2024年5月31日金曜日

パパ フランチェスコが gay に対する侮蔑表現を用いた という 報道に 関して

2024年05月20日におこなわれた イタリア司教協議会の総会におい

パパ フランチェスコが gay に対する侮蔑表現を用いた という 報道に 関して



2024520日におこなわれた Papa Francesco イタリア司教協議会の司教たちとの 非公開の対話のなかで,教皇が gay の人々を侮辱する言葉を用いた という「噂」 その出どころは その会合に出席していた 250人の司教たちのうちの幾人かのようです が,まずは ゴシップを扱うブログ Dagospia 紹介され,次いで,同月 27日,イタリアの全国紙でも 報ぜられました;そして,そのニュースは あっというまに世界中に広まり,各地で多大なショックと失望を惹起しました.

報道によると,「gay であることを公にしている者を 神学校に入学させること」の可否に関する質問に対して,パパさまは,2005年に Benedictus XVI 教皇の承認のもとに 発表された 教皇庁のカトリック教育省の文書 Istruzione della Congregazione per l'Educazione Cattolica circa i criteri di discernimento vocazionale riguardo alle persone con tendenze omosessuali in vista della loro ammissione al Seminario e agli Ordini sacri[神学校への入学または修道会への入会の許可を求めてきた homosexual の傾向を有する者たちに対する 召命の識別の判断基準に関する カトリック教育省の 教書]において規定されてあるとおりに「否」と答え,そして «Nei seminari c’è già troppa frociaggine»[神学校には すでに あまりに多くの frociaggine ある]と付言したそうです.

この記事における解説によると,その frociaggine という語は,frocio に由来し,後者は「男性を性愛対象とする男性」に対して用いられる侮蔑的な卑語です(通常,公の場で用いることは控えるべき語である と見なされているようです).そして,その語に -aggine という接尾語を付した語は「frocio である者たちの性質や特徴」を意味する名詞となります(この場合は,集合名詞の形成と解してもよいでしょう).

要するに,パパさまは「神学校には 既に あまりに多く gay 神学生が いる」という意味のことを 卑俗かつ侮蔑的な表現を用いて 言った と報ぜられたわけです.

それに対して 教皇庁の報道局長 Matteo Bruni は,28日の記者会見で 質問に答えて,こう述べました:

Papa Francesco は,イタリア司教協議会の司教たちとの非公開の対話に関して 最近 発表された 記事のことを 知っている.彼が 幾度か そう断言する機会を持ったように,「教会のなかには,みんなに居場所がある みんなに![教会のなかで]無用の人は 誰も おらず,余計な人も 誰も いない;みんなに居場所がある;わたしたちが あるがままに,みんなに[居場所がある]」.

教皇は,誰かを傷つけようと意図したことは 決して なく,homophobic な言葉で 考えを表明しようと意図したことも 決して なかった;そして,彼は,ほかの者たちによって言及された語の使用によって傷つけられたと感じた人々に 謝罪する.

以上の顛末は,日本の一般紙でも 報ぜられました.

なぜ それほどの大騒ぎになったのか? それは,従来 Papa Francesco LGBTQ の人々に対して 司牧的に 寛容である ということが 知られていたからです.実際,彼は,教皇着座の 4 ヶ月後の あるインタヴュー 20130723-28日に Rio de Janeiro おこなわれた World Youth Day からの帰途の機上記者会見 において,homosexuality に関する質問に対する答えのなかで,こう言いました:

Se una persona è gay e cerca il Signore e ha buona volontà, ma chi sono io per giudicarla?

ある人が gay であり,主を探し求めており,善意を有しているとき,もしわたしがその人を断罪するならば,いったい わたしは何者であるか?

次いで 彼は,記憶にもとづいて,『カトリック教会のカテキズム』の 2358 パラグラフを 部分的に引用します.引用されたのは この文です:

彼れら[homosexual である人々]は,敬意と共感と気遣いとを以て,受け容れられねばならない.彼れらに対して,あらゆる不当な差別の刻印は避けるべきである.

