2024年1月28日日曜日

Papa Francesco および 教理省長官 Fernández 枢機卿による〈布告 Fiducia supplicans に関する〉幾つかの補足説明

2024年01月26日,教理省の全体会議の参加者たちに 講話する Papa Francesco

20231218日に 発表された 布告 Fiducia supplicans[祝福を懇願する信頼] 即座に 非常に強い反応 — 肯定的なものも 否定的なものも — を惹起したことを受けて,Papa Francesco  教理省長官 Víctor Manuel Fernández 枢機卿は,その後,幾つかの補足説明を 発表している.

それらを列挙すると,まず Fernández 枢機卿は,20240104日に「Fiducia supplicans の受け取り方に関する 報道声明」を発表した.

次いで,Papa Francesco は,114日に イタリア国営ラジオテレビ局の あるテレビ番組で ライブ放送された インタヴューのなかで,司会者の質問に応えて,こう言っている:「主は 祝福する  彼のところに来る者たちを みんな,みんな,みんな」(Il Signore benedice tutti, tutti, tutti che vengono). 

さらに,Papa Francesco は,20240126日に,教理省の全体会議の参加者たちに対する 彼の講話の最後のところで,こう言っている:

この〈福音宣教という〉文脈において,わたしは,また,最近の 布告 Fiducia supplicans にも 言及しよう.「司牧的な かつ 自発的な 祝福」の 目的は,このことである:〈信仰の道を歩み続ける — あるいは ときとして 歩み始める — ために 助けを求める 人々 — 彼らは さまざまな状況のなかに いる — すべてに対して〉主と教会の近しさを 具体的に 示すこと.わたしは,手短に,ふたつのことを 強調したい : 1) それらの〈あらゆる《典礼的な特徴を有する》文脈および形式の埒外において成される〉祝福[複数]は,それらを受ける条件として,道徳的な完璧さを要請しない ; 2) それらを求めるために カップルが 自発的に 近づいてくるときに,我々[牧者]が祝福するは[そのカップルの]l’unione[そこにおいて ふたりが ひとつに成るところの 繋がり,結びつき : cf. Gn 2,24「それゆえ,男は〈彼の父 および 彼の母から〉離れる;そして,彼の女[妻]に 付く;そして,彼れらは ひとつの肉に成る」]ではなく,しかして,単純に,ふたりでいっしょに祝福を求めにきた[ふたりの]個人 (le persone) である.[我々が祝福するのは]l’unione ではなく,しかして le persone である — 勿論,これらのことを 考慮に入れつつ:そこにおいて そのとき 我々[祝福を求めるカップル および 祝福する牧者]が 生きているところの 状況の 文脈,敏感さ,場所;および[そこにおいて]最も適切である〈祝福の〉しかた.

2024年1月16日火曜日

パパ フランチェスコ:主は 祝福する — 彼のところに来る者たちを みんな,みんな,みんな!


パパ フランチェスコ:主は 祝福する — 彼のところに来る者たちを みんな,みんな,みんな!




イタリアの国営ラジオテレビ放送局 Radiotelevisione italiana テレビ番組 Che tempo che fa[今 どんな天気?]で 1 14 日曜日 19:30 生放送された 遠隔インタヴューで,Papa Francesco 初めて みづから 教理省の布告 Fiducia supplicans[祝福を懇願する信頼]について 語った.

Papa Francesco ことばは おおむね この Vatican News 記事 書き起こされている;だが,実際にテレビ放送のなかで取り上げられた話題の順序と 記事のなかで提示されている話題の順序とは 異なっている.

実際のインタヴューのなかでは,司会者 Fabio Fazio は,冒頭で,Papa Francesco 彼の健康について 問う;それに対して,彼は “Sono ancora vivo”[わたしは まだ 生きている]と答える;そして,健康問題の文脈において 教皇辞任の可能性は如何 と問う 司会者の質問に対しては,彼は「今のところ,辞任を考えてはいないし,辞任したいと思ってもいない」と答える.

次いで,話題は すぐに ウクライナとガザにおける戦争に 移る.

第三の話題は 罪の赦しである.そこにおいて,Papa Francesco 強調する:神が 赦しを与えることに 倦むことは 決してない;むしろ,我々が 神に赦しを請うことに 倦んでしまうのだ.

