2017年1月28日土曜日

律法を振りかざして LGBT を断罪するファリサイ人のようなキリスト教徒を撃退するには

「混紡の布で作られた衣服を着てはならない」と聖書(レビ記 19,19)に定められてあるのを御存じでしたか?聖書の律法を振りかざして LGBT を断罪するファリサイ人のようなキリスト教徒を撃退するのに有効です:「あなたが持っている服のなかに,混紡の布で作られているものがあるでしょう.あなたは律法に違反しています!」

2015年11月に報道されたニュースです : Metro, BBC.

子どもたちに演劇やミュージカルを教える Michael Neri は,彼が gay であることを理由に子どもを彼のレッスンに参加させることを中止した保守的キリスト教徒の母親にこう答えました:
わたしは生徒たちに,隣人愛と平等の精神に誇りを持つよう教えています.
医師の診療技能が彼の sexuality によって影響されないのと同様に,わたしの sexuality は教師としてのわたしの能力に何の影響もありません. 
わたしの経験では,gay 無しの演劇はスパイス無しの料理のようなものです. 
お子さんたちのためにほかの演劇教師が見つかると良いですが,しかし,皆,混紡の布で作られた服を着ていますそれが聖書で禁止されていることは御存じでしょう(レビ記 19,19). 
授業料の払戻をお求めですが,返金はできません.そのお金は,LGBT チャリティーの StoneWall へ寄付させていただきます.



律法を振りかざして LGBT を断罪するファリサイ人のようなキリスト教徒に対して,わたしは,聖パウロのローマ書簡の一節 (7,4-6) を好んで引用します:

あなたたちは,律法に対して死刑に処せられた ‒ [十字架上で死刑に処せられた]キリストのからだによって.律法とは異なるものに  すなわち,死者たちのうちから復活した方[キリスト]に ‒ 属するために.我々が神のために実をつけるように.そも,我々が肉体において生きていたときには,律法によって引き起こされる罪の熱情が我々の四肢に活動していた ‒ 死のために実をつけるように.しかし,今や,我々は律法から解放された ‒ そのなかで我々が囚人になっていたところの律法に対して死んだ我々は.かくして,我々は,霊気という新しい主人に仕えており,律法の文字という古い主人にはもう仕えていない.

そのようにしていただけたのは,神の愛のおかげです.神に感謝!

しかし,律法の文字になおも仕えている者たちに対しては,毒を以て毒を制することもできるわけです.「あなたは,混紡の布地でできた服を着ているじゃありませんか!レビ記に記されている律法に違反していますよ!」と指摘することによって.

ルカ小笠原晋也

2017年1月21日土曜日

2017年最初の LGBT 特別ミサが01月15日に行われました


2017年最初の LGBT 特別ミサが,予定どおり,1月15日に行われました.主の恵みに感謝します.司式してくださいました小宇佐敬二神父様に感謝します.そして,御ミサの協力者と参加者すべてに感謝します.

当日の小宇佐神父様による説教は,こちらを御覧ください.

当日の共同祈願は,こちらに掲示してあります.

ミサ後の集いでは,海老原晴香さんが御自身の経験を分かち合ってくださいました.海老原さんに感謝します.

海老原さんは,いくつかの大学と短大で,非常勤講師として,女性論やジェンダー論を教えていらっしゃいます.

今回は,或る女子短大の幼児教育科で sexual minority をテーマとして教えた際の講義内容や学生たちの反応について語ってくださいました.

将来,幼児や児童の教育にかかわることになる人々に sexual minority のことを教えるのは,大変有意義なことです.LGBTIQ+ の人々がまだみづから自身の sexuality の問題について十分に考え,語ることができない幼児期,小児期のうちから,周りにいる大人たちが彼らのことを理解し,手助けすることを可能にするであろうからです.

学生たちは皆,18-20歳の女性です.女性論と同様,sexual minority のテーマに,彼女たちは非常に高い関心を示すそうです.

その理由は,ひとつには,LGBTIQ+ の人々と同様,女性たちは常に自身の sexuality のゆえに何らかの社会的差別を被っているからです.

