2023年9月3日日曜日

すべての者が 教会のなかで 生きるよう 呼ばれている — みんな,みんな,みんな!


すべての者が 教会のなかで 生きるよう 呼ばれている — みんな,みんな,みんな!


本年 8月,World Youth Day に参加するために リスボンを訪れた Papa Francesco は,同月 5日 土曜日 17:00, Colégio de São João de Brito において,ポルトガルのイェズス会士たちと 対話した.そこにおける質疑応答は,La Civiltà Cattolica 誌 オンライン版に 公開された.

そこにおいて,Papa Francesco は,USA の カトリック教会の 一部の保守派集団に対して「あなたたちは,indietrismo[後退主義]の イデオロギーのうちに 自身を閉じこめ,そして,それによって 教会の根から 自身を切り離し,枯れて行く者たちである」という警告を発した.また,Synod on Synodality — その総会は まもなく 10月04日に 始まる — への期待と喜びを表明した.そして,何よりも 我々が ここで 紹介したいのは,彼が改めて表明した〈LGBTQ の人々のための〉司牧姿勢である.その部分の邦訳を 以下に提示する(Papa Francesco と 参加者たちとの対話は,後者がポルトガル語ないしスペイン語で問い,前者がスペイン語で答えるというしかたで行われたであろうので,敢えて邦訳しない単語はスペイン語で表記する):

質問 : Santo Padre[聖なる父:教皇のこと],わたしは João です.わたしは,何年か前,ローマで あなたに接吻させていただいたのですが,そのときは,あまりに緊張していたので,名のることができませんでした.わたしは,Centro Universitario de Coimbra で 働いています.わたしは 難しい質問をしたいと思います.ここ リスボンで 今週 木曜日[8月 3日]に行われた 歓迎式典の際,あなたは,講話において,こう言いました:「我々は 皆[教会へ]呼ばれている — 今 あるがままに」そして「教会のなかには 皆のために 居場所がある」.わたしは,毎日,若い大学生[または 大学教員]たちとともに 司牧的に働いています.彼らのなかには,このような者たちが たくさん います:彼らは とても善良であり,教会[の 活動]に みづから積極的に参与しており,イェズス会士たちともとても親しいのですが,「わたしは homosexual です」と 言います.彼らは,彼ら自身を 教会の能動的なメンバーであると 感じていますが,しかし,どのように彼らの感情生活を生きてゆくべきかを教義のなかに見出せないことが しばしば あります.彼らは,貞潔であることへの呼びかけを 彼ら自身へ向けられた〈独身であることへの〉呼びかけと取るのではなく,一種の押しつけと取ります.我々は このことを知っています:彼らは,彼らの生のほかの諸領域においては 有徳な生を生きており,教義もよく知っています;ですが,我々は,そう知りつつも,「彼らは間違っている — なぜなら,彼らは 彼らの良心において 彼らの[性的な]関係は罪深い と感じていないから」と言えるのでしょうか? また,司牧の観点から言って,如何に 我々は ふるまうことができるでしょうか — 彼らが〈彼らは 彼らの生き方において 神によって《健全で 実り多い 感情生活を 生きるよう》呼ばれている と〉感ずることができるために? 我々は こう認めることができるでしょうか:彼らの[同性の相手との]関係は キリスト教的な真の愛 — 彼らが到達し得る可能な善としての愛,彼らが主に対して与え得る可能な答えとしての愛 — へと成長し得る種[たね]であり得る と?

パパ フランチェスコの 答え:皆が[教会へ]呼ばれている ということに 異論の余地はない,と わたしは思う.イェスは そのことについて とても明瞭である:皆[が 呼ばれている].[あの宴会の譬え (Mt 22,01-14 ; Lc 14,15-24) において]あらかじめ選ばれていた者たちは 宴会に来ようとしなかった.そこで,彼[神]は こう命ずる:十字路へ行って,皆を招きなさい — みんな,みんな,みんな!そして,明瞭であるために,イェスは こう言う:「元気な者たちも 病人たちも,義人たちも 罪人たちも」[招きなさい]— みんな,みんな,みんな!言い換えれば:皆に対して 扉を開きなさい;皆が 教会のなかに 居場所を有している.如何に 各人は そのことを生きるか?我々は〈彼らが このように 生きることができるよう〉彼らを助けよう:その居場所が 彼らにとって — あらゆる種類の人々にとって — 成熟の場所となるように.

わたしは,ローマで〈homosexual である 若者たちと[かかわりあいながら]働いている〉ある司祭を 識っている.明らかに,今日,homosexualidad のテーマは とても重要である — なぜなら,歴史的状況に応じて それは変わるから.だが,わたしが好まないのは このことである:あの「肉の罪」(pecado de la carne) に 拡大鏡が向けられること — かつて[十戒のうちの]第 6 の命令[姦淫の罪を犯すなかれ]について そうであったように.もし あなたが 労働者を搾取しても,嘘をついても,詐欺を働いても,それは大したことではない;しかるに,ベルトの下の罪[下半身の罪]は 重大である,というわけだ.

ともあれ,皆が 招かれている — それが重要な点だ.[そして,我々は]それぞれの人に適う司牧方法を以て[彼らを迎え入れねばならない].勿論,我々は素朴であってはならない;ときとして,このような司牧方法 — それを受け容れ得るほどに 彼らが まだ 十分に成熟していないような 司牧方法 — へ 彼らを強制してはならない.精神的に かつ 司牧的に 人々に寄り添うためには,感受性と創造性が おおいに必要である.しかし,すべての者が 教会のなかで 生きるよう 呼ばれている — みんな,みんな,みんな! それを決して忘れないように.

わたしは,あなたの質問を利用しよう — transexual の 人々[Papa Francesco は,las personas transexuales と言っている — las personas transgénero ではなく]について ひとこと 付け加えるために.あるとき,水曜日の一般接見に,Charles de Foucauld の 修道女が 来た.[Petites Sœurs de Jésus 会の]シスター Geneviève Jeanningros だ.彼女は,今,80歳で,Circo di Roma[ローマ近郊の港町 Ostia にある Lunapark で 公演をおこなっているサーカス団のこと]の 施設付修道女をしている — ほかの ふたりのシスターたちとともに.彼女たちは,サーカスの脇の mobile home に住んでいる.ある日,わたしは 彼女たちを訪問した.そこには,小さな礼拝堂があり,台所と寝室もある.すべては とてもよく整えられている.そして,シスター Geneviève は,transgender[ここでは Papa Francesco は 英語の transgender という語を用いている]の 娘たちと かかわりあいながら よく働いている.ある日,彼女は わたしに言った:「彼女たちを 一般接見に連れてきてもよいですか?」 わたしは 答えた「勿論 いいとも.なぜいけない?」そこで,chicas trans [ trans girls ] の グループが いつも来るようになった.彼女たちは,最初に来たとき[2022年04月27日,Torvaianica の Chiesa Beata Vergine Immacolata の 主任司祭 Andrea Conocchia 神父と シスター Geneviève にともなわれて,トランス女性の小グループが Papa Francesco と会った],泣いていた.わたしは 彼女たちに なぜ泣くのかと きいた.彼女たちのひとりが わたしに言った:「パパさまがわたしたちと会ってくれるとは,思ってもいませんでした」.最初の驚きの後,彼女たちは 来るのに慣れた.誰かがわたしに[メールを]書いてくれば,わたしはメールで答える.みんなが招かれている.わたしは,それらの人々は「わたしたちは拒まれている」と感じていたことに 気がついた.それは まことに辛いことだ.

En la Iglesia hay lugar para todos — ¡Todos, todos, todos!(教会のなかには みんなのために 居場所がある — みんな,みんな,みんな!)


En la Iglesia hay lugar para todos — ¡Todos, todos, todos!(教会のなかには みんなのために 居場所がある — みんな,みんな,みんな!)


World Youth Day 2023 リスボン大会における 8月03日の 歓迎式典での パパ フランチェスコの 講話


親愛なる 若者たちよ,今晩は!ようこそ!ようこそ,そして,ここに来てくれて,ありがとう!わたしは,あなたたちと会えて,うれしい.わたしは,あなたたちがたてる 心地よい喧騒を聞けて — そして,あなたたちの喜びに感染できて — うれしい.こうして リスボンで いっしょになれたのは,すばらしいことだ.あなたたちは 呼ばれた — わたしによって,リスボン総大司教 Manuel Clemente 枢機卿によって — 彼の歓迎の辞に わたしは 感謝する —,あなたたちの司教たちによって,あなたたちの司祭たちによって,あなたたちのカテキスタたちによって,あなたたちの世話人たちによって.感謝しよう — あなたたちを呼んだ人々すべてに,この出会いを可能にするために働いた人々すべてに — 盛大な拍手を以て 感謝しよう!だが,なかんづく,あなたたちを呼んだのは イェスである.イェスに感謝しよう — 改めて 盛大な拍手を以て!

あなたたちがここにいるのは 偶然によってではない.主が あなたたちを 呼んだのだ.それは,最近に限ったことではない.彼は,我々すべてを 呼んでいる — 我々の生の始まり以来.彼は,あなたたちを,あなたたちの名で 呼んでいる.我々は〈我々を 我々の名で呼ぶ 神のことばを〉聴く.

それらの言葉[「神は わたしを わたしの名で 呼んでいる」という言葉]が 大きな文字で書かれてあるのを 想像してごらんなさい;そして,それらが あなたたちひとりひとりのなかに — あなたたちの心のなかに — 書き込まれてある — あなたたちの生の表題を成すものとして,あなたたちの存在の意味を成すものとして — と 考えてごらんなさい.

あなたは あなたの名で 呼ばれた — あなたも,あなたも,あなたも;我々 — ここにいる者たちすべて,わたしも — は,我々の名で 呼ばれた.我々は 自動的に呼ばれたのではない.我々は,我々の名で呼ばれたのだ.

このことを考えてみよう:イェスは わたしを わたしの名で 呼んだ.それらの言葉は 心のなかに書き込まれてある.次いで,このことを考えてみよう:それらの言葉は 我々ひとりひとりのうちに — 我々の心のなかに — 書き込まれてある;そして,一種の〈あなたたちの生の〉表題 — 我々の存在の意味,あなたたちの存在の意味 — を 成している.あなたは,あなたの名で 呼ばれた.

我々のなかで 偶然にクリスチャンとなった者は 誰もいない.我々は 皆 我々の名で 呼ばれた.人生の始まりのときに — 我々が才能を有するようになる前に,我々が 陰と傷を我々のうちに持つようになる前に — 我々は 呼ばれた.

我々は 呼ばれた.なぜ? なぜなら 我々は愛されているからだ.我々が呼ばれたのは,我々が愛されているからだ.すばらしい!

神の目には,我々は,たいせつな子である;たいせつな子たちである我々を 神は 毎日 呼ぶ — 抱きしめるために,励ますために,我々を 各々 唯一の かつ 独特な 傑作にするために.

我々は 各々 唯一的であり,独特である.そして,そのことすべての美しさを 我々は かいま見ることもできない.

親愛なる 若者たちよ,この World Youth Day の期間中,その現実を認めることができるよう,互いに助けあおう.この六日間が 神の〈愛情深い〉呼びかけの〈よく響く〉こだまであるように.神は 愛情深く 我々を呼んでいる;なぜなら,我々は 神の目には たいせつな子と見えているから — 我々の目がときとして見るもの – ときとして 我々の目は ネガティヴなものによって 曇らされ,ときとして 多くの娯楽によって眩まされる – にもかかわらず.

この六日間が,このような日々であるように:そこにおいて わたしの名が,あなたの名が,それを友愛的に言う〈かくも多くの言語の — かくも多くの国々の — かくも多くの国旗が見える —〉兄弟姉妹たちをとおして 響きわたる — 歴史のなかで唯一的な知らせとして;なぜなら このゆえに:あなたに対する神の心のときめきは 唯一的である.

この六日間が,このような日々であるように:そこにおいて,我々は このことを 我々の心に刻み込む:我々は 愛されている — 今 あるがままに;いつかこうなりたいという理想像においてではなく,今 あるがままに.それこそが,World Youth Day の 出発点である;そして,なかんづく,生の出発点である.息子たちよ,娘たちよ,我々は 愛されている — あるがままに — 化粧なしに.わかるかね? そして,我々は,我々それぞれの名で 呼ばれている.

あなたは あなたの名で 呼ばれている — それは,単なる言い回しではない;それは 神のことばだ (cf. Is 43,01* ; 2 Tm 1,09**). 友よ,もし 神が あなたを あなたの名で 呼んでいるならば,それは このことを意義している:神にとっては 我々は 誰も 単なる番号ではない;しかして,顔 (rostro) である;顔 (cara) である;心である.

* Is 43,01 :

だが,今や YHWH は こう言う — ヤコブよ,彼は あなたを創造した;イスラエルよ,彼は あなたを形づくった —:

恐れるな;
なぜなら このゆえに:わたしは あなたを贖った; 
わたしは あなたを あなたの名で 呼んだ; 
あなたは わたしのものである.

