2024-08-29

わたしたちの活動の名称変更について — 新しい名称は「イクトゥス ミニストリー みんなのミサ」です


わたしたちの活動の名称変更について 新しい名称は「イクトゥス ミニストリー みんなのミサ」です



このたび,従来「LGBTQ みんなのミサ」と名のってきた わたしたちの活動の名称を「イクトゥス ミニストリー みんなのミサ」に変更しました.その理由を説明します.

わたしたちの活動は,2015年に 開始されました.そのきっかけを与えたのは,クリスチャン関係の Facebook グループ(複数)における homophobic な言説の氾濫でした.わたしたちが 彼らの〈homosexuality に関する〉偏見や誤解を いくら解こうとしても,それは 無駄な努力でした.ですので,Facebook のなかではなく,現実のなかで,活動を始めることにしました カトリック信者のなかにも LGBTQ の人々に包容的である者たちがいる ということを 知ってもらうために,そして,教会から断罪され,排除されていると思っているのであろう LGBTQ の人々に「教会は 誰に対しても開かれており,神は あらゆる人の救済を 欲している」ということを 伝えるために.

わたしたちの活動の最初の名称は「LGBT カトリック ジャパン」でした.指導司祭の役割は,故 小宇佐敬二神父さま(当時 東京カリタスの家の理事)に 引き受けていただきました.そして,201607月から 毎月 1 回,都内のカトリック施設の聖堂で ミサを献げていただくようになりました.

しかし,201708月に 小宇佐敬二神父さまは 食道癌に対する外科手術を受けることになり,当分の間 療養生活を余儀なくされることになったので(彼は 結局 食道癌の転移のため,20240520日に 帰天しました;主が 彼に 永遠の安らぎを与えてくださいますように),それをきっかけに,ミサの司式を おもに イェズス会の神父さまたちに お願いすることになりました(イェズス会の司祭以外にも,東京大司教区の晴佐久昌英神父さま および サレジオ会の阿部仲麻呂神父さまに 司式していただいたこともあります).

わたしたちの活動の名称に関しては,201606月に,故 岡田武夫 東京大司教さまが「団体が 許可なく『カトリック』と名のってはならない」と 注意してきたので,LGBT Catholics Japan 頭文字 LGBTCJ 名称としました.そして,201805月からは「LGBTQ みんなのミサ」と名のるようになりました.

「みんな」は,勿論,「あらゆる人に包容的である」ことを表しています.PapaFrancesco 202308月の リスボンの World Youth Day での 講話のひとつにおいて « En la Iglesia hay lugar para todos ¡Todos, todos, todos! »[教会のなかには みんなのために 居場所がある みんな,みんな,みんな!]と強調したときには,「みんなのミサ」という名称が〈Spiritus Sanctus が与えてくれた〉思いつきであったのだ ということが証明されたように思われ,感激しました.

さて,「イクトゥス ミニストリー」(Ichthys Ministry) は,高松尚志さん (Facebook, Twitter) が 今年 7月に立ち上げた 活動です (Facebook, Twitter). その構想は 以前から あたためていたものだそうです. その趣旨に関しては,彼のブログでの説明を お読みください(特に 718日付の記事19日付の記事25日付の記事).わたしたちは,彼の inclusivity synodality の方針に 完全に賛同しますので,彼の イクトゥス ミニストリーの活動に 全面的に協力することしました.そこで,名称も「イクトゥス ミニストリー みんなのミサ」に変更することになりました.

高松さんも説明しているとおり,χθύς (ichthys) ギリシャ語で「魚」です.そして,それは,Ἰησοῦς Χριστός, Θεοῦ Υἱός, Σωτήρ[イェス キリスト,神の息子,救済者]の頭字語でもあります.それゆえ,魚の図柄は 西暦 2 世紀以来 キリストの象徴として 用いられるようになりました.


この写真は ローマのアッピア街道沿いの Catacombe di San Sebastiano のなかで撮影されたものです.そこには,魚だけでなく,Χριστός (Christus) 始めの二文字 Χ Ρ の組み合わせ文字 および キリストにおける希望の象徴である錨も 描かれています.おそらく 西暦 3 世紀のものでしょう.

