2024-02-26

関根悦雄神父さまの説教,LGBTQ みんなの ミサ,2024-02-18 四旬節 第 1 主日(B 年)

L'arche de Noé et le Vaisseau de l'Eglise
un des vitraux de la chapelle de la Communion à l'Église Saint-Étienne-du-Mont de Paris

関根悦雄神父さまの説教,LGBTQ みんなの ミサ,2024年0218日,四旬節 第 主日(B 年)



第 1 朗読 : Gn 9,08-15
見よ,わたしは あなたたちと わが契約を 立てよう.

第 2 朗読 : 1 Pt 3,18-22
水は 今や 洗礼として あなたたちを救う — イェスキリストの復活によって.

福音朗読:マルコ 1,12-15
時は 満了した;そして,神の王国は 近づいた.あなたたちは 回心しなさい;そして,福音を信じなさい.

今,わたしたちは,四旬節を過ごしています.「四旬」は 40 という意味です.つまり,四旬節は 40日です.先週の水曜日は 灰の水曜日でした.今日は 四旬節 1 主日です.ですが,日曜日は 40日のうちに入らないのです.週日は 6 ありますね.それが 6 週間ありますから,6 × 6 = 36. それに,灰の水曜日と そのあとの木金土の 4日間を 足すと,40日になります.

この 40日というのが どこから来たのかというと,今日の福音で こう言われています:「そのとき,霊は イエスを 荒れ野に 送り出した.イエスは 40日間 そこにとどまり,サタンから誘惑を受けた」.ですから,40日間,イエスは 荒れ野で 悪魔から誘惑を受けた;イエスは それに どう答えたか? イエスは試された と考えてもよいでしょう.

また,40 は,イスラエルの民が モーセに率いられて エジプトから出て,40年間 旅をして,約束の地に入った その 40 でもあります.

ですから,この 40  わたしたちがいのちを得るために準備する期間だ,と考えていいと思います.

さて,今日の福音ですが,マルコは「イエスは 40日間 荒れ野にとどまり,サタンから誘惑を受けた」とだけ書いています.それは,マルコの福音の特徴です.マタイの福音と ルカの福音では,イエスは サタンから 三つの誘惑を受け,そして,それに対して彼がどう答えたかが 書かれてあります.しかし,マルコでは,ただ「イエスは 40日間 そこにとどまり,サタンから誘惑を受た」とだけ書かれてあります.

この 40日間は,わたしたちにとって 回心のとき とも言われます.「回心」(μετάνοια) という語は,15節に 出てきます.そこで イエスは こう言います:「時は満ち,神の国は近づいた.悔い改めて,福音を信じなさい」.この「悔い改める」と訳されている動詞 (μετανοέω) 名詞「回心」(μετάνοια) と語源を共有する語です.

昔は「改心」という表記が使われていました.つまり,何か悪いことをしてしまったとか,自分のなかに悪い傾向があるとか,そのようなときには,それを改めなさい ということです.しかし,それは「回心」(μετάνοια) の本来の意味ではありません.では,「回心」とは どういうことでしょうか?

こう自問しましょう:わたしたちは どちらへ向いて 生きているでしょうか? わたしたちは,どうしても,世の中には いろいろ ありますから,あっちへ行ったり こっちへ行ったり,あっちへ向いたり こっちへ向いたり特に,自分中心で生きているのではないでしょうか? そうではなくて,わたしたちは,わたしたちの 神との関係を もう一度 しっかり見つめ直しましょう;そして,もし 神から逸れていたら,神の方へ向きを変えねばなりません;神さまに向かって もう一度 歩み直さねばなりません.そういう意味で,今は「回心」と書きます.

回心は 四旬節に 非常に大切なことだ と言われています;四旬節の間に,わたしたち ひとりひとりが,自分がどのように生きているか,そして,それは 本当に わたしたちに望まれる生き方なのか を,しっかり見直しましょう.

