2020年4月12日日曜日

LGBTQ カトリック信者の信仰共同体の復活祭メッセージ

Caravaggio (1571-1610), Maria Maddalena in estasi (1606), collezione privata


LGBTQ+ カトリック信者の信仰共同体の復活祭メッセージ 



COVID-19 の全世界的流行下,公開ミサ中止の措置の継続中,予定されていた わたしたちの LGBTQ+ みんなのミサ も,3月以降,残念ながら 中止されています.ただ,わたしたちのうち幾人かは,毎 主日,東京カテドラルのミサにオンラインで与ったあと,インターネットを介した集いで,祈りと思いを分かち合っています.



今回,復活祭のメッセージとして,幾人かの方が寄稿してくれました.主の御復活の喜びを,COVID-19 の全世界的流行がもたらした不安と苦痛とともに,分かち合いましょう.

 

葉山由佳フランシス

復活祭 おめでとうございます。

今年は 新型コロナウイルスの影響で 教会に集い、みなさんと一緒に復活祭をお祝いできないのが残念です。

さて、私は 落語が好きで、その中でも 人情噺が特に好きです。一番好きな演目は『文七元結』(ぶんしちもっ
とい)* という噺です。

ここで筋を話す野暮は よしておきましょう。有名な噺なので 皆さんも御存知かもしれません。勘三郎で歌舞伎にもなりました。

この噺のいいところは、見ず知らずの若者の命を助けるため、郭に身を売ったたった一人の娘を犠牲にすることです。ここだけ聴けば 鬼のような親に思えますが、そこには父親の苦渋の決断があります。

これはキリスト教が説く「隣人を愛しなさい」に通じるものがあると思います。

「情けは人の為ならず」という日本の美しいことわざがあります。私は キリスト者としてこの精神を忘れずに生きていたいと思います。

今は信仰が試されている時だと思います。負けないように助け合いましょう。

来年の復活祭は みなさんと共にお祝いが出来ますように。
 
志ん朝 :『文七元結』
シネマ歌舞伎『人情噺 文七元結』予告編




はじめまして。深井武志といいます。50代のゲイのカトリック信者で、洗礼名は フランチェスコです。皆さんとともに主のご復活をお祝いできることが 嬉しいです。

今 感じていることを書きます。

今 僕たちが直面している この危機的状況が 長引くことは、覚悟した方がいいと思う。今 確実に言えることは、これまでの世界は過ぎ去りつつあるということだけだ。

この危機の向こうにある世界を、今よりさらに良いものにするのか、それとも、自民族中心主義に毒された不健全なナショナリズムや、全体主義が蔓延するディストピアにするのか。

神様は それを 僕たちの選択に委ねておられる。

全体主義的な社会は、僕たちセクシャルマイノリティにとって、とても住みにくいものになるだろう。

「ウィルスとの戦い」— 愚かで危険な言葉だ。敵などいない。戦う必要なんかない。ただ、助け合えばいい。それだけだ。

誤解のないように、言っておきたい。

外出を控え、人との接触を避けることも、立派な助け合いだ。

医療関係者や、僕たちの生活を支えるために働き続けてくれている人たちは、仕事を通してこの助け合いに参加している。

彼らに感謝し、彼らのために祈ろう。

仕事を失った人達や、収入が減って、経済的な不安を抱えている人達がたくさんいる。政府が彼らのために必要な対策を講じないのなら、彼らとともに声をあげることも、助け合うことだ。インターネットを使えば、オンライン署名に協力できる。

誰でも 何かできることがある。

神様が造られたものに、悪しきものや無駄なものはない。このウィルスだって例外ではないはずだ。

これまで僕たちは、自滅への道を歩んでいた。分かち合おうとはせず、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる。資源を無駄遣いし、環境を破壊し、他の生き物たちを絶滅へと追いやり...

もしかしたら、神様は このウィルスを遣わして、僕たちの自滅への歩みを止めてくれたのかもしれない。

もしそうであるなら、ここから先は、僕たちの選択に委ねられている。

僕は皆さんとともに、この試練の向こうに、よりよい未来を切り開いていきたい。

そのために、日々祈り、自分自身を見つめ、神様に助けられながら、自分にできることをしていきたいと思う。



アリシア内田順子

主のご復活おめでとうございます!
Joyeuses Pâques !
Happy Easter !


先日 何十年ぶりかで 姉といっしょに手入れした実家の庭で 植えてもいない真っ白なフリージアが咲いた と姉からメールがありました。復活祭の思いがけない嬉しい贈り物です。

COVID-19 の流行の 一日も早い収束を祈っています。





ペトロ 宮野 亨(LGBTQ+ みんなのミサ 世話役)

主イエスのご復活を実感して,おめでとうございます.
新型コロナウィルス禍のため ご聖体との出会いがありません.一言で言うと,生身の主イエスとの出会いがないのが大きな違いです.

ミサ時のご聖体拝領のことを 三つ分かち合います.

私達は常に「主イエス ファースト」です.主イエスについていきます.でも,私が勝手に動いている時は,主イエスが片時も離れずについてきてくださいます.

1)ご聖体を掌に受け,聖ヨセフと聖母マリアの気持ちを追体験して感じる:ご聖体は 主イエスです.主イエスを 自分の掌で受けて,主イエスを 抱きかかえ,聖母父が出産したおん子を抱きしめる喜びを 追体験できます.聖母父の気持ちを味わえます.

2)主イエスの気持ちを感じる:ご聖体の形にまでなって,私の体の中へ入ってきてくださる主イエス.それは恵みで 喜び.

ある人が夢を見ました.主は ご自身の家に帰宅します.主イエスが 屋根も窓も無いような荒廃している家に 帰って行くのです.その人は 見かねて「主イエス,もっと普通の家がありますから,そちらでお休みください」と言いました.主イエスは「これは私の家ですから ここで休みます」と言って入っていきました.主は すぐに出てきて「さあ,一緒に入ろう」と言いました.その人は 気づきました :「この破壊されている家は,私の家だだったんだ.でも,主と一緒にいられる」と言って,駆け込んでいきました.

3)主イエスは,私の体内で,へその遥か彼方に 住んでくださっている.どんな場所かというと,沈黙で音のない場所だと感じました.つまり,神は「静かなるもの,全てを静かにする静かなるもの」という実感です.神は 私の体の中の,音のない場所におられるという実感です.では,主は,私の中で,何を聞いているのかというと,私の思いや感情の声です.私だけの,しかも 音だけを聞いてくださっています.他の人の音は 聞いていません.主イエスを独占!左を下にして寝ると,心臓の音が聞こえることもありますね.自分の心臓の音を聞きながら,主イエスの心臓の音を聞いてみてはどうでしょうか?何処にいても,騒然とした環境でも,とても静かな祈りができます.

さて,最後に毎日の祈りを分かち合います.私の心の中に自由に出入りして恵みを与えてくださるのは 神様だけ.その時の感じは,体が暖かくなる,静けさを感じる,穏やかさを体から感じる... 多様です.

ここで,私の罪を,その重さで考えて,① 軽い,② 重い,③ とても重いと分けた時,

① 行為としての罪:悪いことをした,嘘をついた,盗んだ.

② 生活態度としての罪:神に向かわず神がいないかのように生きる.

③ 自己否定:自分に価値がない,神に愛されていないと否定する.自分の存在価値を否定する.

③ は,自分の根源的良さを否定する「根源的罪」(根源的自己否定)で,最も重い罪.

実は,毎日 神を感じて 暖かさを味わっていると,③ は ありません.① も ② も,③ があると,少しずつ塊が溶けていきます.一方で,① ができているかどうかに注視させられて 拘束されて ② になっていき,③ を感じたことがない方も多いです.

祈った後で「~だと思う」という感じの時は,考えていて,祈っていません.祈りは,身体で何かを感じて,それを味わっている感じです.