高松さんが LGBT LGBTQ という語を 少なくとも日本のカトリック教会のなかでは 用いない方がよい と考える 理由については,このブログ記事 お読みください.わたしたちは,USA を始めとする諸外国の LGBTQ カトリックの活動において LGBT ないし LGBTQ という語が 特に問題なく 用いられているので,それらの語に抵抗感はなかったのですが,日本においてはそうは行かない ということを 初めて 彼から教えてもらいました.

したがって,わたしたちの活動の名称から LGBTQ という語が消えても,わたしたちの基本方針は変わりません.それは,SOGIsexual orientation and gender identity : 性的指向と性同一性)にかかわりなく,みんなのために居場所があり (inclusive), かつ,みんながともに歩む (synodal) 教会の 建設 それは,Papa Francesco が我々に示している基本指針にほかなりません 協力することです.

だが,カトリック教会が homosexuality を断罪していることに 変わりはなく,しかして,先ごろは Dignitas Infinita において 性別適合手術までも断罪したではないか? それは 確かに そのとおりです.しかし,わたしたちがそこに読み取るのは,ある種の〈理論と実践の〉乖離です.神学の理論においては 少なくとも,Thomas Aquinas の形而上学を清算することができていない神学者たちの主張においては 同性どうしの性行為は 自然法 (lex naturalis) の秩序に反するものとして,容認され得ません.それに対して,Papa Francesco は,実践を 福音宣教と信仰伝達の実践を 優先させます;単に優先させるだけではなく,しかして「神学は,教会の福音宣教と 信仰の伝達に 奉仕するものである」(Ad theologiam promovendam) 彼は説いています 伝統的な神学の理論と現在的な福音宣教の実践との間の分裂を無理やり解消しようとはせずに.

それは いかにもイェズス会士的な巧みさだ,と言うこともできるかもしれません.しかし,それは むしろ このことを示唆しています : Papa Francesco は,差異は差異として認めつつ,教会の一致を実現しようとしている.そして,「多様性における一致(Varietate Unitas) は,菊地 東京大司教さまの モットーでもあります.

差異を 差異として 認める それは「言うは易く,行うは難し」の典型例です.自分と違う人たちのことは,攻撃しないまでも,敬遠する それが わたしたちの日常的な態度です.しかし,それでは「多様性における一致」は実現され得ません.では,それを可能にするのは 何か ? それは,隣人愛です 主イェスキリストが我々に送ってくれる聖なる息吹 (Spiritus Sanctus) の恵みによって初めて可能となる隣人愛です.

あらためて,わたしたちの「みんなのミサ」が 聖なる息吹に満たされた 隣人愛の場となりますように!

イクトゥス ミニストリー みんなのミサは,従来どおり,原則的に 毎月 第 3 日曜日の 午後,都内のカトリック施設の聖堂で 献げられます.

そして,イクトゥス ミニストリーの 新たな活動として,9月から,原則的に 毎月 第 1 日曜日の 午後,「祈りと黙想の集い テゼ共同体の歌とともに」が始まります.

もし あなたが「みんなのために居場所があり,みんながともに歩む教会」を ともに作ってゆきたいと思うならば,大歓迎です.是非 おいでください!そして,もし あなたが そこに あなたの居場所を見出したいと思うならば,大歓迎です.是非 おいでください!

問合せと参加申込のための連絡先は 次のとおりです:

イクトゥス ミニストリー : ichthys.ministry.tokyo513@gmail.com

または

イクトゥス ミニストリー みんなのミサ : lgbtcj@gmail.com

2024-08-07

パリ五輪の開会式の Festivité[祝祭]と題された場面に関する追記 — 如何に世界はパラノイア化しているか

フランスの既製服のブランド Marithé et François Girbaud が 2005年に 広告のために用いた「最後の晩餐」のパロディー写真;そこにおいては,キリストの位置に女性が座り,ほかに 11人の女性と ひとりの男性(彼は 裸の上半身の背中を こちらに見せている)が 使徒たちとして 配置されている.彼は Maria Magdalena を表している : Leonardo が キリストの右手側に描いた人物は 通常 使徒ヨハネと解されるが,とても女性的に描かれているその人物を Maria Magdalena と取る解釈も 以前から 提起されている.つまり,この写真においては,男女の性別が Leonardo の作品とは 逆になっている.この〈それなりに美しい〉イメージが如何なる反応を惹起したかについては,このブログ記事の本文を参照.