そして,もうひとつは,やはり LGBTIQ+ の人々と同様,女性たちは皆,自身の sexuality に関して多かれ少なかれ不確定さや不安定さを感じているからです.

ですから,女性たちの大多数は,sexual minority の問題を,自分自身の問題と共通するものとして共感を以て考えることができます.反対に,男たちの大多数にとっては,そのように考えることは困難です.

また,講義の後で海老原さんに come out してくる学生も,毎年必ず幾人かいるそうです.

講義は,sexual minority について予備知識をまったく持っていない学生たちのことも考慮に入れて,初歩的なことから始まります.特に,gender binarism [男女の性別二元論]と gender roles の常識を先入見として疑うことが第一歩です.

さらに,LGBTIQ+ の人々の人生にとって困難を生じさせるかもしれない家族や社会環境の問題,ならびに,キリスト教による sexual minority に対する差別と偏見の問題が扱われます.詳しくは,当日海老原さんが参加者に配布してくださった資料を御覧ください.

また,日本カトリック障害者連絡協議会の副会長,東京カトリック障害者連絡協議会代表の片山功一さんが,2月11日の世界病者の日に行われる東京カトリック障害者連絡協議会の集会の関してお知らせをしてくださいました.詳しくは,以下の案内を御覧下さい.




ルカ小笠原晋也

小宇佐敬二神父様の説教,2017年01月15日,LGBT 特別ミサにて

2017年01月15日の LGBT 特別ミサにおける小宇佐敬二神父様の説教





今日は年間第二主日です.主の洗礼が御公現とぶつかって月曜日になったので,今日が第二主日ということになります.

洗礼のことを思い起こしながら,洗礼者ヨハネがイェスについて証しをする.それが今日のヨハネ福音書の場面です.

ヨハネ福音書は,0119節からカナの婚宴まで,七日間の日取りを重ねながら描いていきます.創世記の初めの七日間の創造物語と重ね合わせるようにして.そして,その第二の日が洗礼者ヨハネの証しの日と言ってよいかと思います.

ヨハネは,自分の方へイェスが来られるのを見て,遠くの方から来られるのをじっと見詰めて,ふたりの弟子に言います:「ごらんなさい,神の子羊だ」と.

この「神の子羊」という言葉は,そのままの形では旧約聖書のなかにありません.しかし,ひとつには,出エジプトのとき,一歳の子羊がほふられ,その血がユダヤの人々の家の柱とかもいに塗られることを通して,死をもたらす神の御使いがそこを過ぎ越したということから,この「身代わりの子羊」を指す.もうひとつには,イザヤの「主のしもべの歌」の第四の歌に記されている「贖いの子羊」を指す.このふたつの子羊が,旧約聖書的な原点となっているでしょう.そのことを意識しながら,洗礼者ヨハネは,「見よ,世の罪を取り除く神の子羊だ」と言って,イェスを指し示します.

イザヤ書4001-11節には,天の御使いが二種類登場します.ひとつは,主の道を整えるために遣わされる天使,その姿.そして,もうひとつは,神を指し示す天使.四つの福音書とも,イザヤ40章にもとづいて洗礼者ヨハネのことを述べています.ヨハネ福音書は,特に,神を指し示す御使いという役割を洗礼者ヨハネに付しています.ほかの三つの福音書は,イェスのために,イェスに先立って道を整える役割の者として,ヨハネを位置づけています.

イザヤ4009-10節では,神を指し示す御使いはこう言います:「見よ,あなたたちの神を,見よ,主なる神を!神は力を持って来られる,御腕を差し伸べ,イスラエルを解放される」.そして,神は,羊飼いのように子羊を懐に抱き,母羊をいざなって導いてくださる.そのような哀れみ深い神であることが記されています.

イザヤ4001節で「わたしの民を慰めよ」と語る主なる神の姿.それが,この哀れみに満ちた神です.そして,同じイメージを以て,「見よ,神の子羊だ,世の罪を取り除く方だ」 これが,ヨハネの宣言になります.

「世の罪を取り除く」とは,どういうことなのか?

