2021年4月4日日曜日

Happy Easter !

The Anastasis fresco in the parecclesion of the Chora Church in Istanbul : Jesus Christ pulling Adam and Eve from their coffins in hell.

LGBTQ みんなのミサ 世話人

皆さま,ご復活 おめでとうございます.

ミサに自身を捧げる行いを共有できず,なにか 心に穴が空いているような頼りなさを 感じています.

ゲッセマネの園から ご復活までの間が,わたしたちのすべて という実感は 毎年 深まります.

日常でも,「その人を想う」とは「その人の言葉を想う」ことと同じ意味だ と 感じています.

わたしたちが 誰でも 同じ意味を感じるのは,主イエスの 十字架上の 7 つの言葉です.いろいろな想像や史実を重ねながら感じるしかなくて,答えのない愛の姿が どこまでも 深まっていきます.

有名な言葉の例では,下記の第 5 の言葉 :「渇く」— それを マザー テレサは 列車のなかで聞きました.彼女の修道会の十字架には すべて "I thirst"[わたしは渇く]が 一緒に あります.

わたしたちも,十字架を見上げたとき,心に 言葉が 浮かびます.マザー テレサの場合は いつも "I thirst". 美しく 甘美で 激しく すべての創造の源となる言葉を,わたしたちは それぞれに 主イエスから いただきます.わたしの場合は まず「開け!」.そして,もうひとつは,ペトロが 三度 イエスを知らない と 言った後に,イエスがペトロを見つめた「真っ直ぐな まなざし」という 無言の言葉.

すべての人が 神の最高傑作です.神は,さらに,わたしたち各人に,御言葉で ミッションを与えます.

十字架上のキリストの 最後の 七つの 言葉:

1.「父よ,彼らを赦して下さい.なぜなら,彼らは 自分たちが何をしているのか わかっていないからです」(Lc 23,34).

2.「アーメン,わたしは あなたに 言う:今日 あなたは わたしとともに 天国にいるだろう」(Lc 23,43).

3. イェスは,自身の母を 見,そして,その近くに 彼の愛する弟子を 見て,母に言った :「女よ,それが あなたの息子だ」.次いで,イェスは 弟子に言った :「それが おまえの母だ」(Jn 19,26-27).

4. Eli, Eli, lema sabbaqthani ?[わが神,わが神,なぜ わたしを見棄てたのですか?](Mt 27,46).

5.「わたしは 渇く」[ διψῶ ] (Jn 19,28).

6.「成就した」
[ τετέλεσται ] (Jn 19,30).

7.「父よ,わたしの息を あなたの手に ゆだねます」(Lc 23,46).

主イエスの御言葉の味わい方にも わたしなりのやり方が あります.それは,毎日 主イエスの愛を実感する という習慣です.わたしにくださった御言葉を思い起こすだけで,愛を実感します.わたしは 愚かで 単純ですけれど,みなさんにも 固有の感じ方があると想います.

1 日は 24時間,1440 分です.そのうち たった 1 %, 15 分だけを 使います.

神に愛されているという実感を感じると,ふたつの傷が 愛で 満たされます:
1. わたしには 神に愛される資格が ない(根源的自己否定);
2. 神は 存在しない.

それらの傷を愛で埋めていただくと,他者への奉仕に向かい,神の道具になることができます.

表面的で 一般的な「行いの罪」の傷も 愛が 潤し 癒してくれます.

愛されている実感があるから,罪も すべて 神に見せることができます.どうせ,もう すべてを 御存じですし.ですが,自身の謙虚さから 罪や開心の思いを神に打ち明けると,わたしの実感では,神は 喜んでくださいます.

わたしたちの仲間は,身体の表面や内面への 深く 豊かな 気づきを可能にする賜物を いただいています.だから,相手も 思いも 深く受容するし,同じように 神の思いも 深く 受容します.頭でっかちな信仰ではなくて,心と身体で神を感じている人の言葉は,ちょっと違うんです.わたしは,LGBTQ みんなのミサを始めて以来,参加者たちと話していて,頭でっかちな人とは違う と 気づき,福音を強く感じ,強く 魅力も 感じました.

洗礼を授かった者も,授かっていない者も,わたしたちは,それぞれに,主の福音を伝えるカリスマを 主から いただいています.

わたしは「信仰」という語が性に合わず,「神交」と言っています.ただし,それは「神との交わり」ではなく,「神が 先に わたしと交わってくださる」という意味です.

1 日の 1 % だけでも,黙想に当てましょう.すべては 神が はからってくださいます.

主の御復活 おめでとうございます!

Caravaggio (1571-1610), Maria Maddalena in estasi (1606)

主の御復活 おめでとうございます!

LGBTQ カトリック信者の信仰共同体「LGBTQ みんなのミサ」(3月に 名称を LGBTCJ から「LGBTQ みんなのミサ」へ 変更しました)の 世話人から 皆さんへ 主の御復活のお祝いを 申し上げます.

昨年は,COVID-19 の全世界的流行のもと,東京大司教区では,灰の水曜日(2020年02月26日)の翌日から 6月20日 土曜日まで,公開ミサは中止され,わたしたちは 聖週間の祭儀にも 復活の主日のミサにも 与ることが できませんでした.そして,昨年 6月21日 日曜日から 公開ミサが再開された後も,今に至るまで,原則的に 毎月 1 回しか ミサに与ることができず,ミサのなかで歌うこともできず,その制限が いつまで続くのかも 予測不能です.毎週(あるいは,その気になれば 毎日でも)ミサに与り,歌って神を賛美することができる — 昨年 2 月までは 当たり前であったことが 実は どれほど「ありがたい」恵みであるのか,わたしたちは痛感させられています.

LGBTQ みんなのミサは,2016年07月17日に初めて行われた後,毎月 1 回 行われ続けてきましたが,昨年02月23日に行われた後,中止を余儀なくされ,今のところ いつ再開することができるか 予測不能です.月に 1 回 仲間が集い,ともにミサを祝うことができるということが どれほど感謝すべき恵みであることか,今 あらためて 感じています.

四旬節,いかに Jesus は 彼の苦しみにおいて わたしたちのために かつ わたしたちとともに 苦しんでいるかを,わたしたちは感じてきました.そして,彼が 死から 永遠の命へ復活した今,彼は,永遠の命の喜びを わたしたちに 分け与えてくれています.永遠の命は,わたしたちに死後に与えられる褒賞のようなものではありません.わたしたちは 今 もう既に 永遠の命を生きています — 誕生以来 ずっと.なぜなら,わたしたちが人間として生まれたのは,神が 息吹 (ruah, πνεῦμα, spiritus) によって そして 息吹として 永遠の命を わたしたちに吹き込んでくださったからです.

キリスト教の洗礼の秘跡は,そのことを わたしたちに 自覚させてくれます.その恵みに あらためて 感謝しましょう.そして,この復活徹夜祭に洗礼の秘跡を授かった方々に お祝いを申し上げます.

なぜ 主の復活を祝うために Caravaggio の Maria Maddalena in estasi を掲げるのか ? それは,以前にも説明したように,Jesus の 死から永遠の命への復活は 彼女の Dasein において成起したからであり,そして,そのことによって 彼女も また 死から永遠の命へ復活したからです.その意味において,キリスト教会の礎石であるのは,使徒 Petrus ではなく,しかして,Jesus から罪の赦しの秘跡を授かった Maria Magdalena です.彼女が Apostola Apostolorum[使徒たちの使徒]と呼ばれるにふさわしいのは,そのことによってです.