そして,その後も Papa Francesco は,LGBTQ の人々のための司牧活動の団体の代表たちや gay である人々 および transgender の人々に 個別接見の機会を 幾度も 与え,彼らの活動を称讃し,彼らを励ましてきました.

であるだけに,520日の非公開会合における 彼の差別用語の使用は,わたしたちを驚かせました.いったい,彼は LGBTQ のための寛容かつ包容的な司牧姿勢を 変えたのか? あるいは,そのような寛容さの裏で,実は 彼も 差別主義者であったのか?

わたしは 断定します:そうではありません.では,いったい かかわっているのは 何なのか?

彼の発言の文脈を 改めて 見てみましょう.彼が侮蔑的な表現を用いたのは,神学校入学の可否の判断がかかわる文脈において つまり,司祭の養成の問題に関連して です.わたしが 彼の差別的表現の使用に 読み取るのは,彼の怒り 神学生時代にも,司祭叙階を受けたあとも,偽善的な二重生活を送っている者たちが いまだにいる という事実に対する 彼の怒り です.実際,520日の会合で パパさまは 問題の語を発するまえに こう言った 報ぜられています:

La Repubblica 紙によると,教皇は こう言った:「[神学校入学可否判断の]指標を措定せねばならない;そして,この危険を防止せねばならない:司祭職を選ぶ gay person が,のちに[神学校入学後に および 司祭叙階後に]二重生活をおくるようになる 同性どうしの性行為を続けつつ,かつ,同時に,その隠蔽に苦悩しつつ [という危険を防止せねばならない].

それは,単なる懸念ではありません.事実なのです:神学生となっても,司祭となっても,同性どうしの性行為を続けている者たちが いるのです(その断定の根拠をここで提示することは できません;全カトリック司祭のうち 如何ほどの割合が 性的に活動的な gay であるのかは 勿論 不明です;しかし,そのような司祭たちの行動がかかわった事件が ときおり 報道されます).そのような事態は 絶対 容認され得ない その強い怒りが パパさまに 思わず あの侮蔑語を使わせたのだ わたしは そう思います.

彼の怒りの対象は,二重生活を続けている 神学生たち および 聖職者たちに 限定されています;決して gay である 一般信徒ではありません;また,貞潔の誓約を遵守している gay 司祭たちでもありません.後者に関しては,James Martin 神父は こう言っています:

わたしは,25年間の司祭生活のなかで,また,ほぼ 40年間のイェズス会士生活のなかで,何百人もの 神聖な 誠実な 禁欲的な gay 司祭たちと 出会ってきた.彼らは,わたしにとって,上司であり,師であり,聴聞司祭であり,メンターであり,精神的指導者であり,友であった.もし あなたが カトリックならば,彼らは,あなたのために ミサを献げ,あなたの子どもたちに洗礼を授け,あなたの告解を聴き,あなたが病院にいれば あなたを見まい,あなたの結婚式を司り,あなたの親の葬儀をおこなう.もし彼らがいなければ,教会は はかり知れないほどに 貧しくなるだろう.

以上が,今回の騒動に関する わたしのコメントです.パパさまの発言にショックを受けた人々は どうか安心してください.彼の司牧的な寛容さと包容性には いささかの変化もありません.しかし,二重生活を送っている聖職者たちは,神の怒りを恐れるならば,ただちに偽善をやめなさい 一般信徒に戻るか または 貞潔の誓約の遵守に戻ることによって.

2024年2月29日木曜日

Fiducia supplicans[祝福を懇願する信頼],非典礼的祝福,Ratzinger による区別

2020年09月07日,Papa Francesco は Dicastero per la communicazione[コミュニケーション省]の 幹部を 一般接見に 迎えた (cf. Osservatore Romano). 中央の Papa Francesco 以外の人物は,向かって左から,同省の書記 Lucio Adrián Ruiz, 長官 Paolo Ruffini, 編集部門の長 Andrea Tornielli, Osservatore Romano 紙の 編集長 Andrea Monda.