わたしたち人間を根源から支配しており,捉えているもの,それは,罪の支配と死の支配です.そして,罪と死は,人間の原罪によってもたらされた.エデンの園の物語が,その根底にあります.

エデンの物語の中で,罪とは何なのか.それは,人間が真ん中に立ち入ること,園の中央に立ち入ることです.それが人間の根源的な罪として描かれています.

真ん中という絶対的な場は,神のものです.その神の場に人間が立ち入る.人間を絶対化していく.そこに,自己中心性という人間の罪があります.人間の自己中心性のゆえに,神と人間との関係は損なわれます.それは,死を招きます.人間は,死の淵にたたずむものとなっていきます.

罪と死の支配からの解放.それは,聖霊による洗礼によって実現していきます.

聖霊による洗礼.それは,十字架上の死という身代わりの,贖いの行為です.この贖いによって,わたしたちは清められます.

そして,復活という出来事によって,死を乗り越えていく.さらに,聖霊の注ぎを通して,新しい人として立ち上がらされていく.

この聖霊の注ぎは,人間に根源から欠落している神の命,永遠の命がわたしたち人間のなかに注がれていくという新しい創造のわざを示しています.

人間は,自己中心性のゆえに,神が望まれていることを実現していくことができない.神が望まれていることは平和であるのに,いまだかつて戦争が絶えたことがない.神が望まれていることは平等なのに,さまざまな差別や区別がある.能力や力や,そういったものの行使を通して,でこぼこの世界が作られていく.それが,一方の人間の現実である.さらに,神が望まれていることは正義と誠実であるにもかかわらず,人はごまかし,だまし,利益を自分のものへと集めようとしていく.

そのような人間のなかに新しい命を創造していくこと.それが,救いのわざとして,神のわざとして,わたしたちの内にもたらされます.

平和を,平等を,そして義を実現していくために,そして,そのことを通してわたしたちが新しい人とされていくために,イェス様は,わたしたちを清め,死を乗り越え,そして,新しい命,聖霊による洗礼を授けられます.

この新しい命,神の命の根源的な本質は,愛することができるという力です.そして,赦し合うことができる.そして,共感し合っていくことができる.そういう関わりを構築していく力です.

そのために,ひとりひとりがみづからの足で立ち上がり,自立し,そして,自分自身を相対化しながら,主体的に物事を受けとめていく.そして,自分の足で,目的,神の命に向かって歩んでいく.この自立性と主体性と責任性,それが,わたしたちひとりひとりの内に与えられていきます.

そのように命を育み,育てていくこと,そこにわたしたちの大きな使命があります.

そのように命を育み,育てていくために,神様は,秘跡的な恩恵をわたしたちに与え,そして,御言葉で導かれ,わたしたちの歩みを確かなものとして支えてくださいます.それが,イェス様を通してもたらされていく命の恵みです.

この年間の始めに当たって,わたしたちは,この秘跡的な恩恵を意識していきましょう.そして,神の言葉による導きと秘跡的な養いに応えて,わたしたちひとりひとりが輝いていくこと,そこに神様の大きな望みがあります.

神様は,命の創造に当たって,大きな感動を示しながら,大きな期待を命に向かって投げかけました ‒ 「産めよ,増えよ,満ちよ」と.牧畜用語で訳すと「産む,増える,満ちる」ですが,農耕用語で訳すと「実をつける,そして,大きくなる,さらには,内実が豊かになる,熟する」.ただ単に生き物たちの数が増えるだけでなく,そのひとつひとつが個性豊かなものとして実現していくこと,そこに神様の望みがあります.

ヨハネ福音書15章では,この神様の祝福の言葉を農耕用語で翻訳して,「実をつける,そして豊かになる,喜びで満たされる」という言葉に置きかえていきます.

わたしたちひとりひとりが個性豊かなものとして実現していくこと.この世界,この宇宙の中にたったひとつしかないものとして実現していくこと.そのものしか持たない香りや味わいを豊かに醸し出していくこと.そこに神様の大きな期待があります.

この期待に向かって応えていく,それが,救いの道を整えていく神の子羊の大きな役割であると言ってよいでしょう.