** 2 Tm 1,09 : 

[神は]我々を救済した;そして,我々を 聖なる呼び名で 呼んだ — 我々の行いに応じてではなく,しかして,神自身の計画および恵みに応じて —;その恵みは,永遠の時より前に,キリスト イェスにおいて,我々に与えられた.


わたしは 皆に〈このことに〉気づいてほしい:今日,あなたの名を知っている者たちは たくさんいる;だが,彼らは あなたを あなたの名で呼びはしない;実際,あなたの名は知られている;それは,SNS に 現れる;そして,アルゴリズムによって処理され,趣味や好みと結びつけられる;だが,そのようなもの すべてが 問うているのは,あなたの唯一性ではなく,しかして,市場調査のための あなたの有用性だけである.どれほど多くのオオカミが隠れていることか — 偽りの優しさの微笑みの背後に —;それらは「わたしは あなたが誰であるかを 知っている」と言う;だが,あなたを愛してはいない;それらは「わたしは あなたを信じている」と ほのめかし,「あなたは 有意義な人になるだろう」と約束する;だが,あなたに対する関心がなくなれば,あなたをほったらかしにする.それらは,virtual の 錯覚である;我々は だまされないよう 気をつけねばならない;なぜなら このゆえに:多くの現実が 今日 我々を惹きつけ,我々に幸福を約束するが,時がたてば,それらは〈それらが実際にそうであるところのものとして〉自身を明かす:虚しいもの,石鹸の泡,表面的なもの,無駄なもの — それらは,我々を 内的に空虚なままに 残す.

わたしは あなたたちに ひとつのことを 言おう:イェスは そのようではない;彼は そのようではない;彼は あなたを信頼している;あなたたち ひとりひとりを — 我々 ひとりひとりを — 信頼している;なぜなら このゆえに:イェスにとっては,我々ひとりひとりが たいせつである;あなたたちひとりひとりが たいせつである.そして,それが イェスである.

そして,それがゆえに,我々 — 彼の教会 — は,呼ばれた者たちの共同体なのだ.我々は,最も善良な者たちの共同体ではない;否,我々は 皆 罪人である.しかして,我々は 呼ばれたのだ — 我々のあるがままに.

そのことを 我々の心のなかで 少し 考えてみよう:我々は 呼ばれている — あるがままに — 問題を抱えたまま,限界を持ったまま,溢れかえる喜びをもって,よりよくなりたいという欲望をもって,勝ちたいという欲望をもって.

我々は,あるがままに,呼ばれた.そのことを考えてごらんなさい:イェスは わたしを 呼んだ — わたしのあるがままに — わたしがいつか成りたいと思っている理想像においてではなく.我々は,イェスの兄弟姉妹の共同体である;同じひとりの父の息子たちと娘たちの共同体である.

友たちよ,わたしは あなたたちとともに 明瞭でありたい;あなたたちは 偽り および 空疎な言葉に対して アレルギーを有しているから.

教会のなかには みんなのために 居場所がある (En la Iglesia hay lugar para todos). みんなのために.教会のなかでは 誰も邪魔物扱いされない;誰も余計ではない;みんなのために 居場所がある;わたしたちがあるがままに,みんなのために.

そして,イェスは 明瞭に こう言っている — 宴会に人々を呼ぶために 使徒たちを遣わすときに (cf. Mt 22,01-14 ; Lc 14,15-24) —:

みんなを迎えにゆきなさい — 老いも 若きも,健康な人も 病人も,義人も 罪人も.みんな,みんな,みんな!(¡Todos, todos, todos!)


教会のなかには みんなのために 居場所がある

「しかし,神父さま,わたしは 惨めな者です.わたしのために 居場所はありますか?」

みんなのために 居場所がある!

さあ,みんな いっしょに,おのおの 自分の言語で,わたしといっしょに繰り返そう:

みんな,みんな,みんな!(¡Todos, todos, todos!)

聞こえないよ!もう一度!

みんな,みんな,みんな!(¡Todos, todos, todos!)

それが 教会だ;みんなの母だ.みんなのために 居場所がある.

主は[断罪のために]指さすことはしない;しかして,彼は[迎え入れるために]両腕を広げる.

それは,我々に このことを考えさせる:彼は こうはしない[指さす動作]しかして,彼は こうする[抱きしめる動作];彼は みんなを抱きしめる.

イェスは 我々に そのことを 十字架のうえで 示している — 両腕を 大きく広げて — 十字架にかけられて,我々のために死ぬほどに.

イェスは,決して 扉を閉ざさない — 決して —;しかして,彼は あなたを 入るよう招いている :「入りなさい,そして,見なさい」.イェスは,あなたを受け入れる,あなたを迎え入れる.

さあ,わたしたちは,各人,イェスの愛のメッセージを伝えよう :「神は あなたを愛している;神は あなたを呼んでいる」.

それは 何と すばらしいことか! 神は わたしを愛している;神は わたしを呼んでいる.神は,わたしが神のそばいにいることを 欲している.

また,あなたたちは,今日の午後,わたしに質問した — たくさん質問した.問うことに倦んではならない.問うことに倦んではならない.問いを有するのは よいことである.さらには,それは,しばしば,答えを与えるのより よりよいことである;なぜなら このゆえに:問う者は 不安なままである;そして,不安は routine[決まりきった日常]に対する 最良の治療法である — routine, すなわち,ときとして魂を麻痺させる 一種の「正常」さ.

我々は,おのおの,自身のうちに 自分の問いを有している.それらの問いを持ち歩こう;そして,他者との対話のなかでも[それらを持ち続けよう].我々が神のまえで祈るときにも,それらを持ち続けよう.それらの問いは,我々が生きてゆくうちに,答えになってゆくだろう — ただ,我々は それらの答えを待つしかない.

そして,とても興味深いことに:神の愛は 我々を不意打ちする.それは あらかじめプログラムによって予告されてはいない.神の愛は 驚きである.それは 驚きである — それは いつも 我々を驚かす.それは,いつも,我々を注意深くさせておき,そして,我々を驚かす.

親愛なる 息子たちと 娘たちよ,わたしは あなたたちを 促す — このすばらしいことを考えてみるよう:神は 我々を愛している;神は 我々を 我々のあるがままに 愛している — 我々がそうなりたいと思う理想像においてではなく,社会が我々に対して要求する 望ましい人間像においてでもなく — 我々のあるがままに! 

神は 我々を 呼んでいる — 我々が 欠点を持っているがままに,限界を持っているがままに,人生のなかを前進してゆきたいと欲しているがままに.神は そのように 我々を 呼んでいる.

信頼しなさい;なぜなら このゆえに:神は 父である;我々を欲する父であり,我々を愛する父である.

それは,あまり気楽なことではない.そして,それがゆえに,我々は 偉大な助けを 有している — 主の母を.彼女は 我々の母でもある;彼女は 我々の母である.

わたしがあなたたちに言いたいのは,それだけだ:恐れるな;勇気を持て;前進せよ — このことを知りつつ:我々は,神が我々に対して有している愛によって,永遠に 神の財産となっているのだ***.

*** スペイン語原文では "estamos amortizados por el amor que Dios nos tiene". この場合,他動詞 amortizar は "pasar los bienes a manos muertas"[財産を 法人(特に 宗教法人)へ譲渡する — その財産が その法人のもとで 譲渡不可能な財産となるように]ということ.それは,この Papa Francesco の 講話の文脈では,彼が言及している Is 43,01 の「あなたは わたしのものだ」と同じことを言っている と 解され得るだろう(Vatican の 公式翻訳者たちも その語の翻訳に苦労しているようだが).

神は 我々を愛している.さあ,みんな いっしょに言おう :「神は 我々を愛している!」 もっと強く! 聞こえないよ![会衆は くりかえす] ここからは 聞こえないよ![会衆は 繰り返す]
 
Gracias. Adiós.


パパ フランチェスコの講話が始まるのは 1:02:20 あたり

2023年7月31日月曜日

2023年07月16日(年間 第 15 主日)の LGBTQ みんなのミサでの 鈴木伸国神父さまの説教 — Ryuchell さんのことを思いつつ

収穫:フランドルの暦,7月の挿絵(表紙絵の解説

2023年07月16日(年間 第 15 主日)の LGBTQ みんなのミサでの 鈴木伸国神父さまの 説教 — Ryuchell さんのことを思いつつ



第 1 朗読:イザヤ書 55,10-11
わが ことばは,わが口から出ると,むなしく わたしのところへ帰らない;しかして,わたしが欲することを 為す;そして,それがためにわたしが わがことばを遣わしたところのものを 成功させる.

第 2 朗読;ローマ書簡 8,18-23
被造界そのものも,解放されるだろう — 滅びへの隷属から,神の子たちの栄光の自由へ.

福音朗読:マタイ 13,01-23
種撒き人の譬え


今日は まだ Ryuchell さんの訃報から 4 日しか 経っていません.とても個性的だった人でしたから,自分にとって,ご家族にとって,ただ Ryuchell さんだったんじゃないか と思えば,ご本人や ご家族は もう,わたしが思うほどには,彼または彼女の gender について 考えていないかもしれません.でも,昨年の夏ごろから もう一度 ご自分の生き方を見直していた様子を見るにつけ,わたしは 日本の社会のなかでの gender や sexuality の難しさを考えさせられてしまいます.

芸能界というところは,gender や sexuality には寛容なところがあるように思っていた一方で,たとえば — これも最近のことですが — ジャニー喜多川氏による性暴力の被害者たちの証言に人々がなかなか耳を傾けようとしなかったことを見てもわかるように,やはり,いろいろな形で 性の問題に関する圧力があることにも 気づかされます.

それもこれもあって,今日のミサを準備するあいだに,わたしは,性に関する問題のほかに もうひとつ 忘れてはいけない大事なものがあることを 感じるようになりました.

少し乱暴に聞こえるかもしれませんが,大事なことなので あえて,乱暴目に話してみます.この社会と gender が — この社会のなかにおける gender が — レインボーになりさえすれば Ryuchell さんが自分の命を取ってしまうことはなかったのでしょうか ? SOGI の多様性が認められてさえいたならば,そんなことにはならなかったんでしょうか? もちろん,たくさんの人が生きやすくはなるでしょうが,わたしには,それでだけで問題がなくなってくれるとは 思えない気持ちが あります.

性の問題に関する圧力は 芸能界のなかに ありますし,社会のなかにもあります.そして,何よりも わたしたち自身のなかで sexuality と gender は とても深いところで 魂に結びついていますから,たとえ 外からの圧力がなくても,「自分はこういうものだ」と感じられる落ち着き場所や安心感が無ければ,自分自身が 揺さぶられ,不安定になってしまうことがあると思います.むろん たくさんの言葉が Ryuchell さんを傷つけたはずですが,それがなくても,彼/彼女は 自分のなかに落ち着かなさを感じ続けていたはずで,だからこそ 外からの言葉に深く傷つけられたのだと思うのです.

第 2 朗読の「被造物は,神の子たちの現れるのを 切に待ち望んでいます」,「被造物も,いつか滅びへの隷属から解放されて,神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」といった言葉を読むとき,わたしは この 圧力と偏見にあふれる社会のなかで,生きにくさを感じながら,そして いつか そこから自由になって生きたいという願いをもっている人たちの つらさと待望のようなものを 切々と感じます.

そこで問題になっているのは,わたしたちと神さまとの関係です.社会の軋轢と重さを超えて,直接に結び付けられているはずの関係です.わたしには,神さまの子どもとして だいじにされている という感覚があります.少なくとも,自分がそれを本当に深く感じたことがあるという記憶がありますし,必要なときには いつも その感覚を思いおこせる,その神さまとの関係にたち戻れる,と感じています.それが わたしたちの根っこだ と思います.それは とても大きな支えです.

周りの人々の目に自分がどういうふうに映っているにせよ — それどころか,自分の目に自分自身がどういうふうに映っているにせよ,神さまはわたしを手放さない ということを わたしは疑う気がないのです.「わたしは神に愛されている」と言えばいいでしょうか.

むずかしさを感じるときに「だいじにしているよ,愛しているよ — あなたがどんな姿でも」と言ってくれる人が 近くにいれば,それは どんなに助けになることか!

たしかに それは簡単なことでもありません.今日の福音の「30倍,60倍…」という言葉は,わたしには,神さまからの愛と,神さまへの信頼に支えられた人が成長する姿を 思い起こさせますが,他方で 聖書は,(神への信頼の)種を鳥に食べられてしまう人,芽が伸びても すぐ枯れてしまう人,茨や社会の圧力に押しつぶされてしまう人が多いことを 忘れてはいけないことを 警告してくれています.