この世のなかに生きていると,誰でも 自分が中心になります.自己中心は,人間の本性に属するのではないか と思います.そして,もうひとつ言えることは,このことです:何か意見の相違や対立があるとき,わたしたちは「自分は正しい;他の人が間違っている」と思いがちです.しかし,本当にそうでしょうか? 神を知らない人は,あるいは,宗教的な感覚がない人は「自分が正しい,それでいいんだ」と思っているように思えます.しかし,わたしたちは,神を知り,そして,神の招きに応えようとして生きています.そこで,あらためて「神はわたしに何を望んでいるのか? 今,わたしは 神の望んでいるように生きているのか?」と問う それが大切なことだ と思います.

では,神は わたしたちに何を望んでいるのでしょうか? それは,わたしたちが本当に生きる ということです.本当に生きる.よりいきいきと生きる.

では,どうすれば 本当に生きることができるのか?

これは,キリスト教の ひとつの神秘かもしれません イエス キリストの生き方に学ぶということ.イエス キリストの生き方に学ぶということは,イエス キリストの生き方に倣う,それをまねる ということです.イエスは どう生きたか? 彼は,徹底的に人に仕え,そして「あなたは 神から愛されている」ということを 人々に伝えました.そして,そのために,彼自身は へりくだって,しもべの姿を取りました;そして,与えに,与えに,与えた.それは,別の言葉で言えば,愛です.ですから,愛を最もたいせつなものとして生きるということ,それが本当に生きるということだ,と イエスは 教えてくださった そう思います.

では,わたしたちは,彼の教えに従って,彼の招きに従って,彼の招きを受けて,それに応えて 生きているかどうか? それを定期的に見直す必要があります.また,本当の生き方 わたしたちを本当に生かす生き方 それを探るのがよいと思います.

わたしたち イエズス会の司祭は,年に 回,黙想をします.そこで,今までの生き方はどうであったのかを振り返り,そして,改めて イエスの招きを聴いて,次はこういうことを 中心にして,だいじにして 生きていこう と決心します.それを皆さんにもお勧めしたいと思います.時間は 必ずしも 4日間も取らなくてもいい と思います.あるときに 真剣に 自分はどこへ向かって生きているのかを,しっかりと考える.

多くの人は,自分のために,自分が何か得るために 生きる と考えてしまいます.しかし,それで本当に幸せになれるのか? 皆さんも いろいろな状況を生きてきただろうと思いますが,その時々のことを思い出して,そのとき「わたしは本当に生きていたか?」と自問してほしいと思います.今までの生涯のなかで,自分が本当に生きていると感じられたのは どういう時なのか?

イエスの生き方は どうであったか? イエスは 自分のすべてを 与えた;いのちをも 与えた.彼は,自分のいのちを与えて,亡くなった;殺された;そして,それでも 生きた.それが 復活です;永遠のいのちを生きることです.

わたしたちも 真剣に「生きる」ということを考えたら,何かわかるんじゃないかな と思います.自分に与えられたものを 人を愛するために 使う それが,わたしたちが招かれている生き方であり,この四旬節の悔い改めのときのひとつの目標になるのではないかな と思います.

具体的に言ってみましょう.四旬節には 断食が勧められます.先週の灰の水曜日には 断食しました.断食といっても,今は,まったく食べないということではなく,ある意味で 簡単です.一日一回は普段と同じように食事してもよいことになっています.しかし,とにかく,みづから飢えるという状況を体験しないと,何を本当に求めるべきなのかということも わからない.そういう意味で断食が勧められます.


そして,教皇フランシスコが言ったとされる
四旬節のための 11の断食のリストが あります:

人を傷つける言葉をやめて,優しい言葉を使いましょう.
悲しみを断って,感謝に満たされるように.
怒りを断って,忍耐で満たされるように.
悲観論を断って,希望に満たされるように.
心配事から離れて,神に信頼するように.
不平不満から離れて,質実 (simplicity) を求めていくように.
圧迫を断って,よく祈るように.
苦々しさから離れて,心を喜びで満たすように.
わがままから離れて,哀れみ深くあるように.
恨みを忘れて,和解するように.
言い争いを避けて,黙して耳を傾けるように.

わたしたちの具体的な日常の歩みのなかで,これはちょっと違うんじゃないかなと気づいたときに,方向転換して,神の方へ向き直り,教皇が勧めていることを目指してゆきましょう.そのような恵みが そのような気づきが たくさんありますように;そして,そのように歩んでゆくことができますように.そのような導きと諭しを 皆さんといっしょに 願いたいと思います.