2019年12月4日水曜日

酒井陽介神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年11月17日

Francesco Hayez (1791-1882), La Distruzione del Tempio di Gerusalemme (1867), nelle Gallerie dell’Accademia di Venezia



酒井陽介 神父様 SJ の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019 年 11 月 17 日(年間 第 33 主日,C 年)


第一朗読:マラキの預言 (3,19-20a) 
第二朗読:第2テサロニケ書簡 (3,07-12) 
福音朗読:ルカ (21,01-09)

今読まれた福音のなかで,こう言われています:「ある人たちが,神殿*  が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると,イェスは言われた:あなたがたは,これらの物に見とれているが,ひとつの石も崩されずに他の石のうえに残ることのない日が,来る」.

イェスのかたわらで「神殿が見事な石と奉納物で飾られている」ことに感激する人々も,ユダヤ民族の歴史的な経験上,神殿が崩れ去るときが来るということは,感覚的にわかっていたんだ,と思います.もちろん,もう崩れて欲しくはないから,そのたびごとに,しっかりしたもの,堅固なものにするわけですが,しかし,それが崩れるときが来るかもしれない,ということは,どこか頭のかたすみにある.ただ,我々は,信仰が強ければ強いほど,神が守ってくださるんだから,ローマ帝国にも対抗し得る力を持つ民であり,我々の神はそのような神なのだ,という自負心があったことでしょう.

しかし,イェスは,言います:そういったものにあまり重きを置いても,意味は無い;建物や組織といったものは,いつかはなくなるのだ;だから,本当に大切なものを見極めなさい — そういうメッセージがここにある,と思います.

どれほどりっぱな建物も — 聖イグナチオ教会も,東京カテドラルも,ヴァチカンのサンピェトロ大聖堂も — どれほど壮大で,どれほど豪華で,どれほど有名な建築家の手による美術的な価値が高い建物であっても,それは,あくまでも人間が作ったものにすぎない;神をそのなかに閉じ込めておくことはできない;神は,そのような建物よりも大きいのだ — イェスは,きっと,そう言いたかったのだろう,と思います.

わたしたち人間は,何か物を作ることによって自分の存在を証ししたり,また,作った物を自分の権威や自己主張を示し,顕わす道具にしたします.もちろん,すべてがそうではないでしょう.建物に夢をかける — それは,大いなることです.Gaudi の Sagrada Familia がそうでしょう.しかし,Sagrada Familia も,いつ,どのような形で崩れ落ちることになるのか,誰にもわかりません.あのように壮大な建築は,人間にとって,神の大きさ,神の偉大さ,神の限りない慈しみを示すために可能な ひとつのとても大きな「わざ」であると思います.しかし,神をそこに閉じ込めておくことはできません.そして,それが崩れるときが来る.それがいつなのかはわからないが,それは永遠に続くものではない.永遠なるものは,神のみである.完全そのものであるのは,神のみである.そのことを,わたしたちは頭に入れておく必要がある,と思います.

今,オリンピック景気と言われて,そこにビルがポーンと立ったり,ここから見えるところには国立競技場がニョキッと立ったり,あちらこちらでたくさんのクレーンが立ち,ビルが建設中です.それは,わたしたちにとって,日本の経済力を示すことになっているのかもしれないが,それはあくまでも人間の「わざ」であって,神の「わざ」かどうかは別です.そのことは,とても大切なことだろうと思います.

もう一点,皆さんと分かち合いたいのは,このイェスの言葉です:どのようなことになろうとも,神殿が崩れることとなろうとも,教会や大聖堂やバジリカが崩れてしまうようなことがあったとしても,わたしたちは,めげてはいけない,心を折ってはいけない.イェスは,こう言っています:「忍耐によって,あなたがたは命をかち取りなさい」.

この「忍耐」は,「がまん比べ」とか,「無理して妥協する」とか,そのような意味での「忍耐」ではありません.この「忍耐」は,原文のギリシャ語では,ὑπομονή です.その動詞 ὑπομένειν は,たとえば,パウロの第一コリント書簡の「愛の讃歌」のなかで使われています:「愛は,すべてを耐え忍ぶ」[ ἡ ἀγάπη πάντα ὑπομένει ] (13,07). この「忍耐」や「耐え忍ぶ」は,単に「がまん比べ」とか「意地を張る」とか「自分の考えを捨てて,何かに妥協する」,「がまんして,無理して,奉公する」,「滅私奉公」というようなことではありません.この ὑπομονή[忍耐]は,もともとは,「しんぼう強く神を待ち望む」ことです.

わたしたちが今まで信じていた組織や建物や名前などがバタバタと崩れてしまい,目の前からなくなってしまう.考えてみますと,人類の歴史は,そのように,さまざまな文明が起きては崩れ,起きては崩れの繰り返しです.しかし,イェスは,わたしたちに,そのようななかにあっても — わたしたちは,これからもそういった出来事を目にするだろうし,その渦中に生きるかもしれない,でも — 心を強く持ちなさい,耐え忍びなさい,ὑπομένειν しなさい,すなわち,神にとどまりなさい.あなたがとどまるべきところは,組織とか建物とか名前とかではない.わたしたちが本当に頼るべき方,わたしたちが信頼をおくべき方は,神である.

では,「神にとどまる」とは,どういう意味か?目の前のものが崩れ落ち,わたしたちが大切にしていたものが目の前で崩れ落ちてしまう — それを目の当たりにすれば,わたしたちは,大きな失望と絶望に陥ってしまいます.しかし,イェスは言います:それでも,神に踏みとどまりなさい,しんぼう強く,神がまたわたしたちのために必要な力を与えてくださるときまで,しっかりとそこにとどまっていなさい.というのも,わたしたちの希望が,その向こう側にあるからです.わたしたちの忍耐は,希望から湧き出てきます.そして,希望へつながって行きます.単に「がまんする」とか「目をつぶる」とか「あたかもそれが起こらなかったかのように考える」のではありません.必ず,神が介入してくださる,神が手を伸ばしてくださる,神の介在があるのだ — これこそ,ユダヤ教徒であれ,キリスト教徒であれ,ユダヤ・キリスト教の伝統のなかでずっと持続してきた希望です.

神が,必ず,わたしたちに手を差しのべてくださる.神が来てくださる.ですから,典礼暦において,わたしたちは,毎年,そのことを祝います.

来週は,「王たるキリスト」の主日です.そして,二週間後,12月1日は,待降節第一主日です.「主よ,来てください!」,「マラナ タ」(marana tha) です.

主よ,来てください!秩序が崩れても,信じていたものが信じられなくなっても,わたしたちがたいせつにしていたものがガタガタと崩れ落ちても,主よ,来てください!わたしたちは,あなたを待っています.わたしたちに手を差しのべてください!わたしたちはあなたにとどまります,なぜなら,あなたはわたしたちに手を差しのべてくださるから.わたしたちは,このままでは終わらない.