さて,最近,わたしたち LGBTQ カトリック信者にとって 嬉しい知らせと 悲しい知らせがありました.嬉しい知らせは,日本における同性婚法制化の可能性に関するものです.周知のように,2021年03月17日,札幌地裁で,武部知子裁判長は,憲法 24 条は 同性婚を禁止するものではなく,同性カップルに結婚を認めないことは 法のもとの平等の原則(憲法 14 条)に違反する,と判断しました.この判決は,日本における同性婚法制化のための非常に重要な一歩となるでしょう.

悲しい知らせは,3月15日,教皇庁 教理省が「同性カップルの関係を祝福することは(教会法上)違法である」という Responsum ad dubium を発表したことです.しかし,既に紹介したように,Papa Francesco は 暗に その判断を批判している と 思われます.

日本のカトリック教会のなかで この「同性カップルの祝福」の問題が どれほど話題になっているのか,今のところ なかなか聞こえてきませんが,そのなかで,今日(2021年04月04日)付の「カトリック新聞」のなかに ある司祭が「新たな倫理課題に 教皇は どう 向き合うか」と題したエッセーを発表しているのが 目にとまりました.紹介しましょう:

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昨今,フランシスコ教皇の周辺のことが 一般ニュースのなかで 目立ちます.なかでも 世間の注目を集めているように見えるのは,「教皇庁は同性婚を祝福できないと表明した」と報じたニュースでした.

教会は,歴史上,常に 時代の生みだす新たな倫理課題に直面し 解決を図ってきました.今,「同性婚」という かつて 人類史上 想定すらされなかった問題が 突如として 浮上したことに,フランシスコ教皇は,誠実に向き合い,答えを示そうとされています.教会が伝統的に主張してきた「原則」と,人々のなかから生じてきた現実の叫びに どう 折り合いを付けていくか,フランシスコ教皇の問題解決の手腕が問われているときです.

新たに解決すべき倫理課題が生じるたびに,教会は「原則」と「適用」という原理から 解決の糸口を見いだしてきました.なかでも,宗教改革運動を経験した近代カトリック教会が改革の柱として掲げた「司牧的配慮」[ cura pastoralis, pastoral care ] という観点は 重要です.何が何でも「原則」を優先させるという態度ではなく,具体的な事例のそれぞれに目を向け,人々の心情に寄り添う形で解決を模索することを第一義とすべき という立場から そうした態度が生じました.

「司牧的配慮」は「赦しの秘跡」の場(告解)で大いに発揮されるものです.「告解」で告げられる内容について,法や倫理規定によって絶対的な判断を下せることはむしろ少なく,多くの場合,人それぞれが置かれたケースによって,行われた行為についての判断が下されることの方が 多くあります.あるときには確実に「否」と断言できても,場合によっては「是」となるケースがあり得ることは 現実の法解釈にもあります.同様に,教会の取り組む倫理的な課題について,司祭が懇切丁寧にケースを見て 判断することに,「司牧的配慮」の余地が発揮されると言えるのです.

トリエント公会議 (1545-1563) 後,「赦しの秘跡」が重視され,状況の配慮が より強調されるような雰囲気となったとき,実際の現場に会員を 多数 送り出したイエズス会は,ケースを考慮する「良心例学」(casuistry) という分野を 発展させました.その背景には,アジアなどの宣教地で直面する〈ヨーロッパの原則では対処しきれない〉現実問題に突き当たる体験が頻繁にあった ということがあります.宣教師たちは,これまでの世界(ヨーロッパ カトリック世界)では想定すらされなかった問題に 異教の世界で 気づかされ,その都度,順守すべき「原則」と 可能な限りの「適用」の案出に 苦慮しました.原則はこうだが,例外もあり得る としなければ 根本解決は難しい事例が 多かったためです.

1590年代,日本宣教地で活動していた宣教師たちも,多くの事例で「原則」を押し通すことへの限界を 感じていました.苦慮の末,例外規定を いくつも 作り出しました.例えば,異宗婚(宗教の違う者どうしの婚姻)など考えもしなかったヨーロッパ人は,日本で キリシタンと異教徒の婚姻の成立を 真剣に議論せねばなりませんでした.また,人身売買を絶対の悪と認識していたとしても,戦争で捕虜となって連れ去られそうになったキリシタンを保護するため,金銭で買い取ることだけが唯一残された解決である場合に「例外規定」が考慮されるべき とも考えました.領主に命じられた異教の礼拝にキリシタン家臣が参列することは,命の危険を感じる場合にのみ 偶像崇拝の罪を犯すことにはならないし,春先の領主主催の宴席への参加は 四旬節の節制の義務を妨げるものではないなど,キリシタンたちの現実の問題が 例外の規定によって 乗り越えられていました.

「同性婚」については 今回 初めて,婚姻の原則から「祝福できない」との結論が導き出されたようです.ただし,原則からは受け入れられないとしても,何らかの「適用」の余地を残しているという議論は 今後 起こっても 不思議ではありません.フランシスコ教皇は「同性への愛」について,従来の教会とは異なる理解を示されています(教会内には賛否両論あるのも 事実です).この二つの態度は矛盾していると批判の声を上げる人々に,教会は真摯に向き合うことになるでしょう.具体的な「例外」が存在するとすれば それは何なのか.現状では 誰も その答えを持っていません.

今,「司牧的配慮」ならぬ「教皇の配慮」が働き,現代人の現実が直視され,ないがしろにされる人があってはならない という 教皇の固い決意が 感じられます.少数の人々の要求と悩みに真摯に寄り添う教皇の姿は 明らかです.フランシスコ教皇のリーダーシップに期待がかかるところです.

教会は,今後も,文明社会が発展を続ける限り,それまでには思いもよらなかった多くの倫理的課題を抱え続けることでしょう.その際,「原則」のみを貫くという態度から常に良い結果が生じるとも思えません.むしろ,個々の現実を熟慮し,「例外」の適用も十分考えに入れながら,現場に寄り添う という態度が 忘れられないことが 大切だ と思えます.

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この司祭は,上智大学で教鞭を取ってはいますが,どれほど 彼の言葉が LGBTQ を傷つけ得るか — 彼の教え子のなかにも LGBTQ は 必ず います — を考慮することができないようです.はたして 我々は「例外」なのか ? 彼にとって「原則」を成しているのは いったい 何なのか ? 

彼にとって「原則」を成しているのは,Thomas Aquinas が Aristoteles から カトリック神学へ導入した 形而上学的な「自然法」(lex naturalis) です.

それに対して,カトリック教会の本当の「原則」は,福音記者ヨハネがわたしたちに伝えており,キリスト者なら誰もが知っている Jesus の「愛の命令」です :「あなたたちは 互いに愛し合いなさい — わたしが あなたたちを愛したように」.神の愛は,誰をも排除せず,しかして,誰をも包容する (God is Love excluding nobody but including everybody) — それが カトリック教会の本当の原則です.

その原則にもとづくなら,わたしたち LGBTQ は「例外」なのか ? とんでもない ! 神は わたしたちを 愛してくださっており,わたしたち皆を祝福してくださっており,わたしたちどうしの愛の関係を祝福してくださっています.

にもかかわらず,Papa Francesco は 同性カップルに結婚の秘跡を授けることを認めないとすれば,それは,カトリック教会の schisma[分裂]を防ぐためです — 今,彼が「同性カップルにも結婚の秘跡を授ける」と言えば,うなじかたくななる保守派が分裂さわぎを起こすことは,目に見えています.彼が 今のところ 同性カップルの結婚を認めないのは,保守的な思考の信者たちに対する「司牧的配慮」のゆえにです.

