2020年1月2日木曜日

新年の御挨拶 : LGBTQ みんなのミサ世話役 ルカ小笠原晋也

Theotokos of Vladimir (around 1131), in the Church of St. Nicholas in Tolmachi, Moscow

新年 明けまして おめでとうございます!主の愛が 皆さん おひとり おひとり と ともに ありますように!

元旦のミサの第一朗読,民数記 6,22-27 から,祝福の言葉を引用しましょう:
主が あなたを祝福し そして あなたを守護してくださいますように! 
主が 御顔の輝きを あなたへ向け そして あなたに恵みを与えてくださいますように! 
主が 御顔を あなたへ向け そして あなたに平和を与えてくださいますように!

しかし,元旦も めでたい気分でいることは 全然できません.降誕祭の御挨拶 では,カトリック聖職者による性的虐待の問題に触れました.その後 目にとまった Associated Press の記事 は,教皇庁の教理省のなかでその問題を担当する部門の責任者 Mgr John Kennedy のインタヴューを報じています.彼によると,2019 年一年間で 新たに千件が 世界中から報告されたそうです(新たに性的虐待事件が 千件 起きたのではなく,今まで伏せられてきた過去の事件 千件 の報告を 教理省が受けた ということです).この問題は,まだまだ とどまることろを知りません.今後,膨大な数の損害賠償訴訟も起こされるはずです.

たとえば,大晦日付の Associated Press は,Donald McGuire(1930-2017 ; もとイェズス会司祭 ; saint Teresa of Calcutta との近しい関係を誇示していたことで知られていた ; 2008 年に聖職解任 ; 2006 年に初めて性的虐待のために有罪判決を受け,その後,さらに ほかの性的虐待事件でも有罪判決を受けて,2009 年から 25 年の刑期で 収監されていたが,2017 年に獄中で死去)から 少年時代に 性的虐待を受け続けた ある被害者が,イェズス会などに対する損害賠償請求のために提訴したことを,報じています.Donald McGuire は,その被害者が多数であったこと,彼の問題行動は 1961 年の叙階直後から指摘されていたにもかかわらず,イェズス会は長年にわたり適切な対処を怠ってきたこと,などの理由により,悪名高いケースのひとつです.

Mgr John Kennedy のインタヴュー記事 に戻ると,Benedictus XVI は,加害者を聖職から解任することによって,「もう今後は Vatican は関係ない」という姿勢を取っていましたが,それに対して,Papa Francesco は,加害者を,Vatican の監視下に置き続ける(加害者を「野放し」にしないために — というのも,時効や証拠不十分のために刑事責任が問われ得ない場合,聖職から解任された加害者は,一般社会のなかで性的虐待を繰り返して行く可能性があるからです)ために,安易に司祭職から解任しない方針を取っているそうです.ですから,もしかしたら,性的虐待の責任を問われて司祭職から解任された者の数は,Benedictus XVI の時代の方が Papa Francesco の時代よりも多いということになるかもしれません(まだ数字は確定していません)が,それは,Papa Francesco の対応が甘いということを意味するものではありません.

また,2019 年 12 月 27 日付の Washington Post 紙の記事 は,性的虐待を行ったカトリック聖職者のうちで最も位の高い者のひとり,Theodore McCarrick が,罪の隠蔽のために 総額 60 万ドル以上の賄賂をばらまいていた可能性を,示唆しています.McCarrick からの「寄付」を受け取っていた者たちのなかには,過去の教皇ふたり  Johannes-Paulus II と Benedictus XVI  も含まれています.

カトリック聖職者による性的虐待を防止するためには,カトリック教義から homosexuality 断罪を一掃する必要があること,および,司祭養成過程において「欲望の昇華」の課題に主題的に取り組む必要があること は,今までにも 繰り返し 指摘してきました(特に『LGBTQ+ と カトリック教義』を参照).

このブログ記事では,性的虐待の問題は ここまでにして,次に,降誕祭メッセージ で取り上げることのできなかった〈カトリック教会における〉女性差別の問題 — 特に,女性の司祭職からの排除の問題 — に 簡単に 触れたいと思います(より詳しい検討は 別稿で).

この問題について しばしば引用されるのは,Johannes-Paulus II の 1994 年 5 月 22 日付の 使徒書簡 Ordinatio sacerdotalis の結論です:
Ut igitur omne dubium auferatur circa rem magni momenti, quae ad ipsam Ecclesiae divinam constitutionem pertinet, virtute ministerii Nostri confirmandi fratres (Luc. 22, 32), declaramus Ecclesiam facultatem nullatenus habere ordinationem sacerdotalem mulieribus conferendi, hancque sententiam ab omnibus Ecclesiae fidelibus esse definitive tenendam. 
Pertanto, al fine di togliere ogni dubbio su di una questione di grande importanza, che attiene alla stessa divina costituzione della Chiesa, in virtù del mio ministero di confermare i fratelli (Lc 22, 32), dichiaro che la Chiesa non ha in alcun modo la facoltà di conferire alle donne l'ordinazione sacerdotale e che questa sentenza deve essere tenuta in modo definitivo da tutti i fedeli della Chiesa. 
C'est pourquoi, afin qu'il ne subsiste aucun doute sur une question de grande importance qui concerne la constitution divine elle-même de l'Église, je déclare, en vertu de ma mission de confirmer mes frères (cf. Lc 22,32), que l'Église n'a en aucune manière le pouvoir de conférer l'ordination sacerdotale à des femmes et que cette position doit être définitivement tenue par tous les fidèles de l'Église. 
それゆえ,神によって定められた〈教会の〉あり方そのものにかかわる ひとつの たいへん重要な 問い について あらゆる疑いを除去するために,わたしは,兄弟たちを[その信仰において]確固たるものにする わたしの使命(ルカ 22,32)の名において,こう宣言する:教会は,如何とも,女性に司祭叙階を授ける権限 [ facultas, facoltà, pouvoir ] を有してはいない.かつ,わたしは こう宣言する:この見解を,教会の全信者は 決然と 取るべきである.

Papa Francesco も,2013 年 7 月 28 日 の Rio de Janeiro からの帰途の機上記者会見のなかで,この Johannes-Paulus II の言葉に準拠しつつ,「女性の司祭叙階への扉は閉ざされている」と述べており,その後も,その見解を維持しています.

1994 年の使徒書簡 Ordinatio sacerdotalis において,Johannes-Paulus II 自身は,Paulus VI が 1975 年に Church of England の Canterbury 大司教に 宛てた書簡 と 教理省の 1976 年の声明 Inter insigniores とに 準拠していますが,そちらの内容に立ち入るのは 別の機会にしたいと思います.

ともあれ,Johannes-Paulus II の言葉 :「カトリック教会は,女性に司祭叙階を授ける権限を有してはいない」を見ると,我々は すぐに気づきます:たとえ教会にはできないとしても,神にはできる — そも,「それは 人間には 不可能だが,神には あらゆることが 可能である」(Mt 19,26). そして,たとえ教皇が女性司祭叙階不可の見解を決定的なものとして我々に押しつけるとしても,「そも,誰が 主の考えを 知ったか?」(Rm 11,34). であればこそ,Reinhard Marx 枢機卿 も こう言っています :「カトリック教会は 教皇が断言したことに配慮しないわけには行きませんが,しかし,女性司祭叙階に関する議論に 決着がついたわけではありません」.

