Aimé Morot
(1850-1913) : Le Bon Samaritain[善きサマリア人]
NBUS(性の聖書的理解ネットワーク)の言う「聖書的」を 批判する
NBUS (Network for Biblical Understanding of Sexuality)[性の聖書的理解ネットワーク]に対しては,2022年07月の その活動の開始の直後から,なかんづく 彼らの〈LGBTQ の人々に対する〉conversion therapy の推奨のゆえに,我々 LGBTQ
みんなの ミサも,NBUS を憂慮するキリスト者連絡会の活動への参加によって,批判的姿勢を 明示してきた.しかし,NBUS
が賛同する Nashville Statement — USA の保守派プロテスタントの一部が sexuality
と gender の諸問題に関して 2017年に 措定した 諸原則 — については,わたしは それを 直接的に議論の対象とはしてこなかったし,ここでもそうするつもりはない;なぜなら このゆえに:その Statement 全体の aprioristic な性格が それを構成する一連の命題をいちいち批判するには値しないものとしている — 少なくとも カトリックであるわたしにとっては;というのも,フランシスコ教皇のもとで,カトリック教会は,異端審問にいそしむ神学論議よりも 神の愛と隣人愛にもとづく福音宣教と司牧実践を優先するからである.そして,その際,神学は — と フランシスコ教皇は 2023年11月の Motu
proprio Ad theologiam promovendam[神学を振興するために]において 強調する —「教会の福音宣教に奉仕する」ものでなければならない;つまり,従来 教会が断罪してきた人々を含む 全世界へ「愛である神による救済の成起を告げ知らせる」ことを促進し得ねばならない.
しかるに,最近,我々の友人たちの SNS 投稿のおかげで,NBUS が 2024年01月31日付で発表した短い記事「吉川直美牧師の記事『LGBTQ+ と共に生きる教会』を憂慮する」が わたしの目にも とまった;そこで,わたしは それを読んだ;そして,そこにおいても頻用されている「聖書的」という形容詞に関して,わたしは 改めて こう思った : NBUS の構成員たち および 彼らの活動に賛同ないし共感するクリスチャンたちは,神の意志 — それを 神は 聖なる息吹によって 我々に 伝えてくる — に準拠しようとはせず,しかして,単純に 聖書の字面に 拘泥している.
はたして,聖書の読み方は それでよいのだろうか? 勿論,否.なぜなら このゆえに:使徒パウロは 我々に こう忠告している (2 Cor 3,06) :
τὸ γὰρ γράμμα ἀποκτέννει, τὸ δὲ πνεῦμα ζῳοποιεῖ.
なぜなら このゆえに:文字は 殺す;だが,息吹 (πνεῦμα, Spiritus) は 生かす[いのちを与える].
すなわち,NBUS の言う「聖書的」という語の隠された意義は「文字は殺す」ということである.実際,保守的クリスチャンたちの「聖書的」な断罪は,LGBTQ
の人々を傷つけ,そして,彼らの自殺の誘因となり得る.それに対して,フランシスコ教皇が推奨する〈聖なる息吹に導かれる〉福音宣教と司牧実践 — それは あらゆる人を 教会に 包容しようとする — は,従来 断罪され,教会から排除されてきた人々にも いのちを与え,彼らを癒す.
そして,聖書の読み方も,聖なる息吹に導かれてこそ,真に有意義なものとなり得る.たとえば,使徒パウロは どう 聖書(旧約の諸テクスト)を 読んでいるか ? 彼は,彼自身 証言しているように (cf. Ac 22,03), 当時 ユダヤ人社会のなかで 非常に 高名であり かつ 尊敬されていた Rabban Gamaliel の足もとで「父たちから伝えられた律法の厳密さにしたがって,教育された」.実際,我々は 感嘆する:如何に パウロが 記憶にもとづいて 自由自在に旧約の諸テクストを引用していることか — 新たな信仰の準拠として !
そして,彼は ときとして 驚くべき解釈を 我々に提示する.たとえば,先ほどの引用箇所の少しあとのところで,モーセ — 彼の顔は〈彼が 再度 十戒が記された石板を持って YHWH
のもとから 降りてきたとき〉神の栄光の反射において 神々しく輝いていた — が彼自身の顔をヴェールで覆ったこと
(cf. Ex 34,29-35) に関して,パウロは〈モーセの旧約と Jesus の新約とを対比する文脈において〉こう言っている (2 Cor 3:13) :
モーセは,彼自身の顔へ ヴェールを被せていた — 止むもの[神の栄光の反射にすぎない〈彼の顔の〉輝き]の終りを イスラエルの息子たちが 見つめることにならないために.