第四に,教会の普遍的包容性 (universal inclusivity) Papa Francesco 強調する そして,その文脈において,彼は こう述べる:「主は 祝福する [彼のもとに]来る者たちを — tutti, tutti, tutti[みんな,みんな,みんな]」.

インタヴューのなかで そのあと 取り上げられた話題を列挙すると:教会の改革;移民問題;なぜ しばしば「わたしのために祈ってください」と聴衆に願うのか;祈るときに 神の顔をどのようなものとして思い浮かべるか;今年の後半に予定されているポリネシアとアルゼンチンへの訪問;子ども時代の思い出;微笑ませるもの;人生で最も重要なこと.

当該のインタヴューを 全部 邦訳している 余裕は ないので,以下に Fiducia supplicans に関連する部分 および その他の特に注目される部分 のみ 邦訳する.

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司会者 Fabio Fazio が〈20238月の World Youth Day リスボン大会において Papa Francesco 発した「教会のなかには みんなのために 居場所がある みんな,みんな,みんな!(En la Iglesia hay lugar para todos – ¡todos, todos, todos!) という 力強い言葉に〉言及したあとで,しかし〈皆を迎え入れ,誰をも排除しない教会を〉喜ばない人々 断罪と処罰にもとづいて権力を作り出した人々 もいるのではないか 問うたことに対して:

Papa Francesco :

教会は,この〈心からの〉次元を 有している;それは[神の]心から来るものである:[教会のなかで]皆が[自分の]家に いること;皆が うちに いること.[実際]主は こう言っている この〈主の〉譬え (cf. Mt 22,01-14; Lc 14,15-24) とても わたしの気に入っているものである :[主の]息子の婚宴に招かれていた者たちが 各人の利害のゆえに 来なかったとき,主は 彼のしもべたちに 言う:

通りの十字路へ行って,すべての者たちを 連れてきなさい 善人も 悪人も,健常者も 病人も,若者も 老人も

みんな,みんな,みんな.皆が[神の家の,教会の]なかに 入る.それが 主の招きである.そして,各人が 自身の重荷を以て[やって来る]なぜなら,各人が 固有の重荷を 背負っているから.しかし,主は 言う:「みんな[来なさい,そして,なかに入りなさい]」.

そう言っているのは 主である;わたしがそう言っているのではない.

問題が生ずるのは,我々が選別をするときである:「この人は よい,この人は だめ

主が そのようなことを するだろうか?[否,主は]我々 皆を[招いている].そして[皆が なかに入ったならば]そのとき,なかで[どうすればよいかを]見てみよう.

次いで,Fabio Fazio は,教理省の布告 Fiducia supplicans に言及するために,こう切り出す:「Santo Padre, わたしは あなたが 御自身を 孤独と感じているのではないか と思います 特に[このような]決断ないし選択をするとき [それらの決断や選択は]Curia Romana の一部 司教たちの一部や 信者たちの一部から 感覚的な反応を 惹起する 例を挙げるなら,教理省が最近発表した〈イレギュラーなカップルや同性カップルの祝福に関する〉布告です:

Papa Francesco :

いかにも,何らかの決断をするときには,孤独という代価を支払わねばならないことがある;そして,ときとして[わたしの]決断は[他者たちから]受容されない;だが,たいていの場合,人々が[わたしの]決断を受容しないとき,それは,彼らが[問題を]わかっていないからである.

わたしは こう言おう:もし[わたしの]しかじかの決断が あなたにとって 気に入らないならば,[それについて 誰かに]話しに行きなさい;そして,あなたの疑問を[その誰かに]言いなさい;そして,兄弟愛にもとづく議論を 進めなさい;そうすれば,事態は 前進する.

危険なのは こうなることである :「わたしは それが 気に入らない;そこで,わたしは そのことを わたしの心のなかに しまいこむ;かくして,わたしは 抵抗感を持ったままとなり,そして,悪しき結論を くだす」.それが,あの最近の〈皆を祝福することに関する〉決断について 起きたことである.

主は 祝福する 彼のところに]来る者たちを みんな,みんな,みんな.主は 祝福する 洗礼され得る者たちすべてを すなわち,あらゆる人を.