神の愛の恵みが ひとりの例外もなく 皆さんとともにありますように.

どうか 引き続き 御健康に お気をつけください.

LGBTQ みんなのミサ 世話人

2021年3月27日土曜日

パパ フランチェスコは 教理省の「同性カップルの祝福は違法」の判断に対して 批判的?


Papa Francesco all'Angelus del 21 marzo 2021


パパ フランチェスコは 教理省の「同性カップルの祝福は違法」の判断に対して 批判的?



アメリカのイェズス会の週刊誌 America の記者 Gerard O'Connell らが報ずるところによると,「パパ フランチェスコは,2021年03月21日(四旬節 第 5 主日)の 正午の Angelus の際の講話において,同月15日に発表された 教理省の Responsum ad dubium における『同性カップルの祝福は違法』の判断を,暗に批判した」と 幾人かの教皇庁内部の情報源(うち ひとりは 高位聖職者;いずれも 匿名性を条件として 取材に応じた)が 語っている.

まずは,Papa Francesco の〈その日の Angelus の際の〉講話を 実際に 読んでみよう(下線による強調は ルカ小笠原晋也による):

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この 四旬節 第 5 主日,ミサ典礼において告げ知らされた福音は,聖ヨハネが物語っている このエピソードである — それは,キリストの[地上における]生の最後の日々 — 受難の少し前 — に 起きたことである (Jn 12,20-33) : イェスが 過越祭のために イェルサレムにいたとき,幾人かのギリシャ人たち — 彼らは,イェスが為したことに 好奇心を持つ — が,「イェスに 会いたい」という欲望を 表現する.彼らは,使徒フィリポに近づき,彼に言う :「我々は イェスに 会いたい」(v. 21). 「我々は イェスに 会いたい」.この欲望を 記憶にとどめておこう :「我々は イェスに 会いたい」.フィリポは そのことを アンドレに 話し,そして,ふたりは そのことを 主に 言う.それらギリシャ人たちの求めのなかに,我々は 垣間見ることができる — あらゆる場所と あらゆる時代に 多数の男たちと女たちが 教会に向けて また 我々のおのおのに向けて 発した この求めを :「我々は イェスに 会いたい」.

そして,如何に イェスは この求めに 応えたか ? 彼の応え方は,省察を促すものである.彼は こう言う :「ついに到来した,人の子が栄光を授かるべきときが.Amen, amen, わたしは あなたたちに 言う:もし 地に落ちた一粒の麦粒が死なないなら,それは ひとつのままに とどまる.だが,逆に,それが死ぬなら,それは 豊かな実りを 実らす」(vv. 23-24). このイェスのことばは,ギリシャ人たちが発した求めに応えていないかのように見える.だが,実際には,イェスのことばは,はるか彼方へ向かう.イェスは,実際,このことを明かしている:すなわち,イェスは,彼を捜し求めたいと欲する者すべてにとって,豊かな実りをもたらすために死ぬ用意のできた〈隠された〉種[たね]である,ということ.イェスは こう言おうとしているかのようだ:もし あなたたちが わたしを 識りたいならば,もし あなたたちが わたしのことを わかりたいならば,地に落ちて死ぬ麦粒を 見なさい,すなわち,十字架を 見なさい.

我々は,十字架という徴 — 幾世紀かのうちに すぐれてキリスト者たちを象徴するものとなった 十字架という徴 — に 思いを馳せたくなる.多分 キリスト教がほとんど識られていない国や文化に属する者が 今日 なおも「イェスに会いたい」と欲するとき,その者は まず 何を見るか ? その者が出会う〈最もよく見かけられる〉徴は 何か ? 十字架にかけられたイェスの像である.十字架である — 教会のなかで,キリスト者たちの家のなかで,さらには,キリスト者たちが身につけて.重要なのは,このことである:徴は 福音と整合的でなければならない.十字架が表現し得るのは,まさに このことにほかならない:愛,奉仕,留保なく自身を与えること.そうであることによってのみ,十字架は,まことに「いのちの木」— ありあまるいのちの木 — である.

今日も また,多数の人々が,しばしば そうとは言わないままに,暗黙のうちに,「イェスを見たい,イェスに会いたい,イェスを識りたい」と欲している.それゆえ,我々キリスト者には,我々の共同体には,彼れらに応ずるべき 大きな責任がある,ということが 理解される.我々も また 応えねばならない — 奉仕のなかで自身を与える生について,神のありかた — 身近さ,共感,優しさ — を引き受け,奉仕のなかで自身を与える生について 証しすることによって.かかわっているのは,このことである:愛の麦粒を播くこと — ただし,飛び去ってしまう言葉によってではなく,しかして,単純で 勇気のある 具体例によって;理論的な断罪 [ condanne teoriche ] によってではなく,しかして,愛の所作によって.そのとき,主は,恵みによって,我々を実らせてくれる — たとえ 地が不毛になっているときでさえ — 無理解と 困難と 迫害のせいで あるいは 聖職者たちによる律法主義や道徳主義の主張 [ pretese di legalismi o moralismi clericali ] のせいで.それこそが 不毛な地である [ questo è terreno arido ]. しかし,まさに そのとき,試練において,孤独のなかで,一粒の麦粒は死ぬが,いのちは 芽生える — 実りを生み出すために.その実りは,時が到来したとき,熟しているだろう.この〈死と いのちとの〉混ざり合いのなかで,我々は,喜びを 経験することができ,まことの〈愛の〉豊饒性を 経験することができる.愛は,常に 自身を与える — わたしは 繰り返し 言う — 神のありかたにおいて,すなわち,身近さと 共感と 優しさにおいて.

我々が イェスに追い従うことができるよう,奉仕の道を 力強く 喜びに満ちて 歩んでゆくことができるよう,おとめマリアが 我々を 助けてくださいますように — キリストの愛が あらゆる我々の態度のなかで 輝き,そして,常に ますます キリストの愛が 我々が日常生活を生きるしかたとなりますように.

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下線で強調された表現が「同性カップルを祝福してはならない」と判断した 教理省の Responsum ad dubium を暗示しており,そして,それによって Papa Francesco が 教理省の判断を批判している ということは,この講話が 教理省のテクストの発表の 6 日後に行われたという文脈を考慮するなら,このうえなく明白である.

では,なぜ Papa Francesco は 問題の Responsum ad dubium の発表に「同意」したのか ?

まず,Gerard O'Connell の この指摘に 注目しよう.問題のテクストは,次の一文によって しめくくられている:

Il Sommo Pontefice Francesco, nel corso di un’Udienza concessa al sottoscritto Segretario di questa Congregazione, è stato informato e ha dato il suo assenso alla pubblicazione del suddetto Responsum ad dubium, con annessa Nota esplicativa.

教皇フランチェスコは,下記の教理省秘書官 [ Giacomo Morandi ] に与えられた接見の際に,上記の Responsum ad dubium および 付属の注釈記事について 報告を受け,その公表に同意を与えた.