Gender と sexuality に関して,わたしたちの自分自身との付きあいかた,周りとの分かちあいのしかたは,千差万別だ と思います.戦う人あり,密かに自分のなかで苦悩を抱えている人あり.でも,少なくとも 教会は — そして,教会に所属している わたしたち ひとりひとりは —「わたしたちは 神の子ども,あなたたちも 神の子ども.ともに うめいて 苦しんでいるけれども,わたしたちの希望は,いつでも愛していてくださる神さまのもとにあります」と言って,励ましあっていくのが 本当の姿だと思います.

どんなに社会的に成功していても,どんなに愛し合うパートナーがいても,分かち合うことができない苦しみが Ryuchell さんにはあったのだろうか と思わずにはいられません.

たとえ 結婚し,愛しい子どもができても,あるがままの自分を分かち合うことができなかったとすれば,あるがままの自分の姿を受け入れられなかったとすれば,その状況は 神さまの望む神の国の姿ではないように感じます.「主の祈り」で わたしたちは「御旨が行われますように — 天におけるように,地においても」と祈ります.そのとき,「この社会のなかでは 御旨が行われていないことがある」ということを認めることが,主の祈りを 本当に 自分のこととして祈るためには 必要だと思います.そこで はじめて「御旨が行われますように」という祈りに対して,「御旨が行われる社会にしたい」という望みをいただけるからです.

Ryuchell さんの魂が 天に召されますように;そして,その魂が本当に安心して天に召されることができるように,わたしたちが 世の光として,神の子どもとして この世界のなかで 輝いてゆくことができるように,祈りましょう.

そして,あらためて,わたしたち ひとりひとりが 神の子であり,神さまは わたしたち ひとりひとりを 愛してくださっている — 愛を枡に揺すり入れてくださるほどに,愛してくださっている — と感じながら,日々を過ごしていただきたい と思います.

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共同祈願より:

12日に 亡くなった Ryuchell こと 比嘉 龍二さんのために 祈りましょう.あわれみ深い 主よ,あなたの手に この 27歳の若者の息吹を ゆだねます.2 年前に亡くなった 木村 花さんと同様に,こころない者たちの誹謗と中傷によって殺されたのかもしれない この疲れきった魂を あなたの愛によって 慰めてください.彼れに 永遠の安らぎを与えてください.そして,絶えざる光で 彼れを照らしてください.彼れが 平和のうちに安らぐことができますように.

Ryuchell さんの死によって 心ぼそくなり,不安になっている人たちのために 祈りましょう.Ryuchell さんは,心の繊細さのゆえに 多くの人々を 惹きつけてきました;多くの人々が Ryuchell さんに 励まされてきました.ですから,なおさら 多くの人々が,その死の知らせを聞いて,心に痛みを感じているでしょう.しかし,希望は 消えたわけではありません;わたしたちは,神に希望を持つことができます.Ryuchell さんの死に打ちのめされている人々が そう信じて 生きてゆくことができますように.

Ryuchell さんの 遺族のために — 特に 5 歳になったばかりの 息子さんのために — 祈りましょう.主よ,ここに,あまりに大きな喪失の傷を負った 男の子が 残されました.どうか,悲しむ彼を 慰めてください;彼の涙を あなたの指で ぬぐってください;あなたの慈しみを以て 彼を 支え続けてください;なぜなら,あなたの愛だけが 彼を癒すことができるからです.

2023年4月17日月曜日

谷口幸紀神父の〈LGBTQ に対する〉侮辱的な言説を いまだに擁護する『福音と社会』誌 326 号の「釈明」を読んで


谷口幸紀神父の〈LGBTQ に対する〉侮辱的な言説を いまだに擁護する『福音と社会』誌 326 号の「釈明」を読んで



主の御復活 おめでとうございます ! Resurrexit sicut dixit, alleluia !

さて,カトリック社会問題研究所が隔月に発行する『福音と社会』誌の 323, 324 および 325 号(2022年08月,10月,12月 それぞれの月の 末日付)に掲載された 谷口幸紀神父の『「LGBT と キリスト教 — 20人のストーリー」を読んで』は,その〈LGBTQ の 人々に対する〉偏見と侮辱に満ちた内容のゆえに,大きな非難と批判の反響を惹き起こした — ついには,日本カトリック司教協議会の社会司教委員会のひとつ「日本 カトリック 正義と平和 協議会」が,その 2023年02月13日付の声明において,谷口幸紀神父の氏名を明示しなかったものの,カトリック司祭としての彼の行為を非難し,さらに,それだけでなく,従来 カトリック信者たちが LGBTQ の人々を 差別し,彼らの尊厳を傷つけてきたことについて 率直な反省を表明し,そして,彼らに対する包容的な司牧的ケアの必要性を強調するに至るほどに(これは,日本のカトリック教会の歴史において 実に 画期的なことであり,LGBTQ カトリック信者たち および 彼らに奉仕する者たちにとって まことに喜ばしい驚きである).

それを受けて,『福音と社会』誌 326 号(発行の日付は 2023年02月28日付であるが,実際には,多くの内部的な議論と検討の必要性のゆえに編集作業が長引いたため,それが発行されたのは 2023年04月初めであり,その紙媒体の現物がわたしの手元に届いたのは この聖週間のことであった)は,カトリック社会問題研究所の代表幹事,『福音と社会』誌の発行人,狩野 繁之 氏(彼の本職は,国立国際医療研究センター研究所の 熱帯医学-マラリア研究部の部長;いまだにマラリアが深刻な公衆衛生的問題である熱帯諸国におけるマラリア医療を専門とする医師;日本国内ではほとんど顧みられることもないだろう — しかし,当該諸国にとっては非常に有意義な — 彼の地味な仕事には,敬意を表したい)の 反省文 および『福音と社会』誌の もと編集長,フリープレス社 代表取締役,山内 継祐 氏の 釈明文を 掲載した.

カトリック社会問題研究所の創立 60周年を記念する『福音と社会』誌 324 号に掲載された文章のなかで狩野繁之氏が言っていることから察するに,同研究所は,若い世代の者たちを新たなメンバーとして迎えることなく,従来の構成員たちの高齢化と死去にともない,日本社会全体よりもより早く 終わりの時へ向かいつつあるようである.彼が 彼自身の本職の多忙にもかかわらず その代表幹事を引き受けざるを得なかったのは,彼より年長の世代の必然的な隠退のせいであろう(彼自身,既に 60歳代前半である).わたしは,今回の彼の反省文を,誠意あるものと受取り,評価する.

それに対して,山内継祐氏の釈明を,わたしは まったく評価しない.

なぜなら このゆえに:彼は,『福音と社会』誌 325号に掲載された谷口幸紀神父のテクストの末尾に付された「編集部から」と題した短い釈明文において彼自身が述べたことを,326号においても 繰り返して,こう言っている:谷口幸紀神父の文章は「公序良俗に反していない」.

何と! LGBTQ の人々を侮辱する表現を用い,彼らの存在を悪魔化し,そして,「LGBT は 虚構のうえに築かれた世界だ」という断定を以て,彼らの実存的な — ときとして自殺を動機づけるほどに深刻な — 苦悩を偽問題扱いすることにおいて,谷口幸紀神父はまさしく公序良俗に反している;にもかかわらず,山内継祐氏は,旧友の谷口幸紀神父を擁護するために,彼の過ちを否認するのか?

また,transgender について論ずる際に,谷口幸紀神父のように,トランス女性に「なりすました」者による性犯罪の可能性を持ち出すことは,transphobic な論者たちが必ず行う「論点のすりかえ」の虚偽議論である.

さらに,女性たちが社会生活においてトランス女性を如何に受け入れ得るか得ないかの問題も,transgender であることそのものについて論ずべきときには,論点のすりかえである.確かに,スポーツの世界におけるトランス女性競技者たちに関しては,現在,明らかに不公正なことが起きていると思われる;だが,その事態に対しては,おそらく数年以内に,〈競技者の testosterone 血中濃度だけでなく,全身の筋骨格系などをも考慮に入れた〉より合理的な競技規則が世界的に整備されて行くだろう.

最後に,山内継祐氏が犯している決定的な誤りは,transgender であることを先天的な性発達障害 (disorders of sex development) に関連づけていることである — 実際には,transgender であることと 先天的な性発達障害とは 相互にまったく無関係であり,両者は まったく次元の異なる問題であるにもかかわらず.

では,transgender であるとは 如何なることであるのか? その問いに関しては,わたしは,本年02月01日付の blog 記事で そこにおいて可能な限りで 論じたので,関心のある方には そちらを改めて参照していただきたい.

要点を 改めて述べるなら : transgender の存在は,我々が それを 形而上学的な性別二元論にもとづいて 否認するのではなく,しかして,ひとつの人間学的事実として捉える限りにおいて,〈生物学的性別 (biological sex) でも 社会学的性別 (sociological gender) でもない〉第三の性別概念 — それを とりあえず「実存論的性別」(existential sexuation) と 呼んでおこう — について問うことを 我々に要請する.


如何に 谷口幸紀神父は Papa Francesco の “gender ideology” 批判を 自説の正当化のために 誤って援用しているか


ところで,当の 谷口幸紀神父自身は,彼が『福音と社会』誌に書いた文章が かくも LGBTQ の人々を傷つけ,憤慨させている間,何をしているのか? 何と,彼は,彼に対する非難と批判を真摯に受けとめることなく,そして,如何なる反省も謝罪もなく,彼自身の blog に 問題の文章を すべて 公開し,そして,彼の誤解と混乱と偏見に満ちた持論を 展開し続けている.

わたしとしては,彼の blog における主張に関しては,わたしが 2月01日付のわたしの blog 記事で書いたこと以上のことを言う必要性を 有してはいない.

ただ,彼は,4月01日付の 彼の blog 記事において,Papa Francesco が “gender ideology” について語ったことを 引用している — あたかも それが 彼による LGBTQ の存在の悪魔化を正当化するものであるかのごとくに.しかるに,実際には,Papa Francesco による “gender ideology” 批判は,そのようなものでは まったくない.そこで,Papa Francesco が “gender ideology” について 何を言っているか,そして,それが如何なる意義を有しているかを,補足的に紹介しておこう.

まず,予備的に,谷口幸紀神父が犯している単純な間違いを ひとつ 指摘しておこう : 2023年03月10日に Papa Francesco に対してインタヴューをおこなったのは,悪名高い EWTN 社が所有する National Catholic Register 誌ではなく,しかして,アルゼンチンの日刊紙 La Nación である.スペイン語でおこなわれた そのインタヴューの全文は,翌日,同紙に掲載され,また,その録画は,同じ日に,テレビで放送された(我々は,今,それを YouTube で 見ることができる).

さて,確かに,Papa Francesco は,“gender ideology” に対しては かねてから 批判的である.だが,そもそも,彼が “gender ideology” と呼んでいるものは,何か?

Gender ideology という用語の〈社会学における〉教科書的な定義は,こうである:

Gender ideologies[複数]とは,如何に〈女の子として あるいは 男の子として,ないし,女として あるいは 男として〉考え,行動し,存在すべきであるのかを 人々に命ずる〈彼らが有する〉思いこみ (beliefs)[複数]である.

それに対して,Papa Francesco が「最も危険なイデオロギー的植民地化のひとつ」(La ideología de género es de las colonizaciones ideológicas más peligrosas) という厳しい表現を以て 批判するのは,単数形の “gender ideology” である.それは,複数形で定義される “gender ideologies” とは まったく異なるしろものである;そして,それを,Papa Francesco は La Nación 紙のインタヴューにおいて おおむね こう規定している:

Gender ideology は,男女の差異を希釈する;[それによって]あらゆるものは同じになり,あらゆるもの[あらゆる差異]は鈍化する — しかるに,男女の豊かさ,人類の豊かさは,差異の緊張に存する;人々が成長し得るのは,差異の緊張をとおしてである.[したがって]gender ideology は[神による]人間の召命に逆行するものである.

また,ある社会学者によるインタヴュー本 Politique et société[政治と社会](2017) においては,Papa Francesco は gender ideology について こう言っている:

Gender ideology は,子どもたちに,男女の性別は選択可能である と教える — なぜなら,「女である」こと または「男である」ことは,自然の事実ではなく,選択の問題であるから;だが,そのような gender ideology は,差異を恐れることに基づいている,と思われる.

男女の性別について問うために,生物学的な性別 (biological sex) とは異なる次元の性別として,社会学的な性別 (sociological gender) を措定した — 男女それぞれが社会のなかで果たすよう 強制され あるいは 期待される 性別役割 (sex roles, gender roles) の事実から出発して — のは,現在 “gender studies”[ジェンダー研究]と呼ばれている学問分野を開拓した フェミニストたちである;そして,彼女たちがそうしたのは,彼女たちが被っている sexism[性差別,すなわち 女性差別]の解消を目指すことにおいて,「男であること」および「女であること」について問うためである;それゆえ,gender は,社会のなかで女性たちに押しつけられた性別役割から出発することにおいて,生物学的な性別のように先天的なものではなく,しかして,構築されたもの — 歴史のなかで,民俗学的な慣習において,社会学的な諸条件のもとで — として措定される;そして,そこから,「ジェンダーの社会的構築論」(social constructionist theories of gender) が 展開されてゆく.