Vatican News の website に 2024年02月27日付で Andrea Tornielli の 記事 Fiducia supplicans, benedizioni non liturgiche e quella distinzione di Ratzinger が 掲載された.以下は,その邦訳である.

Fiducia supplicans[祝福を懇願する信頼],非典礼的祝福,Ratzinger による区別


2000年に 当時の教理省長官 Joseph Ratzinger 枢機卿によって発表された 指示 (istruzione) は,典礼書のなかに含まれている儀式的な〈治癒の〉祈りを,自発的な司牧的祈りから 区別していた.それは,今 イレギュラーなカップルを祝福する可能性を容認するために用いられているのと 同じ 基準である.

Andrea Tornielli

昨年 12月に 教理省によって 公表された 布告 Fiducia supplicans[祝福を懇願する信頼]は,周知のように,しかも 多くの者たちによって 強調されたように,結婚に関する 伝統的な教義 それは〈互いに配偶者となる男と女[の カップル]に対してのみ〉結婚の祝福を 想定している 変えてはいない.しかして,その文書 それは〈イレギュラーなカップル および 同性どうしにより構成されるカップルに対しても〉自発的にして簡素な祝福 ただし その祝福は そのカップルの関係を祝福することをも 彼らの生活行動を承認ことをも 意義していない の可能性を 容認している によって 深められているのは,祝福の性質である.

実際,Fiducia supplicans は,典礼的 ないし 儀式的 祝福と,自発的 ないし 司牧的 祝福とを,区別している.

前者 典礼的 祝福[複数] については,ふたつの〈それらを理解する〉しかたが ある.[一方には,祝福の]より広い意味が ある;それは,あらゆる〈叙階された聖職者により成された〉祈りを「典礼的」と見なす たとえ それが 儀式的な形なしに あるいは 公式のテクストに忠実に従わずに おこなわれた場合でも.そして[他方には,祝福の]より狭い意味が ある;それによれば[祝福の対象となる]人々に関する 祈り (preghiera) ないし 祈願 (invocazione) は,この場合にのみ「典礼的」である:すなわち,それ[祈り ないし 祈願]が「儀式的に」行われた場合 より正確に言えば,それが〈教会当局によって承認されたテクストにもとづいて〉行われた場合 にのみ[典礼的である].

布告 Fiducia supplicans を批判する者たちのなかには このような者たちが いる:彼らは,事実上,祝福の広い意味のみを正当なものと見なし,それゆえ〈「儀式的」および「典礼的」な 祈り ないし 祝福 と「司牧的」および「自発的」な 祈り ないし 祝福との間の〉区別を 受容し得ないものと 見なす.彼ら[批判者たち]のうちには,たとえば このような者たちが いる 彼らは,こう言って 反論する:典礼も 司牧的な意義を有している.

だが,そのことに関しては,このことに気づくのが 適切である : Fiducia supplicans は「司牧的」という語に 特別な意味を与えている すなわち,その意味とは このことである:祝福の対象となる者たちに寄り添うことを目的とする 特別なケア[という 意味]このような「善き牧者」にならって:善き牧者は〈まいごになった者たちのひとりひとりを見つけるまで〉安心することができない.

また,ほかにも[Fiducia supplicans 批判する者たちのなかには]こう主張する者たちが いる:すべての祈りは「典礼的」であり,それゆえ,すべての祈りは〈教会の典礼のために要請される諸条件に〉服していなければならない.

そのような反論に対しては,Papa Francesco 自身が[2024年]126日の 教理省の全体会議の参加者たちへ向けられた彼の講話のなかで,このことを強調しつつ,答えている:「それらの〈あらゆる《典礼的な特徴を有する》文脈および形式の埒外において成される〉祝福[複数]は,それらを受ける条件として,道徳的な完璧さを要請しない」.そのような教皇の言葉は,ゆえに,〈典礼的な祝福を より狭い意味において 考える 方向性を〉肯定している.