わたしたちは,四旬節のなかで,聖週間のなかで,キリストの受難を黙想します.イェスは,死んでも,復活する,という希望を持ちます.それは,まさに,イェスの弟子たちが実体験したことです.

信じていた主が,自分たちをローマの支配から救い出してくれる王だと思っていた主が,目の前で十字架につけられて,反逆者として処刑されてしまう.それは,このうえなくショッキングな出来事です.そのとき,きっと,多くの弟子たちは離れて行ったでしょう — 絶望のうちに.イェスのもとにとどまることができなかった.そして,実際,ペトロたちも離れかけていた.しかし,彼らがとどまることができたのは,復活の主に出会ったからです.

死のあとに来る永遠の命への復活.聖金曜日の後に来る復活の主日.それを体験しているから,わたしたちは,ὑπομένειν することができます.神にとどまって,耐え忍ぶことができます.神が来るのを,わたしたちは,しんぼう強く待つことができます.

痛み,暗闇,悲しみ,混乱 — その後には,それを凌駕する大いなる力が,必ず,わたしたちのところにやって来る.わたしたちは,死んでいたのに,また命を吹き込んでもらえる.

そのことの繰り返しを,典礼暦は,わたしたちに体験させてくれます.初代教会で弟子たちがイェスと共に生きたあの体験を,わたしたちは,典礼歴のなかで追体験することができます.

ὑπομονή, しんぼう強く神を待ち望む,神にとどまる — それは,神が,わたしたちをまた生かしてくださる,わたしたちにまた命を与えてくださる,わたしたちをまた元気づけてくださる,という希望です.わたしたちは,そのことを知っているから,もう一度立ち上がることができます.どんなことがあっても,忍耐によって,あなたたちは命を勝ち取ることができる — それが,イェスがわたしたちに分かち合ってくれた言葉です.


* 歴史を振り返っておくと,イェルサレムの神殿の最初の建物(第一神殿,ソロモン神殿)は,紀元前 10 世紀,ソロモン王の時代に建設された,と言われています.旧約聖書に記されているように,神殿のなかでは,動物を犠牲として神に捧げる儀式が行われていました.ソロモン神殿は,紀元前 586 年,新バビロニア帝国のネブカドネザル 2 世によって破壊されます.ユダヤ人たちは,捕虜としてバビロンへ連れて行かれます(バビロン捕囚).紀元前 539 年に新バビロニア帝国がアケメネス朝ペルシャのキュロス大王によって滅ぼされると,ユダヤ人たちは帰国を許され,イェルサレムにふたつめの神殿を建設し始めます.その第二神殿は,紀元前 516 年に完成します.紀元前 168 年ないし 167 年,旧約聖書のマカバイ記に記されているように,セレウコス朝のアンティオコス 4 世エピファネス (215-164 BCE) は,ユダヤ教を禁止し,イェルサレムの神殿をゼウスに捧げられた神殿にしてしまいます.ユダヤ人たちは,ユダ・マカバイの指揮のもとに反乱を起こし,紀元前 164 年,神殿を再び神に奉献し直します.ヘロデ大王 (73-04 BCE)[イェスの誕生の知らせを聞いて,ベツレヘムの男の赤ん坊をすべて殺させた,と言われている王;新約聖書で「ヘロデ王」と呼ばれている ヘロデ・アンティパス の父親]は,神殿のおおがかりな改築を行います.先ほど朗読したルカ福音書の一節で「みごとな石と奉納物で飾られた」と言われている壮大な神殿は,ヘロデ大王の時代に始められた改築作業の成果です.しかし,その神殿も,西暦 70 年,ローマ帝国の軍隊によって破壊されてしまいます.ユダヤ民族は,神殿と祖国を失い,中近東から北アフリカやヨーロッパへ及ぶさまざまな地域へ離散して行きます(ディアスポラ).1948 年にイスラエルが国家として再建されますが,今,ユダヤ人たちは「第三神殿」を新たに建設しようとは思っていません.神殿で動物を犠牲に捧げる儀式は,ユダヤ教のなかで宗教的な意義を失ったからです.ユダヤ教の信仰は,もっぱら,聖書(わたしたちキリスト教徒が「旧約聖書」と呼んでいるテクスト)に準拠しています.それによって,ユダヤ人たちは,二千年近く続いたディアスポラの間も,神殿も国土も無しに,自分たちの信仰と民族の同一性を保ち続けてきたのです.

酒井陽介 神父様 の 説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年09月29日

Nikola Sarić (1985- ), Parable of the Rich Man and Lazarus (2014)



酒井陽介 神父様 SJ の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年09月29日


第一朗読:アモスの預言 (Am 6,1a.4-7)
第二朗読:使徒パウロのテモテへの手紙 (1 Tm 6,11-16)
福音朗読:ルカによる福音 (Lc 16,19-31)

今,読まれた福音のなかで,イェスは,最後に,「もしモーセと預言者に耳を傾けないのなら...」という言葉を残しています.これは,今日の福音のことばのなかで,最も強烈なメッセージを投げかけているところだ,と思います.

モーセと預言者 — 律法と預言者のことば,預言者の証し,と呼びかえてもよいと思います.日本に生きるわたしたちは,毎日の暮らしのなかで,直接に律法や預言者のことばを意識することは,そうはない,と思います.しかし,時代と場所を超えて,文化を超えて,イェスのことばは,わたしたちに投げかけられています.二千年後の日本で彼の御ことばを読むとき,わたしたちは,そこに何を聴き取ることができるでしょうか?

今日の福音を,ふたつの点から見て行きたいと思います.ひとつは:現実をひっくり返すような奇跡は,そうは起こらない.もうひとつは:欠けていること,何かを失うことは,実は,生かされていることを意識することにつながる.この二点から,今日の福音をいっしょに紐解いて行きましょう.

日常の暮らしのなかでわたしたちに語りかけられてくる神の思い.それを,もしかしたら,直接,神から受ける場合もあれば,いろいろな善意ある人たち — わたしたちに理解や愛を示してくれる人たち — の思いや言葉を介して受ける場合もあります.そういう言葉や,そういう語りかけに,もし,わたしたちが目や耳を塞いでしまっているなら...? そういう状態でいながら,都合よく霊的な体験をすることは,あり得ない — そう言うことができるだろうと思います.

霊的な体験は,何ごとかがドラマチックにビビビッとくる,という場合もあるでしょう.本当に少ないパーセンテージの人々が特別な体験をいただける,という場合もあるでしょう.しかし,日々の暮らしのなかでは,そのような強烈な体験をするよりは,日常のなかでわたしたちが生きているときに接する神の思い,人々の理解,愛 — そういったものをわたしたちがしっかりと受け容れて,初めて,霊的な体験につながります.そういったことをまったく無視しては,そういったものから乖離したところでは,霊的な体験はあり得ない,とわたしは思います.

