストが それであるところの ロゴス とは]〈肉となり,十字架上で 我々のために[いけにえとして]献げられた〉ロゴス[である]」[1].

2. ひとつの〈そのように 大いなる かつ 慰めてくれる〉真理に 支えられつつ,教理省は〈同性どうしのカップルを祝福する 可能性に関して〉および〈旧 教理省 [i] によって 作成され 20210222日付で発表された Responsum ad dubium[疑問に対する回答]に関する《Papa Francesco 父性的かつ司牧的な 態度の 光のもとでの》新たな解明を 提供する 可能性に関して〉公式に あるいは 非公式に 提起された さまざまな問いを 考察した.

訳注 [i] 従来の Congregazione per la Dottrina della Fede の名称は,20220605日から発効した 使徒的憲章 Praedicate Evangelium[あなたたちは 福音を 宣べ伝えなさい]において,Dicastero per la Dottrina della Fede 変更された.日本語に直訳すれば,Congregazione per la Dottrina della Fede は「信仰の教義を司る会合」であり,Dicastero per la Dottrina della Fede は「信仰の教義を司る省庁」であるが,慣例的には 両者は いづれも「教理省」と翻訳されている.このテクストにおいて「旧 教理省」と呼ばれているのは Congregazione per la Dottrina della Fede のことである.

3. 上述の Responsum は〈少なからぬ かつ さまざまな 反応を〉惹起した;一方には〈その文書の明解さ および その文書の《教会の恒常的な教えとの》整合性を 喝采を以て 歓迎する〉者たちが いた;他方には〈問いに対する否定的な回答を分かち合わない〉者たち,また〈その回答を《その表現において および 付属の「注釈記事」において提示されている理由づけにおいて》十分に明解であると思わない〉者たちが いた.それら後者[Responsum に不満な者たち]に 兄弟愛を以て 対応するために,そのテーマ[同性どうしのカップルの祝福の可能性]を 再び取りあげ,そして〈教義的側面を司牧的側面と整合的にするような〉ひとつの観望を提供することが 適当である,と 思われる;なぜなら このゆえに :「あらゆる〈教義に関する〉教えは〈近しさと 愛と 証しを以ての 心の賛同を 喚起するような〉福音宣教的な態度のなかに 位置づけられねばならない」[3].


I. 結婚の秘跡における祝福


4. 聖父フランチェスコの〈ふたりの枢機卿により措定された五つの疑問のうちの第二のものに対する〉最近の回答 [4] は[祝福に関する]問いを さらに深める 特に その司牧的次元の側面において 可能性を 提供している.「結婚ではないものが結婚と認識される」事態を 避けねばならない [5]. それゆえ〈結婚の構成条件 すなわち[結婚とは]「ひとりの男と ひとりの女との《排他的な,安定的な,解消不可能な,そして,子を生む可能性へ自然的に開かれている》繋がり」[6] である それに矛盾するものとの間の 混同を 生ぜしめるかもしれない〉儀式や祈りは 認められ得ない.その確信は,カトリック教会の〈結婚に関する〉永続的な教義に 基づけられている.その文脈においてのみ,性関係は その〈自然的な,適切な,十全に人間的な〉意味を 見出す.教会の教義は,その点に関しては,確固としている.

5. それは,また,福音によって提供されている 結婚の理解でもある.それゆえ,祝福に関しては,教会は〈その確信に矛盾するかもしれない儀式 あるいは 混同を招くかもしれない儀式は いかなる類型のものであれ 避ける〉権利と義務とを有している.それは,また,旧 教理省の Responsumそこにおいては「教会は 同性どうしの間の繋がりに 祝福を与えることはできない」と 断定されている 意味でもある.

6. 次のことが強調されるべきである:まさに 結婚の秘跡の儀式の場合には,誰もが与え得る祝福がかかわっているのではなく,しかして,叙階されている聖職者のみに許された[祝福の]所作が かかわっている.その場合,叙階されている聖職者の祝福は,ひとりの男とひとりの女と 彼らは 双方の同意を以て 排他的かつ解消不可能な契約を 結ぶ 特異的な繋がりに 直接的に関わっている.そのことは,我々に〈何らかの《結婚以外の》繋がりに与えられる祝福を 結婚の秘跡に固有の儀式と 混同する 危険を〉よりいっそう明らかにする.


II. さまざまな祝福の意味


7. 上に言及された聖父の回答は,また,我々を〈祝福の意味を 拡大し,より豊かにする 努力をなすよう〉招いている.

8. 祝福は〈最も広まっており,常に進化している 準秘跡 (i sacramentali) ひとつ と〉みなされ得る.祝福は,実際,人生の出来事すべてのなかに神の現存を把握するよう 導き,そして,我々に このことを思い起こさせる:被造物を用いるときでさえ,人間は[こうするよう]招かれている 神を探し求めるよう,神を愛するよう,神に忠実に仕えるよう [7]. それがゆえに,祝福は,祝福の対象として[次のようなものを]有している:人間,礼拝や崇拝の対象,聖像,生活や労働や苦しみの場所,地の実り,人間の労働の実り,そして,創造された現実 すべて それらは[我々を]創造主へ送り返しており,そして,それらの美しさによって 創造主を ほめたたえ,讃美している.


祝福の儀式の 典礼的な意味


9. 厳密に典礼的な観点からは,祝福は このことを要請する:祝福されるもの[祝福の対象]は〈教会の教えにおいて表現されているような 神の意志に〉適っている.

