2017年09月24日の LGBT 特別ミサにおける鈴木伸国神父様 SJ の説教
Jacob Willemszoon de Wet (ca 1610 - between 1675 and 1691),
葡萄園の労働者の喩え(17世紀中頃)
Szépművészeti Múzeum in Budapest
二つのものの間に揺れる心
パウロは,第二朗読では二つのことの間で揺れ動いています。生きようか死のうかと悩んでいます。
〔わたしは〕二つのことの間で板挟みの状態です。一方ではこの世を去ってキリストと共にいたいと... だが他方では、肉にとどまる方が...(フィリピ書簡 1,23)
わたしたちが生きてゆくことは,悩みを生きてゆくことでもあります。周囲の力に押し流されながら、それでもわずかに効く舵にしがみついて、いのちを自分のもとにとりもどそうともがいているようなものです。でも,ここでパウロは「諦めようか、でも苦しいけど生きようか」と苦しみと苦しみを天秤にかけているのではありません。また,「死んでしまおうか、それとも可能性を信じてみようか」と、苦しみと、希望のなかの恐れを比べているのでもありません。彼は、不思議なことですが、「今すぐにキリストに会おうか、それとも今ここにいる人たちのために何かできることがあるだろうか」と思案しています。彼は,二つの自分の願いや望みのあいだに立って、自分がどちらに召されているかを感じ取ろうとしています。彼は、神とともにある者に「万事が益となるように共に働く」(ローマ 8,28)ことを経験しているようです。
しかし,この福音と対になっているはずの第一朗読は、それとはまったく違ったトーンでわたしたちに呼びかけます:「わたしの思いはあなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる,と神は言われる」(第一朗読 イザヤ書 55,8)と。神の思いはいったい、わたしたちの思いとどう違うのでしょうか。
神が一人ひとりに「一デナリオン」づつ与えてくださるのは、わたしたちそれぞれの労働に応じた賃金を支払いたかったからでしょうか。賃金を不公平なしに、平等に分配したかったからでしょうか。はたまた,均しく賃金を支払うことが労働協約にかなうからでしょうか。わたしにはそのどれでもない気がします。それらはみな「わたしたちの思い」です。「わたしたちの思い」にはどこかに思い違いがある気がします。
主人は「わたしは,この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と言っています。それはどんな意味でしょうか。その言葉を「わたしたちの思い」で読めば,平等ということを語っているようにも聞こえます。でも,そのときわたしたちの関心は「もらうもの」に向かっていて、この主人自身には向いていません。「同じように」あるのは支払いの額ではなく、一人ひとりを思うこの主人の気持であるはずです。「わたしは,お前にあげたように、この人にもあげたいと思っているんだ」と言ったらいいでしょうか。あるいは「わたしには,この人が大切なんだ。わたしにお前が大切なのと同じくらいに」と神は言ってくださっているはずです。それは平等というより、誰も分け隔てすることのない、一人ひとりに固有に注がれる神の愛です。
そして,わたしたちに与えられている恵みは、誰であっても,他の人には与えられていないもので、他の人がもらうわけにはいかない恵みで、神がくださったものです。たしかに,朝呼ばれた人がもらった祝福は、祝福だけ見れば,夕方に呼ばれた人と同じだけのものでした。でも,それで,朝から働いた人が神からいただいた恵みが減るわけではありません。そもそも,彼は神から祝福を与えられなかったのではなく、やはり祝福をいただいています。そして,彼も自分の受けた恵み自体に不満があったわけではなかったはずです。
では,その不満はどこからきたのでしょう。自分の受けたものが他の者が受けたものより多くなかったという彼の考えが、受けた恵みさえ不満足なものに変えてしまったのでしょう。「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」と翻訳にはありますが、別の訳ではもっとはっきりと「わたしは善いものであって、お前の目が悪なのではないか」と訳されています。神は確かに恵みをくださっています。それなのに,なぜわたしたちは、恵みと,それを与えてくださった優しく寛大な神とに目を向けることなく、他の人間が受け取った「もの」に目を向け、それと自分の「もの」を比べるのでしょう。なぜ自分が愛されているのに、愛されていない徴を探そうとするのでしょうか。
でも,本当のところ,わたしには、遅く来た者に同じ賃金を与えた主人を責める人の気持と、一人ひとりに比べることのできない恵みを与えられる神と、どちらの言い分が正しいのか分からないところがあります。ぶどう園の主人の気持ちはよく分かります。彼は寛大で、こころの善い方で、そもそもわたしたちにぶどう園(= 世界)を与えてくれる方です。そして,皆に同じようにしてやりたいという彼の気持ちもよく分かります。でも,同時に,彼を責めてしまう人間の気持ちも分かります。人と自分を比べてしまう習慣は、人間の性(さが)であるかのように私のこころから消えないようです。ただ,はっきりしているのは、人と自分を比べようとして、恵みとその与え主自身に目を向けない者の心には、恵みは留まることができず、すり抜けて行ってしまうということです。
そう思うと、わたしたちの思いをはるかに超えている方に目を向けて、そこに立ち返るようにとわたしたちに呼びかけてくる第一朗読のイザヤ書の言葉は、わたしたちを遙かに超えたところからの呼びかけであるからこそ,なおさら,いとおしく、温かい響きをもって聞こえてくる気がいたします。
公平な賃金?