そして[祝福を受けた]人々は,次いで,主の祝福との対話へ入らねばならない;そして,主が彼らに提示している道は如何なるものであるかを 見なければならない.

そして,我々[司牧者たち]は[彼らの]手を取って,彼らを〈その[主が提示している]道を歩むよう〉助けねばならない;始めから 彼らを[homosexual であるがゆえに,あるいは,イレギュラーな結婚の状態にあるがゆえに]断罪してはならない.

そして,それが 教会の司牧の仕事である.

それは[特に]聴罪司祭にとって とても重要な仕事である.わたしは,聴罪司祭たちに いつも こう言う:あなたたちは あらゆること[罪]を赦しなさい;そして,主が我々を遇したように,大いに善意を以て 人々を遇しなさい;次いで,人々を助けたいと思うならば,あなたたちは 常に 彼らに語りかけ,彼らを前進させることができる;彼らが前進するのを助けることができる;だが[まず]赦すこと すべての人々を.

わたしの 54 年間の 司祭生活のなかで これは 告解だ わたしは 54 年間 司祭をしている わたしは老いた ! この 54 年間に,わたしは 一度だけ 赦しを拒んだことがある その人の偽善のゆえに.一度だけ.わたしは いつも あらゆること[罪]を 赦してきた;だが,わたしは 自覚的に〈この人は たぶん 再び罪に陥るだろう と〉言うこともある.だが,主は 我々を 赦してくださる.再び罪に陥らないよう 助けること;あるいは,再び罪に陥ることがより少なくなるよう 助けること;だが,ともあれ,いつも赦すこと.

ある偉大な聴罪司祭 (Luis Pascual Dri) — わたしは 彼を 最近の枢機卿会議[20230930日に行われたもの]で 枢機卿に 任命した は,94 歳[彼は 19270417日生まれなので,正確には 現在 96歳]の 男だ;彼は,アルゼンチンの カプチン会の修道士だ.彼は,大いに寛容に赦す者である 我々が “di manica larga”[袖が広い:寛大である,寛容である]と言うように ;彼は あらゆること[罪]を 赦す.彼は,あるとき わたしが[ブエノスアイレス]大司教であったとき 大司教館に来て,わたしに言った :「聞いてくれ,Jorge, わたしは この問題を有している:わたしは 赦しすぎる;ときとして,これはよくないことだという感覚が わたしに 起こる」「で,きみは どうするのだ,Luis?「礼拝堂に行って,主に赦しを求める [こう言って:]主よ,わたしを赦してください;わたしは赦しすぎました しかし,あなたが わたしに 与えたのです 悪い手本を!」それは 真である.我々は あらゆること[罪]を赦さねばならない なぜなら,彼[主]が 我々を赦してくれたから.彼が 我々に あの「悪い手本」を与えたのだ.

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以上が 祝福に関する部分である.そこにおいて,我々は,Fiducia supplicans あの「みんな,みんな,みんな!」が要約する 教会の「普遍的包容性」(universal inclusivity) — それは 明らかに「普遍的救済」(salus universalis) または「普遍的和解」(reconciliatio universalis) と関連する の文脈に位置づけられるものであることを,明確に読み取ることができる.

そして,この「みんな,みんな,みんな!」は synodal Church[みんながともに歩む教会]の 標語 — それを Papa Francesco は 2023年10月のシノドス総会の開始の 2 ヶ月まえに World Youth Day に集った 150万人の若者たちのまえで 披露している — である.

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そのほか,「祈るときに,神の顔を如何なるものと想像するか」と「人生において最も重要なもの」に関する Papa Francesco の答えを 邦訳しておこう.

「あなたは,祈るときに,神の顔を どう 想像しますか?」という Fabio Fazio の「子どもっぽい」質問に対して:

Papa Francesco : 

わたしが有しているのは,福音書[において 描かれている]イメージである.わたしは,神を こう想像することを 好む:寛容な父 (cf. Lc 15,11-32) — あの息子 彼は,遠方の地へ行って,財産を使い果たし,傷ついて 戻ってくる 迎え入れる 父.息子は こう言おうと準備している:「お父さん,わたしは 天に対して そして あなたに対して 罪を犯しました だが,父は,抱擁を以て,彼[息子]に ほとんど 話させない.

