Fiducia supplicans の発表の翌日,2023年12月19日,Jason Steidl Jack(左)と 彼の夫 Damian Steidl Jack とを Manhattan にある Jesuit Residence で 祝福する James
Martin 神父 SJ(NYT の記事 および Jason Steidl Jack 氏自身による記事を 参照)
******
教理省
Fiducia supplicans[布告:祝福を懇願する信頼]の受け取り方に関する 報道声明
2024年01月04日
我々が この声明を書くのは〈Fiducia
supplicans[布告:祝福を懇願する信頼]をどう受け取ればよいのかを 明確にするのを〉助けるためである;[当然ならが]同布告が提示していることの意味をより良く理解するために,同布告を 完全に かつ 注意深く 読むことが 推奨される.
1. 教義
いくつかの国々の司教協議会の〈この文書 Fiducia supplicans に関する〉了解可能な声明は,より長い〈司牧的省察の〉時間の必要性を強調するという長所を,有している.それらの司教協議会が表明していることは〈教義上の反対とは〉解釈され得ない;なぜなら このゆえに:同文書 (Fiducia supplicans) は〈結婚 および sexuality に関しては〉明瞭 かつ 古典的である.同布告の 幾つかの文章の 強い表現は,如何なる疑問の余地も 残さない:
この布告は,結婚に関する 伝統的な〈教会の〉教義のうえに しっかり とどまっており,[結婚の秘跡を授ける典礼儀式との]混同を生ぜしめ得るような 典礼儀式 ないし 典礼儀式に類似する祝福は 如何なる類型のものも 許可していない.しかして,この文書の価値は このことに存する:祝福の司牧的な意義に対して 特異的かつ革新的な貢献 — それは〈祝福の《典礼的視野に密接に連結する》古典的な内包を 拡大し,豊かにすることを〉可能にする — を提供すること.[…] まさに そのような文脈においてこそ,イレギュラーな状況にあるカップル[夫婦のうち一方または両方が,前配偶者と民法上離婚した後 教会から結婚無効宣言を受けないまま 新たな配偶者と民法上結婚している場合]および 同性どうしのカップルを 祝福する — ただし,彼らの現状を公式に有効化することも,結婚に関する教会の永続的な教えを 如何なるしかたにおいてであれ 変更することも なく — 可能性は 理解され得る.(提示)
結婚の構成条件 — すなわち[結婚とは]ひとりの男と ひとりの女との〈排他的な,安定的な,解消不可能な,そして,子を生む可能性へ自然的に開かれている〉繋がり」である — と それに矛盾するものとの間の 混同を 生ぜしめるかもしれない 儀式や祈りは,認められ得ない.その確信は,カトリック教会の〈結婚に関する〉永続的な教義に 基づけられている.その文脈においてのみ,性関係は その〈自然的な,適切な,十全に人間的な〉意味を 見出す.教会の教義は,その点に関しては,確固としている (4).
それは,また,旧 教理省の
Responsum — そこにおいては「教会は 同性どうしの間の繋がりに 祝福を与えることはできない」と 断定されている — の 意味でもある (5).
それゆえ,教会は 常に〈結婚のなかで経験される性関係のみを〉道徳的に合法的なものと考えてきたのであれば,典礼的祝福が〈[民法上は]結婚と見なされる[が 教会法上は結婚とは呼べない]繋がり または 婚外の性行為に〉何らかのしかたで 道徳的合法性の形を提供し得るときには,教会は 典礼的祝福を授けることはできない (11).
以上から明かなように,教義の観点から〈同布告に対して〉距離を取る理由は 無く,また,それを〈異端であるとか 教会の伝統に反しているとか 冒瀆的であるとかと〉見なす理由も 無い.
2. 祝福の実践に関する[Fiducia
supplicans の]受け取り方
だが,幾人かの司教たちは,なかんづく 実践的な側面 — イレギュラーな状況にあるカップルに対する祝福は 如何なるものであり得るか — に関して,意見を表明した.今回の布告が提案しているのは〈イレギュラーな状況にあるカップル(彼らの絆ではなく)に対する〉短く 簡単な 司牧的祝福(典礼的ではなく,儀式化もされていない 祝福)である;つまり,それらの祝福は,典礼的な形式を有しておらず,また,当事者たちの状況を是認するものでも正当化するものでもない.
