2019-10-25

Richard Rohr 神父のブログから — 聖書の homophobic な箇所をどう読むかの示唆

Walter Wink (1935 - 2012)

LGBTQ+ 人権擁護のために積極的に活動している Richard Rohr 神父 OFM が,彼のブログ のなかで,1999年に出版された論文集 Homosexuality and Christian Faith のなかに神学者 Walter Wink 牧師が書いた Homosexuality and the Bible の一節を紹介しています.James Martin 神父 SJ が SNS でその記事を紹介していたので,目にとまりました.以下に,邦訳を提示します.

******
より深い意義

わたし [ Fr Richard Rohr ] の友人,故 Walter Wink — メソジスト牧師,聖書学者,神学者,非暴力活動家 — は,gender および sexuality との宗教の格闘を,歴史的な展望のなかへ位置づけることによって,いかに Jesus が被抑圧者と抑圧者をともに解放しているかを学ぶ機会を,改めて提供してくれている.

******
[以下,Walter Wink の Homosexuality and the Bible からの一節]

ともあれ,聖書は,同性どうしの性的行為に言及するとき,それを明らかに断罪している.わたしは,そのことを率直に認める.問題は,まさに,聖書の判断は正しいのか否か,ということである.たとえば,聖書は,奴隷制を容認しており,それを不当なものと攻撃してはいない.では,今日,我々は,奴隷制は聖書によって正当化されている,と論ずる気になるだろうか?150年以上前,奴隷制の当否について盛んに議論されていたとき,聖書は,明らかに,奴隷制支持論者の側に与しているように思われていた.奴隷制廃止論者たちは,聖書にもとづいて反奴隷制論を正当化するのに苦労していた.ところが,今日,米国南部のクリスチャンたちに「聖書は奴隷制を容認しているか?」と問えば,答えは,ほぼすべて,「否」で一致するだろう.同様に,今から 50 年後に現時点をふりかえって見れば,人々は,神の聖なる息吹が我々の社会のなかで sexuality に関して為した新たなわざに対して,キリスト教会がかくも鈍感であり,かくも抵抗的であったことを,いぶかしく思うことだろう.

奴隷制に関してそのように記念碑的な変化をもたらしたものは,次のことである:すなわち,キリスト教会は,ついには,聖書の律法的な性格を超えて,より深い意義 — それは,イスラエルによって,出エジプトの経験と預言者たちの経験にもとづいて述べられており,そして,Jesus が自身を娼婦,徴税人,病者,障碍者,貧者,社会から見棄てられた者たちと同一化していることにおいて崇高に具象化されている — へ到達するよう,促された,ということ.すなわち,神は,無力な者たちの側に位置しており,抑圧されている者たちを解放し,苦しむ者たちとともに苦しみ,すべてのものの和解のためにうめき声をあげているのだ.それゆえ,Jesus は,先天的な障碍や生物学的な条件や経済的な挫折のせいで〈人間社会や宗教によって〉「罪人」と見なされた者たちのところに立ち寄って,「あなたの罪は赦された」,「あなたたちは無条件に愛されている」と宣言した.そのような崇高なあわれみの光のもとでは,我々の gay に関する立場がいかなるものであれ,「愛せ」,「無視するな」,「苦しみを分かち合え」という福音の命令は,見まごうかたなく明瞭である.そして,勘違いしないでおこう — LGBTQ+ であることを祝福する世俗的な文化にもかかわらず,彼れらのなかにはなおも深い苦悩があり,しかも,それは,最もしばしば,彼れら自身の家族やキリスト教会によって惹き起こされている.

同様に,女性たちは,聖書のなかに性差別と家父長主義 — それらのせいで,かくも多くの女性たちが,キリスト教会から疎外されている — が蔓延していることを認めるよう,我々に催促している.その出口は,聖書のなかの性差別を否認することではなく,しかして,聖書さえをも Jesus における啓示の光のもとで裁き得る解釈学を発展させることである.Jesus が我々に与えてくれたものは,あらゆる形態における支配に対する批判 — 聖書そのものへも向けられ得る批判 — である.そのように,聖書は,聖書自身を正す原理を包含している.我々は,聖書を偶像崇拝することから,解放される.聖書は,神のことばの証しとしてのその本来の座へ位置づけ直される.そして,神のことばは,書物ではなく,ひとりの人[三位一体を構成する三つの位格のひとつ]である.