わたしは,そのように抱きしめてくれる主を思い浮かべることを 好む.わたしが「わたしは しかじかのことで 失敗しました」と言おうとするとき,彼は 彼の手で わたしに このようにしてくれ,そして,わたしに言う:「それでも,前進しなさい,前進しなさい,前進し続けなさい」そのような主を思い浮かべることを わたしは好む.我々を後押ししてくれる 我々が前進するように ;我々の罪に大騒ぎしない なぜなら,彼は父であり,我々に寄り添ってくれているから.

彼[主]は,当然,我々を罪人と見なしている.そして,彼は 問う:罪人に寄り添うか,あるいは,罪人を すぐさま 地獄へ 送るか.そして,彼は,我々に寄り添うことを 選ぶ.そして,そのためにこそ,彼は 彼の息子を 遣わした 我々に寄り添うために.主は,彼の息子を 世へ 遣わした 世を断罪するためにではなく,しかして,世を救済するために.そう 典礼は 言っている.

以上を受けて,Fabio Fazio 地獄に関して Papa Francesco 問う:「その意味において そのお話しによれば 地獄を想像することは さらに難しくなりますね? 誰かを永遠に断罪する父を想像することは 難しくなりますね?」

Papa Francesco :

いかにも,そのような父を想像することは 難しい.以下に述べることは,信仰の教義ではなく,しかして,わたしの個人的な考えである:わたしは こう考えることを 好む:地獄は からっぽである.それは わたしの好みである;わたしは〈実際 そうであってほしい と〉望む;しかし,それは わたしの好みである.[つまり,それは カトリック教会の教義ではない.]

最後に Fabio Fazio こう問う:「あなたは 同意しますか こう言う人に:『人生の意味は 愛することを学ぶことである;それが,我々が〈我々の人生のなかで為し得る〉最も重要なことである』?」

Papa Francesco :

それは,ひとつの〈大いなる真理を言うための〉言い方である.人生の道程を〈愛することを学ぶ ということを以て〉要約してもよい.そして,いつも〈よりいっそう愛することを〉学ぶことが できる.また,かくも多くの人々が,あの英雄的な愛 それは,彼らを 死へ 他者のために 自身のいのちを与えることへ 向かわせた 例を あなたに 与えている.「愛することを学ぶ」という表現は,わたしの気に入った.

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Papa Francesco の「わたしは〈地獄が からっぽである と〉考えることを 好む」という発言も,注目を集めているようである.なぜ 地獄は からっぽであるのか? それは,主が〈冥界にくだったときに〉そこにいる人々すべてを 救済したからである.

2024年1月7日日曜日

Fiducia supplicans[布告:祝福を懇願する信頼]の受け取り方に関する 2024年01月04日付の 教理省の 報道声明

Fiducia supplicans の発表の翌日,20231219日,Jason Steidl Jack(左)と 彼の夫 Damian Steidl Jack とを Manhattan にある Jesuit Residence で 祝福する James Martin 神父 SJNYT の記事 および Jason Steidl Jack 氏自身による記事 参照)

教皇庁の教理省長官 Víctor Manuel Fernández 枢機卿は,20231218日に発表した 祝福に関する布告 Fiducia supplicans邦訳:祝福を懇願する信頼]に対する さまざまな方面からの positive あるいは negative 反応を受けて,20240104日,同布告に関する注釈となる 文書 Comunicato stampa circa la ricezione di Fiducia supplicans を発表した.以下に その全文の邦訳を 提示する(本文中の太字による強調は 訳者によるもの).

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教理省
 

Fiducia supplicans[布告:祝福を懇願する信頼]の受け取り方に関する 報道声明

 
20240104


我々が この声明を書くのは〈Fiducia supplicans[布告:祝福を懇願する信頼]をどう受け取ればよいのかを 明確にするのを〉助けるためである;[当然ならが]同布告が提示していることの意味をより良く理解するために,同布告を 完全に かつ 注意深く 読むことが 推奨される.


