2022年11月1日火曜日

2022年10月16日の LGBTQ みんなのミサでの 酒井陽介神父さまの説教

荘厳のキリスト(表紙絵の解説

2022年10月16日(年間 第 29 主日)の LGBTQ みんなのミサでの 酒井陽介神父さま SJ の 説教


第 1 朗読 :
Ex 17,08-13
第 2 朗読 : 2 Tm 3,14 – 4,02
福音朗読 : Lc 18,01-08


わたしたちは,皆,祈ります.祈りは「わたしは何者であるか?」を最も明らかにするものだ,と思います.それは,まったく心の内的な問題ですから,別に 公表する必要はありません.しかし,「わたしは 何に向かって祈っているのか? 何を祈っているのか? 誰のために 何のために 祈っているのか?」ということを わたしたち ひとりひとりが しっかりと思い起こすことは とても重要だ,と思います.

「わたしは どのような祈りをしているのか? 何に向かって祈っているのか?」ということは,「わたしは 何者なのか? わたしと わたしを取り巻く人々との 関わりは どのようなものであるか?」ということを 教えてくれる,と思います.

今日の 第 2 朗読の パウロのテモテへの手紙でも,「折が良くても悪くても 励みなさい」[ἐπίστηθι εὐκαίρως ἀκαίρως :(ロゴスを宣べ伝えることを)根気よく続けなさい,好機においても そうでないときにも]と言われていました.同様に,折が良くても悪くても,わたしたちは やはり 祈り続けなければなりません.

でも,その「祈る」は,単にブラブラブラと祈ることではなく,今日の 第 1 朗読のモーセのように,実際に 手を上げて — そして,その手に痛みを感じながら — 祈ることであり,かつ,ほかの人々に支えてもらいながら 祈ることです.

わたしたちは,具体的な行動や関わりを生きながら,祈ります.言葉において祈るときも,あるいは,言語化されないまま 心のなかで祈るときも,わたしたちは,本当に 自分の心と思いと結びついた形で — 自分の存在と結びついた形で — 祈らねばならない,と思います.

ここで,「教会共同体で祈る」ことの大切さについて,皆さんと分かち合いたい,と思います.

「教会共同体で祈る」ことは 重要だ,と思います.それは,わたしたちの 生き生きとした細胞です;それは,わたしたちを生かします.

「教会共同体で祈る」ことによって,わたしたちは,「ここで ともに 祝い,ここで ともに 囲み,ここで ともに 食し,ここで ともに 分かち合い,そして,ここから ともに 派遣されていく」ということを,とても具体的な形で — 身体的に — 体験することができます.

どのような形で わたしたちが教会共同体に関わっていようと,どのような形で わたしたちがその関わりを生きていようと,わたしたちの教会共同体が どれほど小さくても,どれほど 不十分であり 不完全であっても,やはり,それは 教会なのです.わたしたちが 教会なのです.

グループが どれほど小さくても,どれほど弱くても,あるいは,逆に,とても大きくて 目立つグループであろうと,そのような大小の差異にかかわりなく,わたしたちは 教会の一部であり,さらには,わたしたちが教会なのです.

わたしたちが 教会である — we are the church — この “we” に わたしたち皆が入っている — 教会は そのことを感じる場所ではないか,教会に来るということは そのことを感ずることではないか — そう思います.

We are the church, わたしたちが教会である,わたしたちも教会の一部である — そのことを実感すること — 教会に来るということは そういうことではないか,と思います.

勿論,祈ることは どこでも できます — ファミレスでも,喫茶店でも,自宅でも,職場でも,電車やバスのなかでも,車を運転していても,歩いていても,どこでも わたしたちは ひとりで 祈ることができます.それは,わたしたちの豊かな経験です.

また,今は,パンデミックのせいで,わたしたちは,離ればなれになり,オンラインのミーティングに慣れてしまいました.

しかし,実際に集まることによって,顔と顔を見あわせることによって,他者の息づかいを聞くことによって,「わたしは ひとりではない」,「わたしは この共同体の一部である」,「わたしたちが教会である」,“we are the church” ということを,わたしたちは,もう一度,あらためて 味わうことができる,実感することができる — そうであったらいいな,と思います.ですから,その意味でも,ひとりでも多くの人に ここに来てもらう ということは 大切だろう,と思います.

日本のカトリック教会は,小さな 小さな 群です;本当に “we are the church” として行かなければ,すぐに吹き飛んでしまうでしょう.ですから,わたしたちは,皆で 支えあい,祈りあって ゆきましょう — 折が良くても悪くても.

