Gustave Doré (1832-1883), Jésus et la femme adultère
2018年01月16日付の New Ways Ministry の news letter で,英国の政治家,Liberal Democrats の前党首 Tim Farron が,2013年に英国における同性婚法制化の際には反対票を投じなかったにもかかわらず,最近,数年前の自身の発言を翻して,同性愛は罪深いと述べたことについて,英国のジャーナリストで,英国カトリック司教協議会のコンサルタントを務めたこともある Clifford Longley が The Tablet 誌に書いた記事が紹介されていました.その内容がとても良いので,Tim Farron に直接かかわる部分を省略し,一部の代名詞をわたしたちにとってより関連性のあるように変更したうえで,以下にその翻訳を紹介します:
「同性どうしのセックス [ gay sex ] は,罪か?」という問いに対しては,答えはただひとつしかない.教皇 Francesco が与えた答えだ.それは,単純な五つの語からなる : Who am I to judge ?[わたしは,裁くような誰かか?裁く資格がわたしにあるだろうか?否,裁くのは神だけである.そして,神は,裁きと処罰の神ではなく,愛の神である].
ヨハネ福音書 8 章 1-11 節の物語を読み直すよう,勧めたい.姦淫の罪を犯したとして捕えられた女を,律法学者たちとファリサイ人たちが,Jesus の前に連れてくる ‒ 彼を罠にかけるために.[彼らは彼に言う:律法において,モーゼは,姦淫の罪を犯した女を石打ちの刑に処すよう言っているが,あなたは何と言うか?彼は答える:あなたたちのうちで一度も何の罪をも犯したことのない者が,最初に石を投げるがよい.彼らは,最も年長の者たちを先頭に,ひとりひとりその場から立ち去って行った.Jesus は女に言う:あなたを断罪する者は誰もいないのか?女は答える:誰も.そして最後に]Jesus が彼女に言う肝腎な言葉はこれだ:「わたしも,あなたを断罪しない」.
我々は,Westminster 大司教 Basil Hume 枢機卿[1923-1999, 大司教在任期間は 1976-1999]の20年ほど前の言葉を引用することもできる:「愛 ‒ 同性どうしの愛も含めて ‒ が悪であることは,決してない」[おそらく,彼の1997年の文書 A note on the teaching of the Catholic Church concerning homosexuality のなかの言葉のおおざっぱな引用.そこにおいて Basil Hume 枢機卿はこう述べている:同性どうしであれ異性どうしであれ,ふたりの人間の間の愛は,尊いものであり,尊重されるべきある.(...) ふたりの人間が愛し合うとき,彼れらは,天の御国において神とともに生きるときに経験する終わりなき喜びを,この世において限られたさまで経験する.実際,ひとりの他者を愛することは,神へ向けて手を伸ばすことである ‒ そのとき,神は,御自身の「いとおしさ」を,我々が愛する相手に分け与えているのだから.ひとりの他者を愛しているということは,人間が経験し得る最も豊かな経験の領域に入ったということである ‒ その愛が,同性どうしの愛であれ,異性どうしの愛であれ.](...)
神は,同性愛者を創造した.神は,同性愛者を同性愛者として創造した.そのことを知るだけで十分だ.(...)
同性愛者は,あらゆる種類のキリスト教 ‒ プロテスタントもカトリックも ‒ の手によって,すべての時代をつうじて,ひどく苦しめられてきた.今,確かなことはこれである:我々は,和解すべきだ.そして,彼れらが感じてきた悲痛な思い,彼れらに対して為されてきた無慈悲なしうち,排除,からかい,憎悪,等々の不正義すべてについて,可能な限り,悔い,償うべきだ.言葉と行いによるあの不正義と偏見を続けることは,重大なまちがいだ.
キリスト教のなかにユダヤ人差別がすべての時代をつうじて存続してきたのと同様に,同性愛者差別が続いてきた.それらふたつの形の偽善的信心深さと迫害を正当化するために,聖書から引用箇所を適当に選び出すことが可能だった.
しかし,ユダヤ人差別も同性愛者差別も,キリスト教(およびユダヤ教)の根本精神に完全に反している.Jesus が「ふたつめの大命令」と呼んだものだ:「あなたの隣人を,あなた自身として愛しなさい」(Mt 22,39). また,Jesus はこうも言っている:「裁くな ‒ 裁かれないために」(Mt 7,1). 同性愛の問題については,そう言うだけで十分だ.
(翻訳:ルカ小笠原晋也)