******
[Richard Rohr 神父による補足]

我々は,奴隷制,死刑,体罰,重婚,ある種の子育て方法,相続制度,有利子融資,商業一般などに関して,聖書が編纂された当時は,一見,容認され得たと見える多くの問題について,正義と公平の方向へ進んできた.我々が LGBTQ+ の人々を拒絶し,彼れらを我々の教会へ全的に包容することを拒み,法によって平等に保護される権利を彼らに否むことによって,彼れらが被ってきた苦しみを,我々クリスチャンは,終わらせ,癒す作業の最前線に立つべきだ,と わたしは思っている.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)

2019-10-21

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2019年10月20日

Nikola Sarić (1985- ) : Parable of the Unjust Judge (2014)


鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年10月20日(年間第29主日 C 年) 


第一朗読:出エジプト 17,08-13 
第二朗読:第二テモテ書簡 3,14 – 4,02 
福音朗読:ルカ 18,01-08(不正な裁判官の譬え) 

「モーセはその上に座り,アロンとフルはモーセの両側に立って,彼の手を支えた」(Ex 17,12)

今日の「裁判官 と やもめ」のお話しは,わたしのお気に入りのひとつです.それは,当時,御殿場の神山複生病院[こうやま ふくせい びょういん]にいたフランス人の Robert Juigner 神父様* が,このお話しで紙芝居をつくって見せてくれたからです.牛のようにおおきな神父様が真似てくださった〈裁判官を発狂寸前まで追い立てるくらいの〉おばあさんやもめの〈執拗にくりかえされる,甲高い声での〉訴えが,お話しのなかの裁判官の耳にではなく,わたしの耳に,いまもこびりついて離れません.修友となみだを流して笑ったのをよく覚えています.

さて,そんなお話ができないわたしは,真面目にお説教をすることにいたします. 

祈っていて,ふたつのことに気づきました. 

ひとつは,「祈りは難しくないらしい」ということです. 

モーセのしていたのは,立って(後になると,すわって)手を上げていることだけでした.また,やもめ(Juigner 神父の紙芝居では,おばあさんでしたが,そうとは限りませんが)は,別に,主の祈りや,天使祝詞を知っているようでもなく,気散じをしないように気をつけているようにもみえません.念祷と観想の区別を意識しているふうでもありません. 

祈りは,自然なもののはずです.詩編やイエスの祈る姿は,子供が父親に自分の思うこと,願うこと,欲しいものを,あるいは,日々の哀しさや嘆き,うれしいことや感謝を語るように,神様に聞いてもらうのに,似ています.どこにも形はなく,どこにも決まりがなく,いい祈りと悪い祈りの区別もありません. 

ただ,もしわたしたちと違うところがあったとすれば,多分,ふたりとも,熱心に祈った,ということだと思います.やもめが何のために裁きを願ったのかはよくわかりませんが,モーセは,神に託された民,愛する民のために祈りました.しかも(聖書には,ただ,ときには「イスラエルは優勢になり」,また,ときには「アマレクが優勢になった」とだけ書いていますが)その民と同胞が,ときには剣によって打たれ,刺しつらぬかれ,騎兵の馬や戦車に踏みひしがれるのを,丘の上から見ながら,たとえ目を閉じていたとしても,兵と馬のたてるたけだけしい騒乱と,ときには民のうめきや断末魔の叫びを聞きながら,それでも祈りつづけたのだと思います.祈りの力を,すくなくとも,祈るという自分の務めを,彼はほんとうに信じていたのだろうと思います.『カトリック新聞』に,昨週,教皇がまだアルゼンチンで修道院の院長だったとき,息子の行方のわからない女性の訴えを聞いて,彼がすぐに,誰にも何も言わずに,断食をして祈りはじめた,という話しが紹介されていました**.彼も,祈りと,そして,祈るという自分の務めを,信じていたのだと思います. 

ふたつめは,とても簡単です.人がひとりで祈るのは,ときとして難しく,苦しいときほど難しく,「祈りつづけるのには,仲間の助けが必要だ」ということです. 

わたしたちの場合,祈る人の腕が下がらないように支えるのが祈りの助けになるかどうかわかりませんが,つらさや苦しみをもって祈っている人をほうっておかないでください.ときには本当に「しずかにしておいてあげる」ことも助けでしょう.また,あるときには,お話しを聞かせてもらうのも助けでしょう.そして,何よりも,その人のために,ときには,その人のそばで,祈ることは,大きな助けでしょう.たとえその人が何を祈ってるかも分からずとも,その願いの切実さは,かならず伝わってくるはずです. 