典礼的なものと非典礼的なものとの間の区別に関する ひとつの重要な前例は,これである:それは,2000年に,当時の教理省によって発表された 指示 (istruzione) のなかに 見出される;その指示は,Joseph Ratzinger 枢機卿によって署名され,そして,Giovanni Paolo II によって 承認されている.

その指示の対象は,神から癒やしを得るための祈りである.その文書の 1 部[教義的側面]の セクション 2 において,このことが想起されている:「Rituale Romanum[ローマ儀式書,英訳]の De benedictionibus[祝福について,英訳]のなかに Ordo benedictionis infirmorum[病者の祝福に関する指示,英訳の Blessing of Persons のなかの 11. Blessing of Sick Pilgrims ; 12. Blessing of a Sick Adult ; 13. Blessing of Sick Children 等を参照]があり,そこには,さまざまな〈癒やしを願う〉祈りのテクストがある」.次いで,2000年の〈神から癒やしを得るための祈りに関する〉指示の 2 それは「規律規定」に当てられている Art. 2[第 2 条]は こう述べている:「癒しの祈り[複数]は,もし それらが 教会の所轄当局によって承認された典礼書のなかに掲載されているものであるならば,典礼的 (liturgico) と形容される;そうでない場合は,それらは 非典礼的 (non liturgico) である」.それゆえ,このことが確認される:[一方には]典礼的ないし儀式的な〈癒やしの〉祈りが 存在する;[そして 他方には]ほかの〈癒やしの〉祈りが 存在する;それらは,典礼的ないし儀式的ではないが,それでも 正当に承認されたものである.そして,次の Art. 3[第 3 条]においては,こう述べられている:「典礼的な〈癒やしの〉祈りは,Rituale Romanum Ordo benedictionis infirmorum において 規定されている 儀式にしたがって,そして,そこにおいて指示されている祭服[の着用]を以て,執り行われる」.

以上の〈Ratzinger 枢機卿により署名され,Wojtyla 教皇によって承認されたテクストからの〉引用から[このことが]推論される:如何に〈Fiducia supplicans において,司牧的な祝福とは異なるものとしての 儀式的な祝福を定義するために用いられた〉liturgico[典礼的]という語の意義は,確かに ひとつの展開を表してはいるが,しかし,この数十年間の教会の教えの流れのなかに 挿入されることか.

また,諸々の benedizioni[祝福,称讃]のなかには,ほかの区別も ある:ある種のものは,consacrazioni[聖別,叙階,奉献]を 表し,あるいは,結婚の祝福の場合は,夫婦となるふたりによって祝われる秘跡への押印を 表す;また,ほかの種のものは,下から神へ向かって上昇する懇願の祈りを 表す;さらに ほかの種のもの(esorcismo 場合)は,悪を遠ざけることを目的としている.

Fiducia supplicans くりかえし こう説明している:司祭または助祭に[祝福を求めるために]近づいてくる「イレギュラーな」カップルに 司牧的ないし自発的な祝福を与える 如何なる〈結婚[の秘跡]とまぎらわしい〉要素もなしに ことは,ひとつの〈それら[祝福を求める]ふたりの間の繋がりを承認することの〉形態を 意義しないし,また,如何なる様態においても それを表し得ない.また,Fiducia supplicans こう述べている :[イレギュラーなカップルや同性カップルに与えられる]祝福は「[民法上は]結婚と見なされる[が 教会法上は結婚とは呼べない]繋がり または 婚外の性行為に 何らかのしかたで 道徳的合法性の形を 提供する」ものとは 見なされ得ない.

そうではなく,祝福が意味するところは,神への祈願 神が〈善の種[たね]が《神が欲する方向へ》成長してゆくことを〉可能にしてくれるよう祈る 祈願 という意義である.

2024年2月26日月曜日

関根悦雄神父さまの説教,LGBTQ みんなの ミサ,2024-02-18 四旬節 第 1 主日(B 年)

L'arche de Noé et le Vaisseau de l'Eglise
un des vitraux de la chapelle de la Communion à l'Église Saint-Étienne-du-Mont de Paris

関根悦雄神父さまの説教,LGBTQ みんなの ミサ,2024年0218日,四旬節 第 主日(B 年)



第 1 朗読 : Gn 9,08-15
見よ,わたしは あなたたちと わが契約を 立てよう.