今は,もしかしたら,折が悪いときかもしれない,ものごとが 思うように進まないときかもしれない;それでも,わたしたちは,励んで行きましょう,ともに戒めあい,励ましあい,忍耐強く その時を待ちましょう,時をつくって行きましょう — そう心がけることができたら いいな,と思います.

わたしたちは,単なるグループではなくて,教会です.勿論,実務の都合上,やり方によっては,いろいろなグループに分けられます.しかし,やはり,最も 広く,最も根底に 持たなければならないのは,「わたしたちは教会である」ということです.

そのとき,小教区の区別も 教区の区別も 超えてゆくものが ある,と思います.それは,神の霊です.

神さまは,この小教区は — この信者は — 熱心だから… というような見かたは しません.わたしたちは 皆,呼ばれ,招かれ,たいせつにされています.

ですから,ここに集う人々がいれば,それは,大きな喜びになる,と思います;そして,これは,皆が作り上げて行くグループなのだ,わたしたちが教会なのだ ということを感じることができれば,このミサも とても意味のあるものになる,と思います.

2022年09月18日の LGBTQ みんなのミサでの 光延一郎神父さまの 説教

十字架のイェス(表紙絵の解説

2022年09月18日(年間 第 25 主日)の LGBTQ みんなのミサでの 光延一郎神父さま SJ の 説教


第 1 朗読 :
Am 8,04-07
第 2 朗読 : 1 Tm 2,01-08
福音朗読 : Lc 16,01-13


今日の福音の譬え話[不正な家政管理人]は,日本社会で 最近 起きていることを 思い起こさせます:オリンピック委員会の汚職スキャンダル,カルトと政治家の親密な関係,高級官僚の天下りの問題,等々 — そのようなことは,いろいろなところで,いろいろなかたちで,起きているのでしょう.

この譬え話を イェスは 弟子たちに向けて 語った — ということは,それは,今 教会のために働いている人々に向けられている,と捉えることもできるでしょう.

先週[年間 第 24 主日,長い福音朗読で]読まれた 放蕩息子の譬え (Lc 15,11-32) も,ある意味で,財産について 最終的に 神との関係において どう考えていくか ということが テーマになっていました.終わりのときに直面して,わたしたちは,今までの生き方 — この世での生き方 — と 神との関わりに どう決着をつけるか — そのことが 今日の福音朗読でも 問われている と思います.

管理人が忠実であるべきは,主人に対してである;わたしたちが忠実であるべきなのは,この世の富(マモン)に対してではない;そうではなく,主なる神に対してである;本当の主人である神に対して忠実であるべきだ — 不正な管理人の譬えは,結局,そう言っている,と思います.

第 1 朗読の アモスの書 (8,04-07) でも,終末のことが念頭に置かれています;貧しい者を踏みつけ,苦しむ農民を押さえつけている者たちのことを,主なる神は,いつまでも — 世の終わりのときまでも — 忘れない;主は,必ず,正義にもとづいて,最後の審判を行う — そういう終末論です.

第 2 朗読の ティモテへの手紙は,使徒パウロの「司牧書簡」(pastoral epistles) [1] に属しています.それらと「公同書簡」(catholic epistles) [2] は,西暦 2 世紀に,教会の組織ができていったころ — 初期カトリック教会の時期 — に 書かれました.ですから,司牧書簡は,実際にパウロが書いたものではなく,彼の思想の影響を受けた 弟子たちが 書いたものであろう,と言われています.昔の偉い人の名前で書かれた手紙という様式です.

[1] 新約聖書に収録されているパウロ書簡のうち,彼がティモテへ宛てた ふたつの書簡 および テトスへ宛てた書簡は,特に「司牧書簡」(pastoral epistles) と 呼ばれる.現在の通説によれば,それらの作者はパウロ自身ではなく,それらが書かれたのはパウロの死後のことである.

[2] 新約聖書に収録されている使徒たちの書簡のうち,パウロ書簡以外のもの — ヤコブ書簡,ふたつのペトロ書簡,三つのヨハネ書簡,ユダ書簡 — は「公同書簡」(catholic epistles, general epistles) と 呼ばれる.しかし,聖書学者たちの多くは,それらの作者は 12 使徒のうちの ヤコブ,ペトロ,ヨハネ,ユダである という説を,強く疑っている;そして,それらが書かれたのは 1 世紀終わりから 2 世紀にかけてであろう,と考えられている.

その背景には,ローマ帝国との関係が あります.そのことは,「王たちや すべての高官のためにも(願いと 祈りと とりなしと 感謝を)ささげなさい」と言われていることからも うかがえます.ローマ帝国ににらまれるようなことはしないで,平穏で 落ち着いた 生活をして,キリスト教は決して悪いものではないという評判を周りに作ってゆく — そういうことが信者たちに求められていた,と考えられます.