ひとりひとりが神様の子供です.まだ右も左もわからない,ちっちゃな赤ちゃんにすぎない.でも,神様の愛する赤ちゃんです.イェス様が命をかけて教えてくださった,父である神の愛,慈しみ.この慈しみのなかで,わたしたちひとりひとりが,わたしにしかない味わいを,香りを,豊かさを,わたしたち自身の内に実現し,そして,それを神様へのささげものとしていく,神様への喜びとしていく.そこに,わたしたちの大きな道,答えがあろうかと思います.

この年間の始めに当たって,わたしたちの一年を生きていく方向,それをしっかりと受けとめ直していきたいと思います.

世界には,これからももっと大きな混乱が起こるでしょう.世界の情勢はそのように動いていきます.多分,保護主義という自分たちの利益を守ろうとする動きがいろいろなところで起こり,そこから外されていく人たちとの格差はますます広がっていって,そして,苦しむ者,踏みにじられる者が数多く生み出されていく.世界はそのように動いていくでしょう.

でも,そのなかにあってこそ,わたしたちはひとりひとりが神様にとってかけがえのない人間なんだ,存在なんだという原点を思い起こしながら,ともに生きることの喜びを証しし続けていくことができますように.そこに,わたしたちの大切な使命があろうかと思います.

2017年1月19日木曜日

男性 makeup artist Manny Gutierrez と彼のすてきなパパ


USA の有名な化粧品メーカー Maybelline に男性モデルとして初めて採用された makeup artist Manny Gutierrez.



或る宗教右翼が彼の写真を引用して homophobic tweet をした : だから息子を育てるには父親が必要なのだ.

それに対して Gutierrez は答えた:わたしの父親は,わたしのために働いてくれており,わたしのことをとても誇りに思ってくれている.

Gutierrez の父親が宗教右翼の男に対して発したメッセージ:まず最初にあなたに言っておくが,わたしは常に息子のために存在してきたし,今後も常に息子のために存在する.わたしは,息子が達成したことを誇りに思うだけでなく,彼の今あるがままをもっと誇りに思っている.わたしは知っている:あなたがああいうことを言うのは,LGBT である人をあなたが誰も知らないせいだ.もし知っていれば,あなたにもすぐにわかるだろう,LGBT の人々は我々の惑星の上を歩いている者たちのうちで最も本当の人間であり,最も親切な心の持ち主だ.今後は言動をつつしみなさい.あなたが自身の家族のために何でもするように,わたしも自身の家族のために何でもする.お元気で.

Gutierrez のコメント:パパ,大好き!でも,牢屋に入らないでね.パパはすごい野蛮人なんだ.つきあってられない!

さらに Gutierrez はこう tweet している: 男であるということは,どれだけタフかとかマッチョかとかいうことではなく,自分が愛する者たちのことを大事にするということだ.

神は父なる神であり,神は愛であるとすれば,「父である」ということは如何なることか!

ルカ小笠原晋也

2017年1月16日月曜日

2017年01月15日の LGBT 特別ミサでの共同祈願

新たな年を迎え,今月から,わたしたちの LGBT 特別ミサは,原則的に毎月,*** で行われ,小宇佐敬二神父様が司式してくださいます.主の恵みに感謝します.性的少数者の司牧に積極的に取り組んでくださる小宇佐神父様に感謝します.そして,寛容にもわたしたちに場所を提供してくださる *** に感謝します.わたしたちのミサが,今年もますますより多くの同胞たちに,神の愛を感ずる場を提供することができますように.

昨年6月,教皇 Francesco は,カトリック教会の歴史における LGBT 差別に関して,教会は被害者たちに謝罪し,赦しを請わねばならない,とおっしゃいました.それを受けて,オーストラリアでは,カトリックとプロテスタントが共同で,Equal Voices という名称のもとに活動を開始しようとしています.その活動の目的は,キリスト教が性的少数者を差別してきたことを謝罪し,あらゆる人々がキリストのからだにおいて相互に和解することができるよう,真に包容的な教会を作り上げて行くことです.オーストラリアにおけるこの画期的な試みが成功しますように.また,ほかの国々においても,同様に,神の愛の名においてあらゆる人々を包容する活動が教会のなかに展開されて行きますように.特に,日本において,我々も含めて,性的少数者に福音を告げる人々に,主よ,力と勇気を恵み与えてください.