パリ五輪の開会式の Festivité[祝祭]と題された場面に関する追記 如何に世界はパラノイア化しているか



教皇庁は,パリ五輪の開会式の Festivité[祝祭]と題された場面に関して,803日付で,以下の声明 フランス語で 発表した:

Communiqué du Saint-Siège

Le Saint-Siège a été attristé par certaines scènes de la cérémonie d’ouverture des Jeux Olympiques de Paris et ne peut que se joindre aux voix qui se sont élevées ces derniers jours pour déplorer l’offense faite à de nombreux chrétiens et croyants d’autres religions.

Dans un événement prestigieux où le monde entier se réunit autour de valeurs communes ne devraient pas se trouver des allusions ridiculisant les convictions religieuses de nombreuses personnes.

La liberté d’expression, qui, évidemment, n’est pas remise en cause, trouve sa limite dans le respect des autres.

聖座の声明

聖座は,パリ五輪の開会式の幾つかの場面に 悲しみを 覚えた;そして,〈多数のクリスチャンたち および ほかの宗教の信者たちに対して成された 侮辱を嘆くために この数日間に あげられた 声に〉加わらざるを 得ない.

この威信あるイヴェントそこにおいて 全世界が 共通の価値のまわりに 集うにおいて,多数の人々の宗教的信念を嘲る ほのめかしが 行われてはならないだろう.

表現の自由あきらかに それが問い直されることはないは,他者たちの尊重のなかに その制限を 見出す.

その無記名の声明は,当然,Papa Francesco 自身の意見表明ではあり得ない.もし仮に そうであるなら,そのような「聖座の声明」という形が取られることはない.実際,Papa Francesco は,公の場において 問題の場面について 何も言っていない;むしろ,彼が,開会式直後の 728 日曜日 正午の Angelus の後の談話において 非難したのは,あの場面のことではなく,しかして,戦争 および 戦争の継続を可能にする武器製造である;そこにおいて,彼は こう言っている:

世界で 多数の人々が 災害と飢餓に苦しんでいるのに,一部の者たちは,兵器を製造し続け,販売し続けており,そして,戦争を 大きなものも,小さなものも を維持するために,資源を枯渇させ続けている.その事態は スキャンダルである;国際社会共同体は それを容認してはならないはずである;そして,その事態は[二日まえに]始まったオリンピック競技大会の兄弟愛の精神と矛盾するものである.忘れないようにしよう,兄弟姉妹たちよ,戦争は敗北である!

いずれにせよ,問題の声明は フランス語でのみ発表されており,英訳も イタリア語訳も 付されていない(それは例外的なことである).したがって,それは,開会式翌日に遺憾の意を表明したフランス[カトリック]司教協議会 (CEF) に対する「気配り」の表明という程度の意義において 取られれば よいだろう(このたびの大論争に関して教皇庁が無言であれば,CEF 恥をかくことになっただろう).

ともあれ,あの場面に憤慨する者がいるとすれば,それは勘違いにもとづくものである,ということを,わたしは 先のブログ記事において 十分に説明した.

そして,我々は むしろ この事態を憂慮せねばならない:全世界において問題の場面を冒瀆的として非難する者たちの反応が あまりに paranoïaque であること そして,それは このことに現れている:開会式の演出を担当した Thomas Jolly および あの場面に出演した Barbara Butch および Nicky Doll に対する Internet 上の〈憎悪に満ちた言説の〉爆発的な増殖 それらは 殺害の脅迫に至るまで 過激化している.そして,そのような 常軌を逸したオンライン暴力に対して,Thomas Jolly Barbara Butch 刑事告発に踏み切っている.

いったい いつから そのようになったのだろうか ? 問題の場面が Leonardo da Vinci の「最後の晩餐」の冒瀆的なパロディーであるという解釈に対して,Institut national de l’audiovisuelINA : フランス国立視聴覚研究所)は,1980 10月に フランス国営ラジオテレビ局が チャンネル Antenne 2 で放送した お笑い番組で演ぜられた「最後の晩餐」のパロディー 本当のパロディー 改めて YouTube Facebook に公開している.


そこにおいては,如何に
Jesus Christus fondue savoyarde(日本で「チーズ フォンデュ」と呼ばれているもの)を「発明」したかが コミカルに 結構「冒瀆的」に 描かれている.

