2022-08-19

LGBTQ に対する conversion therapy(転向療法)を 推奨する 保守派プロテスタント活動 NBUS に対する 異議申し立ての署名の呼びかけ


LGBTQ に対する conversion therapy(転向療法)を 推奨する 保守派プロテスタント活動 NBUS に対する 異議申し立ての署名の呼びかけ


この記事は,NBUS を憂慮する キリスト者連絡会による NBUS に対する異議申し立ての署名活動を できるだけ多くの人々に知ってもらうためのものです.

先月,日本の保守派プロテスタント活動家たち 幾人かが,Network for Biblical Understanding of Sexuality(NBUS : 性の聖書的理解ネットワーク)を 立ち上げました(このキリスト新聞の記事も参照).

彼らは,2017年に USA の 保守派プロテスタントたちが sexuality の問題に関して 発表した Nashville Statement(ナッシュビル宣言 : NBUS による 邦訳)に賛同しており,日本においても それへの賛同の署名を呼びかけています.

これは,たいへん憂うべき事態です.なぜなら,Nashville Statement と NBUS は,LGBTQ の人々に対して SOGI(sexual orientation and gender identity : 性的指向 と 性同一性)を heterosexual かつ/または cisgender に「矯正」することができる と称する conversion therapy(転向療法)を 推奨しているからです.

しかるに,conversion therapy は,治療的に無効であるだけでなく,心理学的に有害(欝や自殺を惹起し得る)であり,人権の観点からは非人道的である(拷問に等しい)ことが,全世界の〈心理学および精神医学に関連する〉諸学会において 認識されています(参考資料 : USA の諸学会の声明).フランス,ドイツ,カナダ,メキシコでは conversion therapy を行うことは 法律で禁止されており,また,ブラジルでは conversion therapy を医療行為として行うことは 禁止されています.

そこで,このたび,わたしたちの友人であり,gay であることを みづから公にしている カトリック信者 高松尚志さん(札幌市在住)が 発起人となって,わたしたちは「NBUS を憂慮する キリスト者連絡会」を 立ち上げました.そして,わたしたちは,こころある方々に,NBUS に対する 異議申し立ての署名を 呼びかけています.

有害な conversion therapy を 日本で 広めようとしている NBUS の活動を このまま放置しておくことは 決して できません.どうか,署名活動に 御協力くださるよう,よろしく お願いいたします.

主の愛の恵みが 皆さんに 豊かに注がれますように.


参考資料 : Nashville Statement に対する James Martin 神父 SJ の 批判的応答(邦訳) 

2022-08-18

福音派の「ナッシュビル宣言」に対する James Martin 神父 SJ の 応答



以下は,アメリカの LGBTQ カトリック信者の 団体 New Ways Ministry の 副理事長 Robert Shine による 2017年09月01日付の ブログ記事の 邦訳である:

「ナッシュビル宣言」は,まさに,カトリック LGBT は どれほどの成果を上げてきたかを,明かしている


合衆国の福音派の指導者たちは,今週の始め[2017年08月29日,火曜日],「ナッシュビル宣言」を 発表した — 彼らが LGBT の人々の[そうでない人々との]平等に 反対することを 明らかにするために.それに対して,ひとりの傑出したカトリック司祭が,答えた — LGBT の人々の善性を肯定することによって.それらふたつの「宣言」の間のコントラストは,まさに,カトリック LGBT は どれほどの成果を上げてきたかを 明かしている.

「ナッシュビル宣言」は,「聖書的な男性性と女性性とに関する評議会」(The Council on Biblical Manhood and Womanhood) によって作成されたものであり,sexuality に関する 一連の肯定と否定の命題を 述べている.そこには,これらのことが含まれている:結婚の平等[同性どうしのカップルの結婚の法制化]の拒絶;「『自身を homosexual と 自認すること』(homosexual self-conception) および『自身を transgender と 自認すること』(transgender self-conception) は,神の〈創造と贖いにおける〉聖なる意図と 無矛盾的である」ということの否定.

James Martin 神父 SJ — この夏に出版された〈LGBT の問題に関する〉新たな本『橋を架ける』(Building a Bridge : カトリック教会と LGBTQ コミュニティとの間に 双方向的なコミュニケーションを 確立すること)の 著者 — は,[8月30日に]一連の tweet において,彼自身の七組の肯定と否定を以て,[ナッシュビル宣言に]答えている.彼は こう tweet している


「ナッシュビル宣言」に関連して:
わたしは このことを 肯定する:神は LGBT の人々 すべてを 愛している.
わたしは このことを 否定する:イェスは,彼らを,侮辱し,断罪し,よりいっそう辺縁化することを,欲している.