そのような gender の用語と概念は,1990年代以来,保守的な論者たち — そのなかには,声高な保守派カトリック信者たちも いる — の 攻撃の対象となってきた;なぜなら このゆえに:保守派の論者たちは,社会学的な gender に関する思考を,男女の性差を無効にしようとする「イデオロギー」と見なす — まさに Judith Butler の 2004年の著作 Undoing Gender[ジェンダーを無効にすること]の表題が示唆しているように(ただし,Butler の思考そのものは さほど単純ではない — 彼女は,生物学的な性別にも社会学的な性別にも還元されない 第三の性別概念 – わたしが「実存論的性別」と名づけたもの – について問い続けているので –「実存論的性別」というような名称の考案に至ることなく).

そして,transgender という名称 — gender という語を含む その名称 — のゆえに,また「transgender の人々は〈男が「わたしは女である」と言い,あるいは,女が「わたしは男である」と言うことにおいて〉男女の差異を無視している」という〈transgender であることに関する〉粗雑な思念のゆえに,保守派の論者たちは「transgender の人々は “gender ideology” の信奉者である」と 決めつける(そして,それに応じて,LGBTQ の 人権を擁護する者たちは,保守派の論者たちが gender 概念を批判するたびに,それを transgender に対する攻撃として 受け取るようになる).

谷口幸紀神父が Papa Francesco による “gender ideology” 批判を transgender の存在の否定のために援用し得ると思い込んでいるということは,このことを示している:彼は,彼自身も,そのような保守派の論者たちの混乱した思考の次元に いる.

だが,実際には,transgender の人々は “gender ideology” の信奉者ではあり得ない;なぜなら このゆえに:典型的な transgender の人々は,「男である」ことと「女である」こととの差異を無効にしようとしてはおらず,しかして,「わたしは男である」あるいは (aut)「わたしは女である」を 実存的に生きている — 自身の生物学的な性別との不一致において.

既に 2月01日付の記事で論じたように,「transgender である」ことを 社会学的な gender の概念を以て(いわんや,生物学的な sex の概念を以て)sachgemäß に[事に適ったしかたで]考えることは できない.

では,Papa Francesco は,彼の〈“gender ideology” に対する〉批判において,何を問題にしているのか? それは「transgender である」ことでも,社会的な性差別を解消しようとするフェミニズムでもない;そうではなく,彼が批判しているのは,差異の裂け目を否認すること — または,その裂け目を塞ごうとすること — である.

Papa Francesco が「差異は 豊かにし,成長させる」と言うとき,彼は〈Hegel が『精神の現象学』の序文で論じている〉弁証法的な過程 — その原動力は,純粋否定性としての差異の裂け目である — のことを念頭に置いているのかもしれない — ただし,彼が考える弁証法的過程の終末論は,ヘーゲル的な絶対知にではなく,しかして,神の愛に存する.

なぜ 差異の裂け目を塞いではならないのか? なぜなら このゆえに:そこ — Heidegger が「存在論的差異」(die ontologische Differenz) と呼んだ 差異の裂け目 — こそが,神の顕現 (Theophanie) の 在所 (Ortschaft) である(「男と女との間の差異」は「存在論的差異」と同じ トポロジックな裂け目である).

その裂け目は,古代ギリシャ以来,形而上学的な諸形象(その代表例は Platon の ἰδέα)によって塞がれてきた.だが,現代においては — 18世紀の終わり以来 — 形而上学的なものによるその閉塞は 無効となっている;にもかかわらず,新たな形而上学的形象によってそれを改めて塞ごうとする絶望的な試みは,現代において,あとを絶たない:たとえば,Kant の 純粋理性,Hegel の 絶対知,Nietzsche の Wille zur Macht[力への意志],そのほかのさまざまな paranoiac ideologies, また,カトリック教会においては Papa Francesco が “indietrismo”[後退主義]という名称のもとに批判する〈伝統への〉固着 (traditionalism).

そして,特に,sexuality の 形而上学的な目的論(それによれば,sexuality は 生殖を目的とする)が 男と女との間の裂け目を閉塞し得るものとして 措定し続けるのは,phallus[ファロス]である.谷口幸紀神父が信奉する 原理主義的な natalism は,まさに,そのような phallocentrism の 一例である — 実際,如何に 彼が phallic jouissance[ファロス悦]を賛美しているかを,我々は 彼の記事に 見ることができる.

しかし,そのような形而上学は,Papa Francesco の 司牧実践とは 相容れない — この相違を見れば 明らかなように:谷口幸紀神父は,形而上学的な性別二元論から出発して,transgender の人々の存在を否定し,あらかじめ 彼らを教会から排除する;それに対して,Papa Francesco は,LGBTQ の 人々にも 救済の福音を伝えるために,homosexual であることも transgender であることも それぞれ ひとつの condición humana[人間の存在様態](人間学的事実)として 認め,そして,彼らを 神の包容的な愛を以て 教会に迎え入れる.

そのような Papa Francesco の 姿勢は,彼が 昨年 おこなった 教皇庁の組織改革からも 見て取ることができる;そこにおいて,彼は,〈16世紀に 異端審問のために創られて以来,教皇庁のなかで最も権威ある機関と見なされてきた〉教理省を 格下げし,それに対して,福音宣教省を教皇庁の最も重要な機関として設置し,さらに,教皇みづからが 福音宣教省の長官を務めることにした.

同じ姿勢を,我々は,彼が〈由緒ある神学誌 La Scuola Cattolica の 編集委員たちに宛てた〉2022年06月17日付の書簡にも,見てとることができる;そこにおいて,彼は “La teologia è servizio alla fede viva della Chiesa”[神学は,教会の生き生きとした信仰への奉仕である]と述べている.すなわち,神学は 福音宣教と司牧実践に 奉仕すべきであり,神学がそれらを妨げることがあってはならない — たとえば,1986年に 教理省長官 Joseph Ratzinger 枢機卿(当時)が 発表した 司牧書簡 Homosexualitatis problema は,当時,AIDS に罹患して苦しむ homosexual の 人々に対する カトリック信者たちの 隣人愛の実践を おおいに妨げた — そのようなことが再び起きてはならない.


結び


キリスト教の信仰は,形而上学的な神学大系に存するのではなく,しかして,救済の実践に存する;その出発点は,何らかの抽象的なイデアではなく,しかして,あらゆる人間に対する あの「憐れむ」(σπλαγχνίζομαι) である (Mc 6,34) :

εἶδεν πολὺν ὄχλον καὶ ἐσπλαγχνίσθη ἐπ᾽ αὐτοὺς ὅτι ἦσαν ὡς πρόβατα μὴ ἔχοντα ποιμένα.

イェスは,多数の群衆を見た;そして,彼らを[はらわたの内奥から:心の底から]憐れんだ — なぜなら,彼らは,羊飼いを持たない[途方にくれた]羊たちのようであったから.

それゆえ,イェスは 我々皆に こう命ずる (Jn 13,34 ; 15,12) :

ἀγαπήσετε ἀλλήλους καθὼς ἠγάπησα ὑμᾶς.

あなたたちは 互いに愛しあいなさい — わたし[イェス]が あなたたちを愛したように.

そして,それゆえ,Papa Francesco は,我々に対して こう強調してやまない:カトリック教会の第一の使命は,異端審問的な断罪に存するのではなく,しかして,あらゆる人間の救済を欲する神の愛の福音を宣べ伝えること および 生の意味を見失って途方に暮れる人々を〈彼らが神の愛を見出すことができるよう〉司牧することに 存する.

あらゆる人間を救済すること — cisgender であろうとなかろうと heterosexual であろうとなかろうと —;それが 神の意志であり,神の計画である.

主が いつも 我々に そのことを思い起こさせてくださいますように.Amen.

2023年2月14日火曜日

日本 カトリック 正義と平和 協議会の 2023年02月13日付の声明 —『福音と社会』に掲載された「『LGBT と キリスト教 — 20人のストーリー』を読んで」について — を 受けて

 

日本 カトリック 正義と平和 協議会の 20230213日付の声明 『福音と社会』に掲載された「『LGBT キリスト教 20人のストーリー』を読んで」について 受けて


LGBTQ みんなの ミサ 世話人
 
カトリック社会問題研究所が隔月刊で発行する『福音と社会』誌の 323号(20220831日付),324号(同年1031日付),そして,325号(同年1231日付)に 発表された 谷口 幸紀 神父の“書評”『「LGBT キリスト教 — 20人のストーリー」を読んで』に関して,日本 カトリック 正義と平和 協議会Japan Catholic Council for Justice and Peace [JCCJP] : 会長 Wayne Berndt, O.F.M. Cap. 那覇司教)が,今月13日付の声明を発表しました;同声明は,同日,カトリック中央協議会 (Catholic Bishops’ Conference of Japan : CBCJ) website 公示されました.

わたしたちは,谷口幸紀神父と『福音と社会』誌を 厳しく批判する この JCCJP の声明を,歓迎します.それは,わたしたち LGBTQ カトリック信者 その盟友にとって,言うなれば,とてもすばらしい 聖ヴァレンタインの日の プレゼントです.

実際,同声明は こう断定しています:

谷口 幸紀 神父の 文章には,LGBTQ 人々に対する「看過し得ない 偏見や 差別的表現が 随所に 認められ,『LGBT キリスト教 20人のストーリー』に 寄稿し,あるいは[そこに発表された]対談に応じた LGBTQ+(セクシュアル マイノリティー)当事者 20人の方々を 著しく傷つけるもの」である.

そして,同書において「キリスト教会の LGBTQ+ に対する 無理解と差別によって 教会から排除された 経験を」語っている 著者たちに対して,「カトリック司祭[谷口幸紀神父]によって執筆された本書評は,[彼れらの 苦痛な]経験に さらに追い討ちをかけるものであり,深刻な二重加害」を成すものである.


さらに,同声明は『福音と社会』誌に こう勧告しています:

同誌の編集部は,『LGBT キリスト教 20人のストーリー』の共著者である「20人の方たちの訴えに 真摯に耳を傾け,また,その背後にあって,差別によって なお 見えにくくされている 数多くの LGBTQ+ 当事者の方々に 想いを寄せ,責任ある行動に向かう」べきである.


また,同声明は,日本カトリック司教団が Papa Francesco にならって LGBTQ の人々のための司牧的ケアに取り組む用意のあることを,改めて我々に強調しています:

日本カトリック司教団は,『いのちへのまなざし(増補新版)』(カトリック中央協議会,201703月)において,こう述べている :「イェスは,どんな人をも 排除しませんでした.教会も,このイェスの姿勢に倣って 歩もうとしています.性的指向[および 性同一性]の如何にかかわらず,すべての人の尊厳が大切にされ,[すべての人が]敬意をもって受け入れられるよう,[教会は]望みます。同性愛者,バイセクシャル,トランスジェンダーの人たちに対して,教会は,これまで,厳しい目を向けてきました.しかし,今では,そのような人たちも 尊敬と思いやりをもって[教会に]迎えられるべきであり,[彼れらが]差別や暴力を受けることのないよう 細心の注意を払っていくべきだ と考えます.」


そして,同声明は,最後に,従来のカトリック教会の LGBTQ に対する態度について,反省を表明しています:

カトリック信者である「わたしたちも,また,LGBTQ の方々に対して,教会の扉を閉ざし,差別し,ときには[彼らが]自死に至るまでに[彼れらの]尊厳を傷つけてきた,ということに 気づく」べきである.


締めくくりに,同声明は こう祈っています:

「すべての人は ひとしく 神の子である」という イェスのメッセージを この地上に実現するための 回心の恵みを[わたしたちは]主なる神に 願います.


わたしたちは,この声明を 日本のカトリック教会の歴史のなかで 画期的なものとして 評価したい と思います;なぜなら,そこにおいて,日本のカトリック司教団は,カトリック司祭による〈LGBTQ の人々に対する〉人権侵害を 批判し,彼らのための司牧的ケアに取り組む方針を改めて提示し,そして,従来のカトリック教会の LGBTQ に対する差別的な姿勢を 反省しているからです.この声明は,日本のカトリック司教団がそのようなことを明確に述べた 初の文書です.

わたしたちは,この声明を発表してくださった 日本 カトリック 正義と平和 協議会 および 日本カトリック司教協議会の 司教さま および 大司教さまたちに 感謝したいと思います.そして,誰をも排除せず,あらゆる人を包容する 愛の神に 感謝します.

なぜなら,主は わたしたちに こう命じているからです (Jn 13,34 ; 15,12) :

あなたたちは 互いに愛しあいなさい わたし[イェス]が あなたたちを愛したように.