はたして,当時,それに対して CEF 公式に抗議したり,提訴したり したのだろうか ? その問いに対する答えを探したところ,この 1983年の Le Monde の記事が見つかった.そこにおいて,当時の パリ大司教 Jean-Marie Lustiger 枢機卿は,フランスにおいて カトリック教会は テレビ番組によって 攻撃され,嘲笑されている,と言って 嘆いてはいる;しかし,だからといって,裁判沙汰にはしていない.古き良き時代である.

Volkswagen が 1998年に用いた「最後の晩餐」のパロディー

それに対して,この Le Monde の記事によると,1998年に Volkswagen が「最後の晩餐」のパロディー写真を用いて 新モデルの宣伝を打ったとき,CEF の代理団体「信仰と自由」(Croyances et libertés) は,その広告が信者の感情を害するものであることを理由に,広告の撤去とかなりの額の賠償金を求めて,自動車メーカーと広告代理店を訴えた.その訴訟は 即座に示談に終わり,Volkswagen 広告を撤回するとともに,カトリック慈善団体に寄付をおこなった(金額は不明).

次いで,2003年に発表された Dan Brown の娯楽小説 The Da Vinci Code(映画化されたのは 2006年のこと)がベストセラーとなったことに触発されて 2005年に 発表された フランスの既製服ブランド Marithé et François Girbaud の「最後の晩餐」のパロディー写真(本記事の冒頭の写真を参照) その写真そのものは,如何なる嘲笑的な要素をも含んでおらず,むしろ,ある種の厳粛さを感じさせさえする を用いた広告に対しては,何が 起きたか ? この事態である : CEF は,再び,その広告を 信仰感情を害するものとして 非難し,CEF の代理団体「信仰と自由」を介して,広告の撤去を求めて 提訴した;一審と二審では,CEF の求めが認められた;しかし,最高裁に相当する審級 Cour de cassation[破毀院]は,2006 11月,問題の広告を禁止することは表現の自由の侵害であると判断し,CEF の請求を 退けた.

訴訟の結論はともあれ,1980年から 1998年までの 20年弱の間に,フランスのカトリック教会 それは 基本的に 保守的ではある の「最後の晩餐」のパロディーに対する反応は,以上のように大きく変化し,そして,その変化後の状態は 2024年の 今も 維持されている というより,その状態は 今や ますます 重篤化している.

その変化を,わたしは「パラノイア化」(paranoïsation, Paranoisierung) と呼ぶ.その詳細な精神病理学的説明がなくても,その〈現在 世界的に最も顕著な〉症状の一例を挙げれば,それが如何なるものであるのかは 察しがつくであろう:その最も顕著な症状の一例とは,USA 社会の「トランプ化」(Trumpization) および そこにおける「トランプ主義」(Trumpism) の優勢である;それに付随する「陰謀論」が明瞭にパラノイア的であることも思い起こせばよいだろう.パラノイアは 精神病理学の領域においては ほとんど顧みられることのない概念となっている.なぜそうなったのか ? それが あまりに当たり前のものになったので,それが「病的」には見えなくなったからである.

パラノイア化は,現代世界を最も根本的に規定するニヒリズムに対する反応の一様態である.思想史における一例を提示するなら,Nietzsche それである;彼は 彼自身の思考を「古典的ニヒリズム」(der klassische Nihilismus) と呼ぶ;そして,それは,「力への意志」と「超人」を以て ニヒリズムを超克しようとする試みに 存する.我々は それを「パラノイア的 ニヒリズム」(der paranoische Nihilismus) と呼ぶことができるだろう.古典的ニヒリズムは,パラノイア的ニヒリズムのニーチェ版である.

信仰は,本来は ニヒリズムの超克の真の可能性のひとつである;だが,それがゆえに かえって パラノイア的ニヒリズムに陥りやすい 今の USA のカトリック教会がそうなっているように(勿論,それに抗っている 司教,司祭,信徒も いる).神の全包容的な愛が パラノイアックな排除と断罪の言説の彼方において 我々を 真の〈ニヒリズムの〉超克へ導いてくださるように.

