2015年12月29日火曜日

Merry Christmas !

I’d like to address to everyone my hearty greeting of Christmas and to share with you all our joy of the Nativity.

Jesus has shown us the example to follow in His absolute fidelity to God’s will. And we know the supreme commandment of our Lord : “As I have loved you, so you must love one another” (Jn 13,34). So tells us Saint Paul also : “the one who loves another has fulfilled the law” (Rm 13,8), and “love is the fulfilling of the law” (Rm 13,10).

This love with which and in which Jesus loves us excludes no one. He discriminates no one. For His love is all-inclusive, as Pope Francis emphasized in his morning homily of the 5th November this year : “Christ unites. He makes unity. By his sacrifice on Calvary He made it so that all people are included in salvation. (...) the Lord includes.”

This ending year 2015 has been a very significant one for me, Luke S. Ogasawara, for I started this activity of “LGBT Catholics Japan” with my friend Peter T. Miyano and some other friends of mine I don’t name here publicly.

If we are pro-LGBT Catholic activists now, it is ironically due to some Catholics who are judging and discriminating LGBT people. What those anti-LGBT obscurantists are telling in the name of the Catholic Church is absolutely opposite to Jesus’ commandment of love. So we cannot help proclaiming His all-inclusive love publicly not only to those who suffer discrimination and exclusion because of their sexuality, but also to the entire Japanese society which won’t cease to turn a deaf ear to the Gospel.

Fortunately we met some priests who are not conservative legalists but who have Christocentric faith as Pope Francis do. They are sharing with us firm opposition to any possible discrimination and all-loving inclusiveness regardless of sexuality in the Catholic Church.

Contrary to Jesus who includes, said Pope Francis in the above mentioned homily, “when we pass judgement on a person, we create exclusion. (...) we remain in our little group and we are selective, and this is not Christian.” While “God has included everyone in salvation, (...) we, with our weaknesses and our sins, with our envy and jealousy, always have this attitude of excluding which can end in war.”

So we pray with the Pope to ask for “the grace to be men and women who always include, who never close the door, but have an open heart to anyone.”

To conclude this Christmas reflection, I’d like to make some remarks on possible solidarity of LGBT activists with feminists.

The term “sexism” means usually a discrimination men do and have against women. But we can call sexism any discrimination based on sexuality. When LGBT people are discriminated or excluded because of their sexuality, it’s also a kind of sexism.

I’d like to name what makes the structure of sexism “male totalitarianism”. Heterosexual men considering themselves “normal human being” are forming a set (in mathematical sense), that is, a totality which excludes any element not belonging to it : for example, women and LGBT people.

Not to extend here detailed discussions, I’d like only to remark that male totalitarianism defines all kinds of discrimination (racism, discrimination against handicapped people, etc.), and that it makes also the fundamental structure of political totalitarianism.

LGBT activists and feminists can be solidary with each other in our battle against this male totalitarianism which constitutes the principal Evil opposing to the all-inclusive love of God.

Now, under its appearances of liberal democracy, Japan is in fact a totalitarian society with its marked sexism, xenophobia, ultranationalism and indifference to social injustice. Therefore God tells us all the more to proclaim His all-inclusive love in Japan to do away with any kind of discrimination.

Let’s pray the Lord for a renewed courage to undertake our missions in the coming year 2016.

主の御降誕おめでとうございます!

Joyeux Noël ! 主の御降誕の喜びを,皆さんと分かち合いたいと思います.

主イェス・キリストは,神の御意志への絶対的な忠実さにおいて,あらゆる人間のお手本です.そして,主がわたしたちに残したメッセージは,皆さん御存じのように,これです:

「わたしがあなたたちを愛したように,あなたたちも互いを愛しなさい」 (Jn 13,34).

主は,誰も差別しません.神の愛は,誰も排除しません.

2015年は,わたし,小笠原晋也にとって,とても有意義な年でした.この LGBT カトリック・ジャパンの活動を,宮野亨さん,ならびに,お名前をここに公表しない幾人かの友人と共に,始めることができたのですから.

わたしたちが今こうして pro-LGBT Catholic activist であり得るのは,皮肉にも,LGBT の人々を断罪し,排除するカトリック信徒たち幾人かのおかげです. 彼らは,カトリックの名のもとに,主の愛の教えに反する言辞を弄している:たとえ彼らが多数ではないとしても,この現実を見過ごすことは,わたしたちには不可能でした.

幸い,小宇佐敬二神父様をはじめ,わたしがこの問題に関して相談することのできた神父様たちは皆,Francesco 教皇と同様,律法中心主義ではなく,キリスト中心主義にもとづいて,如何なる差別にも如何なる排除にも反対し,どのような sexuality の人をも教会に迎え入れたい,という御意見を表明してくださいました.

Internet で目にとまった LGBT に関するさまざまな記事を読むうちに,最も重要な key word に気づきました : inclusive. その派生語は inclusiveness, inclusivity です.

inclusion は,当然ながら,exclusion [排除]や discrimination [差別]の反意語です.しかし,排除や差別の反意語として日本語で日常的に使われている簡潔な表現はありません.そこで,include を「包容する」と訳したいと思います.

「包容」こそ,神の愛をその全的な包容力において差ししるす語として,キリスト教の key word となるべきです.神の愛は,あらゆる者を包容します.誰をも差別せず,誰をも排除しません.

さて,sexism [性差別]という表現は,通常,男が女性を差別することを指します.しかし,sexuality [性本能]にもとづく差別をすべて「性差別」と呼ぶとすれば,LGBT の人々に対する差別も性差別です.

「性本能」という表現に生物学主義の臭いを感ずる人がいるとすれば,ひとこと注釈を付しておかねばなりません:言語に住まう存在としての人間における性本能は,性染色体によって生物学的に一義的に規定されるものではありません.わたしの専門である精神分析の観点から性本能が如何に規定され得るかをここで詳論することはできませんが,ひとくちで言うなら,性本能は人間の在り方(つまり,生き方)の根本にかかわる実存的な問題です.キリスト教の観点において言うなら,ひとりの人間が性本能を如何に生きるかは,創造主たる神の賜です.

ともあれ,性差別に対する闘いにおいて,フェミニストと LGBT activist は連帯することができます.

ところで,性差別の構造を作り出しているものは何か? わたしはそれを male totalitarianism [男全体主義,男性全体主義]と名づけたいと思います.

heterosexual な男たちは,自分たちを「ノーマルな人間」と規定し,ひとつの全体を形成しています.そして,その集合に属さない者をすべて差別します.男全体主義は,性差別のみならず,障碍者差別や人種差別など,あらゆる差別の元凶です.そして,政治的な全体主義の根本構造でもあります.

フェミニストと LGBT activist の共通の敵は,男全体主義です.そして,男全体主義は,神の全包容的な愛に対する抵抗として,キリスト教にとっても克服されるべき悪です.

今や全体主義的社会となってしまった日本において,わたしたちは,「包容」をスローガンとして,神の愛を伝え続けて行きましょう.あらゆる差別をなくすために.

2015年11月18日水曜日

寺田留架さん主宰「約束の虹ミニストリー」の勉強会「虹ジャム」に参加してきました.



昨日,2015年11月17日の晩,寺田留架さんが主宰する「約束の虹ミニストリー」の勉強会「虹ジャム」に参加しました(写真右が寺田留架さん,左が小笠原晋也).

寺田留架さんは今年3月に東京聖書学院を卒業した「牧師のタマゴ」です.

昨日は,Jeffrey S. Siker 編の論文集 Homosexuality in the Church : Both Sides of the Debate (1994) の概要が紹介されました.同書は,USA のプロテスタント教会における LGBT 問題に関する議論の総説です.LGBT は罪であるか否か,LGBT の人々をプロテスタント教会へ受け容れるか否かについて,賛成論と反対論の双方が収録されています.

カトリック信徒としてのわたしの意見は,フランチェスコ教皇が2015年11月5日朝の説教でおっしゃったことに尽くされています:キリスト者は包容する.裁きも排除もしない.

LGBT の人々が気兼ね無く御ミサや礼拝に参加することができるよう,寺田留架さんと共に今後も活動して行きましょう.

