Gebhard Fugel (1863-1939), Lasset die Kindlein zu mir kommen (ca 1910),
人々は Jesus のところに子どもたちを連れてきた ‒ 彼がその子らに触れてくださるように.しかし,弟子たちは人々を咎めた.それを見て,Jesus は,怒り,弟子たちに言った: 「子どもたちをわたしのもとに来させなさい.妨げてはならない.神の御国は,この子らのような者たちのものである.まことに,わたしはあなたたちに言う:子どものように神の御国を受け入れない者は,そこに入ることはない」.そして,彼は子どもたちを抱擁し,彼れらを按手で祝福した (Mc 10,13-16)
今,カトリック教会が直面している最大の試練のひとつは,疑いなく,世界各国における聖職者による児童の性的虐待の問題であろう.
2002年に USA で大々的に報道され始めて以来,Vatican も無視し続けることができなくなり,この問題にようやく真剣に取り組み始めた.
カトリック教会の長い歴史のなかで,それまでも問題が散発的に公になることはあったが,対応は,事件が起きた教区の司教にまかされていた.表沙汰になる前に司教によって事件はもみ消されるのが通例であった.スキャンダルによって教会の威信が傷つくことを恐れたからである.加害者である司祭は,処罰されることなく,ほかの役職へ異動させられるだけだった.被害者への対応はおざなりだった.
しかし,Vatican は,2001年以降,聖職者による児童の性的虐待が疑われるケースはすべて,歴史的なものも含めて,教理省 (Congregatio
pro doctrina fidei) へ報告させるようにし,Vatican が世界中の情報を一元的に把握し得るようにした.
Vatican
が問題に真摯に取り組むようになって,被害者たちも,何十年も前に受けた虐待について語り始めた.
Vatican
が2014年5月6日に発表したところによると,過去10年間に全世界で3,400件以上のケース(何十年か前に起きたものも含む)が報告され,848人の司祭が職を解かれた.時効が成立していない場合は,当然,刑事罰の対象となった.
聖職者による児童の性的虐待の問題が大々的に公になって以来,世界中でカトリック教会の権威は揺らいだ.特に,伝統的にカトリック信者が多数派であった国々で,信者の教会離れが進んだ.
カトリック教会は過去も現在も同性婚を認めていないが,今や約30ヶ国で同性婚は法制化ないし合法化されている.それは,少なくとも部分的には,そして,特に Ireland のように伝統的にカトリックであった国々では,聖職者による児童の性的虐待の事件によるカトリック教会の権威の失墜の効果である,と言われている.
pedophilia の性向を有する聖職者の存在とその問題の致命的な重大性に,Vatican
は,カトリック教会の長い歴史において,まったく気がついていなかったはずはない.しかし,抜本的な対策が取られることは,2001年以前にはなかった.
では,その間,カトリック教会は何をしていたのか?聖職者の pedophila について真剣に問う代わりに,homosexual の人々全体を異様に厳しく断罪してきただけである.
そのような Vatican の欺瞞性のただなかを高位聖職者として生きてきたのが,Joseph
Ratzinger 枢機卿(名誉教皇 Benedictus XVI)である.
1927年生まれの彼は,1959年から1977年まで神学教授として大学で教えていた.第二 Vatican 公会議には,進歩派の神学者として参加していた.しかし,Karl
Rahner や Hans Küng らのより進歩的な神学者たちに比しては,より保守的な方向性を保った.1977年に München und
Freising 大司教に叙階され,同年,枢機卿に任命された.そして,1981年,教皇 Joannes Paulus II によって教理省長官に登用され,2005年4月に教皇に選出されるまでその職を続けた.1992年に発表された『カトリック教会のカテキズム』は,彼の指揮のもとに作成された.Joannes
Paulus II が病気のために執務困難となった2000年以降は,彼は,実質的に Vatican の長の機能を果たした.2005年に教皇に選出され,2013年2月末に高齢を理由に隠退した.
このように,第二 Vatican 公会議以降,現在に至るまで,カトリック教会のなかで Benedictus
XVI の影響力は,さまざまな面において絶大である.
homosexuality に関する『カトリック教会のカテキズム』(CCE)
nºs 2357-2359 の文言は,ほぼ完全に,教理省長官 Joseph Ratzinger 枢機卿の名において1986年に世界中の司教全員へ送られた書簡 Homosexualitatis problema にもとづいている.そこには,homosexual の人々の司牧に関する彼の考えと指示が公式化されている.