女性司祭叙階の可否の問題を カトリック教義との関連において ふりかえってみると,それは Magisterium Ecclesiae[教会の教導権]の問題と密接に関連していることが わかります.

ここでは,詳細に立ち入ることは控えて,要点だけ述べましょう.Lex Naturalis[自然法]とともに,カトリック教義に含まれる「形而上学的偶像崇拝」(l'idolâtrie métaphysique) を成す Magisterium Ecclesiae は,要するに,神を,司教たちの véridicité[真言性:真理を言っている ということ]を a priori に[先験的に]保証するものとして利用することに存します.そして,そのような保証は 男にのみ妥当します — なぜなら,女には「それ」が 欠けているから.

女には 何が欠けているか ? 突然,精神分析の用語を持ち出してくることを お許しください:女には phallus が欠けている(phallus は,身体器官としての penis のことではありません).そして,その phallus と,真言性の保証としての神 — Pascal が「哲学者たちと神学者たちの神」(le Dieu des philosophes et des savants) と呼んだ「形而上学的な偶像神」(l'idole métaphysique) — とは,同じひとつのものですです.

我々は「女には phallus が欠けている」を自明のことと思い込んでいます.それに対して,フランスの精神分析家 Jacques Lacan (1901-1981) は こう言っています :「女には 何も欠けていない,女は 何も欠いていない」(la femme ne manque de rien). つまり,女における「phallus の欠如の穴」と見なされている穴は,「本来あるべき phallus が欠落しているがゆえに開いた穴」ではなく,しかして,「穴が開いている」ということが本来的である.むしろ,男において その穴が phallus によって塞がれている という事態の方が,非本来的である.穴塞ぎの phallus は,単なる「まがいもの」にすぎない — Pascal が「哲学者たちと神学者たちの神」と呼んだ「形而上学的な偶像神」と同様に.

ひとことで言えば,「女性は 司祭に叙階され得ない」という カトリック教会の伝統的な見解の理由は,このことです:女性は 神の啓示の真言的な証人ではあり得ない — なぜなら,女性には,真言性の a priori な保証としての phallus が欠けているから.

しかし,その見解は,実は,カトリック教会の伝統そのものによって,否定されています : Maria Magdalena を Apostolorum Apostola[使徒たちの使徒]と呼ぶ伝統によって.彼女の証言 — Jesus が 死から 永遠の命へ 復活した ことの証言 — こそが,キリスト教の最も根本的な基礎です.使徒たちは,彼女の証言を 真なるものとして 信じました.そこに,カトリック教会の歴史は始まります.

今年,わたしたちは,この矛盾を指摘することから出発して,カトリック教会における女性差別の問題についても 問い直して行きたい と思います — 引き続き,LGBTQ+ カトリック信者はカトリック教会のなかで如何に生き得るか について問うとともに.

最後に,いかなる差別の正当化をも許さないパウロ書簡の有名な一節を,引用しておきましょう (Ga 3,26-28) :
そも,あなたたちは皆,信仰によって,Christus Jesus において 神の子である.そも,Christus のなかへ浸されたあなたたちは皆,Christus を身にまとったのだ.もはや,ユダヤ人もギリシャ人も無く,奴隷も自由人も無く,男も女も無い.そも,あなたたちは皆,Christus Jesus において一者である.

2020 年が 皆さんにとって 幸多き年でありますように!

ルカ小笠原晋也

2019年12月28日土曜日

Reinhard Marx 枢機卿:同性カップルは カトリック教会で祝福を受けることができる


München und Freising 大司教,ドイツのカトリック司教協議会の会長,Reinhard Marx 枢機卿 は,2019年12月22日付 (Internet edition) の Stern 誌のインタヴュー のなかで,同性カップルはカトリック教会のなかで祝福を受けることができる,と述べました — ただし,それは,カトリック教会は同性カップルにも「司牧的に寄り添う」(seelsorgliche Begleitung) ということであって,「結婚の秘跡」を授けるわけではありません.

同じインタヴューのなかで,Reinhard Marx 枢機卿は,カトリック教会は homosexual の人々を歓迎する,と強調しました.同性どうしが,長年,互いに誠実にカップルの生活を送っているなら,教会は,彼れらの生き方に一概に負や無の評価をくだしてはならない,と 彼は考えます.そして,「そのせいで,わたしは,多方面から批判を受けています」と大司教は言います :「ある人々は『彼は やりすぎだ』と言い,ほかの人々は『彼は 不十分だ』と言います」.

女性の司祭叙階のテーマに関しては,Marx 枢機卿は,こう言います:カトリック教会は,教皇が断言したことに配慮しないわけには行きません.聖ヨハネパウロ II 世は,1994年に,教会は女性に司祭叙階を授ける権限を有していない,と強い表現で断定しました.その言葉に,教皇 Francesco も,最近,Marx 枢機卿との対話のなかで,言及し,「女性司祭叙階への扉は閉ざされている」と言いました.しかし,にもかかわらず,Marx 枢機卿によれば,そのテーマに関する議論に決着がついたわけではありません.

また,Marx 枢機卿は,こう言います:彼にとって,教会は「招鳥」(獲物を招き寄せるための「おとり」)のようなものです.その「招鳥」は,世界中を飛び回って,こう呼びかけます :「あなたたちの関心を引くかもしれない人がいる — ナザレのイェスだ!」 ただ,教会無しでも,神への道はあります.カトリック教会の外にも多くの人々がおり,彼れらが皆,道に迷ってしまうわけではありません.

Marx 枢機卿といえども,神に対して疑いを持つことは,幾度もあります.「わたしも,信仰において常に強いわけではありません」,と 彼は言います :「枢機卿だからといって,疑いを持ってはならないのでしょうか?」 年をとるにつれて,ますます,「疑う」の無い「信ずる」はあり得ない,と感じます.Auschwitz で,神はどこにいたのか? 2016年12月にベルリンのクリスマス市場で起きたテロ事件の際に,神はどこにいたのか?それらの問いに,Marx 枢機卿は こう答えます :「わたしたちは,神を,世界の修理業者のようなものと思ってはなりません」.交通事故を防いでください,とか,試験の合格のために配慮してください,と神に願うことは,きわめて人間的ではありますが,「しかし,わたしたちは,神と人間との関係の神秘のなかへ より深く 入り込んで行かねばなりません」.

わたしたちは,よく,「わたしが神であれば,全然ちがうようにしていただろう」と思ったりしますが,しかし,人間の「...することができる」という考えを,神にまで当てはめてはなりません.神は人間とはまったく異なるのだ,ということを受け容れねばなりません.神は,歴史の犠牲者たちと連帯するでしょう.最後に,神は,正義を実現するでしょう.