「恩寵は,決してわたしたち人間の自然性を飛び越えはしない.恩寵は,わたしたちの自然性を完成させるものだ」[ cum enim gratia non tollat naturam, sed perficiat... ] と,有名な神学者,聖トマス・アクィナスは言っています.わたしたちは,わたしたちのありようをとおして,恩寵をいただくことができるんだ,ということです.ですから,わたしたちのありようを無視し,飛び越え,また,現実をひっくり返して,奇跡が起こる,ということは,期待しても,そう起こることではないだろう,と思います.ですから,わたしたちが生きていくなかで,しっかりと地に足のついた営みをしていかないならば,現実を飛び越えて,急に回心するとか,急に生活が改まるとか,急に聖人になるということはない — ほぼ,そう言ってもよいのではないか,と思います.

そんなことは当たり前だ,と思うかもしれません.ただ,案外,わたしたちは,心のどこかで,いつかは変われるに違いない,いつかはやめられる違いない,いつかは成長できるに違いない,と思っているふしが,結構,あります.しかし,わたしたちが,日常のなかで,神がわたしたちに伝えてくれるさまざまな思いや神の恵みに対して開かれて行き,それを,できるだけアンテナを伸ばして,しっかりと受けとめて行く,ということがなければ,案外,それは,すどおりしてしまったり,わたしたちがそれを意識しないうちに漏れていってしまう — そんな状況かもしれません.

わたしたちは,無意識のうちに,ラザロの霊や先祖の霊が現れて,教えてくれるかもしれない,と思っているかもしれない.しかし,そうではないということを,イェスはわたしたちに伝えてくれています.

わたしたちが毎日の生活のなかで体験するさまざまな事がらは,新しい学びの機会,新しい自分との出会い,新しい自分に気づくことができる出来事 — それは,ときには,痛みを伴うことかもしれないし,思いがけないことかもしれません — に溢れている.自分の小ささ,自分の不自由さ,自分の不完全さ,そして,ときには,自分のたくましさや良さを知る体験に,実は,溢れている,と思います.

そこに,神との出会い,神からの招きが,いただけている.もう一歩足を踏み入れ,歩を進めるための勇気が,いただけている.もし,いただけているという実感がないなら,どんなに「霊的な恵み」と口で言ったところで,それは — わたしたちの目の前で起こる「奇跡」は —,わたしたちを変えることにはつながらない.なぜなら,神からの思いををしっかりと受けとめてはいないから.まずひとつ,そう言うことができるだろう,と考えます.

次に,もう一点,それは,わたしたちは,失うことによって,痛みを伴う経験によって,敢えて,生かされている,という意識を持つことができる,という点です.

そのような価値基準から見てみれば — ラザロは,実に不運な人です.それこそ,神のみぞ知るありようのなかで,彼は,人生を生ききった人なのでしょう.家族も家もなく,食べるものにも困ったラザロは,苦しみの極みのなかにいました.しかし,神は,誰よりも彼の近くにいらっしゃった.それが,イェスの福音の教えになっています.

ラザロは,生かされていました.ラザロは,自分の力で生きているという感覚以上に,きっと,生かされているということを感じた人でしょう.

わたしたちは,概して,物を所有したり,地位を向上させたり,世界に認められるときに,ある種の幸せや高揚感を感じます.それは普通です.そして,普段はそれをあまり意識しないかもしれませんが,何かそのひとつでも失うと,大きな喪失感を感じ,自分はなんと惨めなんだろう,という思いにさいなまれることがあるものです.そうした思いからまったく自由で,とらわれのない人生を送っている人は,それほど多くはないだろう,と思います.わたしたちは皆,そのような「しがらみ」から,やはり,影響を受け,それに取り囲まれて,生きています.

わたしたちは,そのような自分の現状を全否定する必要はありません.人間ですから,当然だと思います.ただ,それだけではないのだ,ということを,今日の福音から,少し読み取ることができるかもしれません.

わたしたちは,何かが失われたり,何かを手放さなければいけなかったり,何か大切なものがなくなるときに,多いに痛みを感じます,そして,ときには,自分を惨めに思うことがあるかもしれません.もちろん,長い目で見るならば,その惨めさのなかに自分を追いやってしまうのは,決して良いことにはつながりません.しかし,自分がそのように何か欠けている,何かが足りない,何か心に空洞がある — そのような体験を人生のなかで持つこと,別の言い方をすれば,喪失感を持つことは,その空洞を何で埋めていったらいいのか,その空洞はどのように埋められるもんなんだろうか,そもそも,わたしはその空洞を何で埋めていたのか,という問いに,今一度,立ち戻る機会になると思います.

今日の福音の譬えの金持ちは — もちろん,これは,お話ですから,非常にわかりやすく仕上げられています — 毎日,ぜいたくに遊び暮らしていた.彼は,言うなれば,欠けることを体験していない.常に満たされている.そんな人は,実際にはいないと思います.しかし,彼は,常に満たされ,心のなかに大きな空白や空洞を感じないで生きていた.彼の努力もあったかもしれないし,非常に運がいい人だったのかもしれません.ともかく,彼は自分の力で生きていた.才能もあり,運も良かった彼は,いつの間にか,「わたしは,自分の力で生きている」という感覚が強くなったんだと思います.それが,ラザロとの大きな違いです.

わたしたちは,何かが欠けたとき,それも,たいせつな何かを手放さざるを得なかったり,奪われたりしたとき,大きな喪失の痛みを感じます.そして,ときには,惨めな思いにさいなまれます.ただ,そうしながら,自分の力が及ばないことがあるのだ,自分がいくらがんばっても及ばないことがあるのだ,ということを感じることができるのではないでしょうか?そして,それでもまだこうやって生きているのだ,いや,生かされているのだ,ということに,少しずつ気づくことができるのではないでしょうか?

たいせつなものを失う — それは,わたしの健康かもしれない,人間関係かもしれない,名誉かもしれない,ほかの人々からどう思われているかということかもしれない.人それぞれ,失うものは異なります.

それでも,何かが失われたとしても,わたしにつながっていてくれる誰かがいる,わたしに寄り添ってくれ,理解してくれる人たちがいる.それは,自分の力で獲得したものではなく,純然たる恵みとしての関係性だと思います.それが,信仰の世界です.

いただいたもの — 恵みとしていただいた関係性 — を,わたしたちは受けとめて行く.さらに,この空洞,この空白を,深く見つめて行くならば,そこで,わたしを全面的に受けとめてくれる神との出会いに招かれている,ということに気づくことができる,と思います.

わたしが生きるのではなく,わたしは生かされている.生きることを善しとする神の招きがある.生きてほしいと願っている神の心が,そこにある.

思うに,この世界に,完全なもの,完全な形というものは,無いでしょう.ただ,わたしたちは,抗いながらも,完全さに向かって歩んでいる.そこに向かって招かれている.