******
わたしたち自身は,谷口幸紀神父に対する批判を,今月01日付の わたしたちのブログ記事において 展開しています.是非 参照してください.

2023年2月1日水曜日

谷口幸紀神父の『「LGBT と キリスト教 — 20人のストーリー」を読んで』を 読んで


Jn 6,39-40 : そして,これが,わたし[イェス]を遣わした者[父なる神]の意志である:わたしが,彼がわたしに与えた者たちのなかから ひとりたりとも失わないこと,しかして,終末の日に 彼らを すべて 復活させること.なぜなら このゆえに:これが わが父の意志である:息子を見て 彼を信ずる者たちが すべて 永遠のいのちを有すること;そして,わたしは 終末の日に 彼らを すべて 復活させるだろう.


谷口幸紀神父の『「LGBT と キリスト教 — 20人のストーリー」を読んで』を 読んで

聖イグナチオ教会所属信徒
目次:
§ 1. はじめに
§ 2. 予備論
§ 2.1. 谷口幸紀神父は 如何なる人物であるか
§ 2.2. Neocatechumenal Way Redemptoris Mater Seminary
§ 3. 谷口幸紀神父の「書評」および 彼の LGBTQ に関する考えに対する批判
§ 3.1. 谷口幸紀神父の攻撃対象は 実は もっぱら transgender である
§ 3.2. 谷口幸紀神父は 神の意志が何に存しているかについて 誤解釈を犯している
§ 3.3. 谷口幸紀神父は 実存論的観点を 欠いている
§ 4. 実存論的性別について
§ 5. おわりに


§ 1. はじめに

カトリック社会問題研究所が隔月刊で発行する『福音と社会』誌の 323号(20220831日付),324号(同年1031日付),そして,325号(同年1231日付)に,谷口 幸紀 神父による書評『「LGBT と キリスト教 20人のストーリー」を読んで』が 発表された.

それは「書評」と題されてはいる;だが,そこに述べられているのは,当該の本の内容に関する批評ではまったくなく,しかして,sexuality gender に関する 保守的カトリックの紋切り型の考え つまり,homosexuality transgender に関する無理解と誤解と混乱と偏見と侮辱と差別,および,生殖に関する 原理主義的な natalism(避妊と人為的妊娠中絶を絶対に許さない主張) にすぎない.

そのような谷口幸紀神父の「書評」に対して,キリスト教において差別されている人々の人権を擁護する立場を取る幾人かのクリスチャンが,その第 3 部の『福音と社会』誌 325号への掲載を待たずに,批判と抗議を表明した.また,『LGBT と キリスト教 20人のストーリー』の編集を担当した 市川 真紀 氏も,カトリック社会問題研究所と『福音と社会』誌に対して 抗議した(キリスト新聞オンライン版 20230123日付記事を参照).

わたしとしては,谷口幸紀神父の主張に対する批判を展開するために,彼の「書評」の完結を待つことにした(わたしが注文した『福音と社会』誌の三つの号は,まとめて,116日に わたしのところに届いた).さらに,彼の自伝的著作『バンカー そして 神父 放蕩息子の帰還』(亜紀書房,2006年),および,彼のブログ記事にもとづいて編集された本『司祭 谷口幸紀の「わが道」』(フリープレス,2013年)も,参考にした.

LGBT と キリスト教 — 20人のストーリー』(平良愛香 監修,日本キリスト教団出版局)そのものについては,今や 多言不要であろう.それは,日本人 LGBTQ クリスチャンの証言 日本において LGBTQ であり かつ クリスチャンであることが 如何なることであるかの 証言 を集めたものである;そして,日本における〈そのような証言集の〉初めての出版である.

同書は,202203月に出版されるや,キリスト教関係の書籍のなかで ベストセラーとなった.実際,同書は,そうなるに値するほどに画期的なものである.

菊地 功 東京大司教も,同書 (p.126) に 短いコラム記事を 寄稿している;そして,そこにおいて,彼は こう述べている:

[従来,カトリック教会は]倫理の原則を前面に掲げて[homosexuality を]裁いてきた;[そのように]教会から排除されてきた性的マイノリティの存在にも[フランシスコ教皇は]目を向ける;[そして]教皇は[こう呼びかけている:ある人が homosexual であるとする;そのとき,我々は]その人の性的指向にかかわらず,その人の[人間としての]尊厳のゆえに[その人を]尊重し,軽蔑することなく[その人を 教会に]受けいれるべきであり,[その人に対して]不当な差別をしてはならず,また,言うまでもなく,いかなる攻撃や暴力もあってはならず,[しかして,その人に]心を配るべきだ.

また,寄稿者のうち幾人かは,わたしと わたしの友人 宮野 氏が 2015年に始めた「LGBTQ みんなのミサ」に 言及してくれている.「LGBTQ みんなのミサ」は,アメリカの James Martin 神父 SJ にならって言うなら,カトリック教会と LGBTQ community との間に「橋を架ける」こと (building a bridge) の試みである.毎月 第 3 日曜日の午後に 都内で おこなわれる ミサは,パンデミックのせいで 26ヶ月間 中断されていたが,202205月に 再開されている.諸外国におけるように,lesbian または gay または bisexual または transgender または questioning である カトリック信者が みづから LGBTQ みんなのミサの代表となってくれることを,わたしと宮野亨氏は 心待ちにしている.


§ 2. 予備論

§ 2.1. 谷口幸紀神父は 如何なる人物であるか

まず,谷口 幸紀(たにぐち こうき)神父が 如何なる人物であるかを,彼の自伝的著作『バンカー そして 神父 — 放蕩息子の帰還』(亜紀書房,2006年)にもとづいて,見てゆこう.その表題が示唆するように,彼の人生は 確かに 波瀾万丈である.

彼は,19391215日に,大阪で生まれた.今年(2023年)の誕生日で 84歳になる.

彼の父は,内務省の官僚であり,地方の警察部長を務めていた.定期的な転勤があった.父が宮城県警察部長であったとき,194507月に,彼の一家は 仙台で 空襲に遭っている.敗戦後,父は,広島県警察部長となった;しかし,194712月の昭和天皇の広島行幸(その際,父は警備の責任者であった)の直後に 公職追放の処分を受け,失職した;その後,どのような職業についたのかは,谷口神父の自伝からは不明である.

彼の母は,神戸市内で病院を経営する医者の娘であり,神戸女学院に在学中,プロテスタントの洗礼を受けた.敬虔な信者であり,教養と芸術的才能に恵まれていた.敗戦後,結核に罹患し,彼が 8歳のときに 帰天した.

彼の兄弟は,2歳上に 姉が ひとり(彼女は,プロテスタントの洗礼を受けたが,後にカトリックに転会し,そして 修道女となる),4歳下に 妹が ひとり.そして,父と継母(彼の母の死去後,彼の父は再婚する)との間に 弟がひとり 誕生する.

彼の妹は,14歳時に Schizophrenie の症状を呈し始め,長期間 入院治療を受けることになる.彼は,しかし,入院中の彼女の〈生気を失った〉状態を見て,強い憐れみを覚える;彼は,入院治療によって妹の病状はむしろ悪化している,と感ずる;そして,金融業界で働いていた時期の最後の期間(何年間かは不明),妹を退院させ,外来治療とリハビリテーションを彼女に受けさせる.それによって,彼女の病状は非常に改善し,日常生活能力もかなりの程度に回復したようである.しかし,その後,彼女は,ふたたび入院治療を要することになり,結局,彼が 1994年に司祭叙階の秘跡を授かる直前に,病院内で亡くなる(谷口神父は「彼女は自殺したにちがいない」と確信している).

さて,彼の一家は,彼の小学生時代の終わりころ,神戸市内で暮らし始める.そして,彼は,イェズス会が運営する六甲学院に入学する;早くも 中学 2 年生のとき,洗礼を受ける;そして,大学受験を控えた 高校 3 年生の正月休みに,広島の修練院での一週間の黙想会に参加するよう勧められ,その勧めに従う.そのときまで,彼は,京大または阪大の理科系の学部を受験するつもりであったが,その「洗脳合宿」(「その黙想会の目的は,優秀な生徒のなかから将来のイェズス会士をリクルートすることに存していた」と 谷口神父は イェズス会のやり方への批判をこめて 自伝に書いている)のおかげで,イェズス会の司祭になるために上智大学を受験することを決心する.

195804月,彼は 上智大学に入学する.学生寮では,一年先輩の 森 一弘(後に 東京大司教区補佐司教;彼は,イェズス会が神奈川県内で運営する栄光学園の卒業生であったが,イェズス会士とはならず,カルメル会に入ることになる)が 一緒であった.

イェズス会の司祭となる者は,上智大学での二年間の教養課程のあと,広島の修練院で 二年間の修練期間をすごす.谷口は,しかし,修練期間の一年めの途中で イェズス会が敷いたレールのうえを 言われたとおりに進んでゆくことに 疑問を懐くようになる(そのような疑問を懐くことは,とてもよいことである まったく疑いのない「信仰」は 一種のパラノイアにほかならない).そして,修練期間の一年めの終わりに イェズス会から出ることを決断する.だが,それは,彼にとって,司祭になるという目標をも放棄することではなかった(しかし,当時,彼は,ほかの修道会に入る または 教区司祭の養成過程に入る という選択肢を取ることもできなかった).

彼は,上智大学の一学生の身分に戻り,フランス語学科で聴講生として一年間をすごしたあと,広島の修練院から戻ってきた同級生たちとともに「ラ哲」(ラテン語を第一外国語とする哲学科のコース)で学ぶ;さらに,大学院へ進学する;そして,博士論文を準備しつつ,中世哲学研究室の助手となる.

さて,1968年,大学紛争が活発であったとき,上智大学でも 全共闘が校舎を占拠し,大学の活動が 長期間 阻害されていた;その事態に対して Giuseppe Pittau 理事長(当時)は,やむを得ず 機動隊の導入を要請する;そこで,19681221日 早朝,校舎を占拠していた学生たちは,機動隊によって 排除され,逮捕される;そして,大学当局は,数ヶ月間,大学を閉鎖する.

当時を知る ある司祭によると,この上智大学の強行措置の結果,日本全国において,学生たちは カトリック教会に対する信頼と希望を 失った;多くの大学のなかにあった「カト研」(カトリック研究会)は,メンバーを失い,消え失せていった.つまり,この大学紛争解決の「上智方式」は,日本の若者たちにおけるカトリック信仰に対する関心の喪失を もたらすことになった.それに対して,韓国では,大学紛争の際,ソウルの大聖堂のなかに逃げ込んできた学生たちを 大司教は かばい,警察や機動隊が教会のなかに入ることを 許さなかった;そのとき,韓国の若者たちは カトリック教会を称賛した.そのことは,現在の韓国におけるキリスト教信仰の広まりに貢献しただろう.

話しを谷口幸紀神父自身に戻すと,1969年,上智大学では,大学の諸活動が正常に戻ると,全共闘のシンパと見なされた教職員たちに対する「粛清の嵐」が吹き荒れる.助手であった谷口も,こう告げられる:「あなたは,上智大学で 助手より上の研究職に就く可能性を もはや有していない」.そこで,彼は 即座に 辞職する.

そのような谷口に,彼のことを以前から識る 三人の ドイツ人 イェズス会司祭が 憐れみをかけてくれる : Hermann Heuvers, Bruno Bitter, Hubert Cieslik. 彼らの口利きによって,谷口は,ドイツの大銀行のひとつ Commerzbank に 職を得る(彼は その経緯を「裏口入学」に たとえている).こうして,彼は,30歳にして,神に仕える道からはずれて,Mammon に仕える生活を 始める (cf. Mt 6,24).

国際金融の業界で,彼の才能と業績は評価され,彼は いくつかの会社を渡り歩き,その業界における輝かしいキャリアを築く.しかし,Mammon 現代の経済学の用語で言えば「資本」 に仕える生活を続けることは,谷口にとって,悪魔に仕え続けることであった.それがゆえの罪意識が 彼に 重く のしかかってくる.そして,彼は,ついに,1985年,三つめの勤め先であった Samuel Montagu 銀行を辞め,神に仕える道に戻ることを決意する.

森一弘司教の示唆にしたがい,彼は,まず,フランシスコ会の門を叩く.そして,同会における三年めを 浦和の修練院で 修練者として すごす.しかし,結局,彼には 最初の有期誓願を立てることは 認められない.

そこで,再び,彼は,森 一弘 司教に 相談する;規模の小さな教区の司祭になることを目ざすのがよかろう(なぜなら,そのような教区は慢性的に司祭不足に悩んでいるから)という示唆のもとに,彼は,高松教区(四国全体を所轄する教区;教区全体の信徒数は 現在 約 4,000 人,つまり,聖イグナチオ教会[小教区名としては麹町教会]に信徒籍を置く信徒の数 約 17,000 人の 1/4 以下)の門を叩く.案の定,深堀 敏 司教(当時)は 彼を 大歓迎する.