今回の Fiducia
supplicans のような 教理省の諸文書は,それらの実践的な側面においては,地域的な文脈によって — 教区司教おのおのが〈彼の教区とともにおこなう〉識別に応じて — それら[諸文書]の適用のために 時間を 多かれ少なかれ 必要とし得る.一方で,即座の適用に対する困難を特に見出さない地域もあれば,他方では,当該文書を読み,解釈するために必要な時間をかけつつ,革新的なことはしないでおく必要性を感ずる地域もあるだろう.
たとえば,こう取り決めた司教も いる :「教区の司祭は おのおの[祝福の是非に関して]識別をおこなってよいが,ただし,祝福をおこなってよいのは 私的な状況においてのみである」.そのような取り決めには 何の問題もない — もし それが〈最高聖職者[Sommo pontefice : 教皇]が 署名し 承認した テクストに対する 敬意を 有する 限りにおいて,かつ,それが含む省察を 何らかのしかたで 受容しようとする 意図を 有する 限りにおいて〉表明されるのであれば.
各教区の司教は,常にそうであったように,彼固有の機能に応じて〈教区ごとに,すなわち,彼が ほかの誰よりも よく識っている — なぜなら かかわっているのは 彼の[羊の]群であるから — その具体的な場所において〉識別をおこなう権限を有している.慎重さ および〈各教区の教会が有する事情 および 地域文化に対して払うべき〉注意に応じて,さまざまな適用様態が 容認され得る;だが,このたび 司祭たちに対して提示された 歩み[イレギュラーな状況にあるカップル および 同性どうしのカップルのための 祝福という 歩み]を まったく ないし 決定的に 否定することは,容認され得ない.
3. いくつかの国々の デリケートな状況
いくつかの国々の司教協議会のケースは その文脈において 了解されねばならない.複数の国々において〈短期的視野を超える 時間 および 司牧戦略を 要する〉文化的な さらには 司法的な 問題が,存在する.
[容易に]理解されるように,単純に〈自身が gay であることを〉公言することを〈禁固 — また,ほかの場合には,拷問,さらには 死刑 — を以て〉罰する 法律が 存在する 国々においては,[同性どうしのカップルを]祝福することは 無謀である.当然ながら,司教たちは〈homosexual
の 人々を 暴力の危険へ曝すことを〉欲しない.重要なのは このことである:それらの国々の司教協議会は〈教皇によって承認された布告の教義とは 異なる教義を〉支持しているわけではない — なぜなら このゆえに:かかわっているのは[同じ]古来の教義であり,ただ,それらの国々の司教協議会は,そのような状況において,司牧的な慎重さを以て行動するために,検討と識別の必要性を提起しているだけである.
実際〈homosexuality
を さまざまな程度に 断罪し 禁止し 犯罪化している〉国々は,少なくない.そのような場合は,[同性カップルの]祝福の問題を超えて,このような〈長期的 かつ 広大な〉司牧的課題が 存在する:それは これらのことを 含む:人間の尊厳を教えること,人間の尊厳を擁護すること,教会の社会教説を教えること,そして,さまざまな〈性急さを容認しない〉司牧戦略.
4. このたびの布告の まことの新しさ
このたびの布告の まことの新しさ — それは 寛容な〈受容の〉努力を 要請し,かつ,そこから排除されていると宣告されるような者は ひとりも あっては ならない — は,イレギュラーな状況にあるカップルを祝福する可能性ではない.[そうではなく]それ[Fiducia
supplicans の まことの新しさ]は,このことに 存する:ふたつの相異なる〈祝福の〉形 — 一方に,典礼的な または 儀式化された 祝福;他方に,自発的な または 司牧的な 祝福 — を 区別するよう いざなうこと.[Fiducia supplicans の]提示において,こう 明瞭に 説明されている:
この文書の価値は このことに存する:祝福の司牧的な意義に対して 特異的かつ革新的な貢献 — それは〈祝福の《典礼的視野に密接に連結する》古典的な内包を 拡大し,豊かにすることを〉可能にする — を提供すること.この〈Papa
Francesco の 司牧観に基づく〉神学的考察は〈教会の
Magistero[教導の権威]および 公式文書のなかで 祝福について述べられてきたことに対して〉まことの進展を 包含している.
[このたびの布告の]背景にあるのは,「民の司牧教書」(la
“pastorale popolare”) の肯定的な評価 — それは 聖父の多数のテクストのなかに 現れている — である.その文脈において,彼は 我々を〈神の民の素朴な信仰を評価するよう〉いざなっている;[というのも]神の民は,罪のただなかにおいてさえ,内在性から出て,[超越性としての]神の助けを求めるために 心を開く[からである].