2024-08-01

パリ五輪の開会式において Festivité[祝祭]と題された場面が Leonardo da Vinci の『最後の晩餐』のパロディーであるという思いこみの過ちを正すために

パリ五輪 2024 の 開会式の Festivité と題された場面

パリ五輪の開会式において Festivité[祝祭]と題された場面が Leonardo da Vinci の『最後の晩餐』のパロディーであるという思いこみの過ちを正すために



20240726 金曜日に 行われた パリ五輪の開会式において Festivité[祝祭]と題された場面が キリストの「最後の晩餐」の厳粛性を嘲る冒瀆的な 信者の宗教感情を傷つける パロディーであったという理由により,その翌日,フランス[カトリック]司教協議会は 抗議声明を発表した.それだけでなく,その場面は,全世界の保守的なクリスチャンたちの〈憎悪と嫌悪に満ちた〉反応を 即座に惹起した.特に,その場面において 中央(もし本当にその場面が「最後の晩餐」であるなら キリストの位置)に立って,両手でハートの形を作っていた 女性 Leslie Barbara Butch SNS accounts には 膨大な数の〈中傷と脅迫の〉メッセージが 送られてきた;それゆえ,彼女は それらのメッセージの発信者たちを 彼らの identity は不明のまま 告訴した(日本の一般紙でも報ぜられている).

そのような過剰な反応が惹起されたのは,あの場面に登場した人物たちの大多数が drag queen であったからだ,ということは 容易に推察される.また,Leslie Barbara Butch 自身も,lesbian であることをみづから公にしている活動家である(彼女の本業は DJ).要するに,あの場面に対する「冒瀆的」という非難が あそこまで過激となったのは,それが〈多くの保守的クリスチャンたちが LGBTQ の人々に対して抱いている 激しい嫌悪と憎悪に〉動機づけられているからである.

何と嘆かわしいことか!「わたしがあなたたちを愛したように,あなたたちも互いに愛しあいなさい」というキリストの根本的な命令を,彼らはまったく忘れ去ってしまっているようだ.

しかも,彼らの〈憎悪に満ちた〉反応は 実は まったく 的はずれなものである;というのも,あの場面は Leonardo da Vinci の『最後の晩餐』のパロディーではなく,しかして,ギリシャ神話の Olympus 神々の饗宴を演じたものであるから.そのことは,この数日間,開会式の演出を監督した Thomas Jolly を含めて,ますます多くの人々によって指摘されている.そして,そのことに気づくためには,問題の場面のあとに,ミュージシャンであり 俳優でもある Philippe Katerine が〈全身 青塗りとなり,かつ ほぼ全裸で〉演ずる Dionysos (Bacchus) が登場する場面まで 見なくてはならない(この動画で 彼は 開会式で歌っていた歌を 歌っている).


そのことを説明する幾つかの新聞記事のうち
 7月29日付の Le Monde 紙の記事 邦訳にて 紹介しよう.

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Jan Harmensz van Bijlert (1597/1598 - 1671) 作『神々の饗宴』.Dionysos 画面前景に横たわる姿で 描かれている;彼は,自分の口の上方に掲げた葡萄の房を搾っている.Magnin 国立美術館

パリ五輪 2024 : カトリック当局が 開会式の際に バッコスの饗宴と キリストの最後の晩餐とを 混同すると

開会式の一場面が,多数の反応を引き起こした;だが,それが準拠したのは,オリンポスの神々の饗宴 複数の絵画を着想させた主題 である. 

726 金曜日の パリ五輪 2024 の開会式の一場面が,そのとき以来,スキャンダルとなっている.その場面には,歌手の Philippe Katerine 登場する ほぼ全裸で,体を青く塗られて.彼は,さまざまな宗教の名において,破廉恥と猥褻のかどで 非難された.そして,フランス[カトリック]司教協議会は「キリスト教に対する嘲笑と揶揄の場面[複数]」を 嘆いた.[カトリック教会の]司教たちは,そこには 最後の晩餐 十字架に掛けられるまえに キリストが[弟子たちとともにした]最後の食事 のパロディーが見える 信じた.最後の晩餐を描いた最も有名な絵画は,あの Leonardo da Vinci フレスコ画 (1495-1498) である;だが,その作品には 無数の翻案 絵画,デッサン,彫刻 ある.

