パパ フランチェスコ:主は 祝福する — 彼のところに来る者たちを みんな,みんな,みんな!
イタリアの国営ラジオテレビ放送局 Radiotelevisione italiana の テレビ番組 Che tempo che fa[今 どんな天気?]で 1月 14日 日曜日 19:30 に 生放送された 遠隔インタヴューで,Papa Francesco は 初めて みづから 教理省の布告 Fiducia supplicans[祝福を懇願する信頼]について 語った.
Papa Francesco の ことばは おおむね この Vatican News の 記事に 書き起こされている;だが,実際にテレビ放送のなかで取り上げられた話題の順序と 記事のなかで提示されている話題の順序とは 異なっている.
実際のインタヴューのなかでは,司会者 Fabio Fazio は,冒頭で,Papa
Francesco に 彼の健康について 問う;それに対して,彼は “Sono ancora vivo”[わたしは まだ 生きている]と答える;そして,健康問題の文脈において 教皇辞任の可能性は如何 と問う 司会者の質問に対しては,彼は「今のところ,辞任を考えてはいないし,辞任したいと思ってもいない」と答える.
次いで,話題は すぐに ウクライナとガザにおける戦争に 移る.
第三の話題は 罪の赦しである.そこにおいて,Papa
Francesco は 強調する:神が 赦しを与えることに 倦むことは 決してない;むしろ,我々が 神に赦しを請うことに 倦んでしまうのだ.
第四に,教会の普遍的包容性 (universal inclusivity) を Papa Francesco は 強調する — そして,その文脈において,彼は こう述べる:「主は 祝福する —[彼のもとに]来る者たちを — tutti, tutti, tutti[みんな,みんな,みんな]」.
インタヴューのなかで そのあと 取り上げられた話題を列挙すると:教会の改革;移民問題;なぜ しばしば「わたしのために祈ってください」と聴衆に願うのか;祈るときに 神の顔をどのようなものとして思い浮かべるか;今年の後半に予定されているポリネシアとアルゼンチンへの訪問;子ども時代の思い出;微笑ませるもの;人生で最も重要なこと.
今 当該のインタヴューを 全部 邦訳している 余裕は ないので,以下に Fiducia supplicans に関連する部分 および その他の特に注目される部分 のみ を 邦訳する.
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司会者 Fabio Fazio が〈2023年8月の World
Youth Day リスボン大会において Papa Francesco が 発した「教会のなかには みんなのために 居場所がある — みんな,みんな,みんな!」(En la Iglesia hay
lugar para todos – ¡todos,
todos, todos!) という 力強い言葉に〉言及したあとで,しかし〈皆を迎え入れ,誰をも排除しない教会を〉喜ばない人々 — 断罪と処罰にもとづいて権力を作り出した人々 — もいるのではないか と 問うたことに対して:
Papa Francesco :
教会は,この〈心からの〉次元を 有している;それは[神の]心から来るものである:[教会のなかで]皆が[自分の]家に いること;皆が うちに いること.[実際]主は こう言っている — この〈主の〉譬え (cf.
Mt 22,01-14; Lc 14,15-24) は とても わたしの気に入っているものである —:[主の]息子の婚宴に招かれていた者たちが 各人の利害のゆえに 来なかったとき,主は 彼のしもべたちに 言う:
通りの十字路へ行って,すべての者たちを 連れてきなさい — 善人も 悪人も,健常者も 病人も,若者も 老人も…
みんな,みんな,みんな.皆が[神の家の,教会の]なかに 入る.それが 主の招きである.そして,各人が 自身の重荷を以て[やって来る]— なぜなら,各人が 固有の重荷を 背負っているから.しかし,主は 言う:「みんな[来なさい,そして,なかに入りなさい]」.
そう言っているのは 主である;わたしがそう言っているのではない.
問題が生ずるのは,我々が選別をするときである:「この人は よい,この人は だめ…」
主が そのようなことを するだろうか?[否,主は]我々 皆を[招いている].そして[皆が なかに入ったならば]そのとき,なかで[どうすればよいかを]見てみよう.