カトリック聖職者による児童や女性に対する性的虐待の事件に関しては,Marx 枢機卿は,こう言います:性的虐待のスキャンダルの後,彼は,教会の歴史へ より批判的な目を向けるようになり,また,教会の見かけと実際との間の解離に より注目するようになりました.性的虐待事件は,加害者個々人の問題ではなく,教会のシステムにかかわる問題です.聖職者たちの重大な過ちは,教会の評価を低下させましたが,教会を破壊したわけではありません.なぜなら,教会は,単なる人間の集まりではないからです.枢機卿は,こう強調します :「子どもを虐待する者は,神をも虐待しているのだ」.


Stern 誌の記事 は 同誌を購読しないと読めないので,Katholische Kirche in DeutschlandVatican News ドイツ語版 から,以下の記事を参照しました:


2019年12月25日水曜日

主の御降誕 おめでとうございます : LGBTQ みんなのミサ 世話役 ルカ小笠原晋也

La Vierge au pilier de Notre Dame de Paris

主 Jesus Christus の御降誕 おめでとうございます!

わたしたちが皆,永遠の命に与る神の子であるようにしてくださった 神の御子の御生誕の喜びを,皆さんと分かち合いたいと思います.

2019年を振り返ってみましょう.

2019年の最も喜ばしい出来事は,勿論,Papa Francesco の訪日(11月23-26日)でした.パパ様は,今,愛を最も必要としている日本社会に,神の愛のメッセージを ふんだんに伝えてくださいました.

改めてパパ様に感謝し,それとともに,パパ様の訪日を実現し,そのためにたいへんな御尽力をしてくださった方々に 感謝したいと思います.

ただし,パパ様が伝えてくださった神の愛の福音を聞く「耳」を日本人たち(日本語を母国語とする人々)が有しているか否かは,別問題です.日本語という言語は神の愛の福音を伝えることができるのか?わたしにとって,それは大きな疑問です.

周知のように,明治政府が,日本人キリスト教信者に対する迫害と弾圧(浦上四番崩 : 1867-1873)を,欧米諸国から強い抗議を受けた結果,やっと中止し,日本人のキリスト教信仰をしぶしぶ容認したのは,1873 年 2 月 24 日のことです(昨今,新聞記事などで その語を見かけることはほとんどなくなりましたが,「外圧」の効果です — 多分,日本社会の変化は,日本人自身の決断によってもたらされることはなく[なぜなら,日本語は思考不能言語であり,したがって,日本語に住まう者は決断することもできないから],日本社会の外の要因により誘発されるしかないでしょう ; 1945年の敗戦もその一例です).2023 年に,わたしたちは,キリスト教「解禁」の 150 周年を迎えます.しかし,日本社会における日本人キリスト教徒の数は,カトリックとプロテスタントを合わせても,総人口の 約 1 % でしかない と言われています.ミサや礼拝に積極的に参加する能動的ないし活動的な信者の数は,もっと少ないでしょう.パパ様の来日は各種メディアにより大きく報道されましたが,それがどれほどの福音宣教の効果を持ち得るか,楽観している者は,ほぼ皆無でしょう.なぜ,日本人たちには,神の愛の福音は これほどにも伝わらないのか?なぜ,日本人たちは,神の愛の福音に これほどにも無関心なのか?それらの問いを根本的に問う必要がある,と わたしは思っています.

カトリック教会は,2019年も,聖職者による児童や青少年や女性に対する性的虐待の問題に揺るがされ続けました.USA では,もと Washington 大司教で,枢機卿でもあった Theodore McCarick が,一切の司祭職から解任されました.Australia では,もと教皇庁財務省長官,George Pell 枢機卿に,二審でも有罪判決が下されました.2 月 21-24 日,Vatican では "sexual abuse summit" が開かれ,世界各国の司教たち(日本からは,高見三明 長崎大司教 様 が参加)は,被害者たちのなまなましい証言を 直接 聴きました.

日本でも,初めて,1960 年代,9-10 歳だったころに,サレジオ会のドイツ人神父  Thomas Manhard (1914-1986) から性的虐待を受けていた 竹中勝美 さんが,被害者として みづから 告発の声を挙げました.竹中さんは,実は,既に 2001 年に 問題を 東京大司教(当時,岡田武夫 大司教 様)と サレジオ会 に告発していたのですが,日本のカトリック教会は何ら誠実な対応をしなかった,ということも,我々は初めて知りました.4 月 07 日,竹中さんがみづから主催した会合に,高見三明 大司教 様は,竹中さんの「招待」に応えて,参加し,その場で竹中さんに対する謝罪の言葉を述べました.竹中さんに対する司教協議会とサレジオ会の正式な謝罪は,まだ公式には発表されていませんが,和解に向けての努力は継続されているようです.公式謝罪が 2020 年早々にでも為されることを,期待したいと思います.

ところで,カトリック聖職者による性的虐待の問題の責任を gay である司祭(司教)に帰そうとする保守派論者たちがいますが,それはまったくのお門違いです.被害者の多くは男児(事件当時)ですが,だからと言って,事件の原因は 加害者が pedophile gay であることに存する,と推論することは,論理学的に言って,間違っています.しかも,被害者のなかには,少なからず 女性もいます.

カトリック聖職者による性的虐待の問題の本当の原因は,権力構造の問題 (clericalism) もさることながら,より本質的には,司祭養成の過程において 性的欲望の「昇華」(sublimation) の課題に主題的に取り組むような問題意識が カトリック教会に欠けていること に存している,と わたしは,精神分析家として,考えます.USA の SJ の週刊誌 America の論者たちでさえ,昇華の本質的な重要性に気づいてはいないようです.

しかも,現行のカトリック教義は,homosexuality の断罪によって,欲望の昇華の作業を妨げています.

神学生の少なからぬ割合が gay であることは,USA などにおいては 以前から経験的に知られている事実です.その理由も,察しがつきます.それは,敬虔なカトリック信者である母親の(明言された あるいは 暗黙の)要請が 司祭職につくことを動機づける(意識的にであれ 無意識的にであれ)場合が少なくない,ということです.そのようなケースにおいては,たいてい,母親との同一化が生じています.そして,それによって,「母親の欲望の対象であった子ども時代の自分自身」を代理する者(男児)を性愛の対象として選ぶ 対象選択 — つまり,homosexual pedophilia — が,条件づけられます.しかし,カトリック教義による homosexuality の断罪は,gay である神学生たちにおいて,sexuality の「抑圧」(Verdrängung) を引き起してしまい,それによって,当人たちが欲望の昇華の課題に意識的に取り組むことを 不可能にしてしまいます.そのような場合にどうなるか?「女性に性的な魅力を感じないから,わたしは,性欲の問題を克服できているのだ」というカン違いが生じます.そして,司祭に叙階されて,身近に子どもたちがいるような環境に置かれると,抑圧された欲望は 症状として 回帰してきます.そうなると,いくらダメだとわかっていても,性的欲望の強迫的な行動化を自制することは できなくなります.Theodore McCarrick はその一典型例だろうと思われます.

