2024-08-07

パリ五輪の開会式の Festivité[祝祭]と題された場面に関する追記 — 如何に世界はパラノイア化しているか

フランスの既製服のブランド Marithé et François Girbaud が 2005年に 広告のために用いた「最後の晩餐」のパロディー写真;そこにおいては,キリストの位置に女性が座り,ほかに 11人の女性と ひとりの男性(彼は 裸の上半身の背中を こちらに見せている)が 使徒たちとして 配置されている.彼は Maria Magdalena を表している : Leonardo が キリストの右手側に描いた人物は 通常 使徒ヨハネと解されるが,とても女性的に描かれているその人物を Maria Magdalena と取る解釈も 以前から 提起されている.つまり,この写真においては,男女の性別が Leonardo の作品とは 逆になっている.この〈それなりに美しい〉イメージが如何なる反応を惹起したかについては,このブログ記事の本文を参照.

パリ五輪の開会式の Festivité[祝祭]と題された場面に関する追記 如何に世界はパラノイア化しているか



教皇庁は,パリ五輪の開会式の Festivité[祝祭]と題された場面に関して,803日付で,以下の声明 フランス語で 発表した:

Communiqué du Saint-Siège

Le Saint-Siège a été attristé par certaines scènes de la cérémonie d’ouverture des Jeux Olympiques de Paris et ne peut que se joindre aux voix qui se sont élevées ces derniers jours pour déplorer l’offense faite à de nombreux chrétiens et croyants d’autres religions.

Dans un événement prestigieux où le monde entier se réunit autour de valeurs communes ne devraient pas se trouver des allusions ridiculisant les convictions religieuses de nombreuses personnes.

La liberté d’expression, qui, évidemment, n’est pas remise en cause, trouve sa limite dans le respect des autres.

聖座の声明

聖座は,パリ五輪の開会式の幾つかの場面に 悲しみを 覚えた;そして,〈多数のクリスチャンたち および ほかの宗教の信者たちに対して成された 侮辱を嘆くために この数日間に あげられた 声に〉加わらざるを 得ない.

この威信あるイヴェントそこにおいて 全世界が 共通の価値のまわりに 集うにおいて,多数の人々の宗教的信念を嘲る ほのめかしが 行われてはならないだろう.

表現の自由あきらかに それが問い直されることはないは,他者たちの尊重のなかに その制限を 見出す.

その無記名の声明は,当然,Papa Francesco 自身の意見表明ではあり得ない.もし仮に そうであるなら,そのような「聖座の声明」という形が取られることはない.実際,Papa Francesco は,公の場において 問題の場面について 何も言っていない;むしろ,彼が,開会式直後の 728 日曜日 正午の Angelus の後の談話において 非難したのは,あの場面のことではなく,しかして,戦争 および 戦争の継続を可能にする武器製造である;そこにおいて,彼は こう言っている:

世界で 多数の人々が 災害と飢餓に苦しんでいるのに,一部の者たちは,兵器を製造し続け,販売し続けており,そして,戦争を 大きなものも,小さなものも を維持するために,資源を枯渇させ続けている.その事態は スキャンダルである;国際社会共同体は それを容認してはならないはずである;そして,その事態は[二日まえに]始まったオリンピック競技大会の兄弟愛の精神と矛盾するものである.忘れないようにしよう,兄弟姉妹たちよ,戦争は敗北である!

いずれにせよ,問題の声明は フランス語でのみ発表されており,英訳も イタリア語訳も 付されていない(それは例外的なことである).したがって,それは,開会式翌日に遺憾の意を表明したフランス[カトリック]司教協議会 (CEF) に対する「気配り」の表明という程度の意義において 取られれば よいだろう(このたびの大論争に関して教皇庁が無言であれば,CEF 恥をかくことになっただろう).

ともあれ,あの場面に憤慨する者がいるとすれば,それは勘違いにもとづくものである,ということを,わたしは 先のブログ記事において 十分に説明した.

そして,我々は むしろ この事態を憂慮せねばならない:全世界において問題の場面を冒瀆的として非難する者たちの反応が あまりに paranoïaque であること そして,それは このことに現れている:開会式の演出を担当した Thomas Jolly および あの場面に出演した Barbara Butch および Nicky Doll に対する Internet 上の〈憎悪に満ちた言説の〉爆発的な増殖 それらは 殺害の脅迫に至るまで 過激化している.そして,そのような 常軌を逸したオンライン暴力に対して,Thomas Jolly Barbara Butch 刑事告発に踏み切っている.