それは,単に聖書の字面を読むだけの者たちにとっては,思いもよらない解釈であろう.だが,それは まさに ユダヤ教のラビたちが如何に聖書を読むかの一例である.彼らは,旧約の諸テクストを読むとき,単に それらの字面を文字どおりに読むのではなく,しかして,それらの文字をとおして,生きている神のことばを — すなわち,生きている神が 彼の息吹によって 何を人間たちに伝えようとしているかを — 解釈によって 聴き取ろうとする.それが,特に〈西暦 70 年にイェルサレムの神殿がローマ軍によって破壊されたあとの ユダヤ教において〉よりいっそう発展してゆく Midrash と呼ばれる 聖書解釈学である.Rabban
Gamaliel のもとで学んだパウロの聖書の読み方は まさに Midrashic である.
Midrash に関して付言しておくなら,そもそも Jesus Christus の 教え 全体も,Torah の Midrashic
な 再解釈である.実際,福音書のなかで
しばしば 人々は — 彼の弟子たちだけでなく,ファリサイ人たちや律法学者たちも — Jesus
に “Διδάσκαλε”
または “Ῥαββί”
という呼称を以て 呼びかけている;つまり,彼が Torah
を 解釈し,教えることができる者であることは,公に認められている.そして,Jesus
の教えは,神による全人類の無償の救済の実現 — それを可能にするのは〈神が 神自身の息子(すなわち Jesus 自身)を いけにえとして献げることによる〉贖いである — という終末論的観点からの〈Tanakh 全体の〉再解釈に 存している.
さて,パウロの 第 2 コリント書簡に戻って,3 章 6-18節を〈既に引用した箇所も含めて〉改めて読んでみよう — なぜなら その箇所は NBUS
の言う「聖書的」に対する批判のために 非常に有意義であるから.
6 彼[神]は,また,我々を〈新約の奉仕者 (διάκονος καινῆς διαθήκης) であることができるように〉してくださった;新約は,文字の契約 (διαθήκη γράμματος) ではなく,しかして,息吹の契約 (διαθήκη πνεύματος) である;なぜなら このゆえに:文字は 殺す;だが,息吹は 生かす[いのちを与える].7 ところで,もし 石板に文字で刻み込まれた〈死の〉奉仕 (διακονία τοῦ θανάτου ἐν γράμμασιν ἐντετυπωμένη ἐν λίθοις) が 栄光あるものとなった — イスラエルの息子たちが モーセの顔を〈彼の顔の栄光 – ただし それは 止むものである – のゆえに〉見つめることができないほどに — とすれば,8 どれほど 息吹の奉仕 (διακονία τοῦ πνεύματος) は もっと栄光あるものとならないだろうか?9 なぜなら このゆえに:もし 断罪の奉仕 (διακονία τῆς κατακρίσεως) に 栄光があるならば,正義の奉仕 (διακονία τῆς δικαιοσύνης)[ユダヤ教においては 正義は救済を含意する]は もっと もっと 栄光に満ち溢れる.10 また,このゆえに:栄光化されたもの[モーセの旧約]は その点に関しては[救済に関しては]栄光化されなかった —[Jesus の 新約の]圧倒的な栄光のゆえに.11 なぜなら このゆえに:もし 止むもの[モーセの栄光]が 栄光によって 輝いたのであれば,止まないもの[Jesus の 栄光]は もっと もっと 栄光において 輝く.12 それゆえ,そのような希望を有している 我々は,大いに大胆に[主の福音を]語る勇気 (παρρησία) を 行使する —13 しかも,モーセが 彼自身の顔へ ヴェールを被せていた — 止むもの[神の栄光の反射にすぎない〈彼の顔の〉輝き]の終りを イスラエルの息子たちが 見つめることにならないために — ようにではなく.14 しかして,彼ら[イスラエルの息子たち,特に ファリサイ人たちと律法学者たち]の知能は 鈍化した;なぜなら このゆえに:今日に至るまで[モーセのヴェールと]同じヴェールが[彼らの]旧約の読み (ἀνάγνωσις τῆς παλαιᾶς διαθήκης) に 被さったままとなっている;それ[ヴェール]は 覆うのをやめない — なぜなら このゆえに:それが除去されるのは キリストにおいてである.15 だが,今日に至るまで,彼らがモーセを読むときは いつも,彼らの心のうえには ヴェールが 被さるのだ.16 だが,もし 彼らの心が主の方へ向き直るならば,そのとき ヴェールは 取り去られる.17 というのも,主は 息吹である;そして,主の息吹があるところには,自由がある.18 今や,我々は 皆,顔から覆いを取り去られ,主の栄光を反射して[輝いて]おり,同じ[神の]似姿に変えられている — 栄光から栄光へ[止むことなき栄光へ]— まさに主の息吹によるように.