1. 教義

いくつかの国々の司教協議会の〈この文書 Fiducia supplicans に関する〉了解可能な声明は,より長い〈司牧的省察の〉時間の必要性を強調するという長所を,有している.それらの司教協議会が表明していることは〈教義上の反対とは〉解釈され得ない;なぜなら このゆえに:同文書 (Fiducia supplicans) は〈結婚 および sexuality に関しては〉明瞭 かつ 古典的である.同布告の 幾つかの文章の 強い表現は,如何なる疑問の余地も 残さない:

この布告は,結婚に関する 伝統的な〈教会の〉教義のうえに しっかり とどまっており,[結婚の秘跡を授ける典礼儀式との]混同を生ぜしめ得るような 典礼儀式 ないし 典礼儀式に類似する祝福は 如何なる類型のものも 許可していない.しかして,この文書の価値は このことに存する:祝福の司牧的な意義に対して 特異的かつ革新的な貢献 それは〈祝福の《典礼的視野に密接に連結する》古典的な内包を 拡大し,豊かにすることを〉可能にする を提供すること.[…] まさに そのような文脈においてこそ,イレギュラーな状況にあるカップル[夫婦のうち一方または両方が,前配偶者と民法上離婚した後 教会から結婚無効宣言を受けないまま 新たな配偶者と民法上結婚している場合]および 同性どうしのカップルを 祝福する ただし,彼らの現状を公式に有効化することも,結婚に関する教会の永続的な教えを 如何なるしかたにおいてであれ 変更することも なく 可能性は 理解され得る.(提示)

結婚の構成条件 すなわち[結婚とは]ひとりの男と ひとりの女との〈排他的な,安定的な,解消不可能な,そして,子を生む可能性へ自然的に開かれている〉繋がり」である それに矛盾するものとの間の 混同を 生ぜしめるかもしれない 儀式や祈りは,認められ得ない.その確信は,カトリック教会の〈結婚に関する〉永続的な教義に 基づけられている.その文脈においてのみ,性関係は その〈自然的な,適切な,十全に人間的な〉意味を 見出す.教会の教義は,その点に関しては,確固としている (4).

それは,また,旧 教理省の Responsum そこにおいては「教会は 同性どうしの間の繋がりに 祝福を与えることはできない」と 断定されている 意味でもある (5).

それゆえ,教会は 常に〈結婚のなかで経験される性関係のみを〉道徳的に合法的なものと考えてきたのであれば,典礼的祝福が〈[民法上は]結婚と見なされる[が 教会法上は結婚とは呼べない]繋がり または 婚外の性行為に〉何らかのしかたで 道徳的合法性の形を提供し得るときには,教会は 典礼的祝福を授けることはできない (11).

以上から明かなように,教義の観点から〈同布告に対して〉距離を取る理由は 無く,また,それを〈異端であるとか 教会の伝統に反しているとか 冒瀆的であるとかと〉見なす理由も 無い.


2. 祝福の実践に関する[Fiducia supplicans の]受け取り方

だが,幾人かの司教たちは,なかんづく 実践的な側面 イレギュラーな状況にあるカップルに対する祝福は 如何なるものであり得るか に関して,意見を表明した.今回の布告が提案しているのは〈イレギュラーな状況にあるカップル(彼らの絆ではなく)に対する〉短く 簡単な 司牧的祝福(典礼的ではなく,儀式化もされていない 祝福)である;つまり,それらの祝福は,典礼的な形式を有しておらず,また,当事者たちの状況を是認するものでも正当化するものでもない.

今回の Fiducia supplicans のような 教理省の諸文書は,それらの実践的な側面においては,地域的な文脈によって 教区司教おのおのが〈彼の教区とともにおこなう〉識別に応じて それら[諸文書]の適用のために 時間を 多かれ少なかれ 必要とし得る.一方で,即座の適用に対する困難を特に見出さない地域もあれば,他方では,当該文書を読み,解釈するために必要な時間をかけつつ,革新的なことはしないでおく必要性を感ずる地域もあるだろう.