2015年10月28日水曜日

フランチェスコ教皇のシノドス閉会の談話,2015年10月24日

家族のためのシノドス2015

14回世界代表司教会議通常総会終結会合

フランチェスコ教皇の談話

シノドス会場
20151024日,土曜日


親愛なる総主教,枢機卿,司教の皆さん,
親愛なる兄弟姉妹の皆さん,

わたしはまず,主に感謝したいと思います.主は,聖霊とともに,この数年間,わたしたちのシノドスの道を導いてくださいました.聖霊の支えが教会に欠けることは決してありません.

わたしは心から,このシノドスの総書記 Lorenzo Baldisseri 枢機卿と,副書記 Fabio Fabene 司教に感謝します.そして,彼らとともに,次の人々に感謝します 全体報告担当 Péter Erdő 枢機卿,特別書記 Bruno Forte 司教,ヨーロッパ,アジア,アメリカ,アフリカの四大陸それぞれの代表枢機卿,書記,顧問,翻訳者,聖歌隊員,および,教会のために倦むことなく献身的に働いてくれた人々すべて.心から感謝します!また,報告書を作成してくれた委員会に感謝します.なかには徹夜してくれた人々もいます.

シノドスに参加した神父,他教会の代表者,傍聴者,陪席者,教区司祭,家族,皆さんに感謝します.皆さんは,活発で実り多き協力を提供してくれました.

また,参加者リストに記名されていない人々,このシノドスの作業のために黙々と働き,惜しみなく貢献してくれた人々すべてに感謝します.

皆さん,わたしは本当にあなたたちのために祈ってます.主が皆さんに豊かな恵みの賜で報いてくださいますように!

シノドスの作業を見守りながら,わたしは自問していました:家族に献げられたこのシノドスの結論を出すということは,教会にとって何を意味するだろうか?

いかにも,それはこういう意味ではありません:つまり,家族に内在する問題すべてについて結論を出したわけではありません.そうではなく,それらの問題に光を当てようと努めました.福音の光と教会の二千年の歴史の伝統の光とでそれらの問題を照らそうと努めました.そして,異論の余地無きことや既に言われたことの安易な反復へ陥ることなく,それらの問題へ希望の喜びを注ぎ込もうと努めました.

また,それはこういう意味でもありません:つまり,網羅的な解決を見出したわけではありません.家族の前に立ちはだかり,家族を脅かす困難と疑念すべてを解消したわけではありません.そうではなく,それらの困難と疑念を信仰の光で照らし,注意深く検討し,恐れずにそれらと立ち向かいました ダチョウのように頭を砂のなかへ隠すことなく.

それは,こういう意味です:つまり,家族 および,[家族を形成する]一致と解消不可能性とに基づく男女の結婚 という制度の重要性を理解し,そして,家族および結婚という制度を,社会と人間の生との根本的な基礎として評価するよう,皆に促しました.

それは,こういう意味です:つまり,ローマにやって来た家族たちと教会の司牧者たちとの声を聴き,かつ聴かせました.彼ら彼女らは,世界のすべての地域の家族の重荷と希望,豊かさと試練を担ってローマにやって来たのです.

それは,こういう意味です:つまり,カトリック教会が生き生きとしていることを証明しました.カトリック教会は,家族の問題を活発かつ率直に議論することによって,麻痺していた良心を揺り動かすことを恐れず,また,きれい事で済まさないことを恐れません.

それは,こういう意味です:つまり,今日の現実 または,単数形で「現実」と言うのではなく,複数形の[多様な]現実 を,神の目でまなざし,読もうと努めました.それは,社会的,経済的,道徳的な危機のなかで,ネガティヴな傾向が優位となり,気力を失わせてしまう今の時代において,信仰の炎で人々の心にあかりをともし,人々の心を照らすためです.

それは,こういう意味です:つまり,教会にとって福音は永遠なる新しさの生ける源泉であり続けるということを皆に証言し,それに対して,福音を死んだ石へ「教義」化し,他者へ投げつけようとする者に対抗しました.

それは,さらにまた,こういう意味です:つまり,閉ざされた心たちの衣装を剥ぎ取りました.彼ら閉ざされた心たちは,しばしば,教会の教えや善良な意図の背後にさえ隠れており,モーゼの威光に輝く椅子に座り,ときとして優越感と浅はかさとを以て,難しい事例や傷つけられた家族を裁こうとします.そのような閉ざされた心たちの衣装を剥ぎ取りました.

それは,こういう意味です:つまり,教会は貧しい人と罪深い人との教会であることを肯定しました.教会は,義人と聖人だけの教会ではなく,こころの貧しい人と赦しを求める罪人との教会です.あるいは,むしろ,人間は自分が貧しく,罪深いと感ずるときにこそ義人であり,聖人であり得る限りにおいて,教会は義人と聖人の教会です.

それは,こういう意味です:策謀的な教義解釈 または,視野の閉塞 をすべて乗り越えるために,地平線を切り開きました.それは,神の子どもたちの自由を守り,広げるためであり,キリスト教の新しさの美を伝達するためです.その美は,ときとして,古めかしい言葉 または,単純に言えば,理解不能な言葉 の錆に覆い隠されてしまっています.

このシノドスの最中,さまざまな意見が自由に また,不幸なことに,ときとして全く好意的でないしかたで 表明されました.それらの意見は,確かに,対話を豊かにし,活発にしました.そして,教会の生き生きとしたイメージを見せてくれました.教会は,「あらかじめ用意された文言」を用いたのではありません.そうではなく,教会は,渇いた心をうるおすために,信仰という尽きぬ源泉から生きている水を汲みます[1].

そして 教会の教導権によりはっきり定められた諸問題の彼方で わたしたちはまた,このことを経験しました:つまり,ある大陸の司教にとっては当然だと思われることが,ほかの大陸の司教の目には異様なこと,ほとんどスキャンダル [「完全に」とまでは言わずとも]ほとんどスキャンダル だと映り得る;ある社会においては人権侵害と見なされることが,ほかの社会においては自明にして不可侵なる掟であり得る;ある者たちにとっては良心の自由であることが,ほかの者たちにとっては単なる勘違いであり得る.現実に,相異なる文化は非常に多様です.そして,普遍的原理 先ほど言ったように,教会の教導権によりはっきり定められた諸問題 はおのおの,遵守され適用されようとするなら,文化適応 [ inculturation ] する必要があります[2]. 第二ヴァチカン公会議終結の20周年を記念した1985年のシノドスは,文化適応についてこう語っています:文化適応とは「[一方で,ある社会の]本当の文化的諸価値が,それらがキリスト教のなかへ統合されることによって,内奥において変化し,かつ,[他方で],多様な人間文化のなかへキリスト教が根づくことである」[3]. 文化適応は,[キリスト教の]まことの諸価値を弱めるのではなく,それらの本当の力とそれらの真正性を証明します.なぜなら,[キリスト教の]まことの諸価値は,変形されることなく[さまざまな文化へ]適応するのであり,しかして逆に,[キリスト教の]まことの諸価値は,さまざまな文化を平和的に徐々に変形するからです[4].

同じくわたしたちの多様性の豊かさをとおして,わたしたちはこのことを見ました わたしたちが為すべき挑戦は,常に同じものである:すなわち,今日の人間に福音を告げ知らせること イデオロギーや個人主義による攻撃すべてから家族を守りつつ.

そして,相対主義の危険に決して陥ることなく,また,他者を悪魔呼ばわりする危険に決して陥ることなく,わたしたちは,勇気を以て全面的に神の善意と慈しみを抱きしめようと努めました.神は,わたしたち人間がする計算を凌駕しています.神が欲することはこれだけです:「人間すべてが救済される」こと (1 Tm 2,4). わたしたちが勇気を以て全面的に神の善意と慈しみを抱きしめようと努めたのは,慈しみの特別聖年の文脈へこのシノドスを位置づけ,その文脈においてこのシノドスを生きるためです.教会は,神の慈しみを生きるよう呼ばれています.

親愛なる皆さん,

シノドスの経験は,わたしたちにこのことをよりよくわからせてくれました:すなわち,教義の本当の擁護者は,その lettera, lettre [字面]を擁護する者ではなく,その spirito, esprit [精神,霊気,霊]を擁護する者である;観念ではなく人間を擁護する者である;文言ではなく,神の愛と赦しの無償性を擁護する者である.それは,定められた文言の重要性を減らすという意味では決してありません.定められた文言は必要です.また,神の律法と命令の重要性を減らすという意味でも決してありません.そうではなく,本当の神の偉大さをたたえるという意味です.神がわたしたちをどう扱うかは,わたしたちの功徳によるのでも業績によるのでもなく,しかして,ひたすら,神の慈しみの限りない寛大さによります (cf. Rm 3,21-30 ; Ps 129 ; Lc 11,47-54). それは,「放蕩息子」の譬えの兄 (cf. Lc 15,25-32) や「午後5時の労働者」の譬え (cf. Mt 20,1-16) で朝から働いていた者が陥った妬み そのような試みは常に待ち受けています を乗り越えることを意味します.それは,神は律法と命令を人間のためにお創りになったのであり,その逆ではない (cf. Mc 2,27) ということを尊重することを意味します.