そこには,いろいろな障害物や,わたしたち自身が感じる抗いや葛藤が,たくさんあります.それが,まさに,第二朗読でパウロが言うところの「信仰の戦い」でしょう.わたしたちは,ひとりひとりの人生の物語のなかで,信仰の戦いを紡いで行くしかありません.しかし,わたしたちは,その戦いにひとりで立ち向かっているのではなく,仲間とともに,寄り添ってくれる人とともに,理解してくれる人とともに,歩んで行く — そのように,わたしたちは招かれています.

ラザロのような人間もおり,金持ちのような人間もいる — わたしは,A とか B とか,人を分類するのはあまり良くないと思うのですが... わたしのなかにも,ラザロのようなものがあり,金持ちのようなところもあります.これは皆,同じだと思います.ラザロのようなわたしもいれば,金持ちのようなわたしもいる.しかし,神は,どちらにも同じように慈しみ深いまなざしを向けてくださっている.

「わたしは,不完全で,不自由な人間なのだ」という自覚をもって歩んで行くならば,わたしたちは,惨めな思いに完全に飲み込まれることなく,新しい自分や新しい地平を見つけ,出会うことができる — そのように生きて行くよう,わたしたちは招かれている,と思います.

この世界は,わたしたちに,「生きて何かをしろ」と迫ってきます.しかし,信仰の観点から見るならば,わたしたちは,生きるということだけに終始するのではなくて,生かされています — もちろん,神によって.

神は,わたしが生きて行くことを望んでいる.神によってそのように望まれているわたしがいる.それが善き知らせである.この善き知らせを,イェスは,命をかけて,御自分の死を以って,告げ知らせてくださいました.

キリストがわたしたちひとりひとりに注いでくださるまなざしを,今一度,意識してみましょう.

わたしたちは,生きている — でも,生かされている.そして,わたしたちが生きることを何よりも望んでおられる神がいる.その観点から,わたしたちのありかた,存在,かかわりを,もう一度,見つめ直して行きたい,と思います.

2019年11月30日土曜日

全能神教会 注意報

聖イグナチオ教会事務室わきの掲示板の「全能神教会」注意報


SNS における「全能神教会」の布教活動に利用されないよう 注意してください


「全能神教会」は,中国で 1991 年に創始された カルト* です.聖書を引用して,あたかもキリスト教(プロテスタント)の一教派であるかのごとくに装っていますが,彼れらが言うところの「全能神」とは「楊向彬」(Yang Xiangbin) という名の 1973 年生れの中国人女性のことです.今や神は彼女において新たに受肉したのだ,というとんでもない教義を中心に有しています.詳しくは,Wikipedia の説明 をお読みください.

「全能神教会」は,Facebook や Twitter を利用して,日本でも積極的に布教活動を展開しています.

Facebook での彼れらの活動は,次のようなものです:彼れらは,クリスチャン(カトリックにせよ プロテスタントにせよ)と名のっている Facebook 利用者に対して,友だちリクエストをしてきます.自身がクリスチャンであることを明らかにしている人(特に牧師さんなど)は,たいてい,友だちリクエストをしてきた相手が見知らぬ人であっても,さして警戒することなく,リクエストを受けてしまいます.かくして,「全能神教会」の布教者は,複数のクリスチャンを Facebook 友だちにして,あたかも自身もクリスチャンであるかのように装うことができます.そして,キリスト教に関心を有していそうな Facebook 利用者に接近し,布教します.

Facebook において「全能神教会」の布教活動をしている者たちの リスト(「全能神教会」布教用の Facebook account は新たに次々に作られているので,完全なリストではありません)を,東京中央バプテスト教会の 小川政弘 氏が作成してくれていますので,参照してください.

Twitter においては,彼れらは,同様に,クリスチャンと名のっているアカウントをフォローし,それによって,自身もクリスチャンであるかのように装って,キリスト教に関心を有していそうな Twitter 利用者に接近し,布教します.先ほど,LGBTCJ の Twitter のフォロワー 400 人弱を調査したところ,以下の 16 のアカウントは「全能神教会」の布教に利用されていることが 判明しました:

秋和 @3linxi 
荻野 千寻 @Q05VOyjda9XbBgv 
川口 太郎 @bBjmVRZnvODaI8F 
樱木 惠子 @Power_Aishen318 
佐佐木 紀子 @shuye666aue 
鈴木 安佑 @YlrR9hE7xEJjEqA 
高橋 さやか @wangjiayi818 
田中 薫 @xintinghua 
穆 冰心 @mubingxin 
増戸 未衣夏 @perfect312645 
山口 美瑤 @0ZwC70yh9zQplr5 
山下 弘樹 @chenfeisang1351 
山田 桜 @7cqw0pdmzkaez13 
山田 铃木 @XGrAb3s2CB8vRXt 
吉田 美智子 @songyan2016 
渡辺 優奈 @xiapiaopiao3211

以下の名称の活動からの無批判的な 引用 や シェア や リツイート をしているアカウントは,確実に「全能神教会」の布教のために利用されています:

全能神教会 ホームページ http://jp.kingdomsalvation.org
全能神教会 Facebook https://www.facebook.com/godfootstepsjp/
全能神教会 Twitter https://twitter.com/followgodsteps
全能神教会 ブログ https://jp.blog.hidden-advent.org/
全能神教会 YouTube https://www.youtube.com/user/godfootstepsjp
聖書の部屋 ホームページ https://www.bible-jp.org/
聖書の部屋 Facebook https://www.facebook.com/biblejp.org/
聖書の部屋 Twitter https://twitter.com/Bibleroom_JP
神の声を聞く Facebook https://www.facebook.com/ListentoVoiceofGodjp/
神の声を聞く YouTube https://www.youtube.com/channel/UCVHVD-1Dpp7VW0_7CVNjPvw
天から恵みの雨を賜る Facebook https://www.facebook.com/RainfortheParchedSouljp/
天から恵みの雨を賜る YouTube https://www.youtube.com/channel/UCWr3xpzGcebk7lENL7IKuUg
神の愛のグループ Facebook https://www.facebook.com/groups/558598621176352/
聖書の奥義 Facebook https://www.facebook.com/toGodHeaven.org/


「全能神教会」が日本においてどのように組織的に活動しているのか,その全容は不明です.ただ,先ほども紹介した 小川政弘 氏の Facebook の記事に対して Shin Takagi 氏が付したコメントによると,この 山田啓三 氏が中心的な活動家のひとりであるようです.Shin Takagi 氏は,こう書いています:


山田 啓三 氏は,1954年生れの日本人です.カルトも参加オーケーのグループ(グループの宣伝ではなく,議論なら参加できる)で,「全能神」で唯一人参加している人物です。他のメンバーはほとんど日本人名を騙る中国人で,日本語での議論は無理です。Facebook をチェックする限り,この人物は,「全能神」特有の投稿は全くしません。反共産主義の立場から,保守系団体や自民党その他の議員と直接 SNS 上で豊富にやりとりしています.キリスト教界で,彼が「全能神」の日本における中心メンバ一の一人であることを知らず、彼とフレンドになっている牧師、教職者、クリスチャンは,多数います。この人物は,「全能神」の日本における市民権の獲得と団体の認知のために活動しており,現在進行形の習近平政権による宗教弾圧、キリスト教界の全面破壊をてこにして,反中国共産党政権の立場から,政冶工作員の役割を担っています.Facebook 上で,「全能神」のメンバーであることを気がつかれにくくはしていますが,完全に隠してもいません。「全能神」の公開グループ「神の愛のグループ」や「聖書の部屋」をチェックすれば,この人物の立ち位置がよく判ります。投稿ではなく,コメントで頻繁に登場します。また,保守系議員のタイムラインへのコメントや「いいね」も,頻繁に行っています。わたしは本人を実際に見ていますが、常にハンチングをかぶり、痩せた小男で,目つきが鋭い印象を持っています。自民党も,「全能神教会」は「統一教会」(勝共連合)のように利用し得るほどには組織が育っていないので、政治利用するために動くまでには至っていません。上記の「全能神」グループに参加しているクリスチャンも多く、普通のキリスト教グループと思っているようです。山田啓三氏の名前をしっかり覚えてください。「全能神」の工作員です。

ともあれ,Facebook においても Twitter においても,「全能神教会」の活動を監視する目的でない限り,「全能神教会」の布教に利用されているアカウントとはかかわりにならないよう,お勧めします.つまり,Facebook においては,彼れらの「友だち」にならないようにし,また,Twitter においては,彼れらにフォローされないよう,彼れらをブロックしましょう.

* 日本におけるカルトの代表例としては,周知のように,「オウム真理教」,「統一教会」(今,「政界平和統一家庭連合」と名のっている教団),「幸福の科学」を挙げることができるでしょう.カルトの「教祖」や「指導者」は,信者に対する催眠術的作用によって,信者を支配し,コントロールし,精神的,金銭的に搾取します.カルトは,精神的な不安,孤立,無力感,虚無感,よるべ無さ に悩んでいる人々に接近し,悩みを聞くなどして信頼を獲得して,「入信すれば,仲間ができ,安心することができ,人生が充実する」などと言って 勧誘し,教団のなかに取り込みます.

ルカ小笠原晋也

2019年10月25日金曜日

Richard Rohr 神父のブログから — 聖書の homophobic な箇所をどう読むかの示唆

Walter Wink (1935 - 2012)

LGBTQ+ 人権擁護のために積極的に活動している Richard Rohr 神父 OFM が,彼のブログ のなかで,1999年に出版された論文集 Homosexuality and Christian Faith のなかに神学者 Walter Wink 牧師が書いた Homosexuality and the Bible の一節を紹介しています.James Martin 神父 SJ が SNS でその記事を紹介していたので,目にとまりました.以下に,邦訳を提示します.

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より深い意義

わたし [ Fr Richard Rohr ] の友人,故 Walter Wink — メソジスト牧師,聖書学者,神学者,非暴力活動家 — は,gender および sexuality との宗教の格闘を,歴史的な展望のなかへ位置づけることによって,いかに Jesus が被抑圧者と抑圧者をともに解放しているかを学ぶ機会を,改めて提供してくれている.

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[以下,Walter Wink の Homosexuality and the Bible からの一節]

ともあれ,聖書は,同性どうしの性的行為に言及するとき,それを明らかに断罪している.わたしは,そのことを率直に認める.問題は,まさに,聖書の判断は正しいのか否か,ということである.たとえば,聖書は,奴隷制を容認しており,それを不当なものと攻撃してはいない.では,今日,我々は,奴隷制は聖書によって正当化されている,と論ずる気になるだろうか?150年以上前,奴隷制の当否について盛んに議論されていたとき,聖書は,明らかに,奴隷制支持論者の側に与しているように思われていた.奴隷制廃止論者たちは,聖書にもとづいて反奴隷制論を正当化するのに苦労していた.ところが,今日,米国南部のクリスチャンたちに「聖書は奴隷制を容認しているか?」と問えば,答えは,ほぼすべて,「否」で一致するだろう.同様に,今から 50 年後に現時点をふりかえって見れば,人々は,神の聖なる息吹が我々の社会のなかで sexuality に関して為した新たなわざに対して,キリスト教会がかくも鈍感であり,かくも抵抗的であったことを,いぶかしく思うことだろう.

奴隷制に関してそのように記念碑的な変化をもたらしたものは,次のことである:すなわち,キリスト教会は,ついには,聖書の律法的な性格を超えて,より深い意義 — それは,イスラエルによって,出エジプトの経験と預言者たちの経験にもとづいて述べられており,そして,Jesus が自身を娼婦,徴税人,病者,障碍者,貧者,社会から見棄てられた者たちと同一化していることにおいて崇高に具象化されている — へ到達するよう,促された,ということ.すなわち,神は,無力な者たちの側に位置しており,抑圧されている者たちを解放し,苦しむ者たちとともに苦しみ,すべてのものの和解のためにうめき声をあげているのだ.それゆえ,Jesus は,先天的な障碍や生物学的な条件や経済的な挫折のせいで〈人間社会や宗教によって〉「罪人」と見なされた者たちのところに立ち寄って,「あなたの罪は赦された」,「あなたたちは無条件に愛されている」と宣言した.そのような崇高なあわれみの光のもとでは,我々の gay に関する立場がいかなるものであれ,「愛せ」,「無視するな」,「苦しみを分かち合え」という福音の命令は,見まごうかたなく明瞭である.そして,勘違いしないでおこう — LGBTQ+ であることを祝福する世俗的な文化にもかかわらず,彼れらのなかにはなおも深い苦悩があり,しかも,それは,最もしばしば,彼れら自身の家族やキリスト教会によって惹き起こされている.

同様に,女性たちは,聖書のなかに性差別と家父長主義 — それらのせいで,かくも多くの女性たちが,キリスト教会から疎外されている — が蔓延していることを認めるよう,我々に催促している.その出口は,聖書のなかの性差別を否認することではなく,しかして,聖書さえをも Jesus における啓示の光のもとで裁き得る解釈学を発展させることである.Jesus が我々に与えてくれたものは,あらゆる形態における支配に対する批判 — 聖書そのものへも向けられ得る批判 — である.そのように,聖書は,聖書自身を正す原理を包含している.我々は,聖書を偶像崇拝することから,解放される.聖書は,神のことばの証しとしてのその本来の座へ位置づけ直される.そして,神のことばは,書物ではなく,ひとりの人[三位一体を構成する三つの位格のひとつ]である.

