2023年9月3日日曜日

すべての者が 教会のなかで 生きるよう 呼ばれている — みんな,みんな,みんな!


すべての者が 教会のなかで 生きるよう 呼ばれている — みんな,みんな,みんな!


本年 8月,World Youth Day に参加するために リスボンを訪れた Papa Francesco は,同月 5日 土曜日 17:00, Colégio de São João de Brito において,ポルトガルのイェズス会士たちと 対話した.そこにおける質疑応答は,La Civiltà Cattolica 誌 オンライン版に 公開された.

そこにおいて,Papa Francesco は,USA の カトリック教会の 一部の保守派集団に対して「あなたたちは,indietrismo[後退主義]の イデオロギーのうちに 自身を閉じこめ,そして,それによって 教会の根から 自身を切り離し,枯れて行く者たちである」という警告を発した.また,Synod on Synodality — その総会は まもなく 10月04日に 始まる — への期待と喜びを表明した.そして,何よりも 我々が ここで 紹介したいのは,彼が改めて表明した〈LGBTQ の人々のための〉司牧姿勢である.その部分の邦訳を 以下に提示する(Papa Francesco と 参加者たちとの対話は,後者がポルトガル語ないしスペイン語で問い,前者がスペイン語で答えるというしかたで行われたであろうので,敢えて邦訳しない単語はスペイン語で表記する):

質問 : Santo Padre[聖なる父:教皇のこと],わたしは João です.わたしは,何年か前,ローマで あなたに接吻させていただいたのですが,そのときは,あまりに緊張していたので,名のることができませんでした.わたしは,Centro Universitario de Coimbra で 働いています.わたしは 難しい質問をしたいと思います.ここ リスボンで 今週 木曜日[8月 3日]に行われた 歓迎式典の際,あなたは,講話において,こう言いました:「我々は 皆[教会へ]呼ばれている — 今 あるがままに」そして「教会のなかには 皆のために 居場所がある」.わたしは,毎日,若い大学生[または 大学教員]たちとともに 司牧的に働いています.彼らのなかには,このような者たちが たくさん います:彼らは とても善良であり,教会[の 活動]に みづから積極的に参与しており,イェズス会士たちともとても親しいのですが,「わたしは homosexual です」と 言います.彼らは,彼ら自身を 教会の能動的なメンバーであると 感じていますが,しかし,どのように彼らの感情生活を生きてゆくべきかを教義のなかに見出せないことが しばしば あります.彼らは,貞潔であることへの呼びかけを 彼ら自身へ向けられた〈独身であることへの〉呼びかけと取るのではなく,一種の押しつけと取ります.我々は このことを知っています:彼らは,彼らの生のほかの諸領域においては 有徳な生を生きており,教義もよく知っています;ですが,我々は,そう知りつつも,「彼らは間違っている — なぜなら,彼らは 彼らの良心において 彼らの[性的な]関係は罪深い と感じていないから」と言えるのでしょうか? また,司牧の観点から言って,如何に 我々は ふるまうことができるでしょうか — 彼らが〈彼らは 彼らの生き方において 神によって《健全で 実り多い 感情生活を 生きるよう》呼ばれている と〉感ずることができるために? 我々は こう認めることができるでしょうか:彼らの[同性の相手との]関係は キリスト教的な真の愛 — 彼らが到達し得る可能な善としての愛,彼らが主に対して与え得る可能な答えとしての愛 — へと成長し得る種[たね]であり得る と?

パパ フランチェスコの 答え:皆が[教会へ]呼ばれている ということに 異論の余地はない,と わたしは思う.イェスは そのことについて とても明瞭である:皆[が 呼ばれている].[あの宴会の譬え (Mt 22,01-14 ; Lc 14,15-24) において]あらかじめ選ばれていた者たちは 宴会に来ようとしなかった.そこで,彼[神]は こう命ずる:十字路へ行って,皆を招きなさい — みんな,みんな,みんな!そして,明瞭であるために,イェスは こう言う:「元気な者たちも 病人たちも,義人たちも 罪人たちも」[招きなさい]— みんな,みんな,みんな!言い換えれば:皆に対して 扉を開きなさい;皆が 教会のなかに 居場所を有している.如何に 各人は そのことを生きるか?我々は〈彼らが このように 生きることができるよう〉彼らを助けよう:その居場所が 彼らにとって — あらゆる種類の人々にとって — 成熟の場所となるように.