キリスト教の伝統によれば,その晩餐 ラテン語で cena は,キリストと 12 使徒とを 集めている.その単純な数字が,Thomas Jolly[パリ五輪開会式芸術監督]によって構想された光景が『最後の晩餐』とは無関係であるということを証明するに 十分であろう [その場面に登場する]招待客の数は 12 よりも はるかに多いのだから.おそらく,曖昧さは 演出から生じたのだろう:つまり,食卓のようなもの そこには 伝統的に『最後の晩餐』のイメージのなかに存在する料理と飲みものが 欠けている の背後に 幾つかの群像として配置された人物たち.

だが,何よりも,Philippe Katerine 衣装 もし「衣装」と呼べるならば が,そこにおいてかかわっている神話的および芸術的準拠に関して 如何なる躊躇をも 許さない.彼の裸体 それは かくもショックを与えた ,彼の髭,彼の〈葡萄の若枝 および 花々で 編まれた〉冠,肩から腹へ掛けられた[同じく 葡萄の若枝 および 花々で 編まれた]綬,果物と花が満載された盆 それらは すべて 彼を〈ギリシャ人たちによって Dionysos と呼ばれた神 ローマ人たちにとっては Bacchus となった神 として〉指し示している.その神は,Silenus 教師としている;後者は,最もしばしば[Satyros ないし Pan と混同されて]山羊の角を持つ姿で,かつ,酩酊した状態において 描かれている.Dionysos は,葡萄樹とワインに関連づけられ,また,より広く,自然と多産性[豊饒性]に関連づけられる.ギリシャでは,Dionysos 悲劇の父でもある;だが,そのことを Thomas Jolly 考慮に入れてはいない.

異教的な大宴会

一群の drag queen たち および 彼女たちの〈常軌を逸した〉扮装,彼女たちの所作 および Philippe Katerine の所作 それらは,明らかに Dionysos の図像学に 準拠している.それを 我々は 見出す 最も有名な Bacchus の絵画[複数]のなかに たとえば,Caravaggio の作品 そして,若き Bacchus 美しき Ariadne 出会わせる 絵画のなかにも ; Ariadne Bacchus Naxos 島で 発見する なぜなら 彼女は 彼女の恋人 Theseus によって そこに 見棄てられていたから.その光景を描いた絵画作品のうち 最も有名なものは,Tiziano 作品[Bacco e Arianna, バッコスとアリアドネー]である.


そこにおいては[画面の]中央に,裸の
Bacchus 跳躍している 彼が身にまとっていた赤い布から飛び出して bacchante たち および satyre たちに 伴われて;彼らも また Bacchus と同様に ほとんど衣をまとっていない;そのことに,Philippe Katerine が歌っていた歌は,あからさまに 言及している.

より一般的に,それらの要素は,神々の饗宴 Olympus 女神たち および 男神たちが 集う 宴会 古典的な図像学のものである.まさに それらの要素への準拠を,開会式の演出家 Thomas Jolly 念頭に置いていた.彼は,728 日曜日の BFM-TV によるインタヴューのなかで,質問に答えて こう言っている :「あの演出の着想は,むしろ,Olympus の神々に関連づけられた 異教的な大祭典です オリンピックは Olympus に由来するのですから」.

ルネサンスから 17世紀まで  Raffaello から Jacob Jordaens まで  アルプス以北のマニエリスムを経て —,この「神々の饗宴」の主題は しばしば用いられた;なぜなら,それは とりわけ 新たな発想と自由に よく適していたからである.それらの絵画作品においては,男女が 裸体で ときとして 扇情的な姿勢において 配置されている.それらは,快楽の祝祭である Thomas Jolly によって思い描かれた場面が そうであろうとしたように.

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以上が 記事の邦訳である.さらに,若干の説明を この一連の Twitter 投稿 (01, 02, 03, 04, 05, 06) にもとづいて 補足しておこう.Leslie Barbara Butch が頭に付けていたものは,キリストの光輪を模したものではなく,しかして,太陽神 Apollon の後光を模したものである.上に提示されている Jan Harmensz van Bijlert の『神々の饗宴』においても,画面の遠景の中央で 宴席についているのは Apollon であり,彼の頭部には後光がさしている.また,Festivité の場面に あまり目立たない形で登場している 竪琴も,「最後の晩餐」がかかわっているのではないことを 指し示している.

以上のとおり,問題の場面は「最後の晩餐」のパロディーではない;そうではなく,「神々の饗宴」という古典的なテーマの演出である.さあ,フランス司教協議会の 司教さまたち および 大司教さまたち,あなたたちは 自分たちの勘違いを認めるだろうか? 当然,犯した過ちを認めることに躊躇してはならない.主は必ず赦してくださるのだから — あなたたちが いつも そう説いているように.