いったい いつから そのようになったのだろうか ? 問題の場面が Leonardo da Vinci の「最後の晩餐」の冒瀆的なパロディーであるという解釈に対して,Institut national de l’audiovisuelINA : フランス国立視聴覚研究所)は,1980 10月に フランス国営ラジオテレビ局が チャンネル Antenne 2 で放送した お笑い番組で演ぜられた「最後の晩餐」のパロディー 本当のパロディー 改めて YouTube Facebook に公開している.


そこにおいては,如何に
Jesus Christus fondue savoyarde(日本で「チーズ フォンデュ」と呼ばれているもの)を「発明」したかが コミカルに 結構「冒瀆的」に 描かれている.

はたして,当時,それに対して CEF 公式に抗議したり,提訴したり したのだろうか ? その問いに対する答えを探したところ,この 1983年の Le Monde の記事が見つかった.そこにおいて,当時の パリ大司教 Jean-Marie Lustiger 枢機卿は,フランスにおいて カトリック教会は テレビ番組によって 攻撃され,嘲笑されている,と言って 嘆いてはいる;しかし,だからといって,裁判沙汰にはしていない.古き良き時代である.

Volkswagen が 1998年に用いた「最後の晩餐」のパロディー

それに対して,この Le Monde の記事によると,1998年に Volkswagen が「最後の晩餐」のパロディー写真を用いて 新モデルの宣伝を打ったとき,CEF の代理団体「信仰と自由」(Croyances et libertés) は,その広告が信者の感情を害するものであることを理由に,広告の撤去とかなりの額の賠償金を求めて,自動車メーカーと広告代理店を訴えた.その訴訟は 即座に示談に終わり,Volkswagen 広告を撤回するとともに,カトリック慈善団体に寄付をおこなった(金額は不明).

次いで,2003年に発表された Dan Brown の娯楽小説 The Da Vinci Code(映画化されたのは 2006年のこと)がベストセラーとなったことに触発されて 2005年に 発表された フランスの既製服ブランド Marithé et François Girbaud の「最後の晩餐」のパロディー写真(本記事の冒頭の写真を参照) その写真そのものは,如何なる嘲笑的な要素をも含んでおらず,むしろ,ある種の厳粛さを感じさせさえする を用いた広告に対しては,何が 起きたか ? この事態である : CEF は,再び,その広告を 信仰感情を害するものとして 非難し,CEF の代理団体「信仰と自由」を介して,広告の撤去を求めて 提訴した;一審と二審では,CEF の求めが認められた;しかし,最高裁に相当する審級 Cour de cassation[破毀院]は,2006 11月,問題の広告を禁止することは表現の自由の侵害であると判断し,CEF の請求を 退けた.

訴訟の結論はともあれ,1980年から 1998年までの 20年弱の間に,フランスのカトリック教会 それは 基本的に 保守的ではある の「最後の晩餐」のパロディーに対する反応は,以上のように大きく変化し,そして,その変化後の状態は 2024年の 今も 維持されている というより,その状態は 今や ますます 重篤化している.

その変化を,わたしは「パラノイア化」(paranoïsation, Paranoisierung) と呼ぶ.その詳細な精神病理学的説明がなくても,その〈現在 世界的に最も顕著な〉症状の一例を挙げれば,それが如何なるものであるのかは 察しがつくであろう:その最も顕著な症状の一例とは,USA 社会の「トランプ化」(Trumpization) および そこにおける「トランプ主義」(Trumpism) の優勢である;それに付随する「陰謀論」が明瞭にパラノイア的であることも思い起こせばよいだろう.パラノイアは 精神病理学の領域においては ほとんど顧みられることのない概念となっている.なぜそうなったのか ? それが あまりに当たり前のものになったので,それが「病的」には見えなくなったからである.

パラノイア化は,現代世界を最も根本的に規定するニヒリズムに対する反応の一様態である.思想史における一例を提示するなら,Nietzsche それである;彼は 彼自身の思考を「古典的ニヒリズム」(der klassische Nihilismus) と呼ぶ;そして,それは,「力への意志」と「超人」を以て ニヒリズムを超克しようとする試みに 存する.我々は それを「パラノイア的 ニヒリズム」(der paranoische Nihilismus) と呼ぶことができるだろう.古典的ニヒリズムは,パラノイア的ニヒリズムのニーチェ版である.

信仰は,本来は ニヒリズムの超克の真の可能性のひとつである;だが,それがゆえに かえって パラノイア的ニヒリズムに陥りやすい 今の USA のカトリック教会がそうなっているように(勿論,それに抗っている 司教,司祭,信徒も いる).神の全包容的な愛が パラノイアックな排除と断罪の言説の彼方において 我々を 真の〈ニヒリズムの〉超克へ導いてくださるように.