したがって,カトリック聖職者による性的虐待の問題を根本的に解決するためには,『カトリック教会のカテキズム』から homosexuality 断罪を完全に削除することと,司祭養成過程において「欲望の昇華」の課題に主題的に取り組むこととが,必要になってきます.以上のことを Vatican に悟らせねばなりません.が,どのようにして...?

他方,homosexual の人々を差別してはならない という考えは,Papa Francesco の包容的な姿勢のおかげで,カトリック教会全体に浸透してきているようです.特に,今月,ドイツのカトリック司教協議会が「homosexuality は,heterosexuality とともに,性的素質の正常な形態のひとつである」と 声明 で述べたことは,注目に値するでしょう.

日本の場合は,なにしろ カトリック信者は極端な少数派ですから,gay を差別していたのでは,そもそも教会が成り立たない,という危機意識は,多かれ少なかれ共有されているようです.カトリックである日本人の数は 多めに見積もっても 日本人の総数の 約 0.3 % にすぎないのに対して,LGBT 人口は総人口の 4.5 %(2017年に USA で行われた Gallup 調査)です.日本でも LGBT 人口の割合がその程度であるとすれば,LGBTQ+ の人々がカトリックを「差別的」と非難するなら,日本ではカトリック教会はとてもやって行けないことになるでしょう.

ともあれ,LGBTQ+ の人々も,神の愛を必要としています.そして,カトリック信者たちは,彼れらに神の愛の福音を伝え,彼れらをカトリック教会に迎え入れることができます.両者の双方向的なつながりを より確固たるものにしよう — それが,James Martin 神父様 SJ の「橋を架けよう」(Building a Bridge) という提案です. 

日本においても,わたしたちの LGBTQ+ みんなのミサ は,2016 年 7 月 17 日の第一回以来,今月で まる 3 年 6 ヶ月間,継続されてきました.参加者の皆さんと,御協力くださる神父様たちとに,改めて御礼申し上げます.今後も,LGBTQ+ カトリック信者の信仰共同体が発展して行くよう,ともにお祈りください.

最後に,LGBTQ+ とは直接関係の無い話ですが,わたしにとって今年,最もショッキングであった出来事は,何と言っても,4 月 15 日に起きた Notre Dame de Paris の火災です.幸い,la Vierge au pilier(柱のマリア様)と呼ばれている聖母子像は無事でした.

2018年 1 月 2 日付の ブログ記事 から引用します:
この記事の冒頭に掲げた写真は,Notre Dame de Paris の主祭壇の向かって右手の柱のところに置かれた聖母子像です.(参考までに,12月31日,聖家族の日のミサの録画を御覧ください.特に,閉祭の際に,司祭たちはその聖母子像に祈りを捧げています). 
わたしは,Paris に滞在するときは,たいてい,Notre Dame de Paris の主日 18:30 の御ミサに与ります.パリ大司教 André Vingt-trois 枢機卿(彼は今月隠退し,Michel Aupetit 大司教が新たに着座します)の説教がすばらしいのと,この聖母子像が好きだからです. 
Raffaello の Madonna Sistina も好きですが,Notre Dame de Paris のこのマリア様は,冠をいただく天の后として,より威厳と憂いを有しているように見えます.右手には百合の花を持ち,左手で幼子イェスを抱いています.幼子は,右手で聖母のマントをつかみ,左手には地球を表す球を持っています. 
Gérard Braumann という人が個人的な趣味で (?) つづっているブログの記事によると,この像は14世紀なかばに制作され,当初は Île de la Cité 内の別の聖堂のものでしたが,1855年に現在の場所に移設されました. 
『サテンの靴』などの戯曲で知られるカトリック作家 Paul Claudel (1868-1955) は,時代の風潮に流されるがままに無神論者,唯物論者でしたが,18歳の年の降誕祭の日,単なる好奇心から,Notre Dame de Paris のこの聖母子像の近くで,立ったまま,晩課で聖歌隊の子どもたちが歌う Magnificat を聴いていたとき,突如感動に襲われ,信仰に目覚めた,とみづから証言しているそうです. 
そのような神との出会いは,日本社会においては,どのようにして起こり得るでしょうか  キリスト教の信仰がまったく広まらないままの日本社会において?

また,James Martin 神父様 SJ は,Notre Dame de Paris の火災のニュースを見て「泣いた」と言っています(わたしもです).しかし,消火がやっと済んだ聖堂のなかに入った消防士たちが最初に見たものは... 内陣に輝く十字架でした.James Martin 神父様の記事の邦訳 を改めてお読みください.

ここでこのブログ記事を終えようとすると,「おまえは,カトリック教会内の女性差別の問題に 一切 言及していないではないか!」という非難の声が聞こえてきます(ごめんなさい!)が,もう十分長い記事になってしまったので,その問題を論ずる
ことは別稿に譲りたいと思います.

最後に 改めて,主の御降誕おめでとうございます ! Merry Christmas ! Joyeux Noël ! Buon Natale ! ¡Feliz Navidad!

LGBTQ+ みんなのミサ 世話役

主の御降誕 おめでとうございます : LGBTQ みんなのミサ 世話役 ペドロ宮野亨

en la Catedral metropolitana de Buenos Aires


クリスマスの喜びに感謝!

すべての人が神の最高傑作だ と 私たちの「LGBTQ+ みんなのミサ」で,毎回感じます.ともに祈り,心から感謝します.神を愛する心も 全て神が私にくださっているから,私は神を愛し,友を愛せます.この事実をみなさんが教えてくださいます.心から感謝します.

私にとって大事な事実のひとつを,今日は書きます.それは,罪の三段階(① < ② < ③)の話です.

①「盗む」などの行いの罪;
②「イエスなどいない」と勘違いする罪;
③「わたしには神に愛される資格など無い」と思う罪.

一番重い罪は,「わたしには神に愛してもらえる資格など無い」と思いこむ罪です.「根源的な自己否定の罪」と言います.根源的自己否定の罪は,殺人の罪よりも重い,と考える神父もいます.「行いによる罪」も「神を否認する罪」も犯していなくても,「根源的な自己否定の罪」を犯していることに気づかなければ,重い罪を犯したままだ,ということになります.

わたしたちは,「行いによる罪」や「神を否認する罪」を犯さないようにすることに,日々,気を取られてしまいます.「わたしの行いが完璧ではないから,『カイシン』(後述参照)が難しいから,わたしは神に愛してもらえなくなっている」というような 心の固まりを,度々聞きます.

過去の私の場合も,「行いによる罪」や「神を否認する罪」に関しては改善できても,「根源的な自己否定の罪」を犯すことについては変われないままでした.つまり,「謙遜になれば 愛してもらえる」と思ってしまい,「愛されているから 謙遜になれる」という事実を 素直に生きていませんでした.「根源的な自己否定の罪」を反省できないのは,サタンの思う壺ですね.