ですから,マルコ福音書のように ラディカルなイェスとの関わりは 描かれていない.それよりも,もっと外的なこと,秩序 — そのようなことが前面に出てきている.

そして,こう述べられています:「わたしたちが 常に 信心と品位を保ち,平穏で 落ち着いた 生活を 送るため」[
ἵνα ἤρεμον καὶ ἡσύχιον βίον διάγωμεν ἐν πάσῃ εὐσεβείᾳ καὶ σεμνότητι : 我々が,静かな かつ 平穏な 生活を〈まったく敬虔であり,かつ,人々から尊敬され得る状態において〉おくることができるように].

今日,わたしは,この「品位」
[ σεμνότης ] という言葉に,とても引きつけられました.この世の金を巡る人々の争いは,まったく品位に欠ける生活です.

しかし,フランシスコ教皇が 回勅
Laudato si’Fratelli tutti を書いたのは,信徒に向けてだけではなく,全世界の人々に向けてです.信仰のある人々は,勿論,それらの深い意味を受け取るでしょう.しかし,信仰を持っていない人々に対しても,彼らが人間である限り,必ず,教皇の言葉は 通じるはずです.善きサマリア人の譬えや 隣人愛の概念は,信仰を持っていない人々に対しても,通じるはずです;そのことが前提されています.

カトリックの観点は,決して ある人々に限定されてはいません.

それに対して,カルト宗教は,教祖の周りに 教祖の言うことを聞く人々だけを集め,そして,集団意識,全体主義,独裁主義によって 信者を縛ってしまう;そこには,本当の自由は 全然 ありません.

カトリックは,人々を さまざまな縛りから 解放し,自由にしてゆきます.その神学的な基礎は,Thomas Aquinas が 言った このことです:「恵みは,自然を破壊せず,むしろ,それを完成する」
[ gratia non tollat naturam, sed perficiat ] [3].
 
[3] Cum enim gratia non tollat naturam, sed perficiat, oportet quod naturalis ratio subserviat fidei; sicut et naturalis inclinatio voluntatis obsequitur caritati.

実際,恵みは 生得的なものを 除去するのではなく,しかして,それを完成させるのであるから,生得的な理性は 信仰に 奉仕せねばならない — 生得的な〈意志の〉性向が愛に従うのと同様に.

つまり,自然は 自然で 自律的であっていい;人間の生得的な理性の働きとか,いろいろな科学技術とか,そのようなものは,それでよい.そして,さらに恩恵の働きが — 神の働きが — 包むようなかたちで,絶えず よい方向に方向づけてくれているのだ,ということです.

例えば,カトリックの学校とか 大学とか — 上智大学とか — その真ん中に 神学部がある;この大学は カトリックの精神でやっている;でも,そのなかの学部や学科は,神学部を除けば,ほとんど 世俗のものです — 言語学,法律,理工学部,等々.ですから,大学のなかにいても,普段は,キリスト教的なものと 直接 接することは,ほとんどない.しかし,やはり,大学として,カトリック的な人間観,世界観,社会観を以て やっている;それによって,世俗的な学問も,それぞれ,自律性を保ちながら,よい方向に進んでいくことができるだろう,というわけです.

その基にあるのは,やはり,persona という 人間観です.Persona の概念は,人間の自律性を包含している.しかし,Thomas Aquinas は,さらに もう一歩 進んで,こう言っています : persona は,単に 人間は 自身を統御でき,制御でき,コントロールすることのできる 個人である ということだけでなく,しかして,このことをも包含している:人間は,他者と交わることができる ; persona どうしで 分かち合うことができる;関わりを深めあうことができる.Persona は,人間がそのような社会的な存在であることの根拠である.

Thomas Aquinas が そう言っていることを,わたしは 最近 発見しました;すばらしいなと思って,いろいろなところで そのことを話しています.

今日の福音朗読の不正な管理人とか,今 行われている戦争とか,やはり,何かいいもの — 資源 — を奪い合うことの競争です;それにもとづいて,人間たちは,争いを起こし,差別をする.

それに対して,persona という人間のあり方は,そのように争いを引き起こすものではなく,しかして,精神的な価値です.真理,愛,友情,社会的な権利 — 人間として生きている人間が精神的に捉えることができる そのような 精神的価値は,争いの種にはならない;むしろ,分かち合われ,共有されることによって,深まってゆき,豊かになってゆくものです.

グローバル化社会と言いますが,本当の意味でのグローバル化は,精神的な価値が すべての人々に 行き渡っていくことを 目標にします.しかし,残念ながら,現実には,ものの取り合いのグローバル化になってしまっている.