10. 実際,祝福は〈信仰の効力において〉おこなわれる;そして,祝福は〈神を讃美すること および 神の民が[聖なる]息吹の恵みを受けることを〉目的としている.Rituale Romanum[ローマ儀式書]は こう説明している:「その目的がより明瞭となるために,いにしえの伝統によれば,祝福の定式は なかんづく〈神を《彼の賜のゆえに》讃美すること,彼の好意を求めること,および,世における悪の力に打ち勝つことを〉目的としている」[8]. それゆえ,教会を介して神の祝福を求める者たちは「彼らの[神の賜による]状態を〈あの信仰 それには すべてが可能である に導かれることによって〉確かなものにする」よう,かつ,「あの愛 それは 神の命令を遵守するよう 促す に」信頼するよう 招かれている [9]. それがゆえに,一方では「キリストをとおして 聖なる息吹において 神を讃美し,彼を祈求し,神に感謝する 機会は,いつも いたるところに ある」としても,他方では 留意すべきは このことである :「福音の規範と精神に矛盾しない 事象,場所,状況が かかわっている」[10]. 以上が,祝福の典礼的な理解である 祝福が教会によって公式に措定される儀式となる限りにおいて.

11. 以上のような考察にもとづきつつ,上述の 旧教理省の Responsum 注釈記事は,このことを思い起こさせている:すなわち,祝福が 適切な典礼儀式を以て ある人間関係に対して 祈求されるとき,祝福の対象は〈創造界に書き込まれ,主キリストによって十全に啓示された〉神の計画に相応し得るものでなければならない.それゆえ,教会は 常に〈結婚のなかで経験される性関係のみを〉道徳的に合法的なものと考えてきたのであれば,典礼的祝福が〈[民法上は]結婚と見なされる[が 教会法上は結婚とは呼べない]繋がり または 婚外の性行為に〉何らかのしかたで 道徳的合法性の形を提供し得るときには,教会は 典礼的祝福を授けることはできない.この言い渡しの実質は,聖父によって,彼の〈ふたりの枢機卿の疑問に対する〉回答のなかでも,繰り返し述べられている.

12. しかして,また,我々は〈祝福の意味を この観点[教会は《教会法上 非合法であるものに》祝福を与えることはできない という 観点]のみに 減ずる 危険を〉避けねばならない;なぜなら このゆえに:それは 我々を〈単純な祝福のために,秘跡を受けるために求められるのと同じ道徳的条件を要請することへ〉導くことになる.そのような危険[が生じ得るということ]は〈その[祝福に関する]視野は より拡大されるべきである ということを〉要請する.実際,このような危険が 存在する:かくも好まれており,かくも広まっている ひとつの司牧的所作が,過大な予備的道徳条件に服さねばならなくなる;そして,そのような道徳的条件[を課すること]は,コントロールの意図のもとに,神の愛の無条件な力 そこに 祝福の所作は 基づいている を隠してしまい得るだろう.

13. まさにそのような事態に関してこそ,Papa Francesco 我々に こう勧告している:「司牧的な愛を失ってはならない;それ[司牧的な愛]は,我々の決定と態度を すべて 貫いていなければならない.(…) 我々は,裁判官 否定し,拒絶し,排除することしかしない 裁判官 になることはできない」[11]. そこで,我々は 以下において〈より広い《祝福の》内包を展開することによって〉彼の提案に 応えよう.


聖書における祝福 (Le benedizioni nella Sacra Scrittura)


14. 祝福について〈相異なる観点を収集しつつ〉考察するために,我々は なかんづく 聖書の声によって啓発される必要がある.

15.「主が あなたを 祝福し,護ってくださるように.主が 彼の顔を あなたへ向けて 輝かせ[主が あなたに 微笑み],あなたのために恵みぶかくありますように.主が 彼の顔を あなたへ向けて 上げ[主が あなたに対して好意的であり],あなたのうえに平和を置いてくださるように[あなたに平和をもたらしてくださるように]」(Nb 6,24-26). 以上の「聖職者を介しての[主による]祝福」(benedizione sacerdotale, benedictio sacerdotalis) — それを 我々は 旧約のなかに 正確には 民数記のなかに 見出す は,下降的な性格を有している;なぜなら このゆえに:それは,神から人間へ下降する祝福の祈求を 表している;そして,それは 最も古い〈神による祝福の〉テクストのひとつを成している.また,聖書のページのなかに見出される 第二の類型の「祝福」(benedictio) [ii] ある;それは,地から 天へ 神にまで 上昇する.その benedire は「神を讃美する,讃える,神に感謝する 彼の慈しみと誠実さのゆえに,彼が創造した すばらしい事物のゆえに,彼の意志によって起きたことすべてのゆえに」と等価である.「わが魂よ,主を 讃えよ;わが内なるものすべてよ,彼の聖なる名を[讃えよ]![ Benedici il Signore, anima mia, quanto è in me benedica il suo santo nome ] (Ps 103,01).

訳注 [ii] ヘブライ語の動詞 בָּרַךְ ギリシャ語の動詞 εὐλογέω ラテン語の動詞 benedico も,「下降的」である場合 すなわち,主語が神であり,目的語が人間である場合 は「祝福する」と訳されるが,逆に「上昇的」である場合 すなわち,主語が人間であり,目的語が神である場合 は,「祝福する」とは訳されず,しかして「讃える,讃美する,称讃する」と訳される;つまり,どういうわけか,日本語においては「人間が神を祝福する」とは言わない.

16. 祝福 (benedire) する 神に,我々も また 讃美 (benedire) しつつ 答える.サレムの王 メルキセデクは,アブラムを祝福する (cf. Gn 14,19) ; レベッカは,イサクの妻となる直前に,彼女の家族から祝福される (cf. Gn 24,60) ;[年老いた]イサクは 彼の息子 ヤコブを 祝福する (cf. Gn 27,27) ;[彼の息子 ヨセフを 頼って エジプトに来た]ヤコブは ファラオを祝福し (cf. Gn 47,10), 彼の孫 エフライムとマナセを祝福し (cf. Gn 48,20), 彼の 12 人の 息子たち すべてを 祝福する (cf. Gn 19,28). モーセとアーロンは 共同体を祝福する (cf. Ex 39,43 ; Lv 9,22). 家族の長は 子どもたちを祝福する 結婚の際に,旅へ出るまえに,死のまぎわに.それらの祝福は〈横溢し,無条件的な〉贈りものと 思われる.