さて,今日の福音も不思議な物語です(「ぶどう園の労働者」マタイ20,1-16)。
このぶどう農園は収穫期なのでしょう、農園の主人は働き手を探しています。とても忙しいのでしょう、もう夜明けには出かけ,手配をし、働き手を農園に送り出します。仕事も続いている朝九時ころ、この主人は、作業監督のあいまの休憩でしょうか、広場のあたりを通りかかります。すると,何人かの男たちが見るからに手持ち無沙汰なようすでたむろしているのを見かけます。ご主人は声をかけます。「わたしの農園に行きなさい、払うから。」
このお話しが変な方向に向かうのは,このあたりからです。お昼休みでしょうか、このご主人はまた雇い手のない農夫を見つけると、声をかけて農園に行かせます。そして,午後の三時ころ、午後の休憩に出かけたついででしょうか、ご主人はまた人を見かけて何人か雇います。仕事が終わりそうになかったのでしょうか、段取りが悪いのか、計画性がないのか。そして,ようやく日も暮れかかる午後五時ころ、仕事終わりまで後一時間くらいになって、ご主人はまた外を歩いています。一日の仕事も片付けが始まり、少し息をつきたかったのでしょうか。すると,また人がいます。仕事を片付けかかっている自分とは違って、何か寂しげです。「何しているんですか」との問いに、その人たちが「だれも雇ってくれないのです」と答えると、このご主人、一体今さら何の仕事があるか分かりませんが、この人たちにもともかく農園に行くよう勧めます。
ようやく仕事が終わりました。お給金の時間です。「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」とご主人。このご主人、仕事がなくてご苦労された経験がおありなのでしょうか、最後に来て一時間だけ働いた人に「一デナリオン」(当時の一日分の賃金)を丸々払ってあげます。いい話じゃないですか、ここまでは。早く来た人も、遅く来た人も、一日に必要なお金をもらってよろこんで家路につくんですから。
でも,そこで終わらないのがこのたとえ話のみそです。始めにもらった人は一デナリオンだった。それならその後からもらう人は、それより長く働いたのですから「もっともらえるかもしれない」と思ってもおかしくありません。朝一番からの人は、パレスチナの強い日差しの下、土埃の中でもう12時間です。実際、胸のうちにはそんな期待がふくらんだでしょう。結果はしかし、「彼らも一デナリオンずつであった」(20,10). この人たちの方にわたしたちは同情してしまします。アルバイトをしていて、後何時間、後何分と、仕事終わりに向けて残り時間をカウントダウンしたことのある人だったら,分かってくれるはずです。実際,ミサのなかで「このたとえ話の登場人物のなかで誰の立場に親近感を感じますか?」と伺ってみましたら、おおよそですが「ぶどう園の主人」が一割、「一番遅く呼ばれた人」が四割、「夜明けから働いた人」が五割ほどでした。やっぱり「ええ?一番遅く来た人と同じですか?」と思ってしまうのでしょう。
このお話しが変な方向に向かうのは,このあたりからです。お昼休みでしょうか、このご主人はまた雇い手のない農夫を見つけると、声をかけて農園に行かせます。そして,午後の三時ころ、午後の休憩に出かけたついででしょうか、ご主人はまた人を見かけて何人か雇います。仕事が終わりそうになかったのでしょうか、段取りが悪いのか、計画性がないのか。そして,ようやく日も暮れかかる午後五時ころ、仕事終わりまで後一時間くらいになって、ご主人はまた外を歩いています。一日の仕事も片付けが始まり、少し息をつきたかったのでしょうか。すると,また人がいます。仕事を片付けかかっている自分とは違って、何か寂しげです。「何しているんですか」との問いに、その人たちが「だれも雇ってくれないのです」と答えると、このご主人、一体今さら何の仕事があるか分かりませんが、この人たちにもともかく農園に行くよう勧めます。
ようやく仕事が終わりました。お給金の時間です。「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」とご主人。このご主人、仕事がなくてご苦労された経験がおありなのでしょうか、最後に来て一時間だけ働いた人に「一デナリオン」(当時の一日分の賃金)を丸々払ってあげます。いい話じゃないですか、ここまでは。早く来た人も、遅く来た人も、一日に必要なお金をもらってよろこんで家路につくんですから。
でも,そこで終わらないのがこのたとえ話のみそです。始めにもらった人は一デナリオンだった。それならその後からもらう人は、それより長く働いたのですから「もっともらえるかもしれない」と思ってもおかしくありません。朝一番からの人は、パレスチナの強い日差しの下、土埃の中でもう12時間です。実際、胸のうちにはそんな期待がふくらんだでしょう。結果はしかし、「彼らも一デナリオンずつであった」(20,10). この人たちの方にわたしたちは同情してしまします。アルバイトをしていて、後何時間、後何分と、仕事終わりに向けて残り時間をカウントダウンしたことのある人だったら,分かってくれるはずです。実際,ミサのなかで「このたとえ話の登場人物のなかで誰の立場に親近感を感じますか?」と伺ってみましたら、おおよそですが「ぶどう園の主人」が一割、「一番遅く呼ばれた人」が四割、「夜明けから働いた人」が五割ほどでした。やっぱり「ええ?一番遅く来た人と同じですか?」と思ってしまうのでしょう。