ですから,persona という 人間のあり方を,わたしたちは,いつも しっかりと 心にとめておく必要があるだろう,と思います.精神的な価値を分かち合って,互いに つながり合って,皆が いっしょに 共通善 — 最終的に それは 神です — を共有することができるようになる — それが,わたしたちの 人間としての 気高さである,と Thomas Aquinas は 言っています.実に すばらしい,と わたしは思います.

今日,ニュースを見ていたら,農業の話をやっていました.岐阜県だったか,そちらの方で,ある若い人が — 彼は,もともと 種[タネ]の研究者だったそうです — サラリーマン生活をやめて,無農薬の農業を始めた;彼は,堆肥と,おからや 生ゴミなどを 混ぜ合わせて,ちょうどよい肥料を作る;そして,その肥料を使うと,作物もおいしくなるし,化学肥料もいらない.しかし,農村は,どんどん高齢化して,農業の担い手は 年寄りだけになり,そうなると,化学肥料をどんどん使わざるを得なくなっている;そして,そうなると,環境にも悪いし,健康にも悪い;その悪循環が どんどん 進んでいって,今の日本の農業は 疲弊状態に陥っている.だから,地方が もっと知恵を使って,若い人が農業をやっていけるようにする必要があり,そして,実際に やれば できるのだ,ということを,そのニュースはリポートしていました.つくづく そうだな,と思いました.

回勅 Laudato si’ で 環境問題が取り上げられています.わたしたちも,どうすればよいのか? 人間らしい生活を送るためには どうすればよいか? そんなことを考えました.

人間の関係性を Thomas Aquinas の言う persona の概念から 改めて見てゆく;それにもとづいて,わたしたちが 互いに関係を取りあって 生きて行く — それが とても だいじなことではないか,と思いました.

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2022年08月21日の LGBTQ みんなのミサでの 光延一郎神父さまの 説教

最後の晩餐(表紙絵の解説

2022年08月21日(年間 第 21 主日)の LGBTQ みんなのミサでの 光延一郎神父さま SJ の 説教



第 1 朗読 :
Is 66,18-21
第 2 朗読 : He 12,05-07.11-13
福音朗読 : Lc 13,22-30


今年は C 年ですので,毎日曜日,ルカ福音書が 読まれています.

ルカ福音書は,三部に分かれています.最初の部分では,メシアとはどんなものなのか,イェスはどんな方なのか ということが,書かれてあります.

次いで,9章51節 [1] から,イェスは,まなじりを決して — いよいよ 十字架に付けられることを受け入れようと決意して — 一直線に イェルサレムへ向かって行くことになります.そこからが 第 2 部 [2] です.今日 読まれたところも,その続きです.イェスは,イェルサレムへ向かう旅の途上で だいじな教えを いろいろ 述べます.第 2 部は そういう構成になっています.

[1] Lc 9,51 : ἐγένετο δὲ ἐν τῷ συμπληροῦσθαι τὰς ἡμέρας τῆς ἀναλήμψεως αὐτοῦ καὶ αὐτὸς τὸ πρόσωπον ἐστήρισεν τοῦ πορεύεσθαι εἰς Ἰερουσαλήμ[そして,このことが起きた:彼が天へ上げられる日が満ちたとき,彼は,イェルサレムへ向かうことの決意を固めた].

[2] 9,51 – 19,27 までが 第 2 部,そして,19,28 から 最後までが 第 3 部(イェスの イェルサレムへの到着から 昇天まで).
 
今日 朗読されたところの冒頭 (v.22) では,改めて「イェルサレムへ旅しながら」[ πορείαν ποιούμενος εἰς Ἱεροσόλυμα ] と言われています.それによって,9章51節から始まった 第 2 部が,また もう一歩 深まって行く — そういうところです.

第 2 部では,世の終わりの日とか,裁きのときとか,救いに入れるのは誰か,入れないのは誰か,という話が 語られています.

今日のところでも,誰かが「救われる人は少ないのですか?」[ εἰ ὀλίγοι οἱ σῳζόμενοι ; ] (v.23) と 尋ねます.それに対して,イェスはこう答えます:「狭い戸口から入るように努めなさい」[ ἀγωνίζεσθε εἰσελθεῖν διὰ τῆς στενῆς θύρας ] (v.24).

マタイ福音書 (7,13) では「狭い門から入りなさい」[ εἰσέλθατε διὰ τῆς στενῆς πύλης ] と 言われていて,「門」[ πύλη ] という語が使われていますが,それに対して,ルカ福音書のこの箇所では「戸口,ドア」[ θύρα ] という語が 用いられています.「救われる人は少ないのですか?」という問いに対して,イェスは 直接 答えません;その代わりに「戸口は 狭いぞ」と言う.そして,狭い戸口から入ることができない者たちに対しては,家の主人は,戸 [ θύρα ] を閉めて,言う:「あなたたちがどこの出身なのか,わたしは知らない.不正義を行う者たちよ,皆,わたしのところから立ち去りなさい」[ οὐκ οἶδα ὑμᾶς πόθεν ἐστέ· ἀπόστητε ἀπ᾽ ἐμοῦ πάντες ἐργάται ἀδικίας ] (v.27).