たとえば,こう取り決めた司教も いる :「教区の司祭は おのおの[祝福の是非に関して]識別をおこなってよいが,ただし,祝福をおこなってよいのは 私的な状況においてのみである」.そのような取り決めには 何の問題もない もし それが〈最高聖職者[Sommo pontefice : 教皇]が 署名し 承認した テクストに対する 敬意を 有する 限りにおいて,かつ,それが含む省察を 何らかのしかたで 受容しようとする 意図を 有する 限りにおいて〉表明されるのであれば.

各教区の司教は,常にそうであったように,彼固有の機能に応じて〈教区ごとに,すなわち,彼が ほかの誰よりも よく識っている なぜなら かかわっているのは 彼の[羊の]群であるから その具体的な場所において識別をおこなう権限を有している.慎重さ および〈各教区の教会が有する事情 および 地域文化に対して払うべき〉注意に応じて,さまざまな適用様態が 容認され得る;だが,このたび 司祭たちに対して提示された 歩み[イレギュラーな状況にあるカップル および 同性どうしのカップルのための 祝福という 歩み] まったく ないし 決定的に 否定することは,容認され得ない


3. いくつかの国々の デリケートな状況

いくつかの国々の司教協議会のケースは その文脈において 了解されねばならない.複数の国々において〈短期的視野を超える 時間 および 司牧戦略を 要する〉文化的な さらには 司法的な 問題が,存在する.

[容易に]理解されるように,単純に〈自身が gay であることを〉公言することを〈禁固 また,ほかの場合には,拷問,さらには 死刑 を以て〉罰する 法律が 存在する 国々においては,[同性どうしのカップルを]祝福することは 無謀である.当然ながら,司教たちは〈homosexual 人々を 暴力の危険へ曝すことを〉欲しない.重要なのは このことである:それらの国々の司教協議会は〈教皇によって承認された布告の教義とは 異なる教義を〉支持しているわけではない なぜなら このゆえに:かかわっているのは[同じ]古来の教義であり,ただ,それらの国々の司教協議会は,そのような状況において,司牧的な慎重さを以て行動するために,検討と識別の必要性を提起しているだけである.

実際〈homosexuality さまざまな程度に 断罪し 禁止し 犯罪化している〉国々は,少なくない.そのような場合は,[同性カップルの]祝福の問題を超えて,このような〈長期的 かつ 広大な〉司牧的課題が 存在する:それは これらのことを 含む:人間の尊厳を教えること,人間の尊厳を擁護すること,教会の社会教説を教えること,そして,さまざまな〈性急さを容認しない〉司牧戦略.


4. このたびの布告の まことの新しさ

このたびの布告の まことの新しさ それは 寛容な〈受容の〉努力を 要請し,かつ,そこから排除されていると宣告されるような者は ひとりも あっては ならない は,イレギュラーな状況にあるカップルを祝福する可能性ではない.[そうではなく]それ[Fiducia supplicans まことの新しさ]は,このことに 存する:ふたつの相異なる〈祝福の〉形 一方に,典礼的な または 儀式化された 祝福;他方に,自発的な または 司牧的な 祝福 区別するよう いざなうこと.[Fiducia supplicans の]提示において,こう 明瞭に 説明されている:

この文書の価値は このことに存する:祝福の司牧的な意義に対して 特異的かつ革新的な貢献 それは〈祝福の《典礼的視野に密接に連結する》古典的な内包を 拡大し,豊かにすることを〉可能にする を提供すること.この〈Papa Francesco 司牧観に基づく〉神学的考察は〈教会の Magistero[教導の権威]および 公式文書のなかで 祝福について述べられてきたことに対して〉まことの進展を 包含している.

[このたびの布告の]背景にあるのは,「民の司牧教書」(la “pastorale popolare”) の肯定的な評価 それは 聖父の多数のテクストのなかに 現れている である.その文脈において,彼は 我々を〈神の民の素朴な信仰を評価するよう〉いざなっている;[というのも]神の民は,罪のただなかにおいてさえ,内在性から出て,[超越性としての]神の助けを求めるために 心を開く[からである].