その後,私は変わりました.「根源的な自己否定の罪」を振り返る習慣が身につき,それによって,「行いによる罪」や「神を否認する罪」に関しても変わって行くことができる というのが事実だ,と実感し始めました.つまり,毎日,神に愛されていると実感できれば,「根源的な自己否定の罪」から脱することができるので,「行いの罪」や「神を否認する罪」と向き合うことができるようになります.

皆さんは,「カイシン」という語を,何とおりに書くことができますか ? 改心」と「回心」と「悔心」と「開心」の四とおりです.

教会では,「改心」と「回心」と「悔心」の話ばかりです.でも,マザー テレサ は言います :「愛されるために 自分と違ったものになる必要は,ないのですよ。ありのままで愛されるためには、ただ,神に向かって心を開くだけでいいのです」.

私にとっては「開心」の祈りが日々の習慣です.

自分の真実を神に開示するのが怖くて,なかなかできず,癒やされもせず,苦しみを抱えて,自分の力で解決しようと四苦八苦して,結局,「行いによる罪」と「神を否認する罪」のことしか見えなくなってしまいます.「根源的な自己否定の罪」見えなくさせてしまう サタンの思う壺です.

実は,神は,私が開示しなくても,私のことを すべて御存じです.ですから,「もう御存じのことですが,実は,私はこんなふうに苦しんでいます」と,ちょっとだけでも言えればいいんですね.

「ありのままで神に愛されている」という実感 — 皆さんは どうですか?私は体感します.どんなふうに体感するか?祈った後に「...だと思う」というのは,考えているだけで,祈っていない,という知恵もいただきました.人の心のなかに自由に出入りできるのは神だけですから,「思う」のではなく,「感じる」のが,神に愛されている実感です.

神に触れられたと想像したときに,体が冷えたり固まったりはしないですね.神に愛されて,触れられて,心の頑なな傾きが解きほぐされて,自由で,リラックスして,何より,穏やかで,暖かい感覚になります.

「根源的な自己否定の罪」は,神の愛を実感するだけで,消えていきます.

毎日 15 分間だけ,祈ります.1 日は 1440 分ですから,15分は 1 日の 約 1 % です.1 日の 1 % だけでも,毎日,神に祈りを捧げます.私にとっては,何よりも大事な時間です.

さらに,恵みもあります.悩み苦しみがあるとき,どうしたらよいかわからないとき,教会や友や神父様に相談しても,十全な答えも得られませんし,話す機会もありません.そんなとき,自分で選んだ方向性を神に受け取ってもらって,その後,心が暖かくなったら,十全な答えに近づきます.幾度も繰り返して,方向性や選びが定まっていきます.そういうプロセスを経た選びは,神の望みだと感じます.神に話すことは,いつでも,どこでも,何でも,何度でも,できます.心がざわざわしたり,冷たくなったり,急にハイになったりするときは,神の真似をして,私を間違った方向に連れ去ろうとするサタンの動きです.私の場合は,「穏やかな暖かさ」の体感が,恵みの印です.人それぞれのようです.

誰一人 例外なく 全ての人が 神の最高傑作である,という恵みを生きることができるように,恵みの橋を 皆の間に 架けていきましょう.

LGBTQ+ みんなのミサ 世話役

2019年12月21日土曜日

ドイツのカトリック司教協議会は homosexuality を heterosexuality と同様に「性的素質の正常な形態」のひとつ と 認めた

向かって左から:ドイツのカトリック司教協議会の会長,München 大司教 Reinhard Marx 枢機卿,Berlin 大司教 Heiner Koch, Osnabrück 司教 Franz-Josef Bode(写真は 2015 年 10 月の Radio Vatikan の 記事 より)

ドイツ司教協議会は,2019年12月05日付で発表した 声明 のなかで,「人間の性的指向は,思春期に明確に現れてくる際,heteroseuxal な方向性 または homosexual な方向性を取る.両者は,ともに,性的素質の 正常な 形態であって,如何なる社会的影響によっても変えることはできず,また,[無理やり]変えられてはならない.homosexual な性向を有する人を 如何なる形においてであれ 差別することは,決して許されない」と述べました.


homosexuality の精神病理性を否定することは,精神医学の領域においては既に1970年代から始まっており,また,性的指向を変えようとする conversion therapy のたぐいの無効性と有害性も,既に1990年代には常識になっていました.カトリック教会が 遅まきながらも 医学的な常識を考慮に入れつつあるのは,喜ばしいことです.



Deutsche Bischofskonferenz, 05.12.2019 | Pressemeldung | Nr. 205

Fachkonsultation „Die Sexualität des Menschen“

Der Vorsitzende der Familienkommission, Erzbischof Dr. Heiner Koch : Ebenso herrschte Einverständnis darüber, dass die sexuelle Präferenz des Menschen sich in der Pubertät ausprägt und eine hetero- oder homosexuelle Ausrichtung annimmt. Beide gehören zu den normalen Formen einer sexuellen Prädisposition, die durch keine spezifische Sozialisation veränderbar ist oder verändert werden müsste. In den Überlegungen der Kirche bedeutet dies in der Folge, dass jedwede Form einer Diskriminierung von homosexuell veranlagten Menschen zurückgewiesen werden muss, wie es schon länger lehramtlich gefordert ist und auch von Papst Franziskus im Nachsynodalen Schreiben Amoris laetitia ausdrücklich betont wird.

So sei eine sexuelle Beziehung nach Scheidung und Wiederheirat hierin nicht weiter pauschal als schwere Sünde qualifiziert und damit auch kein genereller Ausschluss mehr vom Empfang der Eucharistie vorgesehen.

2019年12月4日水曜日

酒井陽介神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年11月17日

Francesco Hayez (1791-1882), La Distruzione del Tempio di Gerusalemme (1867), nelle Gallerie dell’Accademia di Venezia



酒井陽介 神父様 SJ の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019 年 11 月 17 日(年間 第 33 主日,C 年)


第一朗読:マラキの預言 (3,19-20a) 
第二朗読:第 2 テサロニケ書簡 (3,07-12) 
福音朗読:ルカ (21,01-09)

今読まれた福音のなかで,こう言われています:「ある人たちが,神殿 * が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると,イェスは言われた:あなたがたは,これらの物に見とれているが,ひとつの石も崩されずに他の石のうえに残ることのない日が,来る」.

イェスのかたわらで「神殿が見事な石と奉納物で飾られている」ことに感激する人々も,ユダヤ民族の歴史的な経験上,神殿が崩れ去るときが来るということは,感覚的にわかっていたんだ,と思います.もちろん,もう崩れて欲しくはないから,そのたびごとに,しっかりしたもの,堅固なものにするわけですが,しかし,それが崩れるときが来るかもしれない,ということは,どこか頭のかたすみにある.ただ,我々は,信仰が強ければ強いほど,神が守ってくださるんだから,ローマ帝国にも対抗し得る力を持つ民であり,我々の神はそのような神なのだ,という自負心があったことでしょう.

しかし,イェスは,言います:そういったものにあまり重きを置いても,意味は無い;建物や組織といったものは,いつかはなくなるのだ;だから,本当に大切なものを見極めなさい — そういうメッセージがここにある,と思います.