9日は成人の日でした.今ちょうど,世田谷区では LGBT 成人式が行われており,今月から来月にかけて,あちらこちらで LGBT 成人式が行われます.それらの会合に参加する人々を,主が祝福してくださいますように.学校や職場において差別され,いじめられている LGBT の子どもたちや若者に対してわたしたちが積極的に救いの手を差し伸べることができるよう,主よ,わたしたちをお導きください.

さまざまな事情で今日,わたしたちの御ミサに与ることができない同胞たちのために祈ります.主は,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰も排除せず,誰をも包容する神の愛の恵みが,今日これなかった人々にも豊かに注がれますように.また,主によって今日ここに集う幸せを恵み与えられたわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができますように.

ルカ小笠原晋也

2017年1月9日月曜日

福音館書店の月刊誌「母の友」の LGBT 特集について

『ぐりとぐら』や『魔女の宅急便』などの児童書の出版社として有名な福音館書店は,幾つかの月刊誌も出しています.子ども向けの『こどものとも』や『かがくのとも』など.

それらと並んで,「幼い子を持つおかあさん,おとうさんに;子どもにかかわるすべての人に」向けられた母の友』も.1953年に創刊された長寿雑誌です.発行部数は,『母の友』編集部によると,現在,約12,000部.

その『母の友』が,2017年2月号で特集「LGBT ‒ じぶんの性をいきる!」を組みました.




周知のように,性的少数者のなかには,自身の sexuality について親に come out することができずに苦悩する人々が少なくありません.また,子どもから告げられた事実を受けとめることができず,子どもに対して怒りを向けて拒絶したり,自分自身を責めてしまったりする親も少なくありません.

そのような状況のなかで,子育て中の人々を読者として想定する雑誌が LGBT を特集テーマに取り上げたのは,とても有意義であり,画期的なことだと思います.

この特集を組んだ経緯を『母の友』編集部に問い合わせたところ,次のように御返事いただきました(御回答くださいました『母の友』編集部に感謝いたします):

近年,メディアなどで報道が進み,LGBT という言葉は広まりを見せているように感じるのですが,「正しい理解」もともに広まっているのだろうかといった疑問から,今回の特集が生まれました.また,当事者の皆さんが幼いころから悩みを抱えていらっしゃること,親御さんとの関係について深く悩まれておられることから,育児雑誌である『母の友』でも特集を組んでみよう,となりました.

内容は:

牧村朝子
「ロラウェイ・ロラ・リンクのおはなし」

藥師実芳
「100人いたら100通りの性」

小林りょう子
「寂しくて辛くて悲しい時間が少しでもなくなるように」

南和行
「ふうふのかたち,家族のかたち」

まず,冒頭に引用されている三つの証言が印象的です:

「幼稚園のころ,お遊戯会でウサギ役の衣装にキラキラしているスカートがあり,それを着たくてその役を希望した.しかし,男の子だからという理由で,キラキラのスカートははかせてもらえず,代わりにダボダボなズボンを渡され,それでウサギ役に臨んだ.抗議してはいけないものと思ったし,渡されたからには着ないといけないんだなと悟った.そのころから,自分が置かれている性別に違和感を覚え始めた」(20歳代,trans woman : 生物学的には男性だが,存在論的には女性).

「女の子と遊ぶのが好きだったんだけれど,“男の子らしくしなさいよ” とよく指導されていた.男の子らしくなるようにと柔道を習わされたり,“あんたの将来が不安だよ” と親に嘆かれていた」(20歳代,gay).

「保育園のときから “オカマ” とからかわれていた.先生たちも見ていたけれど,何も言ってくれなかった」(20歳代,genderqueer : 存在論的性別が男女いずれとも特定されない).

sexuality とは何でしょうか? 藥師実芳氏は,その四つの要素を挙げています:生物学的性別, 心理学的性別(自分の性を自身でどのように認識しているか),性的指向(どの性別の相手を性愛の対象とするか),性表現(服装や話し方などを通じて,自身の性別をどのように表現するか).