何と パウロの〈ファリサイ人たちと律法学者たちに対する〉批判は,NBUS
に対しても そっくり そのまま 妥当することか ! 彼らの心を覆っているのは「聖書的」ヴェール — すなわち,聖書の字面から成るヴェール — である;彼らの「文字の奉仕」は「断罪の奉仕」であり,「死の奉仕」である;なぜなら このゆえに:彼らは〈聖なる息吹が伝える いのちと救済の福音を 聖書の文字をとおして 聴き取ることを〉知らない.
聴きたまえ,「聖書的」という語を以て LGBTQ を断罪する者たちよ — あなたたちが神殿を建てるときに その基礎を成しているのは 聖書の字面である.それに対して,我々が神殿を建てるときに その基礎を成すのは Jesus Christus である — パウロの勧めにしたがって (cf.
1 Cor 3,11). そして,我々の神殿 — 我々自身 — のなかには,主が 彼の意志を我々に伝えるために 我々に遣わしてくれる 聖なる息吹 — 我々にいのちを与えてくれる息吹 — が 住まっている (cf.
ibid. vv.16-17). それに対して,あなたたちの神殿のなかに収められているのは,石に刻まれた 死せる文字である.
そもそも,主は,「わたしは 何をすることによって 永遠のいのちを受け取ることになるでしょうか?」(Lc
10,25) と問われたとき,どう答えたか?「聖書を もっと 読みなさい」と答えたか? 否,彼は,善きサマリア人の譬えを以て 隣人愛とは如何なるものであるかを示したあと,質問者に こう言う:「行きなさい;そして,あなたも 同様に[隣人愛を]実践しなさい」(v.37).
「聖書的」という語を以て
LGBTQ を断罪する者たちよ,あなたたちは 何をしているか ? Carlos Latuff が この cartoon に描いているように,聖書を以て LGBTQ
の人々を殴打することである.
それゆえ,我々は,あなたたちに傷つけられた LGBTQ の人々を介抱する 善きサマリア人となることを 欲する.
フランシスコ教皇も,教皇着座からまもない 2013年07月28日のインタヴューのなかで,ある記者の質問に答えて,こう言っている:
Se una persona è gay e cerca il Signore e ha buona volontà, ma chi sono io per giudicarla?
もし ある人が gay であり,主を探し求めており,そして,善意を有しているとするならば,いったい わたしは その人を断罪するための何者であろうか?
そして,彼は,LGBTQ の人々に対する 彼の包容的な司牧姿勢を その後も一貫して維持している.
教会は〈すべての人間の救済を欲する主の意志 (cf. 1 Tim 2,04) を我々に伝える聖なる息吹によって〉導かれる — それが,synodal Church[皆がともに歩む教会]を再構築しようとしているフランシスコ教皇の基本理念である.「教会のなかには みんなのために 居場所がある — みんな,みんな,みんな!」— それが 彼の福音宣教と司牧実践の標語である.
では,我々が LGBTQ にかかわることがらに関して 聖なる息吹に祈りつつ 聖書を読み直すなら,主は 我々に どのような inspiration を与えてくれるだろうか? たとえば,保守的クリスチャンたちが gay たちを断罪するために 必ず引用する レヴィ記 18,22 および 20,13 は,何を言わんとしているのか? もし ある gay の人が 現在流布している読み方において そこを読んで — 神の救済のメッセージであるはずの聖書の一節を読んで — 死にたくなるとすれば,その読み方は まことに 神の意志を読み取ることを可能にしているのだろうか? 否.
聖なる息吹がわたしに与えてくれた ちょっとした inspiration は,こうである : Torah の主体(その存在様態と行動について Torah の諸規定が語っているところの者,Torah の定めに従うよう要請されている者)は,cisgender
かつ heterosexual である 男のみである;女性,homosexual 男性 および transgender は Torah の主体としては 想定されていない.
実際,レヴィ記で列挙されている〈性関係や性行為に関する〉命令や禁止は すべて 男に向けられている.唯一,女性に向けられているように見えるものは,獣姦の禁止 —「女は 性交のために 獣の面前に立つべからず」(18,23) — であるが,20,16 においては「性交のために獣に近づく女 — おまえ[男]は その女とその獣を殺すべし」と述べられていることが示しているように,その命令が差し向けられている者は やはり 男である.また,Torah のなかには,女性に向かって同性どうしの性行為を禁止している規定は ない.