どれほどりっぱな建物も — 聖イグナチオ教会も,東京カテドラルも,ヴァチカンのサンピェトロ大聖堂も — どれほど壮大で,どれほど豪華で,どれほど有名な建築家の手による美術的な価値が高い建物であっても,それは,あくまでも人間が作ったものにすぎない;神をそのなかに閉じ込めておくことはできない;神は,そのような建物よりも大きいのだ — イェスは,きっと,そう言いたかったのだろう,と思います.

わたしたち人間は,何か物を作ることによって自分の存在を証ししたり,また,作った物を自分の権威や自己主張を示し,顕わす道具にしたします.もちろん,すべてがそうではないでしょう.建物に夢をかける — それは,大いなることです.Gaudi の Sagrada Familia がそうでしょう.しかし,Sagrada Familia も,いつ,どのような形で崩れ落ちることになるのか,誰にもわかりません.あのように壮大な建築は,人間にとって,神の大きさ,神の偉大さ,神の限りない慈しみを示すために可能な ひとつのとても大きな「わざ」であると思います.しかし,神をそこに閉じ込めておくことはできません.そして,それが崩れるときが来る.それがいつなのかはわからないが,それは永遠に続くものではない.永遠なるものは,神のみである.完全そのものであるのは,神のみである.そのことを,わたしたちは頭に入れておく必要がある,と思います.

今,オリンピック景気と言われて,そこにビルがポーンと立ったり,ここから見えるところには国立競技場がニョキッと立ったり,あちらこちらでたくさんのクレーンが立ち,ビルが建設中です.それは,わたしたちにとって,日本の経済力を示すことになっているのかもしれないが,それはあくまでも人間の「わざ」であって,神の「わざ」かどうかは別です.そのことは,とても大切なことだろうと思います.

もう一点,皆さんと分かち合いたいのは,このイェスの言葉です:どのようなことになろうとも,神殿が崩れることとなろうとも,教会や大聖堂やバジリカが崩れてしまうようなことがあったとしても,わたしたちは,めげてはいけない,心を折ってはいけない.イェスは,こう言っています:「忍耐によって,あなたがたは命をかち取りなさい」.

この「忍耐」は,「がまん比べ」とか,「無理して妥協する」とか,そのような意味での「忍耐」ではありません.この「忍耐」は,原文のギリシャ語では,ὑπομονή です.その動詞 ὑπομένειν は,たとえば,パウロの第一コリント書簡の「愛の讃歌」のなかで使われています:「愛は,すべてを耐え忍ぶ」[ ἡ ἀγάπη πάντα ὑπομένει ] (13,07). この「忍耐」や「耐え忍ぶ」は,単に「がまん比べ」とか「意地を張る」とか「自分の考えを捨てて,何かに妥協する」,「がまんして,無理して,奉公する」,「滅私奉公」というようなことではありません.この ὑπομονή[忍耐]は,もともとは,「しんぼう強く神を待ち望む」ことです.

わたしたちが今まで信じていた組織や建物や名前などがバタバタと崩れてしまい,目の前からなくなってしまう.考えてみますと,人類の歴史は,そのように,さまざまな文明が起きては崩れ,起きては崩れの繰り返しです.しかし,イェスは,わたしたちに,そのようななかにあっても — わたしたちは,これからもそういった出来事を目にするだろうし,その渦中に生きるかもしれない,でも — 心を強く持ちなさい,耐え忍びなさい,ὑπομένειν しなさい,すなわち,神にとどまりなさい.あなたがとどまるべきところは,組織とか建物とか名前とかではない.わたしたちが本当に頼るべき方,わたしたちが信頼をおくべき方は,神である.

では,「神にとどまる」とは,どういう意味か?目の前のものが崩れ落ち,わたしたちが大切にしていたものが目の前で崩れ落ちてしまう — それを目の当たりにすれば,わたしたちは,大きな失望と絶望に陥ってしまいます.しかし,イェスは言います:それでも,神に踏みとどまりなさい,しんぼう強く,神がまたわたしたちのために必要な力を与えてくださるときまで,しっかりとそこにとどまっていなさい.というのも,わたしたちの希望が,その向こう側にあるからです.わたしたちの忍耐は,希望から湧き出てきます.そして,希望へつながって行きます.単に「がまんする」とか「目をつぶる」とか「あたかもそれが起こらなかったかのように考える」のではありません.必ず,神が介入してくださる,神が手を伸ばしてくださる,神の介在があるのだ — これこそ,ユダヤ教徒であれ,キリスト教徒であれ,ユダヤ・キリスト教の伝統のなかでずっと持続してきた希望です.

神が,必ず,わたしたちに手を差しのべてくださる.神が来てくださる.ですから,典礼暦において,わたしたちは,毎年,そのことを祝います.

来週は,「王たるキリスト」の主日です.そして,二週間後,12月1日は,待降節第一主日です.「主よ,来てください!」,「マラナ タ」(marana tha) です.

主よ,来てください!秩序が崩れても,信じていたものが信じられなくなっても,わたしたちがたいせつにしていたものがガタガタと崩れ落ちても,主よ,来てください!わたしたちは,あなたを待っています.わたしたちに手を差しのべてください!わたしたちはあなたにとどまります,なぜなら,あなたはわたしたちに手を差しのべてくださるから.わたしたちは,このままでは終わらない.

わたしたちは,四旬節のなかで,聖週間のなかで,キリストの受難を黙想します.イェスは,死んでも,復活する,という希望を持ちます.それは,まさに,イェスの弟子たちが実体験したことです.

信じていた主が,自分たちをローマの支配から救い出してくれる王だと思っていた主が,目の前で十字架につけられて,反逆者として処刑されてしまう.それは,このうえなくショッキングな出来事です.そのとき,きっと,多くの弟子たちは離れて行ったでしょう — 絶望のうちに.イェスのもとにとどまることができなかった.そして,実際,ペトロたちも離れかけていた.しかし,彼らがとどまることができたのは,復活の主に出会ったからです.

死のあとに来る永遠の命への復活.聖金曜日の後に来る復活の主日.それを体験しているから,わたしたちは,ὑπομένειν することができます.神にとどまって,耐え忍ぶことができます.神が来るのを,わたしたちは,しんぼう強く待つことができます.

痛み,暗闇,悲しみ,混乱 — その後には,それを凌駕する大いなる力が,必ず,わたしたちのところにやって来る.わたしたちは,死んでいたのに,また命を吹き込んでもらえる.

そのことの繰り返しを,典礼暦は,わたしたちに体験させてくれます.初代教会で弟子たちがイェスと共に生きたあの体験を,わたしたちは,典礼歴のなかで追体験することができます.

ὑπομονή, しんぼう強く神を待ち望む,神にとどまる — それは,神が,わたしたちをまた生かしてくださる,わたしたちにまた命を与えてくださる,わたしたちをまた元気づけてくださる,という希望です.わたしたちは,そのことを知っているから,もう一度立ち上がることができます.どんなことがあっても,忍耐によって,あなたたちは命を勝ち取ることができる — それが,イェスがわたしたちに分かち合ってくれた言葉です.