体で神を感じるのは 何より大切です.心の状態は,身体があるからこそ 感じ取れます.私達は,身体を感じて味わいつつ 日々を生きています.心は確かに脳の中で作られるけれど,身体がなければ 決して感じ取ることができません.

主イエスが住まわれている実感とともに 日々生きましょう.ご受難の時の主イエス,七つの言葉を言った時の主イエス,墓石をどけて墓を出てきた時の主イエス... その気持を 私達は 身体で感じて,愛を感じて 生きていけます.自分の身体を感じて生きる恵みをたくさん与えてくださっている事実を,​心から感謝します.



ルカ小笠原晋也(LGBTQ+ みんなのミサ 世話役)

わたしたちは 突如,終末論的状況に投げ込まれました.今,わたしたちは 誰もが 皆,COVID-19 罹患によって死ぬ可能性に 直面させられています.死の穴が 不意に わたしたちの面前で 口を開き,わたしたちが いつ その穴に呑み込まれてしまうのかは 予見不可能です.

そのような死の不安を ごまかすことなく 耐え抜くこと — 神の愛により支えられ,かつ,隣人愛により支え合って : 西暦 313 年に Constantinus I が ミラノ勅令により キリスト教信仰を合法化する以前のクリスチャンたちの信仰生活は,そこに存していたはずです.ある意味で,わたしたちは,クリスチャンの本来的な生き方に目ざめる「好機」に恵まれています — とても辛くて恐ろしい試練ですが.

また,感染の拡大を防ぐために,わたしたちは,教会に集うことができなくなり,聖体拝領に与ることもできなくなりました.その状況は,西暦 70 年にローマ帝国軍によってイェルサレムの神殿が破壊されたときのユダヤ人たちの状況に似ています — わたしたちは,教会の建物を失ったわけでも,司祭たちと司教たちを失ったわけでもない とはいえ.

イェルサレムの神殿を失ったことは,ユダヤ人の信仰生活に大きな変化をもたらしました — その変化は,紀元前 588 年に 新バビロニア帝国によって ソロモン神殿が破壊されてから 紀元前 538 年に アケメネス朝ペルシャの Kyros II によってユダヤ人にイェルサレム帰還が許可されるまでの バビロン捕囚によって,ある意味で準備されてはいたのですが.

その変化とは,神殿の喪失にともない,神殿で犠牲の儀式を行っていた聖職者(新約聖書では「サドカイ人」と呼ばれている者たち)はいなくなり,もっぱら 律法学者(新約聖書では「ファリサイ人」と呼ばれている者たち)が 信仰を維持し,次世代に伝達する役割を担うことになった;そして,信仰生活の中心を成すのは,聖職者集団が犠牲を神に捧げる儀式を行う神殿の建物ではなく,それをとおして律法学者(彼らは聖職者ではありません)ひとりひとりが神のことばを聴き取ろうと努力するところの聖書のテクストになった,ということです.

ユダヤ教信仰が 西暦 70 年の第 2 神殿破壊の後も 今に至るまで(Shoah を経ても なおも)維持され続け,かつ,今後も代々に至るまで維持されて行くであろうのは,非聖職者である律法学者(今Rabbi と呼ばれています)の活動の成果です.

今,COVID-19 の全世界的流行のせいで,信仰生活の中心を成してきた聖体拝領に与ることもできず,終末論的な不安を生きているわたしたちは,神殿を失ったユダヤ人たちのことと,キリスト教信仰が殉教の可能性を包含していた初期キリスト教の時代の信者たちのこととを ふりかえり,参考にすることができるでしょう.

終末論的な不安を耐えとおすことは,神の愛によって支えられ,かつ,隣人愛によって支え合うことを 前提します.そして,そのとき,わたしたちは,今,既に,わたしたちの現場存在 (Dasein) において,神の命である永遠の命に与っています.

永遠の命への復活は,死後のことではなく,今 生きている わたしたちの現場存在において成起することです.永遠の命を「死後の生」と見なすとすれば,それは,永遠の命を 仏教の言う輪廻転生における「生まれかわり」と同様のものに還元してしまうことになります.そのような考え方は,よりよい「死後の生」を想定することによって,今 現に生きている生をないがしろにする危険をはらんでいるがゆえに,必ずしも無邪気な空想ではありません(実際,たとえば オウム真理教は,「邪魔者」を抹殺することを正当化するために,そのような考え方に準拠しました).

また,教会の聖堂のなかに入ることもできず,聖体拝領に与ることもできない 今の状況は,「信仰を生きるということは 何に存するのか?」を問いなおす好機です.お気に入りの司祭や司教を「個人崇拝」し,ミサで御聖体をいただくことさえできれば,それ以外,特に何もいらない信仰生活 — 一般信徒のそのような聖職者依存的な態度が,聖職者中心主義 (clericalism) を助長する一因になっています(勿論,聖職者自身の権力志向などの もっと重大な要因もかかわっていますが).

Papa Francesco は,若者をテーマとして行われた 2018 年の司教シノドスの開会式における演説(2018年10月03日)のなかで,« Il clericalismo è una perversione ed è radice di tanti mali nella Chiesa »[聖職者中心主義は,倒錯であり,教会内部の多くの悪の根である]と述べて,聖職者中心主義を厳しく批判しています.

聖職者中心主義を克服するためには,司祭や司教の努力を待つだけでなく,より多くの一般信徒がこのことを思い起こし,より能動的に信仰を生きる覚悟を持つ必要があります:

あなたたちは,このことを知らないのか ? : あなたたちは 神の家であり,神の息吹は あなたたちに住まっている.もし誰かが神の家を破壊するなら,神はその者を滅ぼすだろう.そも,神の家は神聖であり,そして,神の家とは あなたたちのことである(第 1 コリント書簡 03,16-17).
人々が,2, 3 人でも,わたし [ Jesus Christus ] の名において集うところでは,わたしは 彼れらのただなかにいる(マタイ福音書 18,20).

聖職者中心主義を批判するための標語として Papa Francesco が掲げた語が,これです : sinodalità (synodality, synodalité) — σύνοδος < συν- + ὁδός : 皆がともに道を歩むこと.

sinodalità は,2022 年に予定されている司教シノドスのテーマです.それは,教会を聖職者中心主義から解放し,一般信徒 — 特に 女性(なにしろ,一般信徒のなかでは 女性の方が男性より多いのですから)— が 教会の活動と運営のために 聖職者と対等の役割を果たすことを,要請します.

ただし,カトリック信仰が教会組織と聖職者ヒエラルキーを中心としてきたことを批判するとき,わたしたちが陥ってはならないのは,聖書の文面を文字どおりにとって,それを偶像として崇拝する態度です(実際,プロテスタントの一部は そのような聖書偶像崇拝に陥っています).

そのために,わたしたちは,Midrash — ユダヤ教における聖書解釈学  を参考にすることができます.

ユダヤ教の Rabbi たちの聖書解釈の原理は 何か? それは,「神の思考は 人間には把握不可能である」ということです.

確かに,ユダヤ教の正典の文面(文字づら)は,西暦 10 世紀ころまでに確定されました(それは,今,Masoretic Text と呼ばれています).しかし,そのテクストを 単に「意味を了解する」ように読んで,論語の「子曰く」と同様に「神はこう言っている」と決めつけることを,ユダヤ教の Rabbi たちは しません.なぜなら,「神はこう言っている,神はこう考えている」と決めつけることは,神に対する冒瀆だからです — 神の思考は 人間的な次元をはるかに超えており,人間はそれを等合的に捉えることはできないのですから.

Rabbi たちは,聖書の文面をとおして,今 生きている神のことばを聴き取ろうとします — 今 生きている神は,何千年か前のイスラエルの民に対してではなく,今 生きているわたしたちに対して,何を言おうとしているのか?と問いつつ.そのためには,聖書の文面を,意味を了解しつつ読むのではなく,解釈しつつ読む必要があります.その解釈が Midrash です.パウロ書簡は,Midrash の実例に溢れています.ある意味で,パウロによって措定されたキリスト教の教義の原基は ユダヤ教の聖書(旧約聖書)の Midrash 的な解釈の産物です.