その意味において,人間が為す正しい悔悛,業績,努力は,より深い意義を持つことになります.それらは,救済のために支払うべき代価ではありません.そのようにして救済を手に入れることはできません.救済は,十字架上のキリストが無償で成就したのです.しかして,わたしたちが悔悛し,業を為し,努力するのは,神に答えることなのです.わたしたちがまだ罪人であったときに,先に神がわたしたちを愛してくださり,罪無き血を代価としてわたしたちを救済してくださいました (cf. Rm 5,6). そうしてくださった神に答えるために,わたしたちは悔悛し,業を為し,努力するのです.

教会の第一の義務は,断罪や非難をばらまくことではありません.そうではなく,神の慈しみを宣べ伝えること,人間すべてを回心へ呼び招くこと,人間すべてを主による救済へ導くことです (cf. Jn 12,44-50).

福者パウロ六世は,すばらしい言葉でこう言いました:「したがって,我々はこう考えることができる:我々が罪を犯し,神から逃げるときはいつも,神のなかにはより強い愛の炎がともされる.我々を取り戻し,我々を救済の計画のなかへ組み込み直したいという欲望が,神のなかに生ずる [...]. 神は,キリストにおいて,無限に善い方として己れを啓かしている [...]. 神は善き方である.それは,即自的にというだけではない;神は 我々は泣きながら言おう 我々に対して善き方である.神は,我々を愛してくださり,我々を探してくださり,我々のことを考えてくださり,我々のことを知っておられ,我々に霊を与えてくださり,我々を待っていてくださる:言うなれば,神が幸福となる日は,我々が神のもとに戻ってきて,“主よ,御厚意によって,わたしをお赦しください”と言う日である.そのとき,我々の悔悛は神の喜びと成る」[5].

聖ヨハネパウロ二世は同様に断言しています:「教会がまことの生を生きるのは,慈しみを公言し公告するときであり [...], 人々を救い主の慈しみの源泉へ導くときである.教会は,主の慈しみの受託者であり,分配者である」[6].

同様に,教皇ベネディクト十六世も言っています:「実際,慈しみは,福音のメッセージの中核であり,神の名そのものである [...]. 教会が言うこと,為すことはすべて,神が我々人間のために育んでくださっている慈しみを顕すものである.見失われた真理や裏切られた善を教会が思い起こさねばならないとき,教会がそうするのは常に,慈しみ深い愛に駆られてである 人間が命を得るために,しかも,命を豊かに得るために (cf. Jn 10,10)[7].

そのような光のもとに,また,教会が家族について語り,論じつつ体験した恵みの時間のおかげで,わたしたちは豊かになったと互いに感じています;わたしたちのうち多くの者が,聖霊の働きを経験しました.聖霊こそ,シノドスの本当の主役であり,匠です.わたしたち皆にとって,famiglia [家族]という語は,シノドス以前と同じ響きをもはや持っていません シノドスの使命の要約とシノドスの全行程の意義とが既にその語に見出されるほどに[8].

実際,教会にとって,シノドスの結論を出すということは,本当に「共に歩む」ことへ立ち返るという意味です 世界の至るところへ,あらゆる教区へ,あらゆる共同体へ,あらゆる状況へ,福音の光と教会の抱擁と神の慈しみの支えとをもたらすために!

ありがとう!


[1] Cf. Lettre au Grand Chancelier de l’Université pontificale catholique argentine pour le centième anniversaire de la faculté de théologie, 3 mars 2015.

[2] Cf. Commission biblique pontificale Foi et culture à la lumière de la Bible. Actes de la Session plénière 1979 de la Commission biblique pontificale, LDC, Leumann 1981, Conc. Oecum. Vat. II, Const. Gaudium et spes, n. 44.

[3] Relation finale (7 décembre 1985) : L’Osservatore Romano (10 décembre 1985), p. 7 ; Documentation catholique no1909 (5 janvier 1986), p. 41.

[4] 「教会は,その司牧使命のゆえに,歴史の変動と心性の変化とに常に注意深くあり続けねばならない いかにも,それらに服従するためではなく,しかして,教会の助言と指導の受容を妨げ得る障害を克服するために」(Georges Cottier 枢機卿のインタヴュー,La Civiltà Cattolicà, 3963-3964, 201588日,p.272).

[5] 1968623日の説教,Insegnamenti VI (1968), 1176-1178.

[6] 回勅『慈しみ豊かな神』 n.13. ヨハネパウロ二世はこうも言っている:「復活祭の神秘において [...] 神は在るがままに我々に現れる:御父は心優しく,子らの恩知らずな態度を見ても屈せず,常に赦しを与えようとしている」(ヨハネパウロ二世,Regina caeli, 1995423日,Insegnamenti XVIII, 1 [1995], 1035). また,ヨハネパウロ二世は,慈しみに対する抵抗をこう記述している:「おそらく,昔の人間の心性よりも,現代人の心性はよりいっそう,慈しみの神に逆らっているように見える.現代人の心性は,慈しみという概念そのものを人生から排除し,人間の心から除去しようとする.慈しみという語とその観念は,現代人を居心地悪くするように見える」(回勅『慈しみ豊かな神』 n.2).

[7] Regina coeli, 2008330日,Insegnamenti IV, 1 (2008), 489-490. また,ベネディクト十六世は,慈しみの力について語りつつ,こう断言している:「悪に対して限界を設けるのは,慈しみである.慈しみにおいて,神のまったく特殊な性質 神の聖性,真理の力,愛の力 が表現されている」(神の慈しみの主日の説教,2007415日,Insegnamenti III, 1 [2007], 667).

[8] famiglia [家族]という語をアクロスティキスを成すように分解してみると,教会の使命を要約する手助けになる.教会は,次のことを目ざす:

F : 愛を真摯に生きるよう,新たな世代を養成 [ formare ] すること.愛を真摯に生きる 単に快楽や「使い捨て」に基づく個人主義的目的でではなく,本当の愛,実り豊かで永続的な愛を改めて信ずるために.そのような愛は,これらのことを可能にする唯一の道である:自我から脱すること;他者へ己れを開くこと;孤独から抜け出すこと;神の意志を生きること;全的に自己を実現すること;結婚は神の愛が顕現する空間であるということを理解すること;生命の神聖性 あらゆる生命の神聖性 を擁護すること;神の恵みの徴としての,ならびに,人間の真摯に愛する能力の徴としての結婚のきづなの唯一性と解消不可能性を擁護すること (cf. シノドス開会のミサの説教,2015104) ; そして,結婚準備講座を,結婚の秘跡のキリスト教的意味を深く理解する機会として価値づけること.

A : 他者へ歩み寄る [ andare ] こと.なぜなら,自己閉鎖的な教会は死んだ教会である.あらゆる人を迎えに行き,迎え入れ,キリストへ導くという目的のために自分自身の囲いから外へ出ることをしない教会は,本来の使命と召命を裏切る教会である.

M : 神の慈しみを明らかにし [ manifestare ], 広げること 困難な情況にある家族へ;見捨てられた人々へ;孤独な老人たちへ;両親の離婚に傷ついた子どもたちへ;生きるために戦っている貧しい家族へ;我々の扉,または遠くの扉をノックしている罪人たちへ;さまざまなハンディキャップを持つ人々へ;自分の心や体が傷ついていると感じている人々すべてへ;苦しみや病気や死別や迫害によって引き裂かれたカップルへ.

I : 良心の明かりをともす [ illuminare ] こと.良心はしばしば,有害にして巧妙な幾つもの力に取り囲まれている.それらの力は,創造主たる神の座にみづから就こうとさえする.そのような力を暴き出し,それらと戦わねばならない 人間の尊厳を完全に尊重するために.