おそらく,イェスの この話しを 聞いている人々は,皆,ユダヤ人です;そして,彼らは こう思っている:「我々は,アブラハム,イサク,ヤコブの子孫であり,選ばれた民なのだから,当然,神の国に 優先的に 入れるだろう」.

それに対して,イェスは,そうではない と言う;むしろ,神の国に入れる人々は,ユダヤ人に限らない;彼らは「東から 西から,南から 北から,来るだろう」(v.29) ; 神の御心に従順である人々こそが,狭い戸口を通り抜けることができるのだ.そして,「最初の者たちになるだろう最後の者たちが いる;そして,最後の者たちになるだろう最初の者たちが いる」[ εἰσὶν ἔσχατοι οἳ ἔσονται πρῶτοι καὶ εἰσὶν πρῶτοι οἳ ἔσονται ἔσχατοι ] (v.30).

マタイ福音書 (20,16) では,「そのように,最後の者たちが最初の者たちになるだろう;そして,最初の者たちが最後の者たちになるだろう」[ οὕτως ἔσονται οἱ ἔσχατοι πρῶτοι καὶ οἱ πρῶτοι ἔσχατοι ] と はっきり言っているのですが,それに対して,ルカ福音書では そうではありません;そうではなく:[神に選ばれたタイミングの]あとさき あるいは[神に選ばれたという]特権の有無は,救済のためには関係ないのだ;本当に神の御心にかなうことを行う者が,神の国に入るのだ.

そのような観点から ほかの朗読も見てゆくと,第 1 朗読の イザヤ預言書 (66,18-21) — 66章は 最後の章です.イザヤ預言書は,長い年月をかけて — おそらく 預言者イザヤの弟子たちが 師の教えを引き継いで — 書き継がれていったのだろう と言われています.聖書学者たちは,56章から 66章までを「第三イザヤ」と呼んでいます.それは,終わりのときの救いを — そのヴィジョンを — 描いています.

今日の 第 1 朗読においても,主の栄光は さまざまなところに広がって行く,そして,人々は 主の栄光を見ることになる,と 言われています.

幾つかの地名が挙げられています:タルシシュは 比較的 イスラエルに近いところだろう と思われます;しかし,プル,ルド,トバル,ヤワンは 全然 聞いたことがない地名です;リビアとか,アフリカの奥の方の町ではないか,と言われています.

さらに,彼らを「わたしの名声を聞いたことも わたしの栄光を見たこともない 遠い島々に 遣わす」— これは,日本のことかもしれません.

そのようなところからも,人々は,神の栄光を見るために,主の都 イェルサレムに 集まってくる.

今日の集会祈願でも こう言われていました:「すべての人の父である神よ,国籍や民族の異なる わたしたちを,あなたは 今日も 神の国の宴に招いてくださいます.呼び集められた喜びのうちに,わたしたちが ひとつの心で あなたをたたえることができますように」.

つまり,国籍や,民族や,何らかのしかたで人と人とを分ける境界線 — そういうものは 関係ない;いかに 主の御心を 受けとめ,それを行うかが,重要なのです.

第 2 朗読の ヘブライ書においては,「わが子よ,主の鍛錬を軽んじてはいけない」と言われています.「主から 懲らしめられても,力を落としてはいけない」というのは ちょっと厳しいですが,しかし,わたしたちは神の子であり,神は わたしたちの父です;父による しつけは,父が子を愛するがゆえに,為されます;そのことを ちゃんと理解しなさい;いろいろな試練にあっても,それを 主による鍛錬 — 乗り越えるべき訓練 — として 受け入れなさい… そういうことではないか と思います.

神は,すべての人を,神の国に — 救済に — 招いています;ただし,自動的にそこに入れるわけではない;各人の ある種の努力が 必要です.

わたしは SJ ハウスに住んでいます.そこに住んでいるイェズス会士たちは,各々,国籍も違うし,てんでんばらばらです;よく いっしょに 住んでいるな と つくづく 思います.どうして,こんなに異なる人々が いっしょに住んでいられるのか?

それは,やはり,「霊操」[ spiritual exercises ] の経験が 真ん中にあるからです.それを共有しているがゆえに,確信で つながっている.あとは,それぞれ,自分のなすべきことを,神から頂いている カリスマや 導きに 従って 歩んでいきなさい,ということです.それによって イェズス会は 成り立っています.