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[Richard Rohr 神父による補足]

我々は,奴隷制,死刑,体罰,重婚,ある種の子育て方法,相続制度,有利子融資,商業一般などに関して,聖書が編纂された当時は,一見,容認され得たと見える多くの問題について,正義と公平の方向へ進んできた.我々が LGBTQ+ の人々を拒絶し,彼れらを我々の教会へ全的に包容することを拒み,法によって平等に保護される権利を彼らに否むことによって,彼れらが被ってきた苦しみを,我々クリスチャンは,終わらせ,癒す作業の最前線に立つべきだ,と わたしは思っている.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)

2019年10月21日月曜日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2019年10月20日

Nikola Sarić (1985- ) : Parable of the Unjust Judge (2014)


鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年10月20日(年間第29主日 C 年) 


第一朗読:出エジプト 17,08-13 
第二朗読:第二テモテ書簡 3,14 – 4,02 
福音朗読:ルカ 18,01-08(不正な裁判官の譬え) 

「モーセはその上に座り,アロンとフルはモーセの両側に立って,彼の手を支えた」(Ex 17,12)

今日の「裁判官 と やもめ」のお話しは,わたしのお気に入りのひとつです.それは,当時,御殿場の神山複生病院[こうやま ふくせい びょういん]にいたフランス人の Robert Juigner 神父様* が,このお話しで紙芝居をつくって見せてくれたからです.牛のようにおおきな神父様が真似てくださった〈裁判官を発狂寸前まで追い立てるくらいの〉おばあさんやもめの〈執拗にくりかえされる,甲高い声での〉訴えが,お話しのなかの裁判官の耳にではなく,わたしの耳に,いまもこびりついて離れません.修友となみだを流して笑ったのをよく覚えています.

さて,そんなお話ができないわたしは,真面目にお説教をすることにいたします. 

祈っていて,ふたつのことに気づきました. 

ひとつは,「祈りは難しくないらしい」ということです. 

モーセのしていたのは,立って(後になると,すわって)手を上げていることだけでした.また,やもめ(Juigner 神父の紙芝居では,おばあさんでしたが,そうとは限りませんが)は,別に,主の祈りや,天使祝詞を知っているようでもなく,気散じをしないように気をつけているようにもみえません.念祷と観想の区別を意識しているふうでもありません. 

祈りは,自然なもののはずです.詩編やイエスの祈る姿は,子供が父親に自分の思うこと,願うこと,欲しいものを,あるいは,日々の哀しさや嘆き,うれしいことや感謝を語るように,神様に聞いてもらうのに,似ています.どこにも形はなく,どこにも決まりがなく,いい祈りと悪い祈りの区別もありません. 

ただ,もしわたしたちと違うところがあったとすれば,多分,ふたりとも,熱心に祈った,ということだと思います.やもめが何のために裁きを願ったのかはよくわかりませんが,モーセは,神に託された民,愛する民のために祈りました.しかも(聖書には,ただ,ときには「イスラエルは優勢になり」,また,ときには「アマレクが優勢になった」とだけ書いていますが)その民と同胞が,ときには剣によって打たれ,刺しつらぬかれ,騎兵の馬や戦車に踏みひしがれるのを,丘の上から見ながら,たとえ目を閉じていたとしても,兵と馬のたてるたけだけしい騒乱と,ときには民のうめきや断末魔の叫びを聞きながら,それでも祈りつづけたのだと思います.祈りの力を,すくなくとも,祈るという自分の務めを,彼はほんとうに信じていたのだろうと思います.『カトリック新聞』に,昨週,教皇がまだアルゼンチンで修道院の院長だったとき,息子の行方のわからない女性の訴えを聞いて,彼がすぐに,誰にも何も言わずに,断食をして祈りはじめた,という話しが紹介されていました**.彼も,祈りと,そして,祈るという自分の務めを,信じていたのだと思います. 

ふたつめは,とても簡単です.人がひとりで祈るのは,ときとして難しく,苦しいときほど難しく,「祈りつづけるのには,仲間の助けが必要だ」ということです. 

わたしたちの場合,祈る人の腕が下がらないように支えるのが祈りの助けになるかどうかわかりませんが,つらさや苦しみをもって祈っている人をほうっておかないでください.ときには本当に「しずかにしておいてあげる」ことも助けでしょう.また,あるときには,お話しを聞かせてもらうのも助けでしょう.そして,何よりも,その人のために,ときには,その人のそばで,祈ることは,大きな助けでしょう.たとえその人が何を祈ってるかも分からずとも,その願いの切実さは,かならず伝わってくるはずです. 

祈って,祈って,わたしたちは苦しいときをのりこえ,苦しみが過ぎさったとき,そのときの苦しさを祈りながらとおり抜けられたなら,何もなかったかのようにではなく,感謝して心から喜ぶように召されているように思います. 


注:

* Robert Juigner 神父様 MEP (1917-2013). 彼の名は,カタカナ書きでは「ジェイニエ」と表記されることが多かったようだが,フランス語の発音により近づけるなら,「ジュィニェ」.1917年12月23日,Anger で出生.第二次世界大戦中,兵役につく.1940-1941年,20ヶ月間,ドイツ軍の捕虜となった.1943年,司祭叙階.1946年,中国の貴州省の安順で宣教,司牧を開始.共産党政府によって逮捕され,10ヶ月間,投獄された後,1952年に香港で釈放.1952年06月からは,日本で宣教,司牧.東京大司教区の徳田教会,次いで,秋津教会,1972年からは,札幌司教区の八雲教会で,主任司祭.1994年から,御殿場の 神山復生病院 付 司祭.2007年10月,離日し,フランスで隠退生活.2013年05月13日,帰天.彼の 紙芝居カルタ は,今後も,末永く伝説として語り継がれるだろう.

** カトリック新聞 2019年10月13日付,Juan Haidar 神父様 SJ の「身近に見た教皇フランシスコ」4 :


2019年10月12日土曜日

「放蕩息子の寓話は悔い改めが前提」に対して

Charlotte von Kirschbaum (1899-1975) and Karl Barth (1886-1968)

2019年09月11日付の キリスト新聞 で,日本のキリスト教界のなかでも あからさまな反 LGBTQ の動きが 多かれ少なかれ組織的に 始まったことが,報ぜられた.そのことに関して,わたしは「帝国の逆襲 —『キリスト教 性教育 研究会』について」と題したブログ記事を書き,その一部は 09月21日付のキリスト新聞の「読者の広場」欄で紹介された.そして,わたしの見解に対して,10月11日付の同紙の「読者の広場」欄で,新潟市の 日本基督教団 東中通教会 の信徒,村上 毅 氏の意見が「放蕩息子の寓話は悔い改めが前提」の表題のもとに紹介されている:
9月11日付の紙面で,井川昭弘氏が「価値観多様化時代の性教育」と題して講演したキリスト教性教育研究会の記事を,なるほどと思って読みました.ところが,9月21日付の本欄に,井川氏と同じカトリック信徒の小笠原晋也氏から,当該講演は「形而上学的偶像崇拝」との投稿が詳細に掲載されていました.内容は,井川氏の講演内容に真っ向から対立するもので,この問題の深刻さを改めて感じさせられました.
わたしの所属する教会はカルヴァンによって創始された改革長老派系列の教会で,人間は神により男と女の両性に創られたことを基調と考えています.LGBTQ+ の活動内容がどのようなものか,よく理解しておりませんが,必要に応じて学びたいと願っています.
小笠原氏の投稿において,ニヒリズムを克服するのは ルカ福音書 15:11-32 で書かれてある「慈しみ深い 愛の神」であると述べられていますが,この放蕩息子の寓話の前提は,神の前の悔い改めである,ということを認識したいと思います.