* 歴史を振り返っておくと,イェルサレムの神殿の最初の建物(第一神殿,ソロモン神殿)は,紀元前 10 世紀,ソロモン王の時代に建設された,と言われています.旧約聖書に記されているように,神殿のなかでは,動物を犠牲として神に捧げる儀式が行われていました.ソロモン神殿は,紀元前 586 年,新バビロニア帝国のネブカドネザル 2 世によって破壊されます.ユダヤ人たちは,捕虜としてバビロンへ連れて行かれます(バビロン捕囚).紀元前 539 年に新バビロニア帝国がアケメネス朝ペルシャのキュロス大王によって滅ぼされると,ユダヤ人たちは帰国を許され,イェルサレムにふたつめの神殿を建設し始めます.その第二神殿は,紀元前 516 年に完成します.紀元前 168 年ないし 167 年,旧約聖書のマカバイ記に記されているように,セレウコス朝のアンティオコス 4 世エピファネス (215-164 BCE) は,ユダヤ教を禁止し,イェルサレムの神殿をゼウスに捧げられた神殿にしてしまいます.ユダヤ人たちは,ユダ・マカバイの指揮のもとに反乱を起こし,紀元前 164 年,神殿を再び神に奉献し直します.ヘロデ大王 (73-04 BCE)[イェスの誕生の知らせを聞いて,ベツレヘムの男の赤ん坊をすべて殺させた,と言われている王;新約聖書で「ヘロデ王」と呼ばれている ヘロデ・アンティパス の父親]は,神殿のおおがかりな改築を行います.先ほど朗読したルカ福音書の一節で「みごとな石と奉納物で飾られた」と言われている壮大な神殿は,ヘロデ大王の時代に始められた改築作業の成果です.しかし,その神殿も,西暦 70 年,ローマ帝国の軍隊によって破壊されてしまいます.ユダヤ民族は,神殿と祖国を失い,中近東から北アフリカやヨーロッパへ及ぶさまざまな地域へ離散して行きます(ディアスポラ).1948 年にイスラエルが国家として再建されますが,今,ユダヤ人たちは「第三神殿」を新たに建設しようとは思っていません.神殿で動物を犠牲に捧げる儀式は,ユダヤ教のなかで宗教的な意義を失ったからです.ユダヤ教の信仰は,もっぱら,聖書(わたしたちキリスト教徒が「旧約聖書」と呼んでいるテクスト)に準拠しています.それによって,ユダヤ人たちは,二千年近く続いたディアスポラの間も,神殿も国土も無しに,自分たちの信仰と民族の同一性を保ち続けてきたのです.

酒井陽介 神父様 の 説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年09月29日

Nikola Sarić (1985- ), Parable of the Rich Man and Lazarus (2014)



酒井陽介 神父様 SJ の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年09月29日


第一朗読:アモスの預言 (Am 6,1a.4-7)
第二朗読:使徒パウロのテモテへの手紙 (1 Tm 6,11-16)
福音朗読:ルカによる福音 (Lc 16,19-31)

今,読まれた福音のなかで,イェスは,最後に,「もしモーセと預言者に耳を傾けないのなら...」という言葉を残しています.これは,今日の福音のことばのなかで,最も強烈なメッセージを投げかけているところだ,と思います.

モーセと預言者 — 律法と預言者のことば,預言者の証し,と呼びかえてもよいと思います.日本に生きるわたしたちは,毎日の暮らしのなかで,直接に律法や預言者のことばを意識することは,そうはない,と思います.しかし,時代と場所を超えて,文化を超えて,イェスのことばは,わたしたちに投げかけられています.二千年後の日本で彼の御ことばを読むとき,わたしたちは,そこに何を聴き取ることができるでしょうか?

今日の福音を,ふたつの点から見て行きたいと思います.ひとつは:現実をひっくり返すような奇跡は,そうは起こらない.もうひとつは:欠けていること,何かを失うことは,実は,生かされていることを意識することにつながる.この二点から,今日の福音をいっしょに紐解いて行きましょう.

日常の暮らしのなかでわたしたちに語りかけられてくる神の思い.それを,もしかしたら,直接,神から受ける場合もあれば,いろいろな善意ある人たち — わたしたちに理解や愛を示してくれる人たち — の思いや言葉を介して受ける場合もあります.そういう言葉や,そういう語りかけに,もし,わたしたちが目や耳を塞いでしまっているなら...? そういう状態でいながら,都合よく霊的な体験をすることは,あり得ない — そう言うことができるだろうと思います.

霊的な体験は,何ごとかがドラマチックにビビビッとくる,という場合もあるでしょう.本当に少ないパーセンテージの人々が特別な体験をいただける,という場合もあるでしょう.しかし,日々の暮らしのなかでは,そのような強烈な体験をするよりは,日常のなかでわたしたちが生きているときに接する神の思い,人々の理解,愛 — そういったものをわたしたちがしっかりと受け容れて,初めて,霊的な体験につながります.そういったことをまったく無視しては,そういったものから乖離したところでは,霊的な体験はあり得ない,とわたしは思います.

「恩寵は,決してわたしたち人間の自然性を飛び越えはしない.恩寵は,わたしたちの自然性を完成させるものだ」[ cum enim gratia non tollat naturam, sed perficiat... ] と,有名な神学者,聖トマス・アクィナスは言っています.わたしたちは,わたしたちのありようをとおして,恩寵をいただくことができるんだ,ということです.ですから,わたしたちのありようを無視し,飛び越え,また,現実をひっくり返して,奇跡が起こる,ということは,期待しても,そう起こることではないだろう,と思います.ですから,わたしたちが生きていくなかで,しっかりと地に足のついた営みをしていかないならば,現実を飛び越えて,急に回心するとか,急に生活が改まるとか,急に聖人になるということはない — ほぼ,そう言ってもよいのではないか,と思います.

そんなことは当たり前だ,と思うかもしれません.ただ,案外,わたしたちは,心のどこかで,いつかは変われるに違いない,いつかはやめられる違いない,いつかは成長できるに違いない,と思っているふしが,結構,あります.しかし,わたしたちが,日常のなかで,神がわたしたちに伝えてくれるさまざまな思いや神の恵みに対して開かれて行き,それを,できるだけアンテナを伸ばして,しっかりと受けとめて行く,ということがなければ,案外,それは,すどおりしてしまったり,わたしたちがそれを意識しないうちに漏れていってしまう — そんな状況かもしれません.

わたしたちは,無意識のうちに,ラザロの霊や先祖の霊が現れて,教えてくれるかもしれない,と思っているかもしれない.しかし,そうではないということを,イェスはわたしたちに伝えてくれています.

わたしたちが毎日の生活のなかで体験するさまざまな事がらは,新しい学びの機会,新しい自分との出会い,新しい自分に気づくことができる出来事 — それは,ときには,痛みを伴うことかもしれないし,思いがけないことかもしれません — に溢れている.自分の小ささ,自分の不自由さ,自分の不完全さ,そして,ときには,自分のたくましさや良さを知る体験に,実は,溢れている,と思います.