それらの四要素を並列的に列挙することは,あまり標準的ではありませんし,合理的でもありません.

まず基本的には,sexual identity(性同一性:男であるか,女であるか,いずれでもあるか,いずれでもないか,いずれとも定めがたいか,等々)と sexual object choice(性対象選択:性的関心の対象が異性か,同性か,いずれでもあり得るか,いずれでもないか,そもそも性的関心が無いか,等々)とのふたつの側面が問われます.

そして,sexual identity については,さらに三つの側面が区別されます : biological sex(生物学的性別),sociological gender(社会学的性別),ontological sexuation(存在論的性別化).

生物学的性別は,基本的には性染色体により規定されます.ただし,或る種の先天的な異常によって,性染色体により規定される性別に合致しない身体表現が起きたり,そもそも性染色体そのものに異常がある場合もあります.

社会学的性別は,社会規範として他者から期待され,あるいは押しつけられる性別役割です.それらは,成長過程を通じて,多かれ少なかれ引き受けられたり,引き受けられなかったりします.いずれにせよ,それらは,社会学的に規定される人為産物です.

存在論的性別化については,ここで厳密に説明することは困難なので,おおまかにひとくちで言うと,それは,神による創造の賜です.社会学的人為産物ではありません.神により与えられた性別です.

存在論的性別化によって我々は,我々がひとりの存在者として存在するや,既に,「男で在る」,または「女で在る」,または「両者のいずれでも在る」,または「両者のいずれでもない」,または「両者のいずれとも定めがたい」,等々の様態において存在しています.そのことは,自身の性別が如何なるものかを「認識」ないし「認知」する以前の所与の事実です.

存在論的性別化という概念は,特に transgenderism について考えるときに必要不可欠です.transgender の人々は,例えば,生物学的には男性であっても,生まれたときから既に女性で在り,あるいは逆に,生物学的には女性であっても,生まれたときから既に男性で在る.彼ら彼女らが「男で在る」または「女で在る」等々の存在論的な事実は,生物学的性別にも,性別「自認」にも,還元され得ません.

よく言われる「心の性別」という観念を持ち出すことは,sexuality に関して心身二元論に陥ることにしかなりません.かつ,性別の「自認」が生物学的性別の「事実」に合致しないならば「認知の歪み」を認知療法で矯正すればよい,という誤った考え方を正当化するだけです.

また,教皇 Francesco の gender theory に対する批判に対して,フェミニストや性的少数者の側から非難の声が上がっていますが,それも,存在論的性別化の概念の欠如にもとづいています.教皇が言っているのは,神から与えられた性別(すなわち,存在論的性別化)は社会学的人為産物には還元され得ない,ということです.教皇を批判する人々は,存在論的性別化の概念を欠いているので,「神から与えられた性別」を即,生物学的性別のことと捉えてしまう誤謬に陥っています.

以上の論点は,なかなか理解の難しいことかもしれませんが,性的少数者が提起する諸問題について論ずるためには必要不可欠なことです.ですので,始めにまず指摘しておきました.

さて,藥師実芳氏,小林りょう子氏,南和行氏の文章から,特に有意義とおもわれる部分を紹介しましょう.

「sexual minority の子どもは,幼いころから自分の identity を否定される場合も多く,自尊感情の低下や人間関係の障壁につながる場合もあります.いじめや暴力を受けたり,不登校になったり,自傷・自殺未遂を経験することも少なくありません.LGBT の子どもを取りまく問題は,命にかかわる問題です.だからこそ,正しい知識やサポート体制を整えることは,幼少期から行っていかないといけない課題です」 (p.21) ;

「LGBT の子にとって,親への coming out は難しいことです.身近な人であるほど,もしも否定されたら関係を取り戻せないのでは,と思ってしまうこともあります.また,coming out を受けた親も孤立しやすいです.親は,産み方,育て方がいけなかったんじゃないかと否定されたように思ってしまう場合があります.そかし,それは誤解であり,産み方や育て方によって LGBT になる,ならないが決まるわけではありません」 (p.23) ;