わたしは,ローマで〈homosexual である 若者たちと[かかわりあいながら]働いている〉ある司祭を 識っている.明らかに,今日,homosexualidad のテーマは とても重要である — なぜなら,歴史的状況に応じて それは変わるから.だが,わたしが好まないのは このことである:あの「肉の罪」(pecado de la carne) に 拡大鏡が向けられること — かつて[十戒のうちの]第 6 の命令[姦淫の罪を犯すなかれ]について そうであったように.もし あなたが 労働者を搾取しても,嘘をついても,詐欺を働いても,それは大したことではない;しかるに,ベルトの下の罪[下半身の罪]は 重大である,というわけだ.

ともあれ,皆が 招かれている — それが重要な点だ.[そして,我々は]それぞれの人に適う司牧方法を以て[彼らを迎え入れねばならない].勿論,我々は素朴であってはならない;ときとして,このような司牧方法 — それを受け容れ得るほどに 彼らが まだ 十分に成熟していないような 司牧方法 — へ 彼らを強制してはならない.精神的に かつ 司牧的に 人々に寄り添うためには,感受性と創造性が おおいに必要である.しかし,すべての者が 教会のなかで 生きるよう 呼ばれている — みんな,みんな,みんな! それを決して忘れないように.

わたしは,あなたの質問を利用しよう — transexual の 人々[Papa Francesco は,las personas transexuales と言っている — las personas transgénero ではなく]について ひとこと 付け加えるために.あるとき,水曜日の一般接見に,Charles de Foucauld の 修道女が 来た.[Petites Sœurs de Jésus 会の]シスター Geneviève Jeanningros だ.彼女は,今,80歳で,Circo di Roma[ローマ近郊の港町 Ostia にある Lunapark で 公演をおこなっているサーカス団のこと]の 施設付修道女をしている — ほかの ふたりのシスターたちとともに.彼女たちは,サーカスの脇の mobile home に住んでいる.ある日,わたしは 彼女たちを訪問した.そこには,小さな礼拝堂があり,台所と寝室もある.すべては とてもよく整えられている.そして,シスター Geneviève は,transgender[ここでは Papa Francesco は 英語の transgender という語を用いている]の 娘たちと かかわりあいながら よく働いている.ある日,彼女は わたしに言った:「彼女たちを 一般接見に連れてきてもよいですか?」 わたしは 答えた「勿論 いいとも.なぜいけない?」そこで,chicas trans [ trans girls ] の グループが いつも来るようになった.彼女たちは,最初に来たとき[2022年04月27日,Torvaianica の Chiesa Beata Vergine Immacolata の 主任司祭 Andrea Conocchia 神父と シスター Geneviève にともなわれて,トランス女性の小グループが Papa Francesco と会った],泣いていた.わたしは 彼女たちに なぜ泣くのかと きいた.彼女たちのひとりが わたしに言った:「パパさまがわたしたちと会ってくれるとは,思ってもいませんでした」.最初の驚きの後,彼女たちは 来るのに慣れた.誰かがわたしに[メールを]書いてくれば,わたしはメールで答える.みんなが招かれている.わたしは,それらの人々は「わたしたちは拒まれている」と感じていたことに 気がついた.それは まことに辛いことだ.

En la Iglesia hay lugar para todos — ¡Todos, todos, todos!(教会のなかには みんなのために 居場所がある — みんな,みんな,みんな!)


En la Iglesia hay lugar para todos — ¡Todos, todos, todos!(教会のなかには みんなのために 居場所がある — みんな,みんな,みんな!)


World Youth Day 2023 リスボン大会における 8月03日の 歓迎式典での パパ フランチェスコの 講話


親愛なる 若者たちよ,今晩は!ようこそ!ようこそ,そして,ここに来てくれて,ありがとう!わたしは,あなたたちと会えて,うれしい.わたしは,あなたたちがたてる 心地よい喧騒を聞けて — そして,あなたたちの喜びに感染できて — うれしい.こうして リスボンで いっしょになれたのは,すばらしいことだ.あなたたちは 呼ばれた — わたしによって,リスボン総大司教 Manuel Clemente 枢機卿によって — 彼の歓迎の辞に わたしは 感謝する —,あなたたちの司教たちによって,あなたたちの司祭たちによって,あなたたちのカテキスタたちによって,あなたたちの世話人たちによって.感謝しよう — あなたたちを呼んだ人々すべてに,この出会いを可能にするために働いた人々すべてに — 盛大な拍手を以て 感謝しよう!だが,なかんづく,あなたたちを呼んだのは イェスである.イェスに感謝しよう — 改めて 盛大な拍手を以て!