ユダヤ教におけるように,信者ひとりひとりが 神のことばを 今 生きている自分自身に向けられたことばとして 聴き取ろうとすること — ある意味で,信者ひとりひとりが預言者となること.そのことを,しかし,カトリック教義は妨げています.それは,Ecclesiae Magisterium[教会の教導権]と呼ばれている思念です.それは,神のことばを解釈する権利を,教皇と司教にしか認めせん(勿論,女性は その権利を行使することから a priori に 排除されています).Ecclesiae Magisterium は,それが聖職者中心主義を条件づけている限りにおいて,聖職者中心主義とともに批判されるべきです.

また,信者ひとりひとりが 神のことばを 今 生きている自分自身に向けられたことばとして 聴き取ろうとすることを妨げている もうひとつのカトリック教義は,Lex Naturalis[自然法]です.それは,13世紀に Thomas Aquinas が Aristoteles からカトリック教義に輸入した形而上学と形而上学的目的論とにもとづく硬直した思念であり,生きた神のことばを わたしたちに対して 覆い隠してしまいます.Lex Naturalis を信奉することは,形而上学的な偶像崇拝 (idolâtrie métaphysique) にほかなりません.そして,カトリック教会の内部で LGBTQ+ を断罪する者たちは,皆,Lex Naturalis を盾にとって そうしています.つまり,彼らは 皆,形而上学的偶像崇拝者です.しかも,それが偶像崇拝であるということに 彼らは まったく気づいていません.

Ecclesiae MagisteriumLex Naturalis — それらふたつの思念をカトリック教義から一掃しないかぎり,カトリック教会は 21 世紀が我々に課した試練を 乗り越えて 生き延びることは できないでしょう.

COVID-19 の全世界的な流行は,以上のような意味において,わたしたちに 信仰生活の「回心」を要請しています.ひとりでも多くのカトリック信者が そのことに気がついてくれるよう,願っています.

COVID-19 によって亡くなった多くの人々に 主が 永遠の安らぎを与えてくださいますように.

その喪に悲しみ,泣く人々を,主が 慰めてくださいますように.

COVID-19 に罹患して苦しんでいる人々を 主が 力づけてくださいますように.

必死の思いで働いている医療従事者と介護従事者を 主が支えてくださいますように.

終末論的不安を生きている わたしたち 皆を 主の愛が支えてくださいますように.そして,今後 わたしたちが sinodalità の道を歩んで行くことができるよう,導いてくださいますように.

冒頭に掲げた絵は,昨年の復活祭 のときと同じく,Caravaggio Maria Maddalena in estasi[恍惚状態にある マグダラのマリア]です.昨年も説明したように,Maria Magdalena の Dasein において Jesus Christus は 死から永遠の命へ復活し,そして,そのことにおいて,彼女も死から永遠の命へ復活しました.Apostolorum Apostola[使徒たちの使徒]と呼ばれる彼女こそが,本当の教会の礎です.ペトロの礎は,Maria Magdalena という礎の上に置かれています.パウロは そのことを無視しましたが,わたしたちは そのことを忘れないでおきましょう.

主の復活に賛美!神の栄光に賛美!神に感謝!

2020年3月25日水曜日

教皇フランチェスコの 神の母 マリアへの 祈り



Papa Francesco は,2020年03月11日(偶然にも 東日本大震災 9 周年の日),ローマの Santuario della Madonna del Divino Amore で 信徒の参列なしに Angelo De Donatis 枢機卿の司式により行われたミサのために,ヴィデオメッセージを送りました.そして,そのなかで,次のように 神の母 おとめ マリア に祈りました:

Vorrei volgermi a tutti gli ammalati che sono col virus, che soffrono la malattia e a tanti che soffrono incertezze sulle proprie malattie. Ringrazio di cuore personaggi ospedalieri, i medici, infermiere, infermieri e volontari che in questo momento tanto difficile sono accanto le persone che soffrono.


O Maria, tu risplendi sempre nel nostro cammino come segno di salvezza e di speranza. Noi ci affidiamo a te, Salute dei malati, che presso la croce sei stata associata al dolore di Gesù, mantenendo ferma la tua fede. Tu, Salvezza del popolo romano, sai di che cosa abbiamo bisogno e siamo certi che provvederai perché, come a Cana di Galilea, possa tornare la gioia e la festa dopo questo momento di prova. Aiutaci, Madre del Divino Amore, a conformarci al volere del Padre e a fare ciò che ci dirà Gesù, che ha preso su di sé le nostre sofferenze e si è caricato dei nostri dolori per condurci, attraverso la croce, alla gioia della risurrezione. Amen.

Sotto la Tua protezione cerchiamo rifugio, Santa Madre di Dio. Non disprezzare le suppliche di noi che siamo nella prova, e liberaci da ogni pericolo, o Vergine gloriosa e benedetta.

わたしは,COVID-19 に罹患し,苦しむ患者さん皆と 自身の病気に関する不確実さに苦しむ人々すべてとに 心を向けたいと思います.このとても困難なときに 苦しむ人々に寄り添う 医療従事者たち — 医師たち,看護師たち,ヴォランティアたち — に,わたしは 心から感謝します.

おお マリアよ,

あなたは,救いと希望の徴として,常に わたしたちの道を照らすために 輝いています.あなたは,十字架のもとで,イェスとともに苦しみつつ,信仰を確かに持ち続けました.病人たちの救いであるあなたに,わたしたちは わたしたち自身を ゆだねます.

ローマの民の救いであるマリアよ,あなたは,わたしたちが何を必要としているかを 御存じです.そして,ガリラヤのカナにおけるように,試練の後に 喜びと宴が戻ってくるように,あなたが わたしたちの必要としているものを提供してくださると,わたしたちは確信しています.

主 イェスは,わたしたちの苦しみを御自身に引き受け,わたしたちの痛みを背負ってくださいました — 十字架をとおして 復活の喜びへ わたしたちを導くために.

神の愛の母よ,わたしたちが 御父の意志にかなうことができるよう,わたしたちを助けてください.わたしたちが 主がわたしたちに言ったことを為し得るよう,わたしたちを助けてください.アーメン.

聖なる神の母よ,あなたの庇護のもとに,わたしたちは よりどころを求めます.栄光を受け,祝福された おとめよ,試練のさなかにある人々の願いを 聞き入れてください.あらゆる危険から わたしたちを助け出してください.


そこで Papa Francesco は 聖母マリアを「ローマの民の救い」(s
alvezza del popolo romano) と呼んでいますが,わたしたちは,その「ローマの民」は,現在のローマ市の住民のことだけでなく,神の民すべてのことである,と解してよいでしょう.


2020年3月7日土曜日

共同祈願,LGBTQ+ みんなのミサ,2020年02月23日 : Querido Japón

2019年11月24日,長崎


2020年02月23日の LGBTQ+ みんなのミサにおける共同祈願 : Querido Japón 


今月(2020年02月)12日に,Papa Francesco の新たな使徒的勧告 Querida Amazonia[愛しきアマゾニア]が発表されました.歴史的にキリスト教国であった国々の人々とはまったく異なる歴史と言語を有する人々に神の愛の福音を伝えるために,パパ様は,「アマゾン的な顔を持つ教会」を欲しています.はたして「日本的な顔を持つ教会」は?ともあれ,パパ様は,Querida Amazonia を,神の母 おとめマリアに向けた祈りで締めくくっています.その祈りを,わたしたちは,「アマゾニア」を「日本」に置き換えて,ともに祈りましょう:


生きるものすべての母よ,
存在するものすべての主であるイェスは,
あなたの胎のなかで,人となりました.
主は,復活して,その光によって,あなたを変え,
あなたを,被造物すべての女王にしました.
それゆえ,わたしたちは,あなたに お願いします:
マリアよ,わたしたちの脈打つ心のなかで,女王として 君臨してください.