今回の出来事は,保守的クリスチャンたちが LGBTQ に対して 如何に paranoiac な 憎悪と嫌悪の感情を有し続けているのかを,改めて如実に示した.彼らは,あの演出が彼らの感情を害した と言う.しかし,彼らは,彼らの homophobic な あるいは transphobic な言動が 如何に LGBTQ の人々を傷つけてきたのか — 自殺したくなるほどに そして ときとして 自殺を誘発するほどに — ということを,少しでも省みたことがあるだろうか?おそらく ないだろう.それに対して,もし仮に Thomas Jolly が あの場面を『最後の晩餐』の冒瀆的なパロディーとして構想していたのだとしても,それによって自殺したくなる者は 絶対に皆無である(聖書にときどき描かれているように,自分の高価な衣を裂く者はいるかもしれないが).

カトリック教会は,『カテキズム』の homosexuality に関する一節(2357段から 2359段まで)が示しているように,神学の理論(「同性どうしの性行為は lex naturalis に反している」)と 司牧の実践(「homosexual の人々は 敬意と共感と気づかいを以て 教会に迎え入れられねばならない」)との間の分裂を 包含している.その分裂は,2024年04月02日付の 人間の尊厳に関する布告 Dignitas infinita においても うかがえる:その布告は,神学の理論の次元において,transgender の人々に対して「性別適合手術は,人間の尊厳を損なう恐れがある」ので,望ましくないと 言っている;しかし,それに対して,司牧の実践の次元においては,Papa Francesco は,transgender の人々を,性別適合手術を受けた者でも,包容的に迎え入れている.そのような理論と実践の分裂は,カトリック教会が その二千年の歴史(その根であるユダヤ教の歴史をも含めるなら,おおよそ三千年の歴史)および それにもとづく伝統にのっとりつつ,今 生きている我々に 福音的な救済をもたらそうとするとき,不可避的なものであるのかもしれない.実際,Papa Francesco は そこに 無理やり 整合性を与えようとはしない;しかして,彼は,神学の理論を 司牧の実践に奉仕するものと 位置づける — 司牧の実践を 神学の理論に服従させるのではなく.

周知のように,Papa Francesco は,彼の 2013年の 使徒的勧告 Evangelii gaudium において,Chiesa in uscita[内に閉じこもるのではなく,外へ出てゆく教会]という表現を以て,福音宣教のために積極的に出かけてゆくよう 我々に勧めている.しかし,その際,我々は,厳めしく道徳神学と教会法をふりかざして,人々を断罪しつつ,従うべき規範を彼らに押しつけることはできない.というのも,もし 我々がそのようにふるまうなら,誰が福音に耳を傾けようとするだろうか? そうではなく,我々は 優しくなければならない — 実際,Jesus Christus は こう言っている :「幸福だ,優しい者たちは;なぜなら このゆえに:彼らは 地を相続するだろう」.

では,どうすれば 我々は 優しくなることができるのか? そのことに関して,使徒パウロは 我々に ふたつの助言を 与えている.ひとつは こうである (1 Cor 9,19-23) :

19 なぜなら このゆえに:わたしは,すべての者たちから自由である[誰にも隷属していない]が,わたし自身を奴隷にした より多くの者たちを[福音を信ずる者として]得るために.
20 そこで,わたしは,ユダヤ人たちにとっては,ユダヤ人のように成った ユダヤ人たちを得るために;律法 (Torah) のもとにある者たちにとっては,律法のもとにある者のように成った わたし自身は 律法のもとにある者ではないが 律法のもとにある者たちを得るために.
21 律法のもとにない者たちにとっては,わたしは,律法のもとにない者のように成った [わたし自身は]神の律法のもとにない者ではなく,しかして キリストの律法のもとにある者であるが 律法のもとにない者たちを得るために.
22 わたしは,弱者たちにとっては,弱者のように成った 弱者たちを得るために;わたしは,すべての者たちにとって,すべてに成った すべてのしかたによって 幾人かを救うために.
23 そして,わたしがそうするのは,福音のためである ともに福音に与る者と成るために.

