2022-11-01

2022年09月18日の LGBTQ みんなのミサでの 光延一郎神父さまの 説教

十字架のイェス(表紙絵の解説

2022年09月18日(年間 第 25 主日)の LGBTQ みんなのミサでの 光延一郎神父さま SJ の 説教


第 1 朗読 :
Am 8,04-07
第 2 朗読 : 1 Tm 2,01-08
福音朗読 : Lc 16,01-13


今日の福音の譬え話[不正な家政管理人]は,日本社会で 最近 起きていることを 思い起こさせます:オリンピック委員会の汚職スキャンダル,カルトと政治家の親密な関係,高級官僚の天下りの問題,等々 — そのようなことは,いろいろなところで,いろいろなかたちで,起きているのでしょう.

この譬え話を イェスは 弟子たちに向けて 語った — ということは,それは,今 教会のために働いている人々に向けられている,と捉えることもできるでしょう.

先週[年間 第 24 主日,長い福音朗読で]読まれた 放蕩息子の譬え (Lc 15,11-32) も,ある意味で,財産について 最終的に 神との関係において どう考えていくか ということが テーマになっていました.終わりのときに直面して,わたしたちは,今までの生き方 — この世での生き方 — と 神との関わりに どう決着をつけるか — そのことが 今日の福音朗読でも 問われている と思います.

管理人が忠実であるべきは,主人に対してである;わたしたちが忠実であるべきなのは,この世の富(マモン)に対してではない;そうではなく,主なる神に対してである;本当の主人である神に対して忠実であるべきだ — 不正な管理人の譬えは,結局,そう言っている,と思います.

第 1 朗読の アモスの書 (8,04-07) でも,終末のことが念頭に置かれています;貧しい者を踏みつけ,苦しむ農民を押さえつけている者たちのことを,主なる神は,いつまでも — 世の終わりのときまでも — 忘れない;主は,必ず,正義にもとづいて,最後の審判を行う — そういう終末論です.

第 2 朗読の ティモテへの手紙は,使徒パウロの「司牧書簡」(pastoral epistles) [1] に属しています.それらと「公同書簡」(catholic epistles) [2] は,西暦 2 世紀に,教会の組織ができていったころ — 初期カトリック教会の時期 — に 書かれました.ですから,司牧書簡は,実際にパウロが書いたものではなく,彼の思想の影響を受けた 弟子たちが 書いたものであろう,と言われています.昔の偉い人の名前で書かれた手紙という様式です.

[1] 新約聖書に収録されているパウロ書簡のうち,彼がティモテへ宛てた ふたつの書簡 および テトスへ宛てた書簡は,特に「司牧書簡」(pastoral epistles) と 呼ばれる.現在の通説によれば,それらの作者はパウロ自身ではなく,それらが書かれたのはパウロの死後のことである.

[2] 新約聖書に収録されている使徒たちの書簡のうち,パウロ書簡以外のもの — ヤコブ書簡,ふたつのペトロ書簡,三つのヨハネ書簡,ユダ書簡 — は「公同書簡」(catholic epistles, general epistles) と 呼ばれる.しかし,聖書学者たちの多くは,それらの作者は 12 使徒のうちの ヤコブ,ペトロ,ヨハネ,ユダである という説を,強く疑っている;そして,それらが書かれたのは 1 世紀終わりから 2 世紀にかけてであろう,と考えられている.

その背景には,ローマ帝国との関係が あります.そのことは,「王たちや すべての高官のためにも(願いと 祈りと とりなしと 感謝を)ささげなさい」と言われていることからも うかがえます.ローマ帝国ににらまれるようなことはしないで,平穏で 落ち着いた 生活をして,キリスト教は決して悪いものではないという評判を周りに作ってゆく — そういうことが信者たちに求められていた,と考えられます.

ですから,マルコ福音書のように ラディカルなイェスとの関わりは 描かれていない.それよりも,もっと外的なこと,秩序 — そのようなことが前面に出てきている.

そして,こう述べられています:「わたしたちが 常に 信心と品位を保ち,平穏で 落ち着いた 生活を 送るため」[
ἵνα ἤρεμον καὶ ἡσύχιον βίον διάγωμεν ἐν πάσῃ εὐσεβείᾳ καὶ σεμνότητι : 我々が,静かな かつ 平穏な 生活を〈まったく敬虔であり,かつ,人々から尊敬され得る状態において〉おくることができるように].

今日,わたしは,この「品位」
[ σεμνότης ] という言葉に,とても引きつけられました.この世の金を巡る人々の争いは,まったく品位に欠ける生活です.

しかし,フランシスコ教皇が 回勅
Laudato si’Fratelli tutti を書いたのは,信徒に向けてだけではなく,全世界の人々に向けてです.信仰のある人々は,勿論,それらの深い意味を受け取るでしょう.しかし,信仰を持っていない人々に対しても,彼らが人間である限り,必ず,教皇の言葉は 通じるはずです.善きサマリア人の譬えや 隣人愛の概念は,信仰を持っていない人々に対しても,通じるはずです;そのことが前提されています.