G : 教会への信頼を獲得する [ guadagnare ] こと,また,教会自身の子らの行動と罪のせいで深刻に損なわれた教会への信頼を謙虚に再建すること.不幸にも,教会の内部で幾人かの聖職者が犯した逆証言[本来の信仰の証言に対して逆効果であるような証言]とスキャンダルは,教会の信用を傷つけ,教会が発する救済のメッセージの輝きを曇らせてしまったのだから.

L : 健全な家族,信仰に忠実な家族,子だくさんの家族 日々の苦労にもかかわらず,教会の教えと主の命令への忠実さをすばらしく証言し続けている家族 を支え,励ますために,おおいに働く [ lavorare ] こと.

I : 福音に基づき,かつ文化の多様性を尊重する新たな家族司牧神学 [ pastorale famigliare, pastorale familiale ] を構想する [ ideare ] こと.そのような司牧神学は,喜びに満ちた魅力的な言葉で良き知らせ[福音]を伝えることができ,解消不可能な結婚生活を引き受けることの恐怖を若者の心から取り除くことができねばならない.引き裂かれた家族の真の犠牲者である子どもたちへ特別な注意を払わねばならない.さらに,そのような革新的な司牧神学は,結婚の秘跡にふさわしい準備を提供することができねばならない.しばしば形式の外見の方を気にかけ,生涯続く結婚生活のための教育をおろそかにしている現行の結婚準備のやり方をやめることができねばならない.

A : すべての家族を無条件に愛する [ amare ] こと.特に,困難の期間を経験している家族を愛すること.孤立していると感じたり,教会の愛と抱擁から排除されていると感ずる家族はひとつもあってはならない.本当のスキャンダルは,愛するのを恐れること,そして,愛を具現化するのを恐れることである.

2015年9月15日火曜日

映画「カミングアウト」上映会を終えて

9月13日日曜日,映画「カミングアウト」の自主上映会を予定どおり行いました.参加してくださった方々,ならびに,会場を貸してくださったカトリック本郷教会に感謝します.

この映画のテーマは,gay である或る大学生が家族や友人に自分の sexuality を告白する過程における心理的葛藤です.

誰もが或る年齢に達すると,家族や友人や社会一般から,結婚や就職などに関して「普通」に為されるさまざまな期待や要請を受け取ります.しかし,LGBT の人々にとっては,そのような事態は非常に大きな重荷になります.なぜなら,自分の sexuality にそぐわないからです.

では,わたしが LGBT であることを告白するか?しかし,それまでわたしを「普通」の人間と見なしてきた身近な人々が,「普通」でないわたしを受け容れてくれるか拒絶することになるか,愛してくれるか憎むことになるか? LGBT の人々が coming out しようと思えば,この非常に恐ろしい実存的な問いを自問せねばなりません.

映画「カミングアウト」をひとつの芸術作品と見なすとき,そこにおいてこの重大な問題性が十分に描き出されていたか?残念ながら,その閾に達していたとは言えません.

まず,sexuality の問題を扱った作品でありながら,直接に性的な光景は描かれておらず,教会の施設のなかで上映するには無難と言えば無難でしたが,「きれいごと」で終わってしまっています.また,主人公の家族構造は日本でももはや神話的ないし伝説的とでも言うべき中流階級家族構造として設定されており,家族内力動も全く描かれていませんでした.要するに,映画的な reality には乏しい作品でした.

さらに,spiritual な要素の欠如が指摘されます.LGBT の人々が家族を含む対人関係のなかで持つ悩みだけでなく,神との関係において持つだろう疑問,葛藤,信頼,和解などをも取り上げれば,そのような作品は,映画であれ小説であれ,より感動的なものになるでしょう.キリスト教が主流宗教である国々でなら,そのような作品は既に作られているだろうと思います.調べてみます.

上映会後の議論のなかで,日本社会では transgender の人々は「病気」として受け容れられやすいが,cisgender の同性愛者はより受容困難であり,逆に,日本以外の国々では cisgender の同性愛者の方がより社会に受け容れられやすい,という指摘がありました.興味深い事実です.

日本ではカルーセル麻紀氏を始めとする transgender 芸能人たちの活躍があり,他方,たとえば USA では Tim Cook を始めとする多くの gay 有名人が come out しています.もしそのような事実が社会の LGBT 包容性に影響を与えているとすれば,やはり,既に或る程度の社会的地位を持っている LGBT の人々が勇気をもって率先して come out することが,より若い世代の LGBT の人々にとって大きな助けになる,ということができるでしょう.

そのようなことが可能になるよう願いつつ,LGBT カトリック・ジャパンも,日本のカトリック教会と日本の社会が LGBT の人々に対してより包容的になってゆくよう,活動して行きたいと思います.

(小笠原晋也 記)

2015年9月9日水曜日

小宇佐敬二神父様と東京カリタスの家

「カリタス」は,ラテン語で caritas と表記します.その意味は「愛」です.

amor がギリシャ語の ἔρως に対応して「人間どうしの性愛」であるのに対して,caritas はギリシャ語の ἀγάπη に対応して「神と人間との愛」ならびに「隣人愛」を指します.

英訳や仏訳の聖書においては ἀγάπη も love や amour と翻訳されますが,特に ἔρως としての愛との違いを強調するときには charity, charité といいう語が用いられます.それらは,ラテン語の caritas からの派生語です. 

東京カリタスの家は,ひとつの公益財団法人として,形式的にはカトリック教会とは別の組織ですが,その理事長は岡田武夫大司教であり,事務所も東京カテドラルの敷地内にあります.小宇佐敬二神父様は,東京カリタスの家の常勤常務理事として,実質的な責任者です.

東京カリタスの家のホームページにはこう述べられています:

「カリタスは愛を意味します.神の愛のまえでは,すべての人が同等の尊厳を持っています」.ですから,「ひとりひとりを大切にしたい:それがわたしたちの思いです」.

「健康で幸せな生活には身体的,精神的,社会的,霊的な健全さが満たされることが必要です」.ですから,東京カリタスの家は,「生きづらさや苦しみを負っている人々を兄弟姉妹として迎え,その困難や苦しみを共に担い,寄り添うことを目指し」ており,そして「その人が本来持っている生きるための力が回復され,自分らしく生きることが出来るよう,ともに歩む」ことを目的としています.

「生きづらさや苦しみ」の理由のなかには,勿論,LGBT の問題も含まれます.どうぞ遠慮無く相談してみてください.

東京カリタスの家相談室:
電話 : 03-3943-1726
受付時間 : 月曜から土曜まで(祝日を除く) 10:00 - 16:00.

小宇佐神父様と直接話してみたい方も,まずは上記へ電話してください.


「東京教区ニュース」第 317号(2014年)に紹介された小宇佐神父様のプロフィールを以下に転記します:





使徒ヨハネ 小宇佐 敬二 (こうさ・けいじ) 神父様

1948年3月 20日生まれ.
1981年2月 11日司祭叙階.

洗礼まで:

“宮崎県北郷村(現在の美郷町)で育ちました.田舎で,キリスト教のキの字も見当たらない所です.町の中学に行くことになって日向学院というサレジオ会の学校に入り,キリスト教と出会いました.

“その前に小学2年生の頃,母の友人が表紙に十字架とドクロがついた本を母に持ってきて,その不気味さに強い印象を受けました.中学に行ったら,その十字架があり興味を持ちました.また宮崎の中でも山の僻地から出てきて文化的な先進性に触れたのも理由のひとつだと思います.キリスト教に惹かれてゆき,DSC (Domenico Savio Club) という日曜日にキリスト教的な活動をするクラブに入り,それとは別に洗礼のための勉強を行い,中学2年生の復活祭に洗礼を受けました.洗礼名は自分で決めました.「イエスに一番愛された弟子」だから. ”

その後も教会活動を?:

“それが,高校生になると,中学の時に習った公教要理に理論として疑問を持つようになりました.卒業し,京都で一年浪人生活を送りましたが,何学部を受けていいのかわかりませんでした.何になりたいのかわからなかったのです.


“小さい頃は実家が医院なので医者になるのが夢でした.でも私には色覚の障がいがあって,当時医者になることはできませんでした.

“その頃,東大紛争も起こり,「学校なんてどうでもいいや」という気持ちになって,東京の山谷に行き,暮らしました.毎日地下鉄工事をしました.