そして,もうひとつは こうである (2 Cor 12,01-10) :

1[福音宣教のために危険と苦難を経験してきたことを]誇る必要があるか ? それは 適切なことではない.だが,わたしは 主の幻視と啓示[の神秘経験を語ること]へ 入ろう.
2 わたしは[このことを]知っている : 14年まえ,ひとりの男[パウロ自身]が キリストにおいて 第三の天[ユダヤ教においては 天は七つあり,第三の天には 天国が位置づけられている]にまで 連れ去られた 身体のうちにいるままになのかは わたしは知らない;身体のそとへ出てなのかも わたしは知らない;神が知っている —.
3 わたしは,そのような男を 知っている 身体のうちにいるままになのか,身体なしになのかは わたしは知らない;神が知っている —:
4 彼は,天国へ連れ去られた;そして,不可言なる ことば[複数]を聞いた それらを語ることは 人間には許されていない.
5 そのような男のことを,わたしは誇るだろう;だが,わたし自身のことは 誇らないだろう 弱さにおける以外には.
6 なぜなら このゆえに:もしわたしが[わたしの神秘経験を]誇ることを欲しても,わたしは狂人ではないだろう;なぜなら わたしは真理を言うことになるだけだから.だが.わたしは そうはしない 誰かが〈わたしから見て取るもの以上のもの あるいは わたしから聞くこと以上のものを〉わたしのなかへ 想定しないように;
7 そして[わたしが受けた]啓示の超常性によって.それゆえ,わたしが高慢にならないように,わたしには 肉において 棘が サタンの使者が 与えられた それがわたしを殴りつけるために わたしが高慢にならないように.
8 そのことについて,わたしは 三度 主に 懇願した それが わたしから なくなるように.
9 だが,彼[主]は わたしに言った:

わが恵みは おまえにとって 十分である;なぜなら このゆえに:強さは 弱さにおいて 成就される.

それゆえ,わたしは,このうえなく喜んで,むしろ わたしの弱さを 誇るだろう キリストの強さ[力]が わたしのうえへ[幕屋を張って]住んでくれるように.
10 それゆえ[これらのことは]わたしには よきことと思われる:弱さ,侮辱,苦難,迫害,苦痛 キリストのために.なぜなら このゆえに:わたしは,弱いときに,強い.

要するに,パウロの ひとつめの助言は こうである:福音宣教において 優しくあるためには,福音を伝えるべき相手の立場に 自分自身を置くこと.それは,特に,教会から差別され,排除されてきた人々に 福音を伝えようとするときに とても必要なことである.

彼のふたつめの助言は こうである:優しくあるためには,自分に与えられた「棘」— 痛み,弱点,欠点  を自覚すること,そして,それによって傲慢にならないこと;相手を断罪するのではなく,自分自身が罪人であることを自覚すること;相手の痛みをともに感ずること.なぜなら,主は,わたしたちが身を低くするときに わたしたちを高めてくれ (cf. Mt 23,12), わたしたちが弱いときに わたしたちを強めてくれるから.

最後に,おまけとして,Dionysos に扮した Philippe Katerine 歌っていた歌の歌詞を 紹介しておこう.というのも,その歌も 謙虚さの勧めであるから:

はだか
すっぱだかだったら 戦争は起こるだろうか?
起こらないだろう
すっぱだかだったら どこに拳銃を隠すか?
どこに?
きみたちがそれをどこに隠そうと思っているかは わかっている
でも,それは よい考えではない
そうとも

すっぱだかになれば,金持ちも貧乏人もない
そうとも
やせていようと 太っていようと 要するに はだかだ
そうじゃないかい?
生まれたままに 生きよう

はだかで
生まれたままに 生きよう

はだか,まったく単純に はだか
はだか,まったく単純に はだか

動物たちが はだかであるように
彼らは けっして やりすぎない
彼らは 知っている 人間が コートを着たサルに とても似ていることを;
帽子をかぶったペリカンに とても似ていることを.
人間なんて 何も偉くない

まったく単純に すっぱだか
はだかでいよう
まったく単純に すっぱだか

すっぱだかのままでいれば 戦争は起こらないだろう
そうじゃないかい?
すっぱだかでいれば,みんな兄弟姉妹だ
ん~

生まれたままに 生きよう
はだかで
生まれたままに 生きよう

はだかで,まったく単純に はだかで

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2024年08月07日付 追記も 参照していただきたい