次いで,Fabio
Fazio は,教理省の布告 Fiducia
supplicans に言及するために,こう切り出す:「Santo
Padre, わたしは あなたが 御自身を 孤独と感じているのではないか と思います — 特に[このような]決断ないし選択をするとき —[それらの決断や選択は]Curia Romana の一部 や 司教たちの一部や 信者たちの一部から 感覚的な反応を 惹起する — 例を挙げるなら,教理省が最近発表した〈イレギュラーなカップルや同性カップルの祝福に関する〉布告です:
Papa Francesco :
いかにも,何らかの決断をするときには,孤独という代価を支払わねばならないことがある;そして,ときとして[わたしの]決断は[他者たちから]受容されない;だが,たいていの場合,人々が[わたしの]決断を受容しないとき,それは,彼らが[問題を]わかっていないからである.
わたしは こう言おう:もし[わたしの]しかじかの決断が あなたにとって 気に入らないならば,[それについて 誰かに]話しに行きなさい;そして,あなたの疑問を[その誰かに]言いなさい;そして,兄弟愛にもとづく議論を 進めなさい;そうすれば,事態は 前進する.
危険なのは こうなることである :「わたしは それが 気に入らない;そこで,わたしは そのことを わたしの心のなかに しまいこむ;かくして,わたしは 抵抗感を持ったままとなり,そして,悪しき結論を くだす」.それが,あの最近の〈皆を祝福することに関する〉決断について 起きたことである.
主は 祝福する —[彼のところに]来る者たちを みんな,みんな,みんな.主は 祝福する — 洗礼され得る者たちすべてを — すなわち,あらゆる人を.
そして[祝福を受けた]人々は,次いで,主の祝福との対話へ入らねばならない;そして,主が彼らに提示している道は如何なるものであるかを 見なければならない.
そして,我々[司牧者たち]は[彼らの]手を取って,彼らを〈その[主が提示している]道を歩むよう〉助けねばならない;始めから 彼らを[homosexual
であるがゆえに,あるいは,イレギュラーな結婚の状態にあるがゆえに]断罪してはならない.
そして,それが 教会の司牧の仕事である.
それは[特に]聴罪司祭にとって とても重要な仕事である.わたしは,聴罪司祭たちに いつも こう言う:あなたたちは あらゆること[罪]を赦しなさい;そして,主が我々を遇したように,大いに善意を以て 人々を遇しなさい;次いで,人々を助けたいと思うならば,あなたたちは 常に 彼らに語りかけ,彼らを前進させることができる;彼らが前進するのを助けることができる;だが[まず]赦すこと — すべての人々を.
わたしの 54 年間の 司祭生活のなかで — これは 告解だ — わたしは 54 年間 司祭をしている — わたしは老いた ! この 54 年間に,わたしは 一度だけ 赦しを拒んだことがある — その人の偽善のゆえに.一度だけ.わたしは いつも あらゆること[罪]を 赦してきた;だが,わたしは 自覚的に〈この人は たぶん 再び罪に陥るだろう と〉言うこともある.だが,主は 我々を 赦してくださる.再び罪に陥らないよう 助けること;あるいは,再び罪に陥ることがより少なくなるよう 助けること;だが,ともあれ,いつも赦すこと.
ある偉大な聴罪司祭 (Luis Pascual Dri) —
わたしは 彼を 最近の枢機卿会議[2023年09月30日に行われたもの]で 枢機卿に 任命した — は,94 歳[彼は 1927年04月17日生まれなので,正確には 現在 96歳]の 男だ;彼は,アルゼンチンの カプチン会の修道士だ.彼は,大いに寛容に赦す者である — 我々が “di
manica larga”[袖が広い:寛大である,寛容である]と言うように —;彼は あらゆること[罪]を 赦す.彼は,あるとき — わたしが[ブエノスアイレス]大司教であったとき — 大司教館に来て,わたしに言った :「聞いてくれ,Jorge, わたしは この問題を有している:わたしは 赦しすぎる;ときとして,これはよくないことだという感覚が わたしに 起こる」—「で,きみは どうするのだ,Luis?」—「礼拝堂に行って,主に赦しを求める —[こう言って:]主よ,わたしを赦してください;わたしは赦しすぎました — しかし,あなたが わたしに 与えたのです — 悪い手本を!」それは 真である.我々は あらゆること[罪]を赦さねばならない — なぜなら,彼[主]が 我々を赦してくれたから.彼が 我々に あの「悪い手本」を与えたのだ.