“三ヶ月後,ある日ひとつのイメージのようなものを見ました.酒場のカウンターでみんなが飲んでいる中,イエスが後ろに立っている.何かを言いたそうだが言葉がない.それ以来,「彼らに語る言葉を探す」というのが私のテーマになりました.そして慌てて大学受験をして哲学科に行き,本郷教会にも通うようになりました. ”

大学生活から神学校へ:

“大学ではカトリック研究会(以下「カト研」)に入っていました.まだ大学紛争は続いており,マルクス主義的な言葉で話されていることをキリスト教的な表現で表現していくことができる.それがカト研の使命ではないかと思っていました.

“3年生のころ,カト研に江部ちゃん(江部純一神父)が入ってきて,一年後には洗礼の代父になりました.

“本郷教会では青年会として関口教会との交流も活発に行いました.私は神父になりたいという望みをもっていたので,主任司祭の平田忠雄神父に伝えたところ,「あなたは家がカトリックではないからカトリックのご家庭にも行きなさい」と言われ,遊びに行ったりもしていました.

“神学校に入り,哲学は大学で学んでいたので「特神」という四年で卒業するコースになりましたが,途中で六年間の共同生活が義務づけられたので,神学部 4年生を三年間続けるような形で六年間を過ごしました.最後の一年は町田教会に住みながら週一日だけ神学校に通いました.

“助祭叙階は町田教会でした.直前に新垣壬敏さんの聖歌指導に付き合い,青年たちと雪の聖母修道院(ドミニコ会,福島県磐梯町)に行き,休憩時間にスキーをして膝の靭帯を断絶し,車椅子で叙階を受けました.その姿を見て「障碍者でもがんばって司祭になろうとしている」と涙を流した人もいました.勘違いをさせてしまいました(笑). ”

司祭叙階の恵み:

“司祭叙階後,本郷教会で初ミサをしたときに,ある人に頼まれ,病床訪問に伺いました.80代のおばあちゃんで,ものすごく喜んで延々と話し始めました.戦争の最中から始まる人生の様々な痛みや苦しみのことを.それを聞いているうちに,病院の入り口にイエス様がきたイメージを感じました.そして一歩ずつ病室に近づいてきて,ドアを開け,おばあちゃんの傍らに立ち,手を握りました.本当に赦されて受け入れられているという感じを受けました.一週間後にご聖体を持ってもう一度行ったら,あの三日後に亡くなったと聞きました.ご自分の生涯を清算し,赦しを受けて安心してやっと死ぬことができたのでしょう.そこに立ち会えたことは司祭叙階の一番大きな恵みに思いました.

“神学生の頃から多摩ブロックとの関わりがあり,叙階後,立川教会に助任として赴任しました.そこでも病床訪問で「ああ司祭はミサを運ぶことも出来るんだ」という体験をしました. ”

好きな聖書の箇所は ? :

“たくさんあるよ ! 例えば「姦通の女」(Jn 8,1-11) と言われているところ.あれは「姦通の嫌疑(冤罪)で捕らえられた女」だと思うのです.彼女が罪を犯していないことをイエスは証明した.すると,偽証の罪は同罪だから,実は救われたのはファリサイ派や律法学者の長老たちなのです.冤罪証明が公の場所でなされたのに死罪を免れました.こう読んでいるのは,私しかいないと思うな. ”

伝えたいことをどうぞ ! :

“おもしろく聖書を読もう ! 聖書は面白い !”


今月 6日に,LGBT カトリック・ジャパンの共同代表,小笠原晋也(向かって左)と宮野亨(右)が小宇佐神父様(中央)とお会いしたときに撮った写真です:



2015年9月4日金曜日

百人隊長の少年愛

Frederic Leighton (1830-1896), Jonathan's Token to David (ca 1868), in the Minneapolis Institute of Art


我々の友人 Stephen Lovatt 氏は,彼の著作 Faithful to the Truth : How to be an orthodox gay Catholic において,福音書のなかの少年愛について 興味深い 指摘を している.

彼が注目したのは,マタイ福音書 8,05-13 に物語られている Jesus の奇跡である.その一節は,手元にあるフランチェスコ会訳においても 共同訳においても ほぼ同様に訳されているので,フランチェスコ会訳から引用すると:

(...) 百人隊長が近づいてきて,イェスに懇願した.「主よ,わたしの僕が中風でひどく苦しみ,家で寝込んでいます」.イェスが「わたしが行って,癒してあげよう」と仰せになると,百人隊長は答えて言った.「主よ,わたしはあなたをわたしの屋根の下にお迎えできるような者ではありません.ただお言葉をください.そうすれば,わたしの僕は癒されます (...)」.(...) イェスは百人隊長に仰せになった.「帰りなさい.あなたが信じたとおりになるように」.すると,ちょうどそのとき僕は癒された.

邦訳を読むだけでは,この一節が有する意義は 把握し得ない.ギリシャ語原文を提示すると:

(...) προσῆλθεν αὐτῷ ἑκατόνταρχος παρακαλῶν αὐτὸν καὶ λέγων· Κύριε, ὁ παῖς μου βέβληται ἐν τῇ οἰκίᾳ παραλυτικός, δεινῶς βασανιζόμενος. καὶ λέγει αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς· Ἐγὼ ἐλθὼν θεραπεύσω αὐτόν. καὶ ἀποκριθεὶς ὁ ἑκατόνταρχος ἔφη· Κύριε, οὐκ εἰμὶ ἱκανὸς ἵνα μου ὑπὸ τὴν στέγην εἰσέλθῃς· ἀλλὰ μόνον εἰπὲ λόγῳ, καὶ ἰαθήσεται ὁ παῖς μου. (...) καὶ εἶπεν ὁ Ἰησοῦς τῷ ἑκατοντάρχῷ· Ὕπαγε, καὶ ὡς ἐπίστευσας γενηθήτω σοι. καὶ ἰάθη ὁ παῖς αὐτοῦ ἐν τῇ ὥρᾳ ἐκείνῃ.

百人隊長は ローマ帝国の軍隊の士官である.当時,ユダヤの地は ローマ帝国の属州であり,その統治は ヘロデ王朝に任されていたが,政情を監視するために ローマ軍の部隊も 常時 駐在していた.Jesus のもとを訪れた百人隊長は,聖書の文脈から判断するに,明らかに ユダヤ教徒ではない.

マタイ福音書 8,05-13 は,いわゆる Q 文書に基づく一節であろうと思われる.共観福音書内のその平行箇所は,ルカ福音書 7,01-10 に見出されるが,マルコ福音書には 無い.しかるに,ヨハネ福音書 4,46-54 に この物語は 若干の変奏のもとに 語られている.

さて,Jesus が奇跡的に癒やす百人隊長の「僕」は,原文では παῖς である.この語は確かに「召使い」という意味をも有しているが,本来は「子ども」である.例えば「小児科」は フランス語で pédiatrie であるが,この語は παῖςἰατρεία [癒し,治療]に 由来する.ちなみに,ἰατρεία と関連する動詞 ἰάθη [(彼は)癒された]と ἰαθήσεται [(彼は)癒されるだろう]が,マタイ福音書 8,08 et 13 において 用いられている.

マタイ福音書において παῖς が「子ども」の意味において用いられていることは,ヨハネ福音書の平行箇所において Jesus が奇跡的に癒やすのは ある βασιλικός [ヘロデ アンティパス 王に仕える 官吏]の息子 [ υἱός ] であると言われていることからも 推測される.

ついでながら,もし παῖς が「子ども」であるとすると,παραλυτικός を「中風」と訳すのは 誤訳であろう.なぜなら,「中風」は 脳血管障害による麻痺である.それは,一般的に言って 高齢者によく見られる病理であり,もし 子どもに出現するとすれば 先天性脳動静脈奇形などの 比較的 限られた条件においてのみ である.むしろ,マタイ福音書 8,06 で用いられている動詞 βέβληται に注目するなら,それは βάλλειν [投げる]の受動態完了形である.つまり,患者は 投げ出されるように 急に倒れて,麻痺に陥っているのである.それは,むしろ 癲癇発作を示唆している.実際,明らかに癲癇発作の現象が記述されているマルコ福音書 9,17-27 の一節において,καὶ πολλάκις αὐτὸν καὶ εἰς πῦρ ἔβαλε καὶ εἰς ὕδατα, ἵνα ἀπολέσῃ αὐτόν [そして,発作を起こす霊気は,わたしの息子を殺すために,彼を 火のなかへも 水のなかへも しばしば投げ込んだ](Mc 9,22) と言われている.「投げ込んだ」と訳した動詞 ἔβαλε は,βάλλειν のアオリスト形である.