「霊操」といっても 皆さん あまり 御存じないかもしれませんが,わたしは,今月の上旬は,ずっと,広島の長束にある修練院 — イェズス会に入ろうとする者は 最初の 2 年間 そこで 修練を受け,修道生活と イェズス会の 基本を学びます — に いました.毎日,朝の暗いときに 起きて,お祈りして,午前中は 修練長のお話を聞いたり 勉強したりします;午後は 労働します — 畑を耕したり,庭の掃除したり.そのように毎日を過ごします.そして,その真ん中には 霊操があります;霊操を きっちり やる — 1 カ月間,みっちり やる.そのことが カリキュラムに 入っています.

毎年 毎年,黙想と 霊操を やります.今年は,神学生たちが長束でやるというので,わたしも 同伴させてもらいました;そして,いろいろと 考えることや,新たな気づきを 得ました.

霊操は,何を目的にしているか? それは,イェスの友になること,彼の仲間になること,そして,彼と同じことをして行くことです.霊操は,そのための鍛錬です.

「霊操」は,英語では spiritual exercises です.Exercises — つまり,練習です.楽器や スポーツを やる人は,何度も何度も練習を積み重ねることによって,だんだん上達して行きます.それと同様に,霊的生活も,やはり,そういうトレーニングや練習が 必要なのです.

ここでは,あまり詳しく話していられないので,YouTube で わたしの「カトリック 神学 霊性 フォーラム」を見てください.わたしは,今年から YouTuber になるぞ と決心して,福音について,毎週,新たな動画を出しています.聖 イグナチオ デ ロヨラの 記念日 7月31日には「霊操とは 何か?」について話しています.興味があれば,のぞいてみてください.

霊操では,まずは,一所懸命,前向きに,自分で努力して,黙想してゆきます.いかにわたしはイェスの弟子になっていくか,わたしの罪は何だったのか,世界の悪はどのように働いているか,等々を 見極めてゆく — そのように,能動的な側面が あります.いわゆる meditatio — いろいろ考えたり,記憶を掘り起こしたり… 理性を使う — けっこう 頭を使う — そういうタイプの祈りです.

そして,霊操の終わりの方 — 受難や 復活 — になってくると,contemplatio — いわゆる「観想」— そこでは,もっと受動的に シンプルに 神に委ねる というように,祈りは 変わってゆきます.受難や死を どう考えるか といっても わたしたちには わからないので,結局,神に すべてを委ねるしかないのです.そして,復活についても,神に すべて委ねる ということになります.

霊操の始めの方では,自分の罪を見つける — 一所懸命,自分で,重箱の隅をつつくようにして,これをやった あれをやった,これが悪かった — そういうことを いっぱい 見つけて,リストにして,赦しを受ける.しかし,霊操の終わりの方では,そのようなことよりも,赦そうと待ち構えていてくださる神 — 十字架のキリスト — を観想することになります.

神からの導き,招き,神の力に 委ねる;自分の肩の力抜いて,神に任せる — それが,やはり,最も だいじだ ということを,わたしは,今回の 神学生との霊操で,改めて 深く 感じました.

祈りにおいて 神に「委ねる」こと —「鍛錬」という言葉と まったく反対の語のように思えるかもしれませんが,それは,ある意味で 人間にとって 最も難しいことです.わたしたちの「自我」[ ego ] は 根深いものです;それを手放すことは,わたしたちにとって 怖いことです.

そうすることができるような柔軟な心,聖霊に委ねる心 — それを身に付けてゆくことができればよい,と思います.

2022年07月17日の LGBTQ みんなのミサでの 酒井陽介神父さまの 説教

マリアとマルタの家のキリスト(表紙絵の解説

2022年07月17日(年間 第 16 主日)の LGBTQ みんなのミサでの 酒井陽介神父さま SJ の 説教


第 1 朗読 : Gn 18,01-10a
第 2 朗読 : Col 1,24-28
福音朗読 : Lc 10,38-42


今日の福音朗読は,わたしたちがよく聞く なじみある物語です:マルタとマリアの話.

イェスは,マルタとマリアの家に しばしば 行っていたのでしょう.宣教の旅に出て,そして,疲れを感じたら,必ずこの家に戻ってきて,彼女たちとともに時間を過ごしていたのかもしれません.ともかく,彼女たち姉妹の家は,イェスにとって,とても信頼のおける また 心休まる 場所だったようです.

そして,きっと,イェスだけでなく,ほかの弟子たちも いっしょに来ていたのでしょう.ですから,マルタは,おおぜいのために食事を作り,忙しく働いていたのでしょう.今日の福音朗読の場面は,そのようなものです.