あなたたちがここにいるのは 偶然によってではない.主が あなたたちを 呼んだのだ.それは,最近に限ったことではない.彼は,我々すべてを 呼んでいる — 我々の生の始まり以来.彼は,あなたたちを,あなたたちの名で 呼んでいる.我々は〈我々を 我々の名で呼ぶ 神のことばを〉聴く.

それらの言葉[「神は わたしを わたしの名で 呼んでいる」という言葉]が 大きな文字で書かれてあるのを 想像してごらんなさい;そして,それらが あなたたちひとりひとりのなかに — あなたたちの心のなかに — 書き込まれてある — あなたたちの生の表題を成すものとして,あなたたちの存在の意味を成すものとして — と 考えてごらんなさい.

あなたは あなたの名で 呼ばれた — あなたも,あなたも,あなたも;我々 — ここにいる者たちすべて,わたしも — は,我々の名で 呼ばれた.我々は 自動的に呼ばれたのではない.我々は,我々の名で呼ばれたのだ.

このことを考えてみよう:イェスは わたしを わたしの名で 呼んだ.それらの言葉は 心のなかに書き込まれてある.次いで,このことを考えてみよう:それらの言葉は 我々ひとりひとりのうちに — 我々の心のなかに — 書き込まれてある;そして,一種の〈あなたたちの生の〉表題 — 我々の存在の意味,あなたたちの存在の意味 — を 成している.あなたは,あなたの名で 呼ばれた.

我々のなかで 偶然にクリスチャンとなった者は 誰もいない.我々は 皆 我々の名で 呼ばれた.人生の始まりのときに — 我々が才能を有するようになる前に,我々が 陰と傷を我々のうちに持つようになる前に — 我々は 呼ばれた.

我々は 呼ばれた.なぜ? なぜなら 我々は愛されているからだ.我々が呼ばれたのは,我々が愛されているからだ.すばらしい!

神の目には,我々は,たいせつな子である;たいせつな子たちである我々を 神は 毎日 呼ぶ — 抱きしめるために,励ますために,我々を 各々 唯一の かつ 独特な 傑作にするために.

我々は 各々 唯一的であり,独特である.そして,そのことすべての美しさを 我々は かいま見ることもできない.

親愛なる 若者たちよ,この World Youth Day の期間中,その現実を認めることができるよう,互いに助けあおう.この六日間が 神の〈愛情深い〉呼びかけの〈よく響く〉こだまであるように.神は 愛情深く 我々を呼んでいる;なぜなら,我々は 神の目には たいせつな子と見えているから — 我々の目がときとして見るもの – ときとして 我々の目は ネガティヴなものによって 曇らされ,ときとして 多くの娯楽によって眩まされる – にもかかわらず.

この六日間が,このような日々であるように:そこにおいて わたしの名が,あなたの名が,それを友愛的に言う〈かくも多くの言語の — かくも多くの国々の — かくも多くの国旗が見える —〉兄弟姉妹たちをとおして 響きわたる — 歴史のなかで唯一的な知らせとして;なぜなら このゆえに:あなたに対する神の心のときめきは 唯一的である.

この六日間が,このような日々であるように:そこにおいて,我々は このことを 我々の心に刻み込む:我々は 愛されている — 今 あるがままに;いつかこうなりたいという理想像においてではなく,今 あるがままに.それこそが,World Youth Day の 出発点である;そして,なかんづく,生の出発点である.息子たちよ,娘たちよ,我々は 愛されている — あるがままに — 化粧なしに.わかるかね? そして,我々は,我々それぞれの名で 呼ばれている.

あなたは あなたの名で 呼ばれている — それは,単なる言い回しではない;それは 神のことばだ (cf. Is 43,01* ; 2 Tm 1,09**). 友よ,もし 神が あなたを あなたの名で 呼んでいるならば,それは このことを意義している:神にとっては 我々は 誰も 単なる番号ではない;しかして,顔 (rostro) である;顔 (cara) である;心である.