森と河と,そこにうごめくすべてのものの美しさ,そこに咲くすべての花の美しさのなかで,
マリアよ,被造物すべての母として,現れてください.
被造物すべてを,その輝きにおいて,やさしく育んでください.

そこに生きるわたしたちすべてのうえに 神の愛を広げてくださるよう,
マリアよ,イェスに願ってください.
わたしたちが,被造物を賛美し,それらを育むことができますように.

わたしたちの心のなかに,あなたの子 イェスを生んでください,
日本においても,日本人のなかにも,日本の文化のなかにも,
主の御ことばの光によって,主の愛のなぐさめによって,
御子イェスが輝きますように.

その輝きが,御聖体ひとつひとつにおいても,現れ出でますように,
御父の栄光のために.

母なるマリアよ,あわれなわたしたちを見てください,
わたしたちの家は,さもしい利害のために,破壊されつつあります.
祝福された 命豊かな日本の土地は,
なんと苦しみ,なんと惨めな思いをし,
なんと見棄てられ,なんという暴力を被っていることか!

権力を握る者たちの心に触れてください.
もはや手遅れだと感ぜられても,
あなたは,わたしたちに呼びかけています,
生きているものを救うように と.

心を剣で貫かれた 母なるマリアよ,
虐待を受けた子どもたちのなかで,傷つけられた自然のなかで,苦しむ 母なるマリアよ,
日本でも,女王として君臨してください,
あなたの子 イェスとともに.
自分こそ万物の支配者である と勘違いする者が 二度と現れないように,
母なるマリアよ,御子イェスとともに,日本でも 女王として 君臨してください.

生きるものすべての母よ,わたしたちは,わたしたち自身を あなたに委ねます.
この闇の時代に,わたしたちを見棄てないでください.

Amen

2020年2月27日木曜日

鈴木伸国神父様 SJ の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2020年02月23日


Carl Bloch (1834-1890), Sermon on the Mount (1877)
in the Museum of National History, Hillerød, Denmark



2020年02月23日(A 年,年間 第 7 主日)

第一朗読:レヴィ記 19,01-02.17-18

主は,モーセに仰せになった :「イスラエルの息子たちの共同体全体に告げて,こう言いなさい:聖なるものでありなさい,なぜなら,あなたたちの神,主であるわたしは,聖なるものであるから.(...) あなたの兄弟に対して憎しみの考えを持ってはならない.が,あなたの同胞を率直に戒めなさい,彼に対して罪を負うことにならないために.復讐してはならない.あなたの民の息子たちに対して恨みを抱いてはならない.そのように,あなたの隣人を あなた自身として 愛しなさい.わたしは 主である」.


第二朗読:第一コリント書簡 3,16-23

あなたたちは神の神殿であり,神の息吹があなたたちのうちに住んでいる,ということを,あなたたちは知らないのか?もし誰かが神の神殿を壊すなら,神はその者を滅ぼすだろう.なぜなら,神の神殿は聖なるものであるから.そして,その神殿とは,あなたたちのことである.誰も思い違いをしないように:もし あなたたちのなかに 自身を 世で言うところの「賢者」と思っている者がいるなら,その者は 愚者となりなさい — 賢者であるために.そも,この世の賢さは,神の前では愚かさである.実際,こう書かれてある :「神は,賢者たちを 彼ら自身の奸計において 捕らえる」; さらに :「主は,賢者たちの考えを 知っている.主は,賢者たちの考えが虚しいことを 知っている」.かくして,誰も,人間によって誇りを持つことのないように.そも,すべては あなたたちのものである.パウロも,アポロも,ケファも,世界も,生も,死も,現在も,将来も,すべては あなたたちのものである.だが,あなたたちは キリストのものである.そして,キリストは 神のものである. 


福音朗読:マタイ 5,38-48

あなたたちも知っているように,こう言われている :「目には目を,歯には歯を」.して,わたしは あなたたちに言う:悪人に対しては 抵抗するな.逆に,あなたの右頬を打つ者に対しては,あなたの左頬をも向けなさい.あなたの下着を取るために あなたを裁判官の前に連れて行こうとする者に対しては,あなたの上着をも取らせなさい.あなたに 千歩 行くことを強いる者に対しては,その者とともに 二千歩 行きなさい.あなたに求める者に対しては,与えなさい.あなたから借りようとする者に対しては,背を向けてはならない.あなたたちも知っているように,こう言われている :「あなたの隣人を愛しなさい,そして,あなたの敵を憎みなさい」.して,わたしは あなたたちに言う:あなたたちの敵を愛しなさい,そして,あなたたちを迫害する者たちのために祈りなさい — まことに,あなたたちの〈天にいる〉父の息子であるために.そも,父は,悪人のうえにも 善人のうえにも 太陽を昇らせ,義なる人のうえにも 義ならざる人のうえにも 雨を降らせる.そも,もし あなたたちが あなたたちを愛する人々を愛するとしても,それに対して あなたたちは 如何なる報いを得るだろうか?徴税人たちでさえ,同様にするではないか?もし あなたたちが あなたたちの兄弟にのみ挨拶するなら,あなたたちは 何かすばらしいことをしているのか?異邦人たちでさえ,同様にするではないか?ゆえに,あなたたちは まったきものになりなさい — あなたたちの〈天の〉父が まったきものであるように.


鈴木伸国 神父様 SJ の説教

イエスの話しは大抵、日常の情景を想像すればピンとくるものが多いのですが,わたしは これまでの人生の中で「右の頬を打たれたら,左の頬をも出す」ような人を まだ見たことがありません.そもそも,下着を取ろうとする人を見たこともないし,上着を取ろうとする人を見たこともありません.「誰かが 1 ミリオン行くように強いるなら,いっしょに 2 ミリオン行きなさい」— これもピンと来ません.それに比べれば,「右の頬を打たれたら,左の頬をも出しなさい」は,まだわかりやすいのですが、聞いたことさえありません.

それと比べれば「あなたから借りようとする者に 背を向けてはならない」は分かるような気がします.昔の日本の村社会なら「情けは人のためならず」とも言いますし,そのころは 皆が各人の生活事情を知っていましたから,頼まれたら嫌とは言いにくかったでしょう.

でも,今の世の中では「困っているので 助けてください」と言っている人が本当に困っているのかどうか,わからないような気がします.これをあげたら,わたしが損をする.これを許したら — たとえば この債権を帳消しにしたら,わたしは債権を失うことになる.借りと貸し,面子と面子 — そういう世界になってるような気がします.

さて,今日の福音のなかで,わたしが(いい意味での)チャレンジを感じたのは「あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい」という言葉です.

チャレンジになる。それは,わたしにとって「呼びかけを感じる」ということです。

「完全になりなさい」、「天の父のような寛大さをもちなさい」.もし この言葉を まっすぐに受けいれることのできる人がいれば,受けいれてほしいと思います.その人は,もう説教を聴く必要もないでしょう.自分を迫害する者のために祈り,自分の敵を愛することができる — そのように完全な人は,教会に来る必要すらないかもしれません.