CCE nºs 2357-2359 において homosexuality がどのように論ぜられているかを,改めて見てみよう:「聖書は,同性どうしの性行為を,重大な堕落として提示している」;「同性どうしの性行為は内在的に乱れたものである,とカトリック教会の伝統は常に表明してきた」;「同性どうしの性行為は,如何なる場合も是認され得ない」;「homosexuality の性向は,そのものとして乱れたものである」.
そこには,非常に厳しい断罪が執拗に繰り返されている.「CCE
の homosexuality に関するくだりを見ると,自殺したくなってくる」と述べる gay の人々もいるほどである.
それに比べて,ほかの罪に関しては,どう論ぜられているか?例えば peccatum mortale については如何?
peccatum mortale は,「大罪」と訳されるが,文字どおりには「致命的な罪,致死的な罪」である.それと対を成すのが,peccatum
veniale である.「小罪」と訳されるが,正確には「赦される罪」である.それに比すなら,peccatum
mortale は「赦され得ない罪」である.
peccatum mortale 一般について,例えば CCE nº 1861 はこう述べている:「愛 [ amor ] そのものと同様に,致命的な罪 [ peccatum mortale ] は,人間の自由のひとつの根本的な可能性である.致命的な罪は,愛 [ caritas ] の喪失と,我々を聖なるものにしてくれる恵み [ gratia sanctificans ] ‒ すなわち,恵みの状態 [ status gratiae ] ‒ の剥奪とを,もたらす.もし悔悟と神による赦しとによって贖われなければ,致命的な罪は,キリストの御国からの排除と地獄での永遠の死とを惹き起こす ‒ 我々の自由は,とりかえしのつかない永続的な結果をともなう選択を為す能力を有している.しかしながら,我々は,或る行為について,それはそのものにおいて重大な過ちである,と判断し得るとしても,その行為をおかした人物についての裁きは,神の正義と慈しみに委ねるべきである」.
このように,peccatum mortale 一般については,「地獄での永遠の死」という脅しが提示されているとはいえ,贖いと赦しの可能性が十分に強調されている.
他方,妊娠中絶に関しては:「紀元一世紀以来,教会は,誘発された妊娠中絶はすべて道徳的に悪であることを断言してきた.この教えは,変わっておらず,今後も変わらぬままである.直接的な妊娠中絶 ‒ すなわち,目的または手段として欲せられた妊娠中絶 ‒ は,道徳律に重大に反している」(nº
2271) ;「妊娠中絶への正式な協力は,重大な過ちである.人間生命に対して犯されるこの罪を,教会は,破門という教会法上の刑を以て罰する.妊娠中絶を得んとする者は,その効果が実現するなら,その罪を犯したという事実そのものにより,かつ,教会法により定められた条件のもとで,破門の判決を受けることになっている」(nº
2272).
妊娠中絶に関しては,いかにも,非常に厳しい断罪が為されているが,胎児の人命が損なわれる事態の重大性に鑑みれば,理解できないではない.
ついでながら述べておくと,教皇 Francesco は,妊娠中絶の処置を受けた女性の罪を赦す権限を,司祭に与えている.
では,pedophilia
と児童の性的虐待については,如何 ?
CCE のなかで homosexuality という語は用いられているのに対して,pedophilia という語は用いられていない.そして,児童の性的虐待に関する記述は,わずか二箇所において,しかも付け足しとして,見出されるのみである.
ひとつは,強姦に関する段落において:「強姦とは,或る人の性的な内密部へ暴力を以て侵入することである.それは,正義と愛に対する侵犯である.強姦は,あらゆる人が有する尊重される権利,自由の権利,身体的および精神的な不可侵性の権利を深く損なう.強姦は,被害者に一生残る傷跡をつけ得る重大な損害を生ぜしめる.強姦は,常に,内在的に悪しき行為である.さらに重大なのは,親によって為される強姦(近親相姦を参照),または,委ねられた子どもに対して教育者が為す強姦である」(nº
2356).
もうひとつは,上に参照が示唆されているように,近親相姦に関する段落において:「近親相姦とは,結婚の禁じられた親等の親族または姻族どうしの[性的に]親密な関係のことである.聖パウロは,特に重大なこの過ちを非難している:『あなたたちの間では,不品行のことしか話題になりません.(...)