* Is 43,01 :

だが,今や YHWH は こう言う — ヤコブよ,彼は あなたを創造した;イスラエルよ,彼は あなたを形づくった —:

恐れるな;
なぜなら このゆえに:わたしは あなたを贖った; 
わたしは あなたを あなたの名で 呼んだ; 
あなたは わたしのものである.

** 2 Tm 1,09 : 

[神は]我々を救済した;そして,我々を 聖なる呼び名で 呼んだ — 我々の行いに応じてではなく,しかして,神自身の計画および恵みに応じて —;その恵みは,永遠の時より前に,キリスト イェスにおいて,我々に与えられた.


わたしは 皆に〈このことに〉気づいてほしい:今日,あなたの名を知っている者たちは たくさんいる;だが,彼らは あなたを あなたの名で呼びはしない;実際,あなたの名は知られている;それは,SNS に 現れる;そして,アルゴリズムによって処理され,趣味や好みと結びつけられる;だが,そのようなもの すべてが 問うているのは,あなたの唯一性ではなく,しかして,市場調査のための あなたの有用性だけである.どれほど多くのオオカミが隠れていることか — 偽りの優しさの微笑みの背後に —;それらは「わたしは あなたが誰であるかを 知っている」と言う;だが,あなたを愛してはいない;それらは「わたしは あなたを信じている」と ほのめかし,「あなたは 有意義な人になるだろう」と約束する;だが,あなたに対する関心がなくなれば,あなたをほったらかしにする.それらは,virtual の 錯覚である;我々は だまされないよう 気をつけねばならない;なぜなら このゆえに:多くの現実が 今日 我々を惹きつけ,我々に幸福を約束するが,時がたてば,それらは〈それらが実際にそうであるところのものとして〉自身を明かす:虚しいもの,石鹸の泡,表面的なもの,無駄なもの — それらは,我々を 内的に空虚なままに 残す.

わたしは あなたたちに ひとつのことを 言おう:イェスは そのようではない;彼は そのようではない;彼は あなたを信頼している;あなたたち ひとりひとりを — 我々 ひとりひとりを — 信頼している;なぜなら このゆえに:イェスにとっては,我々ひとりひとりが たいせつである;あなたたちひとりひとりが たいせつである.そして,それが イェスである.

そして,それがゆえに,我々 — 彼の教会 — は,呼ばれた者たちの共同体なのだ.我々は,最も善良な者たちの共同体ではない;否,我々は 皆 罪人である.しかして,我々は 呼ばれたのだ — 我々のあるがままに.

そのことを 我々の心のなかで 少し 考えてみよう:我々は 呼ばれている — あるがままに — 問題を抱えたまま,限界を持ったまま,溢れかえる喜びをもって,よりよくなりたいという欲望をもって,勝ちたいという欲望をもって.

我々は,あるがままに,呼ばれた.そのことを考えてごらんなさい:イェスは わたしを 呼んだ — わたしのあるがままに — わたしがいつか成りたいと思っている理想像においてではなく.我々は,イェスの兄弟姉妹の共同体である;同じひとりの父の息子たちと娘たちの共同体である.

友たちよ,わたしは あなたたちとともに 明瞭でありたい;あなたたちは 偽り および 空疎な言葉に対して アレルギーを有しているから.

教会のなかには みんなのために 居場所がある (En la Iglesia hay lugar para todos). みんなのために.教会のなかでは 誰も邪魔物扱いされない;誰も余計ではない;みんなのために 居場所がある;わたしたちがあるがままに,みんなのために.

そして,イェスは 明瞭に こう言っている — 宴会に人々を呼ぶために 使徒たちを遣わすときに (cf. Mt 22,01-14 ; Lc 14,15-24) —:

みんなを迎えにゆきなさい — 老いも 若きも,健康な人も 病人も,義人も 罪人も.みんな,みんな,みんな!(¡Todos, todos, todos!)


教会のなかには みんなのために 居場所がある

「しかし,神父さま,わたしは 惨めな者です.わたしのために 居場所はありますか?」

みんなのために 居場所がある!