さて,百人隊長と 彼の παῖς とは 如何なる関係にあるのだろうか ? ルカ福音書の平行箇所においては,τινος δοῦλος ὃς ἦν αὐτῷ ἔντιμος [百人隊長にとって価値のある奴隷]と言われている.そこで用いられている形容詞 ἔντιμος の語源である名詞 τιμή は「栄誉,尊敬,尊厳,価値」であり,関連する動詞 τιμᾶν は「崇める,敬う,価値あるものと見なす」である.ということは,百人隊長にとって この παῖς は かけがえのない愛情の対象である,ということが 推定される.実際,もしそうでなかったなら,異教徒である百人隊長は わざわざ Jesus にその子を癒してくれるよう 懇願しに来なかったであろう.当時,単なる召使いや奴隷であったなら,死んでも その代用は いくらでも 入手可能である.

かくして,百人隊長と 彼の παῖς との関係は παιδεραστεία [少年愛]のそれである,と推定することができる.

παιδεραστεία という語は,παῖςἔρως[エロス,愛]に由来する.少年愛が社会風習であったのは,古代ギリシャにおいてである.たとえば,プラトンの対話篇のひとつ,『饗宴』において論ぜられている愛は,παιδεραστεία の愛である.

くちづけをかわす少年愛者と少年(壺絵,紀元前 480年ころ)

Jesus の時代のローマ帝国において,そのような少年愛の風習は 残っていたのであろうか?然り.皇帝ハドリアヌス (76 - 138) は,130年に およそ 18歳で死んだ 愛児 アンティノウスを悼み,彼を神格化して 崇めた.

Dionysus-Osiris として描かれた Antinous (西暦 2 世紀,Musei Vaticani 所蔵)

また,西暦 1 世紀に作られたと推定されている ある酒杯(元の所有者の名にちなんで Warren Cup と呼ばれている)には,少年愛をテーマとする浮き彫りが 施されている.



こうして 我々は,マタイ福音書 8, 5-13 と その平行箇所の意義を,こう把握することができる : Jesus は,たとえ百人隊長が異教徒であり,かつ gay であっても,彼の Jesus に対する信仰のゆえに 彼を義としたのである.

主よ,わたしは,あなたに わが屋根の下へ入っていただくに ふさわしい者ではありません.しかして,ただ 言葉で言ってください.されば,わが児は 癒されるでしょう. 
主よ,わたしは,あなたを わたしの屋根の下にお迎えできるような者では ありません.ただ お言葉をください.そうすれば,わたしの僕は 癒されます.(フランチェスコ会訳)

マタイ福音書 8,08 における 百人隊長の Jesus に対する この懇願にならって,ローマ典礼においては,聖体拝領の直前に,「主の食卓に招かれた者は 幸い.見よ,世の罪を取り除く 神の子羊」という司祭の言葉に続いて,会衆はこう唱える : Domine, non sum dignus ut intres sub tectum meum, sed tantum dic verbo, et sanabitur anima mea [主よ,わたしは,あなたが わが屋根の下へ(つまり,御聖体として わたしのからだのなかに,わたしのうちに)入ってくださるに ふさわしい者ではありません.しかして,ただ 言葉で 言ってください.されば,わが魂は 癒されるでしょう](日本の典礼では例外的に,ヨハネ福音書 6,35 et 68 にもとづいて「主よ,あなたは 神の子 キリスト,永遠の命の糧,あなたをおいて 誰のところへ行きましょう」と唱えているが).

つまり,カトリック信徒は,全世界で,ミサのたびに,gay である百人隊長の懇願の言葉にならって,主に魂の癒やしを願っている,というわけだ.

にもかかわらず LGBTQ+ を断罪しようとする者たちが カトリック教会のなかにいるとは ! 

主が彼れらの目を主の御ことばの真理へ開いてくださいますように !

2015年8月30日日曜日

映画「カミングアウト」自主上映会を改めて御案内します.

映画「カミングアウト」自主上映会を再度御案内します.同性愛の男子学生がカミングアウトするまでに経験する困難と葛藤をテーマにした作品です.

入場無料.ただし,小笠原晋也まで事前に御連絡ください :
ogswrs@gmail.com

日時は,9月13日(日曜日)13時上映会開始.

場所は,カトリック本郷教会信徒会館 3 階集会室.

本郷教会の聖堂(文京区本駒込 5-3-3)ではなく,聖堂の裏の路地をはさんだところにある信徒会館(文京区本駒込 5-4-3)です.

わかりにくければ,小笠原晋也までお電話ください : 
090-1650-2207

2015年8月25日火曜日

聖書のなかの「宦官」について

宦官は,古代,中国だけでなく,中近東諸国の宮廷でも登用されていました.旧約聖書の三大預言書のひとつ,イザヤ書の一節 (56,3-5) に,宦官への言及が見出されます.

預言者イザヤは,神の言葉をこう伝えています:「宦官でも,神の律法を守り,神の喜ぶことをするならば,神の家のなかに居場所が確保される」(56,3-5).

実は,同じ旧約聖書の申命記には,去勢された者は神の民の集まりには入れないと記されています.ですから,イザヤ書に述べられていることは精神的進歩です.

「宦官」はギリシャ語で εὐνοῦχος です.その語は,宮中に仕える狭義の宦官だけでなく,去勢された者全般を指します.

εὐνοῦχος の派生語 εὐνουχισμός は「去勢」です.

マタイ福音書の一節 (19,12) で,イェスは唐突に「宦官」について語ります:「実際,宦官として母胎から生まれた者があり,人々により宦官にされた者がある.また,天の御国のゆえにみづから宦官になった者がいる」.

続けてイェスは「理解できる者は理解せよ」と言っていますから,この宦官についての彼の発言をどう解釈すべきか,じっくり考えてみなければなりません.

邦訳聖書(共同訳,フランチェスコ会訳)では「宦官」が「結婚できない者」と訳されているので,さらに理解困難です.フランチェスコ会訳では一応,「結婚できない者」はギリシャ語原文では「宦官」と訳される語である,と注釈が付けられてはいますが.

しかし,「宦官」を「去勢された者」と読みかえればどうでしょうか?「生まれつき去勢されている者があり,人々により去勢された者がある.また,天の御国のゆえにみづから自身を去勢した者がいる.」

実際,天の御国のために自己去勢した者がいます.たとえば,教父のひとりである Origenes (185-253). 彼は偉大な神学者ですが,しかし,神からいただいた身体をみづから損傷したがゆえに,聖人には列せられていません.

去勢は,しかし,身体的なものに限定されません.「去勢」と関連する聖書の語は「割礼」です.ユダヤ教徒は,旧約聖書の律法にもとづき,男児に割礼を施します.しかし,既に旧約聖書において,重要なのは肉に施される割礼ではなく,「心の割礼」である,と述べられています.

聖パウロはローマ書簡 2,25-29 で「割礼を受けていても,律法に違反するなら未割礼者と同じだ」と論じつつ,最後にこう言います:決定的なのは「霊気 πνεῦμα において心に施される割礼であり,律法の字面において肉に施される割礼ではない.」

かくして我々は,castration spirituelle[霊気における去勢]という表現を作り出しても良いかもしれません.それはまさに精神分析においてかかわる去勢です.

なたは,自有 [ Ereignis ] のために霊気的去勢を敢行する勇気を持ち得ますか?

ともあれ,先ほど引用したマタイ福音書の一節 (19,12) のイェスの言葉:「天の御国のゆえにみづから自身を去勢した者がいる」を,我々はむしろこう読むべきかもしれません:「天の御国に入るためには,我々は自身を去勢せねばならない」.

男性性器の包皮を切り取る割礼だけでは不十分です.しかも割礼は,律法に規定されたことを慣習的に実行するだけのことであれば,「肉の割礼」にすぎません.

それに対して我々は,包皮を切り取るだけで済ますのではなく,通常の意味での男性性を象徴する phallus そのものを切り取らねばなりません.

勿論,かかわっているのは,物理的な去勢ではなく,霊気的な去勢です.聖なる霊気,Sanctus Spiritus, 聖霊の作用によって,霊気的な去勢を授かることがかかわっています.

なぜ我々は霊気的な去勢を授からねばならないのか?なぜかというと,それは,霊気的な去勢こそ,乙女マリアのように神の意志に従順であることを我々に可能にするからです.