村上毅氏は御自分がカルヴァン派であるとおっしゃっているので,Karl Barth を引き合いに出すことをお許しいただこう — 勿論,それは,「LGBTQ+ とキリスト教」に関する議論においては,単なる tu quoque の偽論にしかならないが.

日本のキリスト教界のなかでどれほど一般的に知られているか,わたしは知らないが,Barth は,秘書の Charlotte von Kirschbaum と,1926 年から死去するまでの 40 年以上にわたり,「不義」の関係を続けた.しかも,1929 年以降は,妻と子どもたちもともに暮らす自宅に,Charlotte を同居させた.彼らの関係は,Karl の妻 Nelly Barth (1893-1976) に非常に大きな苦痛を与え続けた.以上の事実は,Barth と Charlotte との間に交わされた書簡 Karl Barth - Charlotte von Kirschbaum Briefwechsel (TVZ, 2008) によって,もはや「うわさ」の域を超えて,実証されている.

旧約聖書の律法のなかで,十戒は「不義を犯すなかれ」と規定しているが,当時,「不義」は,男が既婚女性と性交することであり,相手が未婚女性の場合は,「不義」には当たらない.しかし,申命記に記されている律法に従うなら,Barth は,Charlotte の父親に「罰金」を払い,彼女と結婚しなければならない (Dt 22,28-29). いかにも,古代のユダヤ社会においては,男は複数の妻を持つことができた.しかし,当然ながら,現代の西欧社会においては,重婚は禁止されている.となると,Charlotte は,彼女の父親の家の前で,その町の男たちによって,石打の刑に処されねばならない (Dt 22,20-21). が,そのような私刑も,当然ながら,現代の西欧社会においては禁止されている.

さあ,信仰のなかで律法遵守を何よりも大切と考える保守的なキリスト教徒の皆さん,あなたたちは,Barth と Charlotte を前にして,彼らをどう裁くのだろう?あなたたちは,好んで homosexuality と transgender being とを断罪する限りにおいて,20世紀の最も偉大な神学者とその秘書との「不義」を裁くことを免れることはできない.

話を本題に戻そう.村上 毅 氏は,放蕩息子の譬えにおいて,父が慈しみ深く息子を赦すのは,息子が自身の罪を悔い改めたからだ,と主張している.おっしゃりたいのは,こういうことだろう:同性どうしの性行為は,聖書に記されている律法によって,罪深いものであり,当事者が自身の罪を悔い,行いを改めて,初めて,その罪は赦される.つまり,村上 毅 氏は,同性どうしの性行為が罪深いものである,ということを,無反省に信じ込んでいる.それは,わたしが「形而上学的偶像崇拝」と呼ぶものの典型的な症状のひとつである.

保守的なキリスト教徒たちが「gay[男を性愛の対象とする男]どうしの性行為は,禁止されている」と考える おもな根拠は,レヴィ記に記された規定に存する:
女と寝るように男と寝てはならない.それは,忌まわしいことである (Lv 18,22).
ある男が,女と寝るように男と寝るならば,彼らふたりが為すことは,忌まわしいことである.彼らは処刑される.彼らの血は,彼ら自身にふりかかる (Lv 20,13).

一見すると,それらの条文は,確かに,gay どうしの性行為を断罪しているように見える.しかし,「女と寝るように」という表現に注目するなら,このことを読み取ることができるだろう:おまえは,女と寝る heterosexual の男である;にもかかわらず,おまえが男と性的な関係を持つなら,それは忌まわしいことである.

つまり,それらの条文の言葉は,heterosexual の男に向けられているのであり,gay に向けられているわけではない.そもそも,旧約聖書のことばの宛先は,もっぱら,古代ユダヤ社会の支配的構成員である heterosexual の男たちであって,そこには,女性も LGBTQ+ も含まれてはいなかった.また,そもそも,SOGI に関して heterosexual でない者や cisgender でない者の存在は,古代ユダヤ社会のなかでは想定されていなかった.勿論,そのことを歴史資料にもとづいて実証的に証明することは困難であろうが,我々は,旧約聖書に描かれた古代ユダヤ社会が家父長制的であることにもとづいて,そう推定することができるだろう.

したがって,聖書にもとづいて,同性どうしの性行為を断罪することはできない — 聖書にもとづいて Karl Barth と Charlotte von Kirschbaum との関係を断罪することができないのと同様に.

ところで,放蕩息子の譬え話 (Lc 15,11-32) は,「罪 と 悔悛 と 赦し」をテーマにしているのだろうか?律法の遵守にこだわり,違反に対する神による処罰を 何よりも恐れる キリスト教徒は,そう読むだろう.しかし,そこに物語られている 慈しみ深い父 は,実際には何と言っているか?
この〈わたしの〉息子は,死んでいたが,命へ返ってきた [ οὗτος ὁ υἱός μου νεκρὸς ἦν καὶ ἀνέζησεν ] (15,24) ;
この〈おまえの〉弟は,死んでいたが,命へ返ってきた [ ὁ ἀδελφός σου οὗτος νεκρὸς ἦν καὶ ἀνέζησε ] (15,32).

つまり,この譬え話の本当のテーマは,罪の赦しではなく,しかして,死から永遠の命への復活である.

愛にあふれる神は,既に,無償で,我々に 永遠の命 を与えてくださっている.塵から創られた我々が今,生きているのは,神が 御自分の息吹によって 神の命である永遠の命を わたしたちに吹き込んでくださったからである.我々は,今,現に,永遠の命を生きている.我々は,そのことに気づき,神の愛の恵みに感謝すればよいだけである.

それが Jesus Christ の福音の本質だ,と わたしは 思っている.