あなたたちのひとりが自分の父親の妻と同棲している,というほどに ! (...) 主 Jesus の名において,その者を肉の滅びのためにサタンへ引き渡さねばなりません』(1 Co
5,3-5). 近親相姦は,家族どうしの関係を損ない,獣性への退行を画する.また,子どもの性的虐待 ‒ 成人が,自身の保護下に委ねられた児童または青少年に対して為す性的虐待 ‒ を,近親相姦に付け加えることができる.そのような性的虐待の場合,過ちは,子どもたちの身体的および精神的な不可侵性に対するスキャンダラスな侵害 ‒ 彼れらは,それによって一生残る傷跡をつけられる ‒ と,教育的責任の義務違反とによって,二重化される」(nºs
2388-2389).
homosexual
の人々どうしの性行為は,強姦の場合を除けば(そして,強姦は,大多数の場合,heterosexual 男性が女性に対して為す犯罪である),双方が合意のうえで行われるものであり,それによって傷つく者はいない.「被害者」は誰もいない.むしろ,それは,ふたりの愛し合う者どうしの愛の確認と強化の効果を有するだけである.
それに対して,子どもの性的虐待は,非常に大きな,かつ,ほとんど消すことのできない傷跡を被害者に残し得る重大な犯罪である.いくら強く非難しても,いくら厳しく断罪しても,足りないほどである.
かくして,CCE において,児童の性的虐待の問題は,homosexuality の問題に比して,事態の重大性に鑑みるなら,明らかに,不適切に軽い扱いをしか受けていない,と言わざるを得ない.
この事態が示唆していることは,何か?それは,このことにほかならない:教理省長官 Joseph
Ratzinger 枢機卿(当時)を始めとするカトリック教会の中枢は,聖職者たちの一部に内在的な pedophilia の問題の重大性をしかるべく認識し,それに適切に対処する勇気を持つことができず ‒ 事が公になって,教会の威信が失墜することを恐れるあまり ‒,その代わりに,homosexuality 全体を不必要に厳しく断罪したのだ.
精神分析家として,わたしは,そこに,カトリック聖職者全体が自身に内在的な pedophilia を否認するために強固な homophobia を反動形成 (Reaktionsbildung, reaction formation) により作り上げた強迫神経症を見て取る.
我々は,こう断言し得る:カトリック教会による
homosexuality に対する異様に厳しい断罪の真理は,カトリック聖職者の一部に内在的な pedophilia に対して為されるべき断罪(為されるべきであったが,実際には怠られてきた断罪)である.
実際,先ほども引用した
CCE nºs 2357-2359 の文言において,homosexuality
を pedophilia と読み替えてみれば良い:「pedophilia の行為は,重大な堕落である」;「pedophilia の行為は,内在的に乱れたものである」;「pedophilia の行為は,如何なる場合も是認され得ない」;「pedophilia の性向は,そのものとして乱れたものである」.まったくそのとおり.異論を唱える者は誰もいないだろう.
Vatican は,カトリック聖職者において禁止さるべき pedophilia は homosexuality の一種であり,それゆえ,homosexuality
全体を厳しく断罪しておけば,それによって pedophilia にも厳しく対処したことになるはずだ,と暗に思い込んでいたのかもしれない.
確かに,pedophile 司祭の多くが性的対象として男児を選ぶ.しかし,序章において確認したように,homosexuality はもはや精神疾患とは見なされないのに対して,pedophilia
は精神疾患としての性倒錯のひとつに分類され続けている.
Vatican
が pedophilia と homosexuality とを混同しているとすれば,あるいは,前者を後者の一亜型と見なしているとすれば,それは不適切なことである.
そもそも,カトリック教会が
homosexuality を忌避するようになったのは,修道院共同体の内部で男どうしが性的行為におよぶことを禁止するためであった.当初,禁止の対象は,修道士や司祭たちの homosexuality 行為に限られていた.そのような禁止が,教会の制度化の過程で,いつのまにか一般化され,信者全体に及ぶようになり,homosexuality そのものが罪悪と見なされるようになった.そして,その聖書的な根拠が,いわゆる clobber
passages に求められた.歴史的な経緯はそのようなものであっただろう,と推察される.