その理由により,このたびの教理省のテクストは,イレギュラーな状況にあるカップルに関する以上に,より高次の「布告」(Dichiarazione) という形を取ったのである;それは,Responsum ad dubium[疑問への回答]や書簡より以上のものである.その中心的な主題 それは 我々を 特に〈我々の司牧実践をより豊かにする〉深化へ 招く は,より大きな〈祝福の〉内包 および〈司牧的祝福を拡張しようという〉提案である;そのような祝福は,かならずしも〈典礼や儀式の文脈において成される祝福とは〉同じ条件を 要請しない.それゆえ,このたびのテクストは〈論争の彼方において,司牧的な心を以て,あらゆるイデオロギーの外において 成されるべき〉心静かな省察の努力を求めるものである.

たとえ 幾人かの司教たちが〈今のところは それらの祝福を与えないのが 賢明である と〉考えるとしても,やはり,我々は このことの確信において 成長せねばならない:すなわち,儀式化されていない祝福[複数]は〈それらを受ける個人またはカップルを〉聖別することにはならず,〈彼らがしていることを〉正当化することにもならず,また〈彼らの生き方を〉認可することにもならない[ということの確信].Papa Francesco は,我々に〈より大きな《司牧的祝福の》内包において 成長するよう〉求めたときに,我々に〈このような祝福のしかたについて考えるよう〉提案したのである:すなわち,この単純な〈司牧的な近しさの〉所作 それは〈非常に多様な状況のただなかにおいて〉神へ開かれてあるよう 促すための 手段である あまり多くの条件を措定する必要のない 祝福のしかた.


5. そのような司牧的祝福は 具体的に 如何なるものか?

「司牧的祝福」は,〈典礼的な または 儀式化された 祝福から〉明瞭に区別されるために,なかんづく 非常に短いものでなければならない (cf. Fiducia supplicans no. 38). かかわっているのは〈Rituale Romanum[ローマ儀式書]も De Benedictionibus[祝福書]も用いない〉数秒間の祝福である.祝福を求めるために ふたりの人々が いっしょに[司祭である我々に]近づいてくるとき,我々は 単純に[これらのことを]主に 求める 祝福を求める それらふたりの人々のために〉平和,健康,そのほかの善きこと.また,我々は このことをも 求める:彼れらが キリストの福音に十全に忠実に生きることができるようになること 聖なる息吹が それらふたりの人々を〈神の意志に応えていないこと すべてから  浄めを必要とすること すべてから 解放してくださるために.

そのような〈儀式化されていない〉形の 祝福は,その形の簡素さと短さにおいて〈道徳的に容認され得ないような何ごとかを正当化することを〉意図していない.このことは 明瞭である:そのような祝福の対象であるのは 結婚ではない;また,そのような祝福は,何ごとかの visto bueno[承認]でも 認可でもない.かかわっているのは,単純に,司牧者の〈神の助けを求めるふたりの人々への〉応えである.それゆえ,そのような場合,司牧者は[祝福を求める人々に対して そのために必要な]条件を 求めないし,彼れらがどのような私生活をおくっているのかを 識ろうともしない.

そのような祝福が如何なるものであり得るのかを理解することが難しいと表明している人々もいるので,具体例を見てみよう.こう想像してみよう:巡礼ツアーの最中に,あるカップル その夫婦は ともに 過去に離婚を経験しており,今は 新たな結婚生活を生きている[ただし,前の結婚に関して 婚姻無効宣言を受けないままに]とする が,司祭に こう言う :「お願いです,わたしたちに祝福を与えてください;わたしたちは 失業しています;夫は とても病気です;住むところもありません;生きることは わたしたちにとって とても重荷になっています.神さまが わたしたちを 助けてくださいますように」.

そのような場合,司祭は たとえば このような 簡単な祈りを言うことができる:

主よ,ここにいる あなたの子どもたちを 顧みてください;彼らに 健康と 仕事と 平和と 互いに助け合うことを 与えてください;あなたの福音に矛盾すること すべてから 彼れらを解放してください;そして,彼らがあなたの意志にしたがって生きることができるようにしてください.Amen.

そして,司祭は 最後に ふたりのそれぞれに対して 十字の徴を切る.

それにかかる時間は 10秒から 15秒である.そのような形の祝福を〈それを求めてきた ふたりに対して〉拒むことに,意味があるだろうか? このような労を取ることに 価値は無いのだろうか:神の祝福を以て,彼れらの信仰  それが 小さいものであれ 大きいものであれ   支え,彼らの弱さを助け,そして,そうすることによって〈福音により忠実であることへ彼れらを導き得る 超越性へ〉彼らが開かれてあるようにする[労を取ること]?

もし 万一 疑問が残るならば,その場合に備えて,布告は こう付け加えている:

祝福の祈りが〈イレギュラーな状況にあるカップルによって〉求められたときには,その祝福は〈たとえ 典礼書によって規定された儀式の埒外において 授けられる場合でも〉決して〈riti civili di unione[異性どうしのカップルであれ 同性どうしのカップルであれ,結婚 または civil union 当該カップルが 市区町村の役所に 届け出るときに,市区町村の長 または その代理人が 彼れらの求めに応じて 執り行うことができる 簡単な儀式(複数)]と同時に〉行われてはならないし,また〈それら [ riti civili di unione ] との連接において〉行われてもならない;さらには,結婚の[秘跡を授かる際の]衣服や 所作や 言葉を以て[行われてもならない].同じことは,祝福が同性どうしのカップルによって求められたときにも,適用される (39).

したがって,こう理解すべきである:[イレギュラーな状況にあるカップル および 同性どうしのカップルに対する]祝福は,聖堂内の目立つ場所や 祭壇のまえで 行われてはならない なぜなら そのようなことも やはり[結婚の秘跡の儀式との]混同を生ぜしめ得るからである.

それゆえ,布告 Fiducia supplicans によって,各司教は,彼の教区において〈その布告において述べられている慎重さと用心深さすべてを以て,単純な形の祝福を[イレギュラーな状況にあるカップル および 同性どうしのカップルに]与えることを〉許可されている;だが,典礼的儀式に類似し得る祝福を 提案し または 与えることは〈如何なるしかたにおいても〉許可されていない.


6. カテケーシス

おそらく,このことを理解するのを助けるカテケーシスが必要となる場所も あるだろう:その[布告において提起された]形の祝福は〈それを求める者たちがおくっている生活を〉認可するものではない[ということ].また,そのような祝福は,罪の赦しでは なおさら ない;なぜなら,それらの[祝福の]所作は〈秘跡や儀式であることからは〉ほど遠いものであるから.それらは〈秘跡や正式な儀式と同じ条件を要請しない〉単純な〈司牧的な近しさの〉表現である.我々は,このことを受けいれることに慣れねばならない:もし ある聖職者が そのような簡単な形の祝福を[イレギュラーな状況にあるカップル または 同性どうしのカップルに]与えるとしても,彼は 異端者であるわけではないし,何かを認可したわけでもないし,また,カトリックの教義を否定したわけでもない

我々は,神の民を〈このことを発見するよう〉助けることができる:そのような形の祝福は,単に〈人々の信仰を たとえ重大な罪を犯した者の場合でも 表現することを 助ける〉簡単な司牧的手段であるだけである.それゆえ,我々は,祝福を〈それを求めるために 自発的にやって来た ふたりの人々に〉与えることによって,彼れらを聖別しているわけではなく,彼れらを祝っているわけでもなく,彼らの繋がりを承認しているわけでもない.実際,我々が個人を祝福する際も,事態は同様である;なぜなら このゆえに:その〈祝福 罪の赦しではなく を求める〉個人は,重大な罪を犯した者であるかもしれない;だが,だからといって 我々は 彼に対して〈彼が生き続けようと努力しているときに〉我々の父性的な所作を拒むことはない.

もし 以上のことが 良いカテケーシスによって 明らかにされるならば,我々は〈我々の祝福が 何か不適切なことを表現しているのではないか という 恐れから〉解放され得るだろう;我々は,誤解されることを恐れることなく,このような司牧者になることができるだろう:父性と近しさの所作に満ちた司牧職を担いつつ,より自由である 司牧者;そして たぶん より近しく かつ より実り多い 司牧者.

我々は〈先日 降誕祭を迎えたばかりの 主に〉求めよう:我々が〈聖なる かつ 幸福な 2024年を〉生きることができるために,主が〈すべての者たちのうえに〉惜しみない 無償の 祝福を 注いでくださいますように.

教理省長官 Víctor Manuel Fernández 枢機卿

教理省 教義部門 書記 Mons. Armando Matteo

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