その理由により,このたびの教理省のテクストは,イレギュラーな状況にあるカップルに関する以上に,より高次の「布告」(Dichiarazione)
という形を取ったのである;それは,Responsum ad
dubium[疑問への回答]や書簡より以上のものである.その中心的な主題 — それは 我々を 特に〈我々の司牧実践をより豊かにする〉深化へ 招く — は,より大きな〈祝福の〉内包 および〈司牧的祝福を拡張しようという〉提案である;そのような祝福は,かならずしも〈典礼や儀式の文脈において成される祝福とは〉同じ条件を 要請しない.それゆえ,このたびのテクストは〈論争の彼方において,司牧的な心を以て,あらゆるイデオロギーの外において 成されるべき〉心静かな省察の努力を求めるものである.
たとえ 幾人かの司教たちが〈今のところは それらの祝福を与えないのが 賢明である と〉考えるとしても,やはり,我々は 皆 このことの確信において 成長せねばならない:すなわち,儀式化されていない祝福[複数]は〈それらを受ける個人またはカップルを〉聖別することにはならず,〈彼らがしていることを〉正当化することにもならず,また〈彼らの生き方を〉認可することにもならない[ということの確信].Papa
Francesco は,我々に〈より大きな《司牧的祝福の》内包において 成長するよう〉求めたときに,我々に〈このような祝福のしかたについて考えるよう〉提案したのである:すなわち,この単純な〈司牧的な近しさの〉所作 — それは〈非常に多様な状況のただなかにおいて〉神へ開かれてあるよう 促すための 手段である — に あまり多くの条件を措定する必要のない 祝福のしかた.
5. そのような司牧的祝福は 具体的に 如何なるものか?
「司牧的祝福」は,〈典礼的な または 儀式化された 祝福から〉明瞭に区別されるために,なかんづく 非常に短いものでなければならない (cf. Fiducia supplicans no. 38). かかわっているのは〈Rituale Romanum[ローマ儀式書]も De
Benedictionibus[祝福書]も用いない〉数秒間の祝福である.祝福を求めるために ふたりの人々が いっしょに[司祭である我々に]近づいてくるとき,我々は 単純に[これらのことを]主に 求める —〈祝福を求める それらふたりの人々のために〉平和,健康,そのほかの善きこと.また,我々は このことをも 求める:彼れらが キリストの福音に十全に忠実に生きることができるようになること — 聖なる息吹が それらふたりの人々を〈神の意志に応えていないこと すべてから — 浄めを必要とすること すべてから —〉解放してくださるために.
そのような〈儀式化されていない〉形の 祝福は,その形の簡素さと短さにおいて〈道徳的に容認され得ないような何ごとかを正当化することを〉意図していない.このことは 明瞭である:そのような祝福の対象であるのは 結婚ではない;また,そのような祝福は,何ごとかの visto bueno[承認]でも 認可でもない.かかわっているのは,単純に,司牧者の〈神の助けを求めるふたりの人々への〉応えである.それゆえ,そのような場合,司牧者は[祝福を求める人々に対して そのために必要な]条件を 求めないし,彼れらがどのような私生活をおくっているのかを 識ろうともしない.
そのような祝福が如何なるものであり得るのかを理解することが難しいと表明している人々もいるので,具体例を見てみよう.こう想像してみよう:巡礼ツアーの最中に,あるカップル — その夫婦は ともに 過去に離婚を経験しており,今は 新たな結婚生活を生きている[ただし,前の結婚に関して 婚姻無効宣言を受けないままに]とする — が,司祭に こう言う :「お願いです,わたしたちに祝福を与えてください;わたしたちは 失業しています;夫は とても病気です;住むところもありません;生きることは わたしたちにとって とても重荷になっています.神さまが わたしたちを 助けてくださいますように」.
そのような場合,司祭は たとえば このような 簡単な祈りを言うことができる:
主よ,ここにいる あなたの子どもたちを 顧みてください;彼らに 健康と 仕事と 平和と 互いに助け合うことを 与えてください;あなたの福音に矛盾すること すべてから 彼れらを解放してください;そして,彼らがあなたの意志にしたがって生きることができるようにしてください.Amen.
そして,司祭は 最後に ふたりのそれぞれに対して 十字の徴を切る.