わたしは このことを 肯定する:御父は LGBT の人々を 愛している;御子は彼らを呼んでいる;そして,聖霊は彼らを導いている.
わたしは このことを 否定する:神の〈彼らに対する〉愛は 無である.

わたしは このことを 肯定する:イェスは,社会の辺縁にいる人々に出会ったとき,歓迎の態度を以て彼らを導いたのであって,断罪の態度を以てではない.
わたしは このことを 否定する:イェスは,さらなる断罪を 欲している.

わたしは このことを 肯定する:我々は 皆 conversion[「回心」と「転向療法」の「転向」とを かけている]を 必要としている.
わたしは このことを 否定する : LGBT の人々は,何らかのしかたで,おもな罪人 あるいは 唯一の罪人として 特定されるべきである.

わたしは このことを 肯定する : LGBT の人々は,洗礼の恵みによって,教会のフルメンバーである.
わたしは このことを 否定する:神は,彼らが「わたしたちは教会に属していない」と感ずることを,欲している.

わたしは このことを 肯定する : LGBT の人々は,多くの教会によって,自分たちが あたかも けがれているかのように 感じさせられてきた.
わたしは このことを 否定する:イェスは,わたしたちが 彼らの膨大な苦しみを さらに増すことを,欲している.

わたしは このことを 肯定する:わたしが知っている〈最も聖なる〉人々のうち 幾人かは,LGBTQ である.
わたしは このことを 否定する:イェスは,わたしたちが 他者を断罪することを,欲している — 彼は そのようなことを 明らかに禁止している にもかかわらず.


James Martin 神父のように傑出した声から発せられた 以上のようなサポーティヴな応答を,わたしたちは歓迎する.それは,彼の『橋を架ける』に由来するものである.その本において,彼は,全信者が互いに敬意と憐れみと思いやりを示すよう,呼びかけている.

「ナッシュビル宣言」に対して応答した彼の「肯定」命題は,特に感動的である — LGBT の人々を傷つけてきた カトリック教会自身の歴史に 鑑みるとき.そのようなカトリック教会の態度は,ときとして,「ナッシュビル宣言」の背後に存在する福音派の指導者たちの言動を 反映してきた.LGBT の人々 および 彼にとって愛しい人々は,あまりによく知っている — 排除的な態度 と 差別的な言葉が,あらゆるレベルの教会指導者たち および 信徒席で彼らの隣にいる一般信徒たちから 発せられてきたことを.

ありがたいことに,「ナッシュビル宣言」に関する James Martin 神父の tweet は,このことを明かしている:[LGBTQ に対する]福音派のアプローチと カトリックのアプローチは,まさに,どれほど相異なるものとなったか.「ナッシュビル宣言」と Martin 神父の一連の tweet(それらは,福音派の文書の形式を反映する命題形式において書かれてある)との間のコントラストは,このことを思い起こすのに有用である:カトリック信者の大多数にとっては,LGBT の問題に関する対話は,一般的に言って,過度に単純化されてはいない — 特に,バカげたものになるほどに単純化されてはいない.

前進は為されてきたものの,多くの人々は,なおも感じている:制度的な教会は,あまりに多くの人々を傷つけ続けている,と.我々は,〈過去に為されてきた および 現在も為されている〉害を認識することの緊張のうちに 生きる必要がある — 対話の将来を作り出そうと試みつつも.各国において,その緊張の度合いは 異なる;また,各人が,将来を展望しつつ,過去の害がどれほど認識されるべきかを,決めねばならない.

否定され得ないのは,このことである:カトリック共同体のなかで,対話のための小さな空間が成長しつつある.対話が生ずるところでは,教会は,断罪的な命題を超えて,複雑さの空間 — そこにおいては,差異と恵みとが ともに 認められる — のなかへ 動かされる.2014年と2015年の〈家族に関する〉司教会議は,対話の開始の卓越した例である.

James Martin 神父の本 — および,その本に対する 多くの かつ 多様な 反応 — は,また,LGBT の問題に関する教会内の対話を,それが より深い かつ より対話的な 場となるよう,決定的に 豊かにした.そのことについて,我々は 皆 感謝することができる.