女性が Torah の主体として想定されていなかったのは,古代ユダヤ人社会では 女性は男性の所有物と見なされていたからである.未婚女性は 彼女の父親の所有物であり,既婚女性は 彼女の夫の所有物であった.レヴィ記において述べられている さまざまな〈性関係や性行為に関する〉命令や禁止の大多数は,ある男がほかの男の女性所有権を侵害することのないよう,措定されている.幾種類もの近親相姦の禁止の規定のなかに 父親による娘に対する近親相姦を禁止する条項が無いのは,父親が自分のだいじな所有物である自分の娘をみづから害することはありえない ということが 前提されていたからであろう.
また,現在 我々が homosexual と呼んでいる人々の存在も,transgender と呼んでいる人々の存在も,古代ユダヤ人社会においては 想定されていなかった.それは,日本国憲法の条文が作成された当時,同性どうしのカップルが結婚するという事態がまったく想定されていなかった — 日本においてだけでなく,世界中で — ということと 類比的である.
それゆえ,我々が Torah を読むときは,そこにおいて措定されている種々の命令や禁止の暗黙の前提 —「おまえは cisgender かつ heterosexual の 男である」— を補う必要がある.実際,そうしてみよう:
Lv 18,22וְאֶת־זָכָר לֹא תִשְׁכַּב מִשְׁכְּבֵי אִשָּׁה תּוֹעֵבָה הִואそして,おまえ[男]は,女と寝ること (mishkebe ishshah) を 男と寝る (eth zakar thishkab) べからず;それは 忌まわしきことである.Lv 20,13וְאִישׁ אֲשֶׁר יִשְׁכַּב אֶת־זָכָר מִשְׁכְּבֵי אִשָּׁה תּוֹעֵבָה עָשׂוּ שְׁנֵיהֶם מוֹת יוּמָתוּ דְּמֵיהֶם בָּםそして,女と寝ること (mishkebe ishshah) を 男と寝る (yishkab eth zakar) 男 (ish) — 彼らふたりは 忌まわしきことを 成した;彼らは 死刑に処せられる;彼らの血は 彼ら自身のうえに[ふりかかる — つまり,彼らを殺した者が彼らの死の責任を問われることはない].
両節において「寝る」( שָׁכַב :
shakab ) という動詞 および それから派生した名詞「寝ること」( מִשְׁכָּב : mishkab ) が「性交する」および「性行為」の意味において 用いられている.そして,名詞 mishkab は 動詞 shakab の 同族目的語として 用いられている.動詞が同族目的語を取る構文は,ヘブライ語聖書においては しばしば見受けられるものであるが,その修辞学的意義については 研究者の間で意見の一致は見られていないようである(最も一般的な見解は それを「動詞の意味の強調」と見るが,必ずしもそうではない という説も ある).
いずれにせよ,「女と寝ることを 男と寝るべからず」という禁止 —「寝る」を「する」に置き換えるなら:「女とすることを 男とするべからず」— は,暗黙の前提を補うなら,こう言おうとしていることになるだろう:
おまえは,cisgender かつ heterosexual である 男である;おまえの 本来の性的対象は,女である;そのように 本来は女と寝る者である おまえは〈自分の妻も 自分の所有物である女奴隷も 性的対象として 身近にいない という 状況において〉性欲を満足させるために 男を代用の性的対象として 性行為をおこなってはならない.また,異教の神々の神殿にいる神聖男娼と性行為をしてはならない(そもそも,異教の神々の神殿に参ることそのものが 最も重大な律法違反である).また,ギリシャの風習をまねて,未成年の男を性的対象としてもならない.さらに,暴力的な衝動を満足させるために,おまえの所有物である男奴隷や おまえの支配下に置かれている男に対して 性的暴力をふるってもならない.
つまり,レヴィ記の「おまえ[男]は,女と寝ることを 男と寝るべからず」という規定が禁止していることは,ふたりの gay が相互的な愛にもとづいて形成するカップルの関係とはまったく異なる事態である.
Torah は homosexuality を 禁止しておらず,断罪もしていない — なぜなら homosexual である者の存在は 想定されていないから.我々は,いまだに一般的に「同性愛禁止条項」として読まれている レヴィ記の ふたつの節を〈聖なる息吹の導きのもとに〉読み直すことによって,そう結論することができるだろう.