LGBT に対する差別意識と,女性に対する差別意識は,ともに同じものに根ざしています.それは,俗に男尊女卑と呼ばれている心性です.つまり,男性性を象徴する phallus を金の仔牛のように偶像崇拝することです.

そのような phallus 偶像崇拝こそ,霊気的な去勢によって除去されるべきものです.そして,それは,天の御国に入るための必要条件です.

ルカ小笠原晋也

2015年8月21日金曜日

一部のカトリック信徒たちに共有されている根深い LGBT 差別意識について

「カトリック」と名のる FB グループがあります.確認しようがありませんが,そう名のるからには,参加者は大部分,カトリック信徒か,または,信仰としてのカトリックに関心を有する人々であるはずです.わたし(小笠原晋也)も一時期そこに参加していました.

参加してすぐさま驚かされたことに,参加者のなかに LGBT に関して無理解と偏見に基づき非常に差別的ないし侮辱的な発言をする人々が少なくありませんでした.

そのような発言に対して,LGBT に関する正しい知識を説明したり,偏見を解こうとしたり,始めのうちはいろいろ努力していましたが,同様の発言は相異なる人々により次から次に繰り返されて行きました.

ついに,そのような FB グループの場でいくら努力しても無駄だと思うに至り,わたしはそこから退会しました.

そして,その代わりに,本当にカトリック教会が LGBT の人々を「敬意と共感と気遣いを以て受け容れる」(『カトリック教会のカテキズム』 2358項)ことができるよう,この LGBT カトリック・ジャパンを立ち上げることになりました.

わたしが退会した後もがまん強く FB グループ「カトリック」に残り,LGBT を擁護する努力を続ける人もいました.そのような人のひとりが,昨日,8月20日,この写真をグループに投稿しました.



「同性婚が嫌いなら,ノンケの連中を責めるんだな.同性愛の赤ん坊を生み続けているのはやつらなんだから.」

この看板がどこに出されていたのかは不明ですが,写真は The Guardian 紙からわたしが引用したものです.同性婚のカップルは自分たちだけで子どもをつくることはできませんから,同性愛的に規定された性本能を持つ赤ちゃんの大部分は,異性婚のカップルから生まれます.この看板で言われていることは事実です.その事実の指摘のしかたは,確かに皮肉たっぷりですが.

すると,投稿に対してこのような脅しのコメントが付されました:「生まれつき同性愛者である人はいません.あなたがカトリック信徒で,永遠の命が欲しいなら,LGBT を擁護するのを止めなさい.さもないと,地獄へ直行することになりますよ.」

そして,投稿から数時間後に,投稿者は FB グループ「カトリック」から何の説明も無く除名されました.

驚くべき事態です!カトリック信徒とあろう者が人を呪うとは!

聖パウロは,「あなたたちを迫害する者らを祝福しなさい;祝福するのであって,呪ってはなりません」(Rm 12,14) とすら言っているのに,我々の兄弟姉妹である LGBT の人々に対する不当な差別と侮辱をやめさせようとしている者を呪うのは,まったく非カトリック的です.実際,歴史上,誰それは地獄に落ちたと宣言した教皇はひとりもいません.

また,LGBT の大多数において,性本能の規定性は先天的です.実際,思春期の始まりよりはるか以前に,或る人の性本能がどう規定されているかは,その人の思考や感性において明らかになってきます.

LGBT を差別する人々は,そのような LGBT に関する基本的な事実をすら知ろうともせず,間違った思い込みに執着しています.

「カテキズム」 2358項でもこう述べられています:「同性愛者たちは,自分が同性愛者であるという事情をみづから選んだわけではない」.性本能を有するものとして人間を創造なさったのは,神です.性本能は,神の被造物としての人間の神秘に属することです.

LGBT を差別する人々は,イェスを十字架で処刑した者たちと同じく,「自分たちが何をしているのかを知らない」(Lc 23,34) のです.自分たちと同様に神の似姿として創造された兄弟姉妹たちを祝福することができないということは,神による創造を否定することであり,人類に対する神の恵みを拒否することにほかなりません.

ともあれ,呪いを発した人物がみづから地獄に落ちることのないよう,祈りましょう.

2015年8月18日火曜日

映画「カミングアウト」自主上映会のお知らせ

LGBT カトリック・ジャパンは,映画「カミングアウト」の自主上映会を開催します.

日時は,2015年9月13日(日曜日),13:00 から.

場所は,カトリック本郷教会(〒113-0021 東京都 文京区 本駒込 5-4-3)です.

入場無料ですが,いらっしゃりたい方は事前にメールないし電話で御連絡ください.

連絡先:
小笠原 晋也
e-mail : ogswrs@gmail.com
tel : 090-1650-2207

虹の慈しみのイェス様

イェス様は1931年2月22日,聖ファウスティーナ (1905-1938) に現れ,神の慈しみのイコンを作成するよう指示なさいました.

聖ファウスティーナは日記にこう記しています:

「ある晩,わたしは自分の小部屋のなかで,イェス様を見ました.イェス様は,白いチュニカを着て,一方の手を挙げて祝福し,他方の手は御自分の服の胸のところに触れていました.チュニカの前開きから二本の光線が出ていました.一方は赤色,他方は青白い色でした.(...) イェス様はおっしゃいました:『あなたの見たとおりの絵を描きなさい.そして,そこにこう書き込みなさい:イェス様,わたしはあなたにおすがりします.』」

イェス様を信頼し,イェス様にすがりたいと思う LGBT の人々のために,もとの絵の二本の光線(それは,十字架上でイェス様の胸が槍で刺し貫かれたときに傷口から流れ出た血と水を象徴しています)を LGBT の象徴である六色に修正してみました.虹の慈しみのイェス様です:


イェス様,わたしはあなたにおすがりします.


皆さん,LGBT の人もそうでない人も,どうぞ,このイコンを広めてください.

LGBT カトリック・ジャパン(仮称)の設立

LGBT の人々がカトリック教会に抵抗感無く来ることができるようになることを目ざして,ふたりのカトリック信徒,ルカ小笠原晋也(本郷教会所属)とペトロ宮野亨(麹町教会所属)が LGBT カトリック・ジャパン(仮称)を設立します.

周知のように,LGBT は,Lesbian, Gay, Bisexual and Transgender の頭文字です.すなわち,女性同性愛者,男性同性愛者,両性愛者(自分と同じ性別の者と異なる性別の者とのいずれをも性愛対象として選択し得る者),違性別者(解剖学的または生理学的な規定性における性別ではない sexuality を自身の本来的な sexuality として生きている者)です.

Transgender のなかで,医学的手段によって自身の身体的性別を変更する必要性を強く感ずる人々を,特に transsexual と呼ぶことがあります.

また,狭義の transgender 以外に,性別が解剖学的または生理学的に男女のいづれとも明確に分類され得ない intersex, 男女のいづれとも明確に規定され得ない sexuality を実存的に生きている queer ないし sexual fluidity [性的流動性], さらには,そもそも sexuality の規定性を欠く実存を生きている asexual などの人々もいます.広義における transgender は intersex, queer, asexual などをも含む,と定義されることもできます.

狭義の LGBT 以外のもろもろの sexual minority の人々をも含むという意味で,LGBT+ という表記が sexual minority の多様性を表現するために用いられることもあります.わたしたちは,用語の簡潔性のために,LGBT+ (すなわち,sexual minority 全般)という意味で LGBT という表現を用いたいと思います.

LGBT の定義に関して付言すると,いわゆる pedophilia[小児性愛]の範疇に属する同性愛者は,ここでは LGBT から除外します.なぜなら,pedophilia はまだ思春期に達していない年齢の男児ないし女児を性愛対象とする性倒錯の一種であり,そのような性行為は必然的に反人道的な強姦とならざるを得ないからです.

さて,「カトリック教会のカテキズム」(以下,「カテキズム」と表記)は homosexuality については論じていますが,それ以外の sexual minority には言及していません.特に,自身の身体の性別を変更する必要性を感ずる transsexual の人々の問題はなおざりにされています.

ともあれ,「カテキズム」 2357項は,homosexuality を「重大な堕落」と呼び,「どのような場合も homosexual な行為は容認されない」と断罪しています.