第 2 朗読 : 1 Pt 3,18-22
水は 今や 洗礼として あなたたちを救う — イェスキリストの復活によって.

福音朗読:マルコ 1,12-15
時は 満了した;そして,神の王国は 近づいた.あなたたちは 回心しなさい;そして,福音を信じなさい.

今,わたしたちは,四旬節を過ごしています.「四旬」は 40 という意味です.つまり,四旬節は 40日です.先週の水曜日は 灰の水曜日でした.今日は 四旬節 1 主日です.ですが,日曜日は 40日のうちに入らないのです.週日は 6 ありますね.それが 6 週間ありますから,6 × 6 = 36. それに,灰の水曜日と そのあとの木金土の 4日間を 足すと,40日になります.

この 40日というのが どこから来たのかというと,今日の福音で こう言われています:「そのとき,霊は イエスを 荒れ野に 送り出した.イエスは 40日間 そこにとどまり,サタンから誘惑を受けた」.ですから,40日間,イエスは 荒れ野で 悪魔から誘惑を受けた;イエスは それに どう答えたか? イエスは試された と考えてもよいでしょう.

また,40 は,イスラエルの民が モーセに率いられて エジプトから出て,40年間 旅をして,約束の地に入った その 40 でもあります.

ですから,この 40  わたしたちがいのちを得るために準備する期間だ,と考えていいと思います.

さて,今日の福音ですが,マルコは「イエスは 40日間 荒れ野にとどまり,サタンから誘惑を受けた」とだけ書いています.それは,マルコの福音の特徴です.マタイの福音と ルカの福音では,イエスは サタンから 三つの誘惑を受け,そして,それに対して彼がどう答えたかが 書かれてあります.しかし,マルコでは,ただ「イエスは 40日間 そこにとどまり,サタンから誘惑を受た」とだけ書かれてあります.

この 40日間は,わたしたちにとって 回心のとき とも言われます.「回心」(μετάνοια) という語は,15節に 出てきます.そこで イエスは こう言います:「時は満ち,神の国は近づいた.悔い改めて,福音を信じなさい」.この「悔い改める」と訳されている動詞 (μετανοέω) 名詞「回心」(μετάνοια) と語源を共有する語です.

昔は「改心」という表記が使われていました.つまり,何か悪いことをしてしまったとか,自分のなかに悪い傾向があるとか,そのようなときには,それを改めなさい ということです.しかし,それは「回心」(μετάνοια) の本来の意味ではありません.では,「回心」とは どういうことでしょうか?

こう自問しましょう:わたしたちは どちらへ向いて 生きているでしょうか? わたしたちは,どうしても,世の中には いろいろ ありますから,あっちへ行ったり こっちへ行ったり,あっちへ向いたり こっちへ向いたり特に,自分中心で生きているのではないでしょうか? そうではなくて,わたしたちは,わたしたちの 神との関係を もう一度 しっかり見つめ直しましょう;そして,もし 神から逸れていたら,神の方へ向きを変えねばなりません;神さまに向かって もう一度 歩み直さねばなりません.そういう意味で,今は「回心」と書きます.

回心は 四旬節に 非常に大切なことだ と言われています;四旬節の間に,わたしたち ひとりひとりが,自分がどのように生きているか,そして,それは 本当に わたしたちに望まれる生き方なのか を,しっかり見直しましょう.

この世のなかに生きていると,誰でも 自分が中心になります.自己中心は,人間の本性に属するのではないか と思います.そして,もうひとつ言えることは,このことです:何か意見の相違や対立があるとき,わたしたちは「自分は正しい;他の人が間違っている」と思いがちです.しかし,本当にそうでしょうか? 神を知らない人は,あるいは,宗教的な感覚がない人は「自分が正しい,それでいいんだ」と思っているように思えます.しかし,わたしたちは,神を知り,そして,神の招きに応えようとして生きています.そこで,あらためて「神はわたしに何を望んでいるのか? 今,わたしは 神の望んでいるように生きているのか?」と問う それが大切なことだ と思います.