17. 新約のなかでも 祝福は 実質的に 旧約におけるのと同じ意義を 保持している.我々は これらのものを 見出す:神から人間へ下降する賜;人間から神へ上昇する感謝;人間によって与えられ,彼の同胞たちへ広がる 祝福.[洗礼者ヨハネの父]ザカリアは,再び言葉を発することができるようになると,主を 彼のすばらしい業[わざ]のゆえに 讃美する (cf. Lc 1,64). 老いたシメオンは,自分の腕のなかに 生まれたばかりのイェスを 抱いて,神を讃美する 神が〈救い主 メシアを 見る 恵みを〉彼に与えてくれたがゆえに;次いで,彼は,イェスの両親 マリアとヨセフを 祝福する (cf. Lc 2,34). イェスは 父[なる 神]を讃美する 父に向けられた 有名な〈称讃と喜びの〉讃歌において:「わたしは あなたに 感謝と讃美を捧げます (Ἐξομολογοῦμαί σοι), 父よ,天と地の主よ」(Mt 11,25).

18. 旧約との連続性において,イェスにおける benedizione[祝福,讃美]は,上昇的である 父への指向において だけでなく,しかして,下降的 〈恵み,保護,善意の所作として〉他者たちへ注がれるとき でもある.イェス自身が そのような[祝福の]実践を 遂行し,奨励している.たとえば,彼は 子どもたちを祝福する:「そして,彼[イェス]は 彼ら[子どもたち]を 腕に抱いて,祝福した 彼らのうえへ手を置きつつ」(Mc 10,16). そして,イェスの地上での物語は,まさに 祝福で終わることになる;それは,父のところへ昇る直前に,彼が 11人の使徒たちだけへ向けた 最後の祝福である:「そして,彼は,彼の両手を挙げて,彼らを祝福した.そして,このことが 起きた:彼が彼らを祝福しているとき,彼は 彼らから離れた;そして,天へ上げられた」(Lc 24,50-51). 地上におけるイェスの最後のイメージは,祝福の行為のために挙げられた彼の両手である.

19. 神は,彼の愛の神秘において,キリストをとおして,彼の教会に 祝福の能力を 伝える.祝福は,神によって人間に授けられ,人間によって隣人に与えられる;そして,そのとき「祝福する」ことは,祝福される者を「包容する」(inclusione) こと,彼と「連帯する」(solidarietà) こと,そして,彼に「平和をもたらす」(pacificazione) ことに 変化する.それは,肯定的な〈慰め,関心,励ましの〉メッセージである.祝福は,神の 慈しみ深い[憐れみ深い]抱擁と 教会の母性とを 表現する;教会は,信者を〈彼ら自身の兄弟姉妹たちに対して《神が有しているのと》同じ気持ちを持つよう〉招いている.


祝福の 神学的-司牧的 理解


20. 祝福を求める者は,自分の生活史のなかに 救済してくれる神が現在することを 必要としている;そして,教会に祝福を求める者は,教会を〈神が提供してくれる救済の秘跡と〉認めている.教会のなかで祝福を求めることは,このことを認めることである:教会のいのちは,神の 慈しみ[憐れみ]の 胎[腹,はらわた]から 湧き出ており,我々を〈前進する[根気よく続ける]こと,よりよく生きること,主の意志に応えることが できるよう〉助けてくれる.

21. Papa Francesco は,我々を〈おもに司牧的な《祝福の》見かたの価値を理解することができるよう〉助けるために,このことを〈信仰と 父性的慈しみ[憐れみ]の態度を以て〉熟考するよう 我々に促している :「人々は,祝福を求めるとき,これらのことを表現しているのだ:神への〈助けの〉呼びかけ,よりよく生き得るための祈り,我々がよりよく生きることを助けることのできる父への信頼」[12]. 我々は,そのような求めを,あらゆる意味において 評価し,それに寄り添い,感謝を以てそれを受けとめるべきである.自発的に祝福を求めにくる人々は,その求めによって,これらのことを示している:彼らが超越に対して真摯に開かれてあること;自分自身の力のみを信じてはいない彼らの心の[神に対する]信頼;彼らが神を必要としていること;限界のうちに閉じこめられているこの世の狭小な尺度から脱出したいという欲望.

22. おさな子イェスの聖テレジアが 我々に 教えているように,あの[神に対する]信頼 以上に「〈それを通って 我々が《すべてを与えてくれる愛へ》連れてゆかれるところの〉道は,ほかには 無い.信頼を持てば,恵みの泉は 我々の生のなかへ あふれだす.[…] 最も適切な態度は,心の信頼を〈我々自身の外に 無制限に愛してくれる神の無限の慈しみ[憐れみ]のなかに 〉置くこと である.[…] 世の罪は 非常に大きいが,無限ではない;それに対して,贖い主の 慈しみ深い[憐れみ深い]愛 それは いかにも 無限である」[13].

23. 我々が それらの信仰表現を〈典礼という枠のそとで〉考察するとき,我々は,より大きな自発性と任意性の領域のなかに いる.だが,「信心業 (pii esercizi, pia exercitia) 任意性は,だからといって,それらに対する尊重の欠如や軽視を 意義しては ならない.取るべき道は,民の信心業 および それらが包含する可能性の 少なからぬ豊かさを 正しく かつ 賢明に 活用することである」[14]. かくして,祝福は,危険や問題というよりは,むしろ,活用さるべき司牧的資源となる.

24. 民の司牧の観点から考察するなら,祝福は 信心業 (atti di devozione) として 価値づけられる;それらの信心業は「それらにふさわしい場所を〈感謝の祭儀[ミサ]および その他の秘跡のそとに〉見出す.[…] 民の信心業の 言語,リズム,展開,神学的アクセントは,典礼行為のそれらとは 異なる」.まさにその理由により「典礼儀式固有の様態を信心業に付加することは,避けねばならない;信心業は,その様式,簡素さ,特徴的な言語を 保持すべきである」[15].