しかし,日本の教区司祭養成機関(カトリック神学院)は 谷口の入学を認めない(日本でも,今は,40歳代で司祭に叙階されるケースは 珍しくはない それでも 40歳代までだろう が,当時,50歳になろうとする者を新たに神学生として受け容れることは 日本では 問題外であっただろう).ところが,198911月,ローマの Pontificia Università Gregoriana が 彼を学生として受け容れてくれることになる(その詳しい経緯は不明).次いで,翌 199009月,彼は,ローマ教区に属する司祭養成機関のひとつ Seminario Redemptoris Mater[救い主の母 神学院] それは 1988年に設立されたばかりであった への入学を認められる.そして,それによって,彼は,あの Cammino neocatecumenale (Neocatechumenal Way) と出会う(Neocatechumenal Way Redemptoris Mater Seminary については 後述).

その後,彼は,順調に,199312月に ローマで 助祭に叙階され,次いで,199403月,高松で 深堀敏司教により 高松教区の司祭として 叙階の秘跡を授かる.

だが,彼は いったん ローマに戻る Università Gregoriana で 神学修士の学位を取得するために;それは,深堀敏司教による招致のもとに 高松教区に 199012月に 開設された 司祭養成機関「レデンプトーリス マーテル 国際 宣教 神学院」で教えることができるようになるために必要なものであった.

そして,1997年,彼は,帰国し,いよいよ高松教区の司祭として働き始める


§ 2.2. Neocatechumenal Way Redemptoris Mater Seminary

谷口は,彼の自伝のなかで,彼が学んだ ローマの Seminario Redemptoris Mater について,こう書いている:

100人あまりの神学生を擁する この神学院は,できて まだ 2年目であった.神学生らの年齢は 比較的 高く,40ヶ国あまりから集まった彼らは 多種多彩で,しかも,野生動物のように たくましかった.(…) この神学院は,イェズス会の修練院とも フランシスコ会の修練院とも まったく違っていた.古い伝統を守りながら,すべてにわたって キコという男の精神で 新しく生かしなおされていた.彼と会って初めてわかったのは,わたしがどこに行っても受け入れられず,50歳まで 落ち着きどころがなかったのは,こうして 今 この男と運命的に出会うためだった,ということである.

そこで「キコ」と呼ばれているのは,Francisco José Gómez de Argüello y Wirtz[フランシスコ ホセ ゴメス アルグェリョ イ ヴィルツ],通称 Kiko Argüello[キコ アルグェリョ]である.彼について,谷口は こう書いている:

この 20世紀のフランシスコは,アシジのフランシスコのように深い信仰の人であると同時に,盛期ルネサンスの巨匠 ミケランジェロの再来を思わせるような総合芸術家であった.キコは,スペイン北部のレオンに,193919日に生まれている 同じ年の12月に生れた わたしより,ほとんど 1歳 年上である.天は二物を与えないと言うが,それは まったくの嘘である.ある人には ひとつだって まともに与えないのに,キコには 二物どころか 五物も 六物も 与えているではないか! 彼は,ギターを抱えて歌えば,マドリッドの場末のフラメンコ歌手そこのけの 喉と指さばきであった.もともと マドリッドのアカデミー[Real Academia de Bellas Artes de San Fernando, 1752年創立]の 画学生であった 彼は,絵や壁画を描き,彫刻や建築設計にも非凡な才能を遺憾なく発揮した.彼の作曲による宗教曲は,今や 世界中で歌われている.しかし,何よりも すごいのは,彼の話術である.1時間でも 2時間でも,彼が火を吐くような言葉で語り始めると,何千人,何万人もが 魂を引き込まれてゆくのであった.わたしは 彼のなかに アシジのフランシスコの再来,いや,ひょっとして それ以上のものを見ているのかもしれない.

何と 谷口は Kiko Argüello を理想化していることか! ともあれ,確かに,Kiko は とても charismatic な 人物なのであろう.彼に関する情報を補足しておくと,彼は 元来 マルクス主義者であり,反フランコ派であり,無神論者であった.しかし,学生時代,彼は,実存的危機 それは極端なニヒリズムに存していた に陥る;そして,その危機的経験をとおして,Jesus Christus と出会う.そこから,彼は,Movimiento de Cursillos de Cristiandad[キリスト教に関する短期講義の運動:スペインで 1949年に始まった カトリックの一般信徒による信仰深化運動]に参加する;そして,彼自身 catechist となる.そして,聖 Charles de Foucauld から受けたインスピレーションのもとに,1960年代の始め,マドリド郊外の貧民街で つまり,制度化された教会の外において,制度化された教会から排除された あるいは そこに入ることができない 人々のために Camino neocatecumenalCammino neocatecumenale, Neocatechumenal Way, 新求道共同体の道 または 新求道期間の道)と名づけられることになる 一般信徒による〈福音宣教 (evangelization) と 信仰教育 (catechesis) の〉活動を 始める.ある意味で,Kiko Argüello は,まさに,Papa Francesco の言う “Chiesa in uscita”[外へ出てゆく教会]と “Chiesa come un ospedale da campo dopo una battaglia”[戦闘のあとの野戦病院のような教会]を 先取りして 実践しているかのようである.

ところで,「求道」という仏教用語を以て 不明瞭に翻訳されている 形容詞 catechumenal (catéchuménal, catecumenale) は,より正確には,如何なることを 言っているのか?

その語源は,catechesis (catéchèse, catechesi) の それと 同じく,ギリシャ語の κατηχέω[教える;特に,口頭で 口から発せられる言葉で 教える]である.Catechesis という語が 動詞 κατηχέω に由来する 能動的な意味の名詞 κατήχησιςinstruction : 教えること]に由来するのに対して,そこから catechumenal という形容詞が派生するところの名詞 catechumen (catéchumène, catecumeno) は,κατηχέω の 受動態 現在分詞 κατεκούμενος の 名詞化[教えられる者,教えを受ける者]に由来する(ちなみに,catechism [catéchisme, catechismo] という語は ギリシャ語の動詞 κατηχίζω に由来する;その語は κατηχέω と同義である).

したがって,catechumenal という形容詞の意味は「catechumen[受洗の準備のためにキリスト教信仰に関する教えを受ける者]に関する」である.

その語に “neo-” が付された “neocatechumenal” は:「過去に洗礼を受けたが,その後,信仰を失ってしまったので あるいは 不確かな信仰をしか持つことができていないので,今,あらためて,信仰を取り戻すために あるいは 信仰を確固たるものにするために 信仰に関する教えを受ける者」に関する.

したがって,Neocatechumenal Way は:「過去に洗礼を受けたが,その後,信仰を失ってしまったので あるいは 不確かな信仰をしか持つことができていないので,今,あらためて,信仰を取り戻すために あるいは 信仰を確固たるものにするために 信仰に関する教えを受ける者が 歩む 道」.

Kiko Argüello が 手本とするのは,初期キリスト教会において行われていたであろう catechesis である.初期キリスト教,すなわち,皇帝 Constantinus によって容認される以前のキリスト教;初期教会,すなわち,皇帝の指導のもとで制度化されてゆく以前の教会 そこにおいては,clericalism[聖職者中心主義]はまだ成立しておらず,しかして,多くの一般信徒が福音宣教と信仰教育に積極的に携わっていたであろう.Kiko Argüello は,そのような一般信徒のダイナミズムを 現代のカトリック教会に 復活させようとする.そして,そのことは,第 2 ヴァチカン公会議における「一般信徒の使徒職」の重視の方針と 完全に一致する.

それゆえ,Neocatechumenal Way の共同体の活動は,まもなく マドリド大司教によって取り立てられる;さらに,スペイン以外の国々へも広がってゆく.

19740508日の一般接見の際に,聖 パウロ VI 世は,「Comunità Neocatecumenali の運動を代表する 聖職者たちと 一般信徒たち」の活動を 第 2 ヴァチカン公会議の精神に適うものとして 称賛し,彼らを祝福する.その後の教皇たち(聖 ヨハネパウロ II 世,ベネディクト XVI 世,フランチェスコ)も,Neocatechumenal Way の 活動を 称賛する;そして,Neocatechumenal Way は,最終的に 2008年に 教皇庁によって 国際的な consociatio christifidelium[キリストを信ずる者たちの団体]として 公認される.

今や,Neocatechumenal Way の活動は,既に洗礼を受けたクリスチャンたちの信仰教育に限られておらず,しかして,まだ洗礼を受けていない者たちへの福音宣教と信仰教育をも含む.

また,1988年に ローマで 最初の〈Neocatechumenal Way の精神のもとに 教区司祭を養成する〉神学校 Seminario Redemptoris Mater が 設立される;今や 全世界に 100 以上の Redemptoris Mater 神学院が 司祭養成を行っている と言われている;それは,各司教区に属する神学校であるが,そこで養成された司祭は,司教の意向により,彼が属する教区以外の地域へも派遣され得る.

さらに,Neocatechumenal Way の活動を特徴づけるのは,Families in Mission[家族派遣]である.通常,福音宣教のために派遣されるのは,司祭たち(彼らは 当然 独身)であるが,それに対して,Families in Mission においては,結婚の秘跡を授かった一般信徒のカップルと彼らの子どもたちが構成する家族が,家族ごと,派遣される 自分たちが住んでいたところを離れて,福音宣教が必要とされる場所(全世界のどこであれ)へ.要するに,Families in Mission は,プロテスタントの宣教師の家族と同様の働きを為すよう,期待されている.現在,Families in Mission は 全世界で 1000 以上 活動している とされている.

以上に見てきた限りでは,Neocatechumenal Way の活動は,第 2 ヴァチカン公会議の精神の観点からも,称賛に値こそすれ,批判されるべき点は皆無であるかのように 思われるかもしれない.しかし,わたしは,今回,Neocatechumenal Way について 詳細に調べてゆくうちに,看過すべからざることに気づいた(そして,それは,谷口幸紀神父の homophobia および transphobia と密接に関連している) それは,このことである:

2008年に行われた ある〈Neocatechumenal Way の〉会合において,ウィーン大司教(当時)Christoph Schönborn 枢機卿は,こう言って Neocatechumenal Way を「称賛」した:

過去 40年間に,ヨーロッパは 自身の将来に対して 三度 否と言った:まず,1968年に Humanae Vitae[聖 パウロ VI 世の 回勅 そこにおいて,彼は,birth control のための人為的な避妊を 伝統的な lex naturalis(自然法)への準拠において 断罪している]を拒絶したとき;次いで,その 20年後,人為的な妊娠中絶の合法化を以て;そして,今日,同性婚[の法制化]を以て.それは,もはや,道徳の問題ではなく,事実である.たとえば,ドイツにおいては,今日,100人の親に対して,子どもは 70人であり,孫は 44人である.二世代のうちに 人口は半減する.それは,将来に対する 事実的な「否」である.ヨーロッパにおいて 将来を励ましてきた かつ,現在も励ましている 唯一の声は,カトリック教会 パウロ VI 世,ヨハネパウロ II 世,ベネディクト XVI 世,ならびに そのほかの多数の者たちとともに である.Neocatechumenal Way は,疑いなく,この状況に対する〈聖なる息吹の〉ひとつの答えである.そのことを,わたしは,司教として かつ 牧者として 見てきた.わたしは 見てきた:親たちが いのちに対して「然り」と言う [新しいいのちを]勇気づけ,[新しいいのちに対して]惜しみない しかたで のを.[それによって]彼らは 将来に対して「然り」と言っているのだ.

Christoph Schönborn 枢機卿の名誉のために付言しておくなら,彼は,Papa Francesco の着座以降,上述のような homophobia の態度を改めている;彼は,2021年には,同性カップルが祝福を求めてくれば,それを拒むことはできない,とさえ述べている.

ただ,彼は,2008年の時点においては,まだ homophobic であった.そして,上述のようなことを 彼が Neocatechumenal Way の会合で言ったとすれば,それは このことを示唆している : Neocatechumenal Way は 本性的に anti-LGBTQ である.

そして,そのことは 特に Neocatechumenal Way の 家族観に関して 言えることであろう.Families in Mission として派遣される家族は,結婚の秘跡を授かった cisgender and heterosexual であるカップルが成すものでなければならない;彼らの子どもたちも cisgender and heterosexual でなければならない;勿論,同性カップルが成す家族は 容認され得ない;その家族の子どもが transgender である または homosexual である という事態も 容認され得ない;そして,付言すれば,Families in Mission は 原理主義的な natalism の 立場を 取らねばならない(要するに,LGBTQ に関する 谷口幸紀神父の主張は 以上のような Neocatechumenal Way の 家族観に もとづいている,と言うことができるだろう).