そこに,神との出会い,神からの招きが,いただけている.もう一歩足を踏み入れ,歩を進めるための勇気が,いただけている.もし,いただけているという実感がないなら,どんなに「霊的な恵み」と口で言ったところで,それは — わたしたちの目の前で起こる「奇跡」は —,わたしたちを変えることにはつながらない.なぜなら,神からの思いををしっかりと受けとめてはいないから.まずひとつ,そう言うことができるだろう,と考えます.

次に,もう一点,それは,わたしたちは,失うことによって,痛みを伴う経験によって,敢えて,生かされている,という意識を持つことができる,という点です.

そのような価値基準から見てみれば — ラザロは,実に不運な人です.それこそ,神のみぞ知るありようのなかで,彼は,人生を生ききった人なのでしょう.家族も家もなく,食べるものにも困ったラザロは,苦しみの極みのなかにいました.しかし,神は,誰よりも彼の近くにいらっしゃった.それが,イェスの福音の教えになっています.

ラザロは,生かされていました.ラザロは,自分の力で生きているという感覚以上に,きっと,生かされているということを感じた人でしょう.

わたしたちは,概して,物を所有したり,地位を向上させたり,世界に認められるときに,ある種の幸せや高揚感を感じます.それは普通です.そして,普段はそれをあまり意識しないかもしれませんが,何かそのひとつでも失うと,大きな喪失感を感じ,自分はなんと惨めなんだろう,という思いにさいなまれることがあるものです.そうした思いからまったく自由で,とらわれのない人生を送っている人は,それほど多くはないだろう,と思います.わたしたちは皆,そのような「しがらみ」から,やはり,影響を受け,それに取り囲まれて,生きています.

わたしたちは,そのような自分の現状を全否定する必要はありません.人間ですから,当然だと思います.ただ,それだけではないのだ,ということを,今日の福音から,少し読み取ることができるかもしれません.

わたしたちは,何かが失われたり,何かを手放さなければいけなかったり,何か大切なものがなくなるときに,多いに痛みを感じます,そして,ときには,自分を惨めに思うことがあるかもしれません.もちろん,長い目で見るならば,その惨めさのなかに自分を追いやってしまうのは,決して良いことにはつながりません.しかし,自分がそのように何か欠けている,何かが足りない,何か心に空洞がある — そのような体験を人生のなかで持つこと,別の言い方をすれば,喪失感を持つことは,その空洞を何で埋めていったらいいのか,その空洞はどのように埋められるもんなんだろうか,そもそも,わたしはその空洞を何で埋めていたのか,という問いに,今一度,立ち戻る機会になると思います.

今日の福音の譬えの金持ちは — もちろん,これは,お話ですから,非常にわかりやすく仕上げられています — 毎日,ぜいたくに遊び暮らしていた.彼は,言うなれば,欠けることを体験していない.常に満たされている.そんな人は,実際にはいないと思います.しかし,彼は,常に満たされ,心のなかに大きな空白や空洞を感じないで生きていた.彼の努力もあったかもしれないし,非常に運がいい人だったのかもしれません.ともかく,彼は自分の力で生きていた.才能もあり,運も良かった彼は,いつの間にか,「わたしは,自分の力で生きている」という感覚が強くなったんだと思います.それが,ラザロとの大きな違いです.

わたしたちは,何かが欠けたとき,それも,たいせつな何かを手放さざるを得なかったり,奪われたりしたとき,大きな喪失の痛みを感じます.そして,ときには,惨めな思いにさいなまれます.ただ,そうしながら,自分の力が及ばないことがあるのだ,自分がいくらがんばっても及ばないことがあるのだ,ということを感じることができるのではないでしょうか?そして,それでもまだこうやって生きているのだ,いや,生かされているのだ,ということに,少しずつ気づくことができるのではないでしょうか?

たいせつなものを失う — それは,わたしの健康かもしれない,人間関係かもしれない,名誉かもしれない,ほかの人々からどう思われているかということかもしれない.人それぞれ,失うものは異なります.

それでも,何かが失われたとしても,わたしにつながっていてくれる誰かがいる,わたしに寄り添ってくれ,理解してくれる人たちがいる.それは,自分の力で獲得したものではなく,純然たる恵みとしての関係性だと思います.それが,信仰の世界です.

いただいたもの — 恵みとしていただいた関係性 — を,わたしたちは受けとめて行く.さらに,この空洞,この空白を,深く見つめて行くならば,そこで,わたしを全面的に受けとめてくれる神との出会いに招かれている,ということに気づくことができる,と思います.

わたしが生きるのではなく,わたしは生かされている.生きることを善しとする神の招きがある.生きてほしいと願っている神の心が,そこにある.

思うに,この世界に,完全なもの,完全な形というものは,無いでしょう.ただ,わたしたちは,抗いながらも,完全さに向かって歩んでいる.そこに向かって招かれている.

そこには,いろいろな障害物や,わたしたち自身が感じる抗いや葛藤が,たくさんあります.それが,まさに,第二朗読でパウロが言うところの「信仰の戦い」でしょう.わたしたちは,ひとりひとりの人生の物語のなかで,信仰の戦いを紡いで行くしかありません.しかし,わたしたちは,その戦いにひとりで立ち向かっているのではなく,仲間とともに,寄り添ってくれる人とともに,理解してくれる人とともに,歩んで行く — そのように,わたしたちは招かれています.

ラザロのような人間もおり,金持ちのような人間もいる — わたしは,A とか B とか,人を分類するのはあまり良くないと思うのですが... わたしのなかにも,ラザロのようなものがあり,金持ちのようなところもあります.これは皆,同じだと思います.ラザロのようなわたしもいれば,金持ちのようなわたしもいる.しかし,神は,どちらにも同じように慈しみ深いまなざしを向けてくださっている.

「わたしは,不完全で,不自由な人間なのだ」という自覚をもって歩んで行くならば,わたしたちは,惨めな思いに完全に飲み込まれることなく,新しい自分や新しい地平を見つけ,出会うことができる — そのように生きて行くよう,わたしたちは招かれている,と思います.

この世界は,わたしたちに,「生きて何かをしろ」と迫ってきます.しかし,信仰の観点から見るならば,わたしたちは,生きるということだけに終始するのではなくて,生かされています — もちろん,神によって.

神は,わたしが生きて行くことを望んでいる.神によってそのように望まれているわたしがいる.それが善き知らせである.この善き知らせを,イェスは,命をかけて,御自分の死を以って,告げ知らせてくださいました.

キリストがわたしたちひとりひとりに注いでくださるまなざしを,今一度,意識してみましょう.

わたしたちは,生きている — でも,生かされている.そして,わたしたちが生きることを何よりも望んでおられる神がいる.その観点から,わたしたちのありかた,存在,かかわりを,もう一度,見つめ直して行きたい,と思います.