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以上が 祝福に関する部分である.そこにおいて,我々は,Fiducia
supplicans が あの「みんな,みんな,みんな!」が要約する 教会の「普遍的包容性」(universal
inclusivity) — それは 明らかに「普遍的救済」(salus universalis) または「普遍的和解」(reconciliatio universalis)
と関連する — の文脈に位置づけられるものであることを,明確に読み取ることができる.
そして,この「みんな,みんな,みんな!」は synodal Church[みんながともに歩む教会]の 標語 — それを Papa Francesco は 2023年10月のシノドス総会の開始の 2 ヶ月まえに World Youth Day に集った 150万人の若者たちのまえで 披露している — である.
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そのほか,「祈るときに,神の顔を如何なるものと想像するか」と「人生において最も重要なもの」に関する Papa Francesco の答えを 邦訳しておこう.
「あなたは,祈るときに,神の顔を どう 想像しますか?」という Fabio Fazio の「子どもっぽい」質問に対して:
Papa
Francesco :
わたしが有しているのは,福音書[において 描かれている]イメージである.わたしは,神を こう想像することを 好む:寛容な父 (cf. Lc 15,11-32) —
あの息子 – 彼は,遠方の地へ行って,財産を使い果たし,傷ついて 戻ってくる – を 迎え入れる 父.息子は こう言おうと準備している:「お父さん,わたしは 天に対して そして あなたに対して 罪を犯しました…」 だが,父は,抱擁を以て,彼[息子]に ほとんど 話させない.
わたしは,そのように抱きしめてくれる主を思い浮かべることを 好む.わたしが「わたしは しかじかのことで 失敗しました…」と言おうとするとき,彼は 彼の手で わたしに このようにしてくれ,そして,わたしに言う:「それでも,前進しなさい,前進しなさい,前進し続けなさい」— そのような主を思い浮かべることを わたしは好む.我々を後押ししてくれる 主 — 我々が前進するように —;我々の罪に大騒ぎしない 主 — なぜなら,彼は父であり,我々に寄り添ってくれているから.
彼[主]は,当然,我々を罪人と見なしている.そして,彼は 問う:罪人に寄り添うか,あるいは,罪人を すぐさま 地獄へ 送るか.そして,彼は,我々に寄り添うことを 選ぶ.そして,そのためにこそ,彼は 彼の息子を 遣わした — 我々に寄り添うために.主は,彼の息子を 世へ 遣わした — 世を断罪するためにではなく,しかして,世を救済するために.そう 典礼は 言っている.
以上を受けて,Fabio
Fazio は 地獄に関して Papa
Francesco に 問う:「その意味において — そのお話しによれば — 地獄を想像することは さらに難しくなりますね? 誰かを永遠に断罪する父を想像することは 難しくなりますね?」
Papa Francesco :
いかにも,そのような父を想像することは 難しい.以下に述べることは,信仰の教義ではなく,しかして,わたしの個人的な考えである:わたしは こう考えることを 好む:地獄は からっぽである.それは わたしの好みである;わたしは〈実際 そうであってほしい と〉望む;しかし,それは わたしの好みである.[つまり,それは カトリック教会の教義ではない.]
最後に Fabio Fazio は こう問う:「あなたは 同意しますか — こう言う人に:『人生の意味は 愛することを学ぶことである;それが,我々が〈我々の人生のなかで為し得る〉最も重要なことである』?」
Papa Francesco :
それは,ひとつの〈大いなる真理を言うための〉言い方である.人生の道程を〈愛することを学ぶ ということを以て〉要約してもよい.そして,いつも〈よりいっそう愛することを〉学ぶことが できる.また,かくも多くの人々が,あの英雄的な愛 — それは,彼らを 死へ – 他者のために 自身のいのちを与えることへ – 向かわせた — の 例を あなたに 与えている.「愛することを学ぶ」という表現は,わたしの気に入った.
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Papa Francesco の「わたしは〈地獄が からっぽである と〉考えることを 好む」という発言も,注目を集めているようである.なぜ 地獄は からっぽであるのか? それは,主が〈冥界にくだったときに〉そこにいる人々すべてを 救済したからである.