ここで,我々は,日本における〈anti-LGBTQ の 立場を取る〉プロテスタントの活動 Network for Biblical Understanding of SexualityNBUS : 性の聖書的理解 ネットワーク)の メンバーのひとり,Family Forum Japan 代表,宣教師 Tomothy Cole 氏のことを 思い出さずにはいられない 彼は,彼の息子のひとりが gay であることを 公にしている.彼は,息子に対して寛容な態度で接している と言っている;だが,息子自身は どう思っているのだろうか homosexuality を断罪し,彼を ありのままでは 決して是認しようとしない 彼の親のもとで?

そして,Neocatechumenal Way Families in Mission のなかにも,必ずや,homosexual である 子ども または transgender である 子どもを 有する 家族が いるだろう;そして,その子は,Neocatechumenal Way の 厳格な anti-LGBTQ イデオロギーのもとで,どれほど苦しんでいることだろうか!

我々は,そのような子どもたち(Cole 氏の gay である 息子も 含めて)のために 祈らずにはいられない.

このセクションの最後に,谷口幸紀神父の日本における活動との関連において,高松教区において Redemptoris Mater 神学院と その卒業生である司祭たちが 惹き起こした 問題を 紹介しておこう.

カトリック司祭の養成の機関は,二種類ある:ひとつは,各司教区に属する神学校であり,そこにおいては教区司祭が養成される;もうひとつは,修道会(たとえば イェズス会)が運営する神学校であり,そこにおいては その修道会のメンバーとなる司祭が養成される.

日本では,各司教区が それぞれ 神学校を持つほどに 多数の神学生が召命されることは(残念ながら)ないので,教区司祭を養成する神学校は ふたつだけである:東京カトリック神学院と 福岡カトリック神学院(後者は,かつては「福岡サンスルピス神学院」と呼ばれていた).福岡カトリック神学院では,九州の四つの教区および那覇教区の司祭が養成され,東京カトリック神学院では それ以外の教区の司祭が養成される.

ところが,既に述べたように,慢性的な司祭不足(高松教区では,谷口神父の叙階以前,40年間,新司祭はひとりも誕生していなかった)に悩んだ 深堀 敏 高松司教は,Redemptoris Mater 神学院を 高松教区の神学校として 招致する;それは,199012月に 開設される.そして,1997年に帰国した 谷口神父は,高松教区の司祭 および Redemptoris Mater の 教師として 働く.

Redemptoris Mater 神学院は,期待どおり,神学生を諸外国から集め,多数の新司祭を生み出す.しかし,それらの新司祭たちと 高松教区の信徒たちとの間に 軋轢が生ずる(菊地 新潟司教[当時]の ブログ記事 および 溝部脩 高松司教の 記事 を参照).

その理由は,おおまかに言って ふたつあった:ひとつには,Redemptoris Mater 出身の司祭たちは 高松教区の小教区の従来の慣習を無視した;ふたつめには,彼らは,司教に 従わず,しかして Neocatechumenal Way の 指導部に 従った.

して,そのような事態が生じていたとすれば,それは このことを示唆している:谷口神父 彼は,当時,高松教区の Redemptoris Mater の 神学生たち および そこで養成された司祭たちを指導すべき立場にあったはずである は,そのような事態を防ぐために有効な措置を 何も とらなかった,あるいは,とれなかった.

Neocatechumenal Way Redemptoris Mater 出身の司祭たちによって惹起された高松教区内の混乱は,教皇庁が調査に乗り出さざるを得ないほどに たいへんなものであった.そして,その結果,深堀 敏 司教 (1924-2009) 200405月に 満 79歳で 退任し,代わって 溝部 脩 司教(1935-2016 ; 2000-2004年 仙台司教 ; 2004-2011年 高松司教)が 200407月に 高松司教として着座すると,まもなく,谷口神父は,2005年,ローマの Pontificia Università Lateranense の 付属研究所へ 出向させられる(要するに,彼は,高松教区の司祭という身分を剥奪されはしなかったものの,事実上,高松教区から追い出される).そして,2008年,高松教区の Redemptoris Mater 神学院は,高松においては閉鎖される(形の上では,それは,ローマに移され,教皇庁の直轄のもとに置かれるのだが).

確かに,Neocatechumenal Way Redemptoris Mater が 特定の教区のなかで これほどの混乱を惹き起こしたケースは,全世界的に見れば,例外的であるようだ.しかし,驚くべきは このことである:谷口神父は,Redemptoris Mater 出身の司祭たちが高松教区で惹き起こした混乱について,まったく反省していない;しかして,彼は,むしろ,その事態は 日本の司教たちの Neocatechumenal Way に対する 抵抗のせいで 起きたのだ,と 主張している.

日本における Redemptoris Mater については,後日談がある : 201808月,教皇庁の福音宣教省は,同省が「アジアのための Redemptoris Mater 神学院」を東京に設立することを計画している,と 菊地 功 東京大司教に 通知してくる;そのことについて 菊地大司教は「困惑」を表明する;すると,10ヶ月後,20190617日付の書簡において,福音宣教省 長官 Fernando Filoni 枢機卿は,その計画を 事実上 撤回する(菊地大司教のお知らせを参照).


§ 3. 谷口幸紀神父の「書評」および 彼の LGBTQ に関する考えに対する批判

前置きが長くなりすぎた わたしの「職業」(精神分析家)に必然的にともなう〈個人の life history への〉関心のせいで 谷口幸紀神父の波瀾万丈の人生を紹介するために費やした語が多くなりすぎたため;また,一般信徒による〈福音宣教と信仰教育の〉活動 Neocatechumenal Way それは,聖 パウロ VI 世から パパ フランチェスコに至る 歴代の教皇により 是認され,称賛されている が そのものとしては たいへん興味深いものであるので.

ともあれ,本来 論ずべきことへ ここで やっと 入ることにしよう.


§ 3.1. 谷口幸紀神父の攻撃対象は 実は もっぱら transgender である

谷口神父の言葉 :「この本[LGBT キリスト教]の書評を書く作業は (…) できれば引き受けたくなかった」を 真に受けるなら,彼の「書評」が書かれたのは『福音と社会』誌が 谷口神父に その執筆を依頼したからだ ということになる.

しかし,谷口神父の「書評」は,当該の本の内容に関する批評ではまったくない;しかして,それは,sexuality gender に関する 保守的カトリックの紋切り型の考え — つまり,homosexuality transgender に関する無理解と誤解と混乱と偏見と侮辱と差別,および,生殖に関する 原理主義的な natalism(避妊と人為的妊娠中絶を絶対に許さない主張)— の開陳にすぎない.ただ,谷口神父と 特にアメリカ合衆国で声高な伝統主義的カトリック保守との 相違があるとすれば,それは このことに存する:後者は 第 2 ヴァチカン公会議の意義を否定するが,それに対して 谷口神父が属する Neocatechumenal Way は 第 2 ヴァチカン公会議の精神に則っている.

そして,彼が攻撃の対象とするのは,もっぱら transgender の存在である;というのも,彼が彼のテクストのなかで用いている “LGBT” という語は たいてい “transgender” に置き換えることができるから.つまり,彼が 80歳代の高齢者であることを考慮に入れるとしても,彼の頭のなかで 用語法は あまりに混乱している.

実際,彼は,『LGBT と キリスト教』の書評を書くと言いながらも,彼のテクストのなかで,homosexuality そのものを ほとんど論じていない  そもそも,彼は,homophobic なクリスチャンたちが homosexuality を断罪するために 必ず持ちだしてくる 聖書箇所(たとえば,Lv 18,22 または 20,13 ; および Rm 1,26-27)に,まったく言及していない.

しかして,谷口神父が持ち出してくる 聖書の一節は これ (Gn 1,27) である transgender の存在を否定するために:

そして,神は,創造した 人間 [ adam ] 彼[神]の 似姿において;
[神は]神の似姿において 創造した 彼[人間]を;
[ zakar ] と 女 [ neqebah ] 彼らを[神は]創造した.

その一節が,谷口神父にとっては,性別二元論を根拠づける.

そして,その次の一節 (Gn 1,28) は,彼にとって,原理主義的な natalism を 根拠づける:

そして,神は 彼らを 祝福した;
そして,神は 彼らに 言った:
多産であれ,そして 多数であれ;
そして 地を満たせ,そして それを服従させよ;
そして 君臨せよ 海の魚に対して,空の鳥に対して,そして 地のうえで動く生きものすべてに対して.

そして,そのために 結婚が義務づけられている (Gn 2,24) :

それゆえ,男[ish : 夫]は,彼の父と母から離れて,彼の女[ishshah : 妻]に 付く;そして,彼らは ひとつの肉になる.

確かに,Torah には そう書かれてある.しかし,それを 谷口神父のように 原理主義的に読むならば,神学すること と 断罪することは 可能であっても,我々キリスト者にとって最も重要な使命  福音を伝えること  の遂行は 不可能になってしまう;なぜなら,あなたは 特定の人々を 福音宣教の対象者たちのなかから あらかじめ排除してしまうのだから.

谷口神父のように transgender の存在を 聖書の文言にもとづいて「ありえない」と決めつけることを,まず,やめよう.そして,その存在を ひとつの人間学的事実として 認めよう.あるいは,ちょうど 今 話題になっている〈AP による〉インタヴューのなかで パパ フランチェスコが〈homosexual である人々に 刑事罰(死刑を含む)を課している国々を戒めるために〉言ったこと : “ser homosexual no es un delito. Es una condición humana”homosexual であることは,犯罪ではない;それは,ひとつの〈人間の〉存在様態である]にならって言うなら : transgender であることは,聖書にもとづいて断罪さるべき悪魔的存在ではなく,しかして,ひとつの〈人間の〉存在様態である.

そして,そこから出発することなしには,transgender である人々に対する福音宣教も司牧的ケアも可能ではない.

我々は,谷口神父のように,transgender の人々に実際に出会う前から その存在を 否定し,悪魔化するのではなく,しかして,パパ フランチェスコにならって こうすべきである : transgender である人に 実際に 出会う (incontrare) ; その人を 迎え入れる (accogliere) ; その人が語ることを 聴く (ascoltare) ; そして,そうしつつ,その人に 寄り添う (accompagnare) ; さらに,そうしつつ,その人がその人自身に関して識別 (discernere) するのを 助ける;そして,その人を 共同体の full member にする (integrare).

その〈incontrare から integrare に至る〉過程は,catechesis においても かかわるはずである 本当の意味における catechesis が,単に教義を机上で「勉強」することに存するのではなく,しかして,ひとつの実存的な変化(μετάνοια : 回心)の成起に存するとするならば.


§ 3.2. 谷口幸紀神父は 神の意志が何に存しているかについて 誤解釈を犯している

次に,谷口神父の〈「神の意志」(τ θέλημα τοῦ θεοῦ) ないし「神の計画」( πρόθεσις τοῦ θεοῦ) に関する解釈の〉誤りを 指摘しておこう.彼によれば,神の意志は Gn 1,28 において述べられている神の命令によって 表現されている:

多産であれ,そして 多数であれ;
そして 地を満たせ,そして それを服従させよ;
そして 君臨せよ — 海の魚に対して,空の鳥に対して,そして 地のうえで動く生きものすべてに対して.

そして,彼は こう述べている:

神は,人祖[アダムとエヴァ]の原罪によって破綻した宇宙創造の計画を立て直すため,人類の救済に着手した.アダムとエヴァの不従順によって 罪と死が人類の歴史に入ったが,第二のアダムであるキリストと第二のエヴァであるマリアの従順によって,死は討ち滅ぼされ,天の門は再び開かれ,キリストの復活によって 人類に「復活の命」が取り戻された.こうして,天地万物の進化の歴史は建て直され,人類が 空の星ように 浜辺の砂のように 増え,宇宙の果てまで拡大することが再び可能になった.人類が 増えて 繁栄し,宇宙に拡散してゆくためには,男女が 愛しあって 結婚し,子どもを産み,数においても増加することが必要だ.

また,彼は こうも書いている:

生命の源である 神の計画 産めよ,増えよ,地に満ちて,宇宙の果てまで拡散せよ (…)

はたして そうなのだろうか? 人類が 宇宙の果てにまで拡散するよう 増多することが,神の計画,神の意志なのだろうか?

なぜなら,『カトリック教会のカテキズム』(2822) は,「主の祈り」(Pater noster) に含まれる七つの求めのうち 三つめのもの「あなたの意志が 成起しますように 天におけるように,地においても」(γενηθήτω τὸ θέλημά σου ὡς ἐν οὐρανῷ καὶ ἐπὶ γῆς) について,こう言っているから:

我らの父の意志は このことである:「人間たちが すべて 救済されること,そして,真理をよく識るに至ること」(1 Tm 2,04). 彼[我らの父]は「辛抱づよい 滅びる者が誰もいないことを意図するので」( 2 P 3,09). 彼[我らの父]の命令 ほかのすべての命令を要約しており,そして,彼の意志全体を我々に言っている 命令 は,これである:我々が互いに愛しあうように 彼[我らの父]が 我々を愛したように.