さあ,みんな いっしょに,おのおの 自分の言語で,わたしといっしょに繰り返そう:

みんな,みんな,みんな!(¡Todos, todos, todos!)

聞こえないよ!もう一度!

みんな,みんな,みんな!(¡Todos, todos, todos!)

それが 教会だ;みんなの母だ.みんなのために 居場所がある.

主は[断罪のために]指さすことはしない;しかして,彼は[迎え入れるために]両腕を広げる.

それは,我々に このことを考えさせる:彼は こうはしない[指さす動作]しかして,彼は こうする[抱きしめる動作];彼は みんなを抱きしめる.

イェスは 我々に そのことを 十字架のうえで 示している — 両腕を 大きく広げて — 十字架にかけられて,我々のために死ぬほどに.

イェスは,決して 扉を閉ざさない — 決して —;しかして,彼は あなたを 入るよう招いている :「入りなさい,そして,見なさい」.イェスは,あなたを受け入れる,あなたを迎え入れる.

さあ,わたしたちは,各人,イェスの愛のメッセージを伝えよう :「神は あなたを愛している;神は あなたを呼んでいる」.

それは 何と すばらしいことか! 神は わたしを愛している;神は わたしを呼んでいる.神は,わたしが神のそばいにいることを 欲している.

また,あなたたちは,今日の午後,わたしに質問した — たくさん質問した.問うことに倦んではならない.問うことに倦んではならない.問いを有するのは よいことである.さらには,それは,しばしば,答えを与えるのより よりよいことである;なぜなら このゆえに:問う者は 不安なままである;そして,不安は routine[決まりきった日常]に対する 最良の治療法である — routine, すなわち,ときとして魂を麻痺させる 一種の「正常」さ.

我々は,おのおの,自身のうちに 自分の問いを有している.それらの問いを持ち歩こう;そして,他者との対話のなかでも[それらを持ち続けよう].我々が神のまえで祈るときにも,それらを持ち続けよう.それらの問いは,我々が生きてゆくうちに,答えになってゆくだろう — ただ,我々は それらの答えを待つしかない.

そして,とても興味深いことに:神の愛は 我々を不意打ちする.それは あらかじめプログラムによって予告されてはいない.神の愛は 驚きである.それは 驚きである — それは いつも 我々を驚かす.それは,いつも,我々を注意深くさせておき,そして,我々を驚かす.

親愛なる 息子たちと 娘たちよ,わたしは あなたたちを 促す — このすばらしいことを考えてみるよう:神は 我々を愛している;神は 我々を 我々のあるがままに 愛している — 我々がそうなりたいと思う理想像においてではなく,社会が我々に対して要求する 望ましい人間像においてでもなく — 我々のあるがままに! 

神は 我々を 呼んでいる — 我々が 欠点を持っているがままに,限界を持っているがままに,人生のなかを前進してゆきたいと欲しているがままに.神は そのように 我々を 呼んでいる.

信頼しなさい;なぜなら このゆえに:神は 父である;我々を欲する父であり,我々を愛する父である.

それは,あまり気楽なことではない.そして,それがゆえに,我々は 偉大な助けを 有している — 主の母を.彼女は 我々の母でもある;彼女は 我々の母である.

わたしがあなたたちに言いたいのは,それだけだ:恐れるな;勇気を持て;前進せよ — このことを知りつつ:我々は,神が我々に対して有している愛によって,永遠に 神の財産となっているのだ***.

*** スペイン語原文では "estamos amortizados por el amor que Dios nos tiene". この場合,他動詞 amortizar は "pasar los bienes a manos muertas"[財産を 法人(特に 宗教法人)へ譲渡する — その財産が その法人のもとで 譲渡不可能な財産となるように]ということ.それは,この Papa Francesco の 講話の文脈では,彼が言及している Is 43,01 の「あなたは わたしのものだ」と同じことを言っている と 解され得るだろう(Vatican の 公式翻訳者たちも その語の翻訳に苦労しているようだが).

神は 我々を愛している.さあ,みんな いっしょに言おう :「神は 我々を愛している!」 もっと強く! 聞こえないよ![会衆は くりかえす] ここからは 聞こえないよ![会衆は 繰り返す]
 
Gracias. Adiós.


パパ フランチェスコの講話が始まるのは 1:02:20 あたり