では,神は わたしたちに何を望んでいるのでしょうか? それは,わたしたちが本当に生きる ということです.本当に生きる.よりいきいきと生きる.

では,どうすれば 本当に生きることができるのか?

これは,キリスト教の ひとつの神秘かもしれません イエス キリストの生き方に学ぶということ.イエス キリストの生き方に学ぶということは,イエス キリストの生き方に倣う,それをまねる ということです.イエスは どう生きたか? 彼は,徹底的に人に仕え,そして「あなたは 神から愛されている」ということを 人々に伝えました.そして,そのために,彼自身は へりくだって,しもべの姿を取りました;そして,与えに,与えに,与えた.それは,別の言葉で言えば,愛です.ですから,愛を最もたいせつなものとして生きるということ,それが本当に生きるということだ,と イエスは 教えてくださった そう思います.

では,わたしたちは,彼の教えに従って,彼の招きに従って,彼の招きを受けて,それに応えて 生きているかどうか? それを定期的に見直す必要があります.また,本当の生き方 わたしたちを本当に生かす生き方 それを探るのがよいと思います.

わたしたち イエズス会の司祭は,年に 回,黙想をします.そこで,今までの生き方はどうであったのかを振り返り,そして,改めて イエスの招きを聴いて,次はこういうことを 中心にして,だいじにして 生きていこう と決心します.それを皆さんにもお勧めしたいと思います.時間は 必ずしも 4日間も取らなくてもいい と思います.あるときに 真剣に 自分はどこへ向かって生きているのかを,しっかりと考える.

多くの人は,自分のために,自分が何か得るために 生きる と考えてしまいます.しかし,それで本当に幸せになれるのか? 皆さんも いろいろな状況を生きてきただろうと思いますが,その時々のことを思い出して,そのとき「わたしは本当に生きていたか?」と自問してほしいと思います.今までの生涯のなかで,自分が本当に生きていると感じられたのは どういう時なのか?

イエスの生き方は どうであったか? イエスは 自分のすべてを 与えた;いのちをも 与えた.彼は,自分のいのちを与えて,亡くなった;殺された;そして,それでも 生きた.それが 復活です;永遠のいのちを生きることです.

わたしたちも 真剣に「生きる」ということを考えたら,何かわかるんじゃないかな と思います.自分に与えられたものを 人を愛するために 使う それが,わたしたちが招かれている生き方であり,この四旬節の悔い改めのときのひとつの目標になるのではないかな と思います.

具体的に言ってみましょう.四旬節には 断食が勧められます.先週の灰の水曜日には 断食しました.断食といっても,今は,まったく食べないということではなく,ある意味で 簡単です.一日一回は普段と同じように食事してもよいことになっています.しかし,とにかく,みづから飢えるという状況を体験しないと,何を本当に求めるべきなのかということも わからない.そういう意味で断食が勧められます.


そして,教皇フランシスコが言ったとされる
四旬節のための 11の断食のリストが あります:

人を傷つける言葉をやめて,優しい言葉を使いましょう.
悲しみを断って,感謝に満たされるように.
怒りを断って,忍耐で満たされるように.
悲観論を断って,希望に満たされるように.
心配事から離れて,神に信頼するように.
不平不満から離れて,質実 (simplicity) を求めていくように.
圧迫を断って,よく祈るように.
苦々しさから離れて,心を喜びで満たすように.
わがままから離れて,哀れみ深くあるように.
恨みを忘れて,和解するように.
言い争いを避けて,黙して耳を傾けるように.

わたしたちの具体的な日常の歩みのなかで,これはちょっと違うんじゃないかなと気づいたときに,方向転換して,神の方へ向き直り,教皇が勧めていることを目指してゆきましょう.そのような恵みが そのような気づきが たくさんありますように;そして,そのように歩んでゆくことができますように.そのような導きと諭しを 皆さんといっしょに 願いたいと思います.