1986年に Homosexualitatis problema を世界中の司教全員へ書き送り,1992年に CCE を完成させた Joseph
Ratzinger 枢機卿は,2001年に
USA において聖職者による児童の性的虐待の事件が大々的にあばかれ始めたとき,自身が犯してきた判断の誤りの重大性に気づかされ,愕然としたに違いない.
しかし,それをきっかけに,彼は,pedophilia の問題を否認したり回避したりすることをやめ,自身の判断の誤りの責任をみづから負った.2001年当時,彼は既に Vatican の実質的な長であり,その後,2005年から2013年まで教皇座にあった.その間,カトリック聖職者の児童性的虐待問題の処理に,彼は敢然と取り組んだ.そのことは,彼の神学的業績とならべて,評価されてよいだろう.
調査が過去何十年もさかのぼって為されるべきケースも少なくなく,加害者も被害者も非常に多いので,この問題は完全な解決を見るにはいまだに至っていない.教皇 Francesco も,後処理に追われている.
しかし,この問題が明るみに出て,もはや否認し続けようもなくなったことは,カトリック教会がより健全なものになって行くためには当然,必要なことである.
残るは,CCE nºs
2357-2359 に記された
homosexuality 断罪の文言の不適切性を教理省が認め,当該部分を削除するか,あるいは,書き改めるかすることである.
それが実現するのはいつのことになるか見当もつかないが,いずれにせよ,教皇 Francesco は,それらの段落にもとづいて homosexuality を断罪しないよう,みずから手本を示している.
最後に,問うてみよう:カトリック聖職者であることと pedophile であることとの間には,何か本質的な連関があるのだろうか?
そのような問いを措定することが適切であるか否かを判断するには,一般男性人口に対する男性 pedophile の人数の比と,カトリック聖職者の総数に対する pedophile 聖職者の人数の比とを比較することが必要であるが,いずれに関しても正確な統計を得ることは非常に困難である.
児童に対して性的虐待を為す者たちも,精神病理学的に均質なグループを成すわけではない.
しかし,もっぱら男児を性欲対象とする男性 pedophile については,次のような精神病理学的構造が推定されている:すなわち,対象男児との彼の関繋は,彼の母親と子供時代の彼自身との関繋の再現である.そこにおいて,彼は,欲望 ‒ 特に,Freud が Penisneid[ペニス妬み]と名づけたもの ‒ において,自身の母親と同一化している.そして,彼の子供時代に彼の母親が彼において phallus を欲していたように,今,彼は,彼の母親との同一化において,対象男児において phallus を欲している.
敬虔なカトリック信者である女性が自身の息子を Penisneid の対象とした場合,彼女はこう欲するかもしれない:彼女の息子が,彼女にとって最も理想的な phallus を有する男性としての神父になって欲しい.
息子がそのような母親の欲望にしたがって神父になった場合,Penisneid
における母親との同一化において,彼は,身近にいる男児のなかから性欲対象を選ぶことになる.
少なくとも,カトリック聖職者による児童の性的虐待のケースの一部においては,以上のような構造がかかわっていることが推定される.
そのようなケースは,精神分析によって治療が可能であるかもしれない.わたし自身は,そのような司祭を治療したことはないし,そもそも pedophile
の患者を扱ったこともない(性倒錯者が,性倒錯そのものを理由にして治療を求めてくることは,まず無い)が,理論的には以上のように考えることができるだろう.
もしカトリック聖職者のなかに pedophile である人々がいまだに残っているとするなら,彼らは,CCE nºs
2358-2359 の文言は,homosexual の人々にではなく,彼らに向けられたものであることを自覚すべきである.そこにおいて,homosexual を pedophile と読みかえれば,こうなるのだから:
pedophile の者たちは,自身の人生において神の意志を実現するよう呼びかけられているのであり,また,もし彼らがキリスト教徒であるなら,pedophile であるという条件のせいで遭遇し得る諸困難を主の十字架の犠牲と結びつけるよう,呼びかけられている.
pedophile の者たちは,貞潔であるよう呼びかけられている.内的自由を教える自制の徳によって,ときには,私欲無き友情の支えによって,祈りと秘跡の恵みによって,彼らは,キリスト者としての完璧さへ,徐々に,かつ,決然と,近づいて行くことができ,かつ,そうすべきである.
『LGBTQ とカトリック教義』(2018年05月増補改訂版)よりの抜粋