そこに含まれている è stato informato e ha dato il suo assenso という表現に注目するよう Gerard O'Connell は 我々を促している.というのも,その表現は,教皇庁の公式文書において 通常 用いられている表現とは 微妙に異なるからである.たとえば,同様の 教皇庁の Responsum ad dubium の ひとつ Risposte a quesiti proposti sulla validità del Battesimo conferito con la formula « Noi ti battezziamo nel nome del Padre e del Figlio e dello Spirito Santo »[「わたしたち(教会共同体)は あなたに 父と子と聖霊の名において 洗礼を授ける」という式文によって授けられた洗礼の有効性に関して措定された問いに対する回答]は,こう締めくくられている:

Il Sommo Pontefice Francesco, nel corso dell’Udienza concessa al sottoscritto Cardinale Prefetto, in data 8 giugno 2020, ha approvato queste Risposte e ne ha ordinato la pubblicazione.

教皇フランチェスコは,2020年06月08日に 下記の教理省長官枢機卿 [ Luis Ladaria ] に与えられた接見の際に,この回答を承認し,その公表を命じた.

つまり,通常 用いられる〈教皇の権威の重みを感じさせる〉表現(ある文書を承認し,その公表を命ずる)に比べると,問題の Responsum ad dubium で用いられた表現(ある文章について 報告を受け,その公表に同意を与える)は,明らかに「軽い」のである.

問題の Responsum ad dubium に関して接見が行われた日付は特定されていないが,Gerard O'Connell は,それが 教皇のイラク訪問(2021年 3月 5 - 8 日)の少し前のことであり,そのとき Papa Francesco は その訪問の準備のために 非常に多忙であったはずであることを,指摘している.つまり,いわば どさくさにまぎれて,教理省の秘書官(教理省長官自身ではなく!)が 教皇から 文書の公表の「同意」を かすめ取った,というわけである.

だが,我々は,そのように 教理省を「卑怯者」にしなくても よいかもしれない — Papa Francesco の 教皇としての「支配」のスタイルを考慮するならば.彼の「支配」のスタイルは,いわゆる上意下達のそれではない.つまり,自身の意見や見解を「最上位者の〈権威ある〉教え」として あらゆる者に押しつける ということを,彼は しない.彼は,自身とは意見や考えの異なる者たちを 批判はしても,決して 排除はしない — カトリック教会の 大きな schisma[分裂]を 誘発しないために.

我々は,彼のそのようなスタイルを,特に カトリック教会のなかの 女性 や LGBTQ に関する 彼の考えや決定に うかがうことができる.もし仮に 今 Papa Francesco が いっきに 女性の司祭叙階を認めたり,同性婚を結婚の秘跡と認めたりすれば,それに強行に反対する保守派が分裂さわぎを起こすだろうことは,目に見えている.Papa Francesco は,そのような事態が生ずるのを 慎重に避けているのだ,と 我々は考えることができる.

おそらく festina lente[ゆっくり急げ]は Papa Francesco のモットーのひとつだろう.カトリック教会の変化は ゆっくりとしか進行しない.第 2 ヴァチカン公会議 (1962-1965) の後,改革に対する揺り戻しが 聖 ヨハネパウロ II 世 と ベネディクト XVI 世のもとで 生じた.教会が 全体として 再び 第 2 ヴァチカン公会議の精神に立ち戻るためには まだまだ時間がかかる — そう Papa Francesco は 考えているだろう. 

最後に,参考までに,Papa Francesco の司牧スタイルが如何なるものであるかを 我々に よく わからせてくれる 彼の言葉を,この 3月23日に公表された 彼の文書 — レデンプトール会 (Congregatio Sanctissimi Redemptoris) の 創立者であり,傑出した道徳神学者として評価されている sant’Alfonso Maria de’ Liguori[聖 アルフォンソ マリア デ リグォーリ](1696-1787) が教会博士とされたことの 150 周年の日に レデンプトール会の総長 Michael Brehl 神父に宛てられた Papa Francesco の メッセージ  — から 引用して 紹介しよう.なぜなら,我々は,それらの言葉をも 彼の〈教理省に対する〉批判 と 取ることができるであろうから(下線による強調は ルカ小笠原晋也による):

Ogni azione pastorale ha la sua radice nell’incontro salvifico con il Dio della vita, nasce dall’ascolto della vita e si nutre di una riflessione teologica che sappia farsi carico delle domande delle persone per indicare strade percorribili. Sull’esempio di Alfonso, invito i teologi moralisti, i missionari ed i confessori ad entrare in rapporto vivo con i membri popolo di Dio, e a guardare all’esistenza partendo dalla loro angolazione, per comprendere le difficoltà reali che incontrano ed aiutare a guarire le ferite, perché solo la vera fraternità « sa guardare alla grandezza sacra del prossimo, che sa scoprire Dio in ogni essere umano, che sa sopportare le molestie del vivere insieme aggrappandosi all’amore di Dio, che sa aprire il cuore all’amore divino per cercare la felicità degli altri come la cerca il loro Padre buono » (Evangelii gaudium, n.92).

あらゆる司牧活動は,その根を,いのちの神との救済的な出会いのなかに 有しており,いのちに耳を傾けることから 生れ,神学的省察から — 人々が問う問いを,彼れらが歩み得る道を彼れらに示すために,みづから担うことのできる 神学的省察から — 栄養を 受ける.アルフォンソにならって,わたしは,道徳神学者たちと 宣教師たちと 聴聞司祭たちを このことへ いざなう:すなわち,神の民のメンバーたちとの生きた関係のなかに入り彼れらの視点から出発して 人生を まなざしなさい — 彼れらが遭遇する実際の困難を理解するために,そして,彼れらの傷を癒すことを助けるために.なぜなら,まことの兄弟愛のみが「隣人の聖なる偉大さを見ることが でき,あらゆる人間のなかに神を見出すことが でき,生の苦悩を ともに 神の愛にすがりつつ 耐えることが でき,他者たちの幸福を〈善き神がそれを探し求めるのと同様に〉探し求めるために 神の愛に対して心を開くことが できる」(福音の喜び n.92)からである.

Fedele al Vangelo, l’insegnamento morale cristiano chiamato ad annunciare, approfondire ed insegnare, sia sempre una risposta « al Dio che ci ama e che ci salva, riconoscendolo negli altri e uscendo da sé stessi per cercare il bene di tutti » (Evangelii gaudium, n.39). La teologia morale non può riflettere solo sulla formulazione dei principi, delle norme, ma occorre che si faccia carico propositivamente della realtà che supera qualsiasi idea (cf. ibid., n.231). Questa è una priorità (cf. ibid., nn.34-39) perché la sola conoscenza dei principi teoretici, come ci ricorda lo stesso sant’Alfonso, non basta per accompagnare e sostenere le coscienze nel discernimento del bene da compiere. È necessario che la conoscenza diventi pratica mediante l’ascolto e l’accoglienza degli ultimi, dei fragili e di chi è considerato scarto dalla società.