カトリックの観点は,決して ある人々に限定されてはいません.

それに対して,カルト宗教は,教祖の周りに 教祖の言うことを聞く人々だけを集め,そして,集団意識,全体主義,独裁主義によって 信者を縛ってしまう;そこには,本当の自由は 全然 ありません.

カトリックは,人々を さまざまな縛りから 解放し,自由にしてゆきます.その神学的な基礎は,Thomas Aquinas が 言った このことです:「恵みは,自然を破壊せず,むしろ,それを完成する」
[ gratia non tollat naturam, sed perficiat ] [3].
 
[3] Cum enim gratia non tollat naturam, sed perficiat, oportet quod naturalis ratio subserviat fidei; sicut et naturalis inclinatio voluntatis obsequitur caritati.

実際,恵みは 生得的なものを 除去するのではなく,しかして,それを完成させるのであるから,生得的な理性は 信仰に 奉仕せねばならない — 生得的な〈意志の〉性向が愛に従うのと同様に.

つまり,自然は 自然で 自律的であっていい;人間の生得的な理性の働きとか,いろいろな科学技術とか,そのようなものは,それでよい.そして,さらに恩恵の働きが — 神の働きが — 包むようなかたちで,絶えず よい方向に方向づけてくれているのだ,ということです.

例えば,カトリックの学校とか 大学とか — 上智大学とか — その真ん中に 神学部がある;この大学は カトリックの精神でやっている;でも,そのなかの学部や学科は,神学部を除けば,ほとんど 世俗のものです — 言語学,法律,理工学部,等々.ですから,大学のなかにいても,普段は,キリスト教的なものと 直接 接することは,ほとんどない.しかし,やはり,大学として,カトリック的な人間観,世界観,社会観を以て やっている;それによって,世俗的な学問も,それぞれ,自律性を保ちながら,よい方向に進んでいくことができるだろう,というわけです.

その基にあるのは,やはり,persona という 人間観です.Persona の概念は,人間の自律性を包含している.しかし,Thomas Aquinas は,さらに もう一歩 進んで,こう言っています : persona は,単に 人間は 自身を統御でき,制御でき,コントロールすることのできる 個人である ということだけでなく,しかして,このことをも包含している:人間は,他者と交わることができる ; persona どうしで 分かち合うことができる;関わりを深めあうことができる.Persona は,人間がそのような社会的な存在であることの根拠である.

Thomas Aquinas が そう言っていることを,わたしは 最近 発見しました;すばらしいなと思って,いろいろなところで そのことを話しています.

今日の福音朗読の不正な管理人とか,今 行われている戦争とか,やはり,何かいいもの — 資源 — を奪い合うことの競争です;それにもとづいて,人間たちは,争いを起こし,差別をする.

それに対して,persona という人間のあり方は,そのように争いを引き起こすものではなく,しかして,精神的な価値です.真理,愛,友情,社会的な権利 — 人間として生きている人間が精神的に捉えることができる そのような 精神的価値は,争いの種にはならない;むしろ,分かち合われ,共有されることによって,深まってゆき,豊かになってゆくものです.

グローバル化社会と言いますが,本当の意味でのグローバル化は,精神的な価値が すべての人々に 行き渡っていくことを 目標にします.しかし,残念ながら,現実には,ものの取り合いのグローバル化になってしまっている.

ですから,persona という 人間のあり方を,わたしたちは,いつも しっかりと 心にとめておく必要があるだろう,と思います.精神的な価値を分かち合って,互いに つながり合って,皆が いっしょに 共通善 — 最終的に それは 神です — を共有することができるようになる — それが,わたしたちの 人間としての 気高さである,と Thomas Aquinas は 言っています.実に すばらしい,と わたしは思います.

今日,ニュースを見ていたら,農業の話をやっていました.岐阜県だったか,そちらの方で,ある若い人が — 彼は,もともと 種[タネ]の研究者だったそうです — サラリーマン生活をやめて,無農薬の農業を始めた;彼は,堆肥と,おからや 生ゴミなどを 混ぜ合わせて,ちょうどよい肥料を作る;そして,その肥料を使うと,作物もおいしくなるし,化学肥料もいらない.しかし,農村は,どんどん高齢化して,農業の担い手は 年寄りだけになり,そうなると,化学肥料をどんどん使わざるを得なくなっている;そして,そうなると,環境にも悪いし,健康にも悪い;その悪循環が どんどん 進んでいって,今の日本の農業は 疲弊状態に陥っている.だから,地方が もっと知恵を使って,若い人が農業をやっていけるようにする必要があり,そして,実際に やれば できるのだ,ということを,そのニュースはリポートしていました.つくづく そうだな,と思いました.

回勅 Laudato si’ で 環境問題が取り上げられています.わたしたちも,どうすればよいのか? 人間らしい生活を送るためには どうすればよいか? そんなことを考えました.

人間の関係性を Thomas Aquinas の言う persona の概念から 改めて見てゆく;それにもとづいて,わたしたちが 互いに関係を取りあって 生きて行く — それが とても だいじなことではないか,と思いました.

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