しかし,「カテキズム」が根拠として挙げている聖書の箇所 (Rm 1,24-27 ; 1Co 6,9-10 ; 1 Tm 1,10) をよく読んでみると,聖パウロの議論はこうであることがわかります.まず前提は,ὁ δὲ δίκαιος ἐκ πίστεως ζήσεται [信仰によって義なる者は,永遠の命において生きることになる].それに対して,神を信ぜずに [ ἀσέβεια ] 偶像を崇拝することにおいて義ならざる者たち [ ἀδικία ] は神の怒りを受け,神は彼らを不浄 [ ἀκαθαρσία ] へ引き渡します.それによって彼らは,性倒錯を含むさまざまな悪へ陥ることになります.

したがって,聖パウロが断罪しているのは,我々が現在「同性愛」と呼ぶふたりの同性どうしの人間の相互的な愛情関係ではありません.聖パウロが断罪しているのは,あくまで,ἀσέβεια ἀδικία の帰結であるような或る種の性倒錯的行為です.

そして,homosexuality そのもは,医学的にも心理学的にも,もはや性倒錯とは見なされていません.

いかにも,性倒錯は精神疾患に属し,また,性倒錯行為の多くは刑罰の対象となります.しかし,現在の医学の標準的な疾病分類においては同性愛そのものはもはや疾患とは見なされておらず,また,世界196ヶ国のうちおもにイスラム教国から成る約80ヶ国を除けば同性愛行為は刑罰の対象でもありません.

我々が現在「同性愛者」と呼ぶ人々は,聖パウロが ἀσέβεια ἀδικία として断罪するものとは無関係です.

であればこそ,以下に詳しく紹介するように,教皇 Francesco はこうおっしゃいました:「或る homosexual の人が神を求めているなら,わたしはその人を断罪する者ではない」.

ところで,同性愛は如何に生ずるのか?当然ながら,「同性愛者たちは,自分が同性愛者であるという事情をみづから選んだわけではない」(「カテキズム」 2358項.ちなみに,手元の1997年フランス語版にある « Ils ne choisissent pas leur condition homosexuelle » という一文は,1992年フランス語版には無く,現在 Vatican Internet site で公開されているラテン語版,フランス語版,英語版,イタリア語版のテクストにもありません.また,手元の2008年第3刷日本語版にもありません.1997年版で新たに付け加えられた文であるのに,書籍として出版されたフランス語版以外のものへは挿入され落とされてしまっているのではないかと思われます).同性愛を非難する「カテキズム」 2357項でさえ,「その心因は大部分,未解明なままである」と認めています.

しかるに,「カテキズム」 2361項は,こう述べています:「性本能 [ sexualitas ] (...) 単純に生物学的なものではなく,而して,人間存在の最も内奥なる中核 [ nucleus intimus ] において人間存在に関わっている」.つまり,或る人が存在論的に「男性である」か「女性である」か,また,性愛において男性に惹かれるか女性に惹かれるかは,単純に性染色体によって規定されることではなく,而して,人間存在の最も内奥なる中核としての性本能がかかわってくる事態です.ところで,性本能を有するものとして人間を創造なさったのは,神です.したがって,性本能は,神の被造物としての人間の神秘に属することです.

LGBT の人々が,性愛において自分の生物学的性別と同じ性別の人に惹かれたり,自分の生物学的性別とは相違する性別を自身の本来的な性別として生きるとき,それは,神がそのように創造なさったのだ,ということにほかなりません.

「カテキズム」 2358項もこう述べています:「同性愛者の人々は,彼ら・彼女らの人生において神の意志を実現するよう呼びかけられているのであり,また,もし彼ら・彼女らがキリスト教徒であるなら,同性愛者という事情のせいで遭遇し得る諸困難を主の十字架の犠牲と結びつけるよう呼びかけられている」.

しかし,人生において神の意志を実現するよう呼びかけられており,また,人生の諸困難を主の十字架の犠牲と結びつけるよう呼びかけられているのは,LGBT の人々だけでなく,すべての人間です.

さて,20138月,イエズス会の雑誌 La Civilità Cattolica よるインタヴューのなかで教皇 Francesco はこうおっしゃいました : « se una persona omosessuale è di buona volontà ed è in cerca di Dio, io non sono nessuno per giudicarla. (...) Una volta una persona, in maniera provocatoria, mi chiese se approvavo l’omosessualità. Io allora le risposi con un’altra domanda : “Dimmi : Dio, quando guarda a una persona omosessuale, ne approva l’esistenza con affetto o la respinge condannandola ?”. Bisogna sempre considerare la persona. Qui entriamo nel mistero dell’uomo. Nella vita Dio accompagna le persone, e noi dobbiamo accompagnarle a partire dalla loro condizione. Bisogna accompagnare con misericordia »[もしここに同性愛の人がいて,彼・彼女が誠意ある人であり,神を探し求めているなら,わたしはその人を断罪する者では全然ない.(...) 或る日,わたしに挑発的にこう質問してきた人がいた:「あなたは同性愛を容認するのですか?」 それに対する答えとして,わたしは彼にこう問い返した:「ねえ,君,神は,ひとりの同性愛の人を見て,その存在を愛情深く是認なさるだろうか,それとも,その人を断罪しつつ退けるだろうか?」 常に人間をその存在において考えねばならない.ここでかかわっているのは,人間の神秘である.我々の人生において,神は我々人間に寄り添ってくださっている.そのように我々も,人々に寄り添わねばならない 彼ら・彼女らの事情にもとづいて.慈しみ深く寄り添わねばならない].

「カテキズム」 2358項もこう述べています:「同性愛者たちは,敬意と共感と気遣いを以て受け容れられねばならない.彼らに対して不当な差別のしるしをつけるようなことは避けるべきである」.

しかしながら,今の日本のカトリック教会のなかには,LGBT に関する無理解と不当な差別がなおも存続しています.司祭や修道士,修道女のなかにも,一般信徒のなかにも,単純に「同性愛は悪だ」と決めつけたり,世界的に容認されている性別適合手術の必要性を否認したり,「同性愛を治療する」ことを押しつけようとして,LGBT に対して教会の門戸を閉ざしてしまう人々がいます.

神が人間を性本能を有するものとして創造なさった以上,ある人が性的多数派の異性愛者になるか,それとも,性的少数派の LGBT になるかは,その人がみづから選択し得ることではなく,神がお決めになることです.そのような性本能の規定性は,如何なる努力によっても如何なる「治療」によっても,後から人為的に変えることはできません.

LGBT の人々のなかには,自分の性的な問題に悩み,神に救いを求めたいと思っている人が少なくありません.にもかかわらず,カトリック教会内の無理解と拒絶的な雰囲気のせいで,せっかく神に関心を持ち,あるいは既に信仰を持っていても,教会に近づくことができないままでいる そのような LGBT の人々が少なくありません.

日本でも,プロテスタントにおいては,自分が LGBT であることを公表している牧師が幾人かいます.彼らが主催する礼拝には,LGBT カトリック信徒も参加しています.そのような人々にとっては,肩身の狭い思いをせねばならない一般の小教区の御ミサより,自分が素のままでいられる同性愛牧師の礼拝の方が来やすい,しかし,それではカトリックの聖体拝領に与ることができない それが彼ら・彼女らの悩みです.

以上のような現状に鑑み,我々は「LGBT カトリック・ジャパン」の名称のもとに,LGBT の人々が気がねなくカトリック教会に来ることができるようになるよう,活動したいと思います.そのためには,ふたつの課題があります:

ひとつは,LGBT でない聖職者と信徒に対する啓蒙です.LGBT に対する拒絶は,LGBT の問題に関する無理解に基づいていることが少なくありません.ですから,問題の正しい理解を促すことが必要です.また,上に論じたように,一見すると同性愛を断罪しているように読める聖書の言葉を如何に理解すべきか,そして,フランチェスコ教皇も「カテキズム」も,LGBT の人々をカトリック教会に受け容れるよう命じているということ,そのようなことについても広く知らせて行かねばなりません.もし各地の教会から LGBT の問題に関する講演や勉強会などの要請があれば,お引き受けしたいと思います.

もうひとつは,LGBT の人々に対する宣教活動です.カトリック教会は LGBT の人々を拒絶してはいない,カトリック教会において LGBT の人々も神の愛と出会うことができる,ということをもっと知ってもらわねばなりません.また,彼ら・彼女らが性的な問題に関する悩みを相談することができるカトリック教会の窓口,「東京カリタスの家」がある,ということも広報して行きたいと思います.

神の愛は,誰をも排除せず,而して,あらゆる人を包容します.すべての人々が神の愛に気がつき,神の愛に包まれて生きてゆくことができますように! Amen !