LGBTQ みんなのミサ の 世話人 ルカ 小笠原 晋也 の 降誕祭メッセージ — あらためて レヴィ記 18,22 について
主 Jesus Christus の御降誕 おめでとうございます!
わたしたちが 皆 永遠の命に与る神の子であるようにしてくださった 神の御子の御生誕の喜びを,皆さんと 分かち合いたいと思います.
今年 2020年,COVID-19 の 全世界的な流行は わたしたちの日常生活に 大きな支障をもたらしました.カトリック東京大司教区においては,2月27日から 公開ミサは すべて 中止されました(6月21日に やっと再開されました — 参加者の人数を 大きく制限しつつ).
わたしたちの 月例 LGBTQ みんなのミサも 中止を余儀なくされました.都内における流行が収束を見ないなか,再開の目途は たっていません.そのかわり,わたしたちの仲間は Zoom Meeting で集いを続けています(当初は毎週,12月からは 月に一回).
信仰を分かち合う者たちが定期的に集うことができない — その状況は,あらためて,いかに ユダヤ民族は diaspora において 信仰を守り続けてきたか に わたしたちの注意を向けさせます.彼らは,紀元前 6 世紀の数十年間(バビロン捕囚)および 西暦 70 年に イェルサレムの神殿がローマ帝国軍によって破壊されて以降 ずっと,聖書に規定されているようなしかたで 聖堂において いけにえを捧げる儀式をすることができないできました(今は もはや あえて そのような いけにえ儀式を復活させることを 彼らは選んでいません).そのとき,彼らの信仰を支え続けたのは,聖書です.
わたしたちが「旧約」と呼ぶ もろもろの書は,紀元前 5 世紀から 2 世紀ころまでの間にテクストとして成立し,さらに 西暦 10 世紀ころまでに 長い時間と努力をかけて 正典として整えられました.如何に ユダヤ人たちは それらを読んでいるのか? 古代に書かれた歴史的な文書として読んでいるのではありません.そうではなく,聖書の文面をとおして 神は 今 生きているわたしたちに 語りかけ続けているのだ,しかも,神のことばは 人間にとって 完全に把握可能なものではないのであるから,わたしたちは 聖書の文面をとおして 常に 新たに 神のことばを聴き続けねばならず,かつ,そうすることができる — そのような前提に立って,ユダヤ人たちは,聖書を読み続けています.
したがって,彼らは「聖書のしかじかの箇所は しかじかと読むべきだ」と固定化することを しません.そのような固定化は,むしろ,神に対する冒瀆です.常に変化する状況と条件のもとで生きるわたしたちは,各人,そのつど,常に あらたに 聖書をとおして 神のことばに耳を傾けるべきであり,かつ,そうすることができます.
別の言い方をすると,ユダヤ人たちの耳と心は 神のことばに対して 常に開かれているのです.それに対して,原理主義的な保守派のクリスチャンたちの耳と心は 神のことばに対して閉ざされています.何が閉ざしているのか? それは,彼れら自身によって固定化されてしまった意義です — 聖書のしかじかの箇所は しかじかと読むべきであり,それ以外の読み方はあり得ない という思い込みです.
そのように固定化された意義を,形而上学的偶像崇拝 (metaphysical idolatry, l'idolâtrie métaphysique) と呼びましょう.保守派クリスチャンたちが拝んでいるのは,形而上学的な偶像としての「神」にすぎません.それは,本当の神ではありません.そして,そのような偶像は,彼らの耳と心を 神のことばを常に新たに聴こうとする開かれた聴き方に対して 閉ざしてしまっています.
形而上学的偶像崇拝者の「神」のことを,Blaise Pascal は「哲学者と神学者の神」と呼んでいます.それに対して,彼は,火の夜,彼に与えられた啓示において 彼に 自身を開示してきた神を「アブラハムとイサクとヤコブの神」と呼んでいます.わたしたちも,「哲学者と神学者の神」を拝む形而上学的偶像崇拝を捨て,「アブラハムとイサクとヤコブの神」のことばに対して耳と心を開くことを学ばねばなりません.
さて,今月(2020年12月),また 新たに Twitter の timeline で homophobe Christians と LGBTQ Christians との激烈な論争が展開されているのを 見かけました.それは,単なる無邪気な神学論争ではありません.というのも,その論争に関する感想として,高田嘉文氏は,こう述べているからです:
「同性愛は罪」っていうのはね,当事者にとっては「お前には 生きている価値がない」って聞こえるんですよ.「死ね」って言ってるのと同じでしょ.
如何に LGBTQ Christians たちと 彼らの advocate であるわたしたちは 聖書を読むことができるか? 以前「LGBTQ と カトリック教義」で書いたことの抜粋を この記事「あらためて LGBTQ と 聖書について — 聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない」に転載しました.また,以前のブログ記事「聖書を楯に取って homosexuality を断罪する人々に対する答え方」や「『放蕩息子の寓話は悔い改めが前提』に対して」も参照してください.
ここでは,homophobe Christian たちが最も根本的な準拠とする レヴィ記 18,22 を ヘブライ語テクストにもとづいて 改めて読んでみましょう(レヴィ記 20,13 も同様):
וְאֶת־זָכָר לֹא תִשְׁכַּב מִשְׁכְּבֵי אִשָּׁה
καὶ μετά ἄρσενος οὐ κοιμηθήσῃ κοίτην γυναικείαν
Thou shalt not lie with mankind, as with womankind (King James Version)
Tu ne coucheras pas avec un homme comme on couche avec une femme (Traduction oecuménique)
女と寝るように 男と寝てはならない(聖書協会共同訳)
英語訳,フランス語訳,日本語訳は 似たり寄ったりですが,ヘブライ語原文と ギリシャ語訳(70人訳)は,直訳すると,こう訳せます:
して,汝[男]は,女と寝ることを 男と寝るなかれ
ヘブライ語では,動詞の活用は 主語が男性か女性かによって異なります.この命令にしたがうべき者が男性であることは 明確です.
そして,動詞 שָׁכַב[寝る](ギリシャ語訳では κοιμᾶσθαι)は 同族目的語 מִשְׁכָּב[寝ること](ギリシャ語訳では κοίτη)を取っています.つまり:
おまえ[男]は,女と寝ることを 男としてはならない.
あるいは:
おまえ[男]は,女と寝る代わりに 男と寝てはならない.
このように訳すと,この命令に従うべき男にとっては,女と寝ることが普段の習慣であり,それに対して,男と寝ることはそうではない,ということが,より明確になります.
「LGBTQ と カトリック教義」および「あらためて LGBTQ と 聖書について — 聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない」において指摘したように,ユダヤ教の律法の主体(その命令に従うべき者)は,heterosexual かつ cisgender である男性であり,homosexual や transgender である者の存在は想定されていません.わたしたちは,レヴィ記 18,22 のヘブライ語原文を読むことによって,そのことを より明瞭に確認することができます.
以上のような指摘が,しかし,homophobe Christian たちの考えを変えることはできないでしょう.彼れらの思い込みは paranoïaque だからです.形而上学的偶像崇拝は 一種の paranoïa にほかなりません — Trumpism と同様に.わたしたちとしては,彼れらが自滅して行くのを待つしかありません — それが彼れらの運命ですから.
新しい年 2021年が どのような年になるのか,今のところ まったくわかりません.ワクチンの効果により pandemic は収束に向かうのか,あるいは,pandemic の勢いが ワクチンに勝るのか...
ともあれ,主に信頼しましょう.
主の愛が 皆さんを 支えてくれますように.Amen.
そして,あらためて 主の御降誕 おめでとうございます!