25. 教会も,また,このことを避けるべきである:教会の司牧的実践を〈教義と規律のシェーマの硬直性に〉依拠させること 特に それら[教義と規律のシェーマ]が「ナルシシックな かつ 権威主義的な エリート主義を 生ぜしめる」ときに;そのようなエリート主義に陥っている者は「福音を宣べ伝える代わりに,他者たちを 分析し,分類し,そして,恵みに与ることを促進する代わりに,コントロールすることに エネルギーを費やす」[16]. それゆえ,人々が祝福を求めにきたときは,その祝福[の可能性]を 徹底的な道徳的分析に付する そうすることが〈祝福を授けてよいための〉予備的条件であるかのように ことは,すべきではない.祝福を求める者たちに 予備的な道徳的完璧さを 求めるべきではない.

26. 以上の展望において,聖父の回答は[我々を]〈旧教理省によって 2021年に 定式化された Responsum ad dubium 司牧的観点から より深めるために〉助けてくれる;なぜなら このゆえに:聖父の回答は,実際,このような識別を 促している :「[厳密な意味における結婚ではないカップルの繋がりを生きている]ひとりの人 または 複数の人々によって[その繋がりの]祝福が求められたときには,司牧的な思慮ぶかさ (prudencia pastoral) が[このことを]適切に識別せねばならない:すなわち,曖昧な〈結婚に関する〉考え方を伝えることのない〈祝福の〉形態[複数]が あるか否かを[識別せねばならない]」[17] ; また,聖父の回答は,このことをも考慮に入れている :「我々がそれをそのものとして見るならば (desde el punto de vista objetivo) 道徳的に容認不可能であるような状況があるとしても,同じ司牧的な愛は 我々に[このことを]要請する:すなわち,他者を単純に「罪人」として扱わないこと その者の罪や責任は〈どれほどの責任をその者自身へ帰し得るか (imputabilità soggettiva : San Giovanni Paolo II, Esortazione apostolica post-sinodale Reconciliatio et Paenitentia, 17) に影響する さまざまな因子によって〉軽減され得る」[18].

27. この布告の冒頭で引用したカテケーシスのなかで,Papa Francesco は,このような〈祝福の〉類型 それは[祝福を受ける者たちに]何も要求せずに,すべての人々に提供される の記述を 提起している.彼の言葉は,開かれた心を以て 読んでみるに 値する;[なぜなら このゆえに:]彼の言葉は 我々を〈無条件に提供される祝福の司牧的な意味を受け取るために〉助けてくれる:

祝福する神が いる.聖書の始めの数ページには,祝福が連続的に繰り返されてある.神は 祝福する;だが,人間たちも 祝福する[讃美する]; そして,我々は すぐさま このことを発見する:祝福は 特別な力を有している;その力は,それを受ける者に〈その者の全人生の間〉寄り添い,そして,人間の心を〈神によって変えられることが可能となるように〉準備させる.[…] そのように,神にとって,我々は〈我々が犯し得る罪すべてよりも〉より重要である;なぜなら このゆえに:彼[神]は 父であり,母であり,純粋な愛である;彼は 我々を いつも祝福してきた;そして,我々を祝福することを 決して やめないだろう.刑務所のなかや 依存症から回復しようとしている人々の共同体のなかで それらの〈祝福に関する〉聖書箇所を読むことは,強烈な経験である それらの人々に このことを感じさせること:彼らの重大な過ちにもかかわらず,彼らは祝福されたままである ということ;天の父は,彼らの善を欲し続けており,彼らが ついには 善へ開かれることを 望み続けている ということ.たとえ 彼らの最も近しい親族が〈彼らのことを 既に 社会復帰不可能と 判断して〉彼らを見棄てても,神にとっては 彼らは 常に 息子である [19].

28. 祝福を求めるために 人々が自発的にやって来る機会は,さまざまである 巡礼のときに,あるいは 聖地において,あるいは 通りで[たまたま]司祭に出会ったときに.我々は[祝福するために]たとえば 典礼書 De Benedictionibus[祝福について]に準拠することができる;その本は 一連の〈たとえば これらの人々のための〉祝福の儀式を 見込んでいる:高齢者,病人,カテケーシスや祈りの集いの参加者,巡礼者,旅に出ようとしている者,ヴォランティアのグループや団体,等々.それらの祝福は,すべての者たちへ向けられる;誰かがそこから排除されるということは あり得ない.たとえば「高齢者の祝福の儀式」の前書きには,こう述べられている:祝福の目的は このことである:「高齢者が 彼らの兄弟から 敬意と感謝の証しを受けること;同時に,我々は,彼らとともに,神に感謝する 彼らが神から受けた恩恵のゆえに,また,彼らが神の助けを以て成し遂げた善き行いのゆえに」[20]. その場合,祝福の対象は 高齢者であり,我々は その人のために および その人とともに 神に感謝する その人が成した善のゆえに,および,その人が受けた恩恵のゆえに.誰かが神に感謝するのを妨げられるということは あり得ない;誰もが〈たとえ 創造主の計画に沿わない状況に生きていても〉それのゆえに主を讃えるべきところのポジティヴな要素を いくつか 有している.

29. 上昇的次元の展望においては,我々が 主の賜と彼の無条件的な愛を意識するとき,たとえ罪の状況においても,なかんづく 祈りが聴きいれられたときには,信者の心は 神へ 称讃 (lode) 讃美 (benedizione) 献上する.この形の benedizione 誰に対しても 妨げられない.誰もが 個別に あるいは 他者との繋がりにおいて 神へ 讃美と感謝を 献上することができる.

30. だが,benedizione の一般的な意味は,下降的な benedizione[祝福]の意義をも 含んでいる.「ひとつの教区 または 一国の司教協議会 または 何らかのその他の教会内の組織が あらゆる類の事柄について 手順や儀式を 常に かつ 公式に 認可する という事態は,適切ではない」[21] のであれば,司牧的な思慮ぶかさと知恵は このことを示唆し得る:叙階されている聖職者は,信者たちのなかに重大な形のスキャンダルや混乱が生ずることを回避しつつ,このような人々の祈りに 加わってもよい [それは どのような人々かと いうと:]彼らは,決して結婚に類比され得ない繋がりのなかにありながらも,これらのことを 欲している:主 および 彼の慈しみ[憐れみ]に 信頼すること;彼の助けを祈求すること;彼の〈愛 いのち [iii] の〉計画をよりよく理解することへ導かれること.