ところで,ある解説書をひもといてみると,そこにはとても新しいことがある というのです.何が新しいのか というと:マルタは家の女主人であって,彼女が主人としてイェスを迎え入れている ということ.

当時のユダヤの社会のなかで,女性がそのように主人として客を迎え入れる ということは,ほとんどなかったそうです.

もっとも,マルタとマリアの家には,彼女たち ふたりしかいなかったのかもしれません.ルカ福音書には,ラザロが彼女たちといっしょにいたのかどうかは,書かれてありません.

ともあれ,女性が主人として客を迎えるということは,当時は 非常に珍しかった;というのも,当時は,やはり,神のことばを聴くとか,偉い人の言葉を聴くとかというときに,その場に集まるのは,基本的に言って,男性のみです.女性たちは,基本的に言って,その近くで聴くことは できません.そこから離れたところで いろいろな周辺的な世話をする というのが,女性の役割でした.そのようなジェンダーによる役割の違いが,当時,ありました.

わたしも,ローマにいたとき,Sinagoga Maggiore という大きなシナゴーグに行く機会がありました;そこで,いろいろな説明を聞きました;そのなかに,ジェンダーによる席分けの話がありました:ここは男性の席,上の方は女性の席というように,分けられていました.そのシナゴーグは決して超保守派ではないのですが,それでも,そのような区別は はっきり 為されています,今までも.

特に 超正統派のユダヤ人たちは,現代でも,男性は もっぱら Torah の勉強をして,女性は働く という区別が あります.そのような伝統や文化は,今でも受け継がれています.

しかし,イェスは,そのようなことを 全然 気にしません;そのような区別を乗り越えて行きます.イェスと彼女たちとの関わりは,そのような文化的,伝統的な垣根を越えている;そして,それは新しいことなのだ — その解説書は,そう述べています.

さて,そのような状況のなかで,マルタは せわしく立ち働いています.この「せわしく働く」のギリシャ語は περισπάω です.それは,「注意が,あるべき場所から引き離されて,そらされる」という意味です.

ですから,「マルタは せわしく立ち働いている」ということは,彼女が 本来 なすべきことをすることができず,本来 気持ちを注ぐべきことに 気持ちを注げないでいる,という状況を 物語っています.かわりに,彼女は,あれもやり これもやり,あんなことも考え こんなことも考え,心のなかも 頭のなかも いっぱい いっぱいに なってしまっている — そういう状況が 物語られています.

そして,彼女は,イェスのところに来て,文句を言います:「主よ,わたしの姉妹は わたしだけにもてなしをさせていますが,あなたは 何ともお思いなりませんか? 手伝ってくれるように 彼女に言ってください」.

すると,有名なイェスの言葉です:「マルタ,マルタ,あなたは 多くのことに 思い悩み 心を乱している」と.まさに「心を乱す」ということが「せわしく働く」ということ とつながってきます.

そして,イェスは 言います:「いや,マリアは 今 あるべき場所に いるのだ.彼女は,聴くべき言葉に 聴き入っている;だから,それをリスペクトしなければいけない」.

何だか,マルタが さげすまれてしまっているようにも聞こえます.マリアがしていることこそ すばらしい;マリアのあり方こそ あるべきあり方だ,と 思われがちかもしれません.しかし,果たして それだけなのでしょうか?

わたしは,この数年来,こう思っています:わたしたちが住む この世界では,binarism が支配的です.さまざまなことが 二分化されます;二分化されやすい.その事態に対して 気をつけなければいけない,と わたしは感じます.

イェスの存在は この binarism — ものごとを二分化する文化,伝統,思想 — に対するアンチテーゼという意味を持っている,と思います.

福音は,あまねく すべての人々に向けて 語られています.しかし,人間は,こちら側とあちら側というふうに 分けやすい:白か黒か,正しいか間違っているか,優れているか劣っているか,きれいか きれいでないか,頭がいいか そうではないか — そのような形で,わたしたちは,無意識のうちに,物事を二分化する.そして,自分がいる側とそうでない側との間に 溝を いつのまにか 作ってしまう — あれか これか と.

イェスは,あれかこれかという選択を,わたしたちに 迫らない,と思います.

勿論,識別のときには,わたしたちは 何か ひとつを 選ばなければいけない;しかし,それは,非常に分かりやすい〈すべきことと してはいけないこととの〉道徳的な二分化です.

そうではなく,イェスは,もっともっと広い観点から,そして,もっと深いところから,わたしたちに問いかける:実は,あれも これも ではないか?と.