わたしたちの思い
しかし,この福音と対になっているはずの第一朗読は、それとはまったく違ったトーンでわたしたちに呼びかけます:「わたしの思いはあなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる,と神は言われる」(第一朗読 イザヤ書 55,8)と。神の思いはいったい、わたしたちの思いとどう違うのでしょうか。
神が一人ひとりに「一デナリオン」づつ与えてくださるのは、わたしたちそれぞれの労働に応じた賃金を支払いたかったからでしょうか。賃金を不公平なしに、平等に分配したかったからでしょうか。はたまた,均しく賃金を支払うことが労働協約にかなうからでしょうか。わたしにはそのどれでもない気がします。それらはみな「わたしたちの思い」です。「わたしたちの思い」にはどこかに思い違いがある気がします。
主人は「わたしは,この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と言っています。それはどんな意味でしょうか。その言葉を「わたしたちの思い」で読めば,平等ということを語っているようにも聞こえます。でも,そのときわたしたちの関心は「もらうもの」に向かっていて、この主人自身には向いていません。「同じように」あるのは支払いの額ではなく、一人ひとりを思うこの主人の気持であるはずです。「わたしは,お前にあげたように、この人にもあげたいと思っているんだ」と言ったらいいでしょうか。あるいは「わたしには,この人が大切なんだ。わたしにお前が大切なのと同じくらいに」と神は言ってくださっているはずです。それは平等というより、誰も分け隔てすることのない、一人ひとりに固有に注がれる神の愛です。
そして,わたしたちに与えられている恵みは、誰であっても,他の人には与えられていないもので、他の人がもらうわけにはいかない恵みで、神がくださったものです。たしかに,朝呼ばれた人がもらった祝福は、祝福だけ見れば,夕方に呼ばれた人と同じだけのものでした。でも,それで,朝から働いた人が神からいただいた恵みが減るわけではありません。そもそも,彼は神から祝福を与えられなかったのではなく、やはり祝福をいただいています。そして,彼も自分の受けた恵み自体に不満があったわけではなかったはずです。
では,その不満はどこからきたのでしょう。自分の受けたものが他の者が受けたものより多くなかったという彼の考えが、受けた恵みさえ不満足なものに変えてしまったのでしょう。「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」と翻訳にはありますが、別の訳ではもっとはっきりと「わたしは善いものであって、お前の目が悪なのではないか」と訳されています。神は確かに恵みをくださっています。それなのに,なぜわたしたちは、恵みと,それを与えてくださった優しく寛大な神とに目を向けることなく、他の人間が受け取った「もの」に目を向け、それと自分の「もの」を比べるのでしょう。なぜ自分が愛されているのに、愛されていない徴を探そうとするのでしょうか。
でも,本当のところ,わたしには、遅く来た者に同じ賃金を与えた主人を責める人の気持と、一人ひとりに比べることのできない恵みを与えられる神と、どちらの言い分が正しいのか分からないところがあります。ぶどう園の主人の気持ちはよく分かります。彼は寛大で、こころの善い方で、そもそもわたしたちにぶどう園(= 世界)を与えてくれる方です。そして,皆に同じようにしてやりたいという彼の気持ちもよく分かります。でも,同時に,彼を責めてしまう人間の気持ちも分かります。人と自分を比べてしまう習慣は、人間の性(さが)であるかのように私のこころから消えないようです。ただ,はっきりしているのは、人と自分を比べようとして、恵みとその与え主自身に目を向けない者の心には、恵みは留まることができず、すり抜けて行ってしまうということです。
そう思うと、わたしたちの思いをはるかに超えている方に目を向けて、そこに立ち返るようにとわたしたちに呼びかけてくる第一朗読のイザヤ書の言葉は、わたしたちを遙かに超えたところからの呼びかけであるからこそ,なおさら,いとおしく、温かい響きをもって聞こえてくる気がいたします。
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なりわたしの道はあなたたちの道と異なると...天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いは、あなたたちの思いを高く超えている。
注)このテクストは,2017年9月24日の LGBT 特別ミサにおける鈴木伸国神父様の説教の録音にもとづいて,神父様御自身がお書きくださったものです.