ルカ小笠原晋也

2019年9月12日木曜日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年08月25日


Fra Angelico (1395-1455) : il Giudizio Universale (1431 circa)
nel Museo nazionale di San Marco a Firenze

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年8月25日(年間第21主日,C年)


第一朗読:イザヤ 66: 18-21
第二朗読:ヘブライ書簡 12: 05-07, 11-13
福音朗読:ルカ 13: 22-30

そのとき,イェスは,町や村を巡って教えながら,イェルサレムへ向かって進んでおられた.すると,「主よ,救われる者は少ないのでしょうか?」と言う人がいた.イェスは,一同に言われた:「狭い戸口から入るように努めなさい.言っておくが,入ろうとしても入れない人が多いのだ.家の主人が立ち上がって,戸を閉めてしまってからでは,あなたがたが外に立って,戸を叩き,『御主人さま,開けてください』と言っても,『おまえたちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである.そのとき,あなたがたは,『御一緒に食べたり飲んだりしましたし,また,わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言い出すだろう.しかし,主人は,『おまえたちがどこの者か,知らない.不義を行う者ども,皆,わたしかた立ち去れ』と言うだろう.あなたがたは,アブラハム,イサーク,ヤーコブや,すべての預言者たちが神の国に入っているのに,自分は外に投げ出されることになり,そこで泣きわめいて歯ぎしりする.そして,人々は,東から西から,また,南から北から来て,神の国で宴会の席に着く.そこでは,後の人で先になる者があり,先の人で後になる者もある.(Lk 13: 22-30)


ミサに初めて与るときには,まわりの動作に合わせようとしたり,会衆側からの応唱についていこうとしたりして,緊張することがあります.熱心な信者さんは,司祭の唱える祈りに心を合わせようと意識を集中しようとつとめる方もいます.ですが,わたしのひとつの薦めは,周りにいる人たちのことは気にせず,「は~ぁ,この一週間,一ヶ月間,疲れた」と思いながら,ゆっくりと頭を空にして与ることです.「天のいと高きところには神に栄光」という歌も,何も考えずに,教会のきれいな天井を見上げながら,大きな声で歌っていると,だんだん日々のめんどうくさいことも忘れていって,元気になったりします.そして,司祭の説教を聴くころになると,何か良い話を聴けるかもしれないという気分になってくることもあります.そうすると,話を頑張って聴こうとするより,話しが自然にこころに吸い込まれていったりもします.

今日の福音で,「主よ,救われる者は少ないのでしょうか?」(Lk 13.23) と,ある人がイェスにきいています.「救われる者は少ないのでしょうか?」— つまり,少しの人しか救われないのではないかと懸念しているのでしょう.

この「救われる」という言葉は,あとに出でくる宴会場の「門が閉まる」(13.25) という話しと重ね合わせると,「天国に入れるかどうか」という懸念とつながっているような気がします.

さて,わたしたちは天国に入れるんでしょうか?そこに招かれる人は多いんでしょうか?あるいは,多くの人は閉め出されてしまうのでしょうか?

少し祈ってみたのですが,まずはじめに現れたのは,まるで親しい仲間から閉め出されたときに感じるような怯えと孤独感でした.もしかしたら,小学校や中学校のときにそんな経験があったのかもしれません.また,今もそれと気づかずに感じているのかもしれません.しかし,祈っているうちに,何か違う感じがしてきました.「それは,神様がわたしに示してくださろうとしているものではない」という感じかもしれません.

入れるかどうか,もしかしたら閉め出されるかもしれない,という不安 — たしかに,それは,「お前たちがどこの者か知らない」(13.25, 27), 「外に投げ出される」(13.28) などの言葉が指示するところではありますが — は,今日の福音の中心的なメッセージではない気がします.祈りながらテキストを読み返している間に,「救われる者は少ないのでしょうか?」という問いに対してイエスは直接(「少ないよ」とか「たくさん救われるよ」とは)答えてはいないことに気づきました.結局,こう感じられてきました :「救われるのかどうか」と問うこと自体に何か心のボタンの掛け違いのようなものがある.その気づきの瞬間から,祈りが心に流れ込んできた気がします.

「主よ,救われる者は少ないのでしょうか?」— こう質問する人は,もしかしたら,救われることを望もうか,望むまいか,迷ってる人のように思えてきました.「天国にはたくさんの人は入れない,もしかしたら,わたしも入れない — だとしたら,違うことを考えた方がいい.もしそうだとすれば,本当は天国に入りたいにしても,結局入れないなら,違うことを考えた方がいい.天国のことは心から締め出して,世の中で成功し,楽しいことに身を浸すことにこころを向けたほうが得ではないか」.そんなこころの動きが,この問いの裏にはあるのかもしれません.

わたしたちが天国に入れるとすれば,それはどんなときでしょうね?わたしたちが天国に入れないとしたら,それはどんなときでしょうか?これは,わたしたちがこころに浮かべるべき質問ではない気がします.わたしたちが「入る」と思っても,天国というのは相手(神様)のいる話ですから,わたしが「入ります」と言っても,「いいや,残念でした」と言われてしまったら,それっきりということになるかもしれません.

しかし,逆に考えれば,相手がいるということは救いだ,とも思えます.誰かが,悪い人ではなくて,普段の生活のときから「人をだますのはいやだなあ」とか「人を蹴落とすのはやめておこう」と思っていて,「優しい神様といっしょに住むのは気持ちがいいだろうなあ」と思っていて,心のなかにこの優しい思いの場所が増えてゆけば,天の国の門は,場合によって,たとえ閉まりかけているようなことがあっても,その門の隙間はその人の目の前で,ゆっくりゆっくり,少しづつ少しづつ,もう一度開いて行くような情景がこころに浮かびます.

ところで,わたしは,土曜日から今朝にかけて,帰省していたんですが,家には今年高校 3 年生になる姪と甥がいました.二人は大学受験をすると聞いていましたので,甥に,学校見学をしてきたかと問うと,彼は,高校の先生に,「学校見学用に準備してある日は,客寄せのようなもので,実際の学校生活とは違うから,あまり役に立たない」という旨のことを言われたそうで,「行っていない」との返事でした.わたしは,行って見るように勧めました.とりあえず行ってみて,「ああ,いいなあ,ここに来てみたいなあ」と思えれば,勉強がはかどるからと.「ああ,ここに来たいなあ」と思うと,心はまっすぐ勉強に向かいます.逆に,「受かるかなあ,受からないかなあ,どうかなあ,不安だなあ」と心配していては,心が勉強に向かい難いからです.

わたしたちは,望むものを前にしたとき,そして,そうしたときにこそ,不安を意識するものです.本当に手に入れたいものにチャレンジするとき,心はそれを失うときの不安をも予期するものです.「この人は,わたしのことを受け入れてくれるかなあ,わたしのことを話したら,今までどおりに接してくれるかなあ... もしかしたら,心を閉ざしてしまうかもしれないなあ...」.そう思えば,思えば思うほど,たとえ本当にはその人の心の扉が閉ざされていなくても,自分の方の見え方のなかで,扉の隙間は狭くなっていってしまいます.でも,そこでその狭い扉に身を入れてみれば,気づくかもしれません :「ああ,こんなに広かったんだ,この門は!」と.

「救われる者は少ないのでしょうか?受け入れてもらえる人は少ないと思いますか?」— そう質問していると,天国の門は,自然に,どんどん閉まって行く,どんどん遠くなって行く... そのような気がします.

こころの扉が少しづつ狭くなってゆくとしたら,たしかに,天の門の隙間は狭くなってゆくでしょう.そして,自分の目には閉ざされてしまっているように見える扉の前で,道の上で,泣きわめいて,歯ぎしりをすることになったら,つらいことです.わたしたちの心が自然に神様と人に向かって開かれて行くように願って,毎日,過ごすことができますように.