祈って,祈って,わたしたちは苦しいときをのりこえ,苦しみが過ぎさったとき,そのときの苦しさを祈りながらとおり抜けられたなら,何もなかったかのようにではなく,感謝して心から喜ぶように召されているように思います. 


注:

* Robert Juigner 神父様 MEP (1917-2013). 彼の名は,カタカナ書きでは「ジェイニエ」と表記されることが多かったようだが,フランス語の発音により近づけるなら,「ジュィニェ」.1917年12月23日,Anger で出生.第二次世界大戦中,兵役につく.1940-1941年,20ヶ月間,ドイツ軍の捕虜となった.1943年,司祭叙階.1946年,中国の貴州省の安順で宣教,司牧を開始.共産党政府によって逮捕され,10ヶ月間,投獄された後,1952年に香港で釈放.1952年06月からは,日本で宣教,司牧.東京大司教区の徳田教会,次いで,秋津教会,1972年からは,札幌司教区の八雲教会で,主任司祭.1994年から,御殿場の 神山復生病院 付 司祭.2007年10月,離日し,フランスで隠退生活.2013年05月13日,帰天.彼の 紙芝居カルタ は,今後も,末永く伝説として語り継がれるだろう.

** カトリック新聞 2019年10月13日付,Juan Haidar 神父様 SJ の「身近に見た教皇フランシスコ」4 :


2019-10-12

「放蕩息子の寓話は悔い改めが前提」に対して

Charlotte von Kirschbaum (1899-1975) and Karl Barth (1886-1968)

2019年09月11日付の キリスト新聞 で,日本のキリスト教界のなかでも あからさまな反 LGBTQ の動きが 多かれ少なかれ組織的に 始まったことが,報ぜられた.そのことに関して,わたしは「帝国の逆襲 —『キリスト教 性教育 研究会』について」と題したブログ記事を書き,その一部は 09月21日付のキリスト新聞の「読者の広場」欄で紹介された.そして,わたしの見解に対して,10月11日付の同紙の「読者の広場」欄で,新潟市の 日本基督教団 東中通教会 の信徒,村上 毅 氏の意見が「放蕩息子の寓話は悔い改めが前提」の表題のもとに紹介されている:
9月11日付の紙面で,井川昭弘氏が「価値観多様化時代の性教育」と題して講演したキリスト教性教育研究会の記事を,なるほどと思って読みました.ところが,9月21日付の本欄に,井川氏と同じカトリック信徒の小笠原晋也氏から,当該講演は「形而上学的偶像崇拝」との投稿が詳細に掲載されていました.内容は,井川氏の講演内容に真っ向から対立するもので,この問題の深刻さを改めて感じさせられました.
わたしの所属する教会はカルヴァンによって創始された改革長老派系列の教会で,人間は神により男と女の両性に創られたことを基調と考えています.LGBTQ+ の活動内容がどのようなものか,よく理解しておりませんが,必要に応じて学びたいと願っています.
小笠原氏の投稿において,ニヒリズムを克服するのは ルカ福音書 15:11-32 で書かれてある「慈しみ深い 愛の神」であると述べられていますが,この放蕩息子の寓話の前提は,神の前の悔い改めである,ということを認識したいと思います.

村上毅氏は御自分がカルヴァン派であるとおっしゃっているので,Karl Barth を引き合いに出すことをお許しいただこう — 勿論,それは,「LGBTQ+ とキリスト教」に関する議論においては,単なる tu quoque の偽論にしかならないが.

日本のキリスト教界のなかでどれほど一般的に知られているか,わたしは知らないが,Barth は,秘書の Charlotte von Kirschbaum と,1926 年から死去するまでの 40 年以上にわたり,「不義」の関係を続けた.しかも,1929 年以降は,妻と子どもたちもともに暮らす自宅に,Charlotte を同居させた.彼らの関係は,Karl の妻 Nelly Barth (1893-1976) に非常に大きな苦痛を与え続けた.以上の事実は,Barth と Charlotte との間に交わされた書簡 Karl Barth - Charlotte von Kirschbaum Briefwechsel (TVZ, 2008) によって,もはや「うわさ」の域を超えて,実証されている.