今日の福音朗読の文脈で言えば:マリアもそうだし,マルタもそうだ — それが,わたしたちのあり方ではないかな,と思います.すなわち,マルタがしていること — 客人をもてなすということ — は,とても大切なことです;為すべきことです;それは,客人への愛と尊敬を示すことです.

ただ,マルタは,それ以上に,あれも これも,マリアのことも,食事の準備のことも,もてなしのことも,いっぱい いっぱい 考えてしまった;そして,それによって,心が分散してしまった.

そこで,イェスは 彼女を 招きます:マルタよ,マルタよ,もう少し 心を おさめて行きなさい;心を ひとつにして行きなさい.

他方,マリアの方も,やはり,そこにずっと座っているわけにはいかない.イェスがいなくなったら,マリアも,そこから立ち上がって,日常に戻って行きます.

ですから,わたしたちは,そのなかで バランスを 捉えていくことが,たいせつです.

神のことばを聴くことは だいじです.しかし,それだけでは生きることはできません.両方がないと いけない.あれもこれもないと いけない.その時々によって,あれもこれものなかから,より善いのはどちらか という識別と選びを,わたしたちはすべきです.

ですから,イェスは,ひとつだけを 一義的に 追求する または 押しつける というようなことを 決して しない,と思います.

それは,わたしたちにとっても,とても大切なことだ,思います.わたしたちも,気をつけなければ,教会のなかでも そとでも,思想的にも,政治的にも,保守か リベラルか,これに 反対するか 賛成するか — そのような二分化に陥ってしまいます.そのような二分化は,特に ここ最近,わたしたちの社会のなかで強く感じられるようになりました.

しかし,本当に あれか これか なのか? 実は,それは,わたしたちの都合に過ぎません.自分たちの考えが合うとか,自分たちの思いと近いとか,自分たちにとって心地よいとか,何か 自分の都合と どこかでリンクしているような気がします.

しかし,神の目線,イェスの目線では,あれか これか ということではありません.

ですから,マルタとマリアに関しても,彼女たちが象徴する社会的な役割に関しても,どちらかひとつだけを高めるとか,祭りあげるとか,だいじにするとか,そのようなことがかかわっているのではありません.あれも これも すべて,神の慈しみ,神の憐れみの対象である という観点に立たなければ,わたしたちは,知らず知らずのうちに 利己的になり,ナルシスティックになり,裁いてしまうことになります.

マルタは,自分のことで精いっぱいになってしまって,マリアを批判しました.でも,あれか これか ではありません.わたしたちは,二分化の文化に慣れてしまっているかもしれません;しかし,イェスは,二分化の文化を,わたしたちにもたらしませんでした.

イェスに従うということは,ひとつの選びです.しかし,我々は,まったく純粋に,百パーセント 完璧に ということには,なかなか なれません.我々は,イェスに従って行くときも,いろいろな心,清いものも 濁っているものも,互いに矛盾していることも,非常に純粋に高みを目指す気持ちも,そうでないものも,全部 抱えながら そうして行きます.ひとつだけを選んでいく ということは,なかなかできない.そのことも含めて,イェスは,わたしたちを迎え入れてくださいます;そのことも含めて,イェスは,わたしたちと つながってくださいます;そして,わたしたちを 信頼して 派遣してくださいます.

あれか これか ではない ということは,福音が誰に向けられているのか ということを問うてみれば,わかるでしょう:わたしと考えが違う人も,福音の対象なのです;わたしを攻撃する人も,福音の対象なのです.

福音は,あらゆる人に 向けられており,あらゆる人のところに届けられる — そのような価値観を わたしたち キリスト者が もっとたいせつにすることができれば,そのことに もっと意識的になれれば,非常に殺伐とした二分化の文化,二分化の世界を,超えていくことができるのではないか,と思います.

わたしたちは,そのことを 毎日 自分の心に問うてみなければなりません.というのも,わたしたちは,案外,二分するまなざしで ものごとを見ているからです:わたし側か あちらの側か.

しかし,マルタもマリアも,イェスにとって,たいせつな仲間であり,本当に彼の心に近しい人です.そのことから,今日の福音を,もう一度 味わい直してみたい,と思います.


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Covid-19 の パンデミックにより,わたしたちの LGBTQ みんなのミサも 26ヶ月間 中断することを 余儀なくされていました(その間は,毎月 1 回,Zoom Meeting で 祈りと思いの分かち合いの集いを おこなっていました).そして,2022年05月から やっと 再開することができました.5月と 6月の ミサは,鈴木伸国神父さま SJ が 司式してくださいました.彼の説教も録音したのですが,マイクの設置のしかたが適切でなかったため,うまく録音できていませんでした.ですので,文字起こししたテクストを ここに掲載することができません.鈴木伸国神父さま,ごめんなさい m (_ _) m