福音に忠実であるならば,キリスト教 道徳は,〈告げ知らせ,深め,教えるよう要請されたとき〉常に 神 — 我々を愛してくださり,我々を救済してくださる 神 — に対する応答であらねばならない —「他者たちのなかに神を認めつつ,かつ,すべての人々の善を探し求めるために 自己自身から脱却しつつ」(福音の喜び n.39).道徳神学は,原則や規範の公式化についてのみ省察していればよいのではなく,しかして,あらゆる観念を超えた実在性をも 主題的に担うことが 必要である(同書 n.231 参照).それは,優先されるべき課題である(同書 nn.34-39)— なぜなら,聖アルフォンソ自身も指摘しているように,神学的な原則を識っているだけでは,為し遂げるべき善を識別することにおいて 人々の意識に寄り添い かつ 人々の意識を支えるためには,十分ではないからだ.このことが必要である:すなわち,識知が実践となる —[何らかの社会的序列において]最後尾に位置づけられた人々,弱い人々,社会から打ち捨てられていると見なされた人々の声に耳を傾け,彼れらを迎え入れることによって — ことが,必要である

Sull’esempio di sant’Alfonso Maria de’ Liguori, rinnovatore della teologia morale, si rende auspicabile e dunque necessario affiancare, accompagnare e sostenere i più destituiti di aiuti spirituali nel cammino verso la redenzione. La radicalità evangelica non va contrapposta alla debolezza dell’uomo. È necessario sempre trovare la strada che non allontani, ma avvicini i cuori a Dio, così come fece Alfonso con il suo insegnamento spirituale e morale. Tutto ciò perché « l’immensa maggioranza dei poveri possiede una speciale apertura alla fede; hanno bisogno di Dio e non possiamo tralasciare di offrire loro la sua amicizia, la sua benedizione, la sua Parola, la celebrazione dei Sacramenti e la proposta di un cammino di crescita e di maturazione nella fede. L’opzione preferenziale per i poveri deve tradursi principalmente in un’attenzione religiosa privilegiata e prioritaria » (Evangelii gaudium, n.200).

道徳神学の改革者である 聖 アルフォンソ マリア デ リグォーリにならって,こうすること — 救済への道において 最も〈精神的な助けを〉欠いている人々の隣に立ち,彼れらに寄り添い,彼れらを支えること — が 望ましく かつ ゆえに 必要となる.福音がラディカルであることは,人間が弱いことに 対立しはしない.このことが 常に 必要である:すなわち,人々の心を 神から遠ざけるのではなく 神に近づける道を みつけること — アルフォンソが 彼の 精神的な教え と 道徳的な教えとによって そうしたように.以上のこと すべては このことのゆえにである:すなわち「貧しい人々の大多数は,信仰に対して 特別に開かれてある態度を有している彼れらは 神を必要としており,我々は 彼れらに これらのことを — 神の友情を,神の祝福を,神のことばを,秘跡の祝いを,信仰における成長と成熟の道を提示することを — 提供することを怠ることは できない.貧しい人々に対する優先的な選択は,おもに,特権的かつ優先的な宗教的配慮によって 表現されねばならない」(福音の喜び n.200).

Vi invito, così come ha fatto sant’Alfonso, ad andare incontro ai fratelli e alle sorelle fragili della nostra società. Ciò comporta lo sviluppo di una riflessione teologico morale ed un’azione pastorale, capace di impegnarsi per il bene comune che ha la sua radice nell’annuncio del kerygma, che ha una parola decisa in difesa della vita, verso il creato e la fratellanza.

わたし [ Papa Francesco ] は,聖アルフォンソがそうしたように,あなたたちを いざなう — 我々の社会の〈弱い〉兄弟姉妹たちに会いにゆくことへ.そのことは,共通善のために自己参与することができる〈道徳神学的省察と 司牧的行動との〉展開を 包含する — その展開は,その根を kerygma[使徒たちの宣教]に有し,被造物と兄弟たちに向けられた〈いのちを護るために決定的な〉ことばを有している.

2021年3月21日日曜日

Franz-Josef Overbeck エッセン司教は 教理省による〈同性カップルに対する祝福の〉禁止を 批判する:自然法にもとづく教会の教えは もはや受容され得ず,逆に,カトリック教義の信頼性をますます失わせるだけだ


Essen 司教 Mgr Franz-Josef Overbeck

Franz-Josef Overbeck エッセン司教は 教理省による〈同性カップルに対する祝福の〉禁止を 批判する:自然法にもとづく教会の教えは もはや受容され得ず,逆に,カトリック教義の信頼性をますます失わせるだけだ


Katholisch.de は,ドイツの Franz-Josef Overbeck エッセン司教が,彼の司教区の信者たちに宛てた 2021年03月19日付の書簡を発表したことを 報じている.その書簡において,彼は,同月 15日に公表された 教皇庁 教理省の「同性カップルの祝福に関する疑問への回答」— そこにおいて 教理省は 同性カップルの祝福を違法と断定している — を 批判している.彼の批判は,明示的に「自然法」(lex naturalis) に対する批判に基づいており,そのことにおいて,今回の教理省の Responsum ad dubium に対する 数多くの批判のなかでも 特に注目するに値する.そこで,以下に,彼の書簡の全文の邦訳を提示する.

なお,我々は,Franz-Josef Overbeck 司教の〈homosexual である信者に対する司牧に関する〉所論を 以前 既に紹介している.今回の書簡における彼の所論は,以前の所論を ほぼ そのまま 踏襲している.我々の記事は 彼に関する簡単な紹介も含んでいるので,それも 合わせて 参照していただきたい.

また,「自然法」(lex naturalis) という 道徳神学の概念が 如何なるものであるのかについては,我々の「カトリック教義における 自然法の神話と 男女両性の相互補完性の神話」を 是非 参照していただきたい.

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2021年03月19日

Essen 司教区の小教区へ

敬愛する司祭たち
敬愛する兄弟姉妹たち

ヴァチカンの教理省の〈同性パートナーシップの祝福の問いに関する〉文書は,この数日間,カトリック教会内外の人々の心情を刺激している.わたしのところには,多数の反応が届いている — とても多数の〈自己参与する〉信者たち および 特に 牧者たち から.彼れらは,この教理省文書において表現されている〈homosexuality の〉評価について 憤慨している.homosexual な指向を有する人々は,侮辱され 傷つけられた と感じている.非常に多くの反応 — わたしの司教区における,ドイツにおける,そして,より広範囲における — は,わたしの心を動かす.

このことは,あまりに明白となっている:すなわち,自然法 [ Naturrecht, lex naturalis ] にもとづく〈homosexuality に関する〉〈従来の 教会の教えの〉知覚と評価を 単に繰り返すことは,もはや 理解されも 受容されも しない.逆に,カトリックの性道徳そのものの〈ドラマティックな〉〈信頼性と もっともらしさの〉喪失が〈教会と最も密接な結びつきを有している〉信者たちの間で 加速化している.教会共同体と また まさに 多数の牧者たちとから 発せられた〈多くの 公開の〉徴候は,この数日間,教会の教えの見解の〈公開の〉拒絶を 表現へ もたらしており,それらの徴候を無視することは もはや 許されない.

それゆえ,教会の教えは,人間の sexuality について より広げられた見方をするよう 緊急に 要請されている.最近の数十年間の〈多くの人間科学の領域における〉学問的な進歩と 認識の進歩,および,なかんづく,日々の司牧から得られる経験は,本質的に〈従来よりも〉より深く 教会の教えのなかへ 統合されねばならない.ここにおいて かかわっているのは — 聖書の証しと 教会の教えと 伝統に関する あらゆる価値評価において — 時代の徴を翻訳すること である.それら〈時代の〉徴は,キリスト教の始まり以来,伝統全体を 生きた出来事として 把握するこを 助けてきた.単純な 一義的な 無時間的な 答えは,人間の生と あらゆる認識の歴史性とに対して,ほとんど適合的ではない.それゆえ,我々は,教会における原理主義的な誘惑に 屈してはならない.加えて,わたしは,明示的に このことを思い起こさせる:すなわち,性的暴力に関する科学的な研究にもとづく 重要な指摘は,このことへ注意を向けるよう 強く促している:すなわち,人間の sexuality に関する偏狭な視野も また 我々の教会における おぞましい[性的]虐待の歴史の培地の一部を成している,ということ.

わたしは,我々の教皇 フランチェスコの 勧告 — それを 彼は 常に くりかえし 強調している — を 高く評価している:彼は〈生の あらゆる問いにおいて 思慮深く考量し さまざまな視野を取り はやまった判断や評価を放棄する〉識別の技法を 我々に勧めている.ここで 根本的に取られている 態度は,このことを 考慮に入れている:すなわち,神の現在は,生の〈あらゆる〉時と状況 — そこにおいて まことに善きものと まことに人間的であるものが 展開されている — において,自身を示現している.そのことは,まさに 特に 人々が 相互に ともに 参与する〈敬意と愛に満ちた〉関係すべてにおいて 成起している.

それゆえ,我々の教会における〈homosexuality の〉〈真摯な かつ きわめて深く価値評価する〉新たな評価が 必要である — 多くの〈homosexual な指向を有する〉人々にとって,過去および現在における多大な苦悩の歴史からの〈遅まきながらの〉解放が成起し得るように.彼れらのうち 非常に多くが — 彼れらの家族や親族とともに — 過去の負傷の〈無数の かつ しばしば ほとんど瘢痕化していない〉創傷 — それらは治癒を必要としている — を 身に負っている.この[homosexuality の新たな評価の]歩みは,いまだに踏み出されていない.それは,同性どうしの関係と生活共同体の〈教会的な〉位置づけに関する敏感な問いからは独立したしかたで 歩まれるべきである.ヴァチカン 公会議 II は,そのようなやり方について,こう言っている :「さらに,辛抱づよさと謙虚さを以て 事物の秘密を探求しようと努力する者は,神の手によって導かれているかのごとくである — たとえ そう意識してはいなくとも.神は,あらゆる存在を支えており,それらを それらがそうであるところのものに しているからである」(Gaudium et spes, 36).

homosexual であるキリスト者たちは,正当にも,自身の生を imitatio Christi として理解している — 彼れらが 信頼に満ちた愛において 拘束力をともなって 互いに参与する関係においても.ゆえに,その絆を祝福してほしいという願望も 理解可能である — なぜなら,彼れらは,自由に かつ 責任意識を以て,教会のなかで 自身の〈洗礼という〉召命の形に応えたいと欲しているのだから.この可能性は,上述の教理省の文書においては,今日の事態の進展の見地において,厳然と拒まれている.だが,現在の 多くの 神学的 および 人間科学的 認識,ならびに,また,信者たちの信仰感覚 — それは,多数の信者たちにおいて,まさに 今日 明瞭に 表現に もたらされている — は,ほかの方向を指さしている.それによって,彼れらは,人間を その人 全体として 尊重したい と欲しており,そして,その際,その人の sexuality を無視したくはない と思っている.まさに〈人間が 自身の sexuality を 責任感を以て かつ 関係にある他者の尊厳の《無条件的な》尊重のもとで 生きるときに〉はじめて,sexuality は,分かちがたく その人の identity に 属している.

この連関において,我々の 今日の〈緊張を刻印された〉状況は,常に 繰り返し 司牧において 適切な提案と概念 — homosexual であるキリスト者たちが(なぜなら,彼れらは 洗礼を授かった者として 我々の教会の一部であるから)我々の教会との絆を保ち得るよう 助ける 提案と概念 — を探し求めるべきだ という 課題と奨励として,捉えられる.まさに,祝福の儀式 — それは,この文脈において,かくも重要な役割を果たす — は,当該の人々に司牧的に寄り添うことから発生した.されば,彼れらの生の善について 祝福 — 結婚に類似の祝福ではなく,しかして,寄り添うことの徴である祝福 — を唱えることは,このことを示すべきである:すなわち,教会の名において,神は,彼れらの関係のなかに 現在している,ということ.我々は,信仰に生きる人間たちにおける この「壊れやすい磁器」を 破壊してはならず,しかして,それを 彼れらの〈祝福に満ちた〉関係において 強めてゆかねばならない.

心からの挨拶と 祝福の願いとを 以て

Franz-Josef Overbeck

2021年3月18日木曜日

教皇庁 教理省の 文書「同性カップルに対する祝福に関する疑問への回答」全文の邦訳

教皇庁 教理省 長官 Luis Ladaria Ferrer 枢機卿

以下に,2021年03月15日に発表された 教皇庁 教理省の「同性カップルに対する祝福に関する疑問への回答」(文書の作成の日付は 2021年02月22日)— そこにおいて,教理省は,同性カップルへの祝福を 違法 と 宣言している — の全文 および それに付帯する「注釈記事」の全文 の〈ルカ 小笠原 晋也 による〉邦訳を 提示する.

あらかじめ,訳語について,若干の注釈を付しておく.

イタリア語テクストにおいて用いられている unione(英語やフランス語では union)という語は,このテクストにおいては 明らかに 性的関係を含意している.しかし,unione や union は,あらゆる種類の「ひとつになること,ひとつになったもの」および「ひとつになることを可能にする 結びつき,結合」を指す語であり,そのものとしては,むしろ,性的な意味合いを有してはいない.にもかかわらず 教皇庁が この文書において unione という語を 性的関係を含意するものとして 用いているとすれば,それは,2016年に,同性婚の法制化を避けるために,代わりに法制化された unione civile (union civile, civil union) が 念頭に置かれているからであろう(unione civile の制度は,同性どうしであれ,異性どうしであれ,あるカップルの〈従来「事実婚」と呼ばれていた〉関係に,ある種の法的な規定と是認と保護を与えるものである).ともあれ,日本語に翻訳しがたい この unione という語を ここでは「関係」と訳しておく.読者には,このテクストにおいては その語が性的関係を含意していることを,承知しておいていただきたい.

また,この教理省の文書において注目すべき もうひとつの単語は,動詞 ordinare(フランス語では ordonner, 英語では order)と 名詞 ordine(フランス語では ordre, 英語では order)である.周知のように,その名詞は,その最も根本的な意味においては,ある複雑な 混乱した 無定形な 状態に対して もたらされるべき(あるいは もたらされた)何らかの構造 — 順序,秩序,ことわり — であり,そして,そこから,そのような構造をもたらすことを命ずる「命令」である.動詞は,そのような構造をもたらすことであり,そのために「命令する」ことである.ここでは,ordinare は「定める」,ordine は「定め」と訳されている.念頭に置かれているのは,明らかに,形而上学的(目的論的)な lex naturalis[自然法]と それが包含する 先験的な「秩序」である.そのような形而上学的な残存物をこそ,今,我々は,我々の思考の あらゆる領域と あらゆる次元において 最も批判せねばならず,最も除去せねばならない.

最後に,読者が違和感を覚えるだろう「客体的に」(oggettivamente, objectivement, objectively) という語は,ここでは,「そのものとして,そのものにおいて」と読みかえられ得る表現である.


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同性のふたりの関係の祝福に関する疑問に対する 教理省の回答

Responsum della Congregazione per la Dottrina della Fede ad un dubium circa la benedizione delle unioni di persone dello stesso sesso


教会は 同性のふたりの関係に祝福を与える力を 有しているか?という問いが措定されたことに対して
Al quesito proposto : La Chiesa dispone del potere di impartire la benedizione a unioni di persone dello stesso sesso?

答えは 否 である.
Si risponde : Negativamente


解説

今日,教会のなかの幾つかの場所において,同性のふたりの関係に対する祝福の計画と提案が 広まっている.そのような計画が homosexual である人々を[教会に]迎え入れ 彼れらに寄り添おうとする 真摯な意志によって 動機づけられていることは 希ではない.実際,彼れらに対しては,信仰における成長の道のりが提案されている —「homosexual の性向を顕わす人々が〈彼れらの生における神の意志を 理解し 十全に実現するために 必要な〉助けから 受益することができるように」[1].

その道のりにおいて,神のことばを聴くこと,祈ること,教会の典礼行事に与ること,愛のわざを行うことは,重要な役割を果たし得る — 彼れらが 自身の歴史を読み 自由と責任を以て 自身の洗礼の呼びかけを受け入れることに 自己参与することを,支えることによって.なぜなら,「神は あらゆる人を愛しており,教会も 同じく あらゆる人を愛している」[2] — 不当な差別を拒みつつ — からである.

教会の典礼行事のなかで,特別な重要性が 準秘跡 [ i sacramentali ] に 帰せられている.それらは「聖なる徴であり,それらによって,ある種の〈秘跡の〉模倣にしたがって,教会のとりなしのおかげで,特に spirituale な効果が意義され,かつ 得られる.準秘跡によって,人々は 秘跡の主要な効果を受けるよう 用意ができるのであり,人生のさまざまな状況が 聖なるものとされる」[3]. カトリック教会のカテキズムは,ついで,より正確に こう述べている:「準秘跡は,Spirito Santo の恵みを 秘跡 [ sacramenti ] と同様に 授けるものではないが,しかして,教会の祈りによって,準秘跡は,恵みを受ける準備をさせ,そのために協働する用意をさせる」(n. 1670).

祝福は,準秘跡の類に属する.祝福によって,教会は「神をたたえるよう 人々に呼びかけ,神の庇護を求めるよう 人々をいざない,自身の生の聖性を以て 神の慈しみに値するものとなるよう 人々に奨励する」[4]. さらに,「祝福は,ある意味で 秘跡を模倣して もうけられたものであり,常に かつ おもに spirituale な効果 — そのような効果を 祝福は 教会の願いによって 得る — にかかわるものである」[5].

したがって,準秘跡の性質と整合的であるために,祝福が ある人間関係に対して祈られるときには,祝福に与る者たちの正しい意向に加えて,次のことが 必要である:すなわち,祝福の対象となるものが,客体的に かつ 実定的に〈恵みを受け 恵みを表現するよう〉定められてある [ oggettivamente e positivamente ordinato a ricevere e ad esprimere la grazia ] — 被造界のなかに記入されており かつ 主キリストによって十全に明かされた〈神の〉計らいとの関数において — こと.したがって,ただ,そのものとして,それらの〈神の〉計らいに奉仕するよう定められてある現実のみ [ solo quelle realtà che sono di per sé ordinate a servire quei disegni ] が,教会によって与えられる祝福の本質と 両立可能である.

以上の理由のゆえに,同性のふたりの間の関係の場合のように,婚外の(すなわち,そのものにおいて 生命の伝達[注:生殖のこと]に開かれている〈ひとりの男と ひとりの女との〉解消され得ない関係 以外の)性的行為を包含する 関係 ないし パートナーシップ — たとえ 安定的なものであっても — に対して 祝福を与えることは,適法ではない [6]. そのような[そのものにおいて 生殖の可能性に開かれてはおらず,また,男女間の解消され得ない関係ではないような]関係のなかに 肯定的な要素 — それ自体としては 評価され 価値づけられるべき 要素 — が存在するとしても,そのことは,しかしながら,その関係を正当化し,かくして 教会による祝福を正当に受け得るものにするような性質のものでは ない — なぜなら,そのような要素は,創造主が計らうところへと定められてはいない関係 [ una unione non ordinata al disegno del Creatore ] に 奉仕しているからである.

さらに,人に対する祝福は 秘跡と連関しているのであれば,homosexual な関係の祝福は 適法とは見なされ得ない — なぜなら,同性どうしの関係の祝福は,いわば,結婚の秘跡において結ばれる男女について祈られる 結婚の祝福 [7] の 模倣 または それとの類比の示唆となるであろうが,しかるに,「homosexual な関係と 結婚および家族に関する神の計らいとを 同化するためには,または,両者の間に 類比を — たとえ 縁遠い類比であれ — 成立させるためには,如何なる根拠もない」[8] からである.

よって,同性のふたりの間の関係を祝福することは違法であると宣言することは,不当な差別ではなく,不当な差別となることを意図してもおらず,しかして,むしろ,典礼儀式の真理 および 何が〈教会が理解しているようなものとしての〉準秘跡の本質に深く対応しているかの真理を 想起させることを 意図しているのである.

キリスト教共同体と牧者たちは,homosexual な性向を有する人々を 敬意と 繊細な心遣いとを以て 迎え入れるよう 要請されている.そして,キリスト教共同体と牧者たちは,彼れらに 福音の豊かさを 告げ知らせるための〈教会の教えに合致した〉最も適切な手段を見出すことが できるだろう.同時に,homosexual な性向を有する人々の側も 教会が彼らの誠実な隣人である — 教会は,彼れらのために祈り,彼れらに寄り添い,彼れらのキリスト教信仰の歩みを分かち合う [9] — ことを 認め,真摯な受容性を以て 教会の教えを 迎え入れることを,教会は 願っている.

提起された dubium に対する この回答は,神の〈啓示された〉計らい — 教会の教えによって提示されているような 神の計らい — に対して忠実な態度において 生きようとする意志を表明している〈homosexual な性向を有する〉個個人に対して 祝福が授けられることを,排除してはいない [10]. しかして,この回答は,彼れらの関係を是認することへ向かうことになる祝福を 如何なる形におけるものであれ 違法 と 宣言する.実際,そのような祝福は,〈上に言及した意味において,ある個人を 神による護りと助けに委ねる意図を〉表明するものではなく,しかして,〈神が計らうところ — それは 啓示されている — へと 客体的に定められている [ oggettivamente ordinate ai disegni rivelati di Dio ] とは認められ得ない《生の》選択と実践を 是認し 奨励する 意図を〉表明するものとなってしまうだろう [11].

それと同時に,教会は,このことを想起させる:すなわち,神 自身 は,この世において巡礼にある〈神の〉子どもたちを おのおの 祝福してやまない — なぜなら,神にとっては,「我々は,我々が犯し得る罪すべてよりも よりだいじである」[12] からである.だが,神は,罪を祝福しないし,罪を祝福することもできない.神が 罪深い人間を 祝福するするのは,人間が〈人間は 神の《愛の》計らいに属している ということを〉認められるようになるためであり,かつ,人間が〈自身が神によって変えられることを〉受け容れられるようになるためである.なぜなら,神は,我々を 我々があるがままに 受容するが,しかし,決して 我々を 我々があるがままに 放置してはおかない」[13] からである.

以上に述べた理由によって,教会は,上に示した意味において 同性のふたりの関係を祝福する力を 有してはいないし,有することもできない.


教皇フランチェスコは,教理省の秘書官に与えた接見のなかで,上記の Responsum ad dubium および 付属の解説 について 報告を受け,それらを公表することに 同意した.


ローマにおいて,聖ペトロの使徒座の祝日,2021年02月22日に,教理省の座から 与えた.

教理省 長官 枢機卿 Luis F. Ladaria, SJ

教理省 秘書官 Cerveteri 名義大司教 Giacomo Morandi


[1] フランチェスコ (2016), 使徒的勧告『愛の喜び』n.250.

[2] 司教シノドス (2018), 第 15 回 通常総会 最終文書.

[3] 第 II ヴァチカン公会議,典礼憲章 Sacrosanctum Concilium, n.60.

