2024年05月20日におこなわれた イタリア司教協議会の総会において
パパ フランチェスコが gay に対する侮蔑表現を用いた という 報道に 関して
2024年5月20日におこなわれた Papa
Francesco と イタリア司教協議会の司教たちとの 非公開の対話のなかで,教皇が
gay の人々を侮辱する言葉を用いた という「噂」— その出どころは その会合に出席していた 約 250人の司教たちのうちの幾人かのようです — が,まずは ゴシップを扱うブログ Dagospia で 紹介され,次いで,同月 27日,イタリアの全国紙でも 報ぜられました;そして,そのニュースは あっというまに世界中に広まり,各地で多大なショックと失望を惹起しました.
報道によると,「gay であることを公にしている者を 神学校に入学させること」の可否に関する質問に対して,パパさまは,2005年に 故 Benedictus XVI 教皇の承認のもとに 発表された 教皇庁のカトリック教育省の文書 Istruzione
della Congregazione per l'Educazione Cattolica circa i criteri di discernimento
vocazionale riguardo alle persone con tendenze omosessuali in vista della loro
ammissione al Seminario e agli Ordini sacri[神学校への入学または修道会への入会の許可を求めてきた homosexual の傾向を有する者たちに対する 召命の識別の判断基準に関する カトリック教育省の 教書]において規定されてあるとおりに「否」と答え,そして «Nei seminari c’è già troppa frociaggine»[神学校には すでに あまりに多くの frociaggine が ある]と付言したそうです.
この記事における解説によると,その frociaggine
という語は,frocio に由来し,後者は「男性を性愛対象とする男性」に対して用いられる侮蔑的な卑語です(通常,公の場で用いることは控えるべき語である と見なされているようです).そして,その語に
-aggine という接尾語を付した語は「frocio
である者たちの性質や特徴」を意味する名詞となります(この場合は,集合名詞の形成と解してもよいでしょう).
要するに,パパさまは「神学校には 既に あまりに多くの gay 神学生が いる」という意味のことを 卑俗かつ侮蔑的な表現を用いて 言った と報ぜられたわけです.
それに対して 教皇庁の報道局長 Matteo Bruni は,28日の記者会見で 質問に答えて,こう述べました:
Papa Francesco は,イタリア司教協議会の司教たちとの非公開の対話に関して 最近 発表された 記事のことを 知っている.彼が 幾度か そう断言する機会を持ったように,「教会のなかには,みんなに居場所がある — みんなに![教会のなかで]無用の人は 誰も おらず,余計な人も 誰も いない;みんなに居場所がある;わたしたちが 今 あるがままに,みんなに[居場所がある]」.教皇は,誰かを傷つけようと意図したことは 決して なく,homophobic な言葉で 考えを表明しようと意図したことも 決して なかった;そして,彼は,ほかの者たちによって言及された語の使用によって傷つけられたと感じた人々に 謝罪する.
以上の顛末は,日本の一般紙でも 報ぜられました.
なぜ それほどの大騒ぎになったのか? それは,従来
Papa Francesco は LGBTQ の人々に対して 司牧的に 寛容である ということが 知られていたからです.実際,彼は,教皇着座の 約 4 ヶ月後の あるインタヴュー — 2013年07月23-28日に Rio de Janeiro で おこなわれた World Youth Day からの帰途の機上記者会見 — において,homosexuality に関する質問に対する答えのなかで,こう言いました:
Se una persona è gay e cerca il Signore e ha buona volontà, ma chi sono io per giudicarla?
ある人が gay であり,主を探し求めており,善意を有しているとき,もしわたしがその人を断罪するならば,いったい わたしは何者であるか?
次いで 彼は,記憶にもとづいて,『カトリック教会のカテキズム』の 2358 パラグラフを 部分的に引用します.引用されたのは この文です:
彼れら[homosexual である人々]は,敬意と共感と気遣いとを以て,受け容れられねばならない.彼れらに対して,あらゆる不当な差別の刻印は避けるべきである.
そして,その後も Papa Francesco は,LGBTQ の人々のための司牧活動の団体の代表たちや gay である人々 および transgender の人々に 個別接見の機会を 幾度も 与え,彼らの活動を称讃し,彼らを励ましてきました.
であるだけに,5月20日の非公開会合における 彼の差別用語の使用は,わたしたちを驚かせました.いったい,彼は LGBTQ のための寛容かつ包容的な司牧姿勢を 変えたのか? あるいは,そのような寛容さの裏で,実は 彼も 差別主義者であったのか?
わたしは 断定します:そうではありません.では,いったい かかわっているのは 何なのか?
彼の発言の文脈を 改めて 見てみましょう.彼が侮蔑的な表現を用いたのは,神学校入学の可否の判断がかかわる文脈において — つまり,司祭の養成の問題に関連して — です.わたしが 彼の差別的表現の使用に 読み取るのは,彼の怒り — 神学生時代にも,司祭叙階を受けたあとも,偽善的な二重生活を送っている者たちが いまだにいる という事実に対する 彼の怒り — です.実際,5月20日の会合で パパさまは 問題の語を発するまえに こう言った と報ぜられています:
La Repubblica 紙によると,教皇は こう言った:「[神学校入学可否判断の]指標を措定せねばならない;そして,この危険を防止せねばならない:司祭職を選ぶ gay person が,のちに[神学校入学後に および 司祭叙階後に]二重生活をおくるようになる — 同性どうしの性行為を続けつつ,かつ,同時に,その隠蔽に苦悩しつつ —[という危険を防止せねばならない].
それは,単なる懸念ではありません.事実なのです:神学生となっても,司祭となっても,同性どうしの性行為を続けている者たちが いるのです(その断定の根拠をここで提示することは できません;全カトリック司祭のうち 如何ほどの割合が 性的に活動的な gay であるのかは 勿論 不明です;しかし,そのような司祭たちの行動がかかわった事件が ときおり 報道されます).そのような事態は 絶対 容認され得ない — その強い怒りが パパさまに 思わず あの侮蔑語を使わせたのだ — わたしは そう思います.
彼の怒りの対象は,二重生活を続けている 神学生たち および 聖職者たちに 限定されています;決して gay である 一般信徒ではありません;また,貞潔の誓約を遵守している gay 司祭たちでもありません.後者に関しては,James Martin 神父は こう言っています:
わたしは,25年間の司祭生活のなかで,また,ほぼ 40年間のイェズス会士生活のなかで,何百人もの 神聖な 誠実な 禁欲的な gay 司祭たちと 出会ってきた.彼らは,わたしにとって,上司であり,師であり,聴聞司祭であり,メンターであり,精神的指導者であり,友であった.もし あなたが カトリックならば,彼らは,あなたのために ミサを献げ,あなたの子どもたちに洗礼を授け,あなたの告解を聴き,あなたが病院にいれば あなたを見まい,あなたの結婚式を司り,あなたの親の葬儀をおこなう.もし彼らがいなければ,教会は はかり知れないほどに 貧しくなるだろう.
以上が,今回の騒動に関する わたしのコメントです.パパさまの発言にショックを受けた人々は どうか安心してください.彼の司牧的な寛容さと包容性には いささかの変化もありません.しかし,二重生活を送っている聖職者たちは,神の怒りを恐れるならば,ただちに偽善をやめなさい — 一般信徒に戻るか または 貞潔の誓約の遵守に戻ることによって.