それにかかる時間は 10秒から 15秒である.そのような形の祝福を〈それを求めてきた ふたりに対して〉拒むことに,意味があるだろうか? このような労を取ることに 価値は無いのだろうか:神の祝福を以て,彼れらの信仰 — それが 小さいものであれ 大きいものであれ — を 支え,彼らの弱さを助け,そして,そうすることによって〈福音により忠実であることへ彼れらを導き得る 超越性へ〉彼らが開かれてあるようにする[労を取ること]?
もし 万一 疑問が残るならば,その場合に備えて,布告は こう付け加えている:
祝福の祈りが〈イレギュラーな状況にあるカップルによって〉求められたときには,その祝福は〈たとえ 典礼書によって規定された儀式の埒外において 授けられる場合でも〉決して〈riti
civili di unione[異性どうしのカップルであれ 同性どうしのカップルであれ,結婚 または civil
union を 当該カップルが 市区町村の役所に 届け出るときに,市区町村の長 または その代理人が 彼れらの求めに応じて 執り行うことができる 簡単な儀式(複数)]と同時に〉行われてはならないし,また〈それら
[ riti civili di unione ] との連接において〉行われてもならない;さらには,結婚の[秘跡を授かる際の]衣服や 所作や 言葉を以て[行われてもならない].同じことは,祝福が同性どうしのカップルによって求められたときにも,適用される (39).
したがって,こう理解すべきである:[イレギュラーな状況にあるカップル および 同性どうしのカップルに対する]祝福は,聖堂内の目立つ場所や 祭壇のまえで 行われてはならない — なぜなら そのようなことも やはり[結婚の秘跡の儀式との]混同を生ぜしめ得るからである.
それゆえ,布告 Fiducia supplicans によって,各司教は,彼の教区において〈その布告において述べられている慎重さと用心深さすべてを以て,単純な形の祝福を[イレギュラーな状況にあるカップル および 同性どうしのカップルに]与えることを〉許可されている;だが,典礼的儀式に類似し得る祝福を 提案し または 与えることは〈如何なるしかたにおいても〉許可されていない.
6. カテケーシス
おそらく,このことを理解するのを助けるカテケーシスが必要となる場所も あるだろう:その[布告において提起された]形の祝福は〈それを求める者たちがおくっている生活を〉認可するものではない[ということ].また,そのような祝福は,罪の赦しでは なおさら ない;なぜなら,それらの[祝福の]所作は〈秘跡や儀式であることからは〉ほど遠いものであるから.それらは〈秘跡や正式な儀式と同じ条件を要請しない〉単純な〈司牧的な近しさの〉表現である.我々は,このことを受けいれることに慣れねばならない:もし ある聖職者が そのような簡単な形の祝福を[イレギュラーな状況にあるカップル または 同性どうしのカップルに]与えるとしても,彼は 異端者であるわけではないし,何かを認可したわけでもないし,また,カトリックの教義を否定したわけでもない.
我々は,神の民を〈このことを発見するよう〉助けることができる:そのような形の祝福は,単に〈人々の信仰を — たとえ重大な罪を犯した者の場合でも
— 表現することを 助ける〉簡単な司牧的手段であるだけである.それゆえ,我々は,祝福を〈それを求めるために 自発的にやって来た ふたりの人々に〉与えることによって,彼れらを聖別しているわけではなく,彼れらを祝っているわけでもなく,彼らの繋がりを承認しているわけでもない.実際,我々が個人を祝福する際も,事態は同様である;なぜなら このゆえに:その〈祝福 — 罪の赦しではなく — を求める〉個人は,重大な罪を犯した者であるかもしれない;だが,だからといって 我々は 彼に対して〈彼が生き続けようと努力しているときに〉我々の父性的な所作を拒むことはない.
もし 以上のことが 良いカテケーシスによって 明らかにされるならば,我々は〈我々の祝福が 何か不適切なことを表現しているのではないか という 恐れから〉解放され得るだろう;我々は,誤解されることを恐れることなく,このような司牧者になることができるだろう:父性と近しさの所作に満ちた司牧職を担いつつ,より自由である 司牧者;そして たぶん より近しく かつ より実り多い 司牧者.
我々は〈先日 降誕祭を迎えたばかりの 主に〉求めよう:我々が〈聖なる かつ 幸福な 2024年を〉生きることができるために,主が〈すべての者たちのうえに〉惜しみない 無償の 祝福を 注いでくださいますように.
教理省長官 Víctor Manuel Fernández 枢機卿
教理省 教義部門 書記 Mons. Armando Matteo
******