[4] Rituale Romanum ex Decreto Sacrosancti Oecumenici Concilii Vaticani II instauratum auctoritate Ioannis Pauli PP. II promulgatum, De benedictionibus, Praenotanda Generalia, n. 9.

[5] Ibidem, n. 10.

[6] カトリック教会のカテキズム,n.2357.

[7] 実際,結婚の祝福は,創造の物語へ 回送する — そこにおいて,男[アダム]と 女[エヴァ]に対する 神の祝福は,彼れらの多産な関係 (cf. Gn 1,28) および 彼れらの相補性 (cf. Gn 2,18-24) に関連づけられている.

[8] フランチェスコ (2016), 使徒的勧告『愛の喜び』n.251.

[9] cf. 教理省 (1986), カトリック教会の司教たちへの書簡 Homosexualitatis problema, n.15.

[10] 実際,De benedictionibus は,そのために 主の祝福を 祈るべきところの 諸状況の 膨大なリストを 提示している.

[11] cf. 教理省 (1986), カトリック教会の司教たちへの書簡 Homosexualitatis problema, n.7.

[12] フランチェスコ,2020年12月02日の一般接見,祈りに関する教理問答:祝福.

[13] Ibidem.



同性のふたりの関係の祝福に関する疑問に対する 教理省の回答
Responsum della Congregazione per la Dottrina della Fede ad un dubium circa la benedizione delle unioni di persone dello stesso sesso


Responsum ad dubium に関する注釈記事
Articolo di commento del Responsum ad dubium


このたび 教理省が発表した文書は,ひとつの疑問 — 古典的な用語[ラテン語]で言うなら dubium[疑い]— に対する回答 [ responsum ] である.その疑問は,通例 そうであるように,論争の的となっている問いについて指南的な説明を必要とする牧者や信者によって 提起された.キリスト者の生にとって決定的な領域における問題的な発言や実践によって惹起された不確実性に対して,肯定または否定により回答することが 要請され,そして,次いで,選び取られた立場を支える議論を提示することが 要請される.教理省の発言の目的は,このことである:福音の要請に よりよく応え得るよう 普遍教会を支えること;論争を解決すること;そして,聖なる〈神の〉民のなかに健全な交わりを促進すること.

論争の対象となった問いは,「homosexual である人々を[教会に]迎え入れ 彼れらに寄り添おうとする 真摯な意志」という枠のなかで 措定されている.「彼れらに対しては,信仰における成長の道のりが 提案されている」— それは,教皇フランチェスコが 家族に関して 二度にわたり 行われた 司教シノドスの結論において 示しているように,「homosexual な性向を現わしている人々が〈彼れらの生において 神の意志を 十全に 理解し そして 実現するために 必要な〉手助けから 受益することが できるように」(Amoris laetitia, n.250) するためである.かかわっているのは,このことに関して提起された 司牧的な計画と提案を 適切な識別を以て 評価するように という 招きである.それらの計画と提案のなかには,また,同性のふたりの関係に対して祝福を与えることも 含まれている.かくして,問われているのは このことである:教会は 同性のふたりの関係に祝福を与える力を 有しているか ? それが,quæsitum に含まれた命題である.

回答 — Responsum ad dubium — は,添付された〈2021年02月22日付の 教理省の〉解説 — その公表に パパ フランチェスコは みづから 同意を与えた — において 説明され,理由づけされている.

解説は,「人」と「関係」とを区別することに 焦点を当てている.その区別は,かくも 根本的であり,決定的であるので,同性どうしの関係に対する祝福に関する否定的な判断は homosexual である人々に関する判断を包含するものではない.

なによりもまず,人である.教理省により作成された Considerazioni circa i progetti di riconoscimento legale delle unioni tra persone omosessuali[homosexual である人々の間の関係の法的な是認の計画に関する考察](2003) の n. 4 および 「カトリック教会のカテキズム」の n. 2358 において述べられていることは,後戻り不可能な点であり,今回の問題についても妥当している :「教会の教えによれば,homosexual な性向を有する人々は,敬意と 共感と 繊細な心遣いとを以て[教会共同体に]迎え入れられるべきである.彼れらに対しては,あらゆる〈不当な差別の〉しるしを示さないようにすべきである」.この教えは,今回の解説においても想起され,繰り返されている.

だが,同性の人どうしの関係に関しては,Responsum ad dubium は「彼れらの関係を是認することへ向かうことになる祝福を 如何なる形におけるものであれ 違法 と 宣言する」.その違法性を,解説は,三つの次元の理由 — それらは 相互に関連しあっている — に関連づけている.

第一の理由は,祝福の真理と価値によって 与えられる.祝福は,準秘跡 [ i sacramentali ] の類に 属する.準秘跡は「教会の典礼行為」であり,それは〈それが 意義し 生成するものと〉生命的な協和音を成すことを 要請する.そのような準秘跡の意義と成果を,解説は,手短に説明している.したがって,ひとつの人間関係に対する祝福は,〈その人間関係が《祝福によって それに対して 言われ 与えられる 善を,授かり 表現するよう》定められている [ essa sia ordinata ] ことを〉要請する.

次に,第二の理由:[誰か あるいは 何かを]賜を授かりあたうものにする 定め [ ordine ] は,「被造界のなかに書き込まれており かつ 主キリストによって十全に明かされた〈神の〉計らい」によって 与えられる.そのような〈神の〉計らいに,「婚外の(すなわち,そのものにおいて 生命の伝達に開かれている〈ひとりの男と ひとりの女との〉解消され得ない関係 以外の)性的行為を包含する 関係 ないし パートナーシップ — たとえ 安定的なものであっても —」は,応じていない.そのような関係に,同性のふたりの間の関係は 該当する.しかしながら,かかわっているのは,それだけではない.同性どうしの関係だけが問題となるのではなく,しかして,あらゆる〈婚外の性的行為を包含する〉関係も また 問題である.そのような行為は,絶えざる〈教会の〉教導権が教えるところによれば,道徳的観点から 違法である.

ということは,教会は そのような関係に祝福を与える力を 有してはいない,ということである.なぜなら,教会は,神の計らいを恣意的に扱うことはできないからである.もし仮に教会が神の計らいを恣意的に扱うならば,神の計らいは 否認され 否定されてしまうことになるであろう.教会は,神の計らいが表現している〈命の〉計画と真理の裁定者ではなく,しかして,それらの〈忠実な〉解釈者であり,告知者である.

第三の理由を与えるものは,同性のふたりの関係を祝福することを 婚姻関係を祝福することに 同化してしまうことは 誤りである ということである — そのような誤りに 我々は 容易に誘導されるかもしれないが.人に対する祝福は秘跡と連関しており,そのような連関のゆえに,同性のふたりの関係を祝福することは,ある意味で,「結婚の秘跡において結ばれる男女に対して授けられる 結婚の祝福の 模倣 または それとの類比の示唆」となるであろう.しかし,そのようなことは,誤っており,かつ,過誤をおかさせるものである.

以上に述べた理由によって,「homosexual な関係の祝福は,適法とは見なされ得ない」.この宣言は,教会が あらゆる人に対して払っている 人間的かつキリスト教的な敬意を 如何なるしかたにおいても 損なうものではない.であればこそ,このたびの responsum ad dubium は,「神の〈啓示された〉計らい — 教会の教えによって提示されているような 神の計らい — に対して忠実な態度において 生きようとする意志を表明している〈homosexual な性向を有する〉個個人に対して 祝福が授けられることを,排除してはいない」.