Padre Saturnino Ochoa の ミサ説教,LGBTQ みんなのミサ,2023-11-19, 年間 第 33 主日(A 年)

Le Christ à cheval de la voûte de la crypte de la Cathédrale Saint-Étienne d'Auxerre

Padre Saturnino Ochoa ミサ説教,LGBTQ みんなのミサ,2023-11-19, 年間 33 主日(A 年)


1 朗読 : Pr 31,10-13.19-20.30-31
2 朗読 : 1 Th 5,01-06
福音朗読 : Mt 25,14-30

今日の福音朗読は「タラントンの譬え」です.典礼暦の一年の終りに,わたしたちは 神さまから 評価されます 神さまから さまざまな「タラントン」をいただいた者として.

日本語で「タレント」と言われるものは,英語の talent から来ています;そして,その英語の talent は,この聖書の箇所の τάλαντον — 複数形は τάλαντα — から来ています.日本語では もっぱら テレビに出ている「タレント」のことですが,英語の talent は「特別な才能や素質」のことです.そして,古代ギリシャ語では 特に ホメロスでは — τάλαντον 金塊の重さの単位(約 25 kg)であり,また,貨幣の単位です「聖書と典礼」の脚注に こう記されているように:

1 タラントンは 6,000 デナリア.1 デナリオンは 労働者の一日の賃金.したがって,1 タラントン(= 6,000 デナリア)は 20 年分の 賃金に 相当する.

ですから,この譬えのしもべたちは,預かった金額が 5 タランタにせよ,2 タランタにせよ,1 タラントンにせよ,三人とも 大金持ちです.タラントンを才能と読みかえるなら,大変な才能の持ちぬしです.

さて,この譬えを もっと展開してみましょう.しもべが もうひとり いるとする;そして,彼は 10 タランタを 主人から 預かったとする.そこで,彼は,まず,1 タラントンを 穀物市場で 活用しようとする;彼は「ヨーロッパの穀倉地帯」と呼ばれる ウクライナで その年に収穫されるはずの小麦の先物取引に 1 タラントン 投資する.ところが,戦争が始まったので,収穫はゼロになり,彼は 投資した 1 タラントンを 失う.次に,彼は,ファミリーレストランの経営を始める;彼は 客がたくさん来るだろうと期待する;ところが,パンデミックのせいで,客は誰も来なくなってしまう;そして,彼の投資は 無駄になってしまう.その後も 彼は いろいろなビジネスを試みるが,すべて 失敗し,主人から預かった金を 全部 失ってしまう.

そして,そのとき 主人が帰ってくる.彼は 何と言うでしょうか ? 彼は,5 タランタを活用したしもべにも 2 タランタを活用したしもべにも こう言います:「よくやった;おまえは 忠実な 良い しもべだ;おまえは 少しのものに忠実であったから,多くのものを管理させよう;主人といっしょに喜んでくれ」.

では,10 タランタを預かり,懸命に努力したが,ビジネスの失敗により,そのすべてを失ってしまった しもべには ? 同じです.5 タランタ あるいは 2 タランタを活用したしもべたちに対して言ったのと同じことを 主人は すべてを失ったしもべにも 言います:「よくやった;おまえは 忠実な 良い しもべだ;おまえは 少しのものに忠実であったから,多くのものを管理させよう;主人といっしょに喜んでくれ」.

そのように,この譬えのポイントは,預けられた金額の大きさではないのです.そうではなく,このことです:わたしたちは,神さまからいただいたものを,どう受けとめて,それを用いて 神さまのために どう働くか.成功するかどうかは 問題ではないのです.だいじなのは,神さまのために忠実に働くことです.

わたしたちは,わたしたちの日常生活のなかで,神さまからいただいたものを それとして 認識し,そして,それを宝と思って 神さまの意志に忠実に 働きましょう.そうすれば,評価のとき 最後の審判のとき 神さまは「よくやった;おまえは 忠実なしもべだ」と ほめてくれるでしょう.そのとき,主とともに 喜びましょう.