でも「完全さ」への呼かけには 注意が必要だと感じます。私にとって このチャレンジの助けになってくれたのは,「父は,悪人にも善人にも太陽を昇らせ,正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」という言葉でした.この言葉を読むとき,「自分を迫害した人,自分が憎んでいる人にも,心から優しくしなければいけない」という諭しとして受け取るときもあります。でも,今回 感じたのは、「少しぐらいの憎しみや、妬みなんかには負けないくらいに あたたかく輝くようなお父さん」のようなイメージでした。

わたしは 最近,子どもの保育をしている人たちや,お年寄りの介護をする人たちとの付き合いが多いのですが、子供が急に叩いてきたり,急に「先生なんか死んじゃえ!」というくらい厳しい言葉が飛び交うこともあるようです。おじいちゃんやおばあちゃんでも,たいへんです,急に しかりつけたり、命令したり、殴ってきたり... そんなとき,カッとなる人もいます.それは それで いいんです.でも,カッとならない人もいます.急に殴られたときにとっさに、自分のことより,叱ったり殴ったりしてきた相手の方に心が向いて、「どうしたんですか?」と問い返す人がいます。第一声で,「何か痛かったんですか?」と聞き返せる人たちもいます。

何かがあったとき,自分の受けた痛みに — そして,痛みをとおして 心に与えられた傷に — 心が向いてしまえば,人に優しくすることは はじめからできないでしょう.人のこころは傷には敏感です。恐れのあるところには 愛の生まれる場がありません。

もちろん,決して手放すことのできない憎しみや怒りを抱えている人もいます.毎晩毎晩,子どものころにされたことを悪夢に見る,朝起きるたびに怒りがこみ上げてくる。そんな人もいます。そんな人に,「その憎しみを手放して、その人を愛せ」と命ずるとしたら、それは「こころを殺してしまいなさい」というのに近いかもしれません。そして,それを 神さまは「命じ」はしないと思います。

でも,よく考えて欲しいのは,パチンと叩かれたときに,「どうしたの?」と声をかけることのできる自分,「何すんのよ!」と応える自分と,どちらでも選べるとしたら,「まず 人に憎しみを向ける人なりたい」と(もし本当に幸せになりたいと願えるとすれば)思う人は いるでしょうか。

そんなことを考えると,「悪人にも善人にも太陽を昇らせ,正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる」という神の姿は いいものだなあ,と感じたわけです.

「あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい」.

この「完全な」
(τέλειος) という語を、自分の感情を支配できるほどの「完全さ」、あるいは人間的な弱さを超越した「強さ」と理解すると,この呼びかけは,わたしには、できっこないこと命じる叱責にしか聞こえてきません。かえって,これを,たとえば「とても幸せな」とか「とても満ち足りた」と理解すれば、痛みや妬み、さみしさや苛立ちに揺さぶられることなく、人を気づかえる自分に満足し、周りの人を愛することを自分の喜びとし受け入れているような、とても大きな愛をもった、ちょっと憧れてしまいそうな お父さん、あるいは お母さんの姿が 思い浮かびます。ですから,先の言葉は、そんな風に とても大きなほほえみを浮かべてながら話しかけてくれる お父さん、お母さんからの語りかけのように感じるのです。たとえば,「天の父が満ち足りているように,あなたがたも,もしできるなら,満ち足りた者になりなさい」と.

右の頬を叩かれたとき,喜んで自分の左の頬を出しながら,「どうしたの?」ときいてあげられる人になれればいいなあ,と思いました.

2020年2月11日火曜日

わたしは ゲイである息子を誇りに思います

2020年01月16日,「カミングアウト・ストーリー」と題された本 — LGBTQ である子どもを持つ親たちと彼女との共著 — を持って,ソウル南西部にあるカトリック教会の前で写真撮影のためにポーズをとる Hong Jung-seun


わたしは ゲイである息子を誇りに思います 

LGBTQ である子どもを親が受け入れることができるよう 手助けする母


Hong Jung-seun は,彼女の息子 Jiho (38) が,12 年前に,ゲイであることを彼女に打ち明けたとき,彼女の世界が停止したかのように感じた. 

熱心なカトリック信者である彼女は,何度も神にたずねた :「なぜ わたしと わたしの家族は このような個人的な危機に直面しているのですか?」,「わたしは,人生のなかで,どんな悪いことをしたのでしょう?」彼女は,息子が「正常」な生活を送れるよう,彼の性的指向を変えてください,と神に頼んだ. 

結局,変わったのは彼女の方だった.

「わたしは,神に仕えるために,一身を捧げてきました.なのに,なぜ わたしの息子が?それは,わたしが何か悪いことをしたことに対する罰なのだ,とわたしは考えました.わたしは,神を憎みました」と,Hong は,The Korea Herald とのインタヴューの際に,言った.

息子のカミングアウトの後,しばらくの間,彼女は,食事することができなかった.精神的なショックと,認めたくないという気持ちと,罪意識のために,何日間も眠れなかった.気分は,めまぐるしく変わった.

LGBTQ の人々が,しばしば,否定され,差別され,憎悪の対象となる韓国社会において,息子の性的指向は,彼の人生にとって,および,彼女の人生にとって,何を意味するのか,という問いが,彼女の頭にこびりついた.

ひとりで長い時間を祈りに費やしたあと,彼女は悟った:神は,彼女を罰しているのではなく,愛と受容の徳を彼女に教えているのだ.

「わたしの人生の目標は,息子を良い大学に入れ,彼に良い仕事を見つけさせ,彼が良い家族を持てるようにすることでした.しかし,わたしは,わたしが彼にこうあって欲しいと思うような彼ではなく,今あるがままの彼を見て,受け入れることを,学びました」と 彼女は言う.「わたしには,命あるものを変えることはできないが,それを抱きしめることはできる,ということを,神はわたしに教えてくれました」.

「息子のカミングアウトがなかったなら,わたしは,偏見を打ち破ることなしに,社会的に差別されている人々に心から共感することができないままに,生きて,死んでいたでしょう」と 彼女は言った.「わたしの視界は広がり,わたしの世界は豊かになりました.わたしは,感謝することの意味を学びました」.

今,Hong は,LGBTQ である子どもを持つ親たちのグループを,主宰している.グループは,月に一度,三時間の会合を持っている.それは,同様の悩みを持つほかの親たちを支える彼女のやりかたである.

韓国において,homosexuality は非合法ではないが,LGBTQ の人々に対する差別は社会のなかに広く残っている.韓国の LGBTQ の人々の多くは,社会的断罪を恐れて,クローゼットに閉じこもったままである.

2019年に発表された OECD[経済協力開発機構]の レポート によると,韓国は,LGBTQ 包容度に関しては,調査対象であるメンバー国[35ヶ国]のなかで,下から 4 番目である[日本は 下から 11 番目].OECD 全体の平均が 10 点中 5.1 であるのに対して,韓国は 2.8 点である[日本のポイントは ほぼ平均値].

LGBTQ ティーンズは,さらに弱い立場に置かれているように思われる.

韓国の人権委員会が 2014 年にした調査によると,LGBTQ ティーンズの 54 % が学校におけるいじめや差別を経験しており,19.4 % が自殺未遂を経験している.

Hong のグループ会合に参加している親たちの大多数は,カムアウトしたばかりのティーン年齢の子どもを持っている.そのような子どもたちは,生死の境界線上を歩んでおり,助けを求めているのだ,と Hong は言った.

「わたしの息子が神経過敏になっていた時期がありました.そのとき,わたしは,高校入試のための勉強のストレスのせいだろう,と思っていました.息子がひとりで恐怖と孤独に耐えねばならなかったのだと思うと,申しわけない気持ちになります」と 彼女は言った.

彼女は,息子のために,LGBTQ の人々が繁栄することができ,あるがままで幸せになれる世界を,望んでいる.

「最も緊急には,差別を禁止する法律が必要です.LGBTQ である子どもを持つ親たちは,毎日,子どもたちの安全のことを心配しています.わたしは,ただ,わたしの息子が この韓国社会で ほかの人々と同様に安全に生きて行くことができることを,欲しているだけです.特権を求めているわけではありません」と彼女は言った.

LGBTQ の人々が人権を主張し,自分らしい外見を表現することに対して露骨に反対しているプロテスタントのグループに関して,彼女は,宗教は橋を架けるものであって,壁を造るものであってはならない,と付け加えた.

それでも,Hong には,ポジティヴな変化 — ゆっくりしたものではあるが — の徴候が見える.

Hong が主宰するグループは,2020年01月,韓国のカトリック人権委員会から Lee Don-myung 賞 — 韓国の民主化に貢献した人権擁護弁護士を記念して創設された賞 — を授かった.