「LGBT の子どもにとって,自分が大人になって社会で生きて行く未来を思い描くことは,とても難しい.身近で LGBT の大人の姿が可視化されないことで,自分みたいな人間って世界でひとりだけなんじゃないかと思ってしまい,生きて行けないんじゃないかって思ってしまうんです.いつか,左利きであることと同じくらい普通に,LGBT であることや,障碍があること,人と違うということを言える社会になって欲しいと思います.それには,家庭や学校,社会を作っている大人たちがまず変わって行く必要があると思っています」 (ibid.) ;

「本来,法律上の結婚は,家族の幸せを守るためにあるもののはず.幸せの権利は,どんな家族にも平等にあります.でも,いつのまにか,人の営みと法律の重要性が逆転してしまっています」 (p.30) ;

「憲法24条の “婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し” という文言の “両性” という言葉を捉えて,“同性婚は憲法が禁止している” と言う人がいます.しかし,これは,現代国家における憲法の意義をまったく理解していない意見です.(...) 憲法24条は,結婚は本人たちの自由な意志にのみ基づくべきであり,誰かに強制されるものではなく,男女は平等,同権であることを宣言しています.(...) 制定時に念頭にあったのが男と女との結婚であるから “両性” という文言を使っているにすぎません.同性婚を禁止するためにわざわざ “両性” という文言を使ったのではない.(...) 同性カップルが結婚式を挙げるなど社会的効果を得ることは,憲法13条が個人に保証する幸福追求権の実現と言えますし,同性カップルについてだけ婚姻の法律上の効果は得られないと言うのであれば,それは憲法14条の “法のもとの平等” に違反します.同性婚法制化を憲法はまったく禁止していないのです」 (pp.30-31) ;

「男女のありかたを強制する社会が,結局,皆を生きづらくしている.LGBT という特別な人が世の中にいるわけじゃなく,これは,実は,社会的な性別による役割,gender の問題なんじゃないか.行き着くところは,feminism の人たちが戦ってきたような視点になるような気がします」 (p.32) ;

「[保守でもリベラルでも]どの政党,どの党派の議員だって,もしかしたら自分の子どもや友人が同性愛者かもしれないし,transgender かもしれない.当事者の問題となるわけです.わたしの親友が,わたしの家族が,という身近な問題として周りを巻き込んで行くことで,社会は変わって行くんじゃないかなと思います.わたし[南和行氏]は,そこに期待しています」 (p.33).

この特集を読むと,改めて,如何に日本社会と日本語が gender binarism [性別二分論]にがんじがらめに縛られているかが,よくわかります.それによって,差別やいじめが起こり,場合によって,親子のきづなも,自身の存在の根拠すらも,破壊されてしまいます.

小林りょうこ氏は言っています:「LGBT の問題は,人が人として扱われるための人権の問題だと思います」 (p.27). 

法学や社会学で人権 (human rights) と呼ばれているものの本来的な根拠は,神による被造物としての人間の存在の尊厳 (dignity) です.

人間は,男も女も性的少数者も,誰しも同じく神よって創造された者であり,誰しも等しく神によって愛されている.

神の愛に基づく人間存在の尊厳を抜きにして人権を論ずることは,人権の本質を見ないままに法学的・社会学的な形式論や技術論に終始することにならざるを得ません.

神の愛を,日本人の大多数は知りません.しかし,だからといって,日本人が神の愛に値しないわけではありません.

男にも女にも性的少数者にも,あらゆる人のために神の愛の福音を宣言することが,わたしたちキリスト教徒の使命です.

LGBT を特集したこの『母の友』が,できるだけ多くの子育て世代の人々の目にとまり,性的少数者に属する子どもたちに対して親の側から援助と支持の手が差し伸べられるようになりますように!

そして,sexuality の問題,すなわち,女性の問題と性的少数者の問題の解決の試みを通じて,日本社会と日本人の心性の奥底に巣くう性差別 (sexism) と家父長主義 (patriarchalism) が批判され,根絶されて行きますように!

ルカ小笠原晋也