旧約聖書の律法のなかで,十戒は「不義を犯すなかれ」と規定しているが,当時,「不義」は,男が既婚女性と性交することであり,相手が未婚女性の場合は,「不義」には当たらない.しかし,申命記に記されている律法に従うなら,Barth は,Charlotte の父親に「罰金」を払い,彼女と結婚しなければならない (Dt 22,28-29). いかにも,古代のユダヤ社会においては,男は複数の妻を持つことができた.しかし,当然ながら,現代の西欧社会においては,重婚は禁止されている.となると,Charlotte は,彼女の父親の家の前で,その町の男たちによって,石打の刑に処されねばならない (Dt 22,20-21). が,そのような私刑も,当然ながら,現代の西欧社会においては禁止されている.

さあ,信仰のなかで律法遵守を何よりも大切と考える保守的なキリスト教徒の皆さん,あなたたちは,Barth と Charlotte を前にして,彼らをどう裁くのだろう?あなたたちは,好んで homosexuality と transgender being とを断罪する限りにおいて,20世紀の最も偉大な神学者とその秘書との「不義」を裁くことを免れることはできない.

話を本題に戻そう.村上 毅 氏は,放蕩息子の譬えにおいて,父が慈しみ深く息子を赦すのは,息子が自身の罪を悔い改めたからだ,と主張している.おっしゃりたいのは,こういうことだろう:同性どうしの性行為は,聖書に記されている律法によって,罪深いものであり,当事者が自身の罪を悔い,行いを改めて,初めて,その罪は赦される.つまり,村上 毅 氏は,同性どうしの性行為が罪深いものである,ということを,無反省に信じ込んでいる.それは,わたしが「形而上学的偶像崇拝」と呼ぶものの典型的な症状のひとつである.

保守的なキリスト教徒たちが「gay[男を性愛の対象とする男]どうしの性行為は,禁止されている」と考える おもな根拠は,レヴィ記に記された規定に存する:
女と寝るように男と寝てはならない.それは,忌まわしいことである (Lv 18,22).
ある男が,女と寝るように男と寝るならば,彼らふたりが為すことは,忌まわしいことである.彼らは処刑される.彼らの血は,彼ら自身にふりかかる (Lv 20,13).

一見すると,それらの条文は,確かに,gay どうしの性行為を断罪しているように見える.しかし,「女と寝るように」という表現に注目するなら,このことを読み取ることができるだろう:おまえは,女と寝る heterosexual の男である;にもかかわらず,おまえが男と性的な関係を持つなら,それは忌まわしいことである.

つまり,それらの条文の言葉は,heterosexual の男に向けられているのであり,gay に向けられているわけではない.そもそも,旧約聖書のことばの宛先は,もっぱら,古代ユダヤ社会の支配的構成員である heterosexual の男たちであって,そこには,女性も LGBTQ+ も含まれてはいなかった.また,そもそも,SOGI に関して heterosexual でない者や cisgender でない者の存在は,古代ユダヤ社会のなかでは想定されていなかった.勿論,そのことを歴史資料にもとづいて実証的に証明することは困難であろうが,我々は,旧約聖書に描かれた古代ユダヤ社会が家父長制的であることにもとづいて,そう推定することができるだろう.

したがって,聖書にもとづいて,同性どうしの性行為を断罪することはできない — 聖書にもとづいて Karl Barth と Charlotte von Kirschbaum との関係を断罪することができないのと同様に.

ところで,放蕩息子の譬え話 (Lc 15,11-32) は,「罪 と 悔悛 と 赦し」をテーマにしているのだろうか?律法の遵守にこだわり,違反に対する神による処罰を 何よりも恐れる キリスト教徒は,そう読むだろう.しかし,そこに物語られている 慈しみ深い父 は,実際には何と言っているか?
この〈わたしの〉息子は,死んでいたが,命へ返ってきた [ οὗτος ὁ υἱός μου νεκρὸς ἦν καὶ ἀνέζησεν ] (15,24) ;
この〈おまえの〉弟は,死んでいたが,命へ返ってきた [ ὁ ἀδελφός σου οὗτος νεκρὸς ἦν καὶ ἀνέζησε ] (15,32).

つまり,この譬え話の本当のテーマは,罪の赦しではなく,しかして,死から永遠の命への復活である.

愛にあふれる神は,既に,無償で,我々に 永遠の命 を与えてくださっている.塵から創られた我々が今,生きているのは,神が 御自分の息吹によって 神の命である永遠の命を わたしたちに吹き込んでくださったからである.我々は,今,現に,永遠の命を生きている.我々は,そのことに気づき,神の愛の恵みに感謝すればよいだけである.

それが Jesus Christ の福音の本質だ,と わたしは 思っている.

ルカ小笠原晋也