韓国のプライド・パレードも,年々 規模が大きくなってきており,ソウルの中心部で行われた 2019 年のパレードには,LGBTQ の人々とサポーターたち,計八万人が参加した.

「もはや,息子のことは心配の種ではありません.彼は,幸福の源であり,感謝の理由であり,より豊かに,より多彩になる世界への架け橋です.ですから,彼がわたしの人生のなかに現れてきてくれたこと,そして,彼が今の彼であることに,わたしは日々 感謝しています」と彼女は言った.

「わが息子よ,わたしのために より大きな世界を開いてくれて,ありがとう」と彼女は言った.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)

2020年1月30日木曜日

LGBTQ カトリック信者への司牧活動に関してしばしば問われる五つの質問に James Martin 神父が答える

Fr James Martin in a private audience with Pope Francis on the 30th September 2019


LGBTQ カトリック信者への司牧活動に関してしばしば問われる五つの質問に James Martin 神父が答える




こんにちは,James Martin です.わたしは,イエズス会士であり,カトリック司祭です.イエズス会が発行している週刊誌 America の特約編集者をしています.また,『[カトリック教会と LGBTQ の人々との間に]橋を架けよう』という本の著者です. 

LGBTQ カトリック信者たちとの司牧的なかかわりあいのなかで,公的な講演においても,私的な会話においても,いくつかの同じ質問が繰り返し提起されてきました.SNS のなかでも そうです — ただし,必ずしも隣人愛に満ちたやり方でではありませんが.というわけで,対話のためになるように,最もよく提起される五つの質問に,ここで答えたいと思います. 

わたしにしばしば差し向けられる最初の問いは,これです :「あなたは,homosexuality に関するカトリック教会の教えに異議を唱えているのですか?」答えは「いいえ」です.幾度も わたしはそう述べています — 講演においても,インタヴューにおいても,また,2018年04月に America 誌に書いた記事 :「homosexuality に関するカトリック教会の公式の教えは何か?」においても.わたしは,homosexuality に関するカトリック教会の教え — 同性婚のことであれ,同性カップルのことであれ,その他のことであれ — に異議を唱えてはいません.もしわたしがそうでないことを意味するように見えることを言ったり,したり,書いたりしたとすれば,それは,わたしの意図するところではありません.ともあれ,LGBTQ の人々に関するカトリック教会の教えは,『カトリック教会のカテキズム』のなかで homosexuality に関して論ぜられているたった数行よりも,はるかに多くのことを含んでいます.その中心を成しているのは,イェスです.および,彼のメッセージ — 愛と慈しみと思いやりに関する彼のメッセージ — です.そして,それらの教えに,わたしは異議を唱えてはいません. 

第二の問い :「あなたは,教会で歓迎されていないと感じている LGBTQ カトリック信者に,何と言いますか?」多くの LGBTQ カトリック信者が,彼れらが所属する小教区の教会で歓迎されていない,と感じています.最近,ある女性が,わたしに,とんでもない経験を語ってくれました.彼女が司祭に「わたしは lesbian です」と言ったところ,彼は彼女にこう答えたそうです :「わたしは,司祭に叙階されて以来ずっと,homosexual の人に決して会うことがありませんように,と祈ってきました」.ですから,教会から距離をとる人々がいても,不思議には思いません.しかし,同時に,わたしは,LGBTQ カトリック信者たちに,このことを強調します :「あなたたちは,洗礼を受けた信者として,教皇や司教や司祭と同等に,カトリック教会の一員なのです」.もしあなたを教会から追い出そうとする者がいるなら,そんなことをさせておいてはなりません.教会は,あなたの教会でもあるのです.ですが,歓迎されていると感ずることのできる小教区を見つけてください.あなたの存在の根は,あなたが受けた洗礼のなかにあるのです. 

第三の問い :「なぜ あなたは 貞潔について もっとたくさん語らないのですか?」いいえ,語っていますとも.わたしは,講演において,ほぼ毎回,貞潔について語っています.貞潔は,質疑応答の際に,しばしば話題になります.率直に言って,わたし自身,貞潔を生きています.わたしは,今や30年間,イエズス会の貞潔の誓いを生きています.わたしが取り立てて貞潔の問題に焦点を当てない理由のひとつは,このことです : homosexuality に関する教会の教え — 独身と貞潔の教え — は,わたしが会ったことのある人々すべてに — LGBTQ カトリック信者たちにも,彼れらの家族たちにも,ほかのカトリック信者たちにも — 周知のことである.また,教会のなかには,貞潔に焦点を当てる個人やグループは,ほかにたくさんあります.わたしは,単純に,ほかの話題に焦点を当てているだけです : LGBTQ の人々が自身を「神に愛されている者」と感ずるようになれるためには,どうすればよいか ? 小教区において,あるいは,カトリック系の学校において,LGBTQ の人々に対して尊重と歓迎の意を示すためには,どうすればよいか ? LGBTQ の若者たちの間で自殺率が高いことに対して,我々はどう対処すればよいか ? 等々.わたし自身の司牧活動は,ほかの人々が見逃していると思われる領域に,焦点を当てています. 

第四の問い :「2019年09月30日の接見の際,Papa Francesco はあなたと何について話したのですか?」わたしは,Papa Francesco によって,個別接見のために,Palazzo Apostolico(ヴァチカン宮殿)に招かれました.その接見は,30分間続きました.その前の週に行われた教皇庁の Dicastero per la Comunicazione — わたしは,そのコンサルタントのひとりです — の会合で,わたしは Papa Francesco と会いました.その後,接見への招待が届きました.接見の際,Papa Francesco は,会談の詳細をメディアで公表しないよう,わたしに要請しました.ただ,個人やグループとなら会談の詳細を分かち合ってもよい,とおっしゃってもくださいました.会談の詳細をメディアで公表しないのは,互いに気がねなく話すことができるようにという配慮のためです.ともあれ,わたしは,こう言うことができます:教皇とわたしは,30分間たっぷり,LGBTQ カトリック信者のこと,および,世界中の LGBTQ の人々のことについて,語り合いました.そして,わたしは,彼から,LGBTQ の人々に対する司牧活動を平和のうちに続けて行くよう,励まされ,慰められ,勇気づけられました.どれほどわたしがその会談のことで教皇に感謝しているかは,筆舌に尽くしがたいほどです. 

第五の問い :「カトリック教会における LGBTQ の人々のための司牧活動として,次は何をすべきでしょう?」まず,世界レベルにおいては,教会は,LGBTQ の人々が弾圧され,逮捕され,処刑されるのが常態となっている国々に目を向ける必要があります.世界で 70ヶ国において 同性どうしの関係は非合法とされており,6ヶ国においては 同性どうしの関係のために処刑される可能性があります.つまり,それらの国々においては,LGBTQ の問題は 生命にかかわる問題なのです.悲しいことに,カトリック教会の司教たちのなかには,そのような抑圧的な法律を支持している者たちがいます.というわけで,homosexuality を刑事罰の対象とすることをやめさせることは,教会が支持すべき重要な方針です.次に,欧米においては,教会は,homophobia が引き起す いじめや迫害の問題,そして,特に 自殺の問題に,取り組む必要があります.第三に,特にアメリカ国内においては,教会は,カトリック系の学校や施設や団体が同性婚をした職員を解雇することをやめさせねばなりません.というのも,もし「カトリック教会の教えに反する」という理由で人々を解雇するなら,その対象となるのは,同性婚をした人々よりももっと広い範囲の人々[たとえば,離婚後に,婚姻無効宣言なしに再婚した人,妊娠中絶をした人,等々]となるはずだからです.それらの人々まで含めないなら,教会の教えを実行している,と主張することはできません.単に差別しているだけです.しかし,教会が LGBTQ の人々に対して為すべきもっと基本的な — かつ,斬新な — ステップがあります.それは,LGBTQ の人々の言葉に耳を傾けることです. 

わたしが世界中の多数のカトリックの信者,小教区,学校,組織と分かち合うこの司牧活動を支えてくれる人々すべてに,感謝します.どうか,わたしたち皆のために,そして,特に,LGBTQ である友人たちのために,祈り続けてください. 


Father James Martin answers five common questions about LGBT Catholic ministry

Hi I’m father James Martin. I’m a Jesuit priest, editor-at-large at the America Media and the author of “Building a Bridge”. 

In the course of my ministry with LGBT Catholics, both in public lectures and in private conversations, the same questions come up repeatedly. They come up on social media too, though not always in the most charitable of ways. So in the interest of dialog I thought I’d answer the most common ones.

The first question I commonly hear is : “Are you challenging Church teaching on homosexuality ?” The answer is : No. I’ve stated this many times in talks and interviews and even in an article in America called “What is the official church teaching on homosexuality”. I’m not challenging church teaching on same-sex marriage, same-sex relations or anything else for that matter, and if I’ve said, done or written anything that seemed to imply otherwise, that wasn’t my intent. But the Church teaching on LGBT people is a great deal more than just the few lines in the Catechism that deal with homosexuality. At heart the Church teaching is Jesus and his message of love, mercy and compassion. And those teachings I’m also not challenging.

The second question is : “What do you say to LGBT Catholics who don’t feel welcome in the Church ?” Many LGBT Catholics don’t feel welcome in their own church. Recently a woman told me that after she told her pastor that she was gay he said to her : “I’ve prayed my whole priesthood that I would never meet a gay person.” So I understand people who distance themselves from their church. By the same token I remind them that as baptized Catholics they’re as much a part of the Church as the Pope, their local bishop or me. Some may try to push you out of the church, but why let them ? It’s your church too. Try to find a parish though where you feel welcome and root yourself in your baptism.

“Why don’t you talk more about chastity ?” Well, I do talk about chastity in almost every lecture. The topic also comes up often in question-and-answer sessions. And not to put too fine a point on it but I’m also living chastity. I’ve been living my Jesuit vow of chastity for thirty years now. One reason I don’t focus on it though is because every LGBTQ Catholic I’ve ever met, every member of their family and pretty much every Catholic already knows the Church teaching on celibacy and chastity when it comes to homosexuality. There are also many other individuals and groups in the Church who focus on that. I’m simply focusing on other topics : how to invite LGBTQ people to see themselves as loved by God ; how to show respect and welcome to LGBT people in Catholic parishes and schools ; how we can combat the high incidence of suicide among LGBT youth and so on. My own ministry focuses on areas I think other people are overlooking.

Another question : “What did Pope Francis and you discuss during your meeting in September 2019 ?” I was invited by Pope Francis to a private audience in the Apostolic Palace which lasted for 30 minutes. The invitation came after I met the Holy Father earlier in the week during a meeting of the Vatican’s Dicastery for Communication of which I am a consultant. At one point during the audience Pope Francis asked that the details of our conversation not be shared with the media, but he said that I could share those details with individuals and groups. That was so that we could talk freely. But I can say that the Holy Father and I spent the entire time talking about LGBT Catholics and about LGBT people worldwide and that I felt inspired, consoled and most of all encouraged to continue this ministry in peace. It’s hard to express how grateful I am for those 30 minutes.

Finally : “What are the next steps for LGBT ministry in the Catholic Church ?” First, worldwide, the Church needs to look at countries where LGBT people are routinely beaten, arrested and executed. In 70 countries same-sex relations are illegal and in six countries you can be executed for engaging in them. So in these places LGBT issues are life issues. Tragically some Catholic bishops have even supported these repressive laws. Thus the decriminalization of homosexuality is an important measure for the church to support. Next, in the West, the church needs to confront the bullying and persecution and especially the suicides brought on by homophobia. Finally, in the US, the Church must stop firing married LGBT people from their positions in Catholic institutions, because if you’re going to fire people for not following Church teaching that would include a lot more than just married LGBT people. Otherwise it’s not enforcing Church teaching, it’s engaging in discrimination. But a far more basic step for the Church is to do something brand new with LGBT people : listen to them.

Thanks to everyone who has supported this ministry which I share with many Catholic individuals, parishes, schools and organizations across the world. And please keep all of us and especially our LGBT friends in your prayers.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)

酒井陽介神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2020年01月26日

Duccio di Buoninsegna (Siena, ca 1255/1260 - 1318/1319)
Vocazione di Pietro e Andrea (ca 1308-1311)
in the National Gallery of Art, Washington DC



酒井陽介神父様 SJ の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2020年01月26日


第一朗読:イザヤ (08,23b - 09,03)
先に,ゼブルンの地,ナフタリの地は辱めを受けたが,
後には,海沿いの道,ヨルダン川のかなた,
異邦人のガリラヤは,栄光を受ける.
闇の中を歩む民は,大いなる光を見,
死の陰の地に住む者の上に,光が輝いた.
あなたは,深い喜びと 大きな楽しみをお与えになり,
人々は,御前に喜び祝った.
刈り入れのときを祝うように,
戦利品を分け合って楽しむように.
彼らの負う軛,肩を打つ杖,虐げる者の鞭を,
あなたは,ミディアンの日のように 折ってくださった. 

第二朗読:第一コリント書簡 (01,10-13.17)
兄弟たち,わたしたちの主 イェス キリストの名によってあなたがたに勧告します.皆,勝手なことを言わず,仲たがいせず,心をひとつにし,思いをひとつにして,固く結び合いなさい.わたしの兄弟たち,実は あなたがたの間に争いがある と,クロエの家の人たちから知らされました.あなたがたは めいめい,「わたしはパウロにつく」,「わたしはアポロに」,「わたしはケファに」,「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです.キリストは幾つにも分けられてしまったのですか.パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか.あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか.キリストがわたしを遣わされたのは,洗礼を授けるためではなく,福音を告げ知らせるためであり,しかも,キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように,言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです.

福音朗読:マタイ (04,12-23)
イェスは,ヨハネが捕らえられたと聞き,ガリラヤに退かれた.そして,ナザレを離れ,ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた.それは,預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった.
ゼブルンの地とナフタリの地,
湖沿いの道,ヨルダン川のかなたの地,異邦人のガリラヤ,
暗闇に住む民は大きな光を見,
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ. 
そのときから,イェスは,「悔い改めよ.天の国は近づいた」と言って,宣べ伝え始められた. 
イェスは,ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき,二人の兄弟,ペトロと呼ばれるシモンと その兄弟アンデレが,湖で網を打っているのを御覧になった.彼らは漁師だった.イェスは,「わたしについて来なさい.人間をとる漁師にしよう」と言われた.二人は,すぐに網を捨てて従った.そこから進んで,別の二人の兄弟,ゼベダイの子ヤコブと その兄弟ヨハネが,父親のゼベダイと一緒に,舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると,彼らをお呼びになった.この二人もすぐに,舟と父親とを残して イエスに従った.イェスはガリラヤ中を回って,諸会堂で教え,御国の福音を宣べ伝え,また,民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた.


今日 読まれた福音を味わいながら,そして 特に この共同体とともに それを分かち合うことに思いを馳せながら,どんなメッセージを — どんなイェス様の思いを — 分かち合えるかを祈りながら,そして 味わいながら,考えていました.そのときに まず最初に わたしに飛び込んできたイメージ,それは,イザヤのことば — 第一朗読で読まれ,福音書のなかでも言われた このイザヤの言葉 — です: 

ゼブルンの地とナフタリの地,湖沿いの道,ヨルダン川の彼方の地,異邦人のガリラヤ,暗闇に住む民は,大きな光を見,死の影の家に住む者に光が差し込んだ. 

この神のことばが,非常に強く わたしに迫ってきたんです.なぜなら,そこに 皆さんを見たからなのです.そこに わたしたちを見たからなのです.そうした思いのなかで,このことばを味わっていました.どこへ,イェスは向かおうとしているのか?誰に,イェスは「神の国は近づいた」と伝えているのか?そう問うているとき,皆さんのことが思い出されました.わたしたちのこのミサのことが,思い出されました. 

前にも,ミサ後の分かち合いの集いで言ったことですが,今 ここで 同じことを繰り返して言います.わたしがこの共同体のミサを手伝うようになったのは,鈴木伸国神父さんから招かれたからです.「手伝ってくれないか」と彼から言われて,わたしはここに来ました.そのときの鈴木神父の口説き文句が,すごいんです:「もしイェスが今いるとしたら,誰に向かって福音を伝えるだろうか?ここに来ると,そのことがよくわかるよ」.ぼくは,そんな殺し文句を聴いたことがなくて,腰砕けの状態で「うわ~」と思ったんです.そして,「それは見てみたい,それは体験してみたい,味わってみたい」と思いました.そして,神父としてできる分かち合いというミサの形をとおしてそこに加わりたいな — そう思ったのです.そして,何回か こうやって 皆さんと ミサや分かち合いの集いをとおして,あのとき鈴木神父が言っていた言葉は嘘じゃなかった — これを,回を重ねるごとに 強く感じるようになりました. 

もしイェスが今いるとしたら,誰に向かって言うでしょうか:「神の国は近づいたんだよ.大丈夫だよ,心配しなくていいよ」と? 

「悔い改めよ,天の国は近づいた」とイェスが言うとき,「悔い改めよ」は,「新しい地平が開かれたのだから,新しい視点を持とう,新しい地平を見つめよう」ということです.ギリシャ語では μετάνοια[メタノイア:回心]と言います.それは,「方向転換をする,新しい方を向く」という意味です. 

それを聴いた人々は,イェスのことばをこう受け取ったでしょう:そうだ,新しい地平が開かれつつあるんだ;新しい世界が来ているんだ;わたしたちは,新しさに もっともっと目を向けなければいけない;新しいものに,心を開き,手を開き,体を開き,知性を開き,思いを開き,社会を開いて行かねばならない;そして,そこに神の世界が開かれて行くのだ.このメッセージが,イェスをとおして伝えられました. 

そのことと,先ほど紹介した鈴木神父のことばは,わたしのなかで,まったく矛盾することなく,ひとつです. 

イェスは,わたしたちに,新しい世界へ目覚めるよう,新しい視点を育むよう,促しています.

神の思いと神の力が わたしたちとともにあるのだから,恐れる必要はないのだ.もちろん,たくさんの恐れや不安を,わたしたちは抱えながら生きています.だが,神の思いが,そして,神が告げる福音が,このわたしに向かって来ているのだから,こわがる必要はないんだ — わたしたちは,わたしたち自身に,そう言いきかせることができるだろうと思います.

実際,わたしたちは,こうして,主の食卓を囲みながら,主をいただきながら,御ことばを味わいながら,そして,主のからだを受け取りながら,主の祝福を受けながら,力を得て行きます.

そして,神の福音は,ここで止まることはありません.皆さんをとおして,我々をとおして,教会をとおして,人々のところに,あまねく世界に,行きわたる勢いを持ってます.

考えてみてください:皆さんは,その意味において,福音の frontliner[前線に立つ人]なのです.神がどこへ向かっているのか,神の思いがどこに注がれるのか,福音がどうやってわたしたちに迫ってくるのか — それを,皆さんは,神から最初に告げられるのです.それを,皆さんは,このミサのなかで,そして,皆さんの人生のなかで,強く感じることができるはずです.

ですから,恐れることはない.だから,必要以上に不安を持つこともない.

わたしたちは,ひとりひとり,神の子として,福音を 賜物として いただいています.それは,わたしたちににぐっと迫ってきているものです.

では,この力を,わたしたちは,どうやって分かち合っていったらよいのだろうか?

神から福音を告げられた者としてのキリスト者の大切な使命は,今日の第二朗読でパウロが言ってるように,福音を告げ知らせることです.

わたしたちは皆,ひとりひとり,それぞれのバックグラウンドがあり,それぞれの過去があり,それぞれの現在があり,それぞれの立場があります.それぞれの善さがあり,それぞれの難しさがあり,それぞれのチャレンジがあります.しかし,それに限定されることはない.それで,わたしたちが何か定義づけられることはない.なぜなら,わたしたちひとりひとりに,イェスは,福音を 直接 告げてくれているのだから.

その力を以て,わたしたちは,今度は,福音を分かち合い,福音を告げ知らせるという大切な使命を,負っているんです.わたしたちは,それぞれのユニークなあり方で,それぞれの — ほかの人と比べることのできない — わたしなりのあり方で,わたしなりの献げ方で,その使命を果たすしかたを探してゆくのです,見つけてゆくのです,作り上げてゆくのです.そして,福音を,この世界に,この社会に,分かち合ってゆく.

イェスは「天の国は近づいた」という言葉を一番最初にわたしたちに告げているならば,では,わたしたちは,福音の frontliner として,イェスから受けた賜を,どうやって,この世界に,わたしの近しい人々に,共同体に,教会に,この国に,伝えてゆけるんだろうか,分かち合ってゆけるんだろうか?この社会を,この世界を 変える味つけの塩として,わたしたちは,どのような役割を果たしてゆけるのだろうか ? — そこに思いを馳せてもよいのではないか,と思います.ユニークで,わたしなりの,個性あふれたあり方,関わり方を,探してゆきましょう.

ですから,恐れる必要はないんです,不安がる必要はないんです,自信なく生きる必要はないんです.

もちろん,世の中は厳しいところであったりします.社会は,ある人が,自分たちのあり方とは異なっているとか,そぐわない というところに,目を持って行きがちです.しかし,福音を受けたわたしたちは,何を恐れることがあるでしょう.

この自信を,わたしたちは,恐れを感じるからこそ,何度も何度も思い返す必要がある,と思います.わたしたちは,くじけそうになるからこそ,弱いからこそ,疑ってしまうからこそ,不安に陥るからこそ,恐れのなかで小さくなってしまうからこそ,イェスの言葉 :「悔い改めよ,新しい世界が開かれた,新しい眼を持ちなさい,わたしの思いはあなたと共にある,新しい地平に生きるのだ」を 何度も何度も繰り返し わたしたち自身に言い聞かせて行く — きっと,わたしたちは,そうしながら歩んで行くしかない.

この世界に,この社会に,この今という時代に 生を受けた わたしたちは,そのようにイェスの福音を告げ知らせて行く使命 (mission) を受けているのです.

その使命を遂行するためには,時間がかかります.その方途は,簡単には見つかりません.だが,そのために互いに励まし合い,分かち合い,ともに食卓を囲む仲間たちがいるのだ,ということ — それは大きな恵みだ,と思います.

今日の福音の後半部分 (04,18-23) は,任意だったので,読みませんでしたが,そこでは,イェスが実際に弟子たちを ひとりひとり リクルートします.イェスは,彼の思いが向かって行った人々をリクルートします.ラビ,祭司,ファリサイ人,生活が非常に安定している人,知識豊かな人 — そのような人々を,イェスは決して選びません.イェスが声をかけるのは,さまざまななバックグラウンドを持っている人であり,この人にこそ福音を告げたいと思える人,この人なら福音を分かち合ってくれると思える人です.そのような人々ひとりひとりに,イェスは声をかけています.

12 使徒たちは,わたしたちの先達として,福音を告げ知らせることのロールモデルです.

確かに,わたしたちは,不自由さや不完全さを持っています.それを持っているということは,自覚しなければなりません.しかし,どうか,そこに閉じ込められたり,そこに限定づけられたりしないでください.

わたしたちは,イェスから,新しい世界に招かれており,新しい眼をもらっています.わたしという人間も,新しさを以て生きるよう,呼ばれています.それによって,わたしたちは,変わりつつあり,そして,この世界を変えつつあります.

その自信を 少し このミサのなかでいただくことができたらいいな,と思います.

イェスは,きっと,皆さんとともに,皆さんのうちに,いてくださる.

主は皆さんとともに.