訳注 [iii] スペイン語テクストにおける vida[いのち]に相当するはずの語が,イタリア語テクストにおいては verità[真理]となっている.このテクストを作成した Víctor Manuel Fernández 枢機卿は,Papa Francesco と同じく,アルゼンチンの出身であり,したがって,彼の母国語はスペイン語であるので,このテクストの原文はスペイン語で書かれたにちがいない.それゆえ,イタリア語テクストの verità 翻訳者の勘違いの産物であろう.同時に発表された フランス語,英語,および ドイツ語のテクストにおいては いづれも「真理」に相当する語が用いられている;つまり,それらはイタリア語訳にもとづく二重翻訳である.同様の誤訳 そこにおいては,Papa Francesco スペイン語で書いた tweet イタリア語訳者によって 誤訳され,そして,そのせいで,フランス語と英語の 教皇 Twitter テクストにおいても 同じ誤訳が 再現されていた に,わたしは 以前にも 気づいたことがある.


III. イレギュラーな状況にあるカップル および 同性どうしのカップルの 祝福


31. 以上のように画された地平線のなかに[教会法上]イレギュラーな状況にあるカップル[夫婦の片方または両方が,以前の配偶者と 民法上 離婚したあと,教会から結婚無効宣言を受けないまま,新たな配偶者と 民法上 結婚した場合]および 同性どうしのカップルの 祝福の 可能性が 位置づけられる;その形式は,如何なる〈教会当局の側からの〉儀式的固定化をも 見てはならない 結婚の秘跡に固有の祝福との混同を生ぜしめないために.それらの場合[イレギュラーな状況にあるカップル および 同性どうしのカップルの 祝福の場合],おこなわれる benedizione は,上昇的な意義を有するのみならず,しかして,神自身から これらの者たちへ 下降してくる benedizione[祝福]の 祈求でもある [これらの者たちとは このような者たちである:]彼らは,自身を〈よるべなきがゆえに 神の助けを必要としている者と〉認め,彼ら自身の現状の[教会法的な]適法性を主張せず,しかして〈彼らの生と関係のなかで 真であり,善であり,かつ 人間的に正当であるもの すべてが《聖なる息吹の現在によって》投資 [iv] され,聖化 [v] され,そして 高められるよう〉願う.そのような形の benedizione 神への懇願を 表現している;[そして,その懇願が願うのは このことである:]神が〈彼の息吹の衝動 [vi] に由来する助け 古典的神学が grazie attuali[助力の恩恵][vii] と呼ぶもの を〉与えてくださるように [彼らの]人間関係が,福音のメッセージへの忠実さにおいて,成熟し,成長し得るために,それら[彼らの人間関係]の不完全さや脆さから解放され得るために,そして,常に より大きな〈神の愛の〉次元において 表現され得るために.

訳注 [iv] スペイン語テクストにおいて investido(動詞 investir 過去分詞);スペイン語においては 動詞 investir は「(職務,地位,勲章などを)授ける,付与する,与える」であって,資本主義的な「投資する」という意味を有していないが,ここでは「(彼らのなかのポジティヴなものが)聖なる息吹の現在によって さらによりポジティヴなものとされる」と言うために 用いられている.ここでは「投資する」を「何らかの資質や性質を付与する」という意味で用いる.

訳注 [v] スペイン語テクストにおける santificado(動詞 santificar[聖化する]の過去分詞)が,イタリア語テクストにおいては sanato(動詞 sanare[癒す]の過去分詞)と訳されている;この誤訳は,イタリア語訳者が スペイン語の santificado イタリア語の sanificato(健康的にされた)と勘違いしたことによる と思われる;その誤訳のせいで,英仏独訳のテクストにおいても「癒す」を意味する動詞の過去分詞が用いられている.

訳注 [vi] スペイン語のテクストで impulsos[複数形].その語は,力学においては「力積」であり,より一般的には「衝撃力,推力」であるが,心理学的には「衝動」であり,悪い意味における「衝動的」(impulsivo) の語源でもある.聖なる息吹に関して「衝動的」と言うことは,いかにも 我々を驚かせはするが,しかし,福音書のなかでしばしば用いられているあの有名な動詞 σπλαγχνίζομαι[はらわたに強い憐れみを覚える]その主語は イェス自身 または 彼が語る譬えにおいて父なる神を表す人物である を連想させもする;つまり,こう言うことができるだろう:神は,我々の惨めさを見るとき,はらわたに覚える憐れみによって「衝動的」に 我々を助けてくださる.

訳注 [vii]「聖化する恵み (gratia sanctificans) は,常住的な賜 (donum habituale) である;それは,ひとつの安定的な超自然的状態であり,魂そのものを 完璧にする それ[魂]を〈神とともに生きることができ,そして,神の愛によって行うことができるようなものに〉するために.[ここで 以下の二種類の恵みが]区別される:[ひとつは]常住の恩恵 (gratia habitualis) — 神の呼びかけにしたがって 生き かつ 行うための 恒常的な状態 ;[もうひとつは]助力の恩恵 (gratiae actuales) — それらは〈あるいは 回心の起源における,あるいは 聖化の作用の過程における〉神の介入のことを 指す」(カトリック教会のカテキズム #2000).

32. 実際,神の恵みは〈自身を義人と見なさず,しかして,自身を 謙虚に 罪人と 認める すべての者たちと同様に 者たちの〉生のなかで 作用する.それ[神の恵み]は,神の〈神秘的 かつ 予見不可能な〉計画にしたがって すべてを方向づけ得る.それがゆえに,教会は,疲れ知らずの知恵と母性とを以て,〈謙虚な心を以て 神に近づく者たち すべてを〉迎え入れる 息吹の助けとともに 彼らに寄り添いつつ;[それら〈息吹の〉助けは]すべての者たちに〈彼らの実存において 神の意志を 十全に 理解し,実現することを〉可能にする [22].

33. かかわっているのは,このような祝福である:それは,典礼儀式のなかに含まれていない [23] とはいえ,〈自身を謙虚に神に向ける者たちの〉とりなしの祈りと 神の助けの祈求とを ひとつにする.神は,彼に近づく者たちを 決して 遠ざけない! つまるところ,祝福は 人々に 彼らの〈神への〉信頼を増大させる手段を 提供する.祝福の求めは,これらのことを 表現し,養う:超越へ開かれてあること,敬虔さ,神の近しさ 多数の〈生の〉具体的な状況のなかで ;そして,そのことは,我々が生きている この世のなかで,取るに足りないことではない.それは,聖なる息吹の種[たね]であり,我々は それを 妨げるのではなく,ケアせねばならない.

34. 教会の典礼そのものが,我々を あの〈[神への]信頼に満ちた〉態度へ 招いている たとえ これらのただなかにおいてでさえ:我々の 罪,功徳の欠如,弱さ,混乱 ローマ ミサ典礼書から引用される この とても美しい 集会祈願が 証ししているように :「全能にして 永遠なる 神よ,あなたは あなたの民の祈りを〈あらゆる欲望を超えて,かつ,あらゆる功徳を超えて〉かなえてくださいます;どうか,あなたの慈しみ[憐れみ]を わたしたちのうえに 撒き広げてください;良心が恐れていることを 赦してください;そして,祈りが敢えて望まないことを 付け加えてください」(年間 27 主日).実際,幾たび,人々は〈司牧者の単純な祝福をとおして 彼は その所作によって 何かを 是認したり 正当化したり する つもりはないが 〉父の近しさを経験することができることか 「あらゆる欲望を超えて かつ あらゆる功徳を超えて」.

35. それがゆえに,叙階されている聖職者の司牧的感受性も また 教育されねばならない 祝福の儀式書のなかに見出されない祝福を 自発的に 成し得るように.

36. その意味において,教皇の気がかりを受けいれるのは 本質的に重要である それらの儀式化されない祝福が〈それらを求める人々の《神への》信頼を増大させるために有効な手段を与える〉単純な所作であることを やめないために [と同時に]〈それらの祝福が《秘跡に類似する》典礼行為 ないし なかば典礼的な行為に 成ることを〉避けつつ.[もし仮に それらの祝福が典礼行為のようになってしまうならば]そのことは[民の信仰生活を]非常に貧しくしてしまうことになるだろう;なぜなら このゆえに:それは,民の信心業において大きな価値を有している所作を[教会当局による]過剰なコントロールに服させることになるだろう;そして,そのことは,司牧者たちから〈人々の生活に司牧的に寄り添う際の 自由と自発性を〉奪うことになるだろう.

37. それに関して,聖父の 次のような言葉 既に部分的に引用されたが 思い浮かぶ :「特定の状況においては司牧的な思慮ぶかさの一部を成し得る決定が 必然的に ひとつの規範と成る という事態は,あっては ならない.すなわち,[このことは]適切ではない:ひとつの教区 または 一国の司教協議会 または 何らかのその他の教会内の組織が あらゆる類の事柄について 手順や儀式を 常に かつ 公式に 認可する という事態[は 適切ではない][…]. 教会法は,すべてをカヴァーしてはならないし,そうすることもできない;また[各国の]司教協議会も その さまざまな 文書や しきたりを以て そのこと[教会法がすべてをカヴァーするという事態]を要請してはならない;なぜなら このゆえに:教会の生は,規範という水路以外にも 多数の水路をとおって 流れているのだ」[24]. そう言うことによって,Papa Francesco このことを思い起こさせている:「個別的な状況を前にして『どうするのがよいか?』と問うときに行われる識別の一部を成すものは,いづれも,ひとつの規範の範疇へ高められ得ない;なぜなら このゆえに:それは,耐え難い詭弁を生むことになるかもしれない」[25].

38. 以上の理由により,イレギュラーな状況にあるカップルの祝福の儀式は,それを奨励してはならないし,想定してもならない;だが,如何なる状況に対しても,そこにおいて ある者が 単純な祝福をとおして 神の助けを求めるのであれば,教会の近しさを 妨げてはならず,禁止してもならない.その場合,自発的な祝福に先だつ短い祈りのなかで,叙階されている聖職者は 彼ら[祝福を求めるカップル]のために これらのことを求めてもよいだろう:平和,健康,辛抱の精神,相互的な対話と助け合い,しかして また〈神の意志を十全に成就し得るための〉神の光と力.

39. ともあれ,まさに あらゆる形の混同やスキャンダルを回避するために,祝福の祈りが〈イレギュラーな状況にあるカップルによって〉求められたときには,その祝福は〈たとえ 典礼書によって規定された儀式の埒外において 授けられる場合でも〉決して〈riti civili di unione[異性どうしのカップルであれ 同性どうしのカップルであれ,結婚 または civil union(民法によって規定された《結婚に準ずる》ふたりの人間どうの 関係)を 当該カップルが 市区町村の役所に 届け出るときに,市区町村の長 または その代理人が 彼れらの求めに応じて 執り行うことができる 簡単な儀式(複数)]と同時に〉行われてはならないし,また〈それら [ riti civili di unione ] との連接において〉行われてもならない;さらには,結婚の[秘跡を授かる際の]衣服や 所作や 言葉を以て[行われてもならない].同じことは,祝福が同性どうしのカップルによって求められたときにも,適用される.

40. 代わりに,そのような祝福[イレギュラーな状況にあるカップル または 同性どうしのカップルのための 祝福]は,その場所を〈ほかのコンテクスト たとえば,聖地の訪問,司祭との出会い,グループにおいて あるいは 巡礼の最中に 唱えられる 祈り のなかに〉見出し得る.実際,それらの祝福によって ただし,それら祝福が授けられるのは 典礼に固有の儀式形式をとおしてではなく,しかして,教会の母性的心の表現としてであり,それら祝福は〈民の敬虔さのはらわたの底から発する祝福に〉類似している [正当ではない]何ごとかが正当化されるわけではない;しかして[祝福を求める者たちは]ただ これらのことをしようとするだけである:自身の生を神へ開くこと,よりよく生きるために神の助けを求めること,そして また 聖なる息吹を祈求すること 福音の価値を より忠実に 生きるために.

41. 現布告において 同性どうしのカップルの祝福に関して 言われたことは,その問題に関して 叙階されている聖職者の〈思慮ぶかい かつ 父性的な〉識別を方向づけるために 十分である.それゆえ,上述の指示以外には〈如何に その類型の祝福に関する実践的な細部や様相を規制するかに関する さらなる答えを〉期待することは できない [26].


IV. 教会は 神の無限の愛の秘跡である


42. 教会は〈キリスト自身が 彼の地上での生の日々において《大きな叫び声と涙を以て》献げた〉祈りと懇願 (cf. He 5,07) — それらは,まさに それがゆえに,特別な有効性を 享受している を[神へ]献上し続けている.そのように,「愛や 手本や 悔悛の行いによってだけではなく,しかして,祈りによっても,教会共同体は 魂たちに対して〈それら[魂たち]を キリストのとへ連れ行くために〉真の〈母性的な〉機能を 果たしている」[27].

43. そのように,教会は 神の無限の愛の秘跡である.それがゆえに,神との関係が罪によって曇らされているときでも,祝福を求めることは いつも 可能である 神へ訴えかけることによって ペトロが 嵐のなかで イェスにこう叫んだときに そうしたように:「主よ,わたしを救ってください!」(Mt 14,30). ある状況のなかでは,祝福を欲し,それを受けることは,可能な善である.Papa Francesco は,我々に このことを 思い出させている:「大きな〈人間的な〉制限のさなかでの 小さな一歩は〈大した困難に直面することなく日々を過ごしている者たちの外見的に正しい生活よりも〉より神の意にかなうものであり得る」[28]. そのように「輝くもの,それは,神の〈救済してくれる〉愛 それは〈死んで 復活した イェスキリストにおいて〉顕かとなった 美である」[29].

44. あらゆる祝福は,新たな〈kerygma[福音を告げ知らせること,告げ知らされた福音]の〉告げ知らせのための 機会となるだろう;それは〈キリストの愛に 常に より近づいてゆくことへの〉招きである.教皇 ベネディクト 16 世は こう教えている:「教会は,マリアと同様に,世に対する〈神の祝福の〉媒介者である.マリアは,神の祝福を受ける イェスを迎え入れることによって;そして,それ[神の祝福を]伝える イェスを腕に抱くことによって.彼は,慈しみ[憐れみ]と 平和である;それらを,世は みづから 自身に与えることはできない;そして,それらを 世は いつも 必要としている パンのように,かつ,パン以上に」[30].

45. 以上に述べられたこと すべてを 考慮に入れつつ,かつ,Santo Padre Francesco の〈権威ある〉教えに 従いつつ,教理省は 最後に このことを思い起こさせたいと思う:「自身を〈祝福されてある者 (benedetto) と〉感ずる 能力 および benedire[祝福,讃美]する 能力 それこそが,キリスト者の穏和さの根である.[…] この世は 祝福 (benedizione) を必要としている;そして,我々は benedizione[祝福,讃美]を与えることができ,かつ 祝福 (benedizione) を受けることができる.父[父である神]は,我々を 愛している.そして,我々に残っているのは,これらの喜びだけである:彼を 讃美 (benedire) する 喜び,彼に感謝する喜び,そして,呪う (maledire) のではなく benedire[祝福する,讃美する]するよう〈父から〉学ぶことの 喜び」[31]. そのように,あらゆる兄弟姉妹は 教会のなかで 自身を こう感ずることができる:いつも巡礼者である者,いつも懇願する者,いつも愛されている者,そして,何といっても,いつも祝福されている者.

Víctor Manuel Card. FERNÁNDEZ
Prefetto

Mons. Armando MATTEO
Segretario per la Sezione Dottrinale

Ex Audientia Die 18 dicembre 2023
Francesco

——————

[1] Francesco, Catechesi sulla preghiera: la benedizione (2 dicembre 2020), L’Osservatore Romano, 2 dicembre 2020, p. 8. 

[2] Cfr. Congregatio pro Doctrina Fidei, «Responsum» ad «dubium» de benedictione unionem personarum eiusdem sexus et Nota esplicativa, AAS 113 (2021), 431-434. 

[3] Francesco, Esort. Ap. Evangelii gaudium (24 novembre 2013), n. 42, AAS 105 (2013), 1037-1038. 

[4] Cfr. Francesco, Respuestas a los Dubia propuestos por dos Cardenales (11 luglio 2023). 

[5] Ibidem, ad dubium 2, c. 

[6] Ibidem, ad dubium 2, a. 

[7] Cfr. Rituale Romanum ex decreto Sacrosancti Oecumenici Concilii Vaticani II instauratum auctoritate Ioannis Pauli PP. II promulgatum, De Benedictionibus, Editio typica, Praenotanda, Typis Polyglottis Vaticanis, Civitate Vaticana 1985, n. 12. 

[8] Ibidem, n. 11: «Quo autem clarius hoc pateat, antiqua ex traditione, formulae benedictionum eo spectant ut imprimis Deum pro eius donis glorificent eiusque impetrent beneficia atque maligni potestatem in mundo compescant». 

[9] Ibidem, n. 15: «Quare illi qui benedictionem Dei per Ecclesiam expostulant, dispositiones suas ea fide confirment, cui omnia sunt possibilia; spe innitantur, quae non confundit; caritate praesertim vivificentur, quae mandata Dei servanda urget». 

[10] Ibidem, n. 13: «Semper ergo et ubique occasio praebetur Deum per Christum in Spiritu Sancto laudandi, invocandi eique gratias reddendi, dummodo agatur de rebus, locis, vel adiunctis quae normae vel spiritui Evangelii non contradicant». 

[11] Francesco, Respuestas a los Dubia propuestos por dos Cardenales, ad dubium 2, d. 

[12] Ibidem, ad dubium 2, e. 

[13] Francesco, Esort. Ap. C’est la confiance (15 ottobre 2023), nn. 2, 20, 29. 

[14] Congregazione per il Culto Divino e la Disciplina dei Sacramenti, Direttorio su pietà popolare e liturgia. Principi e orientamenti, Libreria Editrice Vaticana, Città del Vaticano 2002, n. 12. 

[15] Ibidem, n. 13. 

[16] Francesco, Esort. Ap. Evangelii gaudium (24 novembre 2013), n. 94, AAS 105 (2013), 1060. 

[17] Francesco, Respuestas a los Dubia propuestos por dos Cardenales, ad dubium 2, e. 

[18] Ibidem, ad dubium 2, f. 

[19] Francesco, Catechesi sulla preghiera: la benedizione (2 dicembre 2020), L’Osservatore Romano, 2 dicembre 2020, p. 8. 

[20] De Benedictionibus, n. 258: «Haec benedictio ad hoc tendit ut ipsi senes a fratribus testimonium accipiant reverentiae grataeque mentis, dum simul cum ipsis Domino gratias reddimus pro beneficiis ab eo acceptis et pro bonis operibus eo adiuvante peractis». 

[21] Francesco, Respuestas a los Dubia propuestos por dos Cardenales, ad dubium 2, g. 

[22] Cfr. Francesco, Esort. Ap. post-sinodale Amoris laetitia (19 marzo 2016), n. 250, AAS 108 (2016), 412-413. 

[23] Cfr. Congregazione per il Culto Divino e la Disciplina dei Sacramenti, Direttorio su pietà popolare e liturgia, n. 13: «La differenza oggettiva tra i pii esercizi e le pratiche di devozione rispetto alla Liturgia deve trovare visibilità nell’espressione cultuale […] gli atti di pietà e di devozione trovano il loro spazio al di fuori della celebrazione dell’Eucaristia e degli altri sacramenti». 

[24] Francesco, Respuestas a los Dubia propuestos por dos Cardenales, ad dubium 2, g. 

[25] Francesco, Esort. Ap. post-sinodale Amoris laetitia (19 marzo 2016), n. 304, AAS 108 (2016), 436. 

[26] Cfr. ibidem. 

[27] Officium Divinum ex decreto Sacrosancti Oecumenici Concilii Vaticani II instauratum auctoritate Pauli PP. VI promulgatum, Liturgia Horarum iuxta Ritum Romanum, Institutio Generalis de Liturgia Horarum, Editio typica altera, Libreria Editrice Vaticana, Città del Vaticano 1985, n. 17: «Itaque non tantum caritate, exemplo et paenitentiae operibus, sed etiam oratione ecclesialis communitas verum erga animas ad Christum adducendas maternum munus exercet». 

[28] Francesco, Esort. Ap. Evangelii Gaudium (24 novembre 2013), n. 44, AAS 105 (2013), 1038-1039. 

[29] Ibidem, n. 36, AAS 105 (2013), 1035. 

[30] Benedetto XVI, Omelia della Santa Messa nella Solennità di Maria SS.ma Madre di Dio. XLV Giornata mondiale della Pace, Basilica Vaticana (1° gennaio 2012), Insegnamenti VIII, 1 (2012), 3. 

[31] Francesco, Catechesi sulla preghiera: la benedizione (2 dicembre 2020), L’Osservatore Romano, 2 dicembre 2020, p. 8.

******
追記 2024-01-28 : 20231218日に 発表された 布告 Fiducia supplicans 即座に 非常に強い反応 肯定的なものも 否定的なものも を惹起したことを受けて,Papa Francesco 教理省長官 Víctor Manuel Fernández 枢機卿は,その後,幾つかの補足説明を 発表している.

それらを列挙すると,まず Fernández 枢機卿は,20240104日に「Fiducia supplicans の受け取り方に関する 報道声明」を発表した.

次いで,Papa Francesco は,114日に イタリア国営ラジオテレビ局の あるテレビ番組で ライブ放送された インタヴューのなかで,司会者の質問に応えて,こう言っている:「主は 祝福する 彼のところに来る者たちを みんな,みんな,みんな」(Il Signore benedice tutti, tutti, tutti che vengono). 

さらに,Papa Francesco は,20240126日に,教理省の全体会議の参加者たちに対する 彼の講話の最後のところで,こう言っている:

この〈福音宣教という〉文脈において,わたしは,また,最近の 布告 Fiducia supplicans にも 言及しよう.「司牧的な かつ 自発的な 祝福」の 目的は,このことである:〈信仰の道を歩み続ける あるいは ときとして 歩み始める ために 助けを求める 人々 彼らは さまざまな状況のなかに いる すべてに対して〉主と教会の近しさを 具体的に 示すこと.わたしは,手短に,ふたつのことを 強調したい : 1) それらの〈あらゆる《典礼的な特徴を有する》文脈および形式の埒外において成される〉祝福[複数]は,それらを受ける条件として,道徳的な完璧さを要請しない ; 2) それらを求めるために カップルが 自発的に 近づいてくるときに,我々[牧者]が祝福するは[そのカップルの]l’unione[そこにおいて ふたりが ひとつに成るところの 繋がり,結びつき : cf. Gn 2,24「それゆえ,男は〈彼の父 および 彼の母から〉離れる;そして,彼の女[妻]に 付く;そして,彼れらは ひとつの肉に成る」]ではなく,しかして,単純に,ふたりでいっしょに祝福を求めにきた[ふたりの]個人 (le persone) である.[我々が祝福するのは]l’unione ではなく,しかして le persone である 勿論,これらのことを 考慮に入れつつ:そこにおいて そのとき 我々[祝福を求めるカップル および 祝福する牧者]が 生きているところの 状況の 文脈,敏感さ,場所;および[そこにおいて]最も適切である〈祝福の〉しかた.