洗礼前の catechesis を受けた者は,誰でも,「イェスが Torah のなかで最も重要と見なす 命令は 何か?」と問われれば,これらふたつを挙げて 答えることができるだろう (cf. Mt 22,36-39 ; Mc 12,28-31) :

あなたの神 主を 愛せ あなたの心すべてを以て,あなたの自身すべてを以て,あなたの力すべてを以て (Dt 6,05).

あなたの隣人を 愛せ その者があなた自身であるかのように (Lv 19,18).

谷口神父も,そう問われれば,躊躇なく そう答えるだろう.しかも,神学校で学んだ彼なら,イェスがこう言い添えていることも 憶えているだろう:

それらふたつの命令に Torah[律法]と Nevi’im[預言者]との全体が 依拠している (Mt 22,40).

さらに,ヨハネは,それらふたつの命令を,こう総合している:

あなたたちは 互いに愛しあいなさい わたし[イェス]が あなたたちを愛したように (Jn 13,34 ; 15,12).

我々は 互いに愛しあおう なぜなら 愛は神に由来するから ; (…) なぜなら 神は愛であるから (1 Jn 4,07-08).

それらのヨハネ的公式は,catechesis において,聖書のなかの最も印象的なことばとして 我々のなかに刻み込まれる.そして,先ほども見たように,『カトリック教会のカテキズム』も こう言っている:その命令は,ほかのすべての〈神の〉命令を要約しており,そして,神の意志全体を表言している.

では,なぜ イェスは 我々に そう命ずるのか? これがゆえに:

我らの救い主 神は,すべての人間たちが救済されることを 欲している (1 Tm 2,03-04).

それこそが 神の意志である;すべての人間たちの救済 — cisgender であろうとなかろうと heterosexual であろうとなかろうと すべての人間たちを 救済すること それこそが 神の計画である;谷口神父の言う「人類が 宇宙の果てにまで拡散するよう 増多する」ことは,神の意志と計画の核心を成すものではない.

そして,そのようなカン違いを谷口神父に許してしまうのは,彼が信奉するイデオロギー 原理主義的な natalism である.


§ 3.3. 谷口幸紀神父は 実存論的観点を 欠いている

谷口神父に関して直前のセクションで指摘したことを言い換えるなら:彼には救済論的観点と終末論的観点が欠けている.

実際,彼は こう述べている:

神は,138億年におよぶ 宇宙の進化の歴史を,常に ひとりで 孤独に 導いてききた.しかし,神は,人類を創造したあと,さらなる宇宙の歴史を切り開く作業を ひとりでおこなうことをやめ,人格的存在である人類を 創造的進化という大事業のパートナーとして招き入れることを 望んだ.

そこから読み取られ得るのは,このことである:谷口神父の頭のなかにあるのは,創世記において物語られている神話と 現代の物理学的宇宙論との アマルガムである.そこには,救済論も終末論も無い(救済論と終末論は密接に関連しあっている).

また,谷口神父は,アダムとエヴァの原罪と失楽園に関して「神の創造の計画は こうして 挫折した」と言っている.そのような表現も,彼が 創世記神話を 時間座標のうえで展開されていった一連の出来事として捉えていることを,示唆している.そして,そのような考え方には,救済論と終末論の余地はない なぜなら,それらは 時間座標のうえには位置づけられ得ないことについて問うものであるから.

いかにも,源初(無からの創造)と 終末と 救済を 神話的に思い描くことは 可能である.しかし,そのような論じ方は もはや有意義なものではない 現代において,神との関係において 生きつつ,生かされつつ,救済を待ち望んでいる 我々にとっては.

そのような我々にとって必要なのは,信仰の実存論である.「実存論」(existentialisme) という語を見て,「何を 今さら」とつぶやきつつ 失笑する者は,失笑すれば よい.我々の実存論は,前世紀の或る時期 一世を風靡した Jean-Paul Sartre の「実存主義」ではない.我々は,ただ,キリスト教において神話的に物語られていることを,我々自身の実存 それを 我々は 神との関係において 生きており,かつ,そうしつつ 我々は 神との関係において 生かされている にかかわることとして 捉え直そうとしているだけである.

もうすでにあまりに長くなってしまったこの記事においては,我々の信仰の実存論について詳しく論ずる余地はない なにしろ,まだ「性別」の概念について論じなくてはならないから ので,そうすることは別の機会に譲る.


§ 4. 実存論的性別について

性別について,我々は,常識的には,ふたつの概念を有している:ひとつは 生物学的 性別 (biological sex) ; もうひとつは 社会学的 性別 (sociological gender). 前者は,原則的に(ある種の先天的病理の場合を除いて)性染色体によって決定される.それに対して,後者は,社会学的な諸条件のもとで 構築される.つまり,前者は ある人の生の経験に先立つもの (a priori) であり,それに対して,後者は ある人が 生きていくうちに 社会と家族のなかで 作られてゆくものである.

たとえば Simone de Beauvoir « on ne naît pas femme : on le devient » と言うとき,それは このことである:ひとりの人間 (un être humain) が「わたしは女である」(je suis une femme) と言うとき,それは,単純に「わたしは 生物学的な意味における『女』(une femelle) として 生まれた」ということではなく,しかして,「わたしは わたしが生きていくうちに 社会学的な意味における『女』(un être féminin) になった あるいは その意味における『女』になるよう強いられてきた」ということである.

ただし,谷口神父のような原理主義者は,sociological gender を無視して,「真の意味での性別 つまり,神によって創造された性別 は,単純に生物学的性別と一致する」と主張する.また,それに対して,社会学的な gender studies の 論者のなかには,人間的な意味における性別を ひたすら sociological gender へ還元しようとする者がいる (social constructionist theories of gender).

だが,実は,transgender の 存在は,それらのような常識的な性別概念 生物学的性別の概念と社会学的性別の概念 によっては,本当に sachgemäß に[事に適ったしかたで]論ぜられ得ない.というのも このゆえに : transgender の 存在は むしろ 我々に このことを示唆している:我々は,このような性別について 問わねばならない その性別は,ひとりの人間において,生と性の経験に先立って (a priori) 規定されてはいるが,しかし,その者の生物学的性別には還元され得ない.

実際,典型的な transgender girl は,ことばの世界に住みはじめるや(ことばを話せるようになるやいなや),女の子が好むおもちゃや服装に おのづと(つまり,周囲のおとなたちの示唆や指示がなくても)関心が向く;親が その子に「きみは男の子なのだから,男の子らしくしなさい」と いくら言って聞かせても,それは,たいがい,まったく無効であり,その子自身にとっては苦痛な強制でしかない.また,他方,トランス男性である杉山文野氏は,「ものごころがついてからずっと,気持ちは『ぼく』なのに,からだは『女』だった.以来,ぼくは,ずっと『女体の着ぐるみ』を身につけているかのような感覚のまま,人生をすごしてきた」と証言している.

したがって,我々が「transgender である」という存在様態を ひとつの人間学的事実として 捉えるならば,我々は,生物学的な意味において生得的 (congenital) であるわけではないが,経験的に獲得された (acquired) というわけでもない もうひとつのほかの性別概念 非生物学的であり,かつ,先験的 (a priori)[経験に先立つもの]である性別の概念について問わざるをえない.

そのような性別を,我々は,こう呼ぶ:実存論的性別 (existential sexuation) 生物学的性別 (biological sex) および 社会学的性別 (sociological gender) からの区別において.

この「実存論的性別」の概念を欠くがゆえに,transgender に関する従来の議論は混乱したものでしかあり得なかった.

では,実存論的な意味における「男である」と「女である」は 如何にして規定されるのか? そのことについて論ずるためには,本当は,わたしが「否定存在論」(l’ontologie apophatique) と呼ぶ思考を導入せねばならない;だが,そうすることは ここでは困難である(議論が あまりに長くならざるを得ないがゆえに)ので,より単純に(それでも 十分に複雑であるかもしれないが),精神分析における「自我理想」(das Ichideal, l’idéal du moi) それは symbolique[徴示的]なものである と「理想自我」(das Idealich, le moi idéal) それは imaginaire[仮象的]なものである の概念を用いて論ずるにとどめておこう.

ひとりの人間が実存論的な意味において「男である」ということを規定する symbolique な 自我理想が ある;その自我理想への symbolique な 同一化によって,実存論的な意味における「男である」は 規定される.

それに対して,実存論的な意味における「女である」を規定する symbolique な 自我理想は 無い;つまり,その意味における「女である」は,何らかの symbolique な 同一化によっては 規定され得ない;言い換えると,実存論的な「女である」は symbolique なしかたにおいては 規定され得ない ; symbolique の次元においては,「男である」と「男ではない」とがあるだけである.

では,「女である」とは 如何なることであるのか? その問いは 回答不可能である こう答える以外には:「女である」ことを規定する symbolique な 自我理想 (das Ichideal, l’idéal du moi) は 無いとしても,「女らしさ」を与える imaginaire な 理想自我 (das Idealich, le moi idéal) が ある.

かくして,ある人が「トランス男性である」ということは,このことである:その人は,生物学的な次元においては女性であるが,実存論的な次元においては,「男である」ことを規定する自我理想への symbolique な 同一化のゆえに,男である.

それに対して,ある人が「トランス女性である」ということは このことである:その人は,生物学的な次元においては男性であるが,実存論的な次元においては,「男である」ことを規定する自我理想への symbolique な 同一化の 欠如のゆえに,「男である」のではない;かつ,「女らしさ」を与える理想自我との imaginaire な 同一化は 成立している.

そして,以上のような同一化を考慮に入れることによってのみ,LGBTQ Q Questioning[男であるか あるいは 女であるかが 不確定である]の 存在は,思考可能となる:すなわち,questioning である人々においては,自我理想への symbolique な 同一化は 欠如しており,かつ,理想自我への imaginaire な 同一化も 確かではない(あるいは 不安定である).

このことを付言しておこう:「男である」ことを規定する自我理想への symbolique な 同一化は 欠如しており,かつ 「女らしさ」を与える理想自我との imaginaire な 同一化は 成立している,という条件は,女性たちの大多数と トランス女性とに 共通している.

その意味においては,確かに,「トランス女性は 女性である」と言うことができる.しかし,両者は,経験の次元 特に,小児期および思春期の経験 においては,相異なる:その時期,女の子は,女の子であるがゆえに さまざまな差別(および,場合によって,性暴力 と その危険性の不安)を経験するが,それに対して,トランス女性は,その時期においては 社会的には「男の子」と見なされているので,女の子であるがゆえの差別や不安を経験することはない;また,年齢にかかわりなく,生物学的な意味における女性の身体に特有の器官 および 女性ホルモンに起因する さまざまな身体的苦痛と それに起因するハンディキャップの経験 それらの経験は,女性の存在様態に対して 大きく作用している は,トランス女性には欠けている.

また,小児期において,女の子の大多数は,理想自我としての母親との imaginaire な 同一化を 多かれ少なかれ 被るが,それに対して,トランス女性は そのような imaginaire な 同一化を 被らない場合が 少なくないようである.そのようなトランス女性の場合,たとえ 彼女の外見は 性別適合手術と化粧によって 完璧に女性的に見えても,彼女の思考や感性は「女らしさ」を欠いている.

理想自我としての母親との imaginaire な 同一化ということに関して さらに付言するなら,gay の 男性は そのような imaginaire な 同一化を 被っている場合が 少なくないようである.彼らは,男の自我理想との symbolique な 同一化のもとにあるので,自身の gender identity に関しては「男である」ことに みづから違和感を持つことはない;しかし,少なからぬ gay 男性が有する ある種の女性性は,理想自我としての母親との imaginaire な 同一化によって 獲得されたのではないか,と 思われる.


§ 5. おわりに

この記事においては,如何に 谷口幸紀神父が 彼の 原理主義的 natalism のイデオロギーのゆえに transgender の 存在に関して および カトリック教義の根本的なところについて 無理解と誤解釈 — LGBTQ の人々を(特に transgender の人々を)傷つける 無理解と誤解釈 — を犯しているかを,見てきた.

『福音と社会』Vol. 325 p.106 に,同誌の編集の責任者 山内 継祐 氏(彼は,1942年生れ,現在 80歳;彼自身,カトリック社会問題研究所のメンバー;『主婦の友』,『週刊現代』の記者を経て,1970年から 1973年まで 発行されていた『カトリック グラフ』誌の編集者;その後,コルベ出版社 代表取締役;現在,フリープレス社 代表取締役;『福音と社会』は フリープレス社から 刊行されている)は,谷口幸紀神父の「書評」における差別発言について「釈明」をしている;だが,その手の「釈明」の通例どおり,山内氏が本心から反省しているとは 思われない.

『福音と社会』誌 および カトリック社会問題研究所が 今回の「谷口事件」に関して どのように責任を取るのか,今後も注目してゆきたい.

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LGBTQ と カトリック信仰に関